XII 和英辞典の著作権と批評方法

1.和英辞典と著作権
 昭和63年(1988年)1月28日、『アンカー英和辞典』(編集主幹・柴田徹士;以下『アンカー』)の発売元である学習研究社は、『サンライズ英和辞典』(編者・小川芳男;以下『サンライズ』)の発売元である旺文社を相手取り、『サンライズ』が『アンカー』の著作権を侵害したとして、『サンライズ』の発行・販売の差し止めと総額4000万円の損害賠償・謝罪広告を求める訴訟を東京地裁に起した。関係者の間では、「アンカー・サンライズ問題」として知られている。学習英和辞典で、著作権を根拠に発行・販売の差し止めを求める訴えを起こしたのは、我が国の英語辞書編纂史上初めてのことである。
 提訴までの詳細に関しては省略するが、提訴の一大理由は、『サンライズ』が『アンカー』の定義・訳語・表記法等々、推定2万箇所を流用したことにあるらしかった。 
 数年にわたる裁判が行われ、その後、両者の間で和解が成立したようであるが、このような問題が生じた背景には、明治以降、我が国の英語辞書編纂者の間に、「糊と鋏」式の辞書編纂は必要悪であるというような、安易な姿勢や、編集主幹あるいは編集責任者として往々に「名ばかり」の無責任な立場の人を選出した事情などがあったように思われる。 
 「辞書に著作権はあるか」という問題はこれまで一度も議論されたことがない。その問題に多少とも言及した論文と言えば山岸
(1988b;1988c;1990a) あたりではなかろうか。柴田氏は、「今回の提訴は本来一辞典対一辞典の問題である。しかし、その背景には、日本の文化、教育、特に、英語教育という大問題がある」と言われたことがあるが、筆者も同感である。しかし、英語関係者からは、「糊と鋏」式の辞書作りを容認もしくは擁護するような発言が多く聞かれた。
 そうした声が聞かれる中で、柴田氏の次の言葉は、辞書編纂者としての良心の感じられるものであった。  

辞典は伝統を受け継いで進歩する。どこまでが模倣かの判断は微妙な問題でもある。(中略)しかし、どの辞典にも誇りはあり、少なくとも 独自の特色・編集方針は持っている。

 詳細に関しては、上記山岸論文および山岸(1990c)を参照されたいが、このような問題が和英辞典に関連して起きないという保証はどこにもない。筆者が精査したところでは、和英辞典においても用例・語法注記・解説等の流用や盗用の(悪質な)例が散見される。俗に言う「親亀こけたら皆こけた」式の誤訳もその1つの表れと見ることができよう。同一の執筆者が複数の出版社に依頼されて原稿を書く場合も、これと類似の問題を生じさせる恐れがある。和英辞典版「アンカー・サンライズ問題」を生じさせないためにも、英語辞書の「共有財産」とは何か、「独創性」とは何か、そして「著作権」とは何かをきちんと議論しておく必要ある。たとえば、“日本英語辞書学会”のような全国組織によって、そこでこの種の問題を取り扱うことができるであろう。筆者が残念に思うことは、この問題は、英語辞書関係者の間ですら、真剣に議論されなかったということである。「アンカー・サンライズ問題」は当事者間では、示談が成立したとしても、英語辞書関係者は、時の流れに任せて、その問題を風化させてはならないであろう。

2.和英辞典批評の在り方
2.1 非建設的・非共栄的な辞書批判
 平成元年(1989年)10月26日の朝日新聞朝刊に、「日本でいちばん売れている英和辞典はダメ辞典だ!」という挑発的な文句と共に、副島隆彦&Dictionary-Busters著『欠陥英和辞典の研究』(JICC出版局)の大規模宣伝が掲載された。対象となった辞典は、研究社刊の『新英和中辞典』(1985年、第5版)と『ライトハウス英和辞典』(1984年、初版)の2点であった。著者は当時、代々木ゼミーナールで英語講師を務めていた日本人(副島氏)と外国人(3名)であった。
 上掲の新聞広告には、研究社の辞書2点の外箱が、破られ、押し潰されて、両辞典から引き裂かれた何十頁分もの頁と共に、まるでゴミのように打ち捨てられていた。問題の『欠陥英和辞典の研究』(右書影;付箋は同書の誤謬箇所を示すもの)には、目を覆いたくなるような字句が所狭しと並んでいた。
 研究社は当然、「名誉毀損、悪質な営業妨害」として、東京地裁に提訴した。それから長い年月を経た1996年(平成8年)2月28日に、控訴審判決があって、東京高裁は、「権威への挑戦として許される過激さ、誇張の域を越え、公正な論評としての域を逸脱するもの」と述べ、名誉毀損に当たるとして、『欠陥英和辞典の研究』の出版元である宝島社に400万円の支払いを命じた。宝島社らは高裁判決については上告せず、判決は確定した(下記【参考】参照)。                      
 実は、副島氏はその間に『英和辞書大論争!』(別冊「宝島」113; 1990年6月)を出版している。同書の表紙には、「タダの予備校講師・副島隆彦が天下の研究社をノックアウト! 『欠陥英和辞典の研究』(別冊宝島102)の批判に耐えきれず、研究社は卑怯にも裁判所へ駆け込んだ。あれからいったいどうなった?と思っているあなたへ」という、前著同様の挑発的な字句が並んでおり、研究社2辞典の写真には今回は注連縄(しめなわ)が張ってあった(右下書影;付箋は上掲書の場合と同じく、同書の誤謬箇所を示すもの)。 
 確かに、副島氏側の指摘が的を射ている箇所、指摘に基づいて再考すべき箇所も少なくなかった。しかし、それよりもさらに深刻な問題は、氏を中心とする『欠陥英和辞典の研究』の執筆者たちの辞書批判の姿勢と、同書および『英和辞書大論争』で彼ら自身が犯した多数の誤謬・謬見であった。
裁判結果はその事実への司直の手による裁断と見ることができる。両書を通じて才能の煌(きらめ)きを感じさせた同氏(および Dictionary-Busters諸氏)には、建設的で、共栄的な辞書批判をして欲しかった、と心から思う。

 「アンカー・サンライズ問題」と言い、この(通称)「宝島裁判」と言い、第三者的立場から観察していて、終始、不快な思いのする事件であった。この場合も、1つの理由としては、我が国の英語関係者の間に、辞書批判[批評]の在り方が確立されていなかったためと考えられる。批判や批評の在り方には個人差があろうが、やはり常軌を逸した誹謗・中傷にならないように、辞書関係者が全国規模の英語辞書学会のような組織を打ち立て、そこでそのための方法論や具体論を論議しておく必要があろう。 
 辞書批判は常に建設的・共栄的であるべきであり、破壊的であってはならない。前述したような、“鬼面人を威す”類いの言動による辞書批判だけは、何としても回避したいものである。本問題の詳細に関しては、山岸(1990c;
1990d;1990e)を参照。【ここもご覧下さい。

2.2 パソコン「ホームページ」と辞書批判
 最近ではパソコンのホームページ(website)を利用して、自分の意見や同好の士を求めることが以前よりも容易になった。特に、無料で開けるホームページの存在は一般市民にとっては有り難いものである。
 しかし、その種のホームページを見ていると、ネットワーク上で情報交換する際の礼儀である「ネチケット」(netiquette)を逸脱していると思われるものや、その境界線上にあると思われるものも混じっている。ホームページの場合、発信者は一般掲示板、意見交換の場といった、受信者側の意見を自由に書き込める場を提供していることが多く、E-mailアドレスも示されているが、発信者がどのような人物であるのかを特定することは一般市民にはできないのが普通である。従って、これを自分の一方的意見を述べたり、“憤懣”の吐け口としたり、“個人攻撃”の場としたりしている場合、その対象となっている人物は長期にわたって、自分がそれらの“的”になっていることに気付かずにいることが大いにあり得る。これはまた、深刻な問題に発展する可能性を持っている。
最近では、特定の英和辞典、和英辞典の名がホームページに現れるようになって来た。従って、上記(2.1)で述べたような問題をネットワーク上に出現させないためにも、辞書利用者は「ネチケット」を順守し、他人への寛容精神の醸成や自己規制の徹底を図ることが望まれる。パソコンネットワーク上でも、辞書批判の在り方は、当然、建設的・共栄的であらねばならない。
            
2.3 客観的・建設的な辞書批評
 Chapmanの提案を引用しながら、次のように書いている。

 How should dictionaries be reviewed? Robert L. Chapman proposes that reviewers “use a random sampling device that covers the book from A to Z, so that the total average performance may  be assessed. This might be something as simple as ‘the tenth main entry on every twentieth page’” or the fifteenth or tenth page, depending on the reviewer's stamina.
 He recommends that each such entry be carefully scrutinized according to McMillan's criteria of accuracy, completeness, clearness, simplicity, and modernity.
 辞書はどのようにして批評されるべきであろうか。ロバート・L.チャップマンは、書評者に対して、次のような方法を提案している。書評者は「全体から見た平均的な価値が評価できるように、辞書のAからZまでを網羅する無作為抽出法を採用すべきである。これは、『二十ページごとの十番目の主見出し項目』を調査すると言ったような、簡単なも のでもよい。」 これは、あるいは、書評者の体力が許せば、十五ページごとでも十ページごとでもよいであろう。
 チャップマンは、正確さ、 完全さ、明確さ、単純性、現代性というマクミランの基準に従って、そのような各項目を注意深く検討することを勧めている。(小島ほか訳)

 この場合の辞書は英英辞典が対象になっているが、方法論自体は和英辞典にも援用できる。辞書批評は何よりも建設的で客観的なものでなければならないのであり、2.1に示したような批判的書評の在り方は論外とみなされるであろう。
 ほかにも辞書批評の方法はある。たとえば、筆者が『学習和英辞典編纂論とその実践』(2001)の第21章「ハイブリッド方式和英辞典の問題点」で行ったように、文レベルでの問題、語句レベルでの問題、地域ラベルの問題、語義分類の問題…と言うように、範疇別に一通りのチェックを行う方法である。このように幅広く検討して行けば、客観的な書評にならざるを得ないであろう。

  【文献
  山岸(1988b):英和辞典の提訴問題に思う 「現代英語教育」誌、1988.4
  山岸(1998c):『アンカー』『サンライズ』問題に思う 「現代英語教育」誌、1988.7
  山岸(1990a):正しい『英和辞書』―二つの英和辞典提訴問題 「正論」誌、1990.5
  山岸(1990c):『欠陥英和辞典研究』の嘘 「現代英語教育」誌、1990.2
  山岸(1990d):英語辞書批評の在り方 「現代英語教育」誌、1990.3
  山岸(1990e):英和辞典と典拠主義  「現代英語教育」誌、1990.8


【本稿は拙著『学習和英辞典編纂論とその実践』第2章の増補版です】


【参考1】朝日新聞 (1996 [平成8]/2/29)より
「研究社英和辞典を『批判』―宝島社に賠償命令 一部正当 東京地裁」
 学習用の英和辞典として人気のある「新英和中辞典」「ライトハウス英和辞典」について、宝島社発行の「別冊宝島」が「英文が間違いだらけ。まともに使えない」などと批判したのは「名誉棄損、悪質な営業妨害だ」として、これら二つの英和辞典を発行している研究社が、宝島社に謝罪広告と約六千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が二十八日、東京地裁であった。篠原勝美裁判長は「批判の多くは当たっておらず、批判も極端な揶揄(やゆ)、嘲笑(ちょうしょう)で論評の域を逸脱している」と述べて、宝島社に四百万円の支払いを命じた。問題の別冊宝島は、一九八九年十月に発売された「欠陥英和辞典の研究」と題されたもの。判決は、別冊宝島に間違いとして取り上げられた例文八十五のうち、批判が当たっていると認められるものは十八にとどまる、と指摘。その他については「間違った例文と考えた相当な理由があるともいえず、名誉棄損にあたる」とした。一方で「指摘の中には正当なものもいくつかあり、実際に使われている例文を掲載すべきだ、との主張も評価に値する」とも述べた。

【参考2】産経新聞 (1996 [平成8]/10/03)より
欠陥辞書」訴訟 宝島社、2審も敗訴
 研究社の二冊の英和辞典が宝島社発行の「別冊宝島」に「ダメ辞書」と批判されたことで、研究社が宝島社に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁の稲葉威雄裁判長は二日、四百万円の賠償を命じた東京地裁判決を支持、宝島社の控訴を棄却した。
 判決理由の中で稲葉裁判長は、別冊宝島の記事中で辞書の編集方針などを批判する部分について、「権威への挑戦として許される過激さ、誇張の域を越え、公正な論評としての域を逸脱するもの」と述べた。 
 問題の別冊宝島は、平成元年十月、「欠陥英和辞典の研究」と題して出版され、研究社発行の「ライトハウス英和辞典」「新英和中辞典」に掲載されている八十五の例文を取り上げ、いずれも不適切な表現として「ダメ辞書」と批判した。

【参考3】東京地方裁判所%20平成2年(ワ)216号%20判決
裁判の模様 (→こちら
 
次も参照
[ 英語辞書批判の在り方


『欠陥英和辞典の研究』『英和辞書大論争!』の両書が発刊されてから18、9年が経過しました。両書に言及したことで、両書の著者(諸氏)が再び議論を展開したいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい。山岸勝榮  
  【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、上記の注記は無効となりました。】