XXV 辞書批評の在り方―その3
     ― ある匿名掲示板に載った私への批判文を読んで(続)―


本稿は前稿の続編である。

.It is inconceivable how much wit it requires
           to avoid being ridiculous.―S.R.N Chamfort

 
可笑しがらるることを避けん為に要する才智の
   如何に多大なるかは想像し難し―シャンフォール

                                                       

1.
 インターネットの時代になってからというもの、ネット上には玉石混交の情報が溢れている。人間の心の深奥に渦巻く嫉妬心・猜疑心・敵愾心・自尊心、不安感・劣等感・不充足感・嫌悪感・優越感・満足感・達成感、攻撃性・嗜虐性・自虐性、虚言癖・露出癖・誇大妄想癖、自己顕示欲・支配欲・独占欲等々、それこそ人間のありとあらゆる“心状”が言葉となって、刻々と増殖・増加している。言い方は悪いが、“汚泥的情報の垂れ流し”と形容したほうが良いものもじつに多い。あと先を考えずに、ただ刹那的に自分の感情を爆発させ、それを文字にする者たちも大勢いる。一言で言えば、「罪悪感が希薄化した者たちの為せる業」だ。現代とはそういう時代だ。

 そういう状況下で、二十年以上もくすぶり続け、インターネット時代に入ってからは、ネット上の諸所、とりわけ匿名掲示板に“出没する”話題もある。副島隆彦ほか著『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102;こちらこちらを参照)と、同氏著『英語辞書大論争!』(別冊宝島113;こちら参照)に連なるものだ。私はこれを(事の発端となった雑誌名に因んで)「宝島事件」(以下“事件”)と呼んで来た。
 当時の事情もよく飲み込めていない一部の人たちが、何よりも勉強不足・調査不足のまま、半可通の知識を振り回して、方々に、“興趣”とは無縁の悪文迷文”“雑文”を大量に撒き散らす[垂れ流す]様は、事情をよく知る者には不快極まりないものであり、腹立たしいものである。

 “事件”についての私のスタンスは、すでに本「英語辞書論考(EFL DICTIONARIES)」のあちこちのスレッドで明らかにしているが、一番の問題はこの“事件”の“火付け役”たる副島隆彦氏が、研究社発行になる『ライトハウス英和辞典』(初版)、『新英和中辞典』(第5版)は“ダメ辞書だ!”と声高に叫んで、上記二書を出版し、同二辞典とその関係者・出版社に罵詈雑言を浴びせたまま、何ら終息らしい終息を図る努力をすることもなく今日に到っていることである。確かに、法的には、研究社側に有利に働いて、一応の決着は付いた(こちらの「欠陥辞書訴訟」の記事を参照)。だが、副島氏はその後も、我が身の瑕疵を何ら顧みることなく、自己主張だけを続けて来た。それどころか、その後、同氏は某所において次のように宣言した。

この国は、やっぱりこの程度の、土人どもの国だ。10年前、私が、『欠陥英和辞典の研究』を書いて、研究社と東京外語大の英語辞書学者たちから裁判に訴えられたときの嫌な気分が、私の全身によみがえった。「この国は、学者と称する、土人のまじない師どもの国だ。その土人(原住民)のまじない師どもが支配している愚か極まりない国だ。かならず、事実factsファクツの力で打倒してみせる」と。私は、今でもあのときの苦汁を思い出す。何十年かかっても、私は、全てを明らかにし続けるぞ、と。私は、あのとき自分の書いたものを、一行も訂正することなく、かならず、再び、この国民の前に、示してみせる。私の深い決意に付き合ってくれる人などいなくてもよい。私は、鬼になってもやりとげる。

 
 矯激に過ぎるこの文章を読んだ時の私の率直な感想は、「ああ、この人は何か[誰か]に対して“ルサンチマン”を持ち、心底に抑圧された“不遇感”をかこちつつ、今なお“小随煩悩”に悩まされている人なんだな。というものであった。この感想は、つい最近、氏と某氏との対談をYouTubeを通じて見た限りでは、間違っていなかったように思う。ちなみに、そのYouTubeとは、「ニコニコ動画」なるもののうち、「副島隆彦×ひろゆき 『騙されるな!儲け話のここがウソ!』(全5部)」だが、氏はその中で、「私は最強の言論人である。相手が誰であろうと打ち倒す。1時間、いや30分で勝ち負けを示して見せる。相手は出て来ないが…。」と語っていた。これが氏の“本気の発言”なら、尚更のこと、“事件”の直後、“最強の言論人”を“自称”する同氏と30分でも1時間でも、公開の席で“お手合わせ”を願いたかったなと、まことに“残念”に思った次第である。

 その後、『ライトハウス英和辞典』に編者として直接的に関わっておられたお二方(竹林滋・東京外国語大学名誉教授と小島義郎・早稲田大学名誉教授)は、共に鬼籍に入られた。“事件”の真つ最中に小島氏からいただいたハガキの文面(平成2[1990]年1月16日付)が、今でもその時の氏の深い悲しみを私に思い出させる。また、
こちらには“事件”を振り返って心情を吐露された、生前の竹林氏(および当時の研究社編集者[現・工学院大学教授]庭野吉弘氏)の文章がある。この“事件”のことだけは、おそらく、泉下の先学お二方は無念に思っておられるのではなかろうか。それを思うにつけ、後学たる者は、先学が営々と築いて来られたものに、常に敬意を払いつつ、改良・改善の余地のある場合には、建設的・創造的・共栄的にそれに取り組むべきであって、仮初めにも非建設的・非創造的・非共栄的ましてや破壊的態度で臨んではならない、と強く思う。

 終始声高の副島氏に対して、公刊されている英語雑誌で、学問的・建設的に反論した大学関係者は、残念ながら私だけであった研究社側の学者では、東信行・東京外国語大学教授が『時事英語研究』誌1990年2月号に優れた反論を寄せた。私は当時すでに辞書編纂に小規模ながら関係していたが、「他所のそんな“いざこざ”に関わらないほうがよい」という友人・知人たちの忠告を聞き入れず、辞書作りが如何に激務であるかを実感している者の一人として、ただただ“義憤”から副島氏の上記二書に対する私見を開陳し、氏との論争を望んだ。だが、同氏はそれには沈黙を続け、十数年後のある日、突然、ネット上に私を誹謗する言辞を弄したこちらを参照;これは氏の“人柄”や氏の“思想的根底”に横たわるものの実態をよく示す言動であろうその時は私はそれを憫笑と共に黙過した。本来なら、“侮辱的発言”であり、明らかに仮借不要の“名誉棄損”に当たるはずである。


2.

私も英語教師だから、同業者に悪罵を投げつけて悦に入っているわけではない。ただ責任問題というものがありますよ、と言いたいのだ。これまで英語学界に君臨してきた人びとには、受けた名誉と優遇に応じてそれなりの重たい責任が。そして英和辞書を「信仰」の対象のようにして、この「教団」に奉仕してきた人びとにもそれなりの責任が、そして「なんだかよく分からないが英語教師は自分の職業だから」とやってきた人びとにも、ほんのわずかだが責任がある。

 これは副島氏がかつて某誌に書いた文章の一部である。この短い文章の中だけでも同氏は“責任”という語を3度も用いている。だから私は『現代英語教育』誌などで、同氏に向けて、「同二書の中であなた自身が犯している多くの間違い(事実誤認・誤謬・認識不足等)についてのあなたの“責任”はどうなるのですか」と訊いたのである。他人の責任については言葉(実際には悪罵)の限りを尽くしてそれを云々しておきながら、自分自身の誤りと社会的責任とについてはきちんと認めようとしない氏の倨傲(きょごう)な態度に私は(怒りと言うよりも、むしろ)深い悲しみを覚えたのであった。


 私が一方ではネット上で、心ない匿名者たちに誹謗中傷的言辞を弄されながらとは言っても、自らそういうものに接近することは普通はないのだが、周辺の学生・大学院生などが“親切にも”その在り処を知らせてくれる、他方では、辞書の発展のために尽力しているのは、英語という言語の“真の姿”を知りたいためであり、知り得たことを学習者にも知らせたいためである。だから、その過程で犯した私の誤りや誤解を他人から指摘された場合は、いつでも喜んでそれを認め、できるだけ早い機会に修正するように努めて来た。私が念頭に置くのは、「真実に謙虚たれ」ということだ。したがって、その真実を示してくれる人には、感謝こそすれ、嫌悪感や憎悪感を持つことはない。この点が副島隆彦氏と私との埋め難い“意識の溝”あるいは“価値観の違い”ではないかと思う。ちなみに、氏が、
何なら私が1年で1冊の現代英和辞典を作ってもよい」(『欠陥英和辞典の研究』105頁)と“豪語”してから、何と21年もの長い歳月が流れた

 

3.
 ネット上には今後とも、“事件”がくすぶり続けていることを陰に陽に示す言辞が、私の名またはイニシャルに言及されつつ弄されて行くであろう。副島氏の周辺の人々 もちろん氏自身や、氏の鼻息(びそく)を窺(うかが)う“シンパ”を含む が今後ともその一翼を担うことがあれば、私が『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の二書に今もって抱いている疑問に、精密・丁寧に答える学問的(=辞書学的)準備を整えてからにして貰いたい。その場合、私が抱き続けている疑問の数は、下の書影に張り付けられた付箋特に赤色の付箋のそれと同数あるということを承知しておいて貰いたい私は副島氏の二書から引用した例を主に『現代英語教育』誌上に掲載したが、副島氏の二書の問題個所はほかにもいろいろチェックしてある!)。その結果、私の側に誤解や間違いがあれば、それを認めることにやぶさかではない過去“21”年間、常にその心づもりで居た。それが誰であっても、今後は、前稿で言及したような低劣な話題の取り上げ方はしないで貰いたい。あの種のものは如何なる点においても“辞書(学的)論議”ではなく、単なる、他人を貶(おとし)めるためだけの駄文・雑文である。

 最後に一言。本稿と、前稿は、“事件”に間接的に関わった者としての責任の所在を明らかにするために著したものであるが、その“執筆動機”は、最近、ネット上で、匿名者たちによる無責任・無節操な誹謗中傷が私個人および私が過去に為した言辞に向けられていることを偶然に知ったからである。私自身は、今後、こうした文章を書くことは極力避けたいと思うが、名誉棄損を含む“触法行為”と、1つだけの例外に抵触する書き込みを見付けた場合は、その限りではないことも特記しておきたい井戸の水を飲む者は井戸を掘った者の労苦を思うべきである。(平成24[2012]年1月4日執筆)



赤色の付箋は私からの大きな疑問がある個所を示す。      

DIFFICILIUS EST SARCIRE CONCORUDIAM QUAM RUMPERE.
(「調和を回復するは紛争をつくるよりも難し」―ローマの諺)



【付記】沖縄大学准教授・関山健治氏による「インターネット時代の辞書批評のあり方」の参照を乞う。