21. 英語の辞書と教育と私  
  
    

本稿は愛知県高等学校英語教育研究会研究大会における私の講演の備忘録です
(平成14年12月3日、於・名古屋市中区役所ホール)

0.はじめに
T.私と英語の辞書と教育
U.満足度の高い英語授業
V.「山岸ゼミ生(在校生・卒業生)に贈る希望の言葉」について
W.高校現場の先生方にお贈りするメッセージと激励

0.はじめに
 私は過去約30年間にわたって英語の辞書作りに関係して来ました。『ニューアンカー和英辞典』(1990)に関わってから今日までの十数年間はまさに寝食を忘れるほどでした。あまり人付き合いをせず、会合にも出ず、可能な限りの時間作りに励みました。日本の英語辞書、とりわけ和英辞典の質の悪さに気づいた時から、何らかの犠牲を覚悟しなければ、理想的な英語辞書作りはできないと思い定めたからです。急いで付け加えますが、専任校であると非常勤校であるとを問わず、大学教員としてやるべきことはやったつもりですし、それらへの貢献も大であったと思います。その点は私の授業を受けた大学生たちの授業評からも窺い知ることができると思います(例:私のホームページ上の「英語教育論考」欄をご参照下さい)。
 辞書作りの繁忙期には、睡眠時間平均3時間を守りました。2時間ということも日常茶飯事でした。大学での職務に多くの時間を取られれば、あと割けるのは睡眠時間だけだからです。運動不足による糖尿病に悩みました。肝臓も脂肪に覆われているそうです。歯医者に行く時間も惜しんだために、歯周病が悪化し、ひと夏に13本の歯を失ったこともあります。1999年(平成11年)8月21日、残っていたわずか3本の歯を失いました。55歳の誕生日を翌月に控えていました。
 そのような辞書作りに励む中で、私は一教師として、教育にも精魂込めて当たって来ました。そのようなわけで、今日お話しすることが、現場で日夜頑張っておられる高校の先生方にいささかでもお役に立つようであれば、私の喜びこれに過ぎるものはありません。

T.私と英語の辞書と教育
 諸所で書いて来たことですが、私が本格的に英語辞書と関わり合うようになったのは、1974年に初版が刊行された『ランダムハウス英和大辞典』(小学館、全4巻)からです。刊行までに何年も費やされていますから、実際にはもっと以前から始めたことになります。それから、『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』(1977)、『車の英語考現学―ドライバーの英語用例事典』(1979)、『小学館英語最新語辞典』(1981)、『英語なぞ遊び辞典』(1982)、『アメリカ語法事典』(1983)」、『小学館最新英語情報辞典』(1983)、『Color Anchor英語大事典』(1984)、「研究社リーダーズプラス」(1984)、『ニューアンカー和英辞典』(1990)、『ケンブリッジ国際英語辞典』(1995)、『スーパー・アンカー英和辞典』(1997)、『スーパー・アンカー和英辞典』(2000)などといった諸辞典に関係して来ました。辞書に関わるようになったとき、20代であった私も、気が付けば還暦に2年を残すだけの年になっていました。本当に「気が付けば」です。両親はもちろんのこと、私が大学・大学院でお世話になった先生方は全員、黄泉の国へ旅立たれました。私に許された人生の残りがあとどのくらいか分かりませんが、精一杯、誠実に働きたいと思っています。
 そのような辞書作りに励んで来て分かったことがあります。最も深刻なことは、日本の英語教育は英語教育と称しながら、英語に「ついて」教えては来たものの、英語(そのもの)「を」十分には教えては来なかったのではないかということです。
 具体的に言いますと、英語の「辞書的意味」(denotation)「文化的意味」(connotation)のうち、後者についての英語教師の知識や理解はあまりにも不十分なものであり、これでは本当の英語の世界は理解され得ないし、生徒たちにも教え得ないと思います。その責任の一端は英語の辞書にあります。単語を例に採って見てみましょう。
 たとえば、responsibility (責任)という名詞について考えてみましょう。これは、人間として規範に沿って道徳的に行動することを言います。この点に関して言えば、日本人の責任意識は自分の属する集団に向かいがちであり、個人の責任範囲は不明確であることが多く、役所などで、はんこを5つも6つも共同で押すのも、責任を分散しようという意識の表れと解釈することができます。一方、英語圏の人々の場合には、集団内部においても、何よりも自分の責任範囲を明確にし、その責任や任務を果たそうという意識が強く働くのが普通です。また、日本人が「責任を取る」と言った場合、辞職[辞任]を意味することが多いのですが、英語のtake responsibilityは、自分に責任があることを認め、しかも関係者に分かるような形での善後策を採ることを言います。したがって、それが辞職[辞任]に繋がる場合は、「とるべき責任を取った」あとであり、辞職[辞任]が先ではないのです。正しい英語学習には、このような、言葉の文化的意味をきちんと押さえた英語辞書の存在が不可欠です。
 次に、repayment(報酬)という名詞を採り上げてみましょう。日本人英語学習者はこの語を「報酬」という日本語で考えてしまします。辞書にもその訳語が収録してあります。日本では、他人をもてなしたり、世話をしたりした場合、何らかの見返りを期待することが多いのですが、キリスト教では、そのような場合、報酬は当人からではなく、神 (God)からもたらされると考えます。「天 (Heaven)に富を積む」という発想です。したがって、他人を招待する場合には、土産物を期待しませんし、ボランティア活動に従事しても報酬を期待しません。この点の日言語文化差をきちんと英語教育・学習に取り込んでおく必要があります。
 ちなみに、我が国では昨今、ボランティア活動が大学入学試験の得点に換算されたり、大学の単位に換算されたりしますが、いかにも「現世利益」を求める日本人の考えそうなことだと思います。我が国の英語教育は「repayment=報酬」という理解の域を出ないままにやって来たように思います。
 類似のことは、modestyという語にも言えます。辞書には、「控えめ、謙虚、謙遜」などといった訳語が記載されています。その英語と訳語の結び付きの強い日本人は、「ピアノが弾けますか」という質問に対して、「はい、少々ですが」とか「弾けると言うほどではありませんが」とか「触る程度ですが」と言った日本的言い方を選ぶために、英語にもそれを援用してしまいます。ちなみに、『三省堂・大辞林』(1989)で「謙遜」を引いて見ますと、「自分の能力・価値などを低く評価すること」と定義されています。また、『明治書院・精選国語辞典』(1994)で同語を引きますと、「自分を低くして相手を立てること。謙譲」と定義されています。
 もちろん、英語でも“Yes, a little.”とか“I’m not much of a piano player, but yes I do.”などと答える人はいるでしょう。しかし、それは日本人の考える「控え目、謙遜、謙虚」であると言うよりも、事実を言っていると捉えるのが自然だと思います。なぜなら、英語の modest answerはたとえば、“Do you play the piano?”“Yes, I do.”のような正直な答え方になるからです。すなわち、英語の modesty being aware of one’s limitations, not vain or conceited(自分の限界を知っていて、虚栄心や自惚れに無縁のこと)とか、being unwilling to talk much about their abilities, achievements, or possessions(自分の能力、業績、持ち物について多くを語りたがらないこと)という意味であって、「事実を過小評価して相手に伝える」ということではありません。一言で言えば、英語の modestyとは「過不足のない自己評価」ということになります。そこで、英語式のmodest answerを用いた対話を2例挙げてみましょう。

1)      Congratulations upon being elected president of the club.”“Well, I hope I can do a good job.”「クラブの会長さんに選ばれたそうで、おめでとうございます。」「ええ、良い仕事ができることを願っています。」

2)That's a pretty blue tie you are wearing.”“I'm glad you like it. / Thank you. My wife gave it to me for my birthday.”「あなたのブルーのネクタイ、素敵ですよ。」「気に入ってもらえてうれしいです。/ありがとう。妻が僕の誕生日にプレゼントしてくれたんです。」

 このような場合、日本人が謙遜するとすれば、別の言い方を選ぶでしょう。それでは、英語ではなぜ、「過不足のない自己評価」が modest 足り得るのでしょうか。それはこの世のものは全て神が与えて下さったと考える文化的・宗教的素地があるからでしょう。人間が謙虚であり、控え目であるべきなのは、まず神に対してであり、与えられた能力を他人から賞賛された場合は、まず「事実」を「過不足なく」伝えることをもって、神への誠実さを示そうとするのだと思います。
 神が出て来たついでに、形容詞の secularを取り上げてみましょう。この語は、辞書では「世俗的な」と訳されています。しかし、英語と日本語の間には大きな意味のズレがあります。英語はnot religious or not controlled by a religious authorityとか that is not connected with religionといった意味であり、要するに「宗教と結び付いていない」ということです。聖書は、この宇宙は最終的には火で焼かれて消滅し、天国 (Heaven)のみが残ることを教えていますが、同時に、個人個人には、自らの霊がその天国に住んでいる永遠の命を得られるように、天国を意識して生活することを奨励しています。天国を意識して生活する人を指す形容詞が spiritual (霊性に満ちた、霊的な)であり、この世にのみ存在意義を見出しているような人を指す形容詞が secularなのです。
 ところが、日本語の「世俗的な」は「世の中にありふれている」、「世間に一般的な」、「俗っぽい」といった意味で用いられます。英語ではむしろ worldlyに相当する語です。たとえば、「世俗的な事柄」は secular mattersではなく、worldly mattersです。英語の secularを日本語の「世俗的な」に直結させて覚えてしまうことの危険性がここにも潜んでいます。
 続いて、句を採って考えてみましょう。たとえば、improve [better] oneselfです。これは普通、「自分を磨く」と訳されていますし、たいていの日本人学習者もそう覚えるでしょう。そこで学習者は、「私は自分を磨くために新聞配りをしています」というような日本文を、I deliver newspapers to improve [better] myself. と訳します。あるいは、「私は自分を磨くためにこの冬期講習会に出席することにしました」を I have decided to attend this winter class to improve [better] myself.のように表現します。しかし、日本語の「自分を磨く」が「自己の人間性、characterを磨く」と言っているのに対して、英語のimprove [better] oneselfは普通、「将来、より良い職業に就いたり、より高い地位に就いて、社会的に成功したりするために、高い教育・教養を身に付けようとする」という意味で理解される句であり、日英語間に意味的ズレが生じます。日本語の意味はむしろ、seek spiritual growth(精神的成長を求める)become a better person(より良い人間になる)、 train one’s mind(自己の精神を鍛錬する)などと表現する必要があります。すなわち、英語教育・学習で「improve [better] oneself=自分を磨く」と機械的に教えたり覚えたりしてはいけないということです。
 ちなみに、和英辞典の中には、「教養を身に付ける」にこの improve oneselfを当てているものがありますが、これはcultivate oneselfとかacquire cultureと表現すべきだと思います。
  別例で考えてみましょう。have leadershipという句です。たとえば、President Bush has leadership.というように用います。日本人学習者の多くは、これを「ブッシュ大統領はリーダーシップがある」と訳すでしょう。しかし、英語の have leadershipは「先頭に立って[率先して]やる」という意味であり、日本人が考える「リーダーシップがある」なら、President Bush is a natural leader.と表現する必要があります。このようなことは英語の辞書にきちんと注意書きを添えておく必要があります。
 もう1例、別の例で見てみましょう。今度は「どうぞ良いお年を」と (I wish you a) Happy New Year!です。和英辞典で「年」を引くと、たいていは、この用例が出てきます。日本人は「どうぞ良いお年を」という挨拶は年末にします。しかし、英語(ただし、キリスト教国)では、この言い方よりも、(I wish you a) Merry Christmas!が普通でしょう。Happy New Yearは、むしろ、元日に言うのが普通であり、年内に言うとすれば、Christmasの挨拶をしたあとでしょう。そのことは、We wish you a Merry Christmas, we wish you a Merry Christmas,we wish you a Merry Christmas, and a Happy New Year. という歌があることからも分かります。つまり、日本人は日本語で考えて、英語の (I wish you a ) Happy New Year!を用いる傾向が強いということです。

 以上数例のみ挙げて、日英語の文化的意味のズレについて述べて来ました。英語の辞書(英和、和英)にこのような日英言語文化情報がきちんと記載されていることが好ましい辞書だと言えましょう。
 個人的には、これまでの英語の授業においては、英語の背景を成す文化的意味をきちんと捉え、それを学生諸君に理解してもらうように努力して来ました。そのような授業に学生諸君の目は輝き、活気のある授業になります。

U.満足度の高い英語授業
 私は英語の授業では、「あなたの英語はどう響く?」(この名称は、私が『スーパー・アンカー和英辞典』で初めて使用したものです)という観点から学生諸君の英語を見るようにしています。
 たとえば、「僕は剣道初段だ。」という日本文を英語に直して、I am a kendo-player of the first grade. と書いたとします。実に多くの学生諸君がそう書くのですが、それでは「剣道の最高位」に解釈されるおそれがあることを伝えます。なぜなら、英語の“the first grade”は「第一級」という意味だからです。したがって、剣道(や柔道)の「初段」は(a kendo-player of) the lowest qualifying gradeと表現する必要があります。
 また、「このケーキ、食べていいですか?」「いいですよ。」というような対話を英訳して、“Can I eat this cake?”“Of course, you can.”と訳した学生がいた場合(じつは、多数存在するのですが)、問いの文は「このケーキ、腐っていませんか?」と聞いているように響くこと、応答文の“of course”はいかにも偉ぶっているように響く恐れがあるし、“you can は相手をからかっているようにも響くというようなことを解説します。すると、学生は“Can I …?”による質問文の怖さを理解するようになります。
 さらに、「日本では12月が一番忙しい月だと考えられています。」という日本文を多くの学生諸君が、 In Japan December is thought to be the busiest month.と訳しますから、12月が一番忙しいと考えるのは人間(日本人)だから、そういう場合は、In Japan people think (that) December is the busiest month.のように言うのが良いでしょうと教えます。
 同じように、「この学校にはロンドンで英語を勉強した先生が二人います。」を、There are two teachers in this school who have studied English in London.と訳せば、具体的に二人の先生と言い、その先生たちがロンドンで英語を勉強したのであれば、Two teachers in this school have studied in London.のような言い方のほうが普通の英語表現になりますと説明します。
 もう1例だけ挙げてみましょう。たとえば、「彼は指導教授への盆暮れの贈り物を欠かしたことがない。」を、He has never failed to send his academic adviser and year-end gifts.とした場合、文法的には全く問題はないが、英語文化ではこの文は、「彼」なる人物が指導教授に「賄賂」を贈っているように解釈されてしまう恐れがあると解説します。
 ここまででお分かりのように、私は英語の授業ではあまり「減点方式」(the point deduction scoring system)を採りません。He has never failed to send his academic adviser midyear and year-end gifts.という英文が He is never failed to send his academic adviser midyear and year-end gifts.と文法的に間違っていても、その文法性は二義的なものと考えて、英語世界にどの程度通じる(understandable)か、どの程度英語として受け入れられる(acceptable)かというような点を一義的に考えています。このような寛容的態度がほとんど全ての学生たちに受け入れられ、歓迎されることは、私の英語授業を受講した学生諸君がよく証言してくれるところです(こちら@BCをご参照下さい)。

V.「山岸ゼミ生(在校生・卒業生)に贈る希望の言葉」
 次に示すのは、昨年、私が私のゼミ生に贈った希望の言葉です。


山岸ゼミ生(卒業生・在校生)に贈る希望の言葉


Hope itself is happiness.
We are all animated by hope.
Great hope makes great people.
Hope is grief's best music.
Hope ever tells us tomorrow is better.
Hope never leaves a wretched person that seeks it.
Where no hope is left, is left no fear.
If it were not for hope the heart would break.
While I breathe, I hope.


Hope keeps the heart from breaking.
If hoping does you any good, hope on.
There is fear in every hope,
And hope in every fear.
Hope, that paints the future fair.
Hope springs eternal in the human breast.
More pleasure in hope than in fulfilment.
In the land of hope there is never any winter.
We are saved by hope.

上の文はここに収録されているBGMに合わせて歌うために、下記の文の中から
恣意的に選び出し並べ換えて、1番、 2番としたもので、
「山岸ゼミ」のテーマ曲とも言えるものです。
あなたならどの文を選び出し、どのようにアレンジしますか。試してみて下さい。

We are saved by hope.
While I breathe, I hope.
Hope itself is happiness.
Hope is grief's best music.
Hope keeps a person alive.
We are all animated by hope.
Hope and fear are inseparable.
Great hope makes great people.
Where there's life, there's hope.
Hope, that paints the future fair.
The last thing ever lost is hope.
Don't feed yourself on false hopes.
Hope keeps the heart from breaking.
Hope ever tells us tomorrow is better.
Where no hope is left, is left no fear.
If hoping does you any good, hope on.
More pleasure in hope than in fulfillment.
Hope springs eternal in the human breast.
In the land of hope there is never any winter.
If it were not for hope the heart would break.
A person that lives in hope dances without music.
Hope never leaves a wretched person that seeks it.
There is fear in every hope, and hope in every fear.
Everything that is done in the world is done by hope.
Hope is the only tie which keeps the heart from breaking.
A ship ought not to be held by one anchor, nor life is by a single hope.
The rose is fairest when 'tis budding new, and hope is brightest when it dawns from fears.

【英語の“hope”は日本語の「希望」の場合よりも、
“confidence《自信》”と“expectation of success《成功の見込み》”を
強く感じさせる言葉です。】

 上の27文にはいずれも名詞用法もしくは動詞用法としての hope が含まれており、私が折りあるごとに諸所で拾い集めたものです。上記したように、英語の hope は日本語の「希望」よりも自信や成功の可能性を強く感じさせる語です。学生諸君に大きな希望を持ってもらうために、アトランダムに記載していた希望を表す文をホームページビルダーに付属していたバックグラウンドミュージックにできるだけ自然に乗るように、適当に並べたものです。実際に音楽に乗せて歌うことで、明るい気持ちになりますし、英語の文も文法もリズムも覚えてしまいます。教師は、どのような状況に置かれようとも、学生諸君や生徒諸君に、「英語を学ぶことはいつも楽しい」(It’s always a lot of fun to learn English.) と言ってもらえるように努力する必要がありますし、そのためには、まず教師自身が「英語を教えることはいつも楽しい」(It’s  always a lot of fun to teach English.) と心から言えるようになっている必要があると思います。
 それでは私が実際に、ホームページのバックグラウンドミュージックに合わせて、上掲の歌にした部分を歌ってみます。(音楽・歌:省略)
 どうでしょうか。英語教師は時に役者である必要がありますし、時に歌手である必要もあります。体中で英語を表現しようという姿勢の中に、学習者は教師の熱心さと情熱と、学習者への愛情とを感じ取るのだと思います。

W.高校現場の先生方にお贈りするメッセージと激励
 ネイティブ同様の流暢さで英語を操る英語教師がいることも、ほとんど苦労せずに英語が操れる英語教師がいることも、私はよく知っております。しかし、現在の日本の英語教師の多くは英語の流暢さに欠けると思います。英語が流暢であるに越したことはありません。しかし、良い水泳選手が必ずしも良いコーチになれるとは限らないように、英語が流暢に話せる人が必ずしも良い英語教師になれるとは限りません。そうであるのなら、英語圏の人々は一人残らず立派な英語教師になるでしょう。たしかに、文部科学省が言っているように、これからの英語教師には英検準1級以上の英語力が必要でしょう。それは必須条件にしても構わないと、私は思います。その程度の英語力は最低限必要だと思うからです。
 しかし、一般の英語の教師に望まれることは、英語文化という異質なものに対する寛容度を高め、自己の立場(日本人としての立場)をきちんと説明し、相手を説得する方法と力を養い、またそれらを学生・生徒たちに教えることができるように自己研鑽を怠らない姿勢だと思います。人間の使う言葉は文化とは不可分のものであり、したがって、英語を学び、教えるということは、その前に、英語国民の培った文化をよく知る努力すべきであり、彼我の異同をきちんと教えることができなければならないと思います。そのことに気づき、自他の言語文化に愛情と尊敬心を持ちつつ、自己啓発を怠らなければ、立派な教師でると言って差し支えないと思います。そういう教師(水泳コーチ)の下から、すばらしい学習者(水泳選手)が生まれることは十二分に考えられるからです。
 要するに、英語教師にとってもっとも大事なことの一つは、まず学生や生徒に「言語・文化に優劣はない」ということをきちんと認識させ、その上で、英語世界の面白さ、広さ、奥深さに気付かせることだと思います。学生・生徒一人一人の将来や人生に関わりを持つ、重要な仕事の一端を担う英語の先生方に私からもエールをお贈りいたします。