4. 満足度の高い大学英語授業の創造
   ―受講生諸君の声に学ぶ

    2002年度慶應義塾大学法学部2年生(英語V受講生)諸君の場合

■本欄では、2000-2001年度慶應義塾大学法学部2年生(英語V)諸君に、「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」と題して書いてもらった小文を紹介しました。ここでは、2002年度の諸君(学年暦・平成14年4月-平成15年3月;学年、授業科目は昨年と同一)のものを紹介します。2001年度の場合同様、「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」とを同一頁に掲載してあります。今回も、明らかな誤字・脱字の修正以外は、全員、原文どおりです(学生諸君にはメール送信を依頼しました;掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています)。なお、個人名は省略してあります

 以下にご紹介する小文からもお分かりのごとく、個人差はあるにせよ、受講生全員が私の授業に満足してくれています。少なくとも、文面からはそう解釈できます。また、これらの小文によって、「日本の英語教育のどこ[何が]問題か」、「日本の英語教育をどう改革[変革]すれば良いか」などの問題に解答が出せるでしょう。

 一人の学生が書いています。
「英語教育のあり方はずっと問われてきたはずなのに、なぜ一向に変わらないのだろう。この教育を根本から覆すだけの材料は山岸先生のご指摘だけでも揃っているはずなのに何とかならないものかと思わずにはいられない。」  この学生の悲痛な叫び声は私の代弁でもあります。英語学・言語学分野でご高名な三宅鴻先生(故人)がかつて、拙著『続々現代英米語の諸相』(こびあん書房、1993)にお寄せ下さった序文の末尾で、「日本は簡単に主張の通る国ではないが、これからも氏は氏なりの筋を通し、氏の途を歩まれることを希望する。」と書いて下さいました。昨今の我が国の英語教育は、私が理想とする、そして、30年以上の実体験に基づいて確信にまで昇華させた教授法とはだいぶ異なった方向に向かっているように思います。英語教育政策・立案関係者には、己(おのれ)の“民族的・文化的特質”を射程に入れて欲しいと思います(私は“日本人特殊論”を云々しようとしているのではありません)。それが本当に理解できているのなら、ここ数年、私が掲載して来たような、慶應義塾大学法学部学生諸君の怨嗟(えんさ)の声は聞かれないでしょう。

                                  

2003年[平成15年] 1月17日(金)、3時限、4時限の2クラスにおいて、本年度の最終授業を行いました。終鈴を聞いてもなお、学生諸君に伝えたいことは尽きませんでした。何人もの諸君が居残って私と別れを惜しんでくれました。他大学の学生も数人、聴講に来てくれていました。教師冥利に尽きる1年間でした。心を込め、熱を注いで、未来ある若者たちに接して来て、本当に良かったと思います。この思いは、非常勤校である慶應義塾大学(および関東学院大学)であると、専任校である明海大学であるとを問いません。私は教壇を去る日まで、持てる情熱と力の全てを注いで、明日を担う若者たちの教育に当たろうと思います。私の授業でとったノートを「永久保存する」と書いてくれた諸君もいます。私の睡眠不足や、それに起因する交通事故の心配をしてくれました諸君もいます。下の小文に表れる「先生、…にお気をつけ下さい」という言葉はそれを示すものです。今年度も素晴らしい学生諸君に恵まれて本当に幸せでした。



Any teacher who wants to do a professional job,
who really wants to help every student, who wants
to improve English education at Meikai University
or any other university,and in Japan in general,
would do well to follow Professor Yamagishi's
example. He is, indeed, a person to emulate
―someone to hold up as a model of what it takes
to be a “truly great teacher.”
It would be wonderful if every teacher thought
as much of, and did as much to help, students as
Professor Yamagishi does. He's truly in a class
by himself.Of all the teachers I've known in almost
40 years of English teaching, Professor
Katsuei Yamagishi ranks right up
there at the top.


From the Foreword by Leo G. Perkins, Professor Emeritus
Meikai University to my English Language Teaching and
Dictionary Philosophy and Practice
('98)

 


慶應義塾大学には右下に示すような面白いサイトがあります。塾生による、全教員を対象とした教員・授業評価です。教員にとってはある意味で怖い存在のサイトですが、自己反省には有益なものだと思います。
マニアックな慶應生のサイト
ケイオウマニア.com

過去の英語学習に思う  これから書くことは山岸先生の授業を受けるまでは一切考えたことはありませんでした。このような自分の頭で考える授業を進めていただいたことにも感謝の気持ちでいっぱいです。 今まで山岸先生のような英語の授業は受けたことがありませんでした。そして2年間の大学生活でやっといい先生にめぐり合えたと思い、やっと大学で本物の授業を受けられたと感じました。 中、高と文法、イディオム、単語をただひたすら暗記させられ、それがすべて正 しいものだと思って勉強してきましたから、はっきりいって山岸先生の授業を受けたときはとてもショックを受けました。自分がこれまで習ってきたことがすべ てだめだったとは思いませんが、多くの面で自分の使う英語がうまくアメリカ人や西洋の人には伝わらないということを知ったからです。山岸先生の緑色の教科書の中で、「間違いを指摘しなさい」という問題がありましたが、そう言われても僕には何が間違いなのか最初さっぱり分かりませんでした。英語が日本に入ってきて何十年もたち、あれだけ多くの英語の参考書が書店に並んでいるのに、そしてかなり英語教育について研究が進んでいると思われるのに、なぜいまだに学校で教える英語はこんなものなのかと逆に不思議に思うくらいです。中・高の授業で文法や言い回しに固執するだけでなく、僕の英語は相手にどのように響くのかをもっともっと教えていただきたかった。そして、山岸先生のおっしゃるとおり減点方式でちょっとしたミスを指摘するのではなく、よくできたところ、よく考えたところを誉めて欲しかった、そう感じます。中・高でこれくらいのことを教えていた だいていたら、今の山岸先生の授業は大学2年の時点でやらなくてもよかったのかもしれない。受験受験と受験英語だけをひたすら勉強し、センター試験や大学入試問題のような、英語の本質を問わないものが目標ではいつまでたっても授業内容は変わらないのかもしれませんね。僕は決して山岸先生のような授業だけがいいと思ってるのではなく、いろんな教え方があっていいと思っています。しかし 、 そのどの授業においても山岸先生の考える基本的な理念はベースにあるべきだと思います。西洋はキリスト教社会の国が多いですから、フランス人やイタリア人などが英語を学ぶときでもアジアの国ほど違和感なく勉強できるかもしれません 。 しかし、儒教、仏教などをベースにした日本とキリスト教社会では考え方自体かなり違うわけですから、山岸先生のような英語教育が日本には必要だと僕は感じました。 これからの英語教育はどう変わっていくか分かりませんが、僕は山岸先生を応援します。あと今回学んだことは、何に対しても鵜呑みにしないで、まず疑ってかかり、自分で納得いくまで調べることが大事だということです。そうしていれば 僕が間違った英語を教わっていても自分で発見できていたかもしれないからです 。
 この授業で僕は山岸先生の話を聞いて、いつも現実にばかり目がいっている自分に気がつき 、 物事の本質を探らなければならないことを教わりました。 先生のお話を聞いていると、自分は外見も文化も考え方もすべて日本人であることを自覚させられます。しかし、それなのに日本のこと、自分たちのことについてあまり理解できていなかったのだと初めて感じました。自分たちの文化さえも知らないのに、自分はそれを「日本人だからそんなの知っている」と勝手な思い込みをし、日本以外の言語を学んでいたと思うとまだまだ未成熟な人間であったと反省しています。日本の歴史や文化、言語についての大切さがよく分かりましたので、日本人である限りこれから教養として学んでいかなければならないと思 っています。
 この授業で学んだこと  この授業で僕が学んだことは日本とアメリカなどの西洋、いやすべての国、地域 、町でそれぞれの文化、考え方の違い、それぞれの歴史があるということ。そして、その違う地域の人たちと交流する場合、真の相互理解のためには地域によって文化や考え方に違いがあることを常に認識していなければならないということです。 そして自分の使った英語が相手にどう伝わるのか、日本語で言いたいことが自分の英語でもそのとおり伝わっているかを考えなくてはならないということです。 日本人同士なら分かる英語でも、西洋人にはそれがまったく理解できない伝わりかたをしているかもしれない。日本の文化をよく理解していない外国人にもわかるように日本の文化を交えながら説明しなければならない。常に相手の立場に 立って物事を考える姿勢を忘れてはいけないということを学びました。僕は前期の頃、山岸先生は、アメリカや西洋のキリスト教世界がこれから世界を 支配していくだろうから、日本もキリスト教社会の文化や物事の考え方を取り入れていくべきだと、そう暗に主張しているのかなと勝手に思い込んでいました。しかし、後期の山岸先生の授業を聞いて僕が感じ取ったことは、日本人はキリスト教社会の文化をよく理解し、そのいい部分は日本に取り込んでいくべきである が、日本の昔から受け継がれてきた心にしみこんだ文化はそう簡単に崩れるものではない。また、これからもただそんな習慣はだめだと切り捨てるのではなく、 そういった習慣がなぜ受け継がれてきたのかを考え、大切にしていかなければな らないのだということです。明治維新からの西洋文化の移入によって、日本のある部分うっとおしい習慣などが西洋の目によってつるし上げられてきましたが、 そういった日本の習慣にも何かいい利点があったから今まで脈々と受け継がれて きたはずで、それを簡単につぶそうと思うことは今までの日本を否定することにつながるし、またそう簡単にはつぶれないのだと感じました。これからも僕たちの手で日本の文化をディフェンシブに守っていかなければならないと感じました。最後に、ただ自分の好きな道を命を懸けて進む山岸先生の一途な姿に感動を覚えました。授業内容も記憶に残るすばらしいものでしたが、それ以上に山岸先生の英語に懸ける情熱や姿勢、人間性に深く感動しました。男としてかっこいい人だなぁと久しぶりに思いました。これからの自分の人生に迷っている僕には、先生はとても刺激のある存在だと思います。 日本の英語教育の弱点を正確に理解し、日本の英語教育の構造改革をしようとがんばっていらっしゃる先生のご意志はすばらしいものだと本当に思います。僕も山岸先生から学んだことを独り占めにするのではなく、力は全然ありませんが少しでも周りの人々、将来生まれてくる子供達に伝えていきたいと思います。また、その頃には日本の英語教育が山岸先生の考えているようなすばらしいものになっていることを祈っております。一年間どうもありがとうございました。とても感謝しています。先生の著書やホームページはちょくちょくこれからも拝読させていただきます。 (男子学生)

過去の英語学習に思う 私が英語教育を受けたのは中学校三年間と高等学校三年間、そして現在に至るまでの大学においてです。それらの中で大きく2つ思うことがあるので述べさせていただきます。
 1つめについてです。読み・書き・聞き取り・発音、いずれも中途半端であるということです。実際に外国人などとやりとりしてみるとよくわかることですが、私(たち)はどれも非常に中途半端です。どれひとつ満足にできません。6年以上勉強しているにもかかわらずです。これは時間の浪費以外の何者でもありません。子供たちの時間を奪ってこんなくだらないものに使うのなら、遊んでいたほうがずっとためになります。友達付き合いを学んだほうが効果的です。痺れを切らせた私は今、バイリンガルである母親と自主練習を始めました。
 2つめです。先生のレベルが低すぎます。人間的にも、英語力的にも不足している方ばかりです。英語を教えることが偉いとでも思っているのでしょうか?自分は英語ができるとでも思っているのでしょうか?なぜあのような人々が教壇に立っているのかが甚だ疑問です。意味不明かつ自己満足な説明、AETと会話できない教師、わからない生徒へため息をつきながら教える教師、教員の授業の丸暗記を要求するテスト。大部分、とりわけ基礎を教えるべき中学校の教師の大半は何らかの分野において能力不足です。
 一点目については少なくとも分野は絞るべきでしょう。教え方の変更は必須であることはいうまでもありません。二点目については、教員の大幅刷新又は実力判断の後に段階別に再トレーニングをしてゆく必要があると思います。
  この授業で学んだこと 私は@講義の内容から学んだことと、A先生の講義での熱弁と先生の熱意から学んだことについて分けて述べさせていただきたいと思っております。
 私はこの一年間の先生の講義内容を通じて、以下のことをはっきりと、そして強く、意識し、学ぶことができました。
 ・この講義を受ける前の私は「辞書的な意味」でのみの英語(言語)しか知らず、英語(言語)をただ「辞書的な意味」においてのみ理解し、使っていました。この講義で私は「文化的な意味」の存在とその重要性を知り、過去の自分の浅はかさ・危険さ・効果のなさを、そして、徒労で終わる言語学習の正体を認識しました。これは私の人生においてかつてない発見でした。
 ・この授業を受ける前の私は祖国「日本」の文化についてほぼ無知であり、かつ、無知である自分に気がついていなかったことを学びました。
 ・ 日本人が自らの文化として、古来より伝え・実践してきたことには先人の知恵・意識・日本の固有性が存在し、文化として根付くに足る確固たる存在理由があるということを知り、そして、私たち日本人が日常生活において何気なく行う行動には自信を持ってよいということを学びました。恥じることはないということを実感できました。日本人である自分に自信がもてるようになってきています。また、私たちの日常について疑問を持たれたのならば、たとえそれがたどたどしい英語であったとしても、説明すべきであるということを感じ・学びました。私たちの説明こそが日本文化そして日本の最大の防御であり守護者であるのです。そのためにも日本文化を学ばなければならないと思いました。
 ・私たちの中にはいまだに農耕民族としての「血」と「知」が存在することは疑う余地がありません。
 ・日本人を理解するうえでアニミズムも欠かせません。
 ・メディアその他に振り回され、無意識のうちに自国について自虐的視点で物事をみていたことを認識しました。
 ・日本の教育には自国文化理解ということが完全に抜け落ちているということがわかります。そして、これから先、私たちは時間をかけて自国の文化について再度重要性・存在理由を認識し理解を深めなければならないということもここに書き忘れてはならないことだと思っています。
 ・日本文化の説明のためにはその相対化のために外国文化(とりわけキリスト教)を知らねばならないということも学びました。そして、その外国文化についての教育、がまったくなされていないということもこの講義を通じて学びました。
 ・今の自分に足りないものが少し見えてきました。それはやはり、日本文化への理解と配慮だと思います。 
 次に、私が先生の講義での熱弁とその熱意から学んだことについて以下に述べさせていただきたいと思っています。
  私が先生の熱弁と熱意から学んだこと、それは何にもまして「自らの信念のある仕事をすることのすばらしさ」です。熱弁を振るう先生の姿は非常に印象的でした。一生、忘れません。まさに、真のprofessor の姿を見たと思っております。先生が最初の授業の際におっしゃった一言を私は今でもはっきりと覚えています。その一言は『私は最高の授業をしたいと思う』でした。最後の講義を終えた今、本当に最高だったと思っています。私も必ず「信念をもった仕事」をし、いつかは周りからも評価される「最高の仕事」をしていきます。これを誓ったのは先生の講義がきっかけでした。すばらしいきっかけをありがとうございました。何にも代えがたい貴重ですばらしい経験でした。
 最後に、私は先生の一言一言が大好きでした。講義が終わってしまってものすごく残念です。私の慶應義塾大学日吉キャンパスにおける生活において「山岸先生と先生の講義」ほど私に影響を与えてくださったものはありません。最後の講義を終えた今、感謝の気持ちでいっぱいです。夏休みの頃、悩み苦しんでいた私に先生が下さったお言葉は絶対に忘れません。講義での熱い先生の姿も忘れません。講義の際の熱弁も忘れません。信念と情熱を見せていただきました。本当にありがとうございました。一年間にわたり、すばらしい講義をありがとうございました。先生、どうかお体にお気をつけください。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私の英語力の源泉は中学校、高校の6年間に受けたいわゆる文法重視の受験英語教育にある。もちろん私はこれまでの英語教育のすべてを否定すべきだとは思っていない。構文を習うことで英文の構造がよくわかり、なんとなくではなくて論理的に英文が訳せるようになったこと、多くの語彙を暗記できたことで幅広くさまざまな文章が読めるようになったことは6年間の英語教育の成果だと思う。しかしコミュニケーション手段という語学の本来的な効用の観点から考えると過去の英語教育は多くの欠点を持つといわざるを得ない。日常的にほとんど使わない言い回しを受験で人と差をつけるためだけに覚えること、意味は完全に伝わるはずなのに冠詞や三人称のsがないだけでバツをもらう英作文試験に果たして意味が見出せるのだろうか。ただ機械的に日本語と英語の変換作業をするのでは英語を生かして意志の伝達をすることは不可能のままである。これからは英語という言語を生んだ文化的背景ややそこに住む人の価値観、一つの単語に含まれるイメージなどを教えなければならないと思う。また日本の英語改革をする上では偏差値重視の社会の傾向を根本的に変えていく必要が大きいことも忘れてはならないだろう。
 この授業から学んだこと 一年間この講義を受けて最も強く感じていることは、この授業は英語に関する知識はもちろんのこと、それ以上に英語が使われている国の文化的、社会的、宗教的背景や人々の価値観について深く学べるものであり、さらに日本のそれも同じように学び追求できるすばらしいものであったということです。今思えば恥ずかしいことですが、はじめは文化を知ることが英語の上達にどれほど関係するのか疑問でした。しかし、先生の講義を受けていくにつれてコミュニケーションに本当に大切なのは複雑な文法よりも文化の正確な理解であると気づき始め、そのことは、私が昨年の夏イギリスの大学で一ヶ月講義を受け、生活した際に確信に変わりました。
 私は先生が自国の言語文化に対する内省の必要性を強く訴えていらしたのをとても印象深く覚えています。私自身常に考えていたことですが、日本人は戦後自分の国のことに批判的で西欧に憧れるばかりでした。原因は日本人が日本のことに無知であったこと、そしてそれを教える教育も行われていなかったことです。しかし先生は外国人の質問に解答していく中で今まで私が考えたことのない日本人の心の深さ、西洋に誇るべき伝統について教えてくださいました。例えばすべての物に魂が宿るというアニミズムの精神、自我を完全に捨てて他人に尽くす博愛的な無私の境地、そして自分がへりくだり相手を立てる謙遜の精神などです。そして西洋と比較して今まで負の意味しか与えられていなかった日本人の集団主義、同質性が農耕のための共同生活という伝統的な日本の生活様式の中から形成されたものだと知ったとき、もうこれからはそのことを否定的に考えようとは思わずにむしろ日本の個性ある文化の遺産だと欧米に堂々と誇れるのではないかと心から思いました。 また欧米の文化の基底をなしているキリスト教の考え方を学べたことも大きな財産です。私はカトリック系の中学・高校に通っていたのでキリスト教については少し知識があるつもりでしたが、その思想が欧米人の日常生活や言語文化にどれだけ大きな影響を与えていたのかは講義を受けて初めて知りました。人間は神の似姿として創造された尊いものであるから自分を卑下せずに強く自分の長所をアピールすることがありますが、それは彼らの宗教的背景を知らなければ単なる傲慢と日本人の目には映るでしょう。また彼らのsincerityは日本人のように相手を思いやって何か言うことでなく、神にうそをつくことなく真実を知らせることだということも学びました。このようにそれぞれの言語は異なる文化的背景からできたものであるからコミュニケーションをする相手の文化を知らないとたとえ文法が完璧であっても伝えたいことが伝わらないばかりではなく大きな誤解を招くことさえあるのです。そのことに気づかせてくださり、さらに日本の尊い文化を教えてくださった先生には本当に感謝しています。私の英語学習の恩師であるといってもまったく過言ありません。
 先生は講義形式でも信念を貫いていらしたように思います。自分で手を上げて意見を発表する講義で、初めかなりの抵抗がありましたが、その形式こそ自立心を尊ぶ英語圏では必要とされる能力であると思います。私たちが発表したどんな意見にも長所を見つけてくださった減点式ではない加点式の先生の態度は私に意見を述べる勇気を与えてくださり今では前よりずっと自分の考えに自信が持てるようになりました。先生は語学の面に限らず精神的にも私たちに理想的な英語教育をしてくださっていたのだと感動しています。これからもどうかこの講義を続けていってください。先生の講義を1年で終えてしまうのはとても残念でなりませんが、これからは先生に教えていただいたことを幹にして、さらに英語の勉強を続け国際社会に出て、先生に教えていただいた知識を今度は私が伝えていくようになろうと思います。先生の講義を受けたことを本当に心からうれしく思い感謝しています!!1年間本当にありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 受験英語といえば、単語や文法の詰め込み式教育はケシカラン!などという非難がまるで決まり文句の様によく聞きますが、私にはなぜそんなことを思うのかまったく理解できませんでした。というのも、もし日本の受験システムと学歴社会が害悪ならば、会話能力を重視しない英語教育などたしかに無用の長物でしょう。しかし学歴主義が日本社会でうまく機能してきたことと、大学受験が社会的エリートになる通過儀礼として存在する特殊な国内事情を鑑みれば、そのための手段として知識の詰め込みがあるのは全く問題ではないではないと思うのです。出身大学の肩書きだけでなく、与えられた情報を暗記したり処理したりする能力は、日本の社会人としてとても重要な素養です。勿論、これからは受験が学生の会話能力も測るようになればこれに越したことは有りませんが、仮にも自分達が青春時代に努力を注いだことを、どうして誰も彼もそう簡単に否定するのでしょうか?むしろ英語教育で問題視すべきは、英語で「何を語るべきか」「何を伝えるべきか」ということを学校が教えないことではないでしょうか。これは日本の教育全体に言える事です。つまり、「何のために勉強をするのか」という問題はいつまでたっても出題してもらえないのです。「良い大学に入るため」は勿論答えになりません。
 昨今また英会話学習がブームで、語学留学に行く学生も多くなっています。しかし、彼らは英語を話せるようになることそれ自体を自己目的化してはいないでしょうか。英会話をファッションのように考え、英語を話せることこそ国際人の証、などと憧れるのは「逆方向のオリエンタリズム」とでも呼ぶべき情けない心性です(「英語公用語化論」なんて馬鹿なことを言い出す人もいました)。ビジネスで外国人を言いくるめるのでもいい、嫌な外国人とケンカするのでもいい。自分は何のために英語を勉強したいのか、あるいはしなくてはならないのか。目的意識がはっきりしていて初めて、受験英語も英会話も意義のあるものになります。ですから、日本の英語教育に欠けているものがあるとしたら、それはなぜ英語教育を施行するのかというビジョンです。インドや中国がなぜエリート教育に英語を重視するのかといえば、国家の繁栄のため以外に何があるでしょう。であるからには、学生の向学心を発起して、愛国心があり自然と国家に報いようと思う国民を育てるのは当然のことではありませんか。まるでアメリカ人になるために英語を学ぶような若者を生み出す現在の日本の英語教育は、国家の自殺行為だと思います。
 この授業から学んだこと
 大学の学部の授業に期待を裏切られた私にとって、山岸先生の授業はまるで真冬に指す陽射しのような邂逅でした。英語を学ぶことはアメリカ人になることではなく、日本人になることだったのです。こんなすごいことをはっきり教えてくれる先生は、英語のクラスでなくても出会ったことがありません。
 日本人が英語で語るべきこととはなんでしょうか。福澤先生を初めとする明治の偉人たちは、日本を西洋列強の植民地化から護ろうとまず外国語を学びました。しかし、先人たちが護ろうとした「日本」を私たちはどれだけ護れているか、彼らに今の日本の姿を見せて喜んで貰えるかといえば、私には自信がありません。
 山岸先生が初回の授業の冒頭で、「君達は数億の精子の中から選ばれて生まれてきた」ということをおっしゃったのを今でも覚えています。そのときはいきなりのことだったのでかなりぶったまげましたが、今ではなぜ先生が最初にそんなお話をされたのか理解できます。私はこの世に生を受け、沢山の人に世話になり、勉強をさせてもらってきたことを、今では大変有難く思います。有難う、と感謝の気持ちを表現するにつけ、私は自分が日本人として生まれたことを強く意識し、同時にまたこの国のすべてを有難いと思うのです。
 私を育ててくれたこの世の先輩達、そして愛すべきこの国と、この国を護るために生きた全ての先人たちに報いるために、私は生きたいと思っています。そしてそれは未来のこの国の子孫のためにもなるでしょう。一年間という短い間でしたが、山岸先生のような素晴らしい先生にご教授頂けて幸せでした。これからもお体に気をつけて頑張ってください。(男子学生)

過去の英語学習に思う  中学から高校の6年間、英語の成績がもっとも重視される現代の大学入試のために多くのイディオム、単語、文法を学んできた。この授業を終えた今それらを振り返って思うことは、英語は日本語と同じく、生きた人間が使う言語であり、何百年という固有の文化を背景に持ちながら時代と共に徐々に新しく変化していくものであるという当然の前提が忘れられ、日本語の持つ文化的背景をそのまま英語に持ち込んで「日本語的英語」が学ばれてしまっているということである。そしてそういった問題点を改革しようという動きもないまま、時代や欧米文化から切り離された日本伊気化した英語を学ぶことが奨励されてしまっていることに疑問を感じた。
 この授業から学んだこと 一番印象深いのは、先生ご自身が日本文化を心から愛しておられ、尊重されていることであった。自国の文化を知らずして他国の文化としての英語を学ぶことは空虚なことであり、「外国人の100の疑問」を通して私自身日本語文化についてずいぶん多くのことを学んだ。日本特有の観念を英語に言い換えて説明するのは困難であったが、言霊思想・日本人の民族的性格・生活のちょとした言葉に隠された日本人の心・深い歴史と精神性を、文化の違う外国人に対して説明するという作業は、英語を通して日本についてもまた学ぶという二重の効果が得られた。また、細かい文法の正確さを重視する従来の減点方式としての英作文ではなく、あくまでも文意を重視し「評価すること」に重点を置く採点方式も斬新で、英語を学ぶ学生のやる気を引き出す方法だと思った。そして教科書においては、日本に帰化した英語と本来の英語とのギャップについて気付かされ、入試用に覚えた難しい表現が現代の英語では如何に古く堅苦しい表現であり、また日本語から英語に訳すという作業の中で、如何に日本語的発想が英語に組み込まれてしまっているかを知り、言語を学ぶということはその言語が背景として持つ文化を理解することから始まるのだということの大切さを学んだ。このように生きた英語と、生きた日本語と、日本に聞かした英語の三者をそれぞれ対比することで、英語の能力向上のみならず、他国文化への理解、日本文化の精神性を学ぶ事が出来たと思う。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私はまず中高一貫のミッションスクールで英語を学びはじめました。ここでの英語教育は大学生になったいま思い返しても、実際に使われる英語を使える形で教えていただいたと感じています。しかし大学受験の準備に入るとどうしてもいわゆる受験英語の勉強一色になり、それはいかに効率よく熟語を暗記するかであり 、構文を文法的に分析して細かく把握することでした。もちろんそれも正確な学 習には欠かせないことではありますが、やはり、実際に外国人と英語で会話するときにそれらの祥細な知識が必要かといえば必ずしもそうではなく、むしろ必要 なのは日常的な言い回しであったり、簡単な単語だけで表せるようなくだけた表 現です。日本の学校の英語教育は、文献を読む学習はできるようになるもしれま せんが、もっと大切なもの、すなわちコミュニケーションの道具として英語を使 いこなし、何より自分の考えを言葉にして表現し伝えるという点においては、不 十分であると実感しています。
 この授業から学んだこと  先生はこの授業でわたしたちに、英語という言語の背景にある文化や考え方の違 いを教えてくださったと思います。ひとつの表現だけをとってもその背景には大 きな文化があり、言葉は氷山の一角にすぎないというお話にはなるほどと考えさ せられました。この授業を通じて、英語話者の考え方と、日本人の考え方の違いを学べたことは 今後も非常に役立つと思います。留学生や帰国子女の友人と話すときに気づく感覚の違いがどこからくるのか、この授業で理解することができました。言葉の意味をただ暗記するのでなくそのイメージがプラスに捉えられているのか、マイナスに捉えられているのかをしっかり押さえておかなければ、同じ視点で会話ができな くなってしまいます。私が最も強く感じたのは、英語は徹底した個人主義に基づいている点です。自分の判断で行動し、自分で責任をとるというごくシンプルな考え方ですが、自分のことより先に他人や自分の属する集団のことを考慮する日本人からすると、そのような態度は冷たいようにも感じることがあります。しか し背景には神と人間の1対1の関係を重んじる神に対する誠実さが存在していると知っていれば、彼らのそのような態度も理解することができます。 また、この授業では私たち日本人の考え方の背景にある奥深い文化も学ぶことができました。これは日本人である私にとっても新鮮で、「なぜ?」と問われては じめて自分にも問い返し、あらためて自分が日本について表層的な知識しか得ていなかったことに気づかされました。日本人は日本についてもっと正しく理解してもらえるよう、まず自らが日本について知り、それを外国人にも説明していくべきだと思います。 (女子学生)
  
過去の英語学習に思う 今回、山岸先生の授業を受けて、中学・高校で私が受けてきた英語の授業はかなり実践的でないことが分かった。しかし、私は今までの英語の授業に否定的な意見はもたない。確かに、外国人に対して自分を表現するときは、使えない英語かもしれないが、英語の文献を読むことにおいてはかなり高度なレベルまで学ぶことができたと思う。また、イディオムや難しい表現などは、知っていて得する事はあっても損する事はないと思う。特に、最近はネイティブの先生がいる高校も多く、その先生と接する機会も多かったため、興味深く学べていたと思う。というわけで、私は過去の英語教育がよかったとは言わないまでも、肯定的な意見である。どんなにすばらしく英語を教えられても、それを身に付けることができるかどうかは、自らの興味と意欲にかかっているし、逆に興味と意欲があれば、どんなひどい授業でも英語は身につくと、私は考えるのである。
 この授業で学んだこと  私は、この英語の授業を通して、日本人の英語の解釈の間違いや日本語としての意味を失わせること無く英訳する難しさを知った。 欧米の人間性や思想、宗教的考え方や物事に対する態度等は多少知ってはいたが 、ここまで単語や表現の一つ一つにまで、その考えが反映されているものだとは 知らず、とても勉強になった。それは、いままで海外で英語を学んだことが無い 私にとって、すごく新鮮で驚くべきことだったし、これから英語を勉強するうえでも役に立つ視点に気づかされたと思う。また、「外国人の疑問100」では、ヨーロッパ系の外国人もアジア系の外国人も、こんなことを日本人に対して疑問に思っているんだなと改めて再認識することができた。そして、その疑問に答えることによって、私自身も日本や日本人の事をよく知ることができたし、英作で発表することによって、日本を全く知ら ない外人に自分の意見をいかに論理立てて納得させることができるかを勉強できたと思う。また、英作の上で大切なことは、文法上のミスなんてものを気にする ことではなく、文章の展開をいかに順序立てて構成することや、相手がわかるよ うにすることが重要だということを知った。このように、今までとは違う英語の面をたくさん知ることができ、視野を広げることができたのではないかと思う。 (女子学生)

過去の英語学習に思う 過去の英語教育とは、受験のための英語教育に他ならないと思います。すなわち、高校および大学受験において出てきそうな文法、単語暗記を重視した教育です。私たちは「テストに出る」という動機付けによって文法を理解し、こんなものが必要なのかどうか疑いたくなるほどまでに単語を暗記します。この教育の結果が、「読み」「書き」はなんとなく出来るけれども「聞き」「話す」ことが出来ないためコミュニケーションが取れない、ということであり、私たちは「英語とは外国人とコミュニケーションをとる道具ではなかったのか?」と疑問を抱くことになってしまいます。そういう問題が世間に露呈してから、近年では「聞き」「話す」ことに重点を置いた学習も数多く見られるようになってきましたが、日本人のコミュニケーション能力が高まった、という話はどうも聞かない。これはやはり英語への文化的な洞察が足りないからだと思います。結局、「読み」「書き」から「聞き」「話す」への移行を果たしたとしても、文化的な洞察が無いならば何も変わらないと思います。
 この授業から学んだこと 私は、もともと日本における英語教育は何かおかしい、と高校の時分より考えていた。そうは言うものの、では何がおかしいのか、どうすればよいのか、というのもよく分からなかったし(勿論「あの先生のどこが悪い」というのくらいは分かったが。)、そこまで英語に意欲を燃やした学生ではなかったから、学校の授業を無難にこなしていたのが現実である。大学でも一年のときは特に気にせず、そつなくこなした。そして、大学二年になり、英語の履修を決めるときに履修要綱の中にあった「外国人の疑問に英語で答える」といううたい文句に惹かれた。この授業は従来の授業と何かが違ってて面白そうだ、と感じたため履修を決意した。
 勘は当たった。いや、むしろ予想を上回る展開であったため当初は大変困惑した。しかし、授業を何度か受けて、これこそがいわゆる「普通」の英語教育なのではないか、と考えるようになった。文化的な深層を理解することなしにコミュニケーションは不可能ではないか、と。この授業はそれを一年通じて訴え続けていて、とてもよい刺激になった、と思っている。また、この授業は「日本人と英米人との差異」を考察しそのコミュニケーションを図るために「文化」への洞察を深くする、というものであったと私は理解しているが、これはすなわちコミュニケーション一般を学ぶ授業だったのではないか、とも考えられる。例えば、宗教の差異や個人の差異、世代間の差異を考える際にもこの授業の方法論はかなり役立つのではないだろうか、と思う。何はともあれ、一年間どうもありがとうございました。どうか自動車事故にはお気をつけください。(男子学生)

過去の英語学習に思う  今まで、英語はただある1つの言語として学んでいたことに気が付きました。 どんな文化の中でその言葉が使われているのかという、文化に関することには重点が 置かれていなかったと思います。だから日本語と英語の間に生じるずれなどに気づくこともなく、辞書に書かれているままに、日本語にある意味は英語にもあるはずだと信じ込んでいました。英語は、日本の教育の中であまりに重要視されすぎるあまり、学問として扱われすぎている気がします。たとえば高校で第2外国語を学ぶときは、映画や音楽を紹介してくれたり、英語よりももっと楽しく勉強しました。そういう外国語を学ぶ楽しさを失わないためには、単語の暗記や文法の勉強だけでなく、どんな人たちの中で使 われ ている言語なのかという、文化に触れることも大切なのだと思います。また、文化を知らなければ、言語としても英語を理解することはできないはずです。母国語ではない言語を学ぶことは本当に難しいことです。そして、受験英語がなくならないのも事実です。どんな教育がいいのか私にはわかりませんが、言語を学ぶことの奥にある、異文化交流のすばらしさを決して忘れてはならないと思います。
 この授業で学んだこと  日本とアメリカが文化が違うことで、日本語と英語にずれがあることなどをはじめ、この一年間で様々なことを学びました。その中でも、外国人の質問を通して 、日 本の文化について知らなかったことをたくさん学ぶことができ、よかったです。 そし て、日本の文化を決して恥じることはないということが強く印象に残りました。 私た ちは自国の文化に対して、しっかりとした認識がないために、欧米文化との違いを自国の文化のなかに見つけるとすぐにそれを蔑視してしまいがちですが、日本にある様々な文化の歴史をたどってみれば、それぞれいろいろな深い意味を持っている こと がわかりました。日本の文化の奥ゆかしさを感じ、もっと知りたくなりました。  外国人が他国の文化に対して疑問を持つのは当然のことです。しかしそれを私たちはどのように受け止めるかが重要なのだと思います。外国と違うからといって、 疑問を抱かれたことに恥じることなく、それぞれの持つ意味を理解し、それを外国人に伝えられれば、外国人に日本の文化をわかってもらえるし、日本人にいい印象を持ってくれることでしょう。(女子学生)

過去の英語学習に思う 僕が過去に受けてきた英語教育について思い返すのに受験の経験を避けて通ることはできないだろう。僕は高校受験をして慶応に入ったのだが、受験勉強のとき自分はどのように英語を学んだか。単語カードを作って覚える、イディオムを覚える、文章を読んでそこにでてきた言い回しなどを覚える、ただひたすら覚えることが中心だったように思う。高校に入ってもそれは続いて、教科書に載っている文章の単語、イディオムなどなど・・・。受験がなくなった分さらにひどくなったかもしれない。ようするに自分にとっての英語の勉強とはつまりテストに備えるためのものに他ならなかったのだと思う。実際のところテスト以外で自分には英語を使う機会はなかったといえるし(海外旅行もしなかったし)テストで点を取るということに特化したこのやり方はニーズにあっていたのかもしれない。が、テストが終わってしばらくすればテストのために覚えたさまざまな物事はたいてい忘れ、まったく自分の血肉になっていないことに気づいて、これでは何のための勉強だろうかと考えてしまう。今回先生の授業を受講して言葉にはバックグラウンドとなる文化がある、ということを学んだわけだが、つまり今までの受験志向の英語の勉強ではそこがおざなりになっていたために自分に定着しなかったのかもしれない、と思っている。自分の不勉強をそのせいにするわけではないが、先生に教わったようなことを知ることによって、英語、および欧米の文化がより肌で感じられるようになったような気がしている。実際先生が授業でおっしゃったさまざまなことを自分でも驚くほど覚えているからである。そして、そういった肌で感じた物事こそが真の知識として自分の血となり肉となっていくように思う。そういうのを「生きた」英語というのだろう。僕は今塾で中学生に英語を教えるバイトをしているが、そこにいる子供たちにもそういう勉強をさせたいものである。
 この授業から学んだこと 過去の英語学習に思う、と分けて書くのが難しいのだが、先生の授業を受けて感じたのは、とにかく今までの英語の授業とは、まったく違うな、ということであった。英語で欧米人に日本の文化を説明するという授業形式も新鮮であったが、それ以上に印象的だったのは、先生が講評を下さる際に、文法的に正しいか正しくないかよりも、その説明で果たして相手である欧米人に伝わるのか、ということを主眼としていたことであった。実際、言葉はコミュニケーションツールであるとともにお互いの文化を反映したものであって、伝わらなければ意味がないし、そのためには独りよがりにならずに、適切な言葉を選んで相手にわかるように説明しなければならない。受験のため、成績のための勉強で闇雲に単語イディオムを詰め込んでいた自分の過去の勉強がいかに偏ったものであるかを非常に感じた。他者の視点からもわかるように自国の文化を説明することは、英語、というだけでなくこれからの人生にもさまざまな形で役に立っていくような気がしている。実際僕は日本人にもかかわらず先生のおっしゃったさまざまな日本文化の特徴、アミニズム、農耕社会でのものの考え方などは知らなかったので、ためになった。こういった視点から英語だけでなく日本、欧米の文化を見ることができたのは自分の中に新たな視野が開けたという点でも非常にためになった。何よりも今までの勉強よりも楽しかった。自分自身も1回目の発表より2回目、3回目と上達していったように思う。1年間学んできて、覚えている単語の量がただ増えただけ、という授業ではあまりに寂しい。その点この授業は得るものがとても多かった。自分自身もたくさん発表したりと努力できたように思う。1年間ありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私が、学んできた英語は初めから文法偏向の試験・受験英語でした。私を含めて、日本の学校で英語を学んできた人々は、文法や単語の暗記が英語学習の中心に置かれていることに疑問と懐疑を持つ人がほとんどだと思います。中高の英語学習で求められるのはいまだに文法偏向、受験英語で進学のシステムからみてもしょうがないことなのかなと思うこともあります。現在では、その反動として会話のための英語を学校で教えていることも家庭教師をして知りました。文法偏向英語見直して、実際にしゃべれるように会話を重視する英語にしようとする試みなのでしょう。私の感想としては、会話偏向の英語学習は中高生の英語への学習時間の減少(受験勉強は除く)につながり、コミュニケーションとしての英語を育むことにはつながらないというものです。会話偏向でも文法偏向でも英語を教えるのは上手くいかないとすると英語というのはその重要性からみても、教えるのが大変難しいと感じられます。自分の経験では、自発的に英語を学習しようと思ったきっかけは、英語圏に対する幼い憧れや興味でした。他国の文化への興味を抱かせる英語学習というのは、試験などといった形に残るものにはならないけれど英語学習の重要な要素なのでしょう。
 この授業から学んだこと 山岸先生の講義を受講して自分が深く反省した点が二つほどあります。一つめは、自分の国の歴史や文化を話せないことは恥かしいことであるということです。講義のなかでは、英語圏の文化よりもむしろ日本の文化に関することが中心になっていました。私は現代の日本社会が、明治時代や江戸時代の風俗や価値観から連続してできたものであるということへの認識が希薄で、自分を知ることは過去の歴史やかつての日本人の価値観を知ることだということに気づいていませんでした。外国の方が、日本人ひいては私のことに質問を投げかけた時や非難した時、私が安直な返答をかえす、もしくは答えられなければ少なからず軽蔑されるでしょう。私たちが外国の人に誇れる見識を持ち合わせて欲しいとするメッセージが先生の講義のなかにあったと私は感じました。二つめは、大学生であるにもかかわらず英語を学問として考えてなかったことです。試験の問題は、文法や辞書をみるだけで理解できます。私はその観点からしか英語をみてこなかったために自分で調べて、自ら学ぶことをしてきませんでした。先生の『外国人からの疑問』では、十のことを知りやっと一つの答えが得られるという今までにない難しい勉強でした。この勉強を始めると、知って考えなければならないことが果てしなく広がります。確固たる答えも見つかりません。この講義を通して、自分にとって英語の新しい面を知ることができました。(男子学生)

過去の英語学習に思う  「過去」の英語教育は、この一年間で新たな英語教育に出会ったいまの私にと りま しては、確かに「過去」の英語教育です。しかしながら、社会一般に目を転じる と、 いまだ「現在」の英語教育であるということは、残念ながら厳然とした事実であ りま す。私が中学校入学以来、大学入試にいたるまで受けてきました「過去」の英語教育には二つの問題点があったと考えます。第一は、「『教科』としての英語」、ある いは 「『入試』としての英語」です。つまり、実際に外国人との意思疎通を図ること を容 易にすべく実施される英語教育ではなしに、「いい点数を取るため」、「いい大 学に 合格するため」の英語教育であったわけです。「動機が不純でも、結果がよければいい」という考えがあります。この是非はともかくとして、「過去」の英語教育の動機が「一流大学合格」あるいは「よい内申点」であったとしても、仮に英語を用いて外国人と意思疎通ができているのならば構わないと考えることもできます。しかし、現状は散々なものと言わざるを得ません。 ある日本を代表する企業の首脳がアメリカの大手金融グループの首脳と意見交換した 際、 「東京は国際金融都市になりうるか」と聞いたところ、「英語が使えない」ことを一番の理由に挙げ、即座にそれを否定したといいます。地球規模で経済活動を繰り広げ る企業の、いわば「アジア支社」が、近年東京ではなく、シンガポールや上海などに集中し始めている事実を思い浮かべれば、「日本人は英語を話せない」ということ が、いまや世界的な見方であるといわざるを得ません。  第二は、「中身(コンテンツ)なき英語教育」です。つまり、「英語を話せるようにする」ことが目的の現在の英語教育では、多くの場合、国際社会で尊敬されうる人材を生み出せないということです。例えば近年、小学校からの英語学習の導入が盛んに喧伝されています。そのために国語や社会の時間を減らしてでも、英語教育が推し進められる模様です。しかし、仮に正確な発音、文法で流暢に英語を話す日本人がいたとしても、その人が日本人としての当然知っているべき歴史や文学などの教養 を身 に付けていなければ、決して尊敬を勝ち得ることはないと思います。  昨年の夏、大学の語学研修としてアメリカ・スタンフォード大学で語学研修を 受け る機会に恵まれました。その語学研修には日本からだけでなく、半数は台湾人が 参加 し、さらに現地の大学生とも交流する機会に恵まれたのですが、その際、まさに 上記 二点の問題点を、身をもって痛感させられました。勿論、英語は言語ですから、 正確に意思を疎通できなければ意味がありません。同時に、単に英語が話せるだけでも、 有意義な会話・交流は展開されないのです。 今後の英語教育においては、「言語としての英語力」と「日本人としての教養」 が、車の両輪となって重視されるべきだと思います。
  この授業で学んだこと  中学校入学以来8年間の「英語人生」の中で、今年度はこれまでとは違う一年とな りました。これまでの英語の授業では、先生が黒板に書いたことをひたすらノー トに 写すなどといった「受け身」の学習姿勢がほとんどでした。確かに、大学受験を目指すうえでの効率を追求した学習においては、そうした「受け身」姿勢は合理的だ ったとすら考えます。しかしながら、「自律」を求められる大学での学習においては 、そ のような姿勢は適切ではなく、また、英語とは単なる学校での「教科」ではなく 、 「言語」である以上、少なからぬ「発信」を求められることは言うまでもありま せ ん。そうした意味で、先生の授業はとても刺激的であり、またこれまでふと疑問 に思 うことはあっても真正面から考えることのなかった「日本人論」について考える よい 契機となりました。  昨年の夏、大学の語学研修でアメリカ・スタンフォード大学の語学研修プログラムを履修しました。日本人と台湾人がほぼ半数ずつ参加していたのですが、その際 、台 湾人やアメリカ人との対話の中で、この授業で学習した「日本人論」が非常に役立ったことは言うまでもありません。今後、グローバル化が進む中で、言語も、文化も、生活環境すら異なる人々と接する機会は、増えることはあっても減ることはないのです。そうした中で求められるものは、単なる「英語力」ではなく、自らの文化を体現 し、伝える能力だと思います。  近年、英語学習の低年齢化が叫ばれ、国語や社会などの既存の教科を減らしてまでも英語を小学校に導入しようとする動きがあるとも聞きます。しかしながら、それらは筋違いに思えてなりません。「英語は流暢だが、自らの国のことを語れない日本人」よりも、「英語は流暢でないが、自分の国のことを語れる日本人」が、国際 社会 で尊敬を勝ち得ることができるのは自明です。(勿論、「英語が流暢で、さらに自分の国のことを語れる日本人」が一番望ましいのですが)  山岸先生の一年間の授業は、私がそうした考えを抱く契機となりました。来年 度以 降、三田に進む関係で先生の授業を履修することはないかも知れませんが、この 授業で体得した思考プロセスは、今後に活かしていきたいと考えております。一年間 、本当にありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思うこと 私は港町で生まれ育ちました。街にはアジア・ヨーロッパ・アメリカなど様々な地域から来ている人々がたくさんいました。そのため、普通の日本の高校生よりは外国人と接する機会に恵まれていたと思います。私は彼らとの接触から、様々なことを学ぶことができました。そして、英語を絶対に習得したいと思いました。一方、中学校・高校の英語の授業には意義が見出せませんでした。中学校で最初に受けた授業のことは今でも覚えています。“This is a pen.”という表現を覚えさせられたのです。私はなぜこのような表現を覚えさせられるのかが不思議でなりませんでした。「これはペンです」と実際の会話で言う人はいるのでしょうか。中学校・高校を通じて会話ではおよそ使わないような表現ばかりを覚えさせられたように思います。語学を学ぶことは、山岸先生もおっしゃっておられたように文化を学ぶことであると思います。英語を学ぶことで、アメリカや英国の文化、ひいてはキリスト教的な文化を学ぶことができるはずですし、さらには海外の文化を鏡として、日本の文化を学ぶことができたはずです。しかし、山岸先生の授業を受講するまでは、このような授業を受けたことは全くありませんでした。山岸先生の授業を初めて受講した時に、やっと自分が捜し求めていた授業に巡り合うことができて非常に嬉しかったのを覚えています。ドイツでは小学校の段階から英語やフランス語の教育が盛んだと聞きます。しかも生徒の語学習得の熱意は凄いそうです。日本とドイツの違いは何でしょうか。私は異民族との交流の可能性の違いであると思います。異民族との交流が少ない日本では、英語習得の情熱は生まれにくく、英語教育が会話能力に結びついていないのはある意味で仕方がないのかもしれません。しかし、これから日本にもたくさんの移民がやってくるようになり、そうも言っていられなくなると思います。これまでの英語教育は受験のためのものでした。受験生を差異化するために、文法中心の受験英語が出題されました。今、日本の社会は大きな変化を遂げようとしており、学歴重視の風潮は薄れています。差異化を図る大学受験の弊害がしばしば語られています。しかし、大学入試や英語教育は、まだまだ旧態依然のようです。もちろん、この英語教育システムは社会の変化に伴い、いずれ改変されることだと思います。ただ、現在の若い世代は、今の教育システムで英語を教わり、社会に出た時には日本は移民社会になっているでしょうから、非常に苦労をすることになると思います。こうなると英語教育が不完全であることは、国家レベルでの危機になると思います。私は一刻も早く英語教育を改善して欲しいと思います。そして、英語の必要性や有効性を訴えるような授業が必要なのではないかと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生に初めてお会いしたとき、この授業は自分の求めていた授業そのものだと感じました。そして、勉強を進めているうちに今までの英語学習がなんとも心もとない物だとわかり、もし先生にお会いできていなかったらと思うとぞっとしてしまいます。
 先生の授業では多くのことを学ぶことができました。まず、自分がいかに日本文化について無知であるかが分かりました。今の日本では、日本的なものが悪く言われすぎている気がします。このような風潮の中では、なかなか日本のいい面が分からなかったと思います。先生の授業を通して日本のことをもっと学んでいこうと思いました。私は二年生時の夏休みに米国に行ってきましたが、日本のことをもっと学ばなければならないということが身をもって分かりました。
 第二に、英語は表現方法よりも内容の方が大切であるということがわかりました。先生は外国人の疑問100をやる時に、英文の細かい間違いよりも説得力の有無を重視しておられました。このように授業を進めてくれる先生は今までにはいませんでした。今までの先生方は、文法や単語の間違いにとても厳しかったのを覚えています。しかし、私は内容がなければいくら表現方法がしっかりしていても駄目なのではないかと思っていました。先生の授業でこの考え方は間違っていないと再確認できました。
 第三に、受験英語で習ってきた表現が必ずしも正しくないことが分かりました。これまで習った表現では、思わぬ誤解を与えてしまうことや、全く伝わらないことが分かりました。今までは、習ったことが必ずしも正しくないとはまさか思っていませんでしたから、先生の授業を受けて、これまでに習った英語表現をもう一度捉え直さなければならないと思いました。
 先生の授業は大学に入ってからの二年間で、一番刺激的で面白いものでした。毎回楽しみにしていました。二回ほど欠席してしまったと思うのですがそのことが残念で悔やまれます。また、これで先生の授業を受けられなくなると思うと非常に残念ですが、これからは自分の力で勉強を続けていこうと思います。最後になりましたが、山岸先生一年間どうもありがとうございました。(男子学生)
過去の英語学習に思うこと わたしが英語教育を受け始めたのは中学校からでした。私が通っていた学校が私立だったこともあって1週間の英語に割く授業数も多くとても厳しいものでした。内訳は文法の授業、読解の授業、外国人教師を介したヒアリングの授業、そして隔週で英語の試験がありました。確かに講義数自体は多く充実していると思っていましたが、ヒアリングの授業以外は、単語を教科書のまま覚えたり、英語でかかれた文章を訳したりしただけでした。山岸先生が授業でおっしゃていたような欧米諸国の人たちのこの言語を使うバックボーンや、日本人の事をより知ると言うところまで学ぶことができなかったと今から考えれば思います。ですから、今の英語ができなくてはだめだと言う風潮に惑わされず、相手の事を知り、日本人の事をより知っていくことが大切だと思いました。
  この授業で学んだこと   一番印象に残ったのが、英語の文法ではなくて何を伝えたいのか、それを伝えようという姿勢です。今まで受けてきた英語の試験では3単元のSがないなど些細なミスで減点方式してきました。しかし、それが重要ではないことを痛感しました。確かに、日本人でありながら自国の文化のことを知らなければ他国からも尊敬されませんし、また異文化交流もできるはずがありません。異文化交流、つまり外国人と接触を持つということは自国の文化を伝えて相手方と同じ認識に近づけた上で初めて成り立つことだと思います。他に、自分で外国人からの質問に考えて英語にして発表することは、文章にする力やどうやったら相手を説得できるのかを考えるよいきっかけにもなりました。これからはより英語を使わなければならない機会も増えるでしょうし、そのときにはこの授業で学んできたことを思い出しながら勉強していこうと思いました。最後に、Noblesse Oblige―社会的地位ある者は、責任ある、この言葉を肝に銘じて行きたいと思います。(男子学生)

過去の英語学習に思う  今まで習ってきた英語は、日本の中での英語であった気がする。それは英語圏の人と会話をするためではなく、テストで点数を取るための文法や単語で暗記科目と いう色が濃かった気がする。もし実用を目的とするなら、英語圏の文化も学ぶ必 要があったのではないか。英語を使うということは、英語圏文化の土俵に上がるわけだから、まず最初にその土俵について知っておく必要があったと思う。しかし今までの英語授業ではそこには触れず、ただひたすら形にばかりこだわった授業だった気がする。確かにそのおかげで文法などのしっかりしたきれいな英語を身につけられた が、 本当に大事な自分の意思を正確に伝えるという面では不充分なところがあったと 思 う。これまで習ってきた英語授業に日本と英語圏の文化の違いを盛り込むことで 、今 までのただの暗記科目がもっとわかりやすく楽しい授業になるのではないかと思 う。
 この授業で学んだこと  この授業では英語の文法や単語を多く学んだわけではなく、もっと根本的な本来知っておかなくてはならないはずの日本と英語圏の文化の違いを学ぶことができた。特に知っているはずの日本文化について本当は無知だったことを知ることができ、普段考えることが無いようなことまで考える良い機会となった。日本で使っている表現方法をそのまま英語に訳しても意味が全く違ってしまったり、時には無意識のうちに失礼なことを言ってしまっていることがあるということを知った。このよ うな すれ違いは日本と英語圏の大きな文化の違いから来ているものだと気づかされ、英語を学ぶ上でこれはとても大事なことだと学んだ。言葉は常に受け取る側にどう伝わるかを考え、英語の場合受け取る人は英語圏に住む人の場合が多いので、その人達の文化を良く知り、どう受け取られるのかも考えなくてはならないことを感じた。言葉の目的は自分の意思を正確に相手に伝えることなので、そのためには細かい文法だけでなく、互いの文化の違いを知っておく必要があり、その重要性を学ぶことができて良かった。また日本には多くの独特の風習や習慣があるが、その意味を、自分も含め日本人は知らず、自国への興味が薄いと痛感させられた。 (男子学生)             
過去の英語学習に思う 私は中・高・大と8年間英語を学んできました。最初はすすんで学んでいたというよりは学ばされていたという感じでした。その8年間という、けっして短くはない英語学習のなかで、最も印象に残っている先生の授業は今でも非常にためになっていると思います。その授業では毎回英語でエッセイを書くという授業でした。内容は何でもよかったし、文法も重要視しない、普段あった事などを日記のように書いて、みんなが発表するという授業でした。その頃の私にとって英語は外国の言葉でしかなく、ちっとも面白みがなかったのですが、自分の身近に起こったことなどを英語で表現していくうちにだんだん英語に興味が出てきました。文法力という点では上達しない授業でしたが、英語を身近に感じることができたという点ですばらしい授業だったと思います。
 この授業から学んだこと 山岸先生の授業を1年間履修し、学んだことはたくさんあります。さまざまな英語でのいいまわし、教科書には出てこない日常生活の中で欧米人たちが用いる日常語、欧米人のものの考え方など本当に多くのことを学びました。しかし、その中でも印象に残ったことは日本の文化・慣習についてです。英語の授業を履修していながらこの二つが授業の中で最も印象に残ったというと少し失礼に当たるかと思いますが、正直なところこの二つが私にとって最も印象に残っています。普段は気にすることもなくやり過ごしているものばかりだったのですが、あらためて外国人からの質問の答えとしてそれらを考えようとしたとき、あまりに何も知らないことに気が付きました。私たちのものの考え方の根底には農耕民族だったことが大きく根付いていること、これによって欧米人とは相互に理解しがたいものが現在になってもあるということ。日本人がどんなに西洋化されたとしても根底が異なる限り完璧に西洋化されることはないと思うし、そうなる必要もないと思いました。日本の慣習にはすばらしい面が多くあるのだなとこの授業を通じて気づき、それらを残していくことによって日本のすばらしい面を外国人にも評価してもらえればいいなと思いました。日本人が欧米にあこがれたように、欧米だけでなく世界のさまざまな人たちが日本に興味を持っている今、日本人である私たちがまず自国の文化をしっかり知る必要があると思いました。(女子学生)

過去の英語学習に思う  中学や高校の頃には、英語教育についてなど、考えたことは全くなかった。ただ 単に、授業をうけ、テストを受けて、という繰り返しだったように思う。しかし 、 それが、全くの間違い、無意味などとは思っていない。一度、英語暗唱大会に出場したことがあるのだが、そのとき初めて語学の楽しさというものを肌で感じた。 大勢の人前で自分一人で話をする、という経験もそのときが初めてであった。今でもあのときの緊張した雰囲気はよく覚えている。語学がその国の文化そのものだ、ということを私は痛感した。 高校のころから英語は私の得意科目としてテストなどでは役に立ってくれた。浪人中には自分でも驚くほどの長文を読んだが、国語力、つまり、自分の日本語の能力を超える英語は決して身につけることはできないことを知り、まずは日本語能力を鍛える、というのが私のすべきことだとわかった。
 この授業から学んだこと  高校、浪人と英語を学んできて、自分に今足りないものは、英語においてだけな ら、リスニング、つまり、聞き取る力だけであると思っていた。しかし、この授業で多くのことを学んで、今までの考え方が一掃された。確かに、読む、聞く、 書く、ということも重要ではあるが、もっと大切なことは、その国各々の言語の中に、その国の文化があることを理解しなければならないということである。こ の授業では日本語と英語圏との文化の違いを学んだが、一番印象に残っているの は、やはり、辞書では日本語と英語、同一であるとされるが、その捉え方が、全 く異なる、ということである。modestと謙虚、sincereと誠意、などなど、私には驚きの連続であった。それと同時に、先はまだまだ遠いと思う自分もいたのであるが。その国の言語の中に、文化を知ることは、自分自身のため、ということはもちろんではあるが、それ以上に、その国の人々との間で、混乱を防ぐという 点で重要であると考えられる。自分が正しいと思って言ったこと、したことでも 、その国の人々にとっては失礼に当たることも多いのである。おそらくこれは日本にいるだけでは到底経験できないことであるので英語圏に住むことが一番の近道であるだろう。そこで失敗を繰り返して徐々に本当の意味での英語を身に付けていけるのだと思う。 もうひとつこの授業で得たものは、多くの知識と、知識の必要性である。この授業は英語の授業というよりは、国語の授業を受けているような気さえした。これから私たちが生きていくうえで、知識の豊富さがひとつの武器になることを改めて痛感した。 (男子学生)

過去の英語学習に思う 中学、高校と、英語はどちらかと言えば苦手な科目だった。特にスピーキング、ヒアリングが駄目で、上達したいという気持ちとは裏腹に、なるべく英語に触れないように生活していた気がする。しかし、大学に入り、周囲で留学する人が出たり、海外旅行に行ったりするうちに、英語がコミュニケーションの手段であったことを思い出した。英語はただ、勉強するものではなかった。退屈な授業や受験生活で、そんな大事なことを忘れてしまっていたことが腹立たしかった。確かに文法は大切で、過去に習った規則や単語が、今の英語力に貢献していることは言うまでもない。しかし、そういう勉強ばかりしていると英語の楽しさを見失ってしまう気がする。それでは意味がない。英語は、勉強し使うこと、つまり他国の人と喜びや悲しみを分かち合うこと、またその国の文化を知ることによって意味を持つ。今までの英語教育はそういう大切なことを教えてくれなかった気がする。
 この授業から学んだこと 山岸先生の授業で得たもの、それは、「自国を知る」ということであった。英語を勉強する時、そこに英語を話す人間の存在を忘れてはならない。日本には日本の文化があり、他国には他国の文化がある。その違いは、思いのほか大きく、些細なことでも意識しないでいると多くの誤解を生んでしまう。たとえ英語がうまく話せたとしても、そのままでは、本当の交流は出来ない。それを克服しようというとき、私たちは、日本を蔑み、他国(主に西洋諸国)を正しいとしがちだ。しかし、ここで考えなくてはいけない。私たちは、本当に日本という国について知っているのだろうか。応えは、NOだった。日本人であるが故に、当たり前に行ってきたこと、その理由については深く知ることがない。この授業を受けて、これほど自分が日本について知らないものか、と驚きを隠せなかった。他国の文化を知る前に、私たちはまず、自国について知らなければいけないだろう。今の英語教育には、それが欠けている。日本人は自国愛が足りないと言われるのも、そのせいではないかと思う。日本は素晴らしい伝統と精神をもった国だった。何よりもまず、それを実感することが出来てよかった。久々に日本人であることに誇りを覚えた。思えば4月、英語の授業なのに、と少し戸惑ったことも事実である。しかし、それを覆すほど素晴らしい授業を私は受けることが出来た。それを有難く思うとともに、そんな授業を何十年も続けている山岸先生に感謝したいと思う。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私が山岸先生の講義を受ける以前に、英語に触れ、学ぶ機会は何処であったかを 辿れば、中学校における英語学習、進学塾での高校受験に備えるための英語学習 、合格した高校における英語の授業でした。そのどれにも共通している学習内容 というのは「文法を身に付ける、単語を覚える」ことでした。今まではそのよう な日本の英語教育に何の疑問も持ちませんでしたが、山岸先生の一年間の講義の後、果たして現在の日本の英語教育のシステムは本当の意味で「英語を学習した こと」ことになるのかと考えるようになりました。結論から言えば、私は日本語が母国語となる日本という国で、欧米の言語である英語を学ぶわけですから、文法や単語だけでなく、日本と欧米の相互の文化を理解すべきだと思います。自国 である日本の文化・慣習、それを築き上げた日本語の語源の意味を完全に理解し ていない早期の段階で、現在の安易な方法で英語に触れることは賢明ではないで しょう。
 この授業で学んだこと 私が山岸先生の授業を通して学んだことは、英語という言語を学ぶ上でその言葉が発生した土地に住む人々の文化・慣習を学ばなければ決して身につくことはないということです。つまり欧米人の文化的背景をよく熟知する必要があることに気づきました。そして、日本語の語源から理解する日本古来の文化・慣習、それを知った上で臨む英語という言語の学習が本当の意味での語学授業であることを知りました(特にanimismという日本人古来の考え方を知ったときは、感銘を受けました)。山岸勝榮先生の講義は単に英語を学ぶだけではなく、欧米人の文化・ 慣習、そして私達日本人の文化・慣習、さらには古語としての日本語の語源などを知ることができて、様々な分野、多岐に渡る先生御自身の知識と私達が積極的に講義に参加することにより、作りあげられていました。講義の進行内容においては、外国人が抱く、私達日本人の言動・行動についての疑問を、私達自身が相互の文化的背景を考慮に入れつつ、外国人の方々に納得していただけるように英語で説明できる力を養うという、画期的といっても過言ではないものでした。私は山岸勝榮先生の有意義かつ新鮮な講義をとることができて本当によかったと思 っています。また先生の講義に望まれる態度も一塾生として尊敬できるものでありました。しかし私がこの講義の不満点は何かを考えたとき、正直言って、現時点では見当たりません。最後になりますが、この一年間本当にご指導のほど有難 うございました。(男子学生)

●過去の英語学習に思う 僕が今まで受けてきた英語教育には、学校の授業に限れば教科書を訳していく普通の授業、外国人との授業、オーラルコミュニケーションの授業などがありました。これらの教育を通してきて、得るものはそれぞれにありこそすれ、充実して身に付いたかといえば全くもって中途半端です。しかしこれが、現在一部で唱えられているように英語教育を小学校から取り入れていけばよいかといえば甚だ疑問です。義務教育のような普遍的な教育の場に英語を取り入れるならば、その前に国語や、言語に対する文化的な教養を前提としてしっかり身につけさせる必要があると思います。ただそれは、他の教育改革と同じくシステムだけではなく教える側、即ち教師をまず育てる必要があるという点で困難な道には違いないと思います。
 この授業で学んだこと 僕がこの授業を選んだのは、履修案内に日本文化と英語圏文化を比較する形が示唆されていたからです。僕は日本文化については一般の大学生よりも知識が深いと自負しており、言語に潜む文化の相違点を探っていくというプロセスは、異文化から見た日本文化という海外旅行をしたことのない自分にとって新しい切り口を見せてくれるだろうと思いました。そしてこの授業は、僕の期待を裏切らず、自分が日本人であるが故に気付くことのできなかった文化的特徴や考え方、信仰、生活慣習などを教えてくれました。また、それは英語圏人にとっても同じことであり、互いに互いの文化を深く知るためにまず自分と自分の暮らす文化を見つめ、それを的確に相手に伝えることの必要性を知りました。これからはグローバルであったり異文化交流の時代であったりと世間では囁かれていますが、実際にそのような時代を迎えるにあたって自分の国や文化を知り、誇り、決して見失わないようにしてはじめて相手の文化を正しく理解することができるのだと考えるに至りました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 自分は内部進学であるから、大学受験も高校受験も経験をしていない。そのため、文法や単語の丸暗記という勉強はしてこなかった。そのため、知っている単語の量は人より少ないだろうし、文法も基本的なことは知っているつもりだがあまり自身がない。このような内部コンプレックスが生まれるのは、大学までの英語教育というものに問題があり、そこから生まれる空気というものがそうさせるのだと思う。確かに、これは自分が文法や単語を知らないという責任によるところも大きい。しかし、このような雰囲気が積極的に英語で話すということを妨害しているような気がする。英語は机の上だけで使うものではなく、表現し相手に伝える必要がある。むしろその方が重要なのではないかと思う。大学に入って、外部から入学した人達と接して感じたことの一つは、外部入学者にプレゼン能力の低い人が多いということだ。文法的に間違っていたとしても相手に伝わればそれでいいということもできる。それゆえ英語教育は文法や単語の知識を付けることとともに、表現できるようにする必要がある。僕は、そういう意味では恵まれた教育環境であったのかもしれない。そしてこの授業を受けて、自分の受けた英語教育も完璧なものとはいえないということを感じた。なぜなら、英語を学ぶうえで自国の文化を学んでいないことから、表面的にしか理解できていなかったことが少なからずあるからである。以上のことを考えると、良い英語教育は、知識、表現力そして言葉の意味を教えている教育だと思う。すなわち英語教育は、幅と高さと奥行きのある三次元的なものであるべきなのではないか。そうであるならば、現在の大学入学前の英語教育はバランスの悪いものいうしかないのではないか。
 この授業で学んだこと この授業で学んだ一番大きなことは、自分が日本人でありながら日本の文化や歴史について無知であったということに気づかされたことであると思う。そして、それは今まで外形だけは知っていたことも、実はそれに含まれる意味についてはほとんどといっていい程考えたことがなかった。一番頭に残っていることは、日本の文化のいたるところで、日本人が農耕民族であったことが影響しているということである。この授業を受けるまではそんなことは考えてもみなかったので、強く印象に残っている。 そして、自分の国の文化を知らないのに外国の言葉すなわち言語文化を学ぼうとしても、本当の理解をすることはできないと感じた。言語文化というものは、その地域の生活に密着して形成されるものである。それゆえに、日本語といっても日本列島各地域でそれぞれの特徴があるのである。しかも、今自分達が接している日本語は、略されていたり元の意味とは異なる使われ方をしていたり、現代的変容をしたものが数多い。特に現代の風潮としては、言葉の外面が掬われて利用されたり、言葉の響きだけで利用されていると考えられる。このことから言えることは、自分の住む世界でただ漠然と生活しているだけでは、日本に生活していながら日本の文化を知ることはできないということだ。現代的変容を遂げた日本語が悪いとは思わないが、日本人としては日本文化を知る使命があるはずだ。だから、年配の方と話をしてみたり、本を開いてみたり、普段の生活から一歩踏み出してみることが必要だと感じた。 英語について学んだこともあったが、この授業で学んだ一番のことは、やはり日本人としての自覚だとおもう。(男子学生)

過去の英語学習に思う  僕が英語を勉強し始めたのは中学校からだが、その時の授業は文法中心のものだっ た。そして、テストでは英文和訳や和文英訳が中心のものだった。この英語教育には、悪い点とよい点とがあると思う。まず、あまり使わないような英語が多く、 なかなかそれを使って英語を話せるようにはならないのではないかと思う。また、テストでの減点方式も自信を失う人もいるのでよくないと思う。しかし、文法を重視すること自体は意外と重要である。細かい文法をきちんと学んでいけば、自分の表現したいことが正確に表現できるようになる。もっとも、文法と同じぐらいに会話も重要であ るが。いずれにせよ、自分に必要な能力は何か、自分にはどの英語の能力が足り ないのかを考えて学んでいくことが大切だと思った。
 この授業で学んだこと  この授業は今までの英語の授業とは全く違っていた。まず、日本文化・風習に 関する外国人の質問に答えることを課題として扱った。それによって、自分たち日本人が どれだけ日本の文化を理解していないかが明らかになった。そして、日本の文化 と西 洋の文化を比較していくうちに、日本文化の中には、疑問に思うようなものもあ る が、誇るべきものもあるということがわかった。それらをきちんと理解して、日本の国に対して自信を深めていくことが重要であり、そうしないとコンプレックスを 感じ るだけである。  さらに授業では、教科書の日本人の英語表現を先生が訂正していった。そして、そ の理由を理解していく中で、日本人と外国人はものの感じ方が全く違うというこ とを 理解できた。 2つの課題を通して分かったことは、私たちは英語表現のうらにある外国人の もの の考え方、文化を理解していかないと、本当の意味で英語を習得することはでき ないということだった。これからはそのようなことを意識して英語を学んでいきたいと思った。 (男子学生)

過去の英語学習に思う 過去の英語教育で、自分は英語をその本質から学べなかったのではないか。今そう感じている。高校までの6年間、私はしっかりと英語を勉強してきた。先生の指示通り文法を学び、辞書をひきながら一生懸命単語を覚えてきた。しかし、英語をその本質から習得することはできていなかった。例えば“modest”、今までなら“謙遜した”と訳して終わりだった。しかし、英語の“modest”と日本語の“謙遜した”とでは全く意味が異なっていた。“modest”は過不足なく自分を表すことを意味し、決して自分を過小評価してはならない。それに対し“謙遜した”は自分が相手より劣っていると自分を見せることを意味し、自分を過小評価することを当然の意味とするという。山岸先生の講義でこう教わるまで、私は6年間この違いを無視し続けていたのである。過去の英語教育で英語の表面的なことは習得できたと思う。しかしこのように英語を本質から学ぶことは決して出来なかった。21世紀、日本人である私たちも世界に飛び出す機会がますます増え、英語を使う必要性もさらに高まっていくだろう。そんな中で英語をその本質からしっかり理解し、正確に使えることがどんなに重要だろうか。ますます国際化する未来に対応すべく、高校まででも英語の本質的部分を教える必要があるのではないか、今過去の英語教育を振り返るにあたってそう感じている。(男子学生)
 この授業で学んだこと 「法律を学ぶにあたっては、ただ条文を覚えるだけではだめだ。その言葉の裏にある人々の思い、生活を理解すること。そして人に幸せをもたらすこと、これこそが法を学ぶ意義である。」 山岸先生がおっしゃたこの一言、私は決して忘れることが出来ない。私は、弁護士になりたい。この思いから、大学に入ると法律の勉強を始めた。勉強の始めの頃はどれも新鮮に感じ、法律を学ぶことが楽しくてしょうがなかった。しかし、時間の経過とともにその莫大な量、同じことの繰り返しという単調さから退屈を感じるようになってしまった。自分には法律は向いていないのかと考えてしまうこともあった。そんな時に、山岸先生の講義で前述の話を耳にした。自分の頭の中にあったモヤモヤが一気に吹き飛ぶかのようだった。法律を学ぶこと、それは人々の生活を学ぶことであり、決して無味乾燥なものではないと考えられようになったし、人々を幸せにできる手段を学べる自分は何て恵まれているのだろうかとさえ思えるようになった。山岸先生の講義からは、一年を通し本当に多くのことを学んだ。英語を本質から学ぶとはどういうことなのかを初めて知ったし、日本人でありながら、自国の文化を知らな過ぎる自分がいることにも気づかされた。論理的に人を説得すること、このことの重要性を再確認させられる場所でもあった。ただ、山岸先生の講義から学んだ最も大きなことは、先生が何気なくおっしゃった、法を学ぶことの「本当」の意義ではないかと思う。(男子学生)

●過去の英語学習に思う  山岸先生は講義でよく日本の英語教育の問題点について話してくださいました。別の英語の講義の先生も「日本の英語教育は間違っている」と声高に叫んでおられます。お二人の先生のおっしゃることを1年間聞いてきて、日本の英語教育の問題点がいくつか見えた気がしました。実際に私が中学校・高校とで受けてきた英語教育を振り返っても、果たして本当に身についていたのか疑問です。中学時代は受験のための単語力をつけ、文法や英文書き換え問題などをまるで数学の公式のように暗記しました。大学付属高校では教科書を1ページ目から順々にひたすら日本語へ訳すだけという単調な、果たして授業といえるのかも疑問な授業が続きました。他言語の文法を学ぶことは大切なことだと思います。しかし日本の英語教育はその1点に集中し過ぎているのではないかと思います。中学では文法を徹底して学び、高校からは山岸先生の授業のように文化観を取り込んだ授業が増えればよいと思います。
 この授業から学んだこと  講義要綱を開き「外国人の質問に答えよう」の文を読んだ瞬間、この講義をとろうと決めました。例として載っていた「日本人はなぜ酔っ払いに対して寛大なのか」という質問に答えられなかったからです。さらに、なぜこのような質問が外国人から発せられるかも疑問でした。それほどに私は外国の文化に対して、母国である日本の文化に対しての知識がなかったのです。
 1年間山岸先生の講義を聞き、皆の発表や発言を聞き、自らも積極的に発言することで日本の文化を少し学ぶことができたと思っています。しかしこれだけではうわべだけの知識でしかないのではないかという危惧があります。上記の質問に対して、日本人にとっての酒とは何か、は授業で先生や皆の話から得た知識から、なんとか外国人に納得してもらえるような回答をすることはできると思います。しかし果たしてそれだけで満足してよいのでしょうか。私は満足できません。もっと深く自分の生まれ育った国の文化について、自ら学びたいと強く思うようになりました。私は山岸先生の授業がきっかけで、自国の文化を知ることがどれほど大切なことなのかを学び、知るためには積極的に学ぶ姿勢が必要であることを学びました。1年間、ありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 一年間の山岸先生の授業を通して、改めて日本の英語教育における問題点を考えさせられた。過去の英語教育についてなど、この英語の授業を履修しなければ考えなかったと思う。辞書に載っているイディオムや、英語の教師が強調している文法、そこそこの語彙力、これらの項目をできるだけ暗記しておけば、受験における英語はたいていクリアできてしまう。このため、日本人のほとんどは英語の文章は書く力があっても、聞く力、話す力がないという結果になってしまった。私も、8年間英語を勉強しておきながら、今になっても英語でまともな日常会話ができない。これが日本における英語教育の悲しい現実だ。さらに山岸先生の教科書から学んだように、私たちが今まで英語教師から学んできた事にはいくらかの間違いがあり,その間違いをきっとこの先多くの日本人がきづかずに通り過ぎていってしまうのだろう。この改善がなされない所が問題点だと思う。私はできる限り、山岸先生から学んだ間違った英語について周りの人々に教えてあげたいと思う。

 この授業で学んだこと 私の祖父の名前は勝榮という。名前が同じという理由だけで、私は山岸先生の授業を履修した。しかし、今ではこの偶然がとてもありがたいことだと思っている。なぜなら、こんなに深く日本文化について,日本人の起源について、日本の英語教育について、日本人の間違った英語ついて、その他色々な項目を学ぶ事ができたからだ。まだまだ浅い知識だが、日本の文化について詳しくなったことが誇らしい。両親に「なぜ、皇室が公共の場で洋服を着るのか」などの質問をしても、「知らない」と答えられた。やはり、先生の英語の授業は、ふとした日常の一場面で生きてくることを学ばせてくれた。今の私になら、胸をはって英語圏の人たちに日本人の良い所を話せるように思う。こんな自信や、すばらしい知識を与えてくださった山岸先生に大変感謝しています。ほんとうにありがとうございました。

 先生の睡眠時間がもう少し多くなり、事故の回数が減る事、奥様とこの先も仲良くあること、その他にも色々ありますが、とにかく先生がこの先もこのような英語の授業を続けていってくださることを願っています。この授業でとったノートは、きっとこの先役に立つので大事に保管しておこうと思います。本当にありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 日本の英語教育はしばし批判の対象になることが多い。なぜか?それは事実として日本人はみな英語が話せないからである。文法のつめこみ型教育では実用的な英語を使いこなすことはできない。日本の英語教育は悪い。その原因の一つに受験制度があると思う。中高教育における英語の最終的な目標としては入学試験でしかない。そこが問題である。確かに入試が文法重視の筆記試験であれば、それに準じた教育になるのもいたしかたない気がする。もし入学試験が英語によるカンヴァセイションであれば、英語教育も会話重視に必然とかわっていくだろう。大きな原因はここにあると私は思う。ということは英語教育が悪いのではなく、システムが、つまり受験制度が英語にとっては悪いのだ。私は受験制度自体は悪いとは思わない。はるか昔から科挙などの試験はある。能力を測るには試験とは良い手段だ。ただ、語学とは筆記と実用とに距離があり試験に馴染まない。なのに英語教育の目的となってしまう入試が筆記の形態を採ってしまっているので、実用的な英語教育が行われないのだ。英語教育を変えるためには、教育のシステム自体を変えねばならないだろう。しかし英語の受験システムを変えるということは大変なことで、英語教育を変えるために、受験制度を変え、そのためにさらに保守的な日本も変えねばならないだろう。しかし教育とは与える側とそれを受ける側により構成されており、一概に与える側だけが悪いとはいえないのではないだろうか。受ける側の意識というものも高くなければ教育は成立しない。日本の英語教育にも良い点はあり、それは書くという面では優れている。文法を正確に把握していれば、リスニングやスピーキングの向上も早いはず。日本人はもともと、とりわけ英語に馴染まないのであるから、それを使いこなすようにするためにはその勉強時間も多大でなければならない。学校の勉強をしたのに話せるようにならない、だから英語教育が悪いというのは違う。英語教育の改革の他、個人個人の意識改革も必要だ。
 この授業で学んだこと 「農耕民族」このキーワードは私にとって一つの答えとなりました。なぜ日本人は消極的なのか、なぜ人を思いやる気持ちが強いのか?逆にいうとなぜ外国の人はあのように積極的なのか、そしてわがままなのか?その答が「農耕民族」というキーワードにあり、先生から教わった一番のことです。全体の中にいると、全体の事を考えてしまう。輪を乱さず穏やかに事が過ぎるのを待つ。なぜ日本人は、というよりも自分はそういう人間なのか、やや自虐的に自分を観察している時期がありました。しかし農耕民族であった日本人においてはそれが当たり前の事であり、昔から備えている特質だという事を学び、とても楽な気持ちになりました。なにか自分の中で漠然とアメリカが一番だという固定観念ができてしまい、積極性・明るさ・個性の強さ、そんなものがいつのまにか見えないプレッシャーとなっていました。しかし、それぞれの国にはそれぞれの文化があり、そこに至る過程が存在する。そしてそれが良くも悪くも特徴と今は思えます。
80年代後半のバブル期、世界は日本の年功序列を賛美したはず。しかし今はアメリカの実力主義の波が押し寄せ、あたかもアメリカ型が一番であるかのようになってきています。しかしそれは今のアメリカ経済が成功していることが裏付けになっているにすぎないでしょう。絶対的なものなどこの世にはなく、何がベストなものかはその時々に変わるもの。では何が大事か、それは常に探究の目を持ち接すること。実力主義にしろ年功序列にしろ、それぞれ長所と短所を持つ。両者を見比べながら最高のシステムを追っていくことが必要なのではないでしょうか。
 思うに真実の探究というのは法律の勉強そのものです。法律は世に定義を付けていかなければなりません。であるかしてそれは真実でなければならない、できる限り真実に近付けなくてはならない。物事を平面ではなく多角的に捉え、多説を考慮し、全てに矛盾のないように結論をだしていく。常に真実を探究しなければならない、それが法律です。何があってもそこでくよくよしているのではなく、前に進まなくてはいけない。法律はとてもいい勉強だと思います。私は非個性的・消極性・協調性が好きです。プレッシャーだった事も、これからはこれらのすばらしいところを強調していきたいと思います。(男子学生)

過去の英語学習に思う  高校まで6年間公立校で英語教育を受けてきた立場として言わせてもらう。週にあれだけ時間をかけた時間のほとんどが無駄とまでは言わないが、自分の将来に有 益な ものといいがたいこと、間違った事を覚え大切なことを教わってはこなかったこ とを 残念に思う。 とはいえ、私は先生方を責める気にもなれない。思い返してみると私は英語の授業は好きだった。中には嫌いな先生もいたけれど、どの先生も生徒に教える気力と いう かその情熱は本物だったと思う。むしろ、受験を控えた学年になると私達生徒は授業を聞かずに受験問題を隠れて必死に解いていたりしていたこと(生徒間でこれを内職 と呼んでいたが)に関しては申し訳なく思うのだ。大学受験英語に関して言えば、例えば英作文なら古めかしい構文の使用を強制することが暗示された問題ばかりやっていた。単語帳の単語をその背景にある文化など考えもせずただそこに書かれた意味をひたすら覚えていた。確かにそれはそれで長文など読めるようにはなったけれど、今の自分に生かされてる、英語の力として残っている部分は時間をかけた割に本当に少ない。英語教育のあり方はずっと問われてきたはずなのに、なぜ一向に変わらないのだろう。この教育を根本から覆すだけの材料は山岸先生のご指摘だけでも揃っているはずなのに何とかならないものかと思わずにはいられない。
 この授業で学んだこと  先輩に薦められて履修した山岸先生の授業、その内容の濃さは想像以上だった 。毎 回が新鮮で楽しくて、いい意味で裏切られたというのが率直な感想だ。 第一に、自分も含め多くの日本人が自国である日本の文化・歴史をいかに認識できていないかを痛感した。例えば、前期私は座布団の作法についての外国人の疑問 〜日 本人はなぜ座布団を勧める時二つ折りにするのか〜について調べたのだが、その理由 を調べる前に私はそのような作法があることすら知らなかった。また、その疑問の答えが母や祖母に聞いても本を調べてもなかなか分からず片っ端から座布団取り扱い会社や作法教室などにメールで尋ねたのだが、殆どそのようなことは存じませんと いう 回答であった(辛うじて答えに結びつくヒントが書かれた1通を受け取り答えに辿り着けたが)。意味のある、貴重な文化や伝統が意識されることなく消えていくこ と、 日本人の日本への関心が薄れていくこと、こんなに淋しいことはない。また、英語を学ぶ者として、英語圏の文化(キリスト教の教えなど)に対しても関心をもち慎重でなければ言いたいことも伝わらないし、英語圏の人の言いたいことも 分からないということを改めて考えさせられた。今までいかに英語の表面部分だけしかみてこなかったか、裏側をみようと努力しなかったかを反省した。山岸先生、1年間どうもありがとうございました。先生の熱い訴え・ご指導が 、こ れからも他の生徒・先生を始めたくさんの人に伝わっていくのが楽しみです。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私は小学2年生・3年生の間、父の仕事の関係でインドに住んでいました。通っていたのは日本人学校だったのですが、英語が科目にありました。その授業はコミュニケーション重視で単語テストも期末テストもなかったので、授業で覚えた表現をメイドに話して、「通じた!」と喜んだりする程度でした。その頃、英語は楽しいツールと思っていました。しかしその後、日本でも中学から英語が科目に加わり、そして受験などで英語を学ぶにつれ私は英語に対して徐々に拒否反応を持つようになりました。膨大にある単語、細かい文法、実際に使えるというよりテストのための英語は楽しいツールではなくなってしまいました。もちろん単語を知らなくては何にも始まらないし、最低限の文法は知っておくべきなのでしょう。しかし、そうしたものがメインとなった学習は私にとっては苦手意識を芽生えさせるきっかけとなりました。英語教育をうけて8年が経ちますが私は自分が8歳以下の外国人の子供と同じレベルにすらいないのではないかと思わずにはいられません。
 この授業で学んだこと  山岸先生の授業は今までの英語の授業とは全く違った側面から英語を教えてくだ さいました。私はネイティブの人に自分の英語がどうとられるか、ということを考えたことはありませんでした。言 いたいことを日本語で考え、その日 本語と合致する(と思い込んでいる)英単語を並べて言えばよいと思っていまし た。日本的思考をそのまま辞書的意 味だけから見た英語に直していたらひどい誤解が生じてしまうということは今の 私にはわかります。英語を学ぶ際に本来の英語圏の人達のもとにある俗にいう生きた英語から離れていた自分に改め て気付きました。授業で学んだこと は本当に沢山あります。この授業のノートは自分が内容を完璧に使いこなせるまで永久保存します。その中でも特に 、単語には辞書的意味と文化的意味があるということ、英語国との文化の違いを見つめること、この二つが自分の中に大きく残っています。 (女子学生)

過去の英語学習に思う 私が大学に入るまでに学んできた英語は、いわゆる“受験のための”英語であり、詰め込みがたの学習であった。私はそれ自体悪いことではないと思っている。大学に受け入れられる人数に制限があるとしたら人数をしぼるために試験という手段を選ばざるを得ないであろうし、そうなればその試験に受かるための対策を学校や学習塾が行うのは当然であろう。私が問題にしたいのはその教え方である。あるときまで私は、私の習っている英語が何の役に立つのかわからないまま勉強していた。これは、日本がこれまでに作り上げてきた英語教育体制自体に問題があるのであって、個々の指導者に責任を問うべき問題ではない。ただ、その教えている内容自体が、日本語とのギャップを含んでおり、今では口語的には使われていないようなものもあることをはっきり明言した上で、教育すればいいのである。高校時代、ある英語の先生にこういわれた。「今、君たちが勉強している英語は会話のための英語ではない。英語で話せるようになりたいのであれば1年間外国に留学すればよい。そのほうがここでの何年分の授業よりよっぽど有効だし、よほど身になるであろう。なら今きみたちが勉強している英語は何なのか。それは、言ってしまえば受験のための英語だし、覚えた例文が会話として自然だとは正直思わない。しかし、多分君たちが大学に入って本気で学問を志し、原書で専門的な本を読まねばならなくなったときにきっと役に立つであろう英語である。これは外国に1年間留学すれば必ず手に入るものではない。こうやっていくつもの構文を学習し、数え切れないくらいの文章に触れ合ってはじめて手に入れられる技術である」この言葉を聞いたとき、長年私の胸につかえていた、こんな英語を勉強したところでなんになるのだろうという疑問は多少なりとも解消した。大切なのは、目的なのである。多くの学生は学校で習っている英語をマスターすれば自由に会話できるようになると信じている。学校で習っていることは会話のための英語ではないと理解し、文章を読解するためのスキルを今勉強しているのだと理解することが重要なのである。会話はその後でも遅くないと私は思うし、それまでの土台があれば、比較的容易に体得することができるだろう。 
 この授業で学んだこと 私はこれまで、私が今まで習ってきた英語は母国語を英語とする人々に通じると思っていた。少なくとも、自然ではないかもしれないが、私の意味するところは伝わるであろうと信じていた。しかし、山岸先生の授業を受けて、それは大きな間違いであることに気づいた。冷静に考えれば、そもそも言語で伝えられることには限界があるし、ましてやまったく違う国で違った背景を元に作られた言語をそのまま日本語訳できるはずがないということに気づきそうなものだが、英語を決まった構文に当てはめて、日本語に訳したり、逆に日本語を英語に訳したりしているうちに、一つ一つの言葉に込められた意味やその背景に鈍感になっていた。何気なく使っていたkindやmodestといった言葉に、今まで習ってきた日本語訳と大きく違った意味があることを知り、驚くとともに、今まで(少人数ではあるが)出会った外国人の人たちに私の英語で不快な思いをさせたのではないかという不安がよぎった。1年間勉強しただけでもその誤解の多さに愕然とさせられた。もちろんそれは日本人の英語だけでなく、ほかの国でも言えることであろう。大事なのは、ただ単語帳で出てきた意味を機械的に暗記するのではなく、その国の文化を理解した上で勉強していくことである。逆にこの授業では、今まで深く考えてこなかった日本の文化についても多くを学ぶことができた。外国人に理解できるように英語で説明を考えるうちに、今まで漠然と理解していたことについても自分なりの確信を得られた。また、他の人たちの考えた解答を聞くことも大変興味深かったし、勉強になった。まだ、今は本当の意味での外国語の学習の入り口に立ったばかりだと思う。これからも折に触れてはこういった形での英語の勉強をしていきたいと思うし、それと同時に自文化についてもより深く勉強して行きたい。この授業を受けてこれまでより英語に興味がもてるようになったし、日本の文化に誇りを持てるようになりました。一年間ありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 受験のための英語を経験していないせいか、中学から始まった私の受けた英語の授業は、どれものびのびと生き生き学習できる環境にあった。だから今の私が、異文化に興味を持ち、それらをより理解するためのツールとして英語を重要視しているのだと思う。中学でも高校でもネイティブの先生が多く、彼らのもとへこぞって話しに行き、その場その場で自分の最大限の単語と会話力を駆使して話すことに充実感を覚えていた。高校では、英語の授業といえばMUN(模擬国連)とプレゼンテーション、という印象である。MUNでは、グループで国を決め、決められたテーマに沿ってResolutionを作成し同意国を求め、と準備に一年間かけた。これが私にとって、また多くの同窓生にとって中高の英語学習の集大成となった。それは会話の即効性、内容の専門性、仕組みの理解、writing hearing、全ての科目の知識、を要したからだ。この活動を通して、私たちがなぜ英語を学んでいるか、という答えにくい問題に直面し、それは公用語である以上、生活する上で必要な一ツールであるからだと実感した。将来日本から一歩も出ないと考えており、他文化にも興味をよせていない、そういう人には英語は必要ない。そうでなければ、極論、外国に行く資格として英語を話す努力をすることが挙げられるのではないだろうか。語学は生活の一ツールであると、これまでの英語授業で強く理解するとともに、山岸先生の授業を受けた後にMUN等を再度してみると、言い回しや他国の根底にあるものをいくらか理解でき、より深い内容になったのではないだろうか、と今思う。
 この授業で学んだこと 一つの国や一つの文化圏で生活する時に、その様式や態度、ものの言いまわし、価値観は、その土地の歴史と宗教に影響されている。これは私が今まで学習したことや、何よりも自分の実生活の中から経験していることである。それらは、日本であれば、万の神を崇める自然信仰、農耕民族に由来する「和」の重視、儒教や島国の影響。一方、英語圏の住人、殊に欧米だと思うが、神と個人(自分)との契約に基づく生活や考え方、自由・平等・民主の重視、といたものである。私たちは相手の国のこれらを理解しないことには、彼らと接触したときに、彼らの言動の根底に何があるかを知ることはできない。「理解する」とは、現地に一定期間住んでみても足らないかもしれないし、それは現地で生まれて現地の暮らしに囲まれて初めてできることだろう。しかし、他文化に興味をよせている私のような学生が、こういった一文化の生活の基盤になっている考えや思想を「知る」ことが、「理解する」ことにつながっていくと実感できた。宗教や信仰は、どの文化圏でも生活の中で重要な部分・基盤を成しており、その思想の一端だけでも知ることは、文化の全体像をイメージ出来たり、生活様式の由来をより深く理解できたりする。「知る」ことで、他文化圏の住人と接触を持ったときにそれは一味も二味も濃い時間になるし、自分としてもより深い内容の会話が出来ることになるだろう。実際に、この授業を受ける前と後に、アメリカ人と話す機会があったが明らかに私の理解度が違った。「そのような宗教観だから、そういった言い回しをするのだろう」と思えるようなときが、授業後には多々あった。身をもって体験できたことは、今後の私にとって重要な糧となっていくだろう。お互いが、言い回しの種類や単語をただ覚えて会話を弾ませるのではなく、その根底にあるものを知る。そうすると、日本人が富士山を特別に想い、学校で友だちと仲良くすることを強調されることの、あるいは、欧米が私たちから見て一人一人が個性的に見えたり、生活のなかで訴訟が多かったりすることの理由が見えてくる。「知る」ことのきっかけを持て、その内容を学ぶことができたのが、山岸先生の英語の授業である。(女子学生) 

過去の英語学習に思う  私は高校2年の夏休みに4週間のホームステイに行きました。 私が行ったのはアメリカ、カリフォルニア州の田舎でした。 ほんとうに温かく親切な人達ばかりでしたが、 そのコミュニケーションの中でなにかのずれを感じました。 私も今でもそのホストファミリーが大好きですが、コミュニケーションのいろいろなことで「あれ?」と思うことや食い違いがあったりして 友達とも不思議だねと話していました。 日本語に訳したら考えられないような優しい温かい 言葉をかけてくれることもあれば、逆に何もしていないのに 怒っているように感じたりすることもあって、 時には不安な気持ちになることもありました。 文化の違いと割り切ってしまえばそれまでなのですが それが何から来るものなのかは私にはわかりませんでした。 それをもっとよく調べて見たいと言う気持ちもあったのですが、 ほどなく受験勉強が始まりました。 生の英語の触れてしまった分、受験勉強はかなり苦痛でした。 日常会話では使われないような難しい単語や熟語を何千も 暗記しました。受験が終わったらあっというまに 忘れていくであろうと容易に想像がつきました。 しかし、私は将来の志望からどうしても偏差値の高い大学に 進みたかったので、ホームステイの時に学んだ英語と、この受験英語は 全く別物と切り離して考える以外に受験を乗り切る道はありませんでした。 どうしてこのような勉強するのかを考えるうちにライバル達にどんどん差をつけられてしまうからです。受験制度にはたくさん疑問があったけれどそれを押し殺して勉強しなければ、結局は自分が損をしてしまうので、仕方なくがむしゃらにいろいろな知識を詰め込みました。 そんな受験を終えて、慶応に入ってめぐりあったのが山岸先生の授業でした。この授業を受けて、ほんとうに 目からうろこが落ちる思いをしました。 あぁ、あのすれ違いはこう言うことだったのかと本当に心から納得できました。もし山岸先生の今してくださっているような内容の知識をもともと私が持っていたならば、 ホームステイの時も表面的な文化だけではなく 内面的なことまでもっとわかりやすく日本の素晴らしさ を伝えられたと思います。それが本当に悔しいです。 私達は確かに英語自体は学んでいましたが、それに基づく文化と言うものはほとんど学ぶ機会がありませんでした。 コンピュータ言語や数学などとは違い、人の生活の中から生まれる以上、言語と文化とは切っても切り離すことが出来ません。なのに、それを切り離してしまったことが日本の英語教育の 良くない点だと思います。私達はアメリカ語、イギリス語を学んでいるようでいて、実はそれに似ているけれども じつは全く別の記号をただ学んでいただけに過ぎないのではないかと思います。 日本人は海外の文化を取り入れて、自分達なりに 工夫することがとても得意な民族なのでそれが逆に よくなかったのだと思います。言語に限っては文化と言う土壌を置き去りにしては行けなかったのです。日本の中で 日本人同士で英語を話すのならそれでも良いかもしれませんが、 英語をツールとして使った時、視野に入ってくるのは、 同じ日本人ではなく、異なる文化圏の人々だからです。 その事をおざなりにしたために、私たちは5年も英語を学んでいたのに、海外で実際に 使う時に、訳のわからない歯がゆい思いや悔しい思いを味わうことがありました。日本の良さをあまり伝えることが出来ませんでした。 このようなことはもったいないことだと思うので、今の教育課程で少しでもこのような文化の差異から起こる様々なことを教える時間が割かれれば、もっといい方向に日本人の学ぶ英語は変わっていくのではないかと思います。
 この授業で学んだこと  初めて山岸先生の授業を受けてしてくださった話を聞いたとき、 私は感動で泣きそうになりました。親の数億ある精子のうちたったひとつ、どの兄弟姉妹よりも優れていてなおかつ運もあった選ばれたものだけが、そのありえない確率を勝ちぬいて、 受精して生まれたのが自分なのだから、簡単に誰かを殺したり自殺したりしてはいけないと言うお話でした。 そのほかにも言語学にとどまらず、歴史の話や、先生の過去の話、日本の文化の話などなど、 山岸先生の雑談はそのどれも深く心に残り考えさせられました。 山岸先生にあって、考え方が変わったことは本当にたくさんあります。 慶応に入って山岸先生ほど真剣に授業をしている先生にはまだ私は出会っていません。本当に素晴らしい先生だと思いました。 真剣に命がけでなにか物事に取り組んでいる人は必ず他の人の心も動かすのだなと思い、私もいろんなことに 真剣に取り組もうと思いました。1年間本当にありがとうございました。 (女子学生)

過去の英語学習に思う  私は、幼い頃より学校以外の場所で、様々なものを習ってきた。英会話もそのうちの一つだ。小学校2年の時から英会話教室に通い始め、アメリカ人の先生に教えていただくなど、日常生活で使う英語を歌やゲームを使って楽しく学んだ。その頃は、毎週英会話教室に行くのがとても楽しみで、英語が大好きだった。そして、中学に入り、学校でも英語教育が始まった。しかし、それまでに5年間も英語をやってきた私は、中学一年の初めに習う英語の基本的なことは分かりきっており、英語の授業を甘く見ていた。そして、ふと気づくといつの間にか英語がよく分からなくなっていた。今まで習ってきた英会話とは全く違う、文法を重視した教育に私は戸惑った。普通に読めば分かる文でも“これが何節でどこに係るのか”などとやっているうちにだんだんわけが分からなくなってくる。そして、気づくと英語が大嫌いになっていた。私は、義務教育の時点では英語は日常会話が出来るようになるような教育をし、本格的に英語を学びたい人は大学に入ってから細かい文法を学べばよいのではないかと思う。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業では、今まで学んできた英語の誤っている点や、使うべきではない表現などといった英語を使う上でとても重要となることを教えていただいた。また、そればかりではなく、海外の学生が疑問に思ったことに答えることを通して日本の文化についても学ぶことが出来た。山岸先生は本当に熱心に私達学生を指導してくださり、その熱意を感じ、私も真剣に授業に参加することが出来た。また、今までの文法重視の英語教育では単語のスペルミスや、文法の間違いなどで評価されていたが、山岸先生はまず、自分の言いたいことを表現できているかということを第一に見られ、文法や単語といった細かいことでは評価されなかった。そのため、今までの文法重視の教育で英語の授業が嫌いになっていた私も、先生の授業は楽しんで受けることができた。また、先生の授業は参加型の授業で、手を挙げて自分の意見を言うことを求められた。しかし、高校、大学になると間違えることを恐れて、授業中に手を挙げて発言する人はほとんどいなくなる。だが、先生は発言すると、例え違う答えであっても「そういう考え方もあるね」と言ってくださり、間違いを恐れずに発言をすることが出来、積極的に発言することが出来た。この授業では、英語を学ぶだけではなく日本の文化などについて、自分自身で考える力をつけることが出来たと思う。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私は、今までの英語の授業で細かい文法を学んできました。そのため、英語の決 まった言い回しなどをただ無理に暗記するのにこまったことが数多くありました。私は小学生の時にアメリカに住んでいましたが、日本に帰ってからの英語はその時の英語とは違う細かいことの暗記をするばかりでした。こういう英語はテストでいい点数は取れても、しゃべることはできないだろうなと思っていました。そして、アメリカ人等と会話するための英語教育ではないために相手にどのように理解されるのかということはあまり考えずにただ決められたことを淡々と教える教育だったように思います。
 この授業から学んだこと  この授業で英語の言葉の背景には意味があるということを初めて知りました。今までにはない世界が開けたような気がしました。それと同時に日本とアメリカの文化 の違 いを知りました。このことは日本人にとって大切なのは英語圏の人々に合わせる こと ではなく日本の文化を主張して日本の文化の良いところを知ってもらうことなん だな と感じました。その中で日本文化に少し誇りをもてるようになりました。それと 同時 に、正確に日本文化を知ってもらうためにも、英語を正確に使えることの必要性 を痛 感しました。これからは結局当然のことながら、本質的なことである、英語はコ ミ ニュケーションの手段であるということを意識しながら英語を勉強していこうと思います。この1年間、このようなことを一生懸命に教えてくれた山岸先生の授業を受けられて本当によかったなと思っています。(男子学生)   
   
過去の英語学習に思う 私が英語学習を始めたばかりの頃は、英語圏の人に「Hello!」と言って「Hello」と返してもらえるだけで、心が通じ合った気がして非常にうれしかったのを覚えている。それなのに、いつしか「“s”が落ちている」や「つづりが間違っている」などのため、テストで減点され良い点数が取れなくなり、英語に苦手意識を持つようになっていった。わたしの場合、もともと外国に興味があったのでALTの先生に話しかける機会が多く、つたない英語であっただろうが先生は理解してくれていたようだし、身振り手振りを交えながらではあったがコミュニケーションをとることは苦痛ではなく、むしろ楽しかった。しかし、テストの成績は良い方ではなく、こんなに英語が好きなのに・・・といつも何かギャップみたいなものを感じていた。そして、大学の山岸先生の授業でようやく言語の裏には文化があることを教えられた。今では当たり前のことに思えるのだが、これまではそんなことも知らず(教えられず)、なるほど、とはっとしたと同時に、今まで土台なくしてただ詰め込んできた英語教育を大変残念に思った。文化があってこそ言語が発達したのだから、まずその文化を知らなくては始まらない。そう思ったとき、大げさかもしれないが何か道が開けた気がした。聖書を原文で読んでみたいとも思ったし、また、英語圏の人にも同様に日本の文化を知ってほしい、伝えたいと思った。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業では、英語の授業ですが、私たち日本の文化を知ることで、日本人って素敵だなと感じることができました。「なぜ日本人は他人と違う意見を持つことを嫌うのか?」や「なぜ日本人は自分のことを低く評価するのか?」という英語圏の人たちの質問に対し、当初は、「本当になぜだろう?」とか、「そんなことしなくてもいいのに」と感じさせられており、それはやはり欧米人と自分たちを比較して、心のどこかで劣等感みたいなものを多少なりとも感じていたからだと思う。しかし今は、“和”を重んじ、人を思いやる日本人をとても誇りに思い、こういう理由でこのようにするのだということを、胸を張ってしっかりと英語圏の人たちに伝えたいと強く思った。私たちが英語圏の人々の文化をしっかりと知り、そして英語圏の人々に日本の文化を正しく理解してもらうことが、“英語”の役割のように思います。それができるのは、山岸先生の授業を受けることができた私たちだと感じています。そして、英語だけに限らず、何にでも疑問を持ち、それについてきちんと自分の考えをまとめ、人に正しく伝えていくことの大切さを知りました。この授業では本当に多くの刺激を受けました。この授業のおかげで大学生活にはりが出たようにさえ感じています。山岸先生に出会えたことを心から幸せに思います。貴重な一年間をありがとうございました。(女子学生)

●.過去の英語学習に思う  私は数えてかれこれ8年近く『英語』を学んでいることになるが、率直な感想としては、「そんなに長いこと学んだ気がしない」のである。理由は明快、学問としての英語ではなく、ただのアルファベットの羅列の暗記科目としての英語をその大半としているからだと思う。 僕は高校から慶応義塾に入ったため、受験は高校に入る際にしただけであるが、そのときの自分自身は英語に対して言語という認識は全くしていなかった。学習塾では、長文速読のために単語ばかりを追う読み方を習得させられたり、単語帳は音など全く関係なしで書けても話せない勉強の仕方しかしていなかった。高校に入ると、我塾高は受験と言うものはないため、いわゆる受験英語はしてこなかったが、一つ疑問がのこる。我高はよりネイティブの英語をと言う事で外国人教員を週の半分に当てていたが 、それが全く勉強にならなかったのだ。授業中日本語は使わないだけで、やっている事は日本人と変わらない。むしろ言葉が通じない事でコミュニケーションは不足し、同じことをやるなら日本人のがよっぽどいいと思ったくらいである。 僕はそこで、日本人の教師の授業をもっと再考し、豊なものにすべきだと思うのである。 僕らは日本人で、英語を学んでいる。ならばその先人に教えを請うのは至極あたりまえの事なのではなかろうか。 容易に外国人教員を入れることで英語教育の補強をしようといている諸学校の姿勢が気になるところである。
 この授業で学んだこと そんな意味で山岸先生の授業に私が感銘を受けたのは言うまでもない。僕は今まで英語というものから後ろにある文化を読み取るなんていうことは意識的にはしたことがなかった。それは英語を学ぶ事で彼ら外国人と共通のコミュニケーションツールを手に入れようと考えていただけであって、たとえ僕が豊富な単語力を持ち、文法を 理解したところで、きっと相手の文化など理解も出来ず、恥をかき、後悔した事だろう。これはこの授業を受けたものが言う月並みな感想かもしれないが、これを間違いなく皆に伝える事の出来ている人間である先生は凄い。先生からは、私の祖父と同じ時代を生きた人間ということもあり、とても同じものを感じた。私の祖父は貧しくて小学校までしか出れず、農家を継ぎ、一生懸命にがんばっていた人であるが、とにかく信念が強く頭が切れて、努力家で、何でも出来て、弱音を吐いたことは一度もなかった。多分裕福でよい条件に生まれていたら間違いなく政治家に でもなっていたと思う。ガンと戦って死ぬそのときまでも一度も弱音をはかなかった。先生からは、もちろん英語についての正しい理解を学んだのは言うまでもない。しかし僕はそれに加えて、山岸勝榮という人間に触れたことで、自分の忘れていた、そういう強くたくましい素晴らしい人間がこの世の中にはいて、自分もそうでありたいと思う気持ちを、再び自分の中に見つけたのである。僕は何よりそれが素晴らしかった。この20歳という歳に素晴らしい刺激を受けたのです。先生には心からの感謝の気持ちと、負けないぞ、という気持ちを伝えたいです。一年間本当にありがとうございました。 (男子学生)
過去の英語学習に思う 中学1年から現在まで英語を学んできました。こんなに長いこと教育を受けていながら英語力がそれに伴ってついたかというと、残念ながらそうはないのです。中学高校共に比較的英語教育に力を入れている学校に通い、その中で英語は好きにはなりました。そして高校のとき、イギリス・アメリカと英語圏に行く機会もありましたが、そのころは自分の英語に自信が持てず、不安であまり楽しめなかったように思います。その原因を考えると、先生がおっしゃっていたように文法中心の英語教育が主であったことがあると考えます。もちろん英語の文法は大切です。しかしそればかりではなく他に英語学習において学ぶべきことはいろいろあります。それが先生の授業で学んだ自分の国の文化と相手の国の文化を知ることで理解しあえるよう努力するということでした。つたない英語でも説明すればわかる、先生が「文法が少し間違っていても、英語を母語とする人たちは理解してくれる」とおっしゃったとき、目からうろこが落ちるようでした。中学高校での文法中心の英語教育はある程度必要です。しかしそこで止まらず、英語そのものとは少し離れたものを学ぶことによって見えてくるものがあるということをもっと早く知る機会があればよかったのに・・・と思います。
 この授業で学んだこと  英語を母語とする人と私たちのように日本語を母語とする人では、同じ言葉でも理解が違うことを学びました。英語と日本語はお互いにそう簡単に一言で置き換えられるものではないということです。たった一語の言葉をちゃんと理解・納得するにはその国の歴史的背景・文化など様々な事情の説明が必要です。辞書を引いたらぱっとわかると思っていたことが、この授業を通してそうではないことがわかりました。また文化の違いを認め合うことの必要性、私もそうですが何かと外国はいいなと思うことがありました。そして日本を卑下することも。しかし授業で日本の文化を学び、それと同時に英語圏の人々の考え方を知るうちに、自分のうちで日本を卑下することがなくなった気がします。文化を知ることは大切だと感じました。授業中の発言またプレゼンテーションで、先生は私たちの意見を否定することはなく、いつも尊重して、また新たな考えを導いてくださいました。私は自分の意見にあまり自信が持てないまま発言したときも「いいね!」と言っていただいて嬉しかったことがあります。先生の辞書作りへの熱意も授業から大変伝わってきて、辞書への見かたが変わりました。これからも今と変わらない熱意でご指導をお続けください。私は先生の授業を受けることができてよかったと思います。最後になりましたが、1年間ご指導ありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私が今まで受けてきた英語教育、それは中学、高校ともに文部省に認可されたと思われる教科書に沿った教育だった。中学一年生の時の先生を除いては。私 が中学一年生の時に習った先生は、英語を楽しむこと、英語に親しむことを第一に考えて教科書をほとんど使わず、独自の方法で授業を進めていった。しか し二学期の途中からその先生は徐々に来なくなってしまって、結局途中で別の 学校から来た先生と代わってしまった。生徒は文法などの勉強をほとんどやっていなかったため、基本から勉強をやりなおすことになったのだ。やはり受験がある以上、テスト(入学試験)において点数をとる力は必要不可欠なのであ る。 山岸先生の授業は文法などにとらわれず英語の本当の意味を理解するための授業は、言語をお互いが理解するための手段として使うために絶対必要である し、とても意味があることだと思う。しかしどうしてもこの方法ではテストで 生徒に客観的な点数をつけるのは難しいと思う。この授業方法を中・高から取 り入れていくためには受験科目の中から「英語」を外す必要が出てくると私は 思う。 今現在の方法と山岸先生の方法、どちらが良い、悪いということではなくどちらも必要なので、英語の本当の理解のための山岸先生の方式の授業は、大学や 一貫校など、受験とは別の所でもっともっと広がっていくべきだと思う。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業、それは私にとって新鮮だった。日本人が使っている英語、そ れは英語の表面しか理解しておらず日本と英語圏の国々の文化の違いまで踏まえて本当の英語の意味を理解しようというものだった。 例えば日本語として使われているローカルと英語の“local”、グラマーと“glamour”などは私達が日常、日本語として使っている意味と英語での意味は ズレがあって、今の日本人はそのズレを知らずに英語に使ってしまう。そうして誤解を招いてしまうのである。このように英語を勉強していくことを通じて、普段意識することのなかった日 本文化と日本語の奥深さに気付いた。そして日本文化は素晴らしい、と英語圏 の人々にも胸を張って言えると思ったし、英語と和製英語との意味の違いにも気が付いた。いろいろな面で、視野が広くなったと思う。山岸先生、どうもありがとうございました。 (男子学生)

過去の英語学習に思う 辞書を作っていらっしゃる山岸先生とお話するたびに、私はある高校時代の先生を思い出します。その方は、辞書の発音記号まで全て暗記されているような、ある意味とてもまじめで、ある意味すこし硬い考えをなさる方でしたが、その先生は英語の長文を、すべて辞書に忠実に訳してらっしゃいました。ともすれば日本人が聞いてもよくわからない日本語になってしまった、などということも、しばしばあったのです。けれど、思い出せば、今までの日本人の先生はおしなべて、辞書を頼りに英文を訳してらっしゃいました。やはりそのことを思うと、先生方のことをむやみに攻められないと思いますし、辞書という存在が過去の英語教育に非常に大きな影響を及ぼしていたように思います。
 この授業で学んだこと そもそも、中学校一年生より英語を学んできて、私が初めて戸惑いを覚えたのは、高校に入ってからでした。私の中学校ではほかの学校と同じように日本人の先生しかいらっしゃらなかったので、英語を母国語とする方と触れ合う機会も無く、また高校受験の際も、これはいわゆる自然な英語であるとかそういうことは一切考えることがありませんでした。しかし高校の授業で、初めて外国人の先生に教わり、そのとき初めて自分の英語力に「不自然さ」を感じました。また、私の周りには何人か帰国子女の友達がいたので、彼女達にも非常に刺激を与えられたのです。しかし、その「不自然さ」というものが何であって、また一体どこから来るものなのか、その疑問はずっと解けないまま、高校も卒業してしまいました。本年度、先生の授業を受けて、やっとその「不自然さ」というものが、理解できたのです。様々な単語の意味は知っていても、そのことばが持つプラスマイナスの印象といったことはもちろん、我々日本人の発想と英語を母国語とする方の発想の違いから来る、ことばの使い方の違い、そういったものを知ることによって、自分と英文との不自然な関係も以前より解消されましたし、なんといっても英語を生きたことばとして感じることが出来るようになったと思います。より良い辞書を、と奮闘なさっている先生を眩しく感じると共に、過去のみならず、未来の英語教育も是非革新していっていただきたい、と切に思っております。(女子学生)

●この一年間、いろいろ教えていただき、いろいろお世話になりまして、 本当にどうもありがとうございました。 ただいま、メールで受講感想をお送りいたします。
過去の英語学習に思う 今まで、語学の勉強は単語と文法を覚えて、たくさんの本を読むという方法がしかないと思いました。学校でもそう教えてくれて、そうやらせられました。しか し、このたび、山岸先生の授業を受けてみて本当の語学勉強はそうではないと思 えるようになりました。一つの言語を勉強するには、その言語の背後にある文化 も理解しなければなりません。その文化をよく理解しないと、いくら文法などを 学んでも無駄なことになります。これは山岸先生の授業でよく分かったことです 。
この授業で学んだこと この授業に深い感銘を受けました。知っている単語と文法をその文化と結んで考えて、自分の気持ちや意思を伝える方法を教えていただきました。今までの英語 教育と違う雰囲気がある楽しかった授業を一年間受けさせていただいて、英語勉強は面白いことと思えるようになりました。また、外国語や外国の文化を勉強するには、必ず母国語の文化をよく理解するということを前提としなければならない、ということも思うことができるようにしてくださいました。この授業での経験とそれから得たものは私の一生の財産です。この財産をくださいました山岸先生に心より感謝しています。どうもありがとうございました。以上簡単に書きましたが、ぜひとも読んでいただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。 重ねて一年間いろいろお世話になりました山岸先生にお礼を申し上げます。 では、失礼いたします。 (女子学生; 中国人留学生)

●この授業を受けてまず最初に感じたのは、今まで受けてきた英語の授業とのギャップです。高校までは、難しい単語や細かな文法を覚えることばかりしていました。テストでは、どんなに小さなことでも間違っていれば減点されます。それに引き換え、この授業では文法のミスを注意されることはほとんどなく、安心して発表に臨むことができました。また、外国人の疑問を通して、日本と欧米諸国の文化を学ぶこともでき、大変有意義なものであったと感じています。今振り返ってみると、高校まで受けてきた英語教育というものは、外国人とコミュニケーションをとるためにはほとんど役に立たないものです。それどころか、英語というものに対して、恐怖さえ感じさせられることもありました。それには、いくつかの理由が挙げられます。 まず、単語・熟語を覚えるということです。受験期には単語が2000近く載っている本を買わされました。そして、毎週小テストを行うのです。できなかった人は後日再テストを受けなければなりません。確かに、そういう方法をとれば難しい単語でも覚えることができるでしょう。しかし、今となってはその単語のほとんどを忘れてしまっています。あれほど沢山覚えたはずなのにこんなに忘れているとは自分でも驚きですが、その原因は私自身にありました。単語を覚える目的が、テストでいい点をとるということでしかなかったのです。つまり一夜漬けの勉強と同じで、テストが終わってしまうとすぐに頭から抜けてしまうのです。それでも、受験というもう少し大きな目標があったのでなんとか維持することができましたが、それが終わってしまった今、その単語を使うこともないままに忘れてしまいました。 そしてもうひとつ苦労したのが、和訳と英作文です。ただ文章を作るのではなく、○○的用法、○○構文・・・そういった文法事項を考えなければならず、どれも頭を悩ませるものでした。よく、「英語を話すときは日本語を訳してはいけない」という言葉を聞きますが、このような英語教育を受けてきた私たちにとってそれはかなり難しいことだと思います。というより、和訳することが当たり前になってしまっていて、そういうふうに頭が機能しないのです。このことが、日本人がうまく英語をしゃべれない原因のひとつにもなっているといえます。 こう考えてみると、私にとって高校までに受けてきた英語教育はまったく意味をなさないものであったように思えます。しかし、大変勉強になったこともあります。それは、長文読解といわれるものです。何ページにも渡る長文を読み、その内容を把握するということは、記憶力の問題ではありません。わからない単語がでてきても、前後関係からおおよその意味を推測することもできます。これが長文読解の面白さでもあるのです。この訓練を受けてきたおかげで、英語の文章を読むことに慣れることができました。  高校の英語教育、それは先にも述べたように、外国人とコミュニケートすることに直接結びつくものではありません。もっと、生徒に英語というものを世界の共通語として身近に感じさせることのできるような授業であったら、と思います。そういう意味で、山岸先生の授業は、理想的な英語授業であったと思います。現在、日本で暮らす外国人も増え、いろんな国の人々と交流する機会が設けられるようになりました。また、外国企業と提携する企業も増加傾向にあり、英語を話せる人材がますます求められています。そういう世の中では、ただ英語を話せるというだけでは足らず、異文化を理解するということが大切です。その文化を知らずにいると、時には大変失礼な発言をしてしまうことにもなりかねません。また、自国の文化を十分に知っておく必要もあります。なぜならば、私たちにとって当たり前のことであっても外国人にとっては不思議に思えることが沢山あるのです。この授業を通して、今まで知らなかった日本独特の文化を知ることができました。それと同時に、なぜそういう文化が作られたのかを歴史的観点から捉えることによって、その形成過程を学ぶこともできました。日本の文化には、外国人からは否定的なイメージに見られるものも多々ありますが、それだけ外国とは異なる、独特で貴重なものなのだといえます。しかし、時の流れと共に忘れ去られそうになっているものもあります。これからの世の中は「国際社会」だと言われていますが、それは自国の文化を捨てて欧米諸国の模倣をするということではありません。私たちは、この授業で学んだことを大いに生かして、異文化を柔軟に理解するとともに、日本の良い文化は良いものとして後世に残していくべきだと思います。ひとつ心残りなのは、手を挙げて発表することがあまりできなかったということです。このクラスには、それのできる人が沢山いたので大変刺激になりました。これからは、自分の意見を心の中に留めておかず、もっと周りに主張していきたいと思います。一年間、ありがとうございました。(女子学生)

 ●外国語、言葉を学ぶ際には、その言葉を話す人々の生活、思想背景、文化背景といったもう一つの側面も学ばなければ本当にその言葉を理解したとは言えない。それと同時に自国の文化を理解しなければならない、これらが私がこの授業から学んだことです。大学2年という、この時期に山岸先生の下で学べたことは非常に幸運だったと思っています。中・高6年間を通じて学んできた英語というものを、もう一度見つめ直すことができました。思えば、こんな悠長なことを言っていられるのも、私たちの世代ぐらいまでなのかもしれません。グローバル化と言われ、小学校での英語教育が唱えられ、“使える”英語教育が重視されていく傾向のこれからであるからこそ、早い時期から、言葉の裏にある文化的意味を当然のものとして学び、そこから日本文化とは何か、ということを考える必要性があるのかもしれません。日本という(ほぼ)単一民族・単一文化・言語の国で育つということは、ヨーロッパやアメリカ諸国に比べ、私たちが多様性と他の文化を肌で感じる機会、自国文化を考える機会を奪う側面があるのではないかと思います。そして、そうした機会を与えられるのは英語教育でしかないでしょう。今の日本の英語教育を全て否定する気持ちはありません。しかし、今のままの英語教育のままでいいはずがないとも思います。英語という言語の背景にある文化を学び、日本文化を考えるという姿勢を明確に打ち出していかなければならない時にきていると感じています。
 山岸先生の下一年間、「目から鱗」的な英語を学んできた今、正直、英語圏の人々と会話をすることが非常に怖く感じています。英語文化、日本文化を理解し切れていない私が、自分の言わんとすることを伝えられるのか不安を感じるからです。それは英語圏に限らず、異なる文化圏に住む人々にもあてはまることです。しかし今、この“怖さ”こそが、私の中で英語を勉強したい!と思わせてくれるものになっています。 受験英語というものを学ぶうちに、忘れてしまっていた気持ちです。それと同時に、日本という国に誇りを感じるようになりました。授業でとり上げられた疑問は、私自身が日々の生活で疑問に感じていたものを明らかにしてくれ、日本という国を考えるいい機会になりました。日本の文化的背景をもった日本人である私が、外国語を学習するということの意味を問われた授業であったといっても、過言ではありません。この山岸先生の授業で学んだことは、私の将来にも影響を及ぼすものでしょう。(この授業を受けていなかったら・・・と思うとぞっとします)一年間、実りの多い授業をありがとうございました。(女子学生)

●1年間を通して山岸先生の授業を受けてきたのだが、この授業で私が学べたものは何だったのであろうか?1年間を振り返り、考えていきたいと思う。まず教科書を使った授業では、私は次のようなことが学習出来た。
 ・前提として、英語と日本語ではズレがある。日本語をそのまま単語を当てはめて英語にしても、意味が違ってくる。そして、日本語に影響されすぎた英語を使う人が多い。
 ・日本で使われている英語起源のカタカナは、日本では間違って解釈されていることが多い。
 ・日本的なもので間違った英語にされたものが多い。そういうものはローマ字表記し、解説を加えた方が好ましい。
 ・日本式英語といわれるような現実語法に適っていないものが多い。また、文法的に正しくても、英語母語話者を不可解な連想に導かせるものがある。
 ・文化が違うために、日本人文化では生まれてこないような英語がある。また日本と英語圏の文化では、同じ物でもイメージが違うものがある。
 このような授業を受けて、私の中で英語を学習するイメージや考え方が変わったように思う。当然ではあるが、日本人文化と英語圏文化は違うのであり、ある種の日本式の英語学習のままではいけないのではないだろうか?間違って覚えてしまっている英語を正しい文法で使ったところで、英語の意味はなさない。大事なのは文法なのではなく、英語圏で使われている文化を含んだ英語なのであろうと感じた。
 また、1年を通じて毎週数回行われているプレゼンテーションからも学んだことが多々ある。まず、外国人が日本人にどのような印象を持っているか。また、そのような疑問を生み出す日本人の文化の深さを感じた。日本人が持つすべての文化には意味があり、昔から行われてきた日本人の文化は今でも残っている。日本文化の素晴らしさを改めて感じることが出来た。
 そして、私のプレゼンテーションに関していえば、私のプレゼンテーションは文法的に間違いだらけであったと思う。しかし文法が間違っていても、プレゼンテーションにおいては、発表者の英語の強弱・単語の繰り返しなど、発表方法によって英語圏の人々にも伝えることが出来るということを学んだ。個々によって英語の雰囲気は異なっていたが、何に重点をおいて伝えようとしているのかが、十分に理解ができた。今までの授業とは、違った英語教育をしてくださった山岸先生の授業は本当に興味が持て、私はとても楽しく学習することが出来ました。今からでも英語をさらに学習出来ると考えているので、さらに英語の力をつけられたらと思っています。(男子学生)

● 私は私立の小学校に通っていたので、かれこれ11年(!)英語を勉強していることになります。小学校の頃からいろいろな先生がおっしゃっていたのは「使える英語を学ぶ」ということだったのに、私はちっとも英語が「使えない」ままでした。大学でも長い英語の論文をひたすら訳す授業で、確かに私たちは「使われている英語を勉強している」とは思いますが、「使える英語」というのはこういうことなのかなぁ・・・と疑問に思いつつも半分あきらめの境地で、テストのために勉強していました。今思えば、過去の英語教育では、発信された情報には敏感に、集中して取り組んでいたけれど、自分の側から発信するということに関しては非常におざなりにされてきたのだと思います。そして、私も、英語というのはそういうものだと思い込んできました。先生が始めの授業で「2月3日に豆まきをした」という文を訳してみなさい、とおっしゃったときも、単なる与えられた文章を英語に訳すだけなのかと思ってしまいました。だから、先生が訳には外国人がわかるように豆まきというものの目的を記すことが大切である、とおっしゃったとき、大変驚きました。自分からの発信を重んじた英語の授業というのに初めて出会えたと思いました。
 最初はうれしかったのですが、だんだんと不安になってきたことも事実です。もしかして、自分は日本のことを何も知らないのではないかと思ってきたのです。考えてみれば、私たちが「使える英語」を学ぶのは、海外からの優れた知識、技術を得るためであり、だからこそ発信された情報にだけ目を配ってきたのではないでしょうか。日本が文明的に何もかも欧米に遅れを取っている、という考え方が英語教育にも現れている、と思いました。
 先生のどのお話も印象的ですが、特に会議のお話が印象的です。日本的、といわれるもののネガティブな面ばかりを見てきた自分に反省し、だいぶ慣れてきたと思っていた頃でしたが、日本的根回しというのだけは良い面というのが考え及びませんでした。しかし先生のお話から、欧米的民主主義と違い、日本は誰かの意見を潰すことをしない、ということを知り、なぜこういうことをもっと日本人は誇りにしないのだろうと悲しくなりました。
 また、先生はこれだけたくさんの学生に一度に指導しながら一人一人の学生と向かい合おうとなさっているということを度々感じました。そういう先生だからこそ、先生の授業は一方通行にならないのかな、と思いました。眠くなることのない、刺激的な授業を、本当にありがとうございました。これからも、先生から教えていただいたことを忘れずに勉強を続けていこうと思います。(女子学生)

● 何故人間は古典を大事にするのか。それは複製や保存の技術が乏しかった古い時代、人間がこれこそ価値があると思われるもののみを後世に残してきた、それゆえ長い時代の淘汰の中で生き残る程の価値のあるものが現在古典となっている、そのような話をどこかで聞いたことがある。翻って現在の日本を見るに、数百年かそれ以上の時間の中で数多の先人たちによって洗練されてきた文化や慣習が、西洋合理主義の観点のもと「無価値」と判断されて消し去られようとしている。これらの消 え去り行きつつある古来の文化・慣習に今一度新たな光を当てその価値を見直すことこそこの授業で私が学んできたことである。 今や欧米列強の露骨な武力行使や植民地主義こそなくなったが、経済の国境を越えた広がりの中で、全てを単純化する西欧合理主義という名の緩やかな文化的侵 略 が行われている。知識人や大衆人はこの単純化に容易に篭絡され先祖から引き継 ぐ固有の文化を顧みなくなる。しかし、この傾向が何をもたらすものは恐ろしき破滅 でしかない。過去の文化の断罪は我々と祖先との国土を基とする長い連続性の鎖を断ち切り今や我々は先人の作り上げた文明の果実を享受するだけの存在となってしまった。社会的慣習を失えば祖先との縦の繋がりだけでなく旧来からの社会的共同 体という横の繋がりも危機に瀕する。かくして二つの意味で「独立した」個人はもろい存在となり強い存在に見える新興宗教や全体主義国家の虜となるのである。 スペインの保守思想家であるオルテガは慣習を、人間が真に重要なことに集中 す るために些細なことを形式化したものだと考えた。例えば敬語を例にとって見ると一見敬語は年齢による序列を促進する封建的な慣習に見えるかもしれない。しかし、 見方を変えれば年長者への敬意を一定の形式にすることによって年長者と対等に建設的な会話を行う潤滑油と見ることもできる。これら古い慣習も見方を変えればある意味合理的であり、歴史の中で先人が残してきただけの意味があるのではないか。もしこれらを無反省に切り捨てれば社会秩序が混乱するのも当然かと思う。 徹底的な西欧化と見られる明治維新の中で、伊藤博文は明治憲法起草にあたり立憲主義を日本の神道文化と融合させようとし、新渡戸稲造は西欧的な修辞を以って武士道を世界に向かって擁護した。この精神こそがアジアで唯一近代化を成し遂げ た隠れた要素ではないだろうか。これまでの英語教育が日本の固有文化を意識的に排除してきたわけではないだろうが、新しい言語や文化は固有文化に疑問を投げかける。新文化の輸血に対し困惑しながらもそれを固有の文化に接木しようとした明治の取かつ保守の精神こそ英語教育のみならず現代の我々に必要だと思われる 。 (男子学生)

●今まで受けた大学の授業の中で一番ためになった授業は、と聞かれれば、私は迷うことなく「山岸先生の英語の授業です」と答えるでしょう。法学部の学生なのだから法律科目の授業を答えるべきなのかもしれませんが、本当にそうなのだからこう答えるしかありません。それぐらいこの授業によって私が得たものは大きかったのです。先生の授業は、私が今まで中学、高校で受けた英語の授業とはまったく異なる ものでした。今まで私が受けた英語の授業は、先生の一方的な授業運びのもと、テキストに沿って英文法を学び、英訳・和訳をするという、いってみれば試験対策としての英語授業でした。ところが山岸先生の授業は違いました。それは、決 して一方的なものではなく、常に私たち学生が積極的に意見をいう場があり、そして授業内容は、日本と西洋の国々の文化を知るところから始め、それぞれの文化的背景を理解した上で英語を学ぶ、というものでした。文法にこだわらず、そ れよりも本当の意味での英語の理解を重視した点が今までの英語教育とは違って いました。
 従来の日本の英語教育は、たしかに受験には強いと思います。しかし、それは英語教育の中で一番大切なことを欠いています。それは、まず自分の国の文化を知り、次に他の国の文化を知り、そして双方の文化の違いを知り、文化的背景を理解して他国のことばを学ぶという姿勢です。ことばはその国の文化を反映しています。ことばの裏にある文化的背景を知らずにその国のことばを学んでいては、いつまでたっても正しい理解をできるはず がありません。私たち日本人は、日本的な考え方でのみ英語を理解しようとするため、間違った英語の捉え方、使い方をしてしまうのです。私自身そうであったように、多くの日本人はまだそのことに気がついていませ ん。山岸先生のなさるような英語の授業が日本中で行なわれるべきす。そうすれば、今までの英語教育の間違いに、日本中の人が気付くはずです。
 この授業で、いかに自分が日本の文化を知らないかを痛感させられました。なぜ日本語にはこのような表現があるのか、なぜ日本人はこういうことをするのか、など自分の国のことなのに知らないことが山ほどありました。そして、日本の文化を外国の人が納得するように説得力をもって説明することの難しさも実感し 、同時に外国の人に自分の国の文化を伝えることの大切さも知りました。日本の 文化を伝えることで初めて日本人のものの考え方を理解してもらえるのです。大切なのはいかに相手が説得力をもって伝えるかです。英語は外国の人に「伝 える」ために使うものです。日本の英語教育では、「受験のための英語」よりも 、もっと「伝えるための英語」を教えるべきだと思いました。
 なんだかまとまらない文章になってしまいましたが、いま私は山岸先生の授業を受けられたことをたいへん幸せに思います。本来ならば中・高校時に学ぶべきことを大学に入って学んだわけですが、世の中これらのことを学ばずに終わる人もいる、というかむしろそういう人の方が多いはずですから、学生のうちにこれらのことを学べたことを幸せに思います。山岸先生に出会って、私の英語への接 し方が変わりましたし、もっと日本の文化にも目を向けていこうと思うようにな りました。正直、私は英語が苦手であまり好きではありませんでした。それは、文法やら綴りやらをいつも直されていたからです。しかし、山岸先生はそれらのことにこだわることなく、私の英文の説得力について評価して下さって、そのおかげで前よりも英語が好きになりました。先生に出会ってなかったら私はずっと英語に対 して苦手意識をもったまま過ごしていたと思います。英語を学ぶことに前向きな気持ちを抱けたのも先生のおかげです。この授業を受講して本当によかったです。先生には感謝の気持ちでいっぱいです。1年間いろいろなことを教えていただきありがとうございました。 (女子学生)

●今まで私は8年間英語の授業を受けてきたわけだが、いまだに英語は好きだが苦手である。英語のニュースを聞いたりしても、全くといっていいほど聞き取れない。本 を読むといっても、辞書を使わないで読むのは小学校低学年向けでも大変である。英語などの他言語を学ぶことによって、様々な世界の人々と交流できるので、英語を学ぶことはとても重要だと私は思う。しかし、今まで私が受けてきた授業では、ほとんどが文法重視の固い表現で、 英語 としてかなり不自然なものであったようだ。作文などの宿題が出たときに、帰国子女の友人に見てもらったりすると、言い回しがくどくて不自然だと言われるのがほとんどだった。作文だけでなく、訳をするときも同じように言われていた。今までの授業は、実践的な英語からは程遠いものだったのだろう。今回、私が山岸先生の授業を履修しようと思ったのは、もともと私が民俗学的なものに興味を持っていて、日本の文化が世界に誇れるすばらしいものだと思っているので、それに対して外国人がどのような疑問を持つのか、興味深いと思ったからである。そして、それらの質問に答えていくうちに自分の知らない日本についての新たな認識を得ることができる気がしたからである。実際に1年間授業を受けてみて、 西欧 諸国と日本の文化や人々の考え方にこれほどの違いがあるのかと驚いたと同時に、予想通りに私の知らない日本についていろいろと知識を得ることができた。知識の面だけでなく、教科書を使った授業では日本語と英語の表現の違いを学 ぶこ とで、単に自然な表現について知るだけでなく、言語を通して文化そのものを知 るこ とができたように思う。雑談も興味深いものが多く、クラスメイトの発言もいろいろと考えさせられるものが多かった。しかし、やはり私がこの授業を受けて一番思 ったのは、まず自国の言語や文化をよく理解することが先決だということである。確かに、英語を学ぶのは国際化の進む社会において重要なことではあるが、母語もろくに使いこなせず自国の文化について説明できないような状態で他国の言語を使おうというのは無理があると思うし、人間は自分の国に対して誇りを持つべきである。そのためにも、よく自国を理解する必要があると思うようになった。1年間はあっという間で、もうこの授業を受けることができないのはとても残 念だ が、これからもこの授業で学んだことを忘れずに、英語を使って様々な国の人々と交流していきたいと思う。日本人であることに誇りを持つだけでなく、他国の文化 も尊 重できるような人間になりたい。1年間ありがとうございました。(女子学生)  

●山岸先生の授業を受けての第一印象は、「これは本当に語学の授業なのだろうか」というひとことに集約される。私は単位の取得上の問題から、秋学期からの履修となった。ゆえに先生の授業が放つ異彩はひときわ印象的であった。その異彩というものを逐一挙げていきたい。
 まず第一に、先生は完全な逐語訳という作業に重きを置かれない。ただひとつ口を酸っぱくしておっしゃるのが、『その意図するところが英米人に通じか否か』という、ただその一点なのである。これは非常に衝撃的なことばだった。過去に受けた英語教育を振り返ってみてもこのような事をおっしゃった先生は一人もいなかった。これは日本の受験英語が逐語訳に重きを起き、かつ減点方式を採用している以上はやむをえない事であり、あえて非難する気は無い。だが実際に山岸先生のような方針の先生の授業を受けてみると、やはり楽しい。楽しいのである。なぜ楽しいのか?理由を挙げるのであれば、それは勉強する目的が見えてくるからである。別にわたしは通訳になりたいわけでも、ましてや翻訳マシーンになりたいわけでもない。ただ外国人とコミュニケーションが取れるようになりたいだけである。ゆえに先生がとられる方針はそのためにも手っ取り早い上、役に立っているという実感が得られるので非常に楽しかった。
 第二に、(これが最も重要であるが)先生が日本と欧米との比較文化論を非常に熱心に取り上げてくださった点である。こういった主題は他の先生も取り上げられたがそれはあくまで英語を学ぶ上での添え物に過ぎなかった。しかし先生の授業では、あくまでこれがメインだったといえる。その内容も、先生の豊富な実体験に基くミクロな事柄から、日本人論などのスケールの大きなものまで広範囲に及んだ。後者の中には政治学科の専門科目で習った内容と重複するものもあった。先生はこれを意図とされていたのだろうか?非常に気になるところである。
 以上の二点から冒頭で述べた事がいえる。だから最初にこの授業を受けたときは、何か面白い講座を偶然取ったときのような喜びを感じたのを覚えている。先生の授業を受けていわゆるところの英語力が上がったかどうかは分からない。だが、英語以外の話について私の人生の今後に対して示した示唆は非常に大きいような気がする。(男子学生)

●英語学習の目的とはもちろんコミュニケーションにある。 コミュニケーションとはその単語の成り立ちからもわかるように、「共に分かちあう」ということである。 つまり相手の意見を一方的に受け入れたりすることも違うし、自分の意見だけを主張すればよいのではない。自分の意見を主張しつつ、 相手の意見のよいところを受け入れることである。 そして、より広い範囲でコミュニケーションするために英語を学ぶのである。 この辺りはだれもが賛成することであろう。では、なぜ日本は例えばノーベル賞を獲得するなど科学技術では競争力があり、 中学・高校・大学で同じように時間やお金を投下して勉強するのに (必修科目だからだからしないといけないのに) 競争力をもてないのだろうか。 例えば、TOEICの平均のスコアのように。僕は「過去の英語教育」が手段として機能していないからに他ならならず、それは、「過去の英語教育」に「自分の意見を主張する」という観点が 圧倒的にかけているのが原因でないかと思う。 それゆえに学校の授業も一方通行のinputに終始して 生徒の姿勢も受身的にならざるをえないのではないだろうか。「この授業」がとりあげた、「日本文化に対する外国人の質問」は 日本人の学生にとって自分の意見を主張するための格好の契機になったと思う。 些細な間違いを気にすることなく、自由にしかしプライドをもって自分の意見を主張できた。 自分の意見を主張していくうちに、 どんな過ちが英語において致命的であるかどうかの判断もつくようになってきた 。 これが「この授業で学んだ」最も大きなポイントである。 このようなことを重視すれば、 各種試験もたんなる○か×で済む問題でなくなり、 あまりにも採点に時間のかかることであろうし、 また、ある程度の語彙や文法の知識のinputは必要でもあろう。 しかし、「この授業」の学生が外国人を納得させるために英語を使うという 方法は学生がもっとも刺激を受ける方法の一つであると思う。 以上です。この1年間どうもありがとうございました。 日本人らしい考え方というのを意識して、 それの利点と欠点を説明できるようになれればなと思っています。 (男子学生)

●中学・高校での英語教育を振り返って不思議に思うことは、自分が英語の成績はそれなりに良かったのにもかかわらず、実際全く使うことができないということです。その原因のひとつは、英語を使って外国人にどれだけ自分の考えを伝えることができるかではなく、どれだけ単語や熟語や文法を記憶しているかという観点から評価し、教えているからでしょう。その結果、英熟語の穴埋めのような問題はできても、外国人に何かを説明しようとしたり、彼らの言葉にうまく答えようとしたりするときにお手上げになってしまうのです。中学・高校の英語教育がこういったものにならざるをえないのも、結局は大学入試の問題に原因があるからでしょう。相手に自分の考えを伝える勉強よりも、ひとつでも多く単語や熟語を覚える勉強のほうが点数になり、大学に受かりやすくなるからです。ただ、実際そういった知識も英語を話すうえで不可欠であるのだから、全面的に否定する必要はないと思います。要は、それを時と場合に応じて使いこなすための力と、英語は受験科目である前に意思伝達の道具であるのだから、英語を使って語るべき内容の部分にもっと注目するべきなのでしょう。(男子学生)

●「他国の文化を学ぶには、まず自国の文化を知らなければならない。」 講義のはじめに先生がおっしゃった言葉がとても印象に残っています。英語を学ぶときとかく陥りがちなのが、欧米文化のすばらしいところを強調し、日本文化を卑下してしまうことですが、日本人は日本語・日本文化に誇りを持つべきだと強調される先生に、これまでの英語授業にはないものを感じました。それは、英語があくまでコミュニケーションの手段であり、文法を完璧にするよりも通じたほうがよいと、辞書を作っている先生に伺って、英語に自信を持てるようになりました。中学1年のとき初めて自分のお金で買ったのがスーパー・アンカーであり、週刊の英字新聞(週刊Stだったと思います)で先生の記事を読ませていただき、とても面白かったので、辞書を買わせていただいたのですが、先輩に評判を聞き、先生の講義を直接受けることができると知ったときはとても感動しました。スーパー・アンカーはやはり他の辞書にはない、文化的意味connotationがあり、講義にもその姿勢があふれていました。日本文化には農耕民族の習慣が今に息づいていること、Animism(すべてのものに魂が宿る)のかんがえがものを大切にする礎であることを知り、他方欧米には神と自分との対話から個を重んじる思想があること。この日本特有の文化に私自身誇りを持って生きてゆこうと思います。減点方式や文法を学ぶだけではない語学の指導方法はこれからも多くの人に学んでほしいものだと思いました。(男子学生)

●中学校・高校・大学と10年間も英語を学んでいるはずなのに、どうして日本人は英語が話せないのか。やはり、まずスペリングチェック重視の教育は止めるべきだと思います。そんなことをやる暇があったら、たくさんの英文に触れることが重要です。そして、必要な文法も同時に習得していくこと。さらに、自らが問題提起をし、そのことに関して英語で表現できるようにすべきです。学校では「スペリングが出来ない=英語が出来ない」と言うことになってしまいます。この構図を崩していかない限り、日本人はいつまでも英語の話せない、英語で表現できないままです。ネイティブでもスペリングミスがあります。日本人が間違えても仕方ないのではないでしょうか。このことは、外国の方が日本語を覚えるときのことで置き換えられます。難しい漢字をたくさん覚えることに時間を割いて、会話の出来ない人になってしまうのと一緒です。大学を卒業しても英語を使いこなせる人がほとんど居ない。この事実をもっと真剣に考えるべきです。 その点、先生の授業では、外国人の日本に対する素朴な問題提起に対して自分の考えを述べるという形式は、とても有効な方法であると思います。また、英語の文章を真に説得的にするためには、英語と日本語のずれ、その単語、センテンスが持つ文化的・歴史的背景を知ることが必要不可欠なものであるとこの授業を通して強く感じました。(男子学生)

●日本の英語の入試には、構文を聞いてくる問題がたくさんあるが、それは、日本人の英語上達にとって良くない事だ。何故なら、一つ一つの構文には、ちゃんと使うべき状況が細やかに設定されており、ネイティブはそれを考えながら使い分けているからである。 だから、日本人は堅い表現、柔らかい表現の違いを教えられる事無く、両者をゴ チャゴチャにして英語を習ってしまう。そこで、これからは、「こういう状況で 、こういう表現を使うとネイティブには、こう伝わります。だから、こういう表現を使うのが適切です。」と細やかに教える事が大事で、入試にもそれをきちっと取り上げる事が大事であると思う。 だから、なにも焦る様に、「ここからこの範囲までの構文を全て暗記させよう」 とさせずに、一つ一つの表現を大事に、実用的に学んでいくことがとても重要なのでは、と思った。 日本人は私も含め、英語を「表現しよう。」という意識が低く、「読もう。」や 「入試で聞かれるから、構文を暗記しよう。」としか考えてない人が多い。このように、ニュアンスを重視した英語の勉強を日本人がすれば、もっと英語を使っ ていこうという意識が日本全体的に高まり、そして今まで英語を使おうと努力し ていた人達はよりネイティブに近い言い回しが習得できるようになると私は思う 。 日本で習っている英語は、堅い表現と柔らかい表現がゴチャゴチャになっている という事を痛感させてくれたのは、この授業のおかげである。私は、大学受験を している頃からの夢で文部省に入って「日本の英語を変えたい。」という目標がある。一年通じて、この授業で学んだ、「表現の使い分け」。そして、学んだこ とのもう一つである「文化による考え方の違い」を参考にして文部省で頑張り たい。 (男子学生)

●この1年間、先生の授業は衝撃的なものでした。なぜなら今まで7年間習ってきた英語のどの授業とも内容・授業形式が全く違ったからです。まず、外国人の疑問100について。最初の授業で、プリントを見て思ったことは、自分たち(欧米の人)の文化が正しいと考えて、日本の文化に対して、ここがおかしいとか言うのは間違ってる!等と思いました。しかし、授業を受けていくにつれて、日本と欧米では文化が違うのは当たり前だし、僕自身、自分の国について簡単に答えることができないのがわかり、積極的に日本の文化について考えるようになりました。また、僕は外国人の友達が多いので、それぞれの文化について語り合えたらすばらしいな、と思いました。 一方、教科書はこれから英語(というよりは英会話)を勉強していく上で、とても大切な財産になりました。たとえば、「これ食べていいですか?」を「Can I eat this one?」と言ってしまうと、「これ腐ってないですか?」という意味で外国人にはとらえられてしまうというのは、特に印象深いものでした。去年の夏、ニュージーランドにホームステイに行ったんですが、自分も気づかないで、ホストファミリーに失礼な英語を使っていたことがあったかもしれないと考えさせてくれました。英語を正確に話すためには、正しい英語を使い、相手に失礼のないような英語を話せるようにしなければならないと思いました。1年間、先生の授業を受けて、また一から英語を見直して、先生の授業を生かして英語を話せるようになり、将来、大学2年の時習った英語のおかげでここまではなせるようになったんだ、とおもえるようになりたいです。(男子学生)

 ●山岸先生の授業で教わったものは日本の英語教育というものを越えていたと思う。わたしは英語というものを通じて、山岸先生の授業では、英語だけでない、欧米・日本文化はもとより日本人の根底に流れる精神みたいなものもわたしは学んだ。外国人に私たちがどのように見られているか、客観的な日本人像に論理的に答えていく、それはとても有意義であったし、その過程で驚きや、逆に、自分はこんなことも知らなかったのか、という気持の連続であった。しかしそれらは全てが納得できた。その場から自分の中に蓄えられていっているのがわかるような気さえした。わたしは常々日本の歴史などに関する教育に疑問を持っていた。山岸先生のおっしゃっていた自虐史観という言葉には大いに動かされるものがありました。自分は憲法をこれから専攻して、将来も憲法改正に携われるような職につくつもりです。その時、日本人という国民文化を良く知らないでどう改正ができましょうか、この授業で得たことを胸にがんばります。一年間ありがとうございました。男としても先生のように一人の女性を愛し続けます!(男子学生)

●日本の英語の入試には、構文を聞いてくる問題がたくさんあるが、それは、日本人の英語上達にとって良くない事だ。何故なら、一つ一つの構文には、ちゃんと 使うべき状況が細やかに設定されており、ネイティブはそれを考えながら使い分けているからである。 だから、日本人は堅い表現、柔らかい表現の違いを教えられる事無く、両者をゴ チャゴチャにして英語を習ってしまう。そこで、これからは、「こういう状況で 、こういう表現を使うとネイティブには、こう伝わります。だから、こういう表 現を使うのが適切です。」と細やかに教える事が大事で、入試にもそれをきちっ と取り上げる事が大事であると思う。 だから、なにも焦る様に、「ここからこの範囲までの構文を全て暗記させよう」 とさせずに、一つ一つの表現を大事に、実用的に学んでいくことがとても重要なのでは、と思った。 日本人は私も含め、英語を「表現しよう。」という意識が低く、「読もう。」や 「入試で聞かれるから、構文を暗記しよう。」としか考えてない人が多い。このように、ニュアンスを重視した英語の勉強を日本人がすれば、もっと英語を使っ ていこうという意識が日本全体的に高まり、そして今まで英語を使おうと努力し ていた人達はよりネイティブに近い言い回しが習得できるようになると私は思う。 日本で習っている英語は、堅い表現と柔らかい表現がゴチャゴチャになっている という事を痛感させてくれたのは、この授業のおかげである。私は、大学受験を している頃からの夢で文部省に入って「日本の英語を変えたい。」という目標がある。一年通じて、この授業で学んだ、「表現の使い分け。」そして、学んだことのもう一つである「文化による考え方の違い。」を参考にして文部省で頑張りたい。 (男子学生)

●私は昔から英語の勉強が苦手でした。そして、受験を経ていない私には、受験英語の延長にあるような授業にはついていけず、まったく興味もわきませんでした。そんな私がこの授業を履修したのは講義要項を読んだときに、ほかの授業とはまったく違った観点から英語を捉えており、これなら私にも興味が持てるかなと思ったからです。しかしこの授業を最初に受けたとき、学生自らが手を上げて発表するというスタイルに驚き、正直めんどうくさいなと思っていました。そして、授業の中でキリスト教や仏教など宗教の話が頻繁にでてきていたので、こんなことで英語が学べるのかなと思っていました。でも、山岸先生の授業を受けているうちに段々と、初めに持っていた不信感はどこかに消えていて、いつのまにか山岸先生の世界に引き込まれていました。そして、今までとはまったく違った英語の授業に興味を持ち、同時に様々な外国の文化、そして今までよくわかってなかった日本の文化を知ることができ、大変勉強になりました。何よりも山岸先生の授業を聞いていて感じたことは、学生の英語のレベルの違いを問題としないところです。受験をしてこの学校に入った者も、昔から英語が苦手で受験もしていないこの私も、みな同様にこの授業から学ぶものは多く、そして考えさせられたと思います。この授業を受けて、英語嫌いだった私も英語に興味を持ち、これからも勉強に励みたいと思います。そして、授業の中で学んだ自分たち日本の文化を大切にして人々に伝えていきたいです。1年間熱心な授業をありがとうございました。(男子学生)

●第一回目の授業の時、先生から「denotation」と「connotation」の話を聞き衝撃を受けました。辞書的な意味は言葉のほんの一部分であり、その言葉の本当の意味は辞書にのっていないところにあるというものです。そのようなことを聞くのは初めてで、すぐにはピンとこなかったのですが、授業が進むにつれてだんだん言葉の奥に潜んでいるものの大切さがみえてきました。そして同時に、今まで六年あまり私が勉強してきた英語がいかに上辺しか見ていないものだったかを思い知らされました。単語帳を作りそれを丸暗記するということが当たり前だったのですから。けれどもよく考えてみれば、文化の違う国でそれぞれ発達してきた言語が、単純にひとつひとつ対応する訳がないのです。このようなことに気付かないままで大学生活が終わっていたら、と思うとこわいです。言葉の裏にある背景に目を向けないで勉強を続けていても、コミュニケーションする力は養われないでしょう。そもそも英語を学習する理由は、世界の人々とコミュニケーションをすることにあります。相手を理解するためにはその国の文化も知らなければなりません。日本人的発想の英語を話していては誤解を生むことになってしまいます。ですから英語圏の人たちの考え方を知るのと同時に、日本人のこともよく理解している必要があります。私はこの授業で、普段自分が何気なく口にしている言葉や行動を考えるという大切な機会を与えていただきました。無意識なものに意識を向けるという作業は大変でしたが、とても有意義で興味深いものでした。
 この授業は今まで受けてきた単語や文法の知識の詰め込みという受け身のものとは違い、積極的に私達に考えさせるというもので、毎週新しい発見があり充実した時間を過ごせました。履修して本当に良かったです。ただひとつ心残りなのは、自ら手を挙げて発言することをためらってしまい授業に貢献できなかったことです。それでは最後になりましたが、一年間ありがとうございました。(女子学生)

●山岸先生の授業からは本当に沢山のことを学びました。英語に関することはもちろんのこと、言語と表裏一体となっている文化や歴史、またそれから由来する考え方や行動様式など多岐に渡ることまで。そしてそれらを学ぶことは大変興味深く、また自分にとってとても重要な経験であったと思います。また、山岸先生の普段のお話から伺える先生の考え方や物事に対する姿勢からも学ぶべき点が沢山あり、英語の授業という枠を超えた、とても素晴らしい理想的な授業だったと今、改めて思います。今までの私が受けてきた英語の授業は山岸先生の授業とは全く正反対の詰め込み型、暗記型の授業でした。確かに語彙力や基本的な文法事項などを学ぶ上では必要なことであったとは思います。しかし、コミュニケーションを図る、そして相互理解をする上では多くの弊害を生んでしまうように感じます。私は語学を学ぶ真の目的はやはり言語の異なる人々とのコミュニケーションをとることだと考えているので、山岸先生のような視点での英語教育の必要性を強く感じます。私が山岸先生の授業を履修できたのは履修申告の手違いなどの偶然が重なった結果なのですが、その偶然と私の履修を許可して下さった山岸先生に感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。(男子学生)

●私は山岸先生の授業を通じて、ネイティブに伝わる英語や英語圏の文化、さらには日本の文化をも学び非常に濃密な授業であったと感謝しています。過去の英語教育を振り返ると、中学、高校と文法の学習ばかりで英語圏の文化についての学習や、伝わる英語について教わることはありませんでした。浪人時代は予備校のライティングの講師に、文法的に正しいだけでなく、伝わる英語や自然な言い回しの英語を教わりました。しかし、実際の大学入試は文法的に正しければ正解となり、その様な微妙なニュアンスを勉強することには中々時間を割くことはできませんでした。これらは中学、高校において山岸先生のような教師が全くいなく教わっていないことから、英語圏の文化や伝わる英語のニュアンスが私には分かりずらく、また、文法重視の教師が多数をしめることにより、大学入試もその様な問題になっているためだと思います。
 私は、確かに過去の英語教育を通じて、リーディング能力や文法の知識を得ることができたと思います。また、ある程度の英作文を書くこともできるようになったと思います。しかし、私は、山岸先生もおっしゃるとおり、英語教育にはもっと大切なことがあると思います。山岸先生の授業のように、英語圏の人のモノの考え方を教えたり、この文章ではこの様に伝わるなど具体的に指し示すなどの授業を同時に行なっていかないと、いつまでもネイティブに伝わらない英語で終わってしまいます。私はまだまだ良い文章も書けないし、未熟ですが、山岸先生の授業を通じて私なりに向上したと思います。一年間ありがとうございました。(男子学生)

●最初、まず、これはいままでの授業と違うなと思いました。「昨今の英語教育は間違っているのだ」という話はよく耳にします。しかしこれまで、ここがだめだ、とはわかっていながら実際に効果的な授業を経験することはなかったのです。2回3回と授業を受けているうちに、その意味でまさに最前線に立って教えていらっしゃる先生なんだということをつくづく感じました。はじめのほうの授業で先生は、「この授業を受けていると英語を使うのが怖くなる」とおっしゃいました。そのとき僕は、おそらくはほかの学生も思ったであろうことを思いました。「そんなおおげさな」でもこの考えはすぐに覆ることになりました。僕は実際に英語圏の人と話す機会はまだないですが、もしこれまでの英語の知識で話すことがあったとしたらどんなことになるか。考えるだに恐ろしいです。日常で使うような表現の中にも、悪くすると相手との関係が壊れかねないような勘違い表現があったのです。そのような事実の存在と、今後の英語の勉強の仕方について考え直す機会を与えてくださった先生の授業からは、大きなものを学び取ることができたと思います。1年間ありがとうございました。(男子学生)

●過去の英語授業に思う まず思うことは、高校までの英語の認識のまま外国に行っていたら(旅行や留学)、大きな誤解をされていたのではないか、と思います 。 中学、高校で学んだことの多くは、構文や単語の暗記でした。たしかに、このよ うな学習も必要なことであり、また、当時は重要なものであると考えていました 。 しかし、言葉の辞書的意味とその裏に隠された文化的・社会的な意味の違いについて学んだことはありませんでした。また、英語を教える先生からは、日本語よ りも英語の方が優れているのだ、という感じで教えられたように感じました。
 この授業で学んだこと  先生の授業では、英語の知識と同じくらい日本の知識について学んだと思います。これまでの英語の授業では、日本のことを学習する機会は全くありませんで した。しかし、先生の授業では、「外国人の疑問100」や教科書を通して、日本の伝統文化や社会性、あるいは日本人の価値観がどのようにして形成されていったかなどについて学ぶことができました。他国の文化について知ろうとする前に、自国の文化について学ぶことが必要だと感じました。そして、このことこそ、外国の人とのコミュニケーションの出発点であると思います。次に、辞書や参考書がいつも正しい英語を教えてくれるとは限らない、ということです。つまり歴史的な背景や風土の違いから生じる価値観によって、同じ言葉、同じ単語であっても意味が違ってくるということです。例えば、「burdock」 を辞書で引くと、「ゴボウ」と出てきます。しかし、日本人の考える「ゴボウ」 とアメリカ人やイギリス人の考える「burdock」は同じ性質・用途を持ったものではないといったことです。このようなことを知らずに外国の人と話していては 誤解が生じてしまいます。これらのことを、この授業で学びました。(男子学生)

●私は中等部から慶應に在籍し、英語教育は慶應の英語教育として学習してきた。そういった私の経験も考慮しつつ、述べていきたいと思う。英語教育として、まず最初に思いつくものが、文法である。慶應では文法を中心として、英語教育を受けていたような気がする。しかし山岸先生は、授業中に度々、「英語の文法はさほど気を使うものではない。」とおっしゃっておられた。私も文法は確かに必要であるが、そこまでこだわる必要性はないのではないかと考える。実際私は、そのような経験がある。私の父が仕事でシカゴにいるので、私は父に会いにシカゴへ行く機会が多い。その際に外国人と話すのだが、別に文法を気にかけなくても会話は成立する。ある程度の会話であれば、単語を羅列しただけでも話せるのではないだろうか。
 また、慶應の英語教育の中での文法は中途であった気がする。中等部から文法を習ってきたのであるが、高校はほぼ中等部の授業の繰り返しであった。内部生の英語力の弱さはそんな慶應の英語教育からきているのではないかと思う。文法の次に思いつくのが、オーラルコミニケーションである。慶應の中でのオーラルコミニケーションの先生は、外国人の方が多かった。しかし、オーラルコミニケーションといってもあまり英語を使わなかった記憶がある。普通の英語の授業とオーラルコミニケーションはどう違うのか?そう感じてしまうほど、オーラルコミニケーションの必要性が分からなかった。
 このように日本の英語教育は、本当の英語を習得するためには正しいのだろうか?よく言われることであるが、日本の英語教育はReading・Writingをするには十分であるが、Listening・Speakingのような実践には向いてないと思われる。また、このような英語教育を受けているから、日本人はアジアの中でもワースト3に入るほど、英語力がない人種となってしまったのではないだろうか。(男子学生)

●私は、中学から勉強をし始めてもう約9年間も勉強していることになり、ある程度の英語の読み書きはできますが、いざ英語を話したり書いたりすると、堅苦しい英語になってしまったり、文法的には良い文章であっても話してみると変なニュアンスの英語になったりしてしまいます。高校時代にアメリカでホームステイをした時もそれらのことが如実に現れました。なぜこの様なことが起きるのか考察してみるとアメリカ英語の文法的な誤りもその一因かもしれませんが、やはりアメリカ英語の背後にある文化つまり言語文化をあまりにもしらなすぎたことにあると思います。裏を言えば、そういうことを教えない日本の英語教育に問題があるのだと思います。こういうことを考えると山岸先生の授業が如何に素晴らしいものかがわかりました。英語の文章にある深い文化を知ることができましたし、また、「こういう場合に、この様な英語を使うと欧米人はこういうふうにとらえてしまいます。」 この様に、具体的に指示していただき、とてもわかりやすい授業でした。山岸先生の授業を取ってとてもよかったです。1年間ありがとうございました。(男子学生)

●一年間を通して先生の授業で学んだことは英語の文法や単語ではなく、英語の勉強方法だ。先生の授業の中でも、もちろん単語や文法について触れているが国の文化や場面に応じた英語により重点をおいて学んだと思う。文化を知らなければ自分の使おうとしている英語が文法、単語が正しくても間違いになりうることがあるということがわかりました。これは私の勝手な考えなのですが英語を本当に使いこなせるようになるには海外での生活が不可欠なのではないかと思います。日本国内で外国の文化や場面に応じた英語を学ぶのは相当な時間がかかり、外国での生活で失敗した方が忘れないだろう。先生の授業は英語を教えていることと同時にきっかけを教えているのだと思います。過去にあった単語や文法を減点方式で学ばせるような授業方法は英語力も海外での生活や文化に目を向けるようなきっかけは生まれにくい。減点方式に怯えながら勉強するだけでは英語力が伸びないだけでなく勉強意欲も下がる一方だと思いました。(男子学生)

●今まで自分が受けてきた英語教育は確かに色々と問題があると思う。といっても とても偉そうなことは言えなく、自分は英語の授業をまともに受けてきた記憶がない。決 して不真面目な生徒であったわけではないが、一番受けたくなかった=つまらな かっ たのが英語の授業だ。文法を、単語を憶えることに意味がないとは思わない、と いう より非常に大切なことだろう。しかし実際それらの作業というのは、恐ろしくつまらないものに当時の自分には感じられた。高校二年のときオランダにホームステイに行って、一人で随分色々な人と英語で喋らなくてはならなかったとき、大変だったが 初めて英語を使うことの楽しさを知った。英語は言葉なのでやはり使うというこ とが存在意義だと感じた。中学校高校でやる英語の問題等は、それはそれでパズルと しては楽しいのだけれど、もっと本質的な楽しさを追求するような(例えば英語を使 って人に告白するとか)教育であってもよいのではと思う。 授業については先生の知識の深さに驚くことが多く、知らなかったような日本の文化にもふれることができ、大変面白いものでした。自分は発表するのが苦手で、発言も 少なく、非常にご迷惑をおかけしたこととは思いますが、おかげさまで楽しく授業を受けることができました。 一年間どうも有り難うございました。 (男子学生)

●山岸先生の授業は、これまで私が学んできた英語の授業とは全く違ったものだと思いました。 日本文化についてあらためて考えさせられる事が多く、また得たも のも多かったと思います。始め、“なぜ日本人は〜なのか?”という問題を見たと きは、こんな事考えたこともないし、分からないな、と戸惑いました。ですが、少しずつ先生の授業の方法に慣れるにつれ、新しい問題を見たときもそれ程戸惑うことはなくなったと思います。私の中学・高校時代の英語教育は、文法中心というよりも外国人教師による英会話の授業の方が多かったように思われます。 そのため、英語の授業も日本人の先 生によるより、外国人の先生による授業の方が多く、その分、外国人教師とよく触れ合うことが出来ました。しかし、意思の疎通を図れないときなどが多々あり、“なぜ先生はそういう事をいうんだろ?”などとよく友達と愚痴をこぼしたりしたことを覚えています。それを今になって思い返してみると、英語が上手く話せていなかったと いうこともありますが、それ以前の問題として、お互いの文化の違いというもの を意 識できていなかったことにあるのではないかという事に気がつきました。この授業を通じて、少しずつですが、相手がその発言をするとき、その裏にはどのような考え方があるかということを意識することが出来るようになったのではないかと思います。これからもより多くの日本文化や他の文化についての理解を深めていきたいと思います。 一年間ありがというございました。 (女子学生) 

● 「外国人の疑問に英語で答える」、これが履修案内に載っていた、この授業の授業名である。授業についての説明文を読んでも、授業の内容は大変そうであり、文法が苦手な私は、簡単な授業ではないことを覚悟しなければならなかった。 何と言っても、日本語で説明するのも難しいことを、英語で説明しなければなら ないのであるのだから。 しかし、授業を受けてみて、この授業に対する私の考えは180度変わってしまった。この授業では、自分の言いたいことを伝えようとする努力が重要であって、文法の正しさは絶対条件ではないのである。また、予習してきたことはも ちろんのこと、先生の質問に対しての自分の答えや、学生が疑問に思ったことを 、積極的に発言することが奨励され、今まで受けてきた生徒が受身の授業とは、一味も二味も違うものであった。 この授業で私が学んだことは、私たち日本人は自国の文化についてあまりにも 無知であるということである。自国の文化について無知な人間が、どうして他国の文化について理解することができようか。 この授業を受けて良かったかどうかという質問は、私にとっては愚問であるが 、あえて答えさせてもらうと、とても良かった。知的好奇心を大変満足させられた。毎回、授業で新しい発見があり、授業に出るのが楽しみだった。 最後に、山岸先生、一年間どうもありがとうございました。 (男子学生)

●中高、そして大学と8年間、いや、先駆けて塾で勉強していた時期も含めると、足掛け10年に渡って英語教育を受けてきたが、山岸先生に出会うまでは、英語というものは、ただ先のステージへと自分を進めるために必要な「科目」の一つに過ぎないものだった。しかし新たな要素との出会いがあった。「文化」という要素だ。日本語と比較するだけでも、民族ごとのもつ「文化」との違いが明らかになるではないか。今英会話の予備校に通っている。知識としては、見慣れたものばかりだ。でもつまらないことなどない。隠された「文化」を同時に探るという違った見方ができるようになったからだ。(男子学生)

●私はこの授業を履修して先生のお話を聞くまで、タイトルのようなことは考えたことがありませんでした。英語に関しては義務教育の流れから特に興味を持つこともなく、ただやれと言われたことを適当にこなしてきました。僕にとって英語は中学以来ずっと「つまらない学問」でした。この授業を履修して中学生の頃の僕がなぜ英語を「つまらない学問」だと思ったのか、原因の一端が垣間見えたような気がしました。中学、高校の英語はただ記号の羅列を頭に詰め込んでいるだけでした。当然、英語を勉強することでそのバックグラウンドが見えたことはありませんでした。先生の授業で多少その「単語」の向こう側が見えたような気がします。相変わらず英語は苦手ですが、この一年で英語に対して興味は湧いてきました。この一年本当にありがとうございました。(男子学生)

●私は中学から現在に至る約7年間英語を勉強してきましたが、先生のように英語を捉えた授業は初めてでした。 単語の辞書的意味だけでなく文化的背景を根底とする根源的意味を教えてくださ ったり、受験では当り前のように使われていた文法表現が実際では使われていな かったり誤った意味になったりすることなど教えて戴けました。 さらに 、英語圏だけでなく母国である日本自体の文化や歴史を知ることができました。 生まれてこの方、日本人をやってきたのだから日本のことは分かっているつもりでしたが実は何も分かってないことに気付かされました。「外国人の疑問・10 0」は私たちが普段、当り前と思っていることにも、文化的・歴史的理由が存在 しているということを学ばせてくれました。 このような画期的な授業を早期から受けられたなら素晴らしいと思いますが、現行の受験体制ではなかなか困難に思われ残念です。 だからこそ、私は1年間で学んだことを様々な形で活かせるよう精進していきた いと思います。ありがとうございました。(男子学生)
  

後日記1:
上記2002年度生の1人(下田侑平君) は、3年生になった年(2003年)の8月に、中国天津市にある南開大学に留学したようで、私の授業が有益であったことを本年(2004年)4月1日付けのインターネット上の日記に書いていてくれます(題名:「外国人の質問にこたえられるか?」)。過日、偶然に見つけた記事でしたが、嬉しく読みました。教師が精一杯、良い教育を施すことの重要性を再認識させてくれました。異国にて、「そこで思い出すのが、日本の大学で、一番熱い英語の講義をしていただいた山岸勝榮先生である。」と思い出してくれた同君に対して、むしろ私こそ感謝をしなければなりません。(2004年[平成16年] 4月10日)
後日記2:
2002年度生に、もう一人、自分のホームページを作って、そこに私の授業から学んだことを書いて、多くの人に読んでもらおうと努力している学生がいることを、昨日、偶然発見しました。佐々木和彦君です。2004年7月現在、三田の4年生になっているはず。その書き込みの量から判断して、ホームページを開いて間もないようですが、今後が楽しみです。「英語の山岸先生から聞いた話」というタイトルが付けてあります。「大学に入ってから受けた中で、『一番ためになった』と思えたのはこの先生の授業」と回顧してくれたことを限りなく、嬉しく思っています。まさに教師冥利に尽きます。(2004年[平成16年]7月3日)