XIII 副島隆彦ほか著『欠陥英和辞典の研究』の嘘


本稿は「現代英語教育」誌(研究社出版;平成2年 [1990年] 2月号)に掲載され、小著『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房)に再録されたものです。28年以上も前に書かれたもので、当時の義憤を文字化した箇所もありますが、記述内容には、多少の加除修正を施したい点はあるものの、大きな変化の必要性を認めません。


新聞広告の問題点
 昨年10月26日、「朝日新聞」の頁をめくっていたとき、突然 『欠陥英和辞典の研究』という大きな広告文字が私の目に飛び込んできた。副島隆彦&Dictionary・Busters著(JICC出版局)となっている【以下『欠陥』】。
 「日本でいちばん売れている英和辞典はダメ辞典だ!」という挑発的な文句も並ぶ。どこの英和辞典かは書いてなかったが、“いちばん売れている英和辞典”と言うのだから、恐らくは研究社のものだろう、と私は思った。
 次に、私は著者が広告に掲載している“間違い”の諸例に目をやった。そして、驚愕した。なぜなら、“間違い” の例として挙げてある4例のうち3例が、私には“問題なし”と思えたからであった。

 例1) We went around to drop into the drugstore on our way
    home. (私たちは家へ帰る途中回り道をしてドラッグスト
    アに寄ってきました) 著者指摘→go aroundは「動き回る」
    で、「回り道をする」の意味はない。 

 とんでもない!Go around には「回り道をする」の意味はある(最下段・後日注記参照)。そう思って、学生時代に愛用した Basic Dict. of American English ('62) を開いてみた。案の定、第2句義として to make a detour が載っていた。【go around に関しては最下段後日注記参照

 例2) The police was unable to get anything out of the woman.
    (警察はその女から何も聞き出せなかった)著者指摘→
    policeはpeople などと同様に複数形をとる。   

 この指摘は正しい。しかし、私はこれは単なる誤植だろうと思った。それなら、発売元に問い合わせてみれはすぐに分かることである。

 例3)Let's turn and go home. (引き返して家へ帰ろう)著者例
   文→Let' turn back 【around】 and go home.

 とんでもない! Let's turn and go home. は原文のままで何ら問題はない。Macmillan社の Dictionary ('73)には Let's turn and go home. という、著者が間違いだとする文章とまったく同じものが収録してある。著者例文のほうがかえって変な文章で、turn back 【around】を使うのなら and go home は不要である。

 例4)The fish scaled a pound. (その魚は目方が1ポンドあった)
    著者指摘→ scaleを「目方が〜ある」という意味で使うことは
    現代ではもうない。著者例文→The fish weighed a pound.

 「目方が〜ある」の意味のscaleの用例は、手元の米系辞書数点を参照しただけでも、He scaled 180 pounds.(Thorndike Junior Illustrated Dict., '73)、 This piece scales ten pounds.(The Holt Intermediate Dict. of American English, '67)などの用例が拾えるし、 英系辞書にも定義と用例がある(e.g., Oxford Advanced Learner's Dict. of Current English, 3rd & 4th eds.)。著者が協力を求めたインフォーマントは“native speakers”としてはイギリス人とカナダ人の2名だけなので、英米の差があるのかないのかについては分からない。
 いずれにせよ、“不適切”と断定することはできない。英和辞典はその主目的を、英語読解に資することとしており、したがって、(多少の)古い語[句]義や表現も収録しなければならない。著者は、英和辞典に必要以上の“和英辞典性” “口語性”を求めており、それを満たしてくれない辞典・即・欠陥辞典と決めてかかっているようであった。
 以上のように、著者の嘘はすでに広告から始まっていたのである。それに、『欠陥英和辞典の研究』という書名もどこか変であった。なぜなら、私にはそれが『“欠陥英和辞典”の研究』ではなく、『“欠陥”英和辞典の研究』としか読めなかったからである。

悪意を感ずる表紙
 私は急いで近所の書店へ行き、『欠陥』を1部買い求めた。そして、表紙の写真を一見して、自分の目を疑った。何と、研究社の『新英和中辞典』(第5版)と『ライトハウス英和辞典』の外箱が破られ押し潰され、両辞典から引き裂かれた、何十頁分もの頁と共に、まるでゴミのように、打ち棄てられているではないか(実物書影はここです)。
 私は、帰宅の途中も、帰宅してからも、ひどく興奮していた。自分が編纂した辞典ではなくても、これだけの怒りに似た感情を抱くのである。粒々辛苦、長年月を費やして両辞典を縮纂された人びと、その関係者、そして研究社の憤りと悲しみは如何ばかりであったろうか。興奮が静まるのを待って、私は『欠陥』を熟読し始めた。   

言語事実に無知な著者
 まず、オモテ表紙の『欠陥』の文字が赤く印刷されているのが、印象的であった。これではやはり、『“欠陥”英和辞典の研究』としか読めない。次に、英語のタイトルが目に留まった。Checking Up Kenkyusha's Dictionaries とある。オヤ? Checking Up On Kenkyusha's Dictionaries と、前置詞の on を添えるほうが普通ではないのか?
 こんなことを思いながら、読み進んだ。すると、「(研究社の両辞典は)全英文例文のうち約20%は、使いものにならない。不適切である。そして、なかでも5%前後は、完全にまちがいである。メチヤクチヤである」、という挑発的な文章が目に止まった(p. 12)。著者は続ける。「では、何と比較してその英文例がメチャクチャなのか、と言うならば、私たちは、今、手元に置いてある‘Pocket Oxford Dictionary’(いわゆるP.0.D.)と、‘COLLINS COBUILD Essential English Dictionary’(コリンズ・コピュルド英辞典)と‘Webster's New World Dictionary Third College Edition’(ウェブスター大辞典)と‘Longman Dictionary of Contemporary English’(ロングマン現代英語辞典)と‘The Random House Thesaurus College Edition’(ランダムハウス英語辞典)と、他ならぬ研究社の『新英和大辞典(第5版)』と、それから88年4月、すなわち去年出た大修館の『ジーニアス英和辞典』など合計30冊ほどの英語辞典の例文と比較のうえで言うのである」と。
 ところが、「合計30冊ほどの英語辞典」を参照したという著者の言が“ハツタリ”であることは、間もなく判明する。それらを綿密に参照した形跡が、どこにも見当たらないからである。これは、著者が最初に挙げた例文からすでに言えることであった。
 著者は言う。「『(機械などが)動く』の用例である This machine goes by electricity. (機械は電気で動く)は、まちがいである。文章になっていない。この文は、どんな英語国民にも通じない」と(pp. 21−2)。
 よくこんなデタラメが言えるものである。The Random House Thesaurus は著者自身が「合計30冊ほどの英語辞典」に含めた辞典であるが、それには Is the machine going now?という立派な例文が挙がっているではないか(p. 312)。 Oxford Advanced Learner's Dict. (3rd & 4th eds; 以下 OALD )を初めとする、ほかの多くの英英辞典にも定義や用例が収録されている。なぜ、せめて、『ジーニアス』を参照しなかったのか。同辞典は、自分が「なかなかたいしたものだ。例文がしっかりしている」(p. 13)、「内容が、実にすぐれている」(p. 172)と賞賛した英和辞典ではないか[もちろん本当にすぐれている]。その『ジーニアス』には、This machine goes by wind. という例文が挙がっているが、著者はこれも「まちがいである」と判定するつもりか。
 著者はまた、I have never gone to Australia. (私はオーストラリアに行ったことがない)を、「きわめてインフォーマルな会話か、よっぽど低学歴の人びと、あるいは日本人たちの間でしか通用しないものである。もしこれが英作文で用いられたとしたら、無教養な英語とレッテルを貼られる」と断定して、have been が正しいとする(p. 54)。
 とんでもない。これが、立派なアメリカ語法であることは、たとえば Willis のアメリカ文法書 Modern Descriptive English Grammar ('72, P. 165)の解説を読み、I have gone to Calabria many times. というような用例を見ればすぐに分かる。ほかにも、反証はいくらでもある。もちろん、『ジーニアス』も have gone が正用であることを教えている。【ここで、著者・副島氏に、素朴な質問をしよう。私は日本生まれの、日本人で、現在も日本国内に住んでいるのであるが、その私が、たとえば、「私は日本に行ったことがない」(現在住んでいるのであるから至極当然のことであるが)という日本文を英語に訳すとしたら、どんな英文になるのだろうか。………答えは、I have never gone to Japan.である! 氏は、言語を多角的に見ることを学ぶべきである。】
 著者が、「gainの使い方が誤りである」と断定した例文(p. 56) She is gaining in weight. の場合も、やはり、OALD 両版を初めとして、正当性の根拠となるものは多数存在する。『ジーニアス』にも gain in weight の句例が出ており, 「put on weight が普通」と注記している(この注記はOALDの記述の反映と思われる)。
 He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)における前置詞 in の要・不要についても、著者は、「とんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育者全体の頑迷さをよく反映している誤文である」と断定する(p. 92)。これも、言語事実に対して、あまりにも無知だとしか言いようがない例文である。
 第一、『ライトハウス』には、「in のないほうが普通」という、きちんとした語法注記が施されているではないか!
 ほかに、G. Wilson (サンフランシスコ州立大学教授)は、Usage in Today's American English ('71, p. 87)において、共著者 K. Mushiaki に、in がないほうが頻度は高いが、両者とも正用法と答えているし、Longman Dict. of Phrasal Verbs ('83) にも fail in の見出しと用例がある。
 Highly についても、ずいぶんいい加減な断定をしている(p. 147)。いわく、「『ライトハウス』の例文のように、highly を第1番目の very の意味で使って、highly pleased とか、highly surprised とやるのはいただけない。(中略)この highlyは、もっぱら2番目の用法で、訂正例文のように be highly thought of や、be highly appreciated のように、『高く評価されている』という使い方をするのがキレイである」。
 こんなおかしな話など聞いたことがない。著者の「合計30冊ほどの英語辞典」参照が、まったくの“ハツタリ”であったことは今や明々白々である。もし本当にそれらを参照したのなら、He is highly pleased.(Collins Eng. Learner's Dict., '74)やHe was highly pleased by it. (Macmillan Dict. of Key Words, '85) や He was highly delighted at the news. (Chambers Universal Learners' Dict., '80) などの類例に出くわさないはずがない。

誤った指摘の数々
このほか、嘘の指摘がじつに多い。いわく、「police(警察)には the がつく」(p. 66)。必ずしもそうではない。たとえば、「警察は3人逮捕した」という日本文は、無冠詞で Police arrested three persons. と書いていっこうに差し支えない。
 いわく、Can you hot up this soup?(このスープを暖めてください)の hot up は heat up が正しい(p. 103)。もとのままでも問題はない。I can hot up the soup for you in two minutes.(Longman Dict. of Phrasal Verbs,'83)、She said she would hot up the soup. (Dict. of English Phrasal Verbs & Their Idioms, '74)など、用例を探すのには苦労を要しない。
 いわく、(My tooth is still paining me. のような文の場合)「painをこのように使うことは決してない。動詞としてのpainは、『精神的あるいは感性的な苦痛を与える』という意味である」(p. 106)。とんでもない。My foot is still paining me.(OALD; Oxford Student's Dict., '78; Dict. of English Usage, '77;いずれも同文)、His broken wrist pained him greatly.(Children's Dict., '79) など用例は枚挙にいとまがない。著者が「合計30冊ほどの英語辞典」に含めた The Random House Thesaurus にもちゃんと Does your ankle still pain you?のような例文が挙がっている。著者は、まさか最後の例までは、否定すまい。「英米で使われている国民辞典に、明らかなまちがいがあるわけがない」p. 13)と明言したのだから。
 いわく、「Cabbageは・・・・・・そもそも数えられないのだから複数形はない」(p. 130)。何ということを! cabbageの複数形はcabbages。中学生でも知っている。
 いわく、「live in the country (田舎に住む)も、現在では『その国で暮らす』の意味と混同しやすく、誤用と言ってもよい」(p. 134)。こういうバカらしいことを言ってはいけない。
 いわく、「What's up?は『どうしたの、元気でやってるの』という挨拶の表現なのであって、What's happened?『どうした、何があったんだ?』という疑問の文ではない」(p. 150)。これもまったくの嘘である。たとえば、「何があったの?(玄関に警察の人が来てるけど)」「知らないね」を英訳すると “What's up?(There's a policeman at the front door.)” “Search me.”となる!
 いわく、研究社は(as)numberless as the sands of the sea (浜の真砂の数だけの、無数の)というような言い方を「自分勝手に造語するものでない」(p. 128)。著者はこんなことも知らないのだ。これは、キリスト教徒ならずとも、英学徒の“常識”と言ってもよい句である。たとえば、 The New English Bible で『旧約聖書』の「ホセア書」 (1.10)と『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(9.27)を読んでみるとよい。the sands of the sea がそのまま出てくる。
 もう1例だけ。著者は the scoff of the world (世間のもの笑い)を取り上げて、「きっと研究社が勝手に造文したのだろう。このthe scoff of the world というのをこの本のタイトルにして研究社を『世間のもの笑い』にしようかと思ったが、コトバ自体が研究社の捏造語では冗談にもならないからやめた。『世間のもの笑い』は laughing stock と言う」(p. 133)と揚々と言う。
 『欠陥』の中でも、この“迷解説”ほど傑作なものはない。なぜなら、これは立派な英語だからである。著者には無縁の辞典であろうが、Funk & Wagnalls New Standard Dict. of the English Language ('59) には、DeQuincey からの引用としてTwenty of those years he [William Wordsworth] was the scoff of the world, and his poetry a byword of scorn. が収録してある。

まとめて言えば
 要するに、
 @ 著者は一方において、英米で使われる国民辞典に明らかな間違いがあるわけがないと言っておきながら、他方において、研究社の両辞典は間違いだらけだと断定しているが、これは結果的には著者が陥った一大自己矛盾である。なぜなら、著者が問題とする語句や表現は、私が調査した限りでも、そのほとんどが英米発行の英語辞典等にその典拠を有するからであり、著者がそれらを綿密に参照していれば、当然知り得た事実だからである。これによって、著者が無責任に挙げた数字の信憑性はまったく認められなかった。
 A 著者は英和辞典の使命も性格も本当には理解していない。学習英和辞典は英語読解に資することを主な目的としており、(多少の)古い語句や表現も収録しなければならない。著者は、両辞典に収録されているかなりの数の語句や表現を「古い」と言い、「辞書に載せることそのものが不適切である」と断定するが、どんな語句や表現が、どのくらい古いかということについては、著者のように即断はできない。しかし、著者がその収録に反対する語句や表現、たとえばair (p. 88)、 lest〜should (p. 90)、 I'm much beholden to you for your kindness. (p. 97)、of the same size(p. 111)、high and row (p. 144)、mother country (p. 231, p. 245)などはいずれも英和辞典に収録してあって不自然ではない。
 B 著者が協力を求めた(らしい)インフォーマントは、人数や国籍等からいって、この種の“研究”をやるには不十分であった。
 C 著者は「(研究社は)日本国民すべてに、土下座して謝罪せよ」(p. 49)、「無能な研究社の人びと」(p. 54)、「辞書学者ふぜい」(p. 149)等々の暴言を頻繁に吐いているが、これは言論の由由に名を借りた言葉の暴力である。しかも、「おわりに」では、「研究社には、何の反省も謝罪も、『弊社に対する中傷への抗議』もしてもらわなくてもよい。ただ、早々に、この欠陥辞書たちといっしょに消えてなくなってくれ、とお願いしたい」と、一方的に弁明の道を閉ざしている。アンフェアの極みである。
 辞書批判は常に創造的・建設的であるべきであり、『欠陥』の著者のように「破壊的」であってはならない。嘘で固めた「“欠陥”英和辞典の研究」であった。


次も参照
[ 英語辞書批判の在り方
XII 和英辞典の著作権と批評方法


『欠陥英和辞典の研究』が発刊されてから13年以上が経過しました。本ホームページに当時の拙稿を転載したことで、同書の著者(諸氏)が再び議論を展開したいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい。山岸勝榮 【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、この注記は無効となりました。】

追記:上記『欠陥和英辞典の研究』の主要著者・副島隆彦氏が某所で次のように書いておられるのに偶然出くわしました(原文のママ)。読者の方々はこの文章から、どのような人物像を描かれるでしょうか。

この国は、やっぱりこの程度の、土人どもの国だ。10年昔、私が、『欠陥英和辞典の研究』を書いて、研究社と東京外語大の英語辞書学者たちから裁判に訴えられたときの嫌な気分が、私の全身によみがえった。「この国は、学者と称する、土人のまじない師どもの国だ。その土人(原住民)のまじない師どもが支配している愚か極まりない国だ。かならず、事実 facts ファクツ の力で打ち倒してみせる」と。私は、今でもあのときの苦汁を思い出す。何十年かかっても、私は、全てを明らかにし続けるぞ、と。私は、あのとき自分の書いたものを、一行も訂正することなく、かならず、再び、この国民の前に、示してみせる。私の深い決意に付き合ってくれる人などいなくてもよい。私は、鬼になってもやりとげる。


後日注記:今にして思えば、ここは言葉が足りなかったと思います。副島氏が、「go aroundは『動き回る』で、『回り道をする』の意味はない」と局所的に断じられたから、私もそれに応えて局所的に「go around には『回り道をする』の意味はある」と断じたものです。We went around to drop into the drugstore on our way home.という文の英語性・非英語性が別問題であることは承知していましたから、その点への言及も行なっておくべきだったでしょう。