1 満足度の高い大学英語授業の創造

A. REVIEW―受講生諸君の声に学ぶ
     慶應義塾大学法学部2年生【英語V受講生】諸君の場合

我が国の英語教育が本当に成功しているかどうか、どこにどのような問題があるか、何をどのように改善すれば良いかと言った点を知る最も有効な方法の1つは、英語教育を受けた側、すなわち生徒・学生諸君の声に耳を傾け、その内容を分析することだと思います。以下にご紹介する小文集は、私が慶應義塾大学法学部 (法律学科・政治学科)2年生諸君を対象に、「英語V」(2000年4月〜2001年3月)の授業で、学年末に提出してもらった 「過去の英語学習に思う」と題した小文の全てです。2クラス担当で、同一内容の授業を行いました(受講者数は片方のクラスが36名、もう片方のクラスが19名でしたが、春学期だけの単位取得を目指す諸君も一部にいましたから、最終的には、各クラスの人数はやや減少しました; なお、もう一方の小文 「この授業で学んだこと」と、この「過去の英語学習に思う」とを一つにしてまとめて提出した諸君もありましたが、その場合は 「この授業で学んだこと」 のほうに収録しました。詳細はこちらをご覧下さい。【掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています。】
     
 このような小文を担当学生にほぼ毎年書いてもらうのは、それを反省材料として、次年度の授業をより良いものにしようという思いからです。換言すれば、review をすることが、その動機は別として、私のクラスを選んで受講してくれる次年度の諸君に対する、教師としての私の当然の務めだと思うからです。現役の英語の先生方、教職希望の若い人たち、塾・予備校関係の皆さんにも参考になる点が少なくないと思います。学生諸君の氏名は記載していませんが、明らかな誤字・脱字の修正以外は、原文通りです。従って、意図の不明瞭な個所がある場合もありますが、そのままになっています。なお、主観に基づいて、これと思える個所には色()を付けました。


 ●過去の英語学習に限ったことではないのですが、現在でも日本の英語教育にはさまざまな問題があると思います。まず、文法重視の教育が挙げられます。とりわけ、意味不明な文法用語の羅列は混乱を来たすだけだと思います。文法用語は、そのほとんどが漢字を羅列したものなわけですが、それをいきなり用いるのではなく、なぜそういう呼び方をするのかを説明した上で用いて欲しいのです。そうでないのなら、使わないほうがいいと思います。ほとんどの先生はあまり重要ではないから気にしないで下さいみたいなことを言って、一切説明してくれないわけですが、そうだったら最初からテキストに載せるなと言いたくなります。
   文法重視の教育は受験との兼ね合いでどうにもならないのかもしれません。しかし、だからといって何も手を打たないのは問題があります。語学とは実際にコミュニケーションを図るために用いるべきものです。つまり、英語を用いて実際にネイティブの人とコミュニケーションを図ることができるようにならないと英語を学んだとは言えないはずです。この点に着目した英語教育を行うべきです。私がとやかく言ってもしようがないことかもしれませんが、下手な発音の日本人が日本人に英語を教えていること自体、絶望的です。
   英語というものは、単なる道具に過ぎず、それを用いて何かをしていくという発想が欠落しているのもかかる英語教育の弊害だと思います。英語の表現は難しい単語を用いなくても自分の知っている単語でもって説明することによって相手に通じるはずです。このような視点に立った上で、もっと柔軟に英語と向き合う姿勢を育成することも必要だと思います。(男子学生)

 ●中学・高校の英語の授業は、何を目標としていたのでしょうか。単に受験で良い点数を取るためだったと思わずにはいられません。実際、私はテストの点は良くても、英語を話したり聞いたりすることはほとんどできないのです。そもそも英語を義務教育で習い、文系理系を問わず受験で必要となっているほどしつこくやるのは、英語でのコミュニケーションを可能にするためのはずです。しかし、現実ではそれを達成できている学生は少ないでしょう。それは、文法を習っても文化を習わないためだと思います。言語は文化を基礎とし、文化とともに変化していくものです。文化をあらわす言語の理解は、文化を知らずしてありえないと思います。
   また、母国語でさえそうですが、使わない言葉を使えるようになるわけがないと思います。しかし、今の教育課程では、英語は受験英語でしかなく、興味を持って接することは難しい状況となっています。学生の英語に対する意識を変えるためには、やはり英語をコミュニケションの道具として教えなければいけないと思います。(女子学生)

 ●過去の英語学習に欠けているものは、まず初めにコミュニケーションの為に英語を学ぶことを忘れていることである。もちろんそういうことは生徒側が学ぶ側だから初めに自分達が気が付かなければいけないことだとも思うが教える側の先生方にもそういう意識を持ち表して欲しいものだと強く感じた。そういった姿勢がなかなか取れないのは私達の意識の奥にただアメリカ人の真似をすればいいという考えがあると思う。アメリカ人がしなくて日本人がすることは間違っているとは必ずしも言えず、日本人が何気なくすることにしても文化的理由があるのだから私達は英語を学ぶ上でそのことに改めて気付かなければならないと思う。英語を学ぶ意味を考える事、そしてそれを踏まえたやり方をすること。これらが欠けていると思う。(男子学生)

 ●私は中学・高校と英語を学んできたわけだが、現在、英語をしゃべること(会話)は全くといっていいほどできない。しかし、英語の成績は常によかった。なぜかと言うと、英語の試験の点数がよかったからである。中学でも高校でも試験は教科書を暗記すれば、それだけでいい点数がとれた。この丸暗記を頭では意味がないと思いつつも、高得点をとるためには丸暗記が一番手っ取り早い手段であった。こういう過程で英語を勉強してきた私はもちろん英語がほとんどしゃべれない。こうあるのは私が他の手段で英語を身に付けようとしなかったのに問題はあるが、中学・高校の英語学習に問題があると思う。これを改善するためにはどうすればいいのか明確な答えを出すことは私にはできない。しかし、この現状から目をそらさずに、英語学習のカリキュラムを変えていくことが絶対に必要であると思う。私も今からでも遅くないと思うので効果的な方法をみつけたいと思う。(女子学生)

 ●過去の英語学習に思うことは、英語学習の目的が、試験でよい点数をとることに主眼が置かれているということです。これは、英語に限らずどの科目にも言えることですが、日本の教育システムが教育過程の節目に受験という制度を設けていることが原因であると考えられます。例えば英語について考えるならば、本来それはアメリカやイギリスをはじめとする多くの国の人々とコミュニケーションの手段として使われているから、だから英語が使えるようになれば、日本だけではなく多くの国の人々とコミュニケーションができるという魅力があるからこそ英語を勉強するというのが理想の姿だと思います。つまり、何かを学ぶと言うことは、試験でよい点をとるためではなく、何かこういうことができるようになりたい、知らないことを解明したいなどが目的としてあるべきだと思います。ところが高校までの学習は、次の教育課程へ進むための勉強であったといえます。大学に入った現在このような問題からは開放されたので(そのせいか大学生の勉強不足が指摘されますが…)、これから英語を含めて学ぶときは、何かこうしたいからそのために勉強するという目標を持って学習するべきだと思います。(男子学生)

 ●これまでの英語学習は、受験という目的を達するための手段としての、数学や、日本史や、生物などと同じ列に並んだ、受験科目の一つという位置づけの学問だったように思います。たしかに受験のための英語学習は、「受験」には最大限の効力を発揮するするように思います。その学習はけっして無駄ではないはずです。ただ、道具がその役割を果たせれば使われなくなるように、受験が終わり、いったん目標を失ったとき、それまでの英語学習はその存在意義を失ってしまいます。
   これがこれまでの英語学習の一番の問題ではないかと私は思うのです。本来、英語は受験のためではなく、言葉としての役割を持つものです。確かに日本語が話せればなんとかなる日本では英語の言葉としての役割はそもそも少ないのかもしれません。しかし、言語としての役割を感じる事のできる英語学習は可能だと思います。例えば、ただ英語を日本語に訳すのではなく、その背景にある自分とは異なる国の文化や伝統、考え方を学ぶ事のできる方法、ただ日本語を英語に訳すのではなく、日本語の意味と英語の意味の受け止め方の違いを踏まえた訳等々。
   もうすでに、英語は、外国の文明を日本に伝えるということに重点を置いた「受身」の役割から、日本のことを外国に伝える主な「能動」的な役割を果たすべき時にきていると思います。これまでの英語学習は、まさしく受身の学問だったと思います。(男子学生)

 ●過去の英語学習は、読み書きに重点が置かれていたことは否めないと思います。重点が置かれていた、という表現は正しくないかもしれません。むしろ、そればかりであったと言えるかもしれません。ひたすら単語を覚えひたすら文章を読む。それの繰り返しであったというのは僕だけではなく、日本における英語教育そのものがそういう方針だったのではないでしょうか。それだけではやはり外国人と英語で会話することは困難なので、近年リスニングが重視されるようになったと思います。しかし、今でも話す学習の場はあまりないでしょう。しかし、依然として読み書きが非常に多いことは事実だと思います。そしてこれからそういった状況・環境が少しずつ変わろうとしているでしょう。(男子学生)

 ●世間では、これまでの日本の英語教育について批判的ですが、私はこの意見には懐疑的です。日本の英語教育は、文法などの細部にこだわりすぎて英語を話すことができるようにならない、とよく言われます。しかし、文法修得は英会話を助けこそすれ、阻害することはありません。私はむしろ、英語に割く学習時間が絶対的に足りないのだと思います。現に、私は中学・高校と自宅で英語の勉強をした記憶がありません。(宿題を含めて。) 最近の学生はみな勉強が足りないのです。(自分を含めて。) かといって、小学校のころから英語を勉強すれば英語が堪能になるかといえば、一概にそうとはいえないと思います。結局学問というものは、本人がどれだけ自ら望んで勉強するかにかかっていると思います。(男子学生)

 ●日本の中学、高校における英語教育の問題点は時折話題になります。しかし、現代の英語教育は悪鬼のごとく叩かれていますが、果たして「詰め込み」を止めたところで日本人が諸外国人のように英語を話す事ができるかは甚だ疑問です。
   じつはこの問題は、私にとっては、あくまでも新聞やテレビから得た情報に過ぎません。すなわち、「詰め込み式の教育」を授業の場においてやらされた記憶がほとんどないのです。なぜなら、私は高校受験、大学受験を経験していないからです。よってそれに対応するような教育も受けていません。以下には、私の母校の慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部における英語教育を紹介します。
   私の学校において最も印象に残る学習としては、模擬国連の参加です。模擬国連は、参加者が実際の国連会議のシミュレーションを行うことにより、国連や国連政治組織について、また国際問題や国家の対外政策決定力がいかに働くかを英語を通じて学習する目的で実施されます。参加する生徒は国連加盟国の代表者を演じ、国連の協議項目から議題を選定します。実際に行われる議事進行手続きを踏み、それぞれが担当する国の利益を守りながら世界の諸問題解決の交渉を行います。模擬国連への準備作業の過程においては、担当した国の歴史、文化、外交政策のみならず、討論や交渉技術、非公式協議の方法やコンセンサスの作り方、説得力ある文章の書き方や公の場での発表方法などを学ぶことができます。
   しかしながら、このような英語教育にも当然弊害はあると思います。やはりプレゼンテーションの過程で身につけた英語力はなかなか忘れられませんが、やはり非効率的です。現代英語教育の方が短時間で英単語を覚えるに違いありません。もちろんひたすら文法書を読むばかりで英語力がつくとはいいませんし、私の同窓生の多くはみなその英語力のあるなしに係わらず臆することなく英語を話す姿勢が自然と身についていると思います。
   すなわち、両者のバランスが取れていることが大切でしょう。いくら単語を覚えていたところで、それを実践しなければ宝の持ち腐れです。しかし、逆に英語を実践的に使おうとする姿勢が身についていても、単語力や文法知識がなければ意味がないのです。私が自分の経験を通して感じたことは、メディアがまくし立てるような、単語や文法の覚えこみが全く無意味であるかのよな見解はそれもまた近視眼的な物の見方ではないか、ということです。
   そしてもう一つ感じる英語教育の問題点は、英語それ自体が目的化してしまっているということにあります。この傾向を作っている原因は、授業を担当する先生自身にあると思います。英語教師というのは、自分の英語教育を目的それ自体に消化させようという思いがあるのではないでしょうか。数学や公民、倫理など他教科が、目的としての学問的性格を有するのに、英語教育だけが手段としての地位に甘んじることは快く思わない先生もいらっしゃるのではないでしょうか。
   この欠点を克服するためには既成の学問の壁を超えて横断的に知識を再編成しようとする試みが必要だと思います。すなわち、英語も英語という教科内に留まらず、他教科、ひいては文系理系の壁を超えて総括して学ぶことができればよいのではないかと思います。現行の教育は「木を見て森を見ず」になってしまいます。すなわち全体的な科目同士のつながりがってはじめてその科目を学ぶ意義があるからです。
(男子学生)

 ●この授業を受ける前までの英語学習というものを思い返してみると、何を伝えたいかやどう書いてあるかなどを考える前に、文法のことをやはりくわしく教えられていた。その為に、細かい文法のことを重視しすぎて、英語を書くときも読むときも、ただまちがわないようにパズルを組み立てていただけなような気がする。そうなると、相手に自分の意思や考えは決して伝わるわけもなく、また、決して日常生活で外国人に出会ったときや海外に行ったときでも決して役に立つわけがないと痛感させられました。
   結局、今までの英語の学習というものは、中学・高校と6年間やってきましたが、その6年間の学習というものは、英語を話すためや相手の英語を聞くためのものではなくて、ただ、大学に入るための学習であり、英語というものを言葉としてとらえるより、むしろ、英語という教科・科目としてとらえていただけのような気がします。そういう英語学習のおかげで基礎や英単語というものはたくさん覚えた(覚えさせられた)ということも感じます。(男子学生)

 ●高校時代の英語の勉強といえば、もっぱら大学受験合格のためだけにやっていたような気がする。予備校においてもしかりである。単語、文法、パラグラフリーディングと呼ばれる長文読解方法など。しかし、これらは英語を学習して行く上での基本であり重要であると言う事は否めないと思われる。また、多くの高校生、または、受験生にとっては、大学進学と言う大きな目的があり、そういったいわゆる受験勉強が中心となってしまうのも仕方無い事ではないだろうか。実際、自分の高校時代、予備校時代の英語の勉強法もまったくそうだった。慶應義塾大学に合格するという大きな夢があり、その夢だけのために勉強していた。だから、この勉強が将来いかに役立つのかという事まで考える事はできなかった。このような勉強方法が今、全く役に立っていないかと言えばそのような事はないし、否定はできないと思う。しかし、この授業を受けたことで、日本人としてもっと大きな視野を持って、英語と言うものを見つめる事ができたと思う。

 ●私は比較的に今までの英語の授業に関しては、恵まれた環境におかれていたと思う。中学に入るまではオランダで2年間ほどインターナショナルスクールで英語を学んだ。そこでの英語教育はもちろん大学で出されるようなレポートを書かされたり、数学を英語で学ぶなど、すべてが英語で、英語がしゃべれないと何も勉強ができない環境だった。しかし、日本に中学の1年の夏に戻ってきて、あまりの英語の授業に驚いた。日本では中学に入ってから初めて英語を学ぶのであるから、違いがあるのは当たり前である。教えているのは日本人の先生であり、また教科書も日本のどこにでもあるような教科書を使っていた。授業の中で一番疑問に思ったことがある。毎回、chapter毎に宿題が出されるのだが、それが教科書にもある会話文を全部丸暗記することであった。すべて丸暗記するとスタンプをもらい、また次のchapterにある会話文を暗記しなければならなかった。私はこれに何の意味があるのかよく分からなかった。結局「会話」というものは自分で考えて「会話」するのであり、暗記して会話するのではない。暗記してもまたすぐ忘れてしまうし、結局生徒の私達はただ、スタンプをすべてのchapterにもらうことだけが必死であった。あとは文法の勉強をひたすらするのみであり、結局私が中学で英語を学んで得たものは何もなかったような気がする。外人の先生にも週1回授業で教えてもらっていたのだが、結局先生は日本語がしゃべれないため、英語で話すのだが、時にみんなに伝わらず、英語のできる生徒が先生の言っていることを日本語に訳して、授業を進めていた。結局、私が思うに、英語の教育が中学からというのが、今の「英語を勉強してもしゃべることができない日本人」の状況を起こしているのだと思う。中学生が一番勉強している中で、科目数が多いし、やることは多すぎて大変なため、なかなか英語をしゃべるという時間がない。文法を勉強することはもちろんだが、しかし、特にこれからは英語が「書ける」だけでは済まされない時代となってきている。何故英語を勉強するのか。その根本的なものが忘れられているような気がする。英語を勉強するのは、これからの国際社会のなかで十分に通用するようになる必要があるからである。文法を勉強するのは、自分の言いたい事がちゃん相手に伝わるためにするのである。これを日本人はすっかり忘れてしまったのではないか。最近は英語教育の見直しなど話題になり、近い将来英語教育を小学校のカリキュラムの中にも取り入れようとしているようだ。幼いうちに英語を学ぶのは良いと思うし、その方が身に付きやすいと思う。しかし、今の教育の方法のままでは全く状況は変わらないだろうし、むしろ日本語と英語の両立ができなくなり、あやふやになる可能性がある。何をすべきか。まずは英語を 「話す」 ことからが大切だと思う。話していくうちに文法も自然と覚えてしまうものである。また、やはり日本語を勉強するにあたって、この授業で勉強したように、やはり日本のこともしっかりと分かっていなければならないと思う。(女子学生)

 ●英語に初めて触れたのはみんなと同じ様に中学一年生の時でした。簡単な単語の発音から始まり、徐々に文法・構文・文章読解と進んでいきました。最初から英語は好きであり、得意でもありました。高校に入学してから、本格的な英語学習が始まりましたが、部活動に熱中していたこともあり、徐々に勉強しなくなり、英語に対する興味も薄れつつありました。何より高校の英語の授業は僕にとっては退屈極まりないないものでした。前の日に予習した文章について、授業で和訳を発表するだけだったのです。先生は授業中、わかりにくい文法や構文を説明するだけでした。そして何かあると先生は「ここは○○大学で出題されるぞ」と。これが僕にとっては嫌で嫌でたまりませんでした。大学に行くために英語を学ぶのかと思い、それが納得できませんでした。しかし、高校三年の時に部活のラグビー部にニュージーランドからコーチがやってきました。主将だった僕は彼とコミュニケーションを取らなければならず、毎日苦労しながら何とか話しました。彼は英語が聞きとれない僕らにゆっくりとわかりやすく話してくれました。彼の話した意味が理解でき、僕が話した英語が通じた時はとてもうれしく感じました。僕の英語コンプレックスはなくなり、一年間の浪人生活を経て、慶應義塾大学に入学しました。しかし、大学に入ってからも英語の授業は英次新聞や、イギリスの文学作品を和訳するだけという、高校よりも退屈な授業が一年生の間続きました。しかし、二年生でとった英語の授業は違っていました。日本語の話せないイギリス人の先生と山岸先生の英語の授業はとてもユニークで改めて英語と日本語を見つめ直せるきっかけになりました。英語に対する意欲はつきないので、これからも英語を学んで行こうと思います。(男子学生)

 ●中学校の時に習い始めた英語は、ひたすら文法ばかり教えるものであり、高校にはいるとその傾向は顕著になり、さらに受験英語というものを予備校で勉強し、日常ではめったに使わないであろう単語、熟語を覚えることに終始した。大学に入る時、私は大学の英語はもっと違うことをやるであろうと期待していた。が、1年生のときは教科書の文を文法的に分析するということであった。 
   このような英語学習における文法重視の傾向はどの学校でもそうだろう。そのようにして、Grammar, Reading は得意であるが、Writing, Speakingは全くと言ってもいいほどできないという人が今後もますます増えていくのであろう。文法は不必要だとは言わないが、現状はあまりにも偏りすぎている。こういった状況を打破すべく、Communicationの授業をもっととりいれたほうがいいであろう。英語を小学校のころからやるようになるとのことであるので、Communication能力を小学校のうちに培い、文法は中学校からでもいいと思う。それに加えて,文化的なこと、その国の背景を知る必要があるであろう。
   結局、ある言語を学んだところで、自分の言いたいことを正確に伝えられないようでは言語としての意味をなさないのである。そういう観点からすると過去の英語学習の意味あるいは価値は甚だ疑わしいものである。(女子学生)

 ●私が今までの英語学習で常に感じていた事は、英語の勉強というものは苦悩、拷問以外の何物でもないということでした。なぜなら過去経験してきた英語学習というものは単に暗記のみを強要するものであったからです。
   私は元来目的のない勉強というものに耐えられない性格です。なぜ、英語を学習する必要があるのか、目の前にある単語帳をすべて暗記していったい何を得ようというのか。今までの英語教育は、こういった「英語を学ぶ目的は何か」という根本的な問題を棚上げにしたままで推し進められてきたように感じます。
   勿論これからの国際社会において、英語ができることが必須条件である、という建前はわかる。しかし、それならばなぜもっと教育の場に、英語ができる必要性を認識できる環境を作り出さないのであろうか。文法問題、教科書を開いて文法、単語を覚えるだけでその必要性を見つける事は困難である。もっと、英語圏の同世代の人々と文通や、実際に会って交流する機会があって当然ではないか。その場で相互の認の違い、コミュニケーションがうまくとれない事に対するもどかしさを体感せずにどうして英語学習の必要性を感じる事ができようか
   そういった意味で、山岸先生の授業はその一つの答を導き出してくれた。外国人が感じる日本人に対する質問に答えるためには、英語文化を理解するのみならず、日本文化の正しい理解が必要である。そして、その違いを認識した上で妥協点を自分で見極め、それを相手に正しく伝える事をする。また、英語文化を持つ者が日本文化に対して持つ誤った解釈というものを、日本に根付く文化を説明しつつ正していく。それがつまり、国際社会において英語が必要であるという事の大切な一面ではないだろうか。
   私が先生の授業を受けていて感じた事は、英語を学習する以前の問題として、我々が日本文化について知らなさ過ぎるという事である。先生が、英語の授業であるにもかかわらず、日本文化に根付いている、我々が無意識に行う事を説明するのに、時間の多くを割いているのを拝聴しながら、真に英語を必要とし、学習する意味を教えていただいている事を感じました。
   最後に、この授業を通して私は日本文化について、多少なりとも知る事が出来、そして英語を学習する意義を見つけることができました。これからが、私の真の意味での英語学習の始まりです。日本文化についての認識を深めるとともに、積極的に英語圏の人々と交流し、互いの文化を理解していく努力をしたいと考えています。(男子学生)

 ●私が今までに受けてきた英語の授業というのは、リーディングとライティング主体のもので、そこにはほとんどスピーキングとリスニングは必要ありませんでした。確かに中学・高校の両方で会話能力を向上させるための授業はありましたが、週に一コマしかありませんでした。会話では特に常に触れていることが重要だと思うのでこれでは意味がありません。しかし、それでもこのことに対して特に不満はありませんでした。なぜなら、それは、この授業でも何度か発表されていましたが、僕も特に英語を話せるようになりたいとは思っておらず、それよりも大学に行くための手段だったので、そのために必要なのがリーディングとライティングであればそれを重視するのはごく自然なことでした。
   少しずつ変化があるかもしれませんが、現在の日本では多くの高校生が大学に進学する事を考えます。そして大学でこれからの自分について、どのような道に進むのか決定するのです。つまり、大学に入学してからスタートラインに立つ人がたくさんいると思います。そのため、現在の入試に対応した授業に対して不満のある人も従わざるをえないのが現状でしょう。
   僕は自分が受けた授業がそれほど嫌いではありませんでしたが、語学の本意は、その言語を話す人と理解を深めるところにあると思います。しかし、それは現在の英語教育では実現できていません。そのことを考えれば、生徒が対応できる範囲内での段階をふんだ改革が必要だと思います。そして、その改革にしても、現在では本当に英語を身につけたい人が身につける努力をすれば自分次第で可能な環境にあるのだから他国について知る前に、自分の国についてもっとよく知るための教育も考えるべきだと思います。(男子学生)
 
 ●いままでの英語教育で問題となるのが、受験英語と実用英語との乖離、読み書き英語への偏重、英語という”手段”の目的化だと思います。
   まず受験英語ではよく言われているように実用英語とはかけ離れたことを問われることが多々あります。日本語との概念の違いやニュアンスの違いを考えずにそのまま一対一で訳が出来上がり、それが正解になります。また、受験において同じ意味とされる英語同士のニュアンスの違いものちのちそれを使うにあたって問題となるでしょう。これは受験制度がそうである限り続くと思いますが、「本当は違いがあるのだ」ということを意識して覚えていくことによって、そして使うときに注意することによって少しずつ改善していくことができると思います。
   また、読み書き英語への偏重は受験形態が読み書き英語中心であるということが原因の一つでもあります。近年はリスニングに力を入れるところも出てきましたが、まだまだだといってもいいと思います。話すことにいたっては授業では私にはほとんど経験がありませんでした。
   そして、英語という 「手段 」の目的化は非常に問題ではないかと思います。以前、韓国の友人と苦労しつつ英語で話していた時、つたない英語であっても私がもう少し日本についてはなすことがあったらもっと盛り上がっただろうにと思ったことがありました。英語を流暢に話せることはとてもすばらしいことですし、私も頑張りたいですが、英語はあくまでもツールであって、大切なのは話す内容だと思います。
   話す内容と、実用英語と、話すことへの慣れさえ身についていれば帰国子女や何かでなくても、十分に外国人とコミュニケーションが取れるのではないかという希望は私を大いに勇気づけてくれました。(女子学生)

 ●私は中高一貫の、いわゆる受験校の出身なのですが、英文を書くときは困ったらとにかくシンプルに知っている単語で書けばいいと教わってきました。しかし、それは文化も何も考慮しない無責任なものだと知りました。いままで、いかに間違ったことを教えられ、やってきたかと言うことを痛感させられました。つまるところ、日本における英語学習とは、受験のためのものでしかないのでは、と疑問を抱き始めています。私は家庭教師のアルバイトで、まさに自分と同じ中高一貫校という境遇にいる生徒に英語を教えていますが、たまに、今となっては非常にナンセンスに思える問題を見つけてやりきれなくなります。しかもそれを、受験というものを考えた上では、ナンセンスなままに教えなければならないのですから。受験のことだけ考えて行われているいまの英語教育は、無用な文法をやったりして頭でっかちになっていると思います。実際にはまったく使えない。語学のバックグラウンドには常に文化がある。このことを理解できただけで、英語に対する考え方は変わったと思います。英語文化の根幹をなす聖書を原文で読んでみたい、などという気分にもなりました。(男子学生)

 ●私は中学・高校と6年間、英語という授業を受けてきました。その授業で学んだことというと、文法・英作文・聞き取り・コミュニケーションです。しかし、これらを学ぶ意義はどこにあったのかというと、中学ならば高校受験、高校ならば大学受験での英語を解くためでした。意義が受験にあるため、特に高校の英語授業でやったことは、ネイティブな人でさえも使ったことのないようなものばかりだったように思います。
   また「この授業を通して学んだもの」に述べましたが、外国語を学ぶ意義はお互いの文化の認識ですので、英語の授業には日本の文化についての英語での表現の仕方を学ぶことが重要なのです。
   このことは、英語だけでなくさまざまな教科に言えると思います。このグローバル社会での日本人の活躍はすばらしいものがあります。しかし、これまでのような授業をしていたのでは、いずれ文化の衝突が起こり日本人のような文化を認識しあうことのできない民族は淘汰されてしまいかねません。そのことを肝に銘ずる必要があると思います。(男子学生)

 ●はっきり言って僕は英語が苦手である。その苦手なのを他人のせいにするのもおかしいが、先生の教え方が悪い! 僕は中学に上がるときには確実に英語の授業を楽しみにしていた。それは自分でも覚えている。いつからこんな風に英語が苦手になってしまったのか。それは明確には覚えていないが、高校に入った頃だったように思える。僕は塾内進学で進学校ほどきびしくはないが、それでもやっていることはそこら辺りの公立よりも多く、しかも授業日数はとても少なく、あと授業日が2、3日少ないと専門学校になってしまうほどのものらしい。そんな環境の中で一通りの勉強をこなすわけだから当然ついていけない生徒もでてくる。かといって、ついていけなくなった生徒はその分勉強に励むわけではない。勉強の無駄を省き、それを補おうとする。これが塾高生が要領がいいと言われる所以である。それで、普通に進学できるのだからまじめに勉強する者は少なくなり、どんどん授業でやっていることに遅れをとる。悪循環である。話が微妙に逸れたが、僕がなぜ英語が苦手かというと、それはやはりどこかでおちこぼれてしまったからであろう。(これは英語に限ったはなしではないが・・・) 得意であれば、楽しく思うはずである。これからの世代には新たな教育法で勉強を嫌いにならないようにして勉強を続けていってほしい。(男子学生)
    
 ●わたしは、中学、高校と私立の一貫校で過ごし、英語教育を受けたといえば、それだけです。中学では、はじめて英語に触れるにあたって、先生の考えで、文法からではなく、発音や会話、表現などを中心に学びました。そののち、文法など、いわゆる日本の英語教育を受けました。高校になると、受験勉強色の濃い読解中心の授業になりました。
   英語の授業だけでなく他の科目もそうですが、日本の一般的な授業形式は、先生がひとりで話をし、それを生徒がノートをとるという形です。わたしもそのれに慣れていたため、授業中に突然指されるということが、授業に対してかなり緊張感を高めました。よく日本の学生は後ろの方にすわるといいますが、わたしもその一人で前の方にいると指される可能性が高いと思い、つい避けてしまします。本当は、授業中に自の意見や質問を先生にしたり、クラスメートに聞いてもらったりした方が、授業に参加でき、学ぶのも多いのだと思いますが、今まであまりにもそういう授業に出会ってなかったので、山岸先生の授業は毎回緊張の連続でした。
   また、英語と日本語は違う言葉なのだから、置き換える時に相当する言葉がないのは当然なことなのですが、受験英語教育ばかり受けていると、単に単語を覚えることが優先されますから、「これは英語ではこれ」、といったようにあたかもイコールで結ばれる様に思わせられます。しかし、実際はそれでは置き換えられない言葉なので、通じない英語になってしまいます。勉強していく中で、そのような矛盾を感じてしまうから、日本人は英語が苦手になってしまうのではないでしょうか。逆に留学経験がある人や、アメリカなどに少しでも住んだことのある人は、会話をして捉えることができるから話せるようになるのではないでしょうか。
   わたしも英語を話したいし、好きになりたいです。日本の英語教育のせいにばかりはできませんが、受験英語が苦手意識を植え付けたのは確かだと思います。(女子学生)

 ●私は、昔から英語が大好きでした。英語が好きというよりむしろ、外国語を学ぶ事が好きだったといった方がいいかもしれません。だから、中学からの英語教育は、常に得意意識をもって授業に臨むことが出来たので英語が嫌いな人よりは比較的苦痛を感じずにすみました。しかし、その授業方法に疑問を感じることは多々ありました。
   例えば、課題として参考書100ページをただただ丸暗記させることや、学校で習った単語を使わないとテストで×をつけられるような事です。このような評価のし方をしていては、誰もが英語という言語に対する想像力や興味を失うのは当たり前だと思います。大学受験の英単語帳も愚の骨頂であると思います。一単語につき一つの訳語しか出ていないような単語帳を使って必死に受験勉強をし、その結果、大学に入学しても、何も残るものはありません。もっと、中学、高校時代から山岸先生のような授業を受ける事ができていたら、日本人の英語はもっと実用的になるはずであり、さらに、言語に敏感な、真の意味で愛国心にあふれた人間がそだつのではないだろうかと思います。(女子学生)

 ●私は、実は英語がずっと苦手です。そんな私が、日本一難しいとされる英語の試験が課される慶応大学に合格したのは不思議といえば不思議です。私としては、おそらく、法学部の問題が全問客観式 (!) だったあたりに、そのヒントが隠されているんじゃないかと思っているんですが・・・ 
   ともかく、私は英語が苦手でした。というのも、延々と文法だの語法だのをいわれるのがいやだったからです。「そんなこまかいこといわんでもええやろ、うるそうてかなんなあ」といつも思ってました。(ちなみに、英語の文章を読むこと自体は、読書が好きなので嫌いではありませんでした。図書館でニューズウィークとかを辞書片手に読んでましたし。)
   高校時代、担当してもらった先生方には「英語は全部和訳する」、「わからんとこあったらとばして勘で答えたらいい」、「京大の英語はちゃんとした文章力が必要や」、「和英は引かんでええから、知ってる構文で作文しなさい」、「英和はジー二アスが一番たくさん載ってるからエエワ」、などと教えられました。
   今となっては懐かしいですが、考えてみれば、どうやら「受験英語」そのものをおしえられていたような気がします。語彙数のやたらと多い辞書や和英辞典を使わない英作文を推奨するといった、山岸先生が批判的な授業そのものを展開していたみたいですね。
   ただ、結果的には、それでまがりなりにも英語ができるようになったわけですし、受験にも(それなりに)成功したので、文句はいえないと思います。 ですが、日本の文化を英語で紹介する、といったユニークな切り口の授業があれば、もっと英語が好きになったし、上達したと思いますよ!(男子学生)

 ●いままで、世論では今の英語教育はだめだ、とか変えなければという意見が出てきているというのは知っていたが、自分でこれについて考える事ができるようになったのは、やはり山岸先生の授業を受け、僕にとって新しいスタイルの英語を学んだからだといえます。従来、僕が受けてきた英語教育では英語の発想というものを日本語に変えて理解する事が前提であり、学習形態としては覚えなければならないものをリストアップしていくという事がほとんどでした。しかし、それでは日本人として英語を使うということが忘れられているのではないでしょうか? 日本人としての発想を知らずして、それを英語で表現し、英語の発想を知るというのは困難だと思います。つまり、「認知すればよい」という英語教育、すなわち英語の構造や表現のみを重視していくという教育が今まで行われてきていたのだと思います。しかし、本来必要なのは英語、そして母国語である日本語の「文化」や「内容」について理解し、そして考え、接していく事なのだと思います。僕は正直言って自分の語学力に自信がありませんでした。しかし、「文化」や「内容」に興味を持つことによって、そして山岸先生の授業でその機会を与えられた事により、自分なりに理解したいという気持ちが起こりました。今までのような文法の押し付け、単語の押し付けでは英語に対して興味がなくなってしまう人もいると思います。(大学における英語教育ではそれは少ないと思いますが)やはり「そうなのか!」と思えるような教育でないと、興味は薄れ、記憶して植え付けるだけの勉強になってしまいます。これからの英語教育では言語の複雑な形態を重視するのではなく、興味ある「文化」や「内容」といったものに触れ、自分で考えてみるという教育が必要だと思います。自分で感じ、考え、そして理解することで、日本そして英語圏の国々への文化や生活に興味や関心が広がりよりよい形で、英語というものを学ぶ事が出来ると思います。(男子学生)

 ●中学・高校と英語を日本において学習してきました。大学の二年間を含めるともうすでに8年間も勉強してきたわけであります。8年も英語を学習したら、日本語を8歳の子供が誰でもしゃべれように、英語もしゃべれるはずだと思いますが現実はそうではなりません。そこに日本の英語教育の改善点が見えてくると思います。日本では、中学校から週3時間、高校では、週5時間程度、文部省の検定教科書を用いて英語が教育されています。授業では、受験教科としての知識を与えるための、文法・訳読主義の授業が多く、学校教育だけでは、「速読」や「聞く・話す」という面が弱く、実際にはあまり訳に立たないと思います。つまり英語の4要素である、書く、読む、聞く、話すの中の聞く、話すの部分が極端に欠如しているといえます。自分が高校3年の時にはオーラル・コミュニケーションというネイティブスピーカーによる授業が週に1時間ありましたが、聞く、話す教育はまだまだ時間が少なすぎるような気がします。依然として読む、書くといった教育の傾向は強いといえます。これが最初の英語教育の問題点であるといえます。次に日本は英語に触れる機会が少ないことも英語教育の問題点であるといえます。中学、高等学校の6年間で最大2030時間英語の授業があるといわれています。この2030時間とは実際どれくらいの時間なのかというと、2030時間は84日分に相当し、2030時間を6年間 (2190日)で割ってみると1日あたり55.6分になります。これでは少なすぎることは一目瞭然です。このように数字的な観点からみてもわかるように日本の英語教育の時間の少なさは殆どの日本人が英語を話す事が出来ない理由の一つにつながっていると考えられます。(一概にはいえませんがTOEFLの日本のレベルが低いことからも日本英語教育に問題があるといえるのではないかと思います。但し日本人は英語を話す環境にないことや、日本語と英語の基がかなりかけはなれた語源であることも関係しています。) このような2点が大きな日本の英語教育の問題点だといえます。これらの問題点に対しての自分が考える解決策としては最初にやはり入試問題の改革を挙げたいと思います。大学の入試センターの問題にリスニングテストが導入されたり、公立高校の入試問題が改善されているとは思いますが、私立高校などの入試問題は難しい長文読解を始め、あくまでも文法偏重の傾向があると思います。実践的コミュニケーション能力をつけることが目標ならば、やはり英語による面接やリスニング問題を増やすなど、大学や高校入試から変わらなければ日本の英語教育はなかなか変わるのは難しいと思いますやはり当面の目標(受験)に対して学生は勉強せざるを得ないと思いますし、学校の英語教育もそこをカバーしていくものになるのは仕方ないと思うので、入試問題を変えて行けば自然に変わるのではないかと思います。また英語教育の時間の少なさについての問題はいたしかたない問題であるかもしれませんが(ずっと英語に触れている日本人は厳しい)、せめて一日2時間ぐらいの英語教育になればもう少し良くなるのではないかと思います。
(男子学生)

 ●今まで受けてきた英語教育について思うのは、まず、ほかの人とのコミュニケーションをとるための手段として学校で教えていないことであると思う。まず、文法から始まってそこからリーディングに入っていき、そして大学の入試では読むことと、書くことが主に問われる。書くことといっても自分の言いたいことを書くのではなく、この日本文を訳しなさいとか言う問題である。私たちはそのような問題を今までとかされてきた。そしてそれゆえに大学まで、英語を6年間もやってきてもまだ外国人とコミュニケーションをとるのに自信がないという人がほとんどなのである。ほかの国の言語をなぜ学ぶ必要があるのだろうか。それはそれを使うことによってよりたくさんの人とコミュニケーションをとるほうが、自分自身を高めることができるからである。それと同時にほかの国の言語をやっていてもっとも、よかった、楽しかったと思える瞬間というのはほかの人と話ができたときであると思う。最近 「これからはだんだんと国際社会が一体化していくから英語は必須」 などといわれてリスニングの重要性が強く主張されているが、僕個人の考えとしてはなんかそれは淋しいと思ってしまう。やっぱり自分自身がもっといろんな人との会話を自分の人生のためにしていきたいとか、そんな風にポジティブな姿勢で学んでいくほうが絶対上達も早いし、何よりも楽しいと思う。このような楽しく語を学べる環境のほうが今までは足りていなかったように思う。これからそこを改善していくべきであると思うし、そうでなければこれから行われる小学校での英語教育も意味のないものになってしまう気がする。(男子学生)

 ●私が受けてきた英語教育は中学・高校・大学と主に進学・就職のための勉強であった。幼い頃から英語というと文法が重要でそれらを間違えると1語1語訂正されていいて、それが“英語”をつまらなく、興味を奪っていってしまった。この授業では文法の正しさより、文化を通して、相手の文化に立った生きた英語を学ぶことができた。中学・高校の文法を正す勉強は生きた英語を学んだ後にこそ役立つのではlなかろうか。
   また、私のいた中高では単語テストというものが数多く行われた。ただ繰り返し単語のスペルを暗記したのである。我々は日本語を学んだように、そのものを音としてとらえることが生きた英語として必要なのである。現在の日本の英語教育はやはり生きた英語ではなく、今後英語の必要性の増加にともなってシステムを変えていくべきである。(男子学生)

 ●僕は高校から慶應義塾に入った。そのため、中学において英語は単なる受験のためのものだった。それでも英語の楽しさを感じることがあった。しかしそれはただ問題が解けるという喜びに過ぎない、いわば数学と同質のものであり、英語そのものが楽しかったわけではないと思う。中学においてとある教師の能力、やり方共に疑問があったのも確かだ。その授業内容はほぼ教科書の丸暗記だった。それを毎回のようにテストする。しかも採点は生徒同士。そのやり方には相当疑問を持っていた覚えがある。その後高校に入ると附属という事もあってか、授業で小説を読んだりビデオを見たりという事が多くなり、特に小説をはじめて1冊読み終えた時は英語で読むことが楽しいと感じた。その頃初めて英語を自主的にやりたいと思い、映画やドラマを英語のまま見たりした。特にコメディードラマ等では変わった言葉の使い方がされており、砕けた表現を知ることが出来て楽しかった。そして大学1年次の先生は英語のニュースを1年か取り扱った。そのニュースでは「御柱祭り」等、日本の行事も取り上げられていた。それぞれの文化が伺え、楽しい授業であった。こうしてみると僕が今まで受けてきた教育にさほど不満はない。(男子学生)

 ●授業の中でも、何度か日本人の英語力についての話が上がっていたが、それには日本の英語教育の問題が大きく関わっていると私は考える。私が受けてきた過去の英語教育を振り返っても、文法をマスターし、単語を覚え、教科書の短い文章を読むといったワンパターンなものであった。中学・高校での英語の授業、家庭教師や塾での学習を重ねるうち、英語は好きだが”面倒なもの”になってしまった。高校の授業の中で、1時間ひたすら文法学習というものがあった。厚い文法書を渡され、説明を受け、暗記をするという苦痛な時間だった。今考えると、受験対策だったのだが、”英語を楽しむ”という余裕はなかった。英語離れしてしまった原因を全て私が今まで受けてきた教育に当てつけるわけではない。私自身が英語を楽しむ方法を見つけ、教育以外で英語に触れようとしなかったのだから。ただ、現在、幼稚園、小学校での英語授業導入が増えていることに私は疑問を感じるのだ。小さい頃から英語に触れさせることはいいと思うのだが、その教育方法を考えるべきだ。単語を覚えさせ、文法をつめこませるような教育では、本当の意味での英語教育にはならないだろう。英語好き、外国の人と話すのが好き、そして、日本のことを外国の人に知ってもらいたい、教えたいという人を育てていかなくてはならないはずだ。私は小学・中学の英語の授業で山岸先生のような先生に出会えていたら、私の日本、又、英語に対する考えが変わっていたのではと思う。そして、私はぜひ今、これからの小学生が山岸先生のような授業で英語を学ぶことを強く願う。(女子学生)

 ●私は内部進学者で、中学からずっと受験を経験せずにきたため、英語の勉強というのはほとんどしたことがありませんでした。学校の授業も、ただ教科書を読んで訳すといった単純な作業の繰り返しでしかなかったため、はっきり言って英語は苦手だし、嫌いでした。辞書を引いても、どれが適切な意味かわからなかったので時間ばかりがかかり、英語の勉強というのは辛くてめんどうくさいものとしか思えなかったのです。
   しかし、この授業は一人当たりの負担は少ないにもかかわらず、他の人の発表もみな興味深く、授業がつまらないと感じたことは一度もありませんでした。負担が少ないのでみな自分の担当の時はしっかり調べてくるし、その内容も外国人から見た日本人という、私たちが普段気にも留めていなかったような疑問ばかりでとても楽しかったからです。
   授業方針というのは先生によって違うし、どのやり方が正しいとかそういうことはないとは思います。でも、私はこの授業で初めて英語がおもしろいと思えたので、もっと早くからこういう授業に出会えていたら、もっと英語が好きになっていたのではないかと少し残念に思っています。でも多少時期は遅かったかもしれませんが、この授業を受けることができたことは、必ず人生のプラスになると思いました。一年間、本当にありがとうございました。これからもお体に気をつけて頑張ってください。(女子学生)

 ●中学・高校における英語の授業は正直言ってあまり意味のないものだった。中学はゼロからのスタートなのである程度文法等のウエーが大きくなるのは仕方ないとしても、高校の授業は心底無意味だった。まず、英語を話す機会は無いに等しく、発音など指導された記憶はゼロ。テストなども問題集を暗記すれば誰でも百点という感じだった。確かに大学受験に必要とされるものは満たしていたかもしれないが、それだけなら一人でもやれると感じた。こういう僕が否定的なのは、単に英語が嫌いだったこともあるが、僕だけでなく、友だちもみんな同じようなことを言っていたため、おながち偏見というわけでもないだろう。恐らく先生方もそういった授業で英語を使えるようにならないだろうと思いながら教えていたのだと思う。実用的な英語教育のためには大学・高校・中学・小学校が根本から変わらなければならないと思う。(男子学生)

 ●僕の8年近くの英語学習を通して言える事、それは自分の英語の総合的な能力の低さを見るとやはり現在の文部省の定めた英語学習のプログラムには欠陥があると言う事である。まず中学・高校と通して単語の短時間での詰め込み(実際自分で会話において使わない単語は身につかないと思う)が一つ。二つめはりライティング重視の授業(リーディングは表現方法や書き言葉を知る上で重要だと思う)であり、もっとリスニング・スピーチに時間を割き簡単な表現や旅行などので実用的に使える表現に主眼を置いていいんじゃあないだろうか? 三つめはこれと関連するが英語を使う必要のある機会を増やす事。日常生活において英語を使わない以上、例えばアメリカンスクールとの交流のような実用の場を創らなければならないだろう。四つめは、より少人数制の授業形態とそれに伴う英語教師(とくに英語の教育に慣れたネイティブの教師)の増加が望まれる。そして最後に、英語という科目の学習選択権をせめて大学からは生徒に与える事、である。山岸先生のような 「言語を学ぶ事の意味」を諭す授業はとても大切であるが、これはやはりどちらかというと中学高校と英語を学んだ上で、改めて学ぶものだと僕は思います。以上が僕のこれから望む事です。(男子学生)

 ●日本の義務教育、及びそれに準拠する塾・予備校等での英語教育はその目的を、広く世界の人々とコミュニケーションを取れる国際人を育てる、という様な大きなところに置いていなく、単に大学受験を成功させるという目的の為だけに行われている。この様に日本人が大学受験に執着する事は日本の社会構造、つまり、そいの人の個性能力よりも、どこの大学を卒業したかという事を重視し、その大学により将来の社会的地位もある程度決まってしまう、ということに原因がある。
   この大学受験の問題が殆どの大学で、同じ様に単語数、用法、文法といった点を重視した問題になっている為、現在問題となっている様に、文法的には一流でも実際に外国人とコミュニケーションをとる事が殆ど出来ないという様な“受験英語がすばらしい”日本人が多いのである。日本の英語教育は中学校から10年間も続いているという点を考えれば文法以外のもっと重要な事、世界の人々とコミュニケーションをとる、“心を通わせる”という事も十分に学べるはずなのである。この、コミュニケーションをとる、という事で重要な事は自分について知りつくしていなければならないという事で、英語で世界の人々と交流する時に当てはめるとつまり、我々日本人が我々自身を知り抜かなければ我々を相に理解してもらうという事が非常に困難である、という事である。この事について、日本人はまだまだ不完全であり、義務教育の中に、もっと日本の文化を研究・理解しようとする様な文化学とでも言うでき教育があるべきであり、この事なしにはいつまで経っても、またいくら単語や文法を詰め込んでも日本人は真の“国際人”にはなれないのである。(男子学生)

 ●山岸先生の授業は、これまでの英語の授業と違って細かい文法にはあまりこだわらず、英語らしい英語を、そして伝わりやすいように、という点に重点を置いていたのが新鮮でした。いまだに覚えているのが、“many” と “a lot of” などの使い分けで、私はこの授業で学ぶまで、双方の違いは (  )が1つか、それとも3つに増えるかだけだと思っていました。あてはめ式の文法のテキストで、many = (  )(  )(  ) 、とやったのが頭に焼き付いていただけでした (“many” と “a lot of" とは、意味は同じでも、言葉のレベル“speech level”や用法が微妙に異なるということを授業中に説明したことを指しています―山岸)。この授業は一見、英語というよりは比較文化論か何かの授業のようですが、分で疑問に対する答えを作成し、英語に換え、かつ外国の人が読んで納得できるような文章にする、というのは実は最も身につきやすく、そして重要な“英語”の授業ではないかと思います。高等学校で行う英語の授業も、受験英語などあまり意味がないとわかっているのなら根本的に変わっていくべきだと思いました。英語以外でも多くを学べ、自分が発表する度に先生に突っ込まれて悔しい思いもしましたが、一年間のこの山岸先生の授業は面白く、実りのあるものだったと思います。出来の悪い生徒でありましたが、一年間、どうもありがとうございました。(女子学生)

 ●自分は熊本県の私立の高校出身なので、この慶應義塾大学の法学部に入るためにはそれなりの英語力が必要とされる受験勉強を体験してきた。推薦受験ではなく、慶應側の用意する難問奇問に直面したため、高い偏差値が要求された。そのような要請に応えるための受験英語教育を受けた一個人として、思うことを書こうと思う。
   受験英語においては、何よりも単語力が必要とされる傾向があったと思う。自分は一年間浪人している際に、単語帳を三冊丸暗記した覚えがある。特に難関大学と呼ばれるところの問題は、普段お目にかからない単語のオンパレードとなる。その際に如何に混乱しないかが合否を分けるのだ。日常の英語では使用されることのない英単語が、受験では頻繁に使われるという理由で重宝される。ここに受験英語の問題が集約されている。このほか、単語力以外に必要となるものは、速読力と読解力であるが、この二つは何も受験英語の問題点とは思わない。この二つは日本語の文章を読む際にも必要とされる能力であり、受験英語の弊害と呼ぶのは明らかにおかしいからだ。
   要するに受験では、既存の受験体制に自分たちの頭を迎合させることが強要され、その過程において「受験英語(=非実用英語)の思考回路」が作り出されることに問題がある。この問題は、制度としての大学入試そのもの全体を見直すことから取りくまなくては根本的な解決を見ることはない。
   しかし自分は受験制度をそう簡単に否定する気は毛頭ない。というのも、受験制度の役割というものに鑑みて現状を分析するに、受験制度に多少の改善すべき点を見つけることはしても、受験制度はその責務を立派に果たしているからだ。
   入学試験とは、ある大学に入学を希望する者の人数を募集人員を超えた場合に、入学者を選定するために行われる試験である。つまり、万人に向けられた公の試験ではないのだ。そもそも、受験者が頭を抱えて悩みこむ問題を出し点数に差がつくように仕向けることを目的としている。そのような性質上、たとえば英語に関して言うと、出題される英語の表現が非実用的であったり、問題量が多かったりすることがおこる。これは必要悪である。出題されたハードルを越えられるものが入学できるという、シビアな世界なのだ。それゆえ、「受験制度自体が悪い」という考えは見当違いである。
   しかし現状として、そのハードルを越えるために受験戦争なるものが発生し、必要以上に試験問題の難易度が高くなっていることは否めない。これこそが現行の受験体制の改善すべき点であろう。この打開策として挙げられるのが、試験の多様性である。一般入試と推薦入試の併用がよい例である。入学の門が一つに限られるがゆえに異常な加熱を見るのであり、入り口が増えれば解消されることは当然である。ただし入学の条件が著しく違えば学生の質に差が生じるのも問題があるため、注意が必要である。また、試験の成績以外の面を顧慮する制度を設けるのも効果的である。面接や高校時代の活動状況をもとに判断するのである。しかしなにぶん抽象的な判断になりがちであることは否めない。しかし、物事を全て画一的に、マニュアル処理をするために課した現行の受験制度の問題が発生している現在、一部に抽象的な要素を取り込むことで現行の問題を解消するのである。
   以上、受験英語よりも受験そのものに思うことを書いてしまった。現在の英語教育が日本人の英語能力の向上に貢献していないことは、前述したように受験英語の性質によると考える。それゆえ、受験英語にそれを求めること、期待するほうがそもそも間違っているのだ。日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである。ただし日常の英語教育の延長線上に大学入試を位置付けると、どうしてもこの目標は果たされにくくなる。それゆえに、日本の大学入試制度の抜本的な改革、あるい既存の体制における問題を解消するような補助的なシステムの構築が必要である、といつも痛感している。(男子学生)

 ●中学生の頃、英語は得意科目であった。しかし、高校に入るとそれは徐々に崩れ始め、ついには苦手意識を持つようにまでなってしまった。原因は明らかに勉強量の減少であった。私は高校から慶応に入ったため、高校入学と同時に受験勉強をする必要が無くなったからである。このことから分かるのは、私にとって英語はあくまでも受験のための手段にすぎず、それ自体には興味をもてなかったということである。しかし、最近になってその意識は変わりつつある。国際社会に日本文化を伝えるための英語に関心が湧いてきたのである。それは、昨年の小屋先生(日本事情に関するディスカッション)や今年の山岸先生のおかげによるところも非常に大きかったと思う。学校の授業で英語を学ぶのは、おそらく今年で最後になるであろう。しかし、私は来るべき国際化社会において有用ありうるコミュニケーション能力を身につけるべく、これからも継続して英語学習に取り組みたい。(男子学生)

 ●僕が今まで受けてきた英語の授業は主に教科書を使った文法の修得(中学1年〜高校1年)、副教材としてその時その時の先生が選んだ英語の小説や新聞記事、エッセイの読解・和訳 (その時の先生によってかなり正確に訳さなければならない時や、わからない単語などはあってもいいからとにかく意味を推測しながら早くたくさん読みなさいといった時があったりと色々でした。) といったものでした。ほとんどが英文和訳であり、今回のようなみずから英文を考え、さらに発表するということは初めてでした。(男子学生)

 ●私は大学から慶応に入ったのですが、当然高校の時は大学に入学するために、入学試験でいい点を取るために勉強したのであるが、英語を含めその殆どを忘れてしまったといっても 正直な話過言ではない。なぜならそれらほとんどを大学で使わないのだから。英語でいうなら膨大な単語、日常まったく使わない文法、それらほとんどすべてである。しかし普段よく使うようなことは覚えている。しかし使い方がよくわからない。あたりまえのことである。英語は使えるようになるために学ぶのである。大学に受かるたえではない。こういった目的の本末転倒という受験制度の弊害を唱える声は多いし自分も身をもって体験したことである。しかしなかなか改善されない。たしかに勉強するということは意味のあることであり受験の時勉強した知識が役に立つこともある。したがって受験問題自体がもっとその意味を考えてほしいと私は思う。(男子学生)

 ●日本人が英語が得意でない理由の一つに日本の大学受験の制度があげられる。国際社会で必要とされるのは、話せる英語、実際に使える英語なのに、過去の英語教育は決してそれに重きを置いたものではなかった。しかし、学校側から言わせればきっと受験でさほど重視されていないものに力をいれるのは困難であるなどの言い分があるだろう。しかし実際のところ、一生懸命に覚えた単語や文法、構文、熟語などがネイティブは実際には使わないようなものがあると知ったときは大きなショックを受けた。それは単に勉強のための勉強だったのではないかと思う。これらの問題を解決するには、限られた時間の中では、難しいかもしれないが会話中心とはいかなくとも、会話にも十分に重点の置かれた英語教育が望まれる。それに伴って大学入試もリスニング等を導入し、問題の傾向を変えていく必要があるだろう。(男子学生)

 ●高校までの英語教育に関して私はいくつかの疑問を持っている。それについて述べたいと思う。一つは実践的な英語教育がなされていないということである。よく受験英語がその例に挙げられるが、学校の授業に関してもそれがいえると思う。ネイティブが普段使わないような難しい単語、古典的な表現など、非実用的な勉強が多い。山岸先生の授業で英語を書く機会が多くなったが、このような単語、表現は使わずに、本当に基本的な部分でも意思は伝えられるということがわかった。
   第二に、“書き”、“読み”中心の教育で会話やリスニングの授業が不足しているという点である。もちろんそれらが必要であることを否定する必要はないと思う。そうしないと、英語が学校の科目で終わり、本来の目的を達成し得なくなってしまうと思う。
   第三にテストの形式、教育の仕方である。学校、受験のテストではスペリングが一つでも間違えていたら減点、“in” や “a”が抜けているだけで減点もしくは×である。僕が思うに、英語は道具であるわけだから、まずは意思が伝わるか?どうかが重要であり、多少文法的に間違っていようが気にしないで積極的に話すほうが必要だと思う。このような教育をしているために、悪い意味での完璧主義が生まれ、少しでもまちがえたら恥ずかしいと思い、消極的な人間が多く育ってしまうと思う。
   最後に、英語そのものは教えるが、文化的な事、考え方の違いなどに全く触れていないということである。先生の授業で習ったが、いくら英語で伝えようとして、良い英語を書いたとしても相手のことを理解しておかないと、こちらの伝えたいことも向こうは理解してくれない。
   このような事が僕の考える疑問であり、問題点であると思う。これらが改善されていけば、日本人は今以上に英語がうまくなると思う。(男子学生)

 ●これまでの英語学習における長所と短所と、これからの英語学習における提言を僕なりに述べたい。長所としては、受信能力の向上を挙げる。これまでの英語学習では「読む」ことが重視されてきた。読解力を身に付けることで「タイム」、「ニューズウイーク」を読むことができるようになった。世界で起きている出来事・話題を知ることができ、自分の教養も深まっていったと思う。その一方で、発信能力の欠如という短所もある。「読む」ことに比べて「書く」「話す」といった部分がおろそかになった部分があろう。国際化が進むと、他国の人々と接する機会も当然多くなる。相手に自分の意志を正確に伝えることができないと困る場面もでてこよう。また、情報化社会の中で、自分をアピールすることもある。自分の言葉で論理的に説明し、相手を納得させる能力がとても重要になってくると考える。このような英語学習の現状を踏まえ、今後の英語学習はいかにあるべきだろうか。私は、発信型の英語教育を提言する。「読み」偏重から、「書く」「話す」といった部分をもっと重視した教育をすべきだと思う。国際化、情報化が進展する21世紀という時代を考えても、発信能力がこれからは求められるのではないか。僕も、この授業を生かして、発信能力を磨いていきたい。(男子学生)

 ●私は慶應の附属中学・高校に通っていたため、いわゆる受験勉強としての英語学習とはこれまで全く無縁だった。中・高の授業では単語や文法の詰め込みのようなことはほとんどせず、ネイティブの教師との会話を通じて話せる英語を身につけよう、という主旨があったという点で、一般的な日本の学生が受けているものよりも実用性の高い英語学習ができたのではないかと思う。しかし、学校の授業以外の英語学習では、NHKのラジオ放送講座を聞く程度でほとんど何もしなかったため、文法や単語の知識量が極めて少ないことを現在実感し、後悔と共に自らの積極的な学習の必要性を痛感している。また、今回山岸先生の授業と比べて思うことは、英語で「日本」を表現しようとする機会があまりなかったということである。英語は外国の言葉であり、英語を学習して外国の文化を受信しよう、という考え方が中心で、自ら発信しようとする機会があまりなかったように思う。

 ●これまでの英語学習は知識の詰め込みを中心としたものだったと思います。これからはもう大学生ですので、自分の頭で考えながら詰め込んだ知識を活かして英語学習に励もうと思います。しかし、肝心の詰め込んだ知識が今ではちょっと物足りない感じなので、思い出すための詰め込み式勉強をまたしなきゃならないかなという危惧はあります。
   むろん、英語を使う機会に思い出せるようなほうが一番良いのでしょうが、期待だけで哀しい結果になるのはつらいのです。自分のいいたいことがなかなか出て来なくて言えない、あのもどかしさには何度も覚えがあります。
   知識詰め込み式の学習ではまた同じことを繰り返すのではないかとも思うのです。詰め込んだ知識のままでは応用が利かないのです。英語で話をしたり、書いたりする出力的な努力は、知識の詰め込みだけでは無理なようです。なぜならそこにはアレンジが必要だからです。ではアレンジはどうすれば可能か、それには自分なりに考える機会を持つということではないでしょうか。
   これまでの英語学習ではいろいろと覚えたりして、それはそれでとても訳に立つものだと思います。しかし、自分なりの感想をいちいち持っている余裕は無かったのです。これからは知識を得つつも考えるゆとりのある英語学習をしたいと思います。しかし、最初は英語を詰め込む努力を惜しんだりしてはいけないとも思います。今はよい意味でゆとりを持ちたいです。



B.学生諸君の声に学ぶ
  
以上が、「過去の英語学習に思う」への回答の全てです。この種のレポートは、ほぼ毎年のように提出してもらっており、学生諸君が何を考え、何を思っているのかに耳を傾けて、自戒の材料としたり、より良い授業の創造に役立てたりしています。日本の英語教育は、私が学生であった頃から見ると、大変化を遂げており、その改善ぶりを見るにつけ、今の学生諸君がうらやましいほどです。にも拘わらず、上掲のレポートから明確に読み取れるように、大学生の多くは、自分たちが受けて来た英語の授業やその行われ方などに不満や疑問を抱いています。
   曰く、「英語というものは、単なる道具に過ぎず、それを用いて何かをしていくという発想が欠落しているのもかかる英語教育の弊害だと思います」、曰く、「中学・高校の英語の授業は、何を目標としていたのでしょうか。単に受験で良い点数を取るためだったと思わずにはいられません」、曰く、「過去の英語学習に欠けているものは、まず初めにコミュニケーションの為に英語を学ぶことを忘れていることである」、曰く、「ある言語を学んだところで、自分の言いたいことを正確に伝えられないようでは言語としての意味をなさないのである」、曰く、「はっきり言って僕は英語が苦手である。その苦手なのを他人のせいにするのもおかしいが、先生の教え方が悪い!」、曰く、「恐らく先生方もそういった授業で英語を使えるようにならないだろうと思いながら教えていたのだと思う。実用的な英語教育のためには大学・高校・中学・小学校が根本から変わらなければならないと思う」、曰く、「中学・高校における英語の授業は正直言ってあまり意味のないものだった。中学はゼロからのスタートなのである程度文法等のウエートが大きくなるのは仕方ないとしても、高校の授業は心底無意味だった。」
   また曰く、「これまでの英語学習は、受験という目的を達するための手段としての、数学や、日本史や、生物などと同じ列に並んだ、受験科目の一つという位置づけの学問だったように思います。たしかに受験のための英語学習は、『受験』には最大限の効力を発揮するするように思います。その学習はけっして無駄ではないはずです。ただ、道具がその役割を果たせれば使われなくなるように、受験が終わり、いったん目標を失ったとき、それまでの英語学習はその存在意義を失ってしまいます」。
 中には、受験英語に関して、深い分析をする学生もいます。曰く、「受験制度の役割というものに鑑みて現状を分析するに、受験制度に多少の改善すべき点を見つけることはしても、受験制度はその責務を立派に果たしているからだ。入学試験とは、ある大学に入学を希望する者の人数を募集人員を超えた場合に、入学者を選定するために行われる試験である。つまり、万人に向けられた公の試験ではないのだ。そもそも、受験者が頭を抱えて悩みこむ問題を出し点数に差がつくように仕向けることを目的としている。そのような性質上、たとえば英語に関して言うと、出題される英語の表現が非実用的であったり、問題量が多かったりすることがおこる。これは必要悪である。出題されたハードルを越えられるものが入学できるという、シビアな世界なのだ。それゆえ、『受験制度自体が悪い』という考えは見当違いである。(中略) 現在の英語教育が日本人の英語能力の向上に貢献していないことは、前述したように受験英語の性質によると考える。それゆえ、受験英語にそれを求めること、期待するほうがそもそも間違っているのだ。日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである。ただし日常の英語教育の延長線上に大学入試を位置付けると、どうしてもこの目標は果たされにくくなる。それゆえに、日本の大学入試制度の抜本的な改革、あるい既存の体制における問題を解消するような補助的なシステムの構築が必要である、といつも痛感している。」 
   この学生が言っている、「日本人の英語力の向上は日常の英語教育において果たされるべきことである」という点は的を射ていると思います。我が国における英語教育の欠点をあげつらうことは容易であり、誰にもできることです。容易でないのは、「楽しい授業だった」、「履修して良かった」「英語が好きになった」と思ってもらえる授業の創造だと思います。英語学習は生涯学習の一環と捉える私としては、そういう授業の創造にとても魅力を感じます。この思いは、専任校であると非常勤校であるとを問いません (当然過ぎるほど当然なことだと思います)。法学部2年生を対象とした「英語V」で、専任校における「山岸ゼミ」で取り扱っている 「外国人の疑問・190(日本語・英語で答えてみよう)」 の内から、法学部学生向きのものを約半数選んでプリントし、それを材料として授業を進めることにしたのは、「山岸ゼミ」において、その授業の進め方が受講生の間で極めて好評であったことに由来します。詳細はこちらをご覧下さい。