自 分 史
ONLY YESTERDAY


ME-MOIR


昭和19年(1944年)9月22日
山口県宇部市に生まれる

昭和26年4月小野田市立小野田小学校(現・山陽小野田市立小野田小学校)に入学。戦後6年を経過して
おらず、生徒達の着衣や毛髪に湧いた “ノミ” や “シラミ” の駆除が目的だったのだろうが、運動場に整列
させられて“DDT” を振り掛けられた。その思い出は強烈で、誰もが頭を真っ白にしていたのを今も昨日の
ように思い出す。DDTが劇薬の一種らしいことや、それが“dichlorodiphenyltrichloroethane”の略語である
らしいことを中学生になってから知った。忘れようにも忘れられない略語の1つである。映画「瀬戸内少年
野球団」
(主演・夏目雅子)の中にも、子供たちが進駐軍兵士の目前で頭からDDTを散布され、そのあと、
それを洗い落とそうと海に飛び込む場面があったのを記憶している人も多いだろう。同駆除剤は昭和41年
(1971年)に使用禁止になったらしい;小 ・中学校時代は海釣りに明け暮れ、机に向ったことはほとんど
なし(中学は2年次まで小野田市立小野田中学校に在籍)。学校から帰宅すると、その足で餌堀場へ直行
してから、釣り場へ行った。ほとんどは夜釣りになったから、握り飯も自分でこしらえた。そんな私に両親は
「勉強しなさい」とは決して言わなかった。当然、次の日の授業は“睡眠時間”。小 ・中学校を通じて多くの
先生からは“見放された生徒”であった。 その代わり、廊下にバケツを持って立つことや、職員室に呼ばれ
て叱責されることでは至極”有名”な生徒であった。母は学校に呼び出されては先生に叱責され、帰宅後
泣いていた。私は母に涙を流させるそうした教師達が(まことに身勝手な話だが)どうしても好きになれな
かった。実は、当時の私はどの先生でも良いから言って欲しかったのだと思う。「山岸君は釣り名人なん
だってね。どんな魚が釣れるんだい。学校で眠るほど面白いかい?今度先生も夜釣りに連れて行ってよ。
職員会議で居眠りしたら、校長先生に叱られるだろうな。わっはっはっ!」 とでも寛大に。つまり、先生の
「人間臭さ」を乞い求めていたのだと思う。これも手前勝手のようだが、おそらく私の本音であったろう。
「真面目」な先生が多かったようだ ; “イガグリ君”“赤銅鈴之助” “紅孔雀” “少年探偵団” などの時代
でもある。「赤銅鈴之助」に影響されてか、中1から中2にかけては剣道部に所属したこともある。下手であ
った; 昭和34年(1959年) 3月、中学3年次に長姉を頼って一人上京; 転校先の
品川区立荏原第三中学校
(2011年荏原第四中と統合し品川区立豊葉の杜中学校へ)で、心から尊敬できる先生(松谷
まつたにという
名で英語担当の男の先生・担任)に出会え、勧められて、創設後間もない英語部(ESS)へ入部、英語の
猛勉強を始めた。それまで私は、英語はさほど好きではなかった。そしてその理由は先生と肌が合わなか
ったからであろう。 しかし、荏原三中に転校してからの私はもともと国語が好きだったことも幸いしてか、
英語力の伸びは自覚できるほどになった。松谷先生は褒め上手な方であった。「君は発音がきれいだね。
君は伸びるよ。頑張りなさい」とよく言って下さった。そして、私はそういう言葉が素直にうれしかった。
『ながれ木』という名の生徒会誌(昭和35年3月発行第8号;鉄筋校舎落成記念号)に英語部を代表して、
年間の活動報告を書かせて下さったのも先生であった。その雑誌は半世紀を経過した今も大切に保存して
ある;教師という職に興味を持つに至ったのはこの先生のお陰であるし、教育とは「個々の生徒の眠れる
才能を開花させることなり」、教育的指導力とは「個々の生徒の眠れる才能を感知し、それを成長させ得る
技量なり」という確信が持てるようになったのもこの先生のお陰である。その確信は初めて教壇に立った
日から今日に至るまでいささかも揺らいでいない; 私が上京した翌月の10日は、上皇・上皇后両陛下の
ご成婚日であった。「ミッチー・ブーム」という言葉が今は懐かしい ; また、東京新名所に東京タワー
加わり、東海道新幹線東京駅第1期工事着工や、国鉄品川駅始発の155系修学旅行専用列車
《ひので号》
が走り出して間もなくの活気に満ちた時代であった; 5,6葉目の写真は同列車を利用し
て、関西方面に修学旅行に行った時の京都・奈良での写真; 私の記憶に間違いがなければ、たしか私達
は、修学旅行専用列車としての国鉄・品川駅発 《ひので号》 を利用した2番目の修学旅行生だった。


学校よりも吸引力の強かった小野田の海。多くの魚介類が獲れた;6月から9月
まではほとんど毎日夜釣りをした;何人かの友は遊泳中に溺死した。右方向から
左方向へ“澪(みお)”と呼ばれる水路が走っており、これにはまると小学生の力
では泳ぎ出るのが相当に困難だったからである。しかし、“勇者の証し” として男
子は好んでその危険を冒した。私は小学年生の夏、必死の思いで横断を決行、
“念願”を果した;昭和35[1960年]春休み、帰郷時に撮影。変貌を遂げた。


小学校4年次(昭和30年[1955年]正月元旦)
     
                             

小学校6年次(昭和31年[1956年]博多へ修学旅行(左上「小生」とペン書きがあるのが私)


小学校6年次卒業前(昭和32年[1957年]3月23日撮影)生徒最後列左端が私


  上京後、京都・奈良修学旅行(昭和34年[1959年]5月)


奈良市興福寺を背景に (昭和34年 [1959年]5月末の修学旅行にて; 最後列右端が私;上京後、2ヶ月目);
私から左に数えて3人目が私が大きな影響を受けた担任の松谷先生;お洒落でスマートで英語の発音が美しかった。



ラジオ英語講座のほとんど全てを熱心に聞いた; 机上に辞書も参考書も並べる余裕の
ない、貧しい「一英学徒」であったが、この頃の「猛勉」が現在の私を形成したように思う
(わずかな学用品は全て引き出しに収まった);昭和34年(中3)初夏の頃、義兄撮影


この写真は『昭和のくらしがわかる事典』(PHP刊)に収録されたこちら参照)

同じ場所で約6年後(大学3年次);義兄撮影





法政大学第二高等学校卒業(昭和38年)

同校野球部が夏の甲子園大会で優勝を果たし、全国的に知られた時代 ; 私はさらに英語に目覚め、英語部
(ESS) で活躍[全法政英語弁論大会で毎年優勝を果した]、賞品として授与された
The Concise Oxford Dict.,
The Pocket Oxford Dict.
の2点
3葉目の写真左2点が、辞書への興味を湧かせてくれたのかも知れない。毎夏、
港区・芝にあったAmerican Center 図書部に通いつめて英語を猛勉強した。英語劇では、1年次にPied Piper
of Hamelin に出場し 主人公の《笛吹き男》を演じたのが懐かしい(
下の写真8葉目)。その台詞は今でも覚えてい
る ; この頃はまた、N. Sedaka, P. Anka, E. Presley, Brothers Four などの歌詞を猛暗記した時代でもあり、ハ
ワイアン、ウエスタンにも熱中した。自らが、The Lutemo Hawaiian Brothersという名のハワイアン ・バンドを
結成したほどだ【下の囲み記事を参照】。この頃、本気で歌手になることを考えたが、金銭的・時間的余裕がな
かったため、作曲家・中野忠晴先生が校長を務めておられた日本歌謡学院通信部に席を置き、そこを修了した
参考: 写真14の右写真参照); 英語の口語表現・俗語表現のほとんどはこの時代に覚えた;3年次の1年間、東京・目黒に
あった日本通訳養成所 (Japan Interpreter Testing Society; 通称JITS)の夜間部に通学し、アメリカ人教師の下で
猛勉強した;同じく3年次には厚生委員長として神奈川県川崎市木月保健所の協力を取り付け、それまで誰も着手
したがらなかった「検便」を全校的に実施した
下の13葉目は当日撮影。非協力的な先生や生徒もいて、結構苦
労した。その為か卒業時に功労賞を授与された;また、在学中は、文芸部に所属していた友人に影響されて、
中篇小説も2編書いた
(下の「法政二高」 誌目次頁写真);全法政英語弁論大会で優勝を繰り返していたほか、附属
高校英語弁論大会でも活躍していたせいか、同じ附属校の法政女子高生には結構人気があった(「大いに
モテた」とまで書くと信用しない人が出るだろうから、一応控え目に書いておく); 今思い返すと、胸の熱くなる
ような、輝いた青春の日々であった。いろいろなことに興味を持った。しかし父母が骨の髄にまで染み込ませて
くれた「社会悪になるな」の教えだけは守り続けてきた;最終的には大きな夢ができた。それは生涯の職業とし
て英語に関連するものを選び、それをもって社会の「一木一石
(いちぼくいっせき)」に成るということであった;
心を許し合える生涯の友人達もこの時期に 最も多くできた。欠点だらけの人間であったが、英語と英語
文化に出会って人生の目標ができ、有難かった。

左の2枚の画像は、私が大学1年生だった昭和39 [1964] 年11月3日、文化の日に行なわれたある催し物のプログラムだ。第1部のトップバッターに「バンド演奏―ザ、ルテモ、ハワイアン、ブラザーズ」とある。実はこれは私が組織し、そのリーダーを務めていたハワイアンバンドだ。「ルテモ」とはいかにも英語的だが、何のことはない「もてるハワイの兄弟たち」の「もてる」を逆から読んでLutemoとしただけのことだ。
 
 今の若い人たちには馴染みがないだろうが、私たちの世代で、2番手に出て来るコロンビア・トップ・ライトの名を知らない人はまずいないだろう(Wikipedia参照)。トップ氏はその後、参議院議員になった(Wikipedia参照)。3番手の林家三平は初代の林家三平で余りにも有名な落語家(Wikipedia参照)。奥さんの海老名香葉子さん、第1子美どりさん、第2子泰葉さん、第3子泰孝さん(後の9代目林家正蔵)、第4子泰助さん(2代目三平)と、家族してみなさんが著名人だ。3番手のリーガル天才・秀才も有名な漫才コンビ(Wikipeida参照) だった。そのほか、当時の錚々(そうそう)たる芸能人の名が並ぶ。
 ただし、我々はそういう有名な芸能人に並び称せられるような存在ではなかった。プログラムの中ほどに「署長あいさつ」とあるところから推測がつくかも知れないが、これはある警察関係者のための催し物で、私の後輩の一人K君の父君が警察関係者であったところから、私たちがその“前座”を務めることになったのだ。スチールギター、ウクレレ、ベース、ギターなどと、一応ハワイアンバンドの体は整えていた。歌手は日本歌謡学院(通信部だが)卒業生であった私がウクレレを手にして務め、"In the Royal Hawaian Hotel”, "Beyond the Reef," “幸せはここに”、“俺はお前に弱いんだ”などを35分間にわたって歌った。遠い60年も昔のことだ…








小野田小学校時代の恩師・古谷(ふるたに)先生と;帰郷時に撮影大好きだった先生で、
いつも私を可愛がって下さった;小学校時代と言えば第一に思い出す懐かしく、かつ有り難い先生;
古谷先生に叱られると「ワル」な私はいつもシュンとした; 「仏様みたいなあんなエエお母さんから
生まれた子じゃけェ、山岸君もやっぱりエエ子じゃねェ。」 60年以上が経過したにも拘らず、今もこの
一言が忘れられない。人一人あやめずに来られたのも、この言葉のお陰である; このような先生こそ
真の「教育者」である;向かって左端のエプロン姿は用務員の“おばちゃん”; 悪さをすると必ず「悪い」と
言って諭してくれる人で、世話好きであったから、生徒みんなから慕われた;こういう人が少なくなった。


写真1

小野田中学校時代の友人と(帰郷時に撮影;中央が私)二人とも秀才であった。

写真2

使いこなせなかったが心理的影響だけは受けた
辞書3点(弁論大会賞品;右端の英和辞典に
関しては、法政大学文学部英文学科時代参照)


写真3

半世紀以上も前に英語弁論大会の賞として受けた楯;
その古さが時の経過を感じさせる
が、今も私の宝物

写真4

  全法政英語弁論大会(昭和36年[1961年]5月27日)

写真5    

 法政大学附属高等学校英語弁論大会(昭和37年[1962年]秋) 

  写真6  
     
法政二高新聞切り抜き
 
写真7

英語劇「ハメリンの笛吹き」(昭和35年[1960年]秋・二高祭)

写真8

法政二高の友人たちと(昭和35−6年頃);
向かって左から二人目が私

 
写真9

法政二高の友人たちと(向かって左から二人目が私)
左端は、私に小説を書くことの面白さを教えてくれた
文芸部員の池田健治君(下の「法政二高
誌を参照)

写真10

法政二高英語部合宿にて(山中湖畔;中央が私;昭和36年7月27日撮影;
法政女子高英語部も同じ場所で合宿をした;場所選びはかなり“作為的”)


写真11

英語劇「イーノック・アーデン」上演後・賛助出演の法政女子高生と(昭和36年[1961年];最後列右端が私);
青春の真っ只中であった;今は全員が喜寿に近い年齢のはずだが、元気でいるだろうか

写真12

悪友達から「検便大将」とはやされた厚生委員長の頃(昭和37年[1962年]夏)
ちなみに卒業時、厚生委員長として功労賞を授与された。

写真13

下は珍しい写真; 俳優の高橋元太郎さんと;私より若い世代には TV 番組 「水戸黄門」 の
“はち (=うっかり八兵衛)”
としてして知られているであろうが、私達の頃は超人気グループ
スリー・ファンキーズ”のメンバーとして一世を風靡していた;ご本人は私のことはご記憶に
ないかも知れないが、この写真は某プロダクションの社長の紹介で、新橋第一ホテルで撮影
したもの;別のメンバー・長沢純さんが法政二高の先輩で、今はビジネスの世界で大成功を
収めておられる
と聞く; いずれにせよ、私が“歌手”を目指していた頃の話。作曲家・中野忠晴
先生が院長をなさっていた日本歌謡学院東京都中央区銀座西1−1 西銀ビル通信部の
修了証も所持している【右下写真】。歌声は結構多くの人に褒められが、いかんせん顔や
容姿が、その後のTV時代向きではない。ずいぶん昔の懐かしい話だ。


(昭和36−7年頃のある日)
写真14

無謀にも歌手を志していた頃(昭和37年 [1962年] 3月頃撮影)

写真15

法政二高英語部 (ESS) 昭和38年次送別会後撮影 (左から6人目着帽が私)
全員、英語が本当によく出来た。物故者も何人かいる。

写真16

 今読み返すと赤面するほどの “恋愛小説” になっている  【「偽愛」の著者で文芸
  部員であった同年の池田健治君(10葉目の写真左端)に影響されて書いた作品】

 写真17

放送部による放送劇化の話まで出たが、海軍兵学校生を主人公にしていることへの学校側
左翼色極めて濃しの反対があったためか中止になった作品ただし、今読み返すと、
時代考証に関する知識など全くない一高校生が空想の世界で書いたものだけに赤面する箇所の
多い作品; 若さゆえの大胆な執筆であったが、今はよい記念である


写真18




法政大学文学部英文学科卒業(昭和42年)

高校3年次の某新聞屋のアルバイトで貯めた金で運転免許を取った。それがあればより大きな
収入が見込めるからであった。昨今普通の 「自分のクルマを買うため」 とか 「海外旅行に行く
ため」 とかと言った時代ではない(金持ちの子弟は別として)。運転免許を最大限に活用して、さま
ざまなアルバイトをした; 2年次に優等賞として授与された
『研究社英和大辞典』(「法政大学第二高等
学校」の欄に掲載した辞書の写真の右端)
が私の辞書への傾倒をいっそう強めたようである; 読書に明け
暮れた時代であり、大学図書館にあった英語学 ・言語学の代表的書物はほぼ読破したように思う
(理解の程度は別問題であるが);当時の法政大学文学部英文学科には著名な学者・教授が
多く、素晴らしい講義・ゼミが目白押しであった; まだ学園紛争が激しくなる前であったことや、大学
が本屋街・神田神保町に近いことなども手伝って、大学生らしい、充実した生活を送れたのが何
よりも幸いなことであった。英語聴解力養成と英語圏文化の勉強のために、国鉄 ・飯田橋駅近くの
映画館「佳作座」に足繁く通った(ただし、ゼミを含め、授業をサボることはけっしてしなかった。
自分がアルバイトなどをしながら捻出した授業料がもったいなかったからである)。安パンをかじり
ながら、同じ映画を何度も見た;4年次には、観光 [生活案内]ガイドをしたり、外国人出入りの
スナックバーで働いたりしながら、何とか英語に磨きをかけた。


法政大学入学時(昭和38年[1963年]4月)

当時はほとんどの学生が “角帽”と学生服着用で
記念写真を撮った。日常的にもまだこの姿が一般
的であった (背広着用者も多かった)。 詰襟は首
周りがきつかったが、気分的には“シャン”とした。


桂田利吉先生の文学ゼミ(先生の、向かって右隣りが私)


卒業前月
(昭和42年[1967年]2月;雪の日)

(市ヶ谷校舎内・大内山にて)

大学4年次、将来、妻となる女性と出会う(2年後輩)

Grow old along with me―the best is yet to be.
Grow old along with me―two branches of one tree.
Face the setting sun―when the day is done.



昭和42[1967]年10月9日 千鳥ヶ淵公園にて
小生大学院修士課程1年次、小夜子大学3年次
(私には過ぎた女性であった)
修士課程の学位授与式では首席・総代となった(博士課程は
公式には単位取得満期退学の形で修了)。



   
法政大学大学院人文科学研究科博士課程修了(昭和47年[1972年]) 
(英語学・言語学専攻)

多くの優れた先生方に教えていただいた輝かしい時代;この頃の先輩・同輩諸氏のほとんどは現在、大学
教授・ 研究者になっておられる; 先輩の何人かが既に故人となられたのが淋しい;昭和44年12月21日、
博士課程1年 次に結婚、“新婚”生活ならぬ “貧困”生活を始めた;給料と日本育英会奨学金の多くを書籍の
購入に充て、妻には本当に苦労をかけた。大学院(博士課程)に払い込むべき授業料を神田神保町の書店
で古書・洋書等に化けさせて妻を泣かせた。当然、“授業料未払い”で“除籍寸前”という憂き目を見た。あろう
ことか後日、The Oxford English Dict. という英語辞典の最高峰に位置する大辞典を買うための大金(当時の
金額で10万円)を妻に工面させておきながら、それさえも緊急性のあった(?)古書・洋書等の購入に充て
た。正直なところ、“離婚届”を突きつけられないのが不思議なくらいであった;いずれにせよ、修士課程
1年次生の頃は、東京都江戸川区立小岩第一中学校(江戸川近く)で、またその後、博士課程にかけての
3年間は東京都文京区内にある私立郁文館高等学校 (現・私立郁文館夢学園高等学校;夏目漱石の
小説『我輩は猫である』に“落雲館”として登場する)
で、さらに博士課程 2、3年次の2年間は、法政大学
第二教養部で、それぞれ英語の非常勤講師を務めた;前出の日本育英会には今も深く感謝している。



   故・桂田利吉先生と 故・岡本成蹊先生と 故・大和資雄先生と 


大学院修士課程時代;東京都江戸川区立小岩第一中学校非常勤講師 に遠足で(生徒達はもう60代後半に
入っているであろう); 生徒達が書いてくれた「授業評」は私の教師生活の原点として今も大切にとってある




小岩一中 (上記) で新聞部の生徒のインタビューに応えた時の学校新聞 ・切り抜き (昭和42年 [1967年] )
私は「原点」となるものを大切に保管している。時の経過と共に、それを正視することが出来なかったり、そうする
ことを億劫に感じたりすることは、私自身が教師生活において危険の淵に立ち始めていると思うが故にである。


法政大学大学院「ボアソナード博士」像前にて
友人・先輩と(昭和43年[1968年]9月);
全員大学教授となった。


桂田利吉先生宅前にて;友人の高山信雄氏
(昭和44年[1969年])先生へ新年のご挨拶;
高山氏は桂田先生と同じく、我が国有数のS.T.
Coleridge 研究者として著名。のちに文学博士。


大学院時代の友人 Gordon Bayley 君;良きアメリカ人の典型のような青年;
アメリカでの就職口まで用意してくれたが、私は大学院進学を選んだ。



新婚生活は千葉県習志野市谷津町の某新築アパートから始まった(昭和45年[1970年])。





ロンドン英語学・音声学研修(昭和50年);ロンドン大学大学院留学 (昭和56−7年)

(英語学・音声学専攻)


英語を肌で感じた充実した時期;R. Quirk, A.C. Gimson, P. Strevens等の著名な学者に教えていただ
いた;Quirk先生には
A Dict. of Modern British English (全文英文; 邦名 『現代イギリス英語辞典』)
編纂するということで種々ご相談にのっていただき、協力者(著名なイギリス人辞書家お二方)までご紹介
いただいたが、その後、私自身が多様な出版企画や学習研究社の辞典編纂に多忙を極める身となった
ので、同辞典は未完で終わった。日本での出版社まで決まり、見本原稿
下 6、7葉目を出してもらったの
だが、関係者に申し訳ないことをしてしまった。私一人で 「E」項まで完了させたのであるが、今その原稿は
私の書斎の片隅で静かに眠っている。私の原点である斎藤秀三郎は 『大英和辞典』 を「F」項の途中ま
で完成させて亡くなったが、私は「E」項までである。何か不思議な気持ちになる。斎藤は常に、「天国に
行ってからも英語だけは勉強するよ、人間が此世で成し遂げる事が出来る仕事って高の知れたものさ」
と語っていたという。同感である ; Gimson 先生にも直接教えていただく機会に多く恵まれた; Strevens
先生にはCambridgeで大変お世話になった; 留学中の成果は1981年4月から1984年2月まで「時事
英語研究」誌
(研究社出版発行)に「イギリスの言葉と文化」と題した連載として長期にわたって記録し、のち
『イギリスの言葉と社会』(こびあん書房刊、1984として単行本化した。私はいつも大勢の人や出版社の
協力に恵まれる。苦労は多かったが、報われた。


「山岸君を送る会」(ロンドン留学)でご挨拶下さる
桂田利吉先生(故人);於・市ヶ谷私学会館;昭和56年冬



左から郡司利男先生(故人)、小出二郎先生、堀口俊一先生(故人)


左から木田賀夫氏(開拓社;故人)、Ann Herring先生


著名なR. Quirk先生(故人)と (1981年[昭和6年]6月19日 )


A Dict. of Modern British English (邦名 『現代イギリス英語辞典』)の組見本 (1)


A Dict. of Modern British English (邦名 『現代イギリス英語辞典』)の組見本 (2)


ロンドン留学時代(1981年[昭和56年]春


ロンドンの“我が家”にて


近所のプレイグラウンドにて


リバティー店前にて


幻想的なロンドンの雪の日


テムズ川エンバンクメントにて





法政大学専任講師、同大助教授、同大ロンドン分室室長、同大教授時代
(昭和47[1972]年4月−63[1988]年3月)


全国的に学園紛争の嵐が吹き荒れていた頃。博士課程単位取得修了と同時に、それまで2年間
非常勤講師を務めていた法政大学第二教養部の専任講師となった; 今の若い人達には信じられ
ないであろうが、死を覚悟して登校し、その覚悟で教壇に立つという、きわめて異常な時期であっ
た。紛争時の悲しい思い出の一つは、私が担任をしたクラスの学生の一人が投石で片目を失明
したことであった。その頃の学生諸君とは今も連絡が取れる(皆50代半ばを過ぎているはず)。
辛かったが、教師冥利に尽きる経験も多くさせてもらった。学生諸君に感謝している; 太陽が
黄色く見える日の続く辛い時代であったが、研究 ・教育だけは怠らなかったつもりである。


法政大学時代の教え子・高橋博君の結婚披露宴にて(昭和58年[1983年]10月10日)
私はこの時39歳であった。


高橋君は現在「季節料理 たかはし」(朝霞市)の腕のいい板前さん。

昭和58年[1983年]法政大学スクーリング(岡山県総社市にて)



楽しい思い出の一こまである;良い学生諸君に恵まれることは幸せなことだ。


法政大学時代 (昭和62年[1987年]仙台スクーリングにて撮影;最前列・校旗の間が私;43歳)


法政大学退職の年のスクーリング(昭和63年[1988年]1月;上記「仙台スク」
の学生が多く参加した);授業後、学生諸君が贈ってくれた花束に感激した。


素晴らしい学生諸君であった。







明海大学
外国語学部英米語学科教授

(昭和63年[1988年]4月―平成27年[2015年]3月)


明海大学大学院応用言語学研究科教授
(平成14年[2002年]―平成27年[2015年]3月

外国語学部創設要員の一人であったこと、よき上司 ・同僚 ・職員 ・学生に恵まれたこと、などを幸せに思って
いる;学歌の一節 「何かひとつ人類(ひと)のために私達にできる何かを」に共感して今日に至る;おそらく
明海大学が私の教員生活の総仕上げの場となるであろう。持てる限りの力と愛情とを持って、毎日、学生諸君
に接していきたいと思う;ただ、創設要員であった同僚のかなりの方達が既に鬼籍に入られたり、退職して行か
れたりしたことが淋しい;淋しいと言えば、最近の外国語学部英米語学科が全国的に見て巷
(ちまた)の英会話学校
にやや類似した所になりつつある点もそうである。大学の英米語学科巷の英会話学校の根本的相違は、後者
が技術としての英会話を主たる教授目標としているのに対し、前者は技術としての英会話に止まらず深く英語
文化の真髄を教え日英言語文化教育を通じて全人的教育を施す場所だということである。もちろん、それを悪い
とは言わないしまた言えないが、英語を(多少)流暢に使えたところで、それを操る人間が彼我
(ひが)の文化的
異同を(よく)理解し、彼我の発想のよってきたるところを(奥)深く理解しておかなければかえって多様な誤解
が生じ、紛争の原因になり得る。換言すれば、文化的・宗教的異同などの教育を軽視または無視した英語学習
はかえって危険なものとなる恐れを秘めている。我が明海大学外国語学部英米語学科にはそうした《理念》と掲
げるべきものを堅持する学科であってほしいし、英米語学科生諸君にも、言語文化の深奥
(しんおう) を学ぶ努力を
することに、よりいっそう意を用いてほしいと思う。 日本人として一流を目指す人はまず間違いなく、英語圏の
人々の間にあっても、やはり一流人として遇されるであろう。最近、“道具としての英語” の流暢さを最優先する
組織や人間集団が多くなって来たように思うが、大学における語学教育(ここでは英米語学科)の目指すものは
それだけでは決してないのである。大学の英米語学科は巷の英語学校とは異なった使命を持っていてよい。


敬愛する Leo G. Perkins 明海大学名誉教授(故人)と平成10年[1998年]3月下旬に撮影;
私達はよく気が合い、 「前世は兄弟だったに違いない」 と言っては大きく笑った。だが、常に私の
《英語の師匠》だった。多くの英語母語話者と働いたが、Perkins氏ほど語感の鋭い人に出会った
ことはなかった。また、その博識ぶりにはいつも驚嘆させられた。我が国の中学校・高等学校の
英語教科書の質の向上に、文部省英語教科書顧問として氏の大なる貢献があったことを忘れる
わけにはいかない。明海大学移籍以降、最大の収穫の1つはと言えばPerkins氏に出会ったこと
だった。
そのPerkins氏は明海大学退職にあたり、氏の知的財産(論文・書籍・プリント等の内容)
の自由利用を私に許可して下さった
。有難かった(辞書編纂等に活用させていただいている)。


Perkins名誉教授を迎えたゼミ授業
英米語学科・山岸ゼミ集合写真↑)


第49回山形県中学校・高等学校英語弁論大会で審査委員長を務めた(最前列左から7人目が私)


福島県高等学校英語教育研究大会並びに講演会の折に
(於・福島県文化センター;平成9年10月3日)
右端は法政大学時代の教え子・増子文隆君(県立高校教諭)







学問集大成の時代 (『学習和英辞典編纂論とその実践』の構想を練った頃から)

 長い間の大学教員生活を通じて味わった喜びは無数にあるが、明海大学から授与された博士(応用言語学)
の学位は応用言語学 (Applied Linguistices)分野での論文博士としては我が国第1号であったので、喜びも
格別であった。また、それに先立って国際教育協議会(Cncl of Intl Ed)から授与された称号国際教育協議会
認定教育学博士
(CIE Ed.D.; Pdf.) も私には記念すべきものであった。その他、日・英・米・インド等の人物名鑑
に私の氏名・業績等が収録されることになった。 次はその内の1点であるWho's Who in the World,
2005
(第22版『世界人名辞典』;
Marquis Who's Who
からの掲載決定通知 (September, 2004) の文面であ
る。長く地道な苦労がようやく実ったように感じる。自賛の謗りを免れないが、記念として引用しておきたい。

【書面】

Dear Katsuei Yamagishi:

Congratulations! Because of the reference value of your outstanding achievements, Marquis Who's Who has selected your biographical profile for inclusion in the forthcoming 22nd (2005) Edition of Who's Who in the World.
This exciting, new edition will feature biographies of 50,000 of the most accomplished men and women from around the globe and across all fields of endeavor. It is a testament to your hard work and dedication to success that you have earned a place in Who's Who in the World. You should be proud of your achievements.
(中略)
On behalf of the entire Marquis Who's Who staff, I'd like to wish you continued success, and I'm pleased to have you join us in this very special edition of Who's Who in the World.
Sincerely,

署名
Karen Chassie
Managing Editor

【E-mail】
Dear Katsuei Yamagishi,

Congratulations on the outstanding achievements that have earned you a position in Who's Who in the World, 2005! Your inclusion in this exclusive directory distinguishes you as one of the leading achievers from around the world.
The upcoming 2005 (22nd) Edition will feature over 50,000 leaders from all fields of endeavor and from 215 countries and territories. Included will be biographies of international political leaders, notable religious and humanitarian figures from developing nations in Africa and the Mid-east, multinational business executives from Europe, scientists and engineers from the Pacific Rim, and many more. This indispensable directory, which will include your complete biography, can be one that you and future generations refer to again and again.
(中略)
Sincerely,

Gene McGovern
CEO, Marquis Who's Who
Marquis Who's Who
562 Central Ave.
New Providence, NJ 07974
United States of America




慶應義塾大学、相模女子大学・同短期大学部、武蔵野女子大学 ・同短期大学部現・武蔵野
大学、明治学院大学、関東学院大学・同大学院、その他でも長年教えた; どこの大学で教え
ても、私はじつに素晴らしい学生諸君に恵まれた。これは教師の一人として、何ものにも替えが
たい大きな喜びと言える; 縁あって教えることになった全ての学生諸君の健康と多幸とを祈る。

写真は3葉とも相模女子大学兼任講師時代のもの;私はまだ36歳であった。
(昭和55年[1980年]11月撮影) 










平成21[2009]年 9月3日、最愛の妻(小夜子;“セレナーデ”)を先立たせる。
享年62歳7カ月。私にとって、千載の痛恨事
“セレナーデ”は恩師・桂田利吉先生が学生時代の
小夜子に贈ってくださった愛称


Schubert: Serenade mp3


大学4年生の頃・京都にて

(1947[昭和22]年-2009[平成21年)













大学広報用にリクルート社が撮ってくれたもの)



(平成25[2013]年9月6日沖縄にて)





平成27[2015]年3月31日 明海大学・同大学院退職

法政大学専任勤務:昭和47[1972]年4月―昭和63[1988]年3月
明海大学専任勤務昭和63[1988]年4月―平成27[2015]年3月
計:43年間 大学専任教員を務めた


法政大学での非常勤講師時代の2年間を加えれば45年間の大学教員生活を過ごした
ことになる;更に修士課程時代の中学非常勤講師2年間、博士課程時代の高校非常勤
講師3年間を加えれば、私の教員生活は
50年間半世紀)の長きにわたる;
大過なく終えられたことが何よりの喜びであり我が宝物でもある。



平成27[2015]年5月15日
「明海大学名誉教授」の称号を授与さる



退職後、心筋梗塞で入院・手術



第1回の入院は、2016[平成28]年5月6〜20日の15日間で、体内に溜まった大量の水を
抜くことと、手術に向けての精密検査を行うことがその目的だった。その時の担当医は
循環器内科のK医師(女性)で、疾患名は「うっ血性心不全、虚血性心疾患」だった。


2016年6月3日
第2回の入院をした。心臓血管・呼吸器外科で冠動脈バイパス手術を受けるためだ。
最終的な病名は「心筋梗塞」ということになった。冠動脈バイパス手術(移植術)は、
6月7日午前9時頃から行われ、終了したのが午後6時過ぎだった。手術自体は約7時間、
全体では約10時間弱となったが、無事に終了した。術前の私の心臓の状態(動き)は、
健康人の3分の1程度の動きしか果たしておらず、術中に急遽「より良い手術方法」を
採っていただいた。執刀医である心臓血管外科のI医師(男性)をはじめ、心臓血管外科
のC医師(男性)、呼吸器外科のM医師(主治医;男性)、脳神経外科医・呼吸器内科の
医師、看護師・ICUスタッフの方々、病院に関わるすべての方々のおかげで、無事に
手術を終える事ができ、ただただ感謝あるのみだった。糖尿病に関しては、あまり良い
状態ではなかったので、感染症などを防ぐ目的もあり、ICUには通常の患者よりも
長く、5日間入っていたが、その後、一般病棟へ戻り、治療を続けて受けた。


2018[平成30]年10月26日
「心不全憎悪(ぞうあく)」で11月14日までの16日間、入院した。肺に大量の水が溜
まっていて、それが肺と心臓を圧迫して呼吸困難を引き起こしていたからだ。
 
 その後、定期的に通院し、検診を受けて、現在に至っている。









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