1 満足度の高い大学英語授業の創造
A. REVIEW―受講生諸君の声に学ぶ
慶應義塾大学法学部2年生【英語V受講生】諸君の場合
我が国の英語教育が本当に成功しているかどうか、どこにどのような問題があるか、何をどのように改善すれば良いかと言った点を知る最も有効な方法の1つは、英語教育を受けた側、すなわち生徒・学生諸君の声に耳を傾け、その内容を分析することだと思います。以下にご紹介する小文集は、私が慶應義塾大学法学部
(法律学科・政治学科)2年生諸君を対象に、「英語V」(2000年4月〜2001年3月)の授業で、学年末に提出してもらった 「過去の英語学習に思う」と題した小文の全てです。2クラス担当で、同一内容の授業を行いました(受講者数は片方のクラスが36名、もう片方のクラスが19名でしたが、春学期だけの単位取得を目指す諸君も一部にいましたから、最終的には、各クラスの人数はやや減少しました;
なお、もう一方の小文 「この授業で学んだこと」と、この「過去の英語学習に思う」とを一つにしてまとめて提出した諸君もありましたが、その場合は
「この授業で学んだこと」 のほうに収録しました。詳細はこちらをご覧下さい。【掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています。】 |
このような小文を担当学生にほぼ毎年書いてもらうのは、それを反省材料として、次年度の授業をより良いものにしようという思いからです。換言すれば、review をすることが、その動機は別として、私のクラスを選んで受講してくれる次年度の諸君に対する、教師としての私の当然の務めだと思うからです。現役の英語の先生方、教職希望の若い人たち、塾・予備校関係の皆さんにも参考になる点が少なくないと思います。学生諸君の氏名は記載していませんが、明らかな誤字・脱字の修正以外は、原文通りです。従って、意図の不明瞭な個所がある場合もありますが、そのままになっています。なお、主観に基づいて、これと思える個所には色(青)を付けました。 |
●いままで、世論では今の英語教育はだめだ、とか変えなければという意見が出てきているというのは知っていたが、自分でこれについて考える事ができるようになったのは、やはり山岸先生の授業を受け、僕にとって新しいスタイルの英語を学んだからだといえます。従来、僕が受けてきた英語教育では英語の発想というものを日本語に変えて理解する事が前提であり、学習形態としては覚えなければならないものをリストアップしていくという事がほとんどでした。しかし、それでは日本人として英語を使うということが忘れられているのではないでしょうか? 日本人としての発想を知らずして、それを英語で表現し、英語の発想を知るというのは困難だと思います。つまり、「認知すればよい」という英語教育、すなわち英語の構造や表現のみを重視していくという教育が今まで行われてきていたのだと思います。しかし、本来必要なのは英語、そして母国語である日本語の「文化」や「内容」について理解し、そして考え、接していく事なのだと思います。僕は正直言って自分の語学力に自信がありませんでした。しかし、「文化」や「内容」に興味を持つことによって、そして山岸先生の授業でその機会を与えられた事により、自分なりに理解したいという気持ちが起こりました。今までのような文法の押し付け、単語の押し付けでは英語に対して興味がなくなってしまう人もいると思います。(大学における英語教育ではそれは少ないと思いますが)やはり「そうなのか!」と思えるような教育でないと、興味は薄れ、記憶して植え付けるだけの勉強になってしまいます。これからの英語教育では言語の複雑な形態を重視するのではなく、興味ある「文化」や「内容」といったものに触れ、自分で考えてみるという教育が必要だと思います。自分で感じ、考え、そして理解することで、日本そして英語圏の国々への文化や生活に興味や関心が広がりよりよい形で、英語というものを学ぶ事が出来ると思います。(男子学生)
●中学・高校と英語を日本において学習してきました。大学の二年間を含めるともうすでに8年間も勉強してきたわけであります。8年も英語を学習したら、日本語を8歳の子供が誰でもしゃべれように、英語もしゃべれるはずだと思いますが現実はそうではなりません。そこに日本の英語教育の改善点が見えてくると思います。日本では、中学校から週3時間、高校では、週5時間程度、文部省の検定教科書を用いて英語が教育されています。授業では、受験教科としての知識を与えるための、文法・訳読主義の授業が多く、学校教育だけでは、「速読」や「聞く・話す」という面が弱く、実際にはあまり訳に立たないと思います。つまり英語の4要素である、書く、読む、聞く、話すの中の聞く、話すの部分が極端に欠如しているといえます。自分が高校3年の時にはオーラル・コミュニケーションというネイティブスピーカーによる授業が週に1時間ありましたが、聞く、話す教育はまだまだ時間が少なすぎるような気がします。依然として読む、書くといった教育の傾向は強いといえます。これが最初の英語教育の問題点であるといえます。次に日本は英語に触れる機会が少ないことも英語教育の問題点であるといえます。中学、高等学校の6年間で最大2030時間英語の授業があるといわれています。この2030時間とは実際どれくらいの時間なのかというと、2030時間は84日分に相当し、2030時間を6年間
(2190日)で割ってみると1日あたり55.6分になります。これでは少なすぎることは一目瞭然です。このように数字的な観点からみてもわかるように日本の英語教育の時間の少なさは殆どの日本人が英語を話す事が出来ない理由の一つにつながっていると考えられます。(一概にはいえませんがTOEFLの日本のレベルが低いことからも日本英語教育に問題があるといえるのではないかと思います。但し日本人は英語を話す環境にないことや、日本語と英語の基がかなりかけはなれた語源であることも関係しています。)
このような2点が大きな日本の英語教育の問題点だといえます。これらの問題点に対しての自分が考える解決策としては最初にやはり入試問題の改革を挙げたいと思います。大学の入試センターの問題にリスニングテストが導入されたり、公立高校の入試問題が改善されているとは思いますが、私立高校などの入試問題は難しい長文読解を始め、あくまでも文法偏重の傾向があると思います。実践的コミュニケーション能力をつけることが目標ならば、やはり英語による面接やリスニング問題を増やすなど、大学や高校入試から変わらなければ日本の英語教育はなかなか変わるのは難しいと思います。やはり当面の目標(受験)に対して学生は勉強せざるを得ないと思いますし、学校の英語教育もそこをカバーしていくものになるのは仕方ないと思うので、入試問題を変えて行けば自然に変わるのではないかと思います。また英語教育の時間の少なさについての問題はいたしかたない問題であるかもしれませんが(ずっと英語に触れている日本人は厳しい)、せめて一日2時間ぐらいの英語教育になればもう少し良くなるのではないかと思います。
(男子学生)
●今まで受けてきた英語教育について思うのは、まず、ほかの人とのコミュニケーションをとるための手段として学校で教えていないことであると思う。まず、文法から始まってそこからリーディングに入っていき、そして大学の入試では読むことと、書くことが主に問われる。書くことといっても自分の言いたいことを書くのではなく、この日本文を訳しなさいとか言う問題である。私たちはそのような問題を今までとかされてきた。そしてそれゆえに大学まで、英語を6年間もやってきてもまだ外国人とコミュニケーションをとるのに自信がないという人がほとんどなのである。ほかの国の言語をなぜ学ぶ必要があるのだろうか。それはそれを使うことによってよりたくさんの人とコミュニケーションをとるほうが、自分自身を高めることができるからである。それと同時にほかの国の言語をやっていてもっとも、よかった、楽しかったと思える瞬間というのはほかの人と話ができたときであると思う。最近 「これからはだんだんと国際社会が一体化していくから英語は必須」
などといわれてリスニングの重要性が強く主張されているが、僕個人の考えとしてはなんかそれは淋しいと思ってしまう。やっぱり自分自身がもっといろんな人との会話を自分の人生のためにしていきたいとか、そんな風にポジティブな姿勢で学んでいくほうが絶対上達も早いし、何よりも楽しいと思う。このような楽しく英語を学べる環境のほうが今までは足りていなかったように思う。これからそこを改善していくべきであると思うし、そうでなければこれから行われる小学校での英語教育も意味のないものになってしまう気がする。(男子学生)
●私が受けてきた英語教育は中学・高校・大学と主に進学・就職のための勉強であった。幼い頃から英語というと文法が重要でそれらを間違えると1語1語訂正されていいて、それが“英語”をつまらなく、興味を奪っていってしまった。この授業では文法の正しさより、文化を通して、相手の文化に立った生きた英語を学ぶことができた。中学・高校の文法を正す勉強は生きた英語を学んだ後にこそ役立つのではlなかろうか。
また、私のいた中高では単語テストというものが数多く行われた。ただ繰り返し単語のスペルを暗記したのである。我々は日本語を学んだように、そのものを音としてとらえることが生きた英語として必要なのである。現在の日本の英語教育はやはり生きた英語ではなく、今後英語の必要性の増加にともなってシステムを変えていくべきである。(男子学生)
●僕は高校から慶應義塾に入った。そのため、中学において英語は単なる受験のためのものだった。それでも英語の楽しさを感じることがあった。しかしそれはただ問題が解けるという喜びに過ぎない、いわば数学と同質のものであり、英語そのものが楽しかったわけではないと思う。中学においてとある教師の能力、やり方共に疑問があったのも確かだ。その授業内容はほぼ教科書の丸暗記だった。それを毎回のようにテストする。しかも採点は生徒同士。そのやり方には相当疑問を持っていた覚えがある。その後高校に入ると附属という事もあってか、授業で小説を読んだりビデオを見たりという事が多くなり、特に小説をはじめて1冊読み終えた時は英語で読むことが楽しいと感じた。その頃初めて英語を自主的にやりたいと思い、映画やドラマを英語のまま見たりした。特にコメディードラマ等では変わった言葉の使い方がされており、砕けた表現を知ることが出来て楽しかった。そして大学1年次の先生は英語のニュースを1年か取り扱った。そのニュースでは「御柱祭り」等、日本の行事も取り上げられていた。それぞれの文化が伺え、楽しい授業であった。こうしてみると僕が今まで受けてきた教育にさほど不満はない。(男子学生)
●授業の中でも、何度か日本人の英語力についての話が上がっていたが、それには日本の英語教育の問題が大きく関わっていると私は考える。私が受けてきた過去の英語教育を振り返っても、文法をマスターし、単語を覚え、教科書の短い文章を読むといったワンパターンなものであった。中学・高校での英語の授業、家庭教師や塾での学習を重ねるうち、英語は好きだが”面倒なもの”になってしまった。高校の授業の中で、1時間ひたすら文法学習というものがあった。厚い文法書を渡され、説明を受け、暗記をするという苦痛な時間だった。今考えると、受験対策だったのだが、”英語を楽しむ”という余裕はなかった。英語離れしてしまった原因を全て私が今まで受けてきた教育に当てつけるわけではない。私自身が英語を楽しむ方法を見つけ、教育以外で英語に触れようとしなかったのだから。ただ、現在、幼稚園、小学校での英語授業導入が増えていることに私は疑問を感じるのだ。小さい頃から英語に触れさせることはいいと思うのだが、その教育方法を考えるべきだ。単語を覚えさせ、文法をつめこませるような教育では、本当の意味での英語教育にはならないだろう。英語好き、外国の人と話すのが好き、そして、日本のことを外国の人に知ってもらいたい、教えたいという人を育てていかなくてはならないはずだ。私は小学・中学の英語の授業で山岸先生のような先生に出会えていたら、私の日本、又、英語に対する考えが変わっていたのではと思う。そして、私はぜひ今、これからの小学生が山岸先生のような授業で英語を学ぶことを強く願う。(女子学生)
●私は内部進学者で、中学からずっと受験を経験せずにきたため、英語の勉強というのはほとんどしたことがありませんでした。学校の授業も、ただ教科書を読んで訳すといった単純な作業の繰り返しでしかなかったため、はっきり言って英語は苦手だし、嫌いでした。辞書を引いても、どれが適切な意味かわからなかったので時間ばかりがかかり、英語の勉強というのは辛くてめんどうくさいものとしか思えなかったのです。
しかし、この授業は一人当たりの負担は少ないにもかかわらず、他の人の発表もみな興味深く、授業がつまらないと感じたことは一度もありませんでした。負担が少ないのでみな自分の担当の時はしっかり調べてくるし、その内容も外国人から見た日本人という、私たちが普段気にも留めていなかったような疑問ばかりでとても楽しかったからです。
授業方針というのは先生によって違うし、どのやり方が正しいとかそういうことはないとは思います。でも、私はこの授業で初めて英語がおもしろいと思えたので、もっと早くからこういう授業に出会えていたら、もっと英語が好きになっていたのではないかと少し残念に思っています。でも多少時期は遅かったかもしれませんが、この授業を受けることができたことは、必ず人生のプラスになると思いました。一年間、本当にありがとうございました。これからもお体に気をつけて頑張ってください。(女子学生)
●中学・高校における英語の授業は正直言ってあまり意味のないものだった。中学はゼロからのスタートなのである程度文法等のウエートが大きくなるのは仕方ないとしても、高校の授業は心底無意味だった。まず、英語を話す機会は無いに等しく、発音など指導された記憶はゼロ。テストなども問題集を暗記すれば誰でも百点という感じだった。確かに大学受験に必要とされるものは満たしていたかもしれないが、それだけなら一人でもやれると感じた。こういう僕が否定的なのは、単に英語が嫌いだったこともあるが、僕だけでなく、友だちもみんな同じようなことを言っていたため、おながち偏見というわけでもないだろう。恐らく先生方もそういった授業で英語を使えるようにならないだろうと思いながら教えていたのだと思う。実用的な英語教育のためには大学・高校・中学・小学校が根本から変わらなければならないと思う。(男子学生)
●僕の8年近くの英語学習を通して言える事、それは自分の英語の総合的な能力の低さを見るとやはり現在の文部省の定めた英語学習のプログラムには欠陥があると言う事である。まず中学・高校と通して単語の短時間での詰め込み(実際自分で会話において使わない単語は身につかないと思う)が一つ。二つめはりライティング重視の授業(リーディングは表現方法や書き言葉を知る上で重要だと思う)であり、もっとリスニング・スピーチに時間を割き簡単な表現や旅行などので実用的に使える表現に主眼を置いていいんじゃあないだろうか? 三つめはこれと関連するが英語を使う必要のある機会を増やす事。日常生活において英語を使わない以上、例えばアメリカンスクールとの交流のような実用の場を創らなければならないだろう。四つめは、より少人数制の授業形態とそれに伴う英語教師(とくに英語の教育に慣れたネイティブの教師)の増加が望まれる。そして最後に、英語という科目の学習選択権をせめて大学からは生徒に与える事、である。山岸先生のような
「言語を学ぶ事の意味」を諭す授業はとても大切であるが、これはやはりどちらかというと中学高校と英語を学んだ上で、改めて学ぶものだと僕は思います。以上が僕のこれから望む事です。(男子学生)
●日本の義務教育、及びそれに準拠する塾・予備校等での英語教育はその目的を、広く世界の人々とコミュニケーションを取れる国際人を育てる、という様な大きなところに置いていなく、単に大学受験を成功させるという目的の為だけに行われている。この様に日本人が大学受験に執着する事は日本の社会構造、つまり、そいの人の個性能力よりも、どこの大学を卒業したかという事を重視し、その大学により将来の社会的地位もある程度決まってしまう、ということに原因がある。
この大学受験の問題が殆どの大学で、同じ様に単語数、用法、文法といった点を重視した問題になっている為、現在問題となっている様に、文法的には一流でも実際に外国人とコミュニケーションをとる事が殆ど出来ないという様な“受験英語がすばらしい”日本人が多いのである。日本の英語教育は中学校から10年間も続いているという点を考えれば文法以外のもっと重要な事、世界の人々とコミュニケーションをとる、“心を通わせる”という事も十分に学べるはずなのである。この、コミュニケーションをとる、という事で重要な事は自分について知りつくしていなければならないという事で、英語で世界の人々と交流する時に当てはめるとつまり、我々日本人が我々自身を知り抜かなければ我々を相手に理解してもらうという事が非常に困難である、という事である。この事について、日本人はまだまだ不完全であり、義務教育の中に、もっと日本の文化を研究・理解しようとする様な文化学とでも言うでき教育があるべきであり、この事なしにはいつまで経っても、またいくら単語や文法を詰め込んでも日本人は真の“国際人”にはなれないのである。(男子学生)
●山岸先生の授業は、これまでの英語の授業と違って細かい文法にはあまりこだわらず、英語らしい英語を、そして伝わりやすいように、という点に重点を置いていたのが新鮮でした。いまだに覚えているのが、“many” と
“a lot of” などの使い分けで、私はこの授業で学ぶまで、双方の違いは
( )が1つか、それとも3つに増えるかだけだと思っていました。あてはめ式の文法のテキストで、many
= ( )( )( ) 、とやったのが頭に焼き付いていただけでした
(“many” と “a lot of" とは、意味は同じでも、言葉のレベル“speech
level”や用法が微妙に異なるということを授業中に説明したことを指しています―山岸)。この授業は一見、英語というよりは比較文化論か何かの授業のようですが、自分で疑問に対する答えを作成し、英語に換え、かつ外国の人が読んで納得できるような文章にする、というのは実は最も身につきやすく、そして重要な“英語”の授業ではないかと思います。高等学校で行う英語の授業も、受験英語などあまり意味がないとわかっているのなら根本的に変わっていくべきだと思いました。英語以外でも多くを学べ、自分が発表する度に先生に突っ込まれて悔しい思いもしましたが、一年間のこの山岸先生の授業は面白く、実りのあるものだったと思います。出来の悪い生徒でありましたが、一年間、どうもありがとうございました。(女子学生)
●自分は熊本県の私立の高校出身なので、この慶應義塾大学の法学部に入るためにはそれなりの英語力が必要とされる受験勉強を体験してきた。推薦受験ではなく、慶應側の用意する難問奇問に直面したため、高い偏差値が要求された。そのような要請に応えるための受験英語教育を受けた一個人として、思うことを書こうと思う。
受験英語においては、何よりも単語力が必要とされる傾向があったと思う。自分は一年間浪人している際に、単語帳を三冊丸暗記した覚えがある。特に難関大学と呼ばれるところの問題は、普段お目にかからない単語のオンパレードとなる。その際に如何に混乱しないかが合否を分けるのだ。日常の英語では使用されることのない英単語が、受験では頻繁に使われるという理由で重宝される。ここに受験英語の問題が集約されている。このほか、単語力以外に必要となるものは、速読力と読解力であるが、この二つは何も受験英語の問題点とは思わない。この二つは日本語の文章を読む際にも必要とされる能力であり、受験英語の弊害と呼ぶのは明らかにおかしいからだ。
要するに受験では、既存の受験体制に自分たちの頭を迎合させることが強要され、その過程において「受験英語(=非実用英語)の思考回路」が作り出されることに問題がある。この問題は、制度としての大学入試そのもの全体を見直すことから取りくまなくては根本的な解決を見ることはない。
しかし自分は受験制度をそう簡単に否定する気は毛頭ない。というのも、受験制度の役割というものに鑑みて現状を分析するに、受験制度に多少の改善すべき点を見つけることはしても、受験制度はその責務を立派に果たしているからだ。
入学試験とは、ある大学に入学を希望する者の人数を募集人員を超えた場合に、入学者を選定するために行われる試験である。つまり、万人に向けられた公の試験ではないのだ。そもそも、受験者が頭を抱えて悩みこむ問題を出し点数に差がつくように仕向けることを目的としている。そのような性質上、たとえば英語に関して言うと、出題される英語の表現が非実用的であったり、問題量が多かったりすることがおこる。これは必要悪である。出題されたハードルを越えられるものが入学できるという、シビアな世界なのだ。それゆえ、「受験制度自体が悪い」という考えは見当違いである。
しかし現状として、そのハードルを越えるために受験戦争なるものが発生し、必要以上に試験問題の難易度が高くなっていることは否めない。これこそが現行の受験体制の改善すべき点であろう。この打開策として挙げられるのが、試験の多様性である。一般入試と推薦入試の併用がよい例である。入学の門が一つに限られるがゆえに異常な加熱を見るのであり、入り口が増えれば解消されることは当然である。ただし入学の条件が著しく違えば学生の質に差が生じるのも問題があるため、注意が必要である。また、試験の成績以外の面を顧慮する制度を設けるのも効果的である。面接や高校時代の活動状況をもとに判断するのである。しかしなにぶん抽象的な判断になりがちであることは否めない。しかし、物事を全て画一的に、マニュアル処理をするために課した現行の受験制度の問題が発生している現在、一部に抽象的な要素を取り込むことで現行の問題を解消するのである。
以上、受験英語よりも受験そのものに思うことを書いてしまった。現在の英語教育が日本人の英語能力の向上に貢献していないことは、前述したように受験英語の性質によると考える。それゆえ、受験英語にそれを求めること、期待するほうがそもそも間違っているのだ。日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである。ただし日常の英語教育の延長線上に大学入試を位置付けると、どうしてもこの目標は果たされにくくなる。それゆえに、日本の大学入試制度の抜本的な改革、あるい既存の体制における問題を解消するような補助的なシステムの構築が必要である、といつも痛感している。(男子学生)
●中学生の頃、英語は得意科目であった。しかし、高校に入るとそれは徐々に崩れ始め、ついには苦手意識を持つようにまでなってしまった。原因は明らかに勉強量の減少であった。私は高校から慶応に入ったため、高校入学と同時に受験勉強をする必要が無くなったからである。このことから分かるのは、私にとって英語はあくまでも受験のための手段にすぎず、それ自体には興味をもてなかったということである。しかし、最近になってその意識は変わりつつある。国際社会に日本文化を伝えるための英語に関心が湧いてきたのである。それは、昨年の小屋先生(日本事情に関するディスカッション)や今年の山岸先生のおかげによるところも非常に大きかったと思う。学校の授業で英語を学ぶのは、おそらく今年で最後になるであろう。しかし、私は来るべき国際化社会において有用ありうるコミュニケーション能力を身につけるべく、これからも継続して英語学習に取り組みたい。(男子学生)
●僕が今まで受けてきた英語の授業は主に教科書を使った文法の修得(中学1年〜高校1年)、副教材としてその時その時の先生が選んだ英語の小説や新聞記事、エッセイの読解・和訳
(その時の先生によってかなり正確に訳さなければならない時や、わからない単語などはあってもいいからとにかく意味を推測しながら早くたくさん読みなさいといった時があったりと色々でした。)
といったものでした。ほとんどが英文和訳であり、今回のようなみずから英文を考え、さらに発表するということは初めてでした。(男子学生)
●私は大学から慶応に入ったのですが、当然高校の時は大学に入学するために、入学試験でいい点を取るために勉強したのであるが、英語を含めその殆どを忘れてしまったといっても 正直な話過言ではない。なぜならそれらほとんどを大学で使わないのだから。英語でいうなら膨大な単語、日常まったく使わない文法、それらほとんどすべてである。しかし普段よく使うようなことは覚えている。しかし使い方がよくわからない。あたりまえのことである。英語は使えるようになるために学ぶのである。大学に受かるたえではない。こういった目的の本末転倒という受験制度の弊害を唱える声は多いし自分も身をもって体験したことである。しかしなかなか改善されない。たしかに勉強するということは意味のあることであり受験の時勉強した知識が役に立つこともある。したがって受験問題自体がもっとその意味を考えてほしいと私は思う。(男子学生)
●日本人が英語が得意でない理由の一つに日本の大学受験の制度があげられる。国際社会で必要とされるのは、話せる英語、実際に使える英語なのに、過去の英語教育は決してそれに重きを置いたものではなかった。しかし、学校側から言わせればきっと受験でさほど重視されていないものに力をいれるのは困難であるなどの言い分があるだろう。しかし実際のところ、一生懸命に覚えた単語や文法、構文、熟語などがネイティブは実際には使わないようなものがあると知ったときは大きなショックを受けた。それは単に勉強のための勉強だったのではないかと思う。これらの問題を解決するには、限られた時間の中では、難しいかもしれないが会話中心とはいかなくとも、会話にも十分に重点の置かれた英語教育が望まれる。それに伴って大学入試もリスニング等を導入し、問題の傾向を変えていく必要があるだろう。(男子学生)
●高校までの英語教育に関して私はいくつかの疑問を持っている。それについて述べたいと思う。一つは実践的な英語教育がなされていないということである。よく受験英語がその例に挙げられるが、学校の授業に関してもそれがいえると思う。ネイティブが普段使わないような難しい単語、古典的な表現など、非実用的な勉強が多い。山岸先生の授業で英語を書く機会が多くなったが、このような単語、表現は使わずに、本当に基本的な部分でも意思は伝えられるということがわかった。
第二に、“書き”、“読み”中心の教育で会話やリスニングの授業が不足しているという点である。もちろんそれらが必要であることを否定する必要はないと思う。そうしないと、英語が学校の科目で終わり、本来の目的を達成し得なくなってしまうと思う。
第三にテストの形式、教育の仕方である。学校、受験のテストではスペリングが一つでも間違えていたら減点、“in”
や “a”が抜けているだけで減点もしくは×である。僕が思うに、英語は道具であるわけだから、まずは意思が伝わるか?どうかが重要であり、多少文法的に間違っていようが気にしないで積極的に話すほうが必要だと思う。このような教育をしているために、悪い意味での完璧主義が生まれ、少しでもまちがえたら恥ずかしいと思い、消極的な人間が多く育ってしまうと思う。
最後に、英語そのものは教えるが、文化的な事、考え方の違いなどに全く触れていないということである。先生の授業で習ったが、いくら英語で伝えようとして、良い英語を書いたとしても相手のことを理解しておかないと、こちらの伝えたいことも向こうは理解してくれない。
このような事が僕の考える疑問であり、問題点であると思う。これらが改善されていけば、日本人は今以上に英語がうまくなると思う。(男子学生)
●これまでの英語学習における長所と短所と、これからの英語学習における提言を僕なりに述べたい。長所としては、受信能力の向上を挙げる。これまでの英語学習では「読む」ことが重視されてきた。読解力を身に付けることで「タイム」、「ニューズウイーク」を読むことができるようになった。世界で起きている出来事・話題を知ることができ、自分の教養も深まっていったと思う。その一方で、発信能力の欠如という短所もある。「読む」ことに比べて「書く」「話す」といった部分がおろそかになった部分があろう。国際化が進むと、他国の人々と接する機会も当然多くなる。相手に自分の意志を正確に伝えることができないと困る場面もでてこよう。また、情報化社会の中で、自分をアピールすることもある。自分の言葉で論理的に説明し、相手を納得させる能力がとても重要になってくると考える。このような英語学習の現状を踏まえ、今後の英語学習はいかにあるべきだろうか。私は、発信型の英語教育を提言する。「読み」偏重から、「書く」「話す」といった部分をもっと重視した教育をすべきだと思う。国際化、情報化が進展する21世紀という時代を考えても、発信能力がこれからは求められるのではないか。僕も、この授業を生かして、発信能力を磨いていきたい。(男子学生)
●私は慶應の附属中学・高校に通っていたため、いわゆる受験勉強としての英語学習とはこれまで全く無縁だった。中・高の授業では単語や文法の詰め込みのようなことはほとんどせず、ネイティブの教師との会話を通じて話せる英語を身につけよう、という主旨があったという点で、一般的な日本の学生が受けているものよりも実用性の高い英語学習ができたのではないかと思う。しかし、学校の授業以外の英語学習では、NHKのラジオ放送講座を聞く程度でほとんど何もしなかったため、文法や単語の知識量が極めて少ないことを現在実感し、後悔と共に自らの積極的な学習の必要性を痛感している。また、今回山岸先生の授業と比べて思うことは、英語で「日本」を表現しようとする機会があまりなかったということである。英語は外国の言葉であり、英語を学習して外国の文化を受信しよう、という考え方が中心で、自ら発信しようとする機会があまりなかったように思う。
●これまでの英語学習は知識の詰め込みを中心としたものだったと思います。これからはもう大学生ですので、自分の頭で考えながら詰め込んだ知識を活かして英語学習に励もうと思います。しかし、肝心の詰め込んだ知識が今ではちょっと物足りない感じなので、思い出すための詰め込み式勉強をまたしなきゃならないかなという危惧はあります。
むろん、英語を使う機会に思い出せるようなほうが一番良いのでしょうが、期待だけで哀しい結果になるのはつらいのです。自分のいいたいことがなかなか出て来なくて言えない、あのもどかしさには何度も覚えがあります。
知識詰め込み式の学習ではまた同じことを繰り返すのではないかとも思うのです。詰め込んだ知識のままでは応用が利かないのです。英語で話をしたり、書いたりする出力的な努力は、知識の詰め込みだけでは無理なようです。なぜならそこにはアレンジが必要だからです。ではアレンジはどうすれば可能か、それには自分なりに考える機会を持つということではないでしょうか。
これまでの英語学習ではいろいろと覚えたりして、それはそれでとても訳に立つものだと思います。しかし、自分なりの感想をいちいち持っている余裕は無かったのです。これからは知識を得つつも考えるゆとりのある英語学習をしたいと思います。しかし、最初は英語を詰め込む努力を惜しんだりしてはいけないとも思います。今はよい意味でゆとりを持ちたいです。
B.学生諸君の声に学ぶ
以上が、「過去の英語学習に思う」への回答の全てです。この種のレポートは、ほぼ毎年のように提出してもらっており、学生諸君が何を考え、何を思っているのかに耳を傾けて、自戒の材料としたり、より良い授業の創造に役立てたりしています。日本の英語教育は、私が学生であった頃から見ると、大変化を遂げており、その改善ぶりを見るにつけ、今の学生諸君がうらやましいほどです。にも拘わらず、上掲のレポートから明確に読み取れるように、大学生の多くは、自分たちが受けて来た英語の授業やその行われ方などに不満や疑問を抱いています。
曰く、「英語というものは、単なる道具に過ぎず、それを用いて何かをしていくという発想が欠落しているのもかかる英語教育の弊害だと思います」、曰く、「中学・高校の英語の授業は、何を目標としていたのでしょうか。単に受験で良い点数を取るためだったと思わずにはいられません」、曰く、「過去の英語学習に欠けているものは、まず初めにコミュニケーションの為に英語を学ぶことを忘れていることである」、曰く、「ある言語を学んだところで、自分の言いたいことを正確に伝えられないようでは言語としての意味をなさないのである」、曰く、「はっきり言って僕は英語が苦手である。その苦手なのを他人のせいにするのもおかしいが、先生の教え方が悪い!」、曰く、「恐らく先生方もそういった授業で英語を使えるようにならないだろうと思いながら教えていたのだと思う。実用的な英語教育のためには大学・高校・中学・小学校が根本から変わらなければならないと思う」、曰く、「中学・高校における英語の授業は正直言ってあまり意味のないものだった。中学はゼロからのスタートなのである程度文法等のウエートが大きくなるのは仕方ないとしても、高校の授業は心底無意味だった。」
また曰く、「これまでの英語学習は、受験という目的を達するための手段としての、数学や、日本史や、生物などと同じ列に並んだ、受験科目の一つという位置づけの学問だったように思います。たしかに受験のための英語学習は、『受験』には最大限の効力を発揮するするように思います。その学習はけっして無駄ではないはずです。ただ、道具がその役割を果たせれば使われなくなるように、受験が終わり、いったん目標を失ったとき、それまでの英語学習はその存在意義を失ってしまいます」。
中には、受験英語に関して、深い分析をする学生もいます。曰く、「受験制度の役割というものに鑑みて現状を分析するに、受験制度に多少の改善すべき点を見つけることはしても、受験制度はその責務を立派に果たしているからだ。入学試験とは、ある大学に入学を希望する者の人数を募集人員を超えた場合に、入学者を選定するために行われる試験である。つまり、万人に向けられた公の試験ではないのだ。そもそも、受験者が頭を抱えて悩みこむ問題を出し点数に差がつくように仕向けることを目的としている。そのような性質上、たとえば英語に関して言うと、出題される英語の表現が非実用的であったり、問題量が多かったりすることがおこる。これは必要悪である。出題されたハードルを越えられるものが入学できるという、シビアな世界なのだ。それゆえ、『受験制度自体が悪い』という考えは見当違いである。(中略) 現在の英語教育が日本人の英語能力の向上に貢献していないことは、前述したように受験英語の性質によると考える。それゆえ、受験英語にそれを求めること、期待するほうがそもそも間違っているのだ。日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである。ただし日常の英語教育の延長線上に大学入試を位置付けると、どうしてもこの目標は果たされにくくなる。それゆえに、日本の大学入試制度の抜本的な改革、あるい既存の体制における問題を解消するような補助的なシステムの構築が必要である、といつも痛感している。」
この学生が言っている、「日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである」という点は的を射ていると思います。我が国における英語教育の欠点をあげつらうことは容易であり、誰にもできることです。容易でないのは、「楽しい授業だった」、「履修して良かった」「英語が好きになった」と思ってもらえる授業の創造だと思います。英語学習は生涯学習の一環と捉える私としては、そういう授業の創造にとても魅力を感じます。この思いは、専任校であると非常勤校であるとを問いません (当然過ぎるほど当然なことだと思います)。法学部2年生を対象とした「英語V」で、専任校における「山岸ゼミ」で取り扱っている 「外国人の疑問・190(日本語・英語で答えてみよう)」 の内から、法学部学生向きのものを約半数選んでプリントし、それを材料として授業を進めることにしたのは、「山岸ゼミ」において、その授業の進め方が受講生の間で極めて好評であったことに由来します。詳細はこちらをご覧下さい。