XXIV 辞書批評の在り方―その2
―ある匿名掲示板に載った私への批判文を読んで―
(本稿は、「1つだけの例外」の原則に基づいて書いたものである。)
1.はじめに
インターネットの時代になって、便利に思うことが多いが、無益かつ不快な記事や情報に遭遇することも多い。つい先日も、「英和辞典」をキーワードに、ある調べ物をしていた時、つい最近書かれた、以下に引用するような文章に遭遇した(こちらのNo.797, No.798)。これがどんな類いの匿名掲示板なのかはいっさい分からないし、また知りたいとも思わないが、そこに私のイニシャルであるY(と、あとで実際に山岸という私の姓)が出て来ており、しかも私がかつてその内容の杜撰さに義憤を覚えて批判の対象にした副島隆彦氏ほか著『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102;JICC出版局、1989)の内容への言及もあったので、一言しておきたくなった。私への匿名での個人攻撃・誹謗中傷の類いは無視すればよいし、実際のところ、これまでは常にそうして来たが、こと専門性ということになると、その看過を大いに躊躇する。今回の場合、明らかに、私が私自身の学問的信念に基づいて書いたことに対する大きな誤解・曲解があり、悪意が込められている。その事実を放置することは、誤解が誤解を生み、それが拡散し(実際、すでに同じ文章があちこちに“コピペ”されているようだ)、結果的に、辞書関係者の1人としての私の社会的信用に関わる恐れがあるので、ここでそれに反論を試みておく。「嘘も百回書き込まれれば、本当の事に思われてしまう」ものだ。匿名氏たちが、実名で私と議論の場に着いてくれると建設的・創造的・共栄的な議論が出来て一番良いのだが、それは到底望めそうにないので、客観的、建設的態度で、それに反論しておきたい(実名かつ公開の場での英語辞書論義の意思ないし可能性があるなら、本HPのContact Addressまで連絡願いたい;いつでもそれに応じる用意がある)。
2.“問題文”と私の反論
まず、某匿名掲示板にあった問題個所の文章だけを引用する(Yとあるのが私のことである)。
【引用1】2011/03/10(木) 05:06:38.60
Yの反論もちらっと見てみたけど、 なんというヒステリックな文章w たとえば、得意気にイギリスの辞書の(笑)用例を引っ張ってきた a running noseだが、ここで完膚なきまでに否定されている |
【引用2】2011/03/10(木) 05:47:51.60
電子辞書のSR-G10001で例文検索かけたら、 a running noseはWBにもOSDにも、その他、あっちの例文には皆無だが、 a runny noseはいろいろとヒットするな英和辞典というのは、よく使われる例を出すべきだろしかも、ライトハウスなんて高校生向けの辞書に、あっちじゃ使わない用例載せるって何なんだろうね?ソレを指摘されたら、日本の英語辞書学の権威?がしゃしゃり出てきて、的外れな反論を堂々と展開するとはねついでに言っておくと、Yが持ち出したCOBからはいつの間にかa running noseは消えて、a runny noseが2つ残っているよw副島の指摘は、本家より先を行っていたってことじゃん すごいねー |
この匿名掲示板への書き込みの問題点を敷衍して説明すれば次のようになる。
かつて私は、副島氏が自著『欠陥英和辞典の研究』(pp.126-7)の中で、「『ライトハウス』に載っている形容詞 runningの用法の3番目『うみの出る、鼻水が出る』の『鼻水が出る』の方は削除すべきである」と書いたから、それは事実に反するとして、『現代英語教育』誌(研究社出版、1990.3)において、次のような指摘を行なった。(当時は義憤に駆られて、少々激しい筆致になっているが、最初の匿名氏が「なんというヒステリックな文章w」と茶化しているのは、そこらあたりを揶揄したつもりなのであろう;それにしても文末にいちいちwを付けるところがいかにも“幼稚”だ。)
【指摘1】 (参照:XIV 英和辞書批判の在り方 ― 副島隆彦ほか著『欠陥英和辞典の研究』の場合)
(前略)A running nose(鼻水の出ている鼻; p. 126))の場合もそうである。著者はCOBUILD(’87)に、If you have a running nose,mucus is flowing out of it,usually because you have a cold. EG Some were coughing. Others had running noses.とあるのを知らないのか。同辞典は著者自身が「合計3冊ほどの英語辞典」の中に挙げたCOBUILD Essentialの親版である。アメリカの子供用辞典として有名なChildren's Dict.('79)にも、With a liquid coming out;discharging:He has a running nose.という定義と例文が挙がっている。その他、いくらでも用例はある。自分の知らないことは、すぐに「それは辞書が間違っている」などと、恥じも外聞もなく言い出す著者であるから、これらの用例の妥当性も、あるいは簡単に否定するかも知れない。【後日注記:最新英英辞典の1つ、Penguin English Dict. ('91)にも、きちんと用例付きで収録されている。】 |
また、「現代英語教育」誌(研究社出版、1990.8)では、次のような指摘を行なった。
【指摘2】(参照:XV英和辞典と典拠主義―副島隆彦著『英語辞書大論争!』を読んで)
副島氏は執筆に際しては、言語事実に対して、もっと誠実で謙虚な態度をとるべきである。たとえば、『大論争』でも、まだ“a running nose”(鼻水の出ている鼻)における形容詞 runningの正当性を認めようとはしない。それどころか、「この他にCOBUILD、0xford American Dict.、WNWDも調べたが、running noseの例文は見つからなかった。したがってこれも、勝負あった、ということだ」などと、ヌケヌケと恥知らずなことを言っている(p. 183)。最初の辞典 COBUILDには限定形容詞としてのrunningがチャンと独立して収録されており、しかも If you have a running nose,mucus is flowing out of it, usually because you have a cold.EGSome were coughing. Others had running noses.と用例まで載っているのが見えないのか。このことは「批判の在り方」ですでに指摘してあったではないか。氏は物事に対してもっと綿密になるべきである。もし“典拠主義”に徹していれば、COBUILDに大きく収録されている runningの定義と用例など、見落とすはずがない。どこまで杜撰であれば気が済むのか。 |
以上の文章のうち、【指摘1】での私の発言の意図は、COBUILD(’87)その他には、“a running nose”を使った用例が収録されているという“事実”だけを指摘することであった。“a running nose”という言い方は“a runny nose”と同じように普通に用いられるのだなどとは一言も言っていないし、書いてもいない。あくまでも、“典拠主義”に基づいて、「辞書にはありますよ」と指摘しただけなのである。
「イギリスの英英辞典に用例が出ているから何? それを朴って来るのが英和辞典の手口ってこと?
あっちの辞書に載っているから、あっちでも普通に使われている?」という、匿名氏による“疑問”はしたがって、飛躍した論理による、単なる言いがかりのためのものでしかない。
また、【指摘2】からも明らかなように、ここでの私の発言の意図も、「“a running nose”は英語国の辞書に掲載されていない」という副島氏の主張に反証を持って、氏の誤解と性急さとをたしなめることであった。
上記の最初の匿名氏が「a running noseだが、ここで完膚なきまでに否定されている」とまで言い、文明の利器インターネットを利用した近年の英語サイトから、「“a running nose”は“a runny nose”に比べて普通の言い方ではない」という裏付けになる“現代的情報”を引き出して来ているが、これも言語の本質をまるで理解していない者の行為である(それに、日本語の「完膚なきまでに」という表現は、こう言う場合には似つかわしくないし、その言葉が当てはまるほど私は視野狭窄ではないし、不勉強でもない…)。それを証明する前に、繰り返しておくが、私は副島氏への批判の中で、“a running nose”は“a runny nose”と同じように普通に用いられるとは一言も言っていないし、書いていない。“a running nose”の存在を否定する氏に対して、その存在を認知させたかっただけである。
3.言語の本質
続いて、言語の本質に言及しておく。私を誹謗している匿名氏たちは1つの極めて大切な点を(故意か偶然か知らないが)見落としている。それは「言語は変化する」(Language is subject to change.)という厳粛な事実だ。
私が副島氏の著書の内容を『現代英語教育』誌(研究社出版)で批判したのは1990年[平成2年]2月号と3月号である。原稿としては、その前年の12月頃執筆してあった。また、同氏が続編として出した『英語辞書大論争!』(別冊宝島113;JICC出版局、1990)を私が批判したのは同年の8月号においてである。つまり、匿名氏たちが上掲の書き込みをした2011年[平成23年]3月10日から遡ることちょうど“21”年も前のことである(今頃になって、何が目的か知らないが、この類いの“悪文”“迷文”“雑文”をインターネット上の匿名掲示板に書き散らす人たちとはいったいどういう人たちなのであろう…。最初の匿名氏の文章の中に「お前らの師匠」とあることを逆に考えれば、興味深い推測が成り立つが…)。
21″年という時の経過の中で、言語の意味変化や語法変化が生じるのはごく普通の事である。仮に私が当時、「“a running nose”が“a runny nose”と同じように普通に用いられることは英英辞典Xにも英英辞典Yにも収録されているところから推測して明らかだ」などと書いたとする。たとえそうであったとしても、過去21”年の時の経過の中で、どちらかが古風な言い方になったり、全く用いられなくなったりしたとしても、何ら不思議ではないのである。(ちなみに、語句が時の経過と共に古くなる例を日本語に求めるなら、たとえば、今から“21”年前の1990年[平成2年]の頃流行した語に、「濡れ落ち葉」や「ファジー」があったが、21″年後の今、それらは最早古風な語か死語になってしまっている。) どう見ても、【引用1】で言及した匿名氏が引いて来ている近年の3サイトは、“あと出し”であり“場違い”である。20〜25年前辺りの膨大な言語資料を収集した上で、それの分析に基づいて論を進めるのなら話は別である。要するに、今回の匿名氏たちが書き散らした文は、言語の「共時性」(synchronicity)と「通時性」(diachronicity)との違いがまるで理解できていないために生まれたものである。
2番目の匿名氏が書いている「Yが持ち出したCOBからは いつの間にかa running noseは消えて、a runny noseが2つ残っているよw」という発言も、言語と時の経過との関係を考えれば、辞書としては、至極当然の言語的処理なのである。「副島の指摘は、本家より先を行っていたってことじゃん すごいねー」などとたわい無い“お追従”を書いて歓声を上げているが、副島氏は共著者であったDictionary-Bustersの誰かから仕入れた情報に基づいて、その指摘をしたものであろう(副島氏自身が、当時、その言語事実を知っていたとは到底考えられない)。その点では、英語を母語とするDictionary-Bustersにとって、当時、すでに“a running nose”よりも“a runny nose”のほうが普通の言い方だと感じられていたのであろう。
先ほど、日本語の「濡れ落ち葉」と「ファジー」を例として挙げたが、もっと良い例を英語の場合で見ておこう。イギリス英語では、以前は、「大学に行く」という意味ではgo to the universityと定冠詞のtheを必要とした。だが、今ではgo to universityとtheを用いずに言ったり書いたりするほうが普通になっている。かつて日本の英語教育界で著名だったA.S. Hornby氏(1898 -1978), James Kirkup氏 (1918- 2009)などは、go to the university擁護派だった(1960年代)。ところが同じ頃、Current English Usage (1962)の著者であったF.T. Woodはgo to the universityを推奨しつつも、go to universityの台頭にも気付いていた。R.H. Flavell & L.M. Flavellによる同書の改訂版(1981)では、はっきりとgo to the universityは否定され、go to universityだけが推奨されている。旧版と改訂版の間には、これまた21年の隔たりがある。言語とはそういうものである。その言語変化の事実を知らない現代人が、Current English Usageの最新版の記述だけを頼りに(すなわちgo to universityだけが正用法だと信じて)go to the universityを否定したとしたらどうなるであろうか。
4.おわりに
すでに理解できたであろうが、辞書に記載されたものを含め、言語に関する他人の言説・記述を批判・批評する場合、論理のすり替えや、時代差などを無視した牽強付会の言辞を弄してはならないのだ。今回の匿名氏たちの場合、ふた昔以上も前の事を時の経過の重要性を無視した上、私が言っても書いてもいないことを、あたかもあったかの如く話題にして、自分たちに都合の良い文に仕上げている。こういうやり方を「牽強付会(の言辞)」と言わずして何と言うであろう。
結論として言えることは、したがって、私が書いた事を曲解した上での前出の匿名氏たちによる発言は全く無意味であり不毛であるということだ。『欠陥英和辞典の研究』の出版後22年、私の同書批判後21年も経過した今日、この種の書き込みがインターネット上の匿名掲示板で行われることの意図・目的を憶測して、私は悲しく、かつ残念に思う。やはり辞書批評・批判は建設的・創造的・共栄的なものであるべきだ。また、およそ辞書と名の付くものは、全てその利用者のためになるものでなくてはならない。私が「辞書は慈書(=言葉を慈しむことを学ぶ書物)たれ、辞書は滋書(=言語中枢に滋養を与える書物)たれ」と心から願う所以である。
最後に、“現実世界”での建設的・創造的・共栄的な英語辞書論争(とりわけ、『欠陥英和辞典の研究」、『英語辞書大論争!』との関連論争)への勧誘・要請であるなら、私は、今でも、喜んでそれに参加する用意があることをここに特記しておきたい。もちろん、「各人が身元と実名を明かした上、公開の席で」が絶対条件である。“公開英語辞書論争”の場は、私が設定してもよいし、挑戦者(たち)の側で設定してくれてもよい。匿名掲示板での誹謗・中傷・罵詈・雑言等を伴った書き込みはご免蒙る。(平成23年[2011年]12月31日執筆)
【追記1】
「鼻水が出ている鼻」は現代英語では確かにrunning noseではなく、runny noseが普通だが、実際の日常会話では、もっと別の言い方をすることが多いはずだ。たとえば、「ジョン、鼻水が出ているよ」と、ジョンなる子供に向かって言う場合、現代の英語圏の親なら、“John, you have a runny nose!”と言うよりも、“John, your nose is running!”と言うほうを好むであろう(この“running”は動詞runの進行形)。もちろん、“John, your nose is runny!”とは言わないであろう。
●私の同僚のアメリカ人男性(50代後半;文学者・歴史学者・詩人)は、上記のことを整理して示した私の質問に次のように答えてくれた。
(1) John, you have a runny nose!
Correct, but not used so much anymore. My first grade teacher, Mrs.
Miller, used this 51 years ago, I remember. More direct speech
is the norm: You have a snotty nose., or There is snot on your lip., etc. A more indirect address is usually used in formal situations:
John, you need to blow your nose./ John, you need to wipe your nose. / John, you need some tissues.
(2) John, you have a running nose!
Not used because of the“giggle factor” i.e. it means something quite funny if you think about it- and school
children do.
(3) John, your nose is running!
This form is what I use with my children. My mother also said the same
to me.
(4) John, your nose is runny!
I've never heard this form used, though it appears to work.
以上の通りである。“a running nose”についてはI have seen“running”in medical books used to describe symptoms.と付言した。
【追記2】
現代米語としての“runny nose”と“running nose”の説明としては、こちらにあるMerriam-Webster Learner's Dict.のものが妥当であろう。