XV 英和辞典と典拠主義
        副島隆彦著 『英語辞書大論争!』を読んで


本稿は「現代英語教育」誌(研究社出版;平成2年 [1990年]8月号)に掲載され、小著『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房)に再録されたものです。21 年以上も前に書かれたもので、当時の義憤を文字化した箇所もありますが、多少の加除修正を施したい点はあるものの、大きな変化の必要性を認めません。

はじめに
 かねてから衆目を集めていた代々木ゼミナール講師・副島隆彦氏が、「あれからいったいどうなった?と思っていたあなた」のために、『英語辞書大論争!』(別冊「宝鳥」113号、JICC出版局、以下『大論争』)を出版した。意気衝天の勢いである。
 私自身、「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(以下「研究の嘘」;ここを参照)、「英和辞書批判の在り方−『欠陥英和辞典の研究』の場合」(以下「批判の在り方」;ここを参照)において、氏による前著『欠陥英和辞典の研究』(以下『欠陥』;ここを参照)の問題点を指摘しておいたので、それに対する氏の反応を知りたいと思い、早速同書を通読した。その結果、氏が私の真意や忠告を曲解していることと、私が指摘しておいたにもかかわらず、英語に関していまだ数多くの事実誤認、謬見を放置していることを知ったので、心ならずも、本稿を書くことにした。

私が念頭に置く典拠主義
 副島氏は『欠陥』において、数多くのれっきとした英語表現・語句を、「〜はどんな英語国民にも通じない」「〜は完全な誤文である」「〜の使い方がまちがっている」「〜の例文はまちがいである」「〜のように使うことは決してない」「アメリカ人は絶対に使わない」「〜は研究社の捏造語だ」などと断定・即断し、それらの“英語性”を理不尽にも否定した。
 そこで私は、「とんでもない。英米の辞書にもあるはず」という思いから、手元にある英語国発行の辞典等を参照し、それらの存在を確認・発表した。ところが氏はその後、「“辞書にあったから正しい”では反論にならない」と問題を巧みにすり替え(『週刊文春』平成元年12月21日号)、しかも典拠による論法を“典拠主義”と命名して一方的にさげすんだ(『大論争』pp. 17−8)。
 断っておくが、私が“典拠”と言う場合、それは常に英米発行の英語辞書を対象としており、英和辞典は含まない(日本の英和辞典、和英辞典が諸問題を抱えているぐらいのことは、私自身、とっくの昔から承知しており、そのための改造案、改良案を常に建設的に発表してきている)。英和辞典に言及するのは、副島氏の“お気に入り”に意識的に言及する場合のみである。そこのところを明確にしておく。
 私が問題としたのは、“反論”以前のことである。つまり、こういうことである。氏は、英語について論じるときに、踏んでいてしかるべき手順を踏んでいなかった。換言すれば、氏は上記のような断定・即断をするとき、多くの点で、英米の諸辞典を本当には参照していなかった。そのことは、私の反証によって明白である(後述するが、新著でもその“悪癖”が随所に発見される)。もし、その手順をきちんと踏んでいれば、あのような無責任で、非学問的な断定・即断ができるわけがない。私はそこのところを問題にしたのである。  
 つまり、自分の無知、浅学、勝手な思い込みによって、ある英語の表現・語句などの“英語性”を軽々に否定しないで、まず英米の辞書家たちの縮纂した諸辞典を参照して、自分の断定・即断の正否・適不適を確認せよ、そういうことなのである。この“常識的手順”を第一に踏み、特定の表現・語句を学習英和辞典に収録するのに、どの表現形式や語[句]義を選んで収録するのがより良いか、あるいは最良か、などということについては、その後の手順とせよ、そういうことを私は言ったのである。氏よ、真実の前にもっと謙虚であれ。

典拠主義は健全なもの
 氏は、「(英語母国語使用者との)膝詰めの共同作業という実践理念こそは、まさしく、典拠主義に対する唯一の対極概念であり、唯一の活路である」(『大論争』p. 247)などと大見得を切っているが、辞書編纂上、“典拠主義” と“膝詰め共同作業”とは対極概念でも、後者が唯一の活路でもない。両者はむしろ、“車の両輪”(難しくは“唇歯輔車”)の関係と形容すべきものである。その両輪[両者]を適切に稼働させて初めて、真に理想的な(学習)英和辞典が出来上がるのである。氏は『欠陥』における大量の“嘘”が“native speakers”との“膝詰め共同作業”の所産であったことを忘れるべきではない。
 氏は言う。「私は、学者ではないが、本当の学者の心がわかる者でありたい」と(『大論争』p. 82)。これまでの氏の言動からは、氏が“春華秋実”を備えようとしている人とはとうてい思えないが、万が一その努力をしようというのなら、なおさら、“膝詰め共同作業”だけが唯一の活路だなどと思うべきではない。「本当の学者の心がわかる者でありたい」と心底願う者なら、まず何よりも、あれだけの間違いを内包した『欠陥』という名の欠陥商品を放置しておけるはずがない。1989年11月24日に初刷発行、1990年3月15日第6刷(私が見た最新の刷)という莫大な売上げを誇りながら、私が指摘した、表紙の英語の間違い1つさえ直していないではないか。初刷公刊までにはすでにその間違いに気づいていたと告白しておきながら、「表紙を刷り直すのにはお金がかかるんですってね」(前掲『週刊文春』)などと、無責任なことを言う。
 本論に立ち戻ろう。もし氏が私が念頭に置いている“典拠主義”を実践していれば、また、真理探求に真摯な態度で臨んでいれば、『欠陥』『大論争』におけるあのような無責任な記述にはならなかったはずである
 たとえば、氏は『欠陥』で、He failed in the examination.(彼は試験に落ちた)という文章の fail in の用法について、「とんでもないまちがいと言うか、日本の英語教育全体の頑迷さをよく反映している訳文である」と断定した(p. 92)。こう断定するには、氏の共著者である “native speakers”との“膝詰め共同作業”があったであろう。しかし、私は fail in を使った文が“まちがい”でも“誤文”でもないことを立証するために、「研究の嘘」において、その句を収録・解説している英米辞書等から文例を引いた。氏の謬見を知らしめるために、私は“典拠主義”に徹したのである。氏はこの点を看過して、すなわち、fail inの、“典拠”による“英語性”確認作業を怠って、一足飛びに「まちがい」「誤文」と断定した。私はこの際の一方的な “順序の飛び越し”そのものを問題にしたのだ。
 もう一例、挙げよう。氏は(as)numberless as the sands of the sea (浜の真砂の数だけの、無数の)というような言い方を「自分勝手に造語するでない」と言って、研究社側を責めた。そこで私は、これ『旧約聖書』の「ホセア書」(1・10)と『新約聖書』の「ローマ人への手紙」(9.27)にも見える、立派な“英語表現”であることを前掲「研究の嘘」で明らかにした。その際、両聖書に目を向けさせたのが、私の“典拠主義”なのである。この言い方が古色蒼然としたものであるという事実は、私は百も承知であったし、何よりも、その段階ではその点はまだ別問題であった。つまり第二段階目での論究問題であった。私は、ただ氏の“勇み足”を指摘したに過ぎない。その“勇み足”が“膝詰め共同作業”に起因するものであるならば、それはその共同作業者が無知であっただけである(だからこそ“典拠主義”を軽視してはならないのだ)
 にもかかわらず、氏は『大論争』(pp. 185−6)でも、この(as)numberless as the sands of the sea に関して、意味不明のことを繰り返している。しかも、「私は、『浜の真砂の数だけの』という意味の形容詞句 adjective phrase をとらえて、こんな熟語がいったいあるのか、これも研究社の造文ではないのか、と前者で疑義を提議した」と、前言を糊塗(こと)したことを言っている。『欠陥』では氏は、「自分勝手に造語するでない」と憤慨していたではないか。
 氏は私の「研究の嘘」を、“(B)個別には反論しないこととする。なぜなら、同教授の批判は[C]の「『欠陥英和辞典の研究』の分析」(研究社発行小冊子)への詳細な検討と総反撃に内容的に包括されるからであると断じ、“ちなみに、山岸教授は典拠主義に基づく私への研究社の反論の原型をもっとも早く提出した人であり、そのかぎりにおいて研究社に対する貢献度少なからぬものがあるとだけ評価しておこう”と言って茶化してくれている。冗談ではない、と言いたい。
 断言しておくが、研究社による「『欠陥英和辞典の研究』の分析」は昨年の12月11日に出ており、私による「研究の嘘」は本年1月12日に出ている。私は研究社に対して何ら“作為的頁献”はしていない。私は私自身の信念に基づいて、行動し、論考を発表したに過ぎない。真に必要とあれば、今後もそうする。
 氏は、私の「研究の嘘」も「一括して論駁すれはそれで済むような代物」(『大論争』p. 17)とか、私の「研究の嘘」を含めた「他の8つの『論文』はいずれも典拠主義一点張りのおそまつなものでしかない」(同書p. 18)などと、虚勢を張って見せるが、問題ををすり替えるなと言いたい。
 第一、私の“典拠主義”は、氏によって“一括して論駁される”ほど軟弱なものではない! 氏には、問題提起者しての自分の側の事実誤認、謬見の深刻さが少しも分かっていない。「批判の在り方」でも言及したことだが、ここで再度言う。氏は、まず、自著に満ち満ちている“嘘”を訂正し、問題を整理し、それから本格的に「英和辞典論争」に取り掛かるべきである。「タダの予備校講師・副鳥隆彦が『天下の研究社』をノックアウト!」などと、奇を衒うことに心を砕かずとも、何が真実か分かる人には分かるのだ。
 言明しておくが、私がこれまでに念頭に置き、長年実行してきた“典拠主義”は、“膝詰め共同作業主義”とは「車の両輪」を成すものである。私との“膝詰め共同作業”に従事してくれる“native speakers”も、“典拠主義”という補強剤を、自分たちの意見や記述の加除修正には必須のものだと考えている。その点をわきまえている彼等こそが、日本の英語教育に本当に資る“non−Japanese”なのである。

もっと誠実に、もっと綿密に
 副島氏は執筆に際しては、言語事実に対して、もっと誠実で謙虚な態度をとるべきである。たとえば、『大論争』でも、まだ“a running nose”(鼻水の出ている鼻)における形容詞 running の正当性を認めようとはしない。それどころか、「この他にCOBUILD、0xford American Dic.、WNWD も調べたが、running nose の例文は見つからなかった。したがってこれも、勝負あった、ということだ」などと、ヌケヌケと恥知らずなことを言っている(p. 183)。最初の辞典 COBUILD には限定形容詞としての running がチャンと独立して収録されており、しかも If you have a running nose、mucus is flowing out of it、usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses. と用例まで載っているのが見えないのか。このことは「批判の在り方」ですでに指摘してあったではないか。氏は物事に対してもっと綿密になるべきである。もし“典拠主義”に徹していれば、COBUILDに大きく収録されている running の定義と用例など、見落とすはずがない。どこまで杜撰であれば気が済むのか。
 氏は、highly pleased という言い方についても、同書(p. 207)で、まだ、「他にもこの highly pleased という用例があったら見せてほしい」などと寝ぼけたことを言っているが、私が「『欠陥英和辞典の研究』の嘘」(現代英語教育」誌、'90. 2)に示した用例を見なかったのか。もっと見たいと言うのなら、ためしに、The Collins English Dict., '89 という有名な現代英語辞典の highly の項を引いて見るがよい。第一義の第一用例に、何と出ているか?! 
 それから、氏には相も変わらず不健全な断定・即断が多い。たとえば、a dog worrying shoes の場合の「worry に関する例文盗用問題の出発点は、OALD に起源するものであることは、ちょっと調べたらわかった」と意気揚々と言う(『大論争』 p. 177)。続けて、「OALD3 の worry の記述を見ると、次のようになっている。 3 (esp of dogs) seize with the teeth and shake: The dog was worrying the rat. 研究社が、この the rat を shoes に安易に変更して自分たちの例文としたのだということは、他の事例と同様に明らかなことである」とも言う。
 こういう場合、私なら、“典拠主義”に徹して、The puppy worried the edge of the carpet.(Scholastic Dict. of American English, '66) や Father was angry when he saw the dog was worrying his slippers. (Dict. of Basic Wordss, '69) の用例がその下敷きになっているのではなかろうかと考える。これらの例は「批判の在り方」にも掲げた。あるいは、a dog worrying an old shoe という用例 (Webster's Student Dict., 初版 '69)が下敷きとも考えられる。“典拠主義”に徹するとは、このように綿密に、客観的に、多角的になることである。
 もう1例、 The stars are glistening in the sky. (『大論争』 pp. 131-2)の glisten の場合も同様である。氏はこれについても、「ちなみに、このglisten の例文の元凶も ISED にあった。ISED の definition (語の定義)が、shine brightly となっているだけで不完全であるために、ここから、研究社はつまづきが始まったのであろう」などと、憶測だけで断言しているが、“典拠主義”に徹している人ならば、こういう場合、「これは Thorndike Barnhart Advanced Dict. (初版 '41) にある、shine with a twinkling light: The stars glistened in the sky.に影響されたのではないか」と推測するものだ。そのほうが、氏の憶測よりも、はるかに“説得力”を持つではないか
 “鬼面人を脅す”類いのことばかり書いて、世人を惑わすものではない。氏による、“玉石混交”のままの言動は、ただただ事を煩雑にするだけである(と言っても、“石”のほうが多いが)。研究社の英和辞書に発見される諸問題は、まず、自分自身の“諸問題”の修正・訂正が済んでから、改めて話題にすべきである。 “典拠主義”が健全であることは、氏自身が内包する“諸問題”を、私が指摘する場合にも“大きな威力”を発揮することからも分かる。私はこのように、まず、“典拠主義”に徹することにより、ある表現・語句の“英語性”を確認し、続いて第二段階として、The stars glistened in the sky. という文章における glisten の用法と意義の、英和辞典への収録の適不適について、“膝詰め共同作業”で考えるようにしている。

おわりに
 氏に再度忠告する。前回と今回の氏の言動が、もし本当に、“日本の英語教育を憂うる一途な気持ちから出たもの”であるならば、氏は何よりもまず、自著における多数の事実誤認・謬見・認識不足の例を一掃せよ(さもなければ、氏による牽強付会の説ばかりが、日本の英語教育界に広がる恐れがある)。その後で「本格的辞書論争」に取り掛かるべきである。それが、かりそめにも“教育の場”に身を置く者の社会的責任ではないか。氏のこれまでの言動は、余りにも“醜悪”である。氏への忠告はこれを最後にしたいと思うが、私の名への言及はその忠告を実行してからにしてもらいたい(もっとも、それを実行してくれさえすれば、あとは氏と私が関わる問題は何もない)。


『英語辞書大論争!』が発刊されてから13年近くが経過しました。本ホームページに当時の拙稿を転載したことで、同書の著者(諸氏)が再び議論を展開したいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい。山岸勝榮【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、この注記は無効となりました。】