XW 英和辞書批判の在り方
       副島隆彦ほか著『欠陥英和辞典の研究』の場合

本稿は「現代英語教育」誌(研究社出版;平成2年 [1990年]3月号)に掲載され、小著『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房)に再録されたものです。21 年以上も前に書かれたもので、当時の義憤を文字化した箇所もありますが、記述内容には、多少の加除修正を施したい点はあるものの、大きな変化の必要性を認めません今回、本ホームページに転載するにあたって、下線を施した1箇所を付加しました。

        
はじめに
 前章(XIII)において、私は、表題の副題にある『欠陥英和辞典の研究』(以下『欠陥』)が、謬見に満ちたものであることを、具体例をもって証明した。
 本章では、私が平素その遵守を心掛けている「辞書批判を行なう際の10箇条」に基づいて、『欠陥』における辞書批判の実態を見て行く。

第1箇条 1社・1辞典・旧版を対象としてはならない
 研究社はこれまで、わが国においては、英語辞典出版界の“雄”であり、そのリーダー的存在であった。しかし、多数の出版社が英語辞書界でしのぎを削る今日、もはや同社だけを特別視することはできない。
 この点は、英和辞典の在り方や、その内容に関する批判を行なう場合も同様であり、今回のように、研究社の、それも特定辞典だけを狙い撃ちして、誹誘・中傷の限りを尽くす暴挙は、どのように考えても容認しがたい。
 『欠陥』において著者が、“大仰に”指摘した誤植や些細な誤記の類いは、『新英和中』『ライトハウス』の両最新版では、ごく一部を除き、すでに修正されている。このようなこともあるから、辞書批判を行なうときは旧版使用は避けるべきなのである。
 ただし、客観的、建設的[創造的]批判であって、辞書世界の共栄目的のために行なわれるものであれば、1社・1辞典・旧版を対象とすることは許されると考える。

第2箇条 編者・出版社等の名誉を毀損してはならない
 何人(なんびと)も、他人の編纂した辞書・辞典の類いを批評するのは自由である。しかし、その自由の中には、当然のこととして、当人が遂行せねばならない幾つかの義務がある。
 私はその義務の1つに「編者・出版社等の名誉を毀損することのないよう最新の注意を払うべし」という条項を含める。堅実な出版社と共に辞書・辞典を編纂し、出版する人々は、世の学術・教育・文化の発展に貢献する目的を持って、長年月の辛苦の中で、人事の限りを尽くすのである。それが成ったとき、編者・出版社等の辛苦と尽力に対しては当然、輝かしい栄誉が与えられる。それは侵すべからざるものである。
 それを、『欠陥』の著者のように、自らの不完全な知識と謬見と憶測とで、誹謗・中傷するのは、名誉毀損以外の何ものでもない.著者の誹謗・中傷は明らかに常識人の“受忍限度”を大きく越えており、ある人が称したような、「若者文化のレトリック」では片付けられない、由々しき問題なのである。

第3箇条 不当または実行困難な要求をしてはならない
 『欠陥』の著者は、研究社の両辞典に対して、随所で、不当かつ実行不可能な一方的要求を突き付けている。たとえば、著者は96頁で、His reputation was fouled by his deeds. (彼の名声はその行いですっかりだめになった)という立派な例文について、「もう百年かそれ以上、英語圏では使われていない表現である。もし、こんな変な英文を英語圏の国で使ったら、必ず笑われるだろう」と、おかしな判断を下し、挙げ句の果てに、同文を The action spoilt his reputation.と書き換えよとしている。しかし、“foul”([名誉などを]汚す)の意味を教える項で、どうして“spoil”の用例が使えるのか。それに「もう百年かそれ以上」云々と断定する根拠は何か。
 A running nose (鼻水の出ている鼻; p. 126))の場合もそうである。著者は、『ライトハウス』に載っている形容詞 running の用法の3番目「うみの出る、鼻水が出る」の「鼻水が出る」の方は削除すべきである、と不当な要求を行い、runnyを用いよと言うが、ここは“running”の意味を教えるべき項である。いったいどうして、“running”の項に“runny”という別語を掲載することができるのか。
 著者はCOBUILD(’87)に、If you have a running nose、mucus is flowing out of it、usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses. とあるのを知らないのか。同辞典は著者自身が「合計3冊ほどの英語辞典」の中に挙げた COBUILD Essential の親版である。アメリカの子供用辞典として有名なChildren's Dict. ('79)にも、With a liquid coming out; discharging: He has a running nose. という定義と例文が挙がっている。その他、いくらでも用例はある。自分の知らないことは、すぐに「それは辞書が間違っている」などと、恥じも外聞もなく言い出す著者であるから、これらの用例の妥当性も、あるいは簡単に否定するかも知れない。【後日注記:最新英英辞典の1つ、Penguin English Dict. ('91)にも、きちんと用例付きで収録されている。】
 もう1例だけ挙げておこう。著者は、Let's turn and go home. (引き返して家へ帰ろう;『ライトハウス』 p. 1534)の用例の正当性を頑強に否定して、Let's turn back [around] and go home.とせよと言うが、彼には問題の本質が少しも分かっていない(『週刊文春』、'89年、12.12)。筆者が問題にしたのは、英語の“turn”の用例の正当性であって、「引き返して家へ帰ろう」という“日本文”【訳文】の“英訳”ではないのである。“和文英訳”すなわち“英作文”の発想から同文をとらえて、不当な要求をしてもらっては困る。
 ちなみに、著者は、筆者が上掲の例文と同一文がMacmillan社のDictionary ('73)にあると指摘したことに対して、「辞書の方が間違いです。“辞書にあったから正しい”では反論にならない」と答えたが、じつは著者はここでも、著者一流の“問題のすりかえ”を行なったのである(前掲『文春』)。「英米で使われている国民辞典に、明らかなまちがいがあるわけがない」と明言したのは、ほかならぬ著者自身である(p. 13)。

第4箇条 出典言及・表記上の慣習に従わねばならない
 辞書批判を学問的に信頼できるものにするため、我々は典拠に言及したり、出典を明示する場合には、一定のルールを守らねばならない。ところが、『欠陥』の著者は、最低限度のルールにさえ従えないでいるのである
 たとえば、著者は Collins COBUILD Essential English Dict. その他の辞典を、すべてローマン体で表記し、それを一重引用符で囲んでいるが、辞典名の表記は通例(引用符なしの)斜字体で示すのが慣習であるし、そうでなければ、ローマン体で表記し、それに下線を施さねばならない(統一してあれは、ロ−マン体だけでも可)。
 著者はまた、COBUILD Essential を、「コリンズ・コビュルド英辞典」と呼んでいるが、英語名のCOBUILD は常識的には「コビュルド」ではなく、「コウビルド」と表記するのが正解である。
 さらに、著者は、Webster's New World Dict. (Third Ed.)のことを「ウェブスター大辞典」と呼ぶが、英語世界の常識では、「ウェブスター大辞典」と言えば、Webster's Third New International Dict.のことである。
 著者はまた、The Random House Thesaurus (College Ed.) を「ランダムハウス英語辞典」と呼んでいるが、この日本名は The Random House Dict. of the English Language を連想させる。むしろ『ランダムハウス・シソーラス』とでも表記すべきものである。(以上 pp. 12-3)
 このほか、C. T. Onions のことを数度にわたって、C. T. オニオンスと呼んでいるが、これは当然、「C.T.アニアンズ」と表記すべき人名である(pp. 183−5)。
 表記法などどうでも良いのではないか、というわけにはいかない。学問的論議を行うためには、何よりも、おたがいが同概念を共有する必要があり、それを可能にする要素の1つが、こうした名称の正しい表記であり、呼称なのである。

第5箇条 記述内容・情報等は正確でなくてはならない
 『欠陥』が学問的論議の対象となり得ない最大の理由は、同書が誤謬に満ちているからである(その一部は前稿で紹介した)。
 いわく、 「succeed のあとに in をつけたら、そのあとには必ず・・・・・・ing (動名詞)がくる。こんなことは、ちょっとできのよい高校生なら知っていることだろうに」(p. 46)。この指摘は正しくない。This books tells you how to succeed in business. とか、I hope you will succeed in your efforts [life]. といった英文は、著者のいう -ing 形式は取っていないが、いずれの場合も立派な語法である。したがって、succeed in には動名詞 “または名詞”が後続すると言うべきである。
 いわく、「『どこかへ立ち寄る』という場合、パラシュートでも使わない限り drop intoとは言わない」(p. 50)。これも嘘である。 I dropped into the drugstore for some thoothpaste and a magazine. や In the evening we would drop into a roadside pub for a beer and sandwich. のような語法はいずれも正しい。
 いわく、「冒頭の例文【a dog worrying shoes(靴をかみ散らしている犬)−筆者注】はまちがいである。a dog worrying sheep ならば、歴史的なコトバづかいとして存在する」(p. 115)。これも完全に嘘である。The puppy worried the edge of the carpet. (Scholastic Dict. of American English, '66)、Father was angry when he saw the dog worried his slippers. (Dict. of Basic Words, '69) 等々、初級用、児童用辞典にさえ収録されている語義ではないか。
 いわく、「A. S. ホーンビーのように『動詞型』だけで800近くもあるようなとんでもない説(中略)。誰がそんなにたくさんの文型を覚えられるというのだ(中略)そんなもの全部、ダメだ」(p. 185)。これこそ、本当の“嘘800”である。ホーンビーの動詞型は全部で約50しかない。『欠陥』には、このような嘘が全巻にわたってちりばめられている。
 「別冊宝島」編集長・石井慎二氏は言う。「副島氏の英語に対する見識・能力・知識には全幅の信頼をおいている」(『毎日新聞』、89年、11.10)と。それではなぜ、全幅の信頼のおける副島氏の書物に、これだけ多くの誤謬が発見されるのか。
 石井氏は、副島氏が COD にある“bilingual”の形容詞の定義 “having, speaking (fluently), spoken or written in, two languages” ごときも正しく理解できないでいることに気づくべきである。副島氏は同定義を「2カ国語を由由に書いたり話したりすること」(p. 213)としているが、これは @having two languages, Aspeaking two languages (fluently), Bspoken or written in two languages と、3つに分析して理解すべきものである。どこをどう解釈すれば、上記のようなお粗末な訳文に到達するのか。
 この程度の英語カしか持ち合わせない人物に、どうして「全幅の信頼」がおけるのか。著者自身も、身の程をわきまえずに、「私と研究社には、“千年の経庭”がある」(p. 146)などと、大言壮語してはいけない。
 著者がいかに「欠陥研究」を行なったかの最後の証拠を挙げる。著者は172頁では、「1週間にわたって、各社の英和辞典を精査検討したところ、いろいろなことが明らかになった」と言っている。ところが、そのわずか4頁あとには、ナント、「今回は、これらの辞書を検証する作業は、残念ながらほとんど行えなかった」と言っている。何という矛盾、何という“イイカゲンさ”であろうか。
 たとえ、「流れつく岸辺で英語教師業をやっている」(p. 172)のではあっても、著者も人にものを教える立場にある。こんな虚偽に満ち満ちた書物を世に出した著者の教育的・社会的責任はどうなるのか。著者が、両辞典関係者に向けて言った、「日本の若い英語学習者に対してどう責任をとるつもりか」(p.34)という言葉は、自分自身にこそ向けられるべきものである。

第6箇条 母国語話者の選択に偏向があってはならない
 『欠陥』の外国人共著者として名を連ねているのはイギリス人1名、カナダ人1名、スウェーデン人1名の計3名である。結論だけを言えば、この少数では、この種の“研究”は十分には行えない。いわゆる“native speakers”に助力を求める場合、その生国、年齢層、教育背景、性別等のバランスについても考慮すべきである。その不足が如実出た一例が、前項の“have been”と “have gone” で述べた問題である。

第7箇条 可能な限り具体案を提示しなくてはならない
 建設的に辞書批判を行う場合、批判者は必ず、具体的な試案・代案を提示しなけれはならない。ところが、『欠陥』の著者の場合、言うことのほとんどが、「第3箇条」に抵触するものであり、とうてい建設的論議の対象たり得ない
 『欠陥』の著者が、もしどうしても、“学問的論議”を望むというのなら、何よりもまず、同書に満ち満ちている“嘘”を訂正し、“八万六千人”(『欠陥』の三刷目の数字)の人々に謝罪せねばならない。その上で、著者が『東京新聞』('89年、12.11夕刊)に、“表面紳士的に”書いた「三つの視点」をもう一度、論議のテーブルに載せることを提案すべきである。

第8箇条 終始一貫、建設的なものでなくてはならない
 これについては何をかいわんやである。『欠陥』にはほとんどどこにも真に建設的な、共感するようなところはない。正直言って『欠陥』はPeter Van Gelder 氏が書くべきであった。同書のうち、氏による “English-Japanese Dictionaries: Their Responsibilities for the Poor State of English Education in Japan”(pp. 227-239)だけが、一応読むに耐える記事である。

第9箇条 相手に弁明等の機会を与えなければならない
 これについても、やはり何をか言わんやである。「研究社には、何の反省も謝罪も、『弊社に対する中傷への抗議』もしてもらわなくてもよい。ただ早々に、この欠陥辞書たちといっしょに消えてなくなってくれ、とお願いしたい」(p. 271)書いている著者なのだから。

第10箇条 教師は生徒・学生を巻き込んではならない
 『欠陥』の著者は、本件に、著者の教える生徒たちを巻き込んではいないか。これへの回答は、『フォーカス』('89, 11. 17)の写真であろう。

おわりに
 以上のように、私が拠り所にする「辞書批判を行う際の10箇条」に照らして言えば、『欠陥』は「建設的な内容の書物」とはみなしがたい。あとは、賢明なる読者諸氏と司法関係者諸氏のご判断にお任せする。


『欠陥英和辞典の研究』が発刊されてから13年以上が経過しました。本ホームページに当時の拙稿を転載したことで、同書の著者(諸氏)が再び議論を展開したいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい。山岸勝榮【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、この注記は無効となりました。】