3. 満足度の高い大学英語授業の創造
   ―受講生諸君の声に学ぶ

    2001年度慶應義塾大学法学部2年生【英語V受講生】諸君の場合


■本欄では、2000年度慶應義塾大学法学部2年生(英語V)諸君に、「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」と題して書いてもらった小文を紹介しました。ここでは、2001年度の諸君(学年暦・平成13年4月-平成14年3月;学年、授業科目は昨年と同一)のものを紹介します。今回は「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」とを同一頁に掲載してあります。前回同様、明らかな誤字・脱字の修正以外は、原文どおりです(学生諸君にはメール送信を依頼しました;掲載にあたっては生諸君の了解を得ています)。したがって、意図の不明確な個所や、私の授業の内容を誤解していると思われる箇所もありますが、そのままにしてあります。今年度も素晴らしい学生諸君に恵まれて本当に幸せでした。

過去の英語学習に思う 今まで、自分が受けてきた英語教育に対して疑問を感じる場面は多々あった。どう考えても実生活につながるものとは思えなかったからだ。しかし、もともと日本語を母語として育った我々が英語を学ぶには、それなりのステップを踏む必要があるのかもしれない、と思っていた。しかし、この度、山岸先生の授業を受けてみて、今まで受けてきた英語の授業にも改善の余地が多分にあるように思える。最も感じるのは、今までの英語教育があまりに言語の表面的な形式を教えることに終止しすぎていたのではないか、ということだ。言語の背後にある文化を理解する努力が足りなかったように思う。確かに、基礎的な英語能力も付いてない段階で、文化を教える時間がない、とも言えるかもしれない。しかし、文化のほんの一端でも教えることが、単語をいくつ教えることよりも効果的なはずである。この度の山岸先生の授業を通じて、そのことが良く分かった。
 この授業で学んだこと 今までにない授業に感銘を受けました。高校時代から、単語の背後にある文化感には興味を持っていました(単に、できるだけ英単語を憶えずにすむ方法はないか。と言うことで、かなり動機が不純なのですが)。しかし、独学ですし、もともと動機が不純だったので、ちっとも身になりませんでした。ですから、山岸先生の授業を受けたときは「こんな授業を求めていた!」などと勝手に思っていました(実際には、私にはもったいないくらい素晴らしい授業でした)。先生の授業が、正に単語や文法の裏にある“文化”を伝えてくださるものだったからです。このような学習によって、一つの単語や文法を学ぶだけで、何倍もの効果を得られると実感しました。山岸先生の授業は、本当に素晴らしい財産になりました。この財産を活かすためにも、自分自身で努力を重ねたいと思います。ありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 「受験戦争」という言葉は、今や当たり前のように世の中に飛び交っています。そんな環境で育ってきた私は、小学校、中学校、高校、大学とずっと受験を体験してきました。ある意味、他の人とは違った経験をしてきたとも言えるかもしれません。特に親から強制されてそのような道を歩んできたという訳ではないのですが、自分の望んでいる道へ進もうとすると、いつも受験が私の目の前に立ちはだかっていました。勉強すること自体はとても好きでしたし、努力した成果が目に見える形で表れること(つまり、試験で好成績を取ったり、受験に成功したりすること)に爽快感さえ覚えていた私にとって、勉強はそれほど苦になりませんでした。特に中学校から本格的に始まった英語の勉強に関しては、小学校から英語の授業があったということもあり、とても得意となり、楽しく勉強をしていました。先生に教えられる文法や構文、自分で勉強を進める中で登場する単語や熟語を覚え、問題集で繰り返し学習するという作業は、私の試験での成績を上げ、入試に何度となく合格させてくれました。
 しかし、今になって考えてみると、自分の英語に対する考え方や勉強方法は誤りだらけだったのではないかと思います。正直に言って、この授業を受けるまで今までの英語教育に疑問を持ったことはほとんどありませんでした。英語というものが生きた言語であること、実際に使っている人々が世界中にいて、意志伝達の手段として用いられていることを理解できていなかったように思います。これは私のみの責任という訳ではなく、やはり日本の英語教育にも問題があるのではないでしょうか。日本の英語教育は暗記(文法や単語といった「表面的なもの」)ばかり重視して、実際に英語を話すということ(相手とコミュニケーションをとるという「実用性」)を考えていません。受験英語においても、暗記重視の問題が多く、私たちは嫌でも「表面的な英語」を学ばざるを得ません。だから、日本の英語レベルは一向に上がらないのです。どのような経緯で使われるようになったのかということを考えれば、もっと英語を楽しく、そして容易かつ効率的に学習できるはずだし、人間という同じ動物が使っている言語なら、多少の文化的違いはあったとしても、言語を意志伝達手段として用いていることに変わりはないはずです。言語の役割や本質を私たちがもう一度見直し、日本の英語教育、しいては受験英語の抜本的な改革が早急に必要とされていると言えます。
 この授業で学んだこと 先程も少し触れましたが、この授業で得たものはやはり「英語が生きた言語であること」です。言語は、その国や地域を特徴付ける文化を代表する一つの例であり、人々の価値観や感受性、生活習慣などに大きな影響を受けています。したがって、言語だけを学ぼうとすることは、その言語をマスターして実際に使おうと思っている人にとっては無益なことと言えるでしょう。文化的背景、つまり、言語の背後にあるものや言語の形成された要素となるようなものを理解することは、言語学習において不可欠です。これはもちろん英語に限ったことではなく、日本語やその他の言語についても同じでしょう。言語は人間にとってなくてはならないものであり、だからこそ私たちのすぐ近くに存在していて、世の中の変化にいち早く影響を受けるのです。まさに「言語は生きている」のです。この授業で言語の持つ本当の意味を教えて頂きました。
 次に、授業でずっとやってきた「外国人の疑問」に関しても学ぶべきことがたくさんありました。まず、自分の無知さを痛感しました。生まれてから今まで20年以上生きてきた、この日本の習慣や独特の言い回し、考え方などについてなぜ疑問を持たなかったのか今となってはとても不思議です。外国人と日本人とでは見ている視点が異なるので、当たり前なのかもしれませんが、自分の国の様々な事柄について由来を学び、誰かに説明できるようにしておくことは、決して無駄にはならないはずです。むしろその国に生まれた者の義務として当然のこととも言えます。文化は一つではなく、世界中に数え切れないほど存在するわけですから、その違いを積極的に知ろうとすることは、国際化が進み、ボーダレス社会が当然となってくる今後の世界にとって、誰にでも要求される姿勢です。
 最後に、「人の意見を聞く」ということです。山岸先生は学生それぞれが持っている意見を引き出そうと努力し、その意見がたとえ間違っていたとしても、最後まできちんと聞いて下さいました。「確かにそういう意見もあるよね。良い意見だ。けど・・・」という感じで、いつでもまず私たちの意見を受け入れて下さる姿勢はとても素晴らしいと思いました。「人の意見を聞く」ということは、人間として生きていく上では欠かせない大切なことです。人間は一人では決して生きていけません。自分を支えてくれる家族や友人、恋人がいるからこそ生きていけるのです。だからこそ、自分の独断と偏見に凝り固まることなく、様々な人の意見を許容してから、必要なものだけピックアップしていくということが重要だと思いました。
 一年間、本当にお世話になりました。山岸先生の授業は、とても勉強になるし、今まで自分が学ぶことのできなかったことを教えて下さるので、興味深く、毎回楽しみでした。知り合いの先輩が昨年この授業を受けていたので、薦められて私も履修したのですが、山岸先生の授業を受けることができて本当に光栄でした。ありがとうございました。これからもお体にお気をつけてご活躍下さい。またどこかでお会いできたら嬉しいです。(女子学生)

過去の英語学習に思う 僕は今までは単語帳で単語を覚えたり、文法事項を覚えたり、教科書に書いてある文章を読んだりする英語学習しか、したことがありませんでした。書いてあることはなんとなくわかるけど、ただそれだけでした。ちっとも話せるようにならないし、面白くないので、英語学習はただ単語を覚えていただけに過ぎない感じでした。そして、英語力のなさを実感させられる事件がありました。先日新幹線に乗ったときにドイツ人と相席したことがあるのですが、気さくに話し掛けてきました。それに対応する僕の会話のレベルは中学生のときに習ったような簡単な片言のようなものになってしまいました。相手の言っていることはなんとなく理解できたのですが、なんと答えればよいのかわかりませんでした。今までの僕の勉強は残念ながら、情報を少し読み取れるぐらいのものでしかなく、言語のもつコミュニケーションの手段として使うことができないものでした。
 この授業で学んだこと この授業では、今まで僕が学んできた英語に命を吹き込んでくれたと思います。知っている表現や単語をどのようなときに、どのように使うのかを学ぶことができ、今まで学んできたことは無駄ではなかった、と思うことができるようにしてくれました。今まで英語はおもしろくないと思っていましたけど、他国の文化を学ぶことの面白さとともに英語の楽しさを学ぶことができました。そして、来年から、英会話をならってみたいと思っています。せっかく高校まで学んできたものがあるので、それを無駄にしないような勉強法を探していきたいと思っています。そのきっかけを与えてくださった山岸先生には本当に感謝しています。1年間有難うございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う  私は、国際交流サークルに入っているが、今年の夏知り合ったクロアチアから来た女の子がこんなことをいってきた。「日本の男の子達(私のサークルの)はシャイ過ぎるわ。(中略)話しかけても会話が1分も持たないし…。」彼らは、普段は、まあお喋りとは決して言いがたいが、少なくとも会話が1分と続かないなんてことはない。「きっとそこまで英語が上手く話せないからじゃないかな…。」と私が答えると、彼女は、「あら、そんなこといったら私だって英語なんか間違えまくりよ。こないだなんで観光をseeing sightっていっちゃって、友達がsight seeingね、って。(笑)でもちゃんと通じてるからそれでいいのよ。」彼女は、私の答えには満足できない様子だった。日本人なら、理解はしてくれたであろう回答だったと思う。日本の英語教育で、一番の問題点は、まず、英語を教える前に、英語は手段である、ということを生徒にじっくり時間をかけて教えない点であると思う。単語や、文法や、構文なんて、やろうと思えば家でひとりで学べる。海外で生活すれば、すぐに話せるようにはなるだろう。中学に入学した4月の最初の授業で My name is Aki Suzuki. (not Suzuki Aki)と言わせることから始まり、Mary loves Bob.(not Kumi loves Satoshi.)と続いていく。三単現のsが抜けたら、1点減。ピリオド抜けて、計2点減。英語は、「勉強」するものとなり、いつやら「受験科目」となっていった。幸いにも私はそれでも英語を学ぶことが好きであった。海外へ行った時に知り合った友達と、英語が流暢でなかったばかりに話したいことが伝わらなかったもどかしさ、同時に英語が少しでも話せたから知り合えた喜び、それを肌で感じていたから、続いた気がする。受験一辺倒の偏った先生も中にはいたが、私は先生には恵まれた方だと思う。ただ、同じ先生に教わった級友の中にも、やはり英語を嫌いという子はいた。その場合、「私は英語が苦手」という表現をするが、「苦手」を使う時点で、英語は数学や理科と並ぶ「勉強科目」扱いされている。しかし、はたして外国語の一つ(に過ぎない)英語は本来そう扱われるべきなのだろうか。語学とは、自然に身につけていくものであって、試験で76点とかつけられるものではない、と私は思う。上の逸話に話を戻すが、今までその「試験」で高得点を上げてきた(と推測できる)慶應生が、英語での日常会話すらままならないとは到底思えないが、そこに何かしらの原因が彼らの日常英会話を不自由にしているとすれば、重箱の隅をつつくような減点方式によって、間違えることに対して過剰に生徒を神経質にさせてしまった日本の英語教育の問題点が見えてはこないだろうか。
 この授業で学んだこと 「考えること。」大学に入るまで、いや、先生と出会うまで、こんなにも頭をつかって考えた授業があっだろうか。しかも、英語の授業で。それも、日本について…。外国語を学ぶとは、ペラペラ喋れるようになって、向こうの地理や文化に精通することだと思っていた。それで完璧だと思っていた。だから、帰国子女に対して、コンプレックスを抱いていたりもした。どれだけ頑張っても、小さい頃から英語の環境で育ってきた人にはどうせ敵わないよ…と。そんな私に自信を与えてくれたのが、山岸先生だ。極めて単純なことだけれど、それが故に見落とされている一番大切なこと……英語を喋る前に、私達は日本人であること。先生はそれを気づかせて下さった。「外国人の質問」プリントは、今まで立ち止まって考えることなどなかった日常の行為や、ほとんど知識ゼロだった日本古来の宗教や風習に目を向けるとても良い機会を与えてくれた。日本に対する驚きの連続であった。(同時に、いかに自分が今まで20年もの歳月を過ごした国に対して無知であったかを痛感させられることにもなったのだが…。)先生に出会えたこと、私の財産です。(女子学生)

過去の英語学習に思う  中学生の頃、英語を学び始めた私は、このまま熱心に勉強していけばいつか英語を話せるようになると思い込んでいた。大学受験用の英語教育を6年間真面目に受けた結果、見事慶應義塾大学に合格した。しかし、入学後はどんどん単語や文法を忘れていくばかりだった。2年になって山岸先生の授業を受け、私は愕然とした。文化の違いという根本的な当たり前のことを忘れていた。ただ辞書に並んだ訳を信じ、日本語訳が同じであればどれを使っても英作文には丸が付いた。今まで長い時間をかけて学んできた英語は一体何であったのだろうか。文章は読めてもなかなか話すことはできない。その読めていたと思っていた文章も、本当の意味で読めていたのかは疑問である。文化の違いを意識するようになってから、英作文を作るのに倍の時間がかかるようになった。ニュアンスを勘違いしたまま英語を使ってしまえば、相手を傷つけてしまったり、誤解されたりしてしまう。本当に自分のいいたい事を英語にするには、まだまだ勉強が必要なようだ。始めから生の英語を学べていたらこんな遠回りしないで済んだのだ。英語教育を変えるのにはかなりの年月がかかるだろう。しかし、このグローバル化社会においてこのままでは日本の破滅にもつながりかねない。何事を受験用の勉強になってしまっているわけだが、それを利用してしまってはどうだろう。受験問題自体を、本当の英語を問うものに少しずつ変えていけばよいのではないか。
 この授業で学んだこと 様々なことを学んだが一言で表すとすれば、「考えようとする姿勢」である。今までの英語が“詰め込み型受験用英語”だとすると、今回授業で学んだ英語は“コミュニケーションツールとしての英語”だと思う。相手と自分の双方の文化をよく知らないことにはうまく使えない、そんな英語だ。この英語の勉強は決して詰め込めない。疑問に思ったり考えることなしには勉強できない。英語文化についてはもちろん、日本についても知らないことが多すぎて驚いたと共に情けなかった。質問されると答えられないのに、普段は自分が知らないことにすら気付いていなかった。「考えようとする姿勢」があまりにも欠けていたのだ。これでは英語など話せるわけがない。生の英語を勉強したい、そう思って英英辞典を買った。いくつかの単語を引いてみたところ、多くの英和辞典や和英辞典は間違いだらけであることを実感した。そして短い例文にすら英語圏の文化が読み取れてとても興味深いものだった。今後は英語をすらすら話せるようになりたい、という夢をかなえるべく生の英語を学んで生きたい。先生から学んだ「考えようとする姿勢」を常に心がけて、新しい発見をしていけたらと思う。そして多くの世界の人と触れ合ってみたい。(始めから山岸先生の授業を受けることが出来たら良かったのになあ、と思います。)(女子学生)

過去の英語学習に思う 私は、過去の英語学習の一番の問題点は、読み書きに重点をおきすぎたところだと思います。私は、英語が好きで時間をかけてやってきたつもりだったのに、外国人の人を前にして自分の伝えたいことがいえなくて、そんな自分にいらいらすることがたびたびありました。これはやはり、圧倒的に英語に触れる機会が少ないことによると思います。難しい単語や文章は読んだりできるのに、日常に必要な言葉がでなかったり、どういう時に適切な言葉を使っていいのかわからなかったりして、なんで簡単なことがわからないのかと自分に問うこともしばしばありました。受験のためのひとつの科目としてしか英語がとらえられていなくて、受験が終わればもう関係ないとおもっている人も多く、英語がそういう扱いをされていることが私は、すごくいやでした。英語はより多くの人と話すことを可能としてくれるツールで、自分の世界を広げるために必要なものととらえてきた私にとっては、過去の英語教育はニーズにあうものではなく、山岸先生の授業をうけてさらに私が自分の気持ちを伝える能力がないことを実感しました。しかし、過去にやってきた基礎的な知識は必ずしも無駄なものではないのでそれを生かして、これからもがんばっていきたいです。
 この授業で学んだこと この授業で学んだことははずかしい事ながら、新しいことが多く自分が日本についてもまったく知らないことを思い知りました。そのなかで私が一番ショックを受けたのはCANの使い方です。Can you〜?という疑問文では、相手の人に障害などがあって、それでもできますか?という意味を持つ場合もあるということを知って、そんなことをまったくしらずに使っていたのでだれかを傷つけていたのではないかとショックでした。私は海外からきた留学生とも話す機会があるので、そのような人々と真に仲良くなりまた深く話したりできるように、この授業のやり方をこれからの自分の英語学習にも取り入れていきたいと思います。(女子学生)

過去の英語学習に思う 日本の英語教育についてよく言われることだが、やはり暗記が主だった気がする。中・高のテストは教科書やプリントの暗記さえすれば、いい点数が取れるものだったし、文法はすごく細かく採点されるが、言い回しについてはまったく触れられたことはない。英単語や文法の暗記は大切だと思う。単語を知らなければ話す事はできないし、読むこともできない。でも、過去の英語教育では、あまりに多くの時間を暗記に費やしてしまったのではないか、と後悔する。英語は言葉だから、話せてこそ、人とコミュニケーションができてこそ、有益だと思う。そのために必要なことは、単語の量や文法の正確さではなくて、社会背景が異なるために生じる言葉の使い方の誤解を防ぐことだと思う。この授業では、日本人の発想は日本文化に影響されていることを実感させてくれた。また、自分のしたいこと、欲求、不満は簡単な英語で伝わるけど、それより深い自分の気持ちを表現するのは難しいと思う。たとえば、どんな感じで悲しいのか、とか、どんな感じでイヤなのか、は日本語だとニュアンスで伝えていくものだから、はっきりとは日本語でも表現できない。それを英語ではどういう風に言うか、なんて教わった経験がない。英語を話す時、言葉だけでなく、文化の違いにも気にとめて会話しなければいけないと思った。だから、英語という言葉を学ぶにあたって、英語圏の文化も日本文化に比較して学ぶ機会がほしい。そうでなければ、他文化はもちろん日本文化に対しても中途半端な理解になるだろう。しかし、他文化もしっかりと学べれば、日本文化の理解にも役立つと思う。
 この授業で学んだこと 本当に楽しかった。毎回授業が楽しみでしようがなかった。今までの授業もこういう感じだったらよかったと思う。英語と日本語にこんなに違いがあるなんて知らなかったし、日本文化についても自分が無関心だったことを思い知らされた。英語の文法系のことは自分で勉強しようと思えばできないことはないと思うが、言葉の奥にある背景・文化のことについては、すごい労力と時間を費やさなければ知識として手に入れられないものだろう。それを、先生のおかげで、この授業のおかげで、自分で学ぶよりもはるかに楽にいっぱいのことを学べたと思う。言葉は大事だが、それとともに自分の生き方や考え方も大事だと思う。言葉を話すだけでなく、そこに自分の生き方みたいなものまで出せることができたらいいと思う。わたしは、先生が授業でぽろっという名言みたいなものが好きだった。「自分の誇りを持っていない人は他人の誇りもわからない。」「職場に人間性を与えられるような人になってほしい」などの言葉はすごく感銘を受けた。こんなふうに英語の授業から英語以外のものまで得ることができる先生の教え方をすごいと思うし、尊敬する。本当に楽しかったです。ありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 中学・高校と私が受けた英語の授業は、やはり受験のために行われていたと言わざるを得ないです。受験の重要科目である英語の、問題としてよく出るイディオムや文法 を、多くの時間をかけて「暗記」させることが、受験に勝つ策であり、教育の方針にされていたと思います。私は幾分かこの「受験英語」を得意としていましたが、大学に入り、演劇の洋書を読む授業を受けて英語を読むことの出来ない苦しみを感じました。演劇のように、必ず主語述語の必ず入った文ではない、感情の込められた人物の言動が並ぶ文章では、これまでに培った文法の知識だけでは読むことが困難でした。 台詞においては一つの単語、熟語にこめられた深い意味、西洋的なものの考え方などを理解する必要がありました。それは実際のコミュニケーションにおいても同じ事で しょう。 英語国の人々の話の仕方、心などを伝えるこの出来るような授業もやはりこれか ら導入していってほしいと思います。
 この授業で学んだこと  私はこの授業を通じて、言語はその使用国の文化を強く反映したものであるということを再確認させられ、それと同時に日本と欧米の文化自体をよく知ることが出来ました。特に20年生きていながら知る機会があまり得られなかった自国文化の素晴らしさ、面白さ、奥の深さを知ることが出来たのは非常に貴重なことだと思います。 また私はこの授業を受けて、自国の文化を知り、他国の文化を知り、自国の文化に誇 りを持ち、他国の文化をも尊重するという姿勢が今後の国際的、民際的交流の深まる社会で大切だという思いがしました。文化に優劣はつけられないと思います。そ のこ とを忘れ自国文化に対して批判的になったり他国文化に対して排他的になったりするのは非常に危険で、現実に人々が傷つけあう原因の一つになっている気がします 。これは残念なことです。先生の授業のような文化を教える教育がもっと行われるようになることを私も望みます。 最後になりましたが、1年間授業を講じていただきありがとうございました。 (男子学生)

過去の英語学習に思う 私は中高を通じて英語があまり好きではありませんでした。今でも英語に対する苦手意識は強いです。さらに悪いことに、高校受験も大学受験もしていないため、知識・語彙力が絶対的に不足しているように思います。しかし、それが今までの英語教育のせいだとは思っていません。高校では、第2外国語も英語を選択し、英語の選択授業も取っていました。選択授業は、ネイティブの先生のクラスもあったのですが、私は講読の授業にしました。先生によって、シェイクスピア、ニュース、日記など素材は様々でしたが、読んで、訳し、英語よりもむしろ良い日本語を書く、といった感じの授業でした。つまり、話す・聴く、ではなく、完全に読み書き中心のいかにもな日本の英語の授業です。ただ、これらのクラスのおかげで、私は外国の文化やニュースを学ぶことができたし、良い古典を読むこともできました。また、それを通じて日本について考えることができたし、知識を得られたと思います。むやみやたらと「小学校から英語教育を!」なんて言うよりはずっと良かったのではないでしょうか。たまに小学生に接することがあるのですが、日本語もしっかりできなかったり、国語の文章をしっかり読みとれない子が多いようです。また、小学生に英語をしっかり教えられる先生の人数も足りず、半端な授業になるか、悪くすると英語嫌いのこどもを増やしてしまうように思います。昨今の、“とりあえず英語とコンピューター”のような風潮に疑問を感じるのです。どちらもコミュニケーションや社会生活に於ける有用なツールではあります。私もいつまでも英語は嫌いだから、なんて言っていられないと思うし、実際英語が必要だと感じること、しゃべれないが為にいやな思いをしたことはあるので、そろそろ本気で何とかしなくては、と思います。しかし、英語は何を以て“できる”と称されるのかがわからないのです。学校やTOEICの点数が高ければ、ビジネスの場で渡り合えるというものではないでしょうし。だから、実際本人が必要と感じるときその素地となるような授業が理想的です。単に受けているだけで、英語ができるようになる授業なんてあるなら別ですが、やはり新しいことを修得するには本人の気持ちと努力次第だと思うので。
 この授業で学んだこと 先生の授業、好きでした。最初は、一生懸命英語圏の文化を理解しようとする授業かと思って、そんなの一回そっちで暮らせばわかることなのに、なんて考えてしまいました。たった1ヶ月でしたが、NYでホームステイしたときに随分感じ方の違いや、文化・歴史背景の違いを感じたし、特にアメリカ人はその違いを理解しようとせず、自分の物差しだけで世界のことを考えているんだな、という印象を持ちました。だから、それを日本人の側ばっかりが勉強して一生懸命歩み寄ろうとする授業だったらいやだな、と思ったわけです。でも1年を通すうちに、逆に日本のことをたくさんたくさん知ることができました。日本人ってそういうものなんだよ、と漠然とわかったつもりのことを改めて「なぜ?」と考えることで、ますます日本について考えることができたし、日本の良さに気づきました。くだらないことなのですが…。小さいときから、自分が外国に行ったときは、MARI・TAKAGIになるのに、トム・クルーズがクルーズ トムにならないのがものすごく疑問だったし、不満だったのです。また、何かにつけて日本人が自分の国を卑下し、アメリカの良さばっかり取り入れようとするのが嫌いでした。反面、やはり旅行に行ったりすれば、日本にはない良いところもたくさんあったし、米国がとりあえず覇権国家であることも間違いないな、と思ったりするわけです。また、サッカーのワールドカップのような、ナショナリズムが前面に押し出されるような場面で、(日本ってちょっと弱すぎ…)と思ってがっかりもしたわけです。でも、先生の授業で1年間考えたおかげで、そこら辺の壁は乗り越えられそうな感じがします。まず、自分の意見を持つ。相手との違いを知り、認め合う。その上で、一生懸命伝えようとすれば、英語力に全く自身のない私でも多少は何とかできるかもしれません。(英語力がなさすぎるのはどうしようもないので、何とかしなくてはいけない、と痛切に思っていますが。)あともう1つ、英語と日本語で言葉の概念の理解が全く違ってなされていることも大きな驚きでした。元々英語圏の国にない概念を無理に英語で訳すようなことが、どんな大きな誤解を呼ぶか、と考えたら恐ろしいですよね。通訳に重要性も知りました。一年間有り難うございました。【気になったこと】明治神宮に初詣に行きました。境内の案内図を見たところ、「明治神宮事務所」(?)が、「worshiper's hall」となっていました。なんだか意味がわからない訳の上、つづりも間違っているような・・・。こういう場合、まさに適訳がないし、外国人にうまく伝わらなそうなので、そのままローマ字表記にしたほうがよいのでは、と思いました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 過去の英語教育には一長一短あると思う。その内容が文法学習中心であるがゆえに、会話の能力が伸びないという短所がある一方で、英語というものを文法という視点から学ぶことで、英作文能力が向上するという長所もある。しかし、またその一方で、英語圏における文化、習慣、宗教などを学生に教えないために、学生が作る英文が英語圏の人々にとって不可解なものとなってしまうなどといった短所も内在している。私は従来の英語教育に対しては幾分、肯定的である。英語によるコミュニケーションが不得手であることを、英語教育のせいにする日本人がよくいるが、それは違うと思う。カリキュラムの中に会話能力の向上に結びつくような内容があまり組み込まれていないのは事実だ。しかしその部分は自ら意欲的に学習し、補えばよいのである。そもそも、語学を実際に会話ができるレベルまで昇華させるには、当人の積極的、意欲的な学習態度を欠くことはできない。英語教育に対する批判が増えている理由として、学習する立場の人間の意欲、自ら学習する姿勢というものが徐々に失われつつあるということが挙げられるのではないだろうか。自ら学習することを億劫に感じ、学習とは人から与えられるものであると考え、責任を自分ではなく相手(教える側)に押し付けてしまっているのではないだろうか。つまり、意欲的学習態度の低下が責任の転嫁を招き、その結果として、英語教育への批判が増えているのではないかというのが私の考えである。ここ数年 、日本の学生の平均読書時間が著しく減少しているという調査結果からも、学生の自発的な学習態度が低下していることは窺える。かといって学生だけが悪いわけではない。受験英語に力を注ぐあまり、学生の意欲をかきたてたり、興味を抱かせるような授業があまり行われていないことも事実だ。大切なことは、「何のために英語を学ぶのか」ということを教える側、教わる側双方がよく考えることである。英語という言語を受験のための道具に終わらせるのか、それともコミュニケーションのツールとして昇華させていくのか。「受験」という制度の見直しも、少なからず必要なのかもしれない。とにもかくにも 、最も重要なこと、それは「英語学習に対する意識改革」であると私は思う。
 この授業で学んだこと この授業を通して学んだことは、日本語と英語(英語に限らず他の多くの言語 も)を安易に結び付けてはいけないということだ。各国にはそれぞれの文化、習 慣があり、様々な宗教がある。一つの表現をとってみても、ある時には差別的な ニュアンスをもってしまったり、またある時にはまったく通じない、不可解なも のとなってしまったりする。言語を学ぶ上で大切なことは、ただ言語そのものを 学ぶだけではなく、実際にその言語を使用している国や人々についても学習する ことなのだ。これは学習全般においても言えることだと思う。あることがらを学ぶ際には、その背後にあって表面化していないものを理解しなければ、うわべだ けの知識に終わってしまう。そしてそのうわべだけの知識は、いざという時には 役にたたない。  もう一つ、学んだというより気づいたことは、自分は日本人であるのに日本の 文化、習慣についてあまりにも無知であるということだ。特にショックを受けたのは、自分の誕生日である「七五三」の由来を知らなかったことだ。しかも二十 年間生きてきて、なぜ三歳、五歳、七歳なのかという疑問すら持たなかった。そのようなことは私に限らず、他の多くの日本人もそうであろう。近年、国際化と いう流れの中で、人々の関心は海外のことへと向かいがちだが、そのような流れの中でこそ、自国で長年の間かけて培われ、守られ続けてきた文化、伝統、習慣に目を向ける必要があるのではないだろうか。他国を知る前に自国をよく知るべ きではないだろうかと感じた。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私はいままで中学校、高校と7年間以上英語を勉強してきました。しかし、 未だに英語にたいして苦手意識があり、英語で道を聞かれても自信を持って答えると いうことができません。おそらく道を聞かれた時にどうやって答えれば良いかという 文法的なことは頭の中に入っていて、それが試験で問われれば正しい答えを出せると思います。しかし、実際に欧米人に話し掛けられた時に彼等とコミュニケーションを とる ことができなくては意味がありません。このように私が英語を使えない理由は、 やは り今までの勉強方法に問題があったのだと思います。  まず第一に、英語を話す練習をしなかったため、実際の欧米人を前にすると自 分の 英語が通じるということに自信が持てず、わかることすらも間違いを恐れて話せなくなってしまうのです。これはやはり今まであまりに文法重視の受験対応型勉強方法を採ってきたことから文法の間違いについて過度に敏感になってしまっていること に原 因があるのだと思います。次に、私の今まで勉強してきた英語があまりに複雑で実際的でないということ です 。実際に欧米人が使っている英語はもっと単純であるのに、あまりに文法重視の 勉強 をしてきたため、知っている構文の形でしか英語を理解することができないのです。  つまり、今まで私の学んできた英語は結局の所実際的でなく文法に片寄り過ぎていたことに問題があったのだと思います。
 この授業で学んだこと 今年一年先生の授業を受けて、私の英語についての意識が少し変わりました。 今までは英語の勉強といえば問題集をせっせと解き、単語、文法を片っ端から暗記すると いう勉強しかしてきませんでした。しかし、今年先生の授業を受けて今までの英語学習方法が間違いであったということに気付きました。 まず、今まで私は、欧米人が実際にどのような英語を使っているのかというこ とを あまり深く考えたことはありませんでした。しかし今年先生の授業を受けて、今 まで私が正しいと思っていた文法、言い方などが実は実際使われていなかったり、過度に堅い表現であったりするということに気付きました。これからは、英語表現を覚 える 時には、それがどのような場面でどのような相手方に対して使われる表現なのかにも 注意したいと思います。次に、自分が日本について意外と知らないということに気付きました。今まで私が日本人として日常的に行ってきた行事や仕種などが、実は欧米人にとっては、不思議であり奇妙なものに見えるということを知りました。私はもう日本人として20年間以上生きてきて、欧米人に日本文化について聞かれても答えられないというのでは恥ずかしいと思います。また、日本についての知識が多ければ、外国人と話す時にも話題としてこれを使うことができ、コミュニケーションを採るのにも役立つと思います 。今年山岸先生の授業を受けなければ、私はこれらのことに気付くことはなく間違った学習法法を続けていたと思います。今年の授業によって、私は英語のみならず、日本文化についての見識も深めることができました。一年間本当に有意義な授業をありがとうございました。(女子学生)                            

過去の英語学習に思う 英語学習と聞くと“暗記”というイメージが私の頭に真っ先に思い浮かびます。まず、当然に知らなければならない単語を暗記します。そしてそれを組み合わせて文を作り、文法的に間違いはないか、ということだけに意識を集中させて中学、高校とそれらを繰り返し繰り返し行います。高校受験のために通っていた塾を含め、少なくとも私が触れてきたものはすべてこうでありました。この単純な作業ゆえに面白味がなく、感情を必要としません。ですから、これは一時的に暗記しているだけですぐに忘れてしまうのではないか、果たしてこれを覚える意味はあるのか、ということを常々考えていました。これがいままでの英語学習に対する思いの全てです。そして私をもっとも苦しめたのはそのような指導方法をとる先生方の試験でした。丸暗記しないと解けない穴埋め問題や、TPOを気にせず行う書き換え問題(山岸先生の授業で学んだのですが)など、実用性のない英語学習を象徴していると言えるでしょう。
 この授業で学んだこと あらためて振り返ってみると、母語である日本語と、そうではない英語ではその学習方法がまったく異なることに気が付きます。日本語に時と場合によって使い分ける表現があるように、英語にもさまざまな表現が存在しています。しかし、そのようなことを学んだ覚えはほとんどありません。ただ機械的に、知っている表現を日本語と同じ意味になるように使っているだけで、条件まで合わせることは考えてもいませんでした。現に授業の端端で、山岸先生の「こんなときの表現をいままでに習いませんでしたか?」という質問に、はっとさせられることが何度もありました。また、日本独自の文化を、外国人に理解してもらえるような英語で説明するという作業を通じ、言葉と文化とは表裏一体のものであることを学びました。確かに言われてみれば文化の理解がなくして、どうして実用的な言葉を身につけることができるのでしょう。今後の日本の英語教育のあり方と、バランスの取れた英語学習の方法を考えるきっかけとなった、とても刺激的な一年間でした。
(男子学生)

過去の英語学習に思う 私は、神戸の私立の中高一貫校に通っていた。中学に入ってはじめて、英語を勉強したのだが、常に、「大学受験のために理屈よりも覚えろ」といった感じだった。毎週、単語とイディオムのテストがあってひたすら覚えていた。 今となっていえることだが、構文を詰め込んで、現代の使われ方や、場面場面の適切さといったものは教えてもらわなかった。英語に出会ったときの対処マニュアルのようなものだ。また、英作文と英文読解の授業を何か全く別の教科のように教えていたと思う。英作文では構文を必ずどこかに使い、読解はまず直訳しなさいと。しかし、英作と読解とを関連付けることでより英語は書きやすくなると思う。私は、このことに高校が終わりそうなときに気付いたので、もっと早く気付いていれば受験勉強も楽しめたのではないかと思うと残念だ。これまでの英語学習を振り返ると、つねに試験ということがついてきて、私も割り切って仕方がないと思ってやってきた。しかし、語学の学習とはそうではないと思う。何のために英語を学ぶのかという事を最初に考えさせるべきだと思う。
 この授業で学んだこと 前述したように高校までの英語は受験のためであり、本質的なものではなかった。大学では違った角度から英語を学べると思っていたが1年生のときはまた同じだった。この授業において、「文法にとらわれず、本質を相手に伝えること」を重視した点が非常によかったと思う。日本人同士でも自分いいたいことを伝えるのはたやすくない。自分にとって常識であっても他人(自分とは異なる国の人)にとっては、滑稽であったり非常識であったりする。どのようにして誤解なく相手に自分のいいたいことを伝えるか。そのためには、自分の国の歴史など、前提となる知識が必要で、自分のことは一番自分が知っていなければならないと気付かされた。その上で、他国の文化を学べばよいのだ。我々は、自国の文化を知ろうとせずに西洋文化を取り入れようとするがそうではなく、自国を知ることが、他国を知ることとなるのだ。高校時代、なぜ歴史を勉強するのか疑問だったが、このような問題意識をもっていればもっと意欲的に取り組めていたと思う。私は、この授業で学んだ通り、まず、自分を見つめ直し、なぜ自分は法律を学んでいるのかをもう一度考え直そうと思う。その答えが、はっきり出るとは思えないが、少しでも本質に近づけるように日々、生活したいと思う。(男子学生)

過去の英語学習に思う  これまで私は中学・高校の6年間と大学で約8年間も英語学習を受けてきたわけですが、いざ英語圏の人を前にすると何も話せないという、情けない自分にもどかしさ を覚えていました。「テストはできるのに何で英語を話せないのかなあ。」 この疑問の答えは日本の英語教育にあるのでしょう。私に限らず、英語が話せないという悩みは、多くの日本人の抱える問題です。 日本における一般的な英語の授業は暗記や文法ばかりを重視した、非常に機械的な内容です。私自身もこれまで習ってきた英語は、読み書きばかりで実際に生の英語を聞く機会はまれで、ましてや口に出して話すことなどほとんどありませんでした。評価の基準も、難しい文章の読解や単語のスペル・文法の正確さなどで判断されるため、このような教育のもとでは、生徒は文法ミスを異常に恐れ、いつも教わるようなしっかりした文章を組み立てなければいけないと思ってしまいます。だから外国人を前にしても頭でっかちになって発言できなくなってしまうのです。しかし実際には基礎的な文法知識で十分会話は成立します。机上の理論をいくら並べ立てても、語学学習というものは実際に耳で聞き、口で話さない限り上達しません。私たちが今こうして自在に操ることのできる日本語も、赤ちゃんの頃から両親の会話に常に耳を傾け、それをまねて一生懸命声に出して発音しようとすることから始まり、何年かして初めて読み書きを習っていくのです。つまり、これまでの日本の英語学習が、語学である英語を他の学問と同一視してしまっていることに根本的問題があると思います。 難しい理論は後回しにして、生の英語に触れ、英語圏の人々の文化に触れ、理解し、 実際に英語を使って自ら積極的にコミュニケーションをとっていくことが英語学習の近道である、と私は考えます。このような授業を中学・高校の早い段階で受けること がで きていれば、日本人の外人恐怖症はきっと解消されてゆくでしょう。 また、英語を学習する際には、日本人のまま英語を学ぶのではなく、彼ら(英語を話す文化圏の人々)の立場で学ぶということも重要です。たとえば、山岸先生に学んだ例を挙げると、“modesty”(謙虚さ)という単語がありますが、「謙虚」という言葉の概念が日本人と英語圏の人々とは異なるため、この単語をそのまま使おうとすると相手に大きな誤解を招いてしまいます。日本では自身の能力をひけらかさない人、むしろ過少評価する人を「謙虚」と言いますが、外国人にとってはそのよう な人は決して“modesty”ではありません。彼らは自分達の持っている能力は全て神 (イエス・キリスト)から与えられたものであると考えるため、自分の能力を誇りに思 い、隠さず正当評価します。日本人にとっては自慢に思えるかも知れませんが、これが彼らにとっての謙虚さなのです。このように、私たちにとっての常識が彼らにとっての非常識である例がたくさんあります。日本文化と外国文化のズレをよく理解 し、相手に正確に伝える訓練をすることもこれからの英語教育に必要だと思います。
 この授業で学んだこと 一年間山岸先生のクラスで学ぶ事ができて、本当によかったと思っています。 先にも述べたように、日本と外国の言葉の概念の違いなど、先生の授業は毎回新しい発見があり、知的好奇心を刺激されてばかりでした。このクラスのように、授業中に一生懸命考える事や、手を挙げて発言する機会のあるクラスは残念ながら今の学校教育にはめったにありません。それだけに私はこんな貴重な機会を与えられる授業に出会え てすごくラッキーでした。初めは恥ずかしくて手を挙げることができなかった私も、今ではこんなに積極的に発言できるようになりました。また、「外国人の疑問」 に答えるために悪戦苦闘して調べたり英訳したりしてきたおかげで、今までまったく知らなかったさまざまな日本の姿やルーツを知ることができ、日本がもっと好きにな りま した。そしてこの授業で学んだことはすごく記憶に残っています。その場しのぎの暗記と違って、大変興味深く、自ら進んで一生懸命に学んだ内容だからなのでしょう。この授業で学んだこと、得たことは数え切れないほどあるのですが、例をあげるとすれば、外国だけでなく、日本人のよさを知ることができたことです。私はどちらかというと日本人の集団主義的な考え方があまり好きではありませんでした。群れてばか りで没個性的、自己主張のできない日本人の習性を恥ずかしくさえ思っていたのですが、このような日本人の性質にはれっきとした理由・意味があることを知ったのです。仲間同士の和や、儒教の影響による義理、人情を重んじる彼らの生き方は思いやりに満ちています。日本の習慣・風習は一つの立派な文化であって、決して恥ずべきものではないと感じるようになりました。さらに、時と場合による英語表現の仕方の区別や、日本と外国の文化の違いを理解し、誤解を生まずに正確に伝えるにはどのような英語表現をしたらよいのか、など本当に多くのためになる勉強をすることができました。このクラスでの経験を活かし、これからもより一層英語力を磨いていこうと思 います。これほど楽しく学ぶことができた授業はありません。本当にありがとう ござ いました。先生のこれからのより一層のご活躍をお祈りしています。 *遅くなってしまってすみません。レポートを送信します。ちゃんと届いているでしょうか?一年間本当にありがとうございました。おもしろくてためになる授業でした。これからも健康に気をつけて、がんばってください。 (女子学生)

過去の英語学習に思う 私が中学生から習ってきた英語は、一言で言えば「ナマの英語」ではありませ んでした。英単語や熟語と日本語訳をイコールで結び、それをひたすら反復練習 して頭に叩き込むこと、定冠詞か不定冠詞かといった、些細な文法の誤りを気に して文章を書くこと、それが出来れば偏差値が上がるのだという勉強です。会話 よりもリーディング・ライティングに偏りすぎていたとも思っています。これでいざ外国人を相手に話そうとしても、よほど度胸がある人でなければ無理がある のです。 しかし、これまでの英語学習から何も学べなかったというわけでもありません 。 間違いの少ない文章が書け、長文がそれなりに短時間で読めるようになったのは、高校生までの訓練の成果だとも思うからです。ただ、英語を学ぶ目的が、「英語 を母語とする人々と会話すること」よりも、「良い点を取って、いい学校に入る」ほうへ傾いてしまっていることが、実践的な英語がなかなか身に着かない原因の一つだと感じます。
 この授業で学んだこと  先生の授業で一番強く感じたのは、日本の習慣を英語で説明することの難しさ です。もともと、こちらが当たり前と思っていることを聞かれる難しさもあるのかもしれません。また、説明しようと使う言葉の概念すらないことも多いので、 自分が日本的な物事の考え方をよく理解していないととても相手に理解してもらえないということも学びました。これは外国人に対するときだけでなく、同じ日 本人同士で会話する場合にも言える事ではないでしょうか。要するに、私はこの 授業で、英語以上に、人とのコミュニケーションのとり方を考え直す機会を与えられたのだと思います。 もう一つ、私のように、普段何気なくやっている日本的な習慣の意味や由来を知らないという人は意外に多く、先生が授業中におっしゃったことや、自分で調 べたことを祖母に話したら、とても喜ばれました。 (女子学生)

過去の英語学習に思う  私は、今まで自分が受けてきた英語教育はとてもよかったものと思っています。 もっとやっていればよかったと思うことも多々ありますが、それは自分ですべき “自習”であり、授業として受けたものに、殆ど批判はありません。 確かに受験専用の文法中心、発音も完璧なカタカナで読み上げる、ALTに嫌煙 されていた先生もいましたが、彼の講義はとても分かりやすいものでした。 先生は、否定されますが(注)、現在の大学入試が、文法中心であり、現在は使われない表現も頻出である以上、そのような講義も、ある意味なくてはならないものです。確かに会話では使われませんが、専門書や、やや古い本を読むときなどにも 、この受験用のボキャブラリーは役立ちます。 帰国子女は一見流暢に話しますが、日本でしっかり勉強した人の話す英語は、ちゃんと内容のあるものだと思われます。 また、「この表現は、ネイティブは会話では使いませんが」と前置きされて講義 されることはごく普通のことでした。よりリスニングの比重を増やしたほうがよ いとは思いますが、私は今まで自分が受けてきた英語教育に満足しています。【(注)私は「日本の受験英語には問題がある」とは言いましたが、受験英語を全面的に否定したことは一度もありません―山岸】。
 この授業で学んだこと 英語というよりも、むしろ日本文化について、理解が深まりました。 形骸化した風習として、単にこれまでやってきたことだからということで、何も考えずに行っていましたが、先生の講義を聞き、この習慣にも、何らかの意味があるだろう、どういうことが契機となったのかと考えるようになりました。 また、表層的な単なる表現だけでなく、相手の言葉の根本となる認識を踏まえて話すという考え方は、英語以外のすべての外国語にも当てはまります。 以前、ドイツ語で話していたときに、「あなたの言うことは、正しいと思います。ですが、私は…だと思います」といってしまったとき、相手の方に、ドイツ人はそのようには言わない、「あなたの言うことは、正しい」といったら、次にそれを否定する言葉は続けないと言われてしまいました。 日本人の考えでは、相手に対する思いやり、協調を重んじる精神から、いきなり相手の意見に反対するのではなく、なるべく穏便な方法で導いていくという方が、むしろ普通です。しかし、文法的には正しくとも、その言語を母国語とする人々は使わない表現、ありえないとされる表現を私たちは屡使ってしまいます。その理由には、根本の観念が全く異なることを理解していないためということが挙げられます。相手の文化背景を理解することが大切なのだということを深く考えされられました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 今日、受験における英語学習が非難されることがしばしばある。確かに非難に値すべき箇所はたくさんあるように思われる。口述ではなく読解に重点を置きすぎていたり、 ネイティブでも知らないような細かい文法ばかり教えたりする点はまさにそれである。しかし だからといって、受験における英語教育を全否定するのはいかがなものかと考える(注)。どんな言語でも基本は文法であり、文法をないがしろにして口述を教えれば、いいかげんな英語しか話せなくなってしまうからである。言語教育の基礎を固める意味でも受験英語のような学習は有益だ 思う。 基礎が固まってから口述の訓練はすればいい。【(注)誰が「全否定」しているのか不明。少なくとも、私は、受験英語を全面的に否定したことは一度もありません―山岸】。
  この授業で学んだこと この授業で学んだことはなんだと問われて真っ先に私の頭の中にうかんだことは、 自分達日本人のことである。この授業では英語を通じて、我々日本人の培ってきた文化のこと を教えてもらった。日本人であるのに自分は日本のことをほとんど知らなかったということを 痛感させられた。また、自分達の国の文化を知るためには他国の文化と比較するのが有効だということを実感させられた。語学においても、今まで私が習ってきた英語と、ネイテ ィブ が使っている英語とに開きがあり、言葉にも文化が反映されていることがよくわかった。(男子学生)

過去の英語学習に思う 自分は、高校の授業科目のなかで一番英語が嫌いでした。辞書を引いても意味がわからない難解な長文。これだと思って書いた答えがたいてい間違っている文法問題。ただ、与えられた問題を解く訓練をしてきたように思います。いわゆる、「受験の道具」として英語を勉強してきたわけです。でも、6年間も英語を勉強してきたのだから、ある程度は英語を話せるのでは、という考えも持っていました。けれども、ある日、スーパーのお惣菜売り場でアルバイトしていたときのこと。アメリカ人と思われるお客さんから、売り場にあるてんぷら・かき揚げについて聞かれたときのことです。何を言っているのか全くわからないのです。ジェスチャーから見て取るに、「どうやって食べるのか?」と聞いているとは思いましたが、売り場のおばちゃんと一緒に身振り手振りで頑張って説明しても、ほとんど理解してもらえません。困っていると、別のお客さんがきて流暢な英語で説明してくれました。おかげで、そのお客さんは、いろんなてんぷら・かき揚げをうれしそうに買っていくことができました。なんとかたくさん売れてうれしかった反面、言いたい事、それもかき揚げ・てんぷらのおいしい食べ方という、一見簡単な内容が英語で言えない事にショックを受けました。6年間でできるようになったのは、入試等の英語の試験の解き方であって、自分の言いたいことを英語にして相手に伝え、相手の言いたいことを英語で理解する能力ではなかったようです。今、思い返してみても、高校の英語の授業では与えられた日本語を英語に直す(知っている単語でごまかしながら!)テクニックを学ぶことはしても、自分の言いたいことを英語にして相手に理解してもらう勉強はしなかった気がします。6年間の英語学習が無駄なものだとは自分は思いません。現に、文法や単語などを学ぶことで、ある程度難しい長文を読むことができるようにはなりました。けれども、今までの英語学習は、言語はコミュニケーションする(考え・思いを伝え合う)手段であることをなおざりにしているようです。授業で、難しい文法・長文問題を解くのもいいですが、それ以上に自分の意見・思いを英語で伝え合う訓練をさせるべきだと、スーパーの件で実感しました。英語は学習科目である以上に、コミュニケーションをする、さらに言うと生きていくための手段なのですから。
 この授業で学んだこと 前に述べたスーパーの話にしても、せっかく、頭の中でおいしいてんぷら・かき揚げの食べ方を考えていても、伝えることができなければ意味が無いです。お互いが頭の中で考えていること伝え合う、そんな能力を身につけることを目的とした授業はないものか、という思いをその時抱きました。その思いに答えてくれたのがこの授業です。履修要綱を見てこれだ!と思いました。実際、授業を受けてみると目からうろこが落ちました。ただ単に、辞書に載っている意味を用いて英語と日本語それぞれに訳していけばよいと今まで思ってきたので、文化の差や価値観なども考慮しないと正しく意味が伝わらないと聞いたときはなるほど、と思いました。今まで話してきた英語と、英語を母国語にする人の英語とでは、これほどまでに隔たりがあるのか、と驚き、怖くなったときもありました。ただ、それ以上にこの授業で一番自分が面白いと思い、また、履修してよかったなと思わせたのは、外国人の日本の風習などに対する疑問に英語で答える、という勉強でした。自分の国のこと、自分がやっていることでも、知らないことがかなりありました。知識という面でもかなり役に立ちました。それ以上に、日本の文化を全く知らない外国人が抱く「どうして?なぜ?」という疑問に答える方法、つまり、段階的に日本的な言葉・概念を説明しながら順を追って疑問に理由をつけて答えていく答え方、を学び、訓練することができたことが非常に自分のためになりました。当面、自分が将来就きたい職業においては、英語を直接使う場面は少ないですが、この授業で学んだ、全く内容を知らない人(基礎的な知識も持ち合わせていない人)に自分の伝えたいことをいかにして伝えるかは、英語に限らず、どの言語でも重要なことだと思います。この授業に出会うまでは、自分は、自分の持つ意見・知識などを他の人にわかりやすく、正確に伝えることをあまり学ぼうとしなかったし、それ故、英語でも、それができなかったのでしょう。語学(日本語・英語ともに)の授業で、そのことの大切さを学べたのは、山岸先生の授業が初めてでした。今後、こうした能力は、(外国人に対しても日本人に対しても)プレゼンテーションをしたり、交渉をしたりするときなどに、非常に貴重なものになってきます。本当にこの授業を履修してよかったです。(男子学生)

過去の英語学習に思う 今年の4月までは、正確にいうとこの授業を受けるまでは、英語を学ぶ際に「文化的背景による意味の差異」について考えたことがなかった。だからこの授業で知った、今までの私の英語の解釈と本来の意味との違いに驚いた。私には、ボランティアを通してできた外国人の友達がいるのだが、彼女に話し掛けるときは今まで勉強してきた英語を使いながら話をしてきた。この授業で学んで始めて知ったことでショックを受けたことがある。例えば、「ダンスはできる?」と趣味としての意味で聞こうとした会話である。私は確か、“Can you dance?”と聞いたはずである。これが彼女に与えた意味が「あなたその体使える?」だったとしたら恐ろしい事である。恐ろしさと同時に私はそんなフレーズの持つニュアンスさえ知らなかったことに悲しみを覚えた。
 この授業で学んだこと 過去の英語学習は、英語の意味を文化的背景による差異を考えずに日本語に当てはめるという方法をとっていた。そして今現在もそれが主流であろう。しかし、私がこの授業で痛感したことは、その差異を知らないことによる誤解の恐ろしさである。これからますます日本は外国に━━外交であろうと、会社単位であろうと、もしくは個人的にも━━進出していくことになるだろう。しかし、そのときに意味のずれを知らずに英語を使うことは大変怖いことである。今までの英語教育を全て否定するわけではない。私たちの理解している意味に英語を当てはめることで、理解しやすく、文章などを作ることは早くできるようになったはずである。しかし、その早さの分、私たちは意味のずれを知らずにきてしまったこともまた確かなのである。初めて英語を学ぶとき、同時に意味のずれをも学ぶとしたら、今までよりは少し時間がかかるだろう。しかし、文法とともに文化的背景による捉え方の違いも勉強することは私たちが今まで学んできたことを阻むほど多く時間を取らないはずである。毎回、少しずつそのための時間を設ける学習方法はどうだろうか。むしろ、その少しの時間が英語学習を楽しくするかもしれない。ただ日本語を文字通りに訳すだけの作業を淡々と習っていくよりも、毎回文化の違いを知り、驚き、学んでいく方がはるかに楽しいのではなかろうか。私は今までの英語教育に毎回少しだけの文化を学ぶ時間を設けることを提案する。これから世界にはばたく人には、正しい理解が必要である。もちろん、そのための教育者がその認識を持つ必要がある。私たちはいま、そのずれを学ぶ機会を持っているのであるから、これを次の英語を学習する世代に生かしていくことができるだろう。(女子学生)

過去の英語学習に思う 日本の英語教育が問題となっていますが、私は過去の英語学習が決してよいものであったとは思いませんが、無駄ではなかったと思います。過去の英語学習の主眼は受験に置かれており、文法を中心としたもので、暗記ばかりの「詰め込み型」の学習だったと思います。私は今の受験制度においては受験のための勉強をせざるを得ないし、綺麗な英語を話すにはやはり正しい文法を使うことも必要だと思います。また日常生活で英語を使う機会がほとんど無い日本においては「詰め込み型」の英語学習も必要だと思います。そうしなければ諸外国と対等に渡り合えなくなるのではないかと思います。しかし第一に考えなければならないことは、自分の考え、気持ちを的確に伝えるということだと思います。そのためには英語そのものだけではなく、その背景にある文化や社会も同時に学ばなければなりません。単語の持つイメージの違いや文化的背景を知っておかなければ、なんとなく伝わったとしても自分が本当に伝えたいことは伝わらないと思います。そして今では世界共通語といってもよいであろう英語は他国の文化や社会を学んだり、コミュニケーションをとったりする手段であると同時に、自国の文化や社会、考え方を伝える手段でもあると思います。そうしたことにもっと早く気づきたかったし、そうした学習をしたかったと思います。そのことに気づかせていただいた山岸先生の授業にはとても感謝しています。
 この授業で学んだこと グローバル化する社会において、日本はこれまでのように外から取り入れるばかりでなく、外に向かって発信していかなければならない。そのためには自国の文化、社会について正しい理解が必要であり、それを説明できるように自分の頭の中で整理しておかなければならない。この授業は自主的に発表する授業であり、発表するにあたって自分の考えを整理する必要があった。そのため必然的に「考える」ということを余儀なくされ、またテーマは普段何気なく見逃している日本についてのことであり、日本について、その文化的な背景を知ることができた。  また、「外国人からの質問」を通じて、日本について違った視点から物事を見ることの必要性を学んだ。外国人の視点から物事を見ることによって、今まで見えてこなかった自国のことに気づかされ、また外国人の疑問に対して説明ができるようになってくると、日本のすばらしさに気づくことができた。そうした日本文化を守っていかなければならないし、外国に対して堂々と説明していかなければならない。そのためには自国のことについてもっと学ばなければならない。また必ずしも英語と日本語が一致するとは限らないということを学んだ。言語にはそれぞれ違った背景があり、その背景を知らなければ正しい理解はできない。神=Godではない、英語圏の人々にとって思いやりとは、相手に選択権を与えることのようなことを知らずに会話をすれば、誤解を生じ、正しい相互理解は不可能であることを学んだ。この授業では英語そのものよりもその文化的背景、それよりも日本文化について、それよりも考えることや日本人としてまた人間としてとても大切な何か(言葉ではうまく表せません)を教わったような気がします。この授業で学べたことは私の一生の財産になったと思います。1年間ありがとうございました。(男子学生) 

●過去の英語学習に思う
 私は、過去の授業について、正直言うと不満があります。私は、高校受験をし 、また帰国子女の多い高校に入りま した。つまり、受験英語を勉強し、高校では逆に文法や単語を丸暗記して成績を きめるという授業は稀でした。中学では、必死に単語や文法を覚え、英語のテストというよりも、アルファベットを使ったゲームを解くかのようでした 。その受験を終え、高校では帰国子女が日本語を話すようにぺらぺらと話していました。彼らが何を言っているのか 、全く分からなかったのです。私は、ものすごいショックを受けました。そして 、英語を話すことが怖くて、コンプ レックスのように英語に恐怖心が生まれました。そして、それからは英語と真正面から向かうことは出来ませんでした。  私は、今まで英語というと文法や単語が勝負だとどこかで思っていました。し かし、英語は自分の気持ちを伝える 、コミュニケ−ションの手段なのです。どうやって相手に自分の思いを伝えるか 、そのためには相手の気持ちや使う言葉にも注意を払わなければいけません。英語の教育は、いまでは受験の英語を 突破するための時間でいっぱいです。コミュニケーションをするという時間がないのが現状ではないでしょうか。も っと、英語教育は柔軟に変化をし、 受験も単語・文法の暗記で人を判断するのは時代遅れだと思います。 英語は他の国の人たちとコミュニケーションを取るための手段だが、今の日本 の英語教育ではコミュニケーション どころか間違った英語を一方的に植え付けていると思います。教科書に書かれて いる「正しい」単語と「文法」で、 書くことや話すことが正解であるという授業は早く止めるべきです。日本語でさ え、一つのことを伝えるためには、 いくつもの表現の仕方があります。英語は、言葉なので、生きているのです。そ ういった英語教育を望みます。  
  この授業で学んだこと 私は、初めて先生の授業を受けたとき、正直言うと驚きました。今までの英語の授業とは大きく違いました。それは、先生の授業は日本人である我々が話す英語であるということです。私は日本 に20年間も住んでいたのにも関わらず、まったく日本の歴史や言葉を知りませんでした。多分、この授業を受けなければ、ずっと日本を知らないでいたかもしれません。毎回、先生がこの言葉の裏にはこういう歴史や想いがある、と いう授業は聞き逃せないものでした 。とても、充実した授業の時間でした。  私は、まずは先生のように「英語」を好きにさせてくれる、苦手意識を付けな い先生の授業が今まであれば良かったなあとつくづく思います。まずは、日本の事を知り、日本とアメリカ、外国の違いを認識した上で、日本を堂々と説明する、伝えることが出来るようになりたいと思いました。英語から逃げ てばかりいないで、日本を大事にし 、日本人である自分に自信を持って英語で伝えられる人になりたいと思います。本当にありがとうございました。一年間の授業で得たものは沢山ありますが、 まだまだ知らないことばかりです。先生のような授業をもっと多くの先生方が取り入れてくれたら、日本人の英語は伸びると思います。 (女子学生)

過去の英語学習に思う 私は付属の中高に通っていたので「受験英語」を学んだことはありません。外国人の先生の授業も多く自然な英語を学ぶことができてよかったと思います。  しかし日本語と英語が意味的、文化的にはつながらない学習で、自分の言いたいことが言える学習ではありませんでした。 さらに自分の責任ですが、目的のない学習だったので意欲が なかったことも問題でした。日本人の先生は日本語と英語の橋渡しをしてくれると良いと思います。物語を読む授業は多く、よかったと思いますが、もっと英語文化のことも知りたかったです。また文法、単語テストは語彙不足を感じながらも目的がないので努力しませんでした。  そして外国人の先生の授業の英作文は知っている単語で感覚で書いていたので、いつも日常的な内容のワンパターンな文を書いていました。受身的な学習で自分で発信できるよ うにならない学習でした。
 この授業で学んだこと  英語があまり好きではなかった私は、日本文化という言葉にひかれてこの授業をとりました。しかし授業を受 けてみて英語に対する見方がかわりました。  まず、英語を使うのは、伝えたい気持ちがあること、 欧米人の考え方、文化を理解する必要があることです。 言葉は暮らし、文化に根付いたものだということを英語だけでなく日本語でも実感しました。日本語と日本文化について自分がいかに無知か無関心できたかを認識しました。そして調べてみてとても興味を持ちました。また日本語と英語のスピーチレベルの対応、言葉の +イメージ−イメージの授業が新鮮でした。 もっと日本の文化を理解して、日本人だから仕方ないと言い訳するのではなく、日本人はこんな理由でこう考えるんだと知った上で、良いところは大切に、悪い習慣は外国の考え方を学んで変えていけばよいと思います。 そして世界に発信するための英語を学びました。 山岸先生、一年間お世話になりました。この授業はいつも興味深く、いつも友達や家族に「英語の授業でこんなこと勉 強してるんだよ。」と話していました。アンカーを高校生の妹にも勧めて、使っています。どうもありがとうございました。 お体を大事にしてください。 (女子学生)

過去の英語学習に思う 中学時代は文法や単語よりも、まず英語に楽しく触れようという姿勢の先生方が多かった。そのために様々な英語の歌を聞かされてリスニングした。あまり歌詞の意味には触れなかったため、言葉の文化的背景や英語的なものの見かたは学べなかったが、英語を聞くことには慣れたと思う。高校受験のための勉強については、文法事項をただ覚えさせられていたために英語を好きになることはなかった。高校時代は授業で訳を聞かれるだけだった。そのために学校の授業には全く興味を持たなかったし、力も入れなかった。ただ大学受験のための勉強では長文を読んでいて英語圏内の考えを学ぶことが多かったように思う。高校でも英語表現を使っての日本と英語の比較文化のような授業をするともっと英語を楽しく学べると思う。
 この授業で学んだこと (苦しんだこと)全く知らない文化的違いがたくさん出てきたことが一番大変だった。まず比較基準となる日本の文化の知識が私にはなくて本当に困った。今までの生活の中で体験することもなく、学ぶ機会もなかったのだ。まだキリスト教文化については子供向けに物語化された聖書を子供の頃読んだことがあり、受験知識として多少は学んでいたので知識があったように思う。今まであるとは知っていたがくわしくは知らなかった日本独特の文化を先生のお話をお聞きしてからたくさん知った。英語の授業というより、日本文化を知ることの出来る授業だと思ったこともある。貴重な体験をさせていただいた。また、今まで受験英語では当然だと思っていた表現がネイティブには不自然であることは知ってはいたが、これほどとは思わず、びっくりした。もっと早くから自然な表現を知りたかった。自然な表現の方が素直でわかりやすい。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私は英語が苦手であり、昨年まで英語を勉強することが嫌いでした。このようになってしまった原因として、私の今までの英語学習が英語を学ぶことの本来の目的を見失ったものであったからだと思います。私は中学受験をして慶應に入学したため、受験勉強として英語を勉強する事はなかったので、その学習はもっぱら学校の授業と定期テストのために行うものでした。今にしてみればこれらの多くが英語の実力を養うこととはかけ離れたものでした。もちろん中には、中身の濃い非常に為になる授業もありました。しかし文法・ライティング・リーディングを担当する先生の授業の半分以上(主に年配の先生)が、テキストや英文小説の英訳・和訳をひたすら行うという形式であり、テストも授業で扱った文章がそっくりそのまま出題されるというものでした。このようなテストで点を取るための勉強は、ただの暗記にすぎずコミュニケーションの手段としての英語を身につけることとは別次元であったと思います。それではどのように学習すべきだったのでしょうか。まず第一に、英語を学ぶ目的を明確にして、学習に取り組む必要があったと言えます。漠然と「英語を話せるようになりたい」と思っても、実際にどのような勉強をすれば良いのかわからず、実際に行動に移せないでいたのです。英語を使って相手と意思を通わせるためには、何が大切かを考えなければならなかったと思います。第二に、英語の学習の効果を実感する機会が必要であったと思います。語学は継続的に努力することで螺旋階段を上っていくように力がついていくものですから、その実力が着実に上がっていると感じる事が勉強意欲につながると考えられます。このようなペースメーカーとしての役割を果たすものが学校の授業にないのなら、積極的に自分から探していく事が必要であり、私にはそれが欠けていたのだと思います。
 この授業で学んだこと たくさんの事を教えて頂きましたが、特に先生自身から相手の考え方や文化を知ろうとする姿勢の重要性を学びました。それはすなわち文化や世代、生きてきた環境が異なる人と接する時は、自分と相手との考え方は違うのが通常であるから、このような人とコミュニケ−ションをとる時はそのギャップを認識することが大切であるという事です。このことは英語(他国語)でコミュニケーションをとる上で特に必要となりますが、日常の生活においても大切な事だと思います。今の世の中は情報が氾濫し、「何が正しいのか」「何をもってして常識といえるのか」ということがわかりにくくなってきています。この傾向はさらに加速し価値観の多様化は一層進んでいくでしょう。そんな中で自分(自国の文化等)を良く知り、相手の事(相手の国の文化等)を良く理解すること、理解しようとする姿勢が人間的な付き合いを生むのだと思います。先生のように物事に対してしっかりとした考えをもって生きていらっしゃる方は少ないように感じます。「知識は持っているだけじゃ駄目。人に伝えて始めて価値があるんだよ。」、「常に自己研鑚、自己啓発することが大切なんだ。」、「僕は奥さんを愛しているからね。」など、先生の言葉は今でも忘れられません。先生の授業を受ける事が出来て本当に良かったと思っています。一年間ありがとうございました。どうぞお体に気をつけて、益々のご活躍を祈念しています。(男子学生)
  
過去の英語学習に思う 私は、日本の学校や塾でしか英語を学んだことがありません。どんなに日本の英語教育が疑問視されようが、私は文法から入る英語学習以外に英語への入り口を知りませんでした。例えばアメリカに何年かいる友達は英語を話せますが、日本語を英語に変換することがうまくできるかということとはまた別のようです。そこでの生活で、わざわざ頭の中で日本語を英語になおして喋っているのではないからでしょう。しかしそのように実地で英語を習得しない以上は、やはり私は日本で文法を学び、ボキャブラリーを増やすことで英語を学ぼうと考えてきたのです。しかしあくまで最終目標は、英語を話し、聞き、書けて読めることです。それなのに、書き言葉としてしか使わないような言葉で話せると思ったり、テストに出題された英訳、日本訳が実は正確でなかったりと、この授業に出てから私は、これまでの日本語本位の英語学習に初めて心からの戸惑いと少しの不信感を覚えました。その国の文化と共に言葉を学ぶことの大きすぎる意義を、痛感した一年でした。
 この授業で学んだこと この授業で学んだことは、とても一口ではいいきれません。山岸先生の授業は、私にとって、驚きの連続でした。あの授業をとっていない私の友達の誰が、「ごぼう」を「burdock」と単純に訳して、外国人に食べるよう勧めてはいけないことを知っているでしょうか。一年間ずっと、授業のたびに、日本人について、またアメリカ人はじめ英語を話す国民について、考えさせられ、調べもしましたが、なにより多くを教わった授業でした。そして、日本語には、日本文化に深く根付いた独自の言葉だから、英語に訳すのが難しかったり、それが不可能なことがたくさんあるし、日本の忌み言葉ではないけれど、英語にも、「その場所で、その相手に、その言葉を使ってはいけない」ような場合が多くあるのに、その歴史や文化の溝を考えもしなかったことを反省しました。なかでも聖書は、英語を学ぶにあたって欠かせないというのに、ミッション系の学校に通わない限り、触れる機会すらなかったのが現状です。反省や、自覚を促してくれたこの授業に感謝していますし、この「無知の知」こそ、この授業で学んだ最大のことかもしれません。日本の言葉や日本人の行動には、あまりに深く農耕民族としての血やこの島国の単一民族であることが影響していて、その文化は、狩猟民族で陸続きの国に住んできた国に対する無理解でもありました。英語を知ろうとすることで、その国を学ぼうとし、自分の国との違いを感じ、そこからまた日本についても知ることのできた実りの多い授業でした。私はこの授業を受けて、自分が日本という国についてあまりに無知であることを知りました。と同時に、それを知ることの楽しさを知りました。普段無意識に行動していることのあらゆることの根底に、大きな流れがあることを知りました。日本が農耕民族であることや、島国であることや、日本に四季があることや、そんなことが全て私達の生活に影響を与えている。そんなことを、他の国と比較することで初めて知りました。何より言葉への影響は顕著です。自分の住む国を知らずに他の国の、まして言語だけを習得するのは難しいと初めて感じました。大げさに言えば、私達が英語を学ぼうとする際に開くべきは、辞書ではなくて聖書かもしれません。少なくとも、辞書や参考書をうのみにするべきではない。なぜならそれを作っているのが日本人だから。消極的無神論者だからです。気持ちの問題ですがそう思います。私は山岸先生の英語の授業を受けて、外国人が疑問を持つ日本の文化や生活習慣の一つ一つが、全て意味や理由を持っているように感じました。普段無意識で行っていることも、それが外国人にとっては全く多くが私達にとってもまた謎であることに驚きました。英語の授業を通して初めて自分の国のことを真剣に考えたというのは少し皮肉だとも思います。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私達は少なくとも中学1年から現在まで8年間は英語学習を続けてきた。しかし、未だに自分の英語力には自信が持てないし、実際外国人と英語で対話することはかなり難しいといえる。その理由として授業で先生がおっしやつていたように、いかに「文法的間違いの無い」文章を書ける」ようにするかということに重点をおいて教育されていたためということが考えられる。しかし、このような教育が全く無駄であるかというと私はそうではないと思う。どんな言語にしろ文法というものは存在し、それを何もわからずに言語を習得するのは困難である。また、そのようにして例えその言語が人に通じる程度までいったとしても知的会話を楽しむレベルには到達できないであろう。問題は大学以降の応用的英語教育にあるのではないか。
  この授業で学んだこと ある程度の文法的知識を身に付けたならば、勇気をもって外国人と対話すべきであると思った。その際に気をつけるべき、最も大切なことがこの授業の内容であると思う。つまり、“自国の習慣・価値観を知り、相手の国の自分にとって未知なる慣習に対して失礼のない態度をとれるようにする”という事だ。ある程度の文法力と単語力さえあれば、日常会話として必要最低限のことはこなせるはずである。しかし、知的会話レベルでは自国について無知である場合はもちろん、相手国を知らない時も思わぬところで誤解を呼びがちである。せっかく知り合えても、それではつまらない。EUも本格的に動き出し、益々グローバル化していくこれからの世の中では単に使える英語以上の、地域文化論的なものも、求められていくべきであると思う。(女子学生)

過去の英語学習に思う 多くの学生の英語学習の目的は、学校でいい成績や単位をとることや、大学受験に合格することであり、私もこの例外ではなかった。しかし、本来の外国語を学ぶ目的は異なる言語を持つ人たちとコミスニケーションを図るための能力を身につけることであろう。このようにずれた目的を持って英語を学習し、さらに日本の教育システムもこれを後押ししているのであるから、文法が出来てもコミュニケーションが出来ない日本人が多くなってしまうのではないだろうか。私の大学入学までの英語学習と英語能力はまさにこの典型であると自分でもよく感じている。高校までの私の英語学習を振り返ってみると、文法、長文読解、英作文にほとんどの時間を費やし、必要な程度リスニングをやっていた。学校や塾の先生の話を聞いたり、様々な報道を見ていると、このような学習では本当の英語力は身につかないのではとよく疑問におもってはいたが、高校進学、大学受験で求められている英語力(文法、読解、作文の能力で、コミュニケーーション能力ではない)をつけようとしたら、そんなことは言っていられないのが現実であった。しかし、もしこの授業で勉強したような、実際的な英語を中、高生の時に勉強していたら(そのような手段はほとんどないが)、コミュニケーションは出来ても文法が出来なくなり、今のように大学で勉強することは出来なかったのではないかと思う。今私が思うのは、なぜ日本では本当に必要とされている英語力ではなく、技術的な英語力ばかりが伸びる英語の教育システムばかりがとられつづけているのだろうということである。
 この授業で学んだこと この授業では、今まで特に考えもせず当たり前なことと思っていた日本文化や日本人の発想を学ぶと共に、本来必要とされる英語の能力を学ぶことが出来た。私は運良く、高校時代に通った英語塾は受験英語をやりつつも、実際に必要とされる英語をまぜて教えていたので、授業のなかで教わった一部のなかには高校時代から認識できていたこともあったが、受験英語と実際の英語の違いを正面から考え、理解を深めるのは初めてあった。また、宗教、民族性、その国の暮らしから来る日本人と外国人の根本的な発想の違いを学べたことがこの授業での一番の収穫である。私は、日本人であるから、日本人の考え方が当たり前で、日本人の発想の根源など考えたことがなかった。しかし、それを認識し説明できなければ、外国人に日本人の考え方を理解させられないとともに、自分自身も日本人の考え方が当たり前と思って、外国人の考え方をつかむ糸口さえ見出せないだろう。よく、異文化コミュニケーーションという言葉を耳にするが、この授業では、まさに、その手段となる英語力と、外国人との相互理解の基盤となるものを学ぶことができた。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私は、中学高校の六年間、日本の学校で英語を学びました。また、高校2年生の時1年間オーストラリアに留学し、現地の高校にかよって英語を学びました。日本ではほぼ文法と、形だけの英会話を習いました。が、オーストラリアで実際に私が感じたのは日本の学校で習った文法は基礎以外、英語圏で生活するのにそこまで使わなかったという事です。1年間でしたので、先生のように文化的な違いまで意識は出来ませんでしたが、生の英語に日々囲まれ、英語が少し感覚で理解できるようになりました。現地校の授業は全て英語で宿題も英語でこなし、英語でのキリスト教の宗教の講義も非常に興味深く、先生が授業でおっしやられたような日本人とキリスト教の人々のとらえ方の違いを身近に感じることができました。留学以上に、先生の授業の後では中高で受けた英語教育はうわべだけのもののように感じてなりません。
 この授業で学んだこと 山岸先生の英語の授業を振りかえって、とても有意義で興味ぶかい授業だったと思います。今まで日本の学校で学んできた、自分の正しいと思っていた英語が、実際に英語で生活している人がきくととてもおかしかったり、違った意味で通じてしまう事にまず驚き、その上で、どうしてそのように違う感じでとらえられてしまうのか、ということを分かり易く説明して頂いて、今まで意識することのなかった日本との文化的背景の違いを納得、学ぶことができました。 これからますます国際社会になる上で、私達が社会に出る前に山岸先生の教えられた事を理解、吸収する事は一社会人として活躍する上で必要不可欠だと思います。私は1年留学したことで、現地でただ、こういう物だと鵜呑みにしていたものがこの授業で根本から理解でき、まるで霧が晴れたかのようでした。これからは山岸先生の教えを武器に、臆せずより広い世界に飛び出したいと思います。1年間どうもありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私は、受験というものを経験したことがないので、良く言われる単語をひたすら覚えるとか文法を勉強するということをあまりしなかった。しかし、中・高時代での英語の授業では本格的にやらなかったとは言え、単語を覚えてテストに望むなどというとにかく記憶してテストに望むという勉強をしてきた。しかし、今回山岸先生の授業を受けたことにより、そのような授業、勉強方法はあまり意味のないことだったのだなと感じた。ただひたすら覚えてもその単語の詳しい意味や、また会話で使えるようにならなくては英語を勉強する意味がないのである。そして、今まで覚えた単語の意味で、英語圏で使ってもきちんと意味が通らない物がいくつもあった。私は普通にそれらの単語や英語を文章の中に使っており、山岸先生の授業を受けるまでまさか間違っているとは思ってもみなかった。もっと早く山岸先生に出会い、英語を勉強する事が出来たらよかったのにととても思う。また、私が過去に受けた英語学習のような授業がこれから減り、英語圏に行ってもきちんと使える英語を学ぶ場が増えればよいなと思う。
 この授業で学んだこと 私は最初山岸先生の授業を受けたとき、先生から投げかけられるいくつもの質問に対して答えることが出来なかった。それは、その質問の答えが分からなかったからという時もあったが、手をあげて発言したり、またその答えに不安があり間違えるのが私ずかしかったからというのもあった。しかし、山岸先生が私達に向かって間違えるのは当り前な事で、恥ずかしいからといって発言しなければ自分にとって勉強にならないし、そこが日本人のよくないところなのだ。」というような事をおっしゃったのを聞き、これではいけないと実感した。そして、授業を重ねていくにつれて私は段々発言するようになった。間違ってしまう時もあるが、そういう時でも前よりは恥ずかしいという感覚も減り、またとても発言しやすい場であった。私は今まで人前で発言するのが私ずかしい、また間違っていたら嫌だという意識からきちんと自分の意見を言うという事があまり出来なかった。また、そんな自分にとても腹が立ち改善したいと願っていた。その時偶然にも山岸先生に出会い、授業を受ける事が出来た。少しであるとは言え発言する事が出来たし、前よりは積極的になる事が出来たと思う。また、授業内容も今まで考えずに行動していた事の真の意味や日本古来の考え方など、様々な事を知る事が出来、本当に楽しく、ためになった。この授業で得た事はここで語りきれないほどとても多くの事であり、このような授業に出会う事が出来本当によかったと思っている。1年間、本当にどうもありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 僕が今まで受けてきた英語学習は、ひたすら文法的な追求や単語の暗記に明け暮れたものでした。やはり日本を出たことのないような先生が僕たちに教えている英語は、受験にしか通用しないようなものだということをこの授業を通して一番感じました。今までの英語学習というのは真に外国人には通用しないまさに“ジャパニーズ”イングリッシュであるように思えてなりません。この現状が日本人がお金と時間をかけて勉強するのに英語をしゃべれるようにならない所以のひとつだと思います。このままこういった英語学習が続くと思うと日本人の語学力はますます低下するように思えてなりません。
 この授業で学んだこと 僕がこの授業を受けて一層勉強になったのは、「自国語を知らないものが他国語をマスターできるはずがない」ということです。この授業は英語の授業にもかかわらず、ひたすら自国の文化についての掘り下げた研究でした。発表のプリントを見てみると、全く知らない日本の風習についての質問が書いてあったりしたので、正直今までの自分の日本に対する無知さに失望しました。しかし今この授業を終えてかなりの自国の文化や言葉について学ぶことができたことに充実感を覚えています。山岸先生の英語へのアプローチは今まで受けてきたどの授業にもなかったことですが、今までの英語学習がいかに受験英語を教えるかということに重点をおいていたかということがよく分かりました。本当に勉強になりました。これからの英語学習におおいに役立てていきたいと思います。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私の高校では、中高一貫の私立進学校であったためか、いわゆる受験英語をたたき込まれる一方で、「これは受験英語だから普段はこんな英語は使うな。」と言われました。最近は受験英語に対する批判のおかげで、ある程度は参考書やそれを使う英語教師の間にも「生きた英語」を教えようとする態度も感じました。しかし、大学受験には現実として受験英語が必要であり、教師も生徒も「割り切って」大学に受かるという近い目標ための「手段」として勉強していたように思います。私個人は幼少期にカナダに住んでいたこともあって、英語が好きでした。周りの友人たちのように受験のためだけに使えない英語を詰め込む若悩は感じませんでした。それは一面には私が模範的な生徒ではなく、宿題をせず教師に当てられたその場で考えて答えるような生徒であったこともあるのですが。受験英語の成績 は抜群でした。私の結論は、英語が好きなら映画や音楽、ホームステイで生きた英語を自ら探すし、受験英語は苦労せずに「こなせる」ということです。
 この授業で学んだこと 英語の授業でありながら最も思い知らされたのは、私は日本のことを何も知らないということでした。己を知って初めて他人に自分を紹介できるのである。自分を紹介できない者を他人はなかなか信頼してはくれないであろう。「何者なんだ」と初対面で警戒されるだけではなく、後々まで誤解されていくことにもなりかねない。私は当初から日本人の特質に対しての非難は不当なものもあると感じていた。「曖昧な日本の私」は悪いことだとは感じていない。西洋の物差しでみれば理解しがたいことは確かである。しかし、もし私たちが自分の文化の特質をきちんと説明する術を持っていたならば、ここまで誤解と非難を招くことはなかったのではないか。異文化に対して理解と尊重の気持ちで接することこそが求められているのであって、迎合したり恥じたりするべきではない。(男子学生)

 ●過去の英語学習に思う 私は高校までICUに行っていたので、高校では文法の授業もあったが、それと同時にアメリカで教わるようなエッセイの書き方や小説も学ぶことができました。しかし中学枚や高校受験で教わった英語は実用性に欠ける、なにかマニュアル的なものに感じたのを覚えています。ひたすらこの単語、熟語はこういう意味だと押し付けられ、実際どのような場でその言葉が使われているかなどの例は与えられずにひたすら覚えただけだったからです。それでは生きた英語にはならないし、役に立つはずもないと思いました。外国語を学ぶ上で、文法は非常に大切だとは思います。しかしそれを役立たせるには学んだ言葉をどういう状況で使うのか、実践しなければならないと思いました。大学受験ではなるべく学んだことを生かすため、CNNのニュ一スを毎日見ていました。暗記した単語、熟語が意外と多くあったので、それらを実際どう使われているかを確認することで少しは生きたものにできたのではないかと思っています。やはり、文法や単語熟語を暗記するのではなくてそれをロにして実践できなければ英語ができるはずもないのです。しかし、そういった機会も少ないので日本人が生きた英語を話すのは留学でもしない限り無理でしょう。私は幸い母がカリフォルニア出身のチヤイニーズアメリカンなので、家で英語を話すことができます。しかしそれではやはり物足りないというのが現状なので母の母国に留学し、語学だけでなく、アメリカの文化も学べたらよいなと思っています。
 この授業で学んだこと この授業一年間通して受けることができて本当によかったと思っています。というのは、実際生きた英語を離すには、そしてアメリカ人と真のコミュニケーションをするにはアメリカの文化を知っていなければ意味がないという、一番重要なことを学べたからです。また、アメリカの文化を知る一方で、これから一日本人、一国際人としてあるために、自分が日本人であることに誇りを持ち、日本についてももっと知っていなければならないことも痛感しました。そうでなければアイデンティティを持った人間とはいえないし、外国人からみてもとっつきにくい、何を考えているかわからない、ということになり、真のコミュニケーションなどとれるはずもないからです。これからはお互い尊重していけるように、相手である外国人の文化を知り、また同様に自国の文化も知るために、より文北面、社会面に興味をもって人と接していきたいと思います。また今までとっつきにくかった日本の伝統文化についてもまるでわかっていなかったことを痛感したので、これからは自分の国のことなのだから当然のこととして知識を身につけていきたいと思います。語学だけでなく、日本人として、国際人として、そして一人の人間として根本的なものを学びました。一年間、本当にありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私は幸い山岸先生に近い先生に高校のとき教わることが出来ましたが、いわゆる受験勉強は無駄であると思います。 語学とはやはりその語を使う現地に行ったときにその土地の人々と流暢な話を展開することを目指すべきであると思う。従って、ネイティブが用いない旧語のイディオムを何千と覚えても意味は全くないのです。山岸先生の講義を受講し大学受験で覚えたイディオムはほとんど形式ばった表現であり実際の会話では用いないことを知りショックを受けました。更に、実際にその土地のネイティブと話すときはお互いの文化を伝え合うことが不可欠であり、そのためには自分の国についての知識をもっともつべきだと感じました。これからはスピーチレベルを意識して現地でも通用する英語を習得していきたいと同時に、日本の文化についても積極的に調べ知識の一端としていきたいと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生の講義を受け学んだことは、日本人と外国人はその環境の違いから根本が異なっているのは当然でありその違いを埋めることが語学であり、そのため の学習をすることが語学を学ぶことであると気づきました。また、山岸先生のおっしゃるユニークなお話やマナーに関するお話、そして手を挙げて発表する積極性重視のスタイルの講義など本当に学ぶことが多かったと思います。そして、自分はいかに日本文化について無知なのか気づいたのはとても重要であると思います。 やはり、日本人として生まれたからには日本について知っておくことは義務であ り、また外国に行ったときに日本文化について無知をさらけだすことは恥ですし 、 日本人として日本の文化について誇りを持ちたいです。 最後になりましたが山岸先生一年間ありがとうございました。山岸先生の講義は 私にとって一生の財産となるでしょう。これから海外にいくこともあると思いま すが、山岸先生の講義を活かし日本人として立派に外国人と渡り合いたいです。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私が初めて英語というものに触れたのが中学1年生の時であった。初めて出会ったアルファベットというのはその時の私には何か宝の地図の暗号みたいに思えた。パッと見ただけでは分からないが、辞書という道具を使って見ると、その暗号が解ける。そうやって英語に興味を持っていったが、教科書の中の決まりきった文章を暗記し、テストのために単語を覚えようとするといった作業が本当に面白いとは思えなかった。そういったシステムに対して、「知識だけを詰め込む」とか「受験のため」とうった批判が出てきている。確かに一面だけを見るとそうかも知れないが、私は良い点がもっとあると考える。中学3年生の時、カナダに修学旅行で行った。その時感じたのだが、文法をしっかり勉強していて良かったと思ったのだ。頭の中で文章を作る際に文法に沿って伝えたいことを整理するので、相手にしっかりと伝わるなと実感したのだ。そういった本当の英語の基礎を勉強できたことはとても良かったと思う。また、海外と言う場を提供してくれた母校の英語学習システムにも感謝したい。
 この授業で学んだこと 初めてこの授業を受けた時にショックを受けました。今まで自分が当たり前だと思っていた意味や用法がことごとく崩れていきました。ショックと同時に大学での英語授業とはどういうものかということも学びました。「受け身」ではなく、自分がアンテナを張り巡らして積極的な授業参加をする。そして一番興味を持って聞き入ったのが、先生の奥さんへの熱い愛情のお話です。一度もケンカをしたことがなく、日が経つに連れてもっと好きになっていくという話はすごい感動しました。二人が出会ったのは軌跡であるという考え方、大好きです。私も山岸先生と過ごせたこの一年間という奇跡を大事にしたいと思います。先生に出会えて、英語の魅力と同時に、日本語の素晴らしさ教えて頂きありがとうございました。一年間本当にお世話になりました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 山岸先生の一年間の授業で最も新鮮だったのは、最後に学んだスピーチレベルでした。今までの英語学習ではほぼ同じ意味と学んでいた表現でも、微妙なニュアンスの違いがあることを知りました。フォーマルな表現とインフォーマルな表現を混合して覚えていると場所や相手によって使い分けることが出来ず、円滑なコミュニケーションに支障をきたすということを学びました。もうひとつは、英文で表現する際、文法的な正確性を追及するよりも実質として何を伝えるかを考えることが重要だと学びました。英語が母国語の人なら少々文法的な間違いは訂正しながら読むことが出来ます。文法が完璧でも内容が薄ければ読む側にとって魅力に乏しいものになってしまいます。英語で内容のある主張や説明が出来るようになることが日本人に必要な能力だと痛感しました。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業では後半、外国人が疑問に思う日本の習慣や風習を英語で説明する学習をしました。その中で、英語の中に概念として存在しない日本語は誤解を避けるために丁寧な説明が必要だと知りました。(例えば、節分の豆を “roasted beans to drive out evil spiritsとする)” そして、外国人の視点に立って理解しやすい内容を心掛ける必要があると感じました。疑問を根本から解消し、更なる興味を持ってもらえるような文章を作ることが出来れば良いと思います。外国人の疑問に触れ、私達が習慣の背景を知らずに無意識で行なっていることに気付きました。本などで調べていくうち、日本人の伝統や考え方を再確認することが出来ました。今回の学習を生かして、自分の生活を見つめ直すきっかけにしたいと思います。(男子学生)

 ●過去の英語学習に思う 中学1年でアルファベットを習い、以後8年ほど、英語を学習してきた。その中で、一番英語に触れる時間が長かったのは大学受験時だと思う。そこから逆算した中、高、浪人の7年間の自分にとっての英語は少し変わったものであった気がする。高校時代、ある英語教師にこう言われた。「今、君達が学んでいるのは英語と言うよりはむしろ英語を学ぶことを通しての思考能力の向上である。」 これは正しいことだとは思う。実際こうして頭は鍛えられたし、英語の文献は読めるようになった。しかし、まだ何かが足りなかった。浪人中くらいから感じていたが、それは何も読めるけど離せないことへの不満だけでなく、何か深みがないというか、生きている英語でない、ということだ。しかし、山岸先生の授業で、今まで足りなかったものに気付いた。それは背景にある文化を見落としていたことだ。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業で学んだこと、それは一言で言うと文化である。欧米人の様々な言い回し、ある状況での決まった態度、それらは全て彼らの文化、特に宗教に根差しているのだと気付かされた。彼らの価値観の中で、いかにキリスト教が深く係わっているか、これは僕にとっては大変興味深いことであった。例えば、modest。これは彼らにとっては、神から与えらた才能を過不足なく認めることで、日本人が、能力を過小評価することを謙虚と考えることとは、実に対照的であった。こうして、逆に日本人の価値観を見直すと、意外に文化を背景としていることが多く、面白かった。先生のおっしゃったお言葉で、とても印象的なものがる。「外国語を学ぶなら、バイリンガルでなく、バイカルチュラルになりなさい。」 これから更に英語を学び、また今、興味の強い中国語を学び始める上で、文化の存在を常に忘れずにいようと思う。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私は、過去の英語学習は受験のためのものであったと思います。外国の文化などはまったく考えずに、文法を中心に勉強したと思います。高校受験や大学受験では、海外の文化を知っていなくても、問題が解ければ合格できるので、文法や単語の意味をただ言われるままに学習していました。長文読解や英作文はただ、その文法を型に当てはめれば出来るので、文化の違いを考えなくても良かったからである。それらは、日本文化的発想であり、英語圏内の人には、少し変に聞こえてしまうのである。だから、日本は英語教育というものを見直すべきだと思います。つまり、英文を日本語で考えるのではなく、英語で考えることだと思います。そうすれば、少しは改善されるのではないかと思います。
 この授業で学んだこと 私はこの授業で大切なことを学んだと思います。私はこの授業で英語の奥の深さを改めて実感しました。日本文化と英語圏内の人々の文化は違っている。そのため、考え方ももちろん違っているのである。だから日本文化的考えで英語を学習して、それを使っても英語圏内の人には、違った風に聞こえてしまうのである。この授業で英語と日本語の単語の意味でのズレが数多くありました。私たちが、普段よく使うカタカナの言葉も英語圏内では違う意味であるということがあって、文化の違いでここまで違うことに驚かされました。外国の人が日本の文化に色々疑問を持っているが、私も外国の文化にかなり疑問を持ちます。そして、英語を勉強するためには、その英語圏の人々の文化を知らなければならないということを学びました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 今まで受けた英語学習はあまりに形式的な文法学習に偏り、語学学習本来の目的 (テーマ)である、伝える語学を教わってこなかったように思われます。しかも 英語圏の人々に誤解を与えずに伝える方法を考察することを僕は今まで学べなかったように思います。受験英語の英文法学習に固執してしまった結果、僕は相当頓珍漢な英語表現をしてしまうリスクを身につけてしまったように思われるのです。その英語表現とは、英語にして英語に非ず、言わば日本人が創り出したジャパングリッシュと でも言うべき英語になってしまっているのではないかとも思います。語学は机上の空論で終わらせるものではなく、人に自分の気持ちを伝えるために実際に使うためのも のであるはずです。その根本に戻る意識を持つことが大事であると、山岸先生の授業 で教えて頂いたと思います。
 この授業で学んだこと この授業を受けて僕が本当に良かったと思うのは、改めて『言葉』というものの力を思い知り、無意味な言葉が飛び交う今日の社会でも、言葉を慎重に選ぶ必要があるなと考えるようになったことです。また、他国語を知らない者は自分の言葉をも知 らないという言葉があるように、一つの物事を考える際にも、多種多様なアプローチをし て、あらゆる方面から二重三重の知識体系を築かなければ本当の知識として使え ない と考えるようになりました。また、授業では山岸先生の有意義な言葉を噛み締め るよ うに聞き入っていました。そして、普段考えもしない日本人の心の根底にある心理の歴史的背景も出てくるとても好奇心をくすぐるものでした。この授業を受けたことは生涯の財産に確信しています。もちろん、これだけ分かったようなことを言ったからにはこれからもこの授業の経験を生かし、もっと勉強しなければなと覚悟しています。 (男子学生)

その他 一般的感想文として提出した諸君
●僕は、13歳までニューヨークに住んでいて現地校に通っていました。日本とアメリカの英語学習を比較してみると日本の英語教育は受験向きだといえる。主に文法 を中心とした文章の読解だと思う。アメリカは文章の読解、理解が中心であり、先生とのディスカッションによって授業が行われる。文法は基本的に勉強しません、というより文章読解や会話の中で自然と覚えるのです。ですから日常会話において多少の文法的な間違いが生じる場合があるが、そんなことは誰も気にしてなく、むしろお互 いのコミュニケーションが重要視されている。文法中心の日本では、将来的に役立たない。実際、大学でのネイティブな先生の授業での簡単な会話でさえ、みんなたじろいでしまう。僕が思うには日本の英語教育は型にはまっていると思う。もっと応用をきかせて、なによりもコミュニケーションを大事にしてほしいです。山岸先生の授業は、まず履修の時に日米比較と聞いて、これは得意と思って履修 したものの実際に授業を受けるとわからないものが多く、解釈の難しさにも直面した。それと同時に今まで理解が乏しかった日本の文化、風習が理解できるようになり、いろいろな発見が僕の中にありました。先生の授業は日本的でもなくアメリカ的でもない独自のスタイルの授業でとても応用がきかせてあって斬新でした。また、外国人 が悩んでしまうような素朴な質問を生徒に課したりしたので、一人の生徒として深く 考えさせられ、僕にとってとても身になりました。(男子学生)
     
●英語というより文化の勉強だなというのが、私の、この授業に対する第一印象でした。 もっとも、英語に限らず言語というものを学習するには、まずその言語を基礎付けている文化というものを知らなければならず、相手の言語、ひいては文化を理 解 するためにはまず己の言語、およびその礎たる文化を知らなければならないということを、先生の授業を通して実感しました。ですから私のこの印象は正しいよう で実はまちがっていたことになります。文化を知ることは言語につながるのですか ら。 私は中学から英語学習を始めて、先生に出会うまで典型的な日本の英語教育を 受 けてきたと思います。ひたすら単語を覚えカッコ抜きの文法問題を反復するだけの学習で果たしてネイティブに通じるのか・・・。私はずっとこんな疑問を持っていました。ところが、高校の修学旅行でたまたま英語圏の外国人の方と接する機会があり、私の片言の稚拙な英語が通じたとき、テストでよい点を取るよりもずっと 嬉 しかったことを覚えています。 「ここの文法は間違っているけれど、ネイティブにはちゃんと通じる。重要なのは、このような私たち日本人の発想どこからが来ているかを説明することだ」と いう先生のおことばには大変共感し、また啓発されました。実は小学6年生のときに、私が大変感銘を受けた先生がいらっしゃいました。いまは残念ながらこの世を去られましたが、わたしたち日本の文化に大変精通してい らっしゃって、我々の両親の世代ですらもう知らない人が多いような漢字の読み方や日本人の精神の由来などを当時の私たちにもわかるように面白く教えてくださっ た方でした。その後そのようなタイプの先生にはなかなかめぐり合える機会がなく 、よもや大学の、しかも英語の先生から似たようなことを教えていただけるとは思 ってもいませんでした。高い学力を身につけるのももちろん大切ではあるけれど、 その裏に広い知識 (常識?) ・教養があってこそ、ほんとうに豊かな人間といえるのだなとこの授業を通して再認識しました。 唯一つ悔やまれるのは、先生と、もっと個人的にお話を聞かせていただきたかったなということです。一度だけ帰りに並木でお見かけしたのですが、つい勇気がなくて話しかけることができませんでした。また機会があればぜひいろいろなお話を聞かせてください。そして来年からも、どうかこの授業のスタイルを変えないで 、 英語、および日本の文化について新たに啓発される学生たちを増やしていってく だ さい。(女子学生)

●僕にとって、この授業は新しい英語との出会いだったと思います。それは新しい英語の文法を習ったというのでもなければ、新しい英単語を知ったという意味でもありません。新しい側面、観点から見た新しい英語、文化の性格を知ったということです。大学生になって初めてこれを知ったということはある種、恥ずかしい気持ちがあるのですが、今までの自分の英語学習における目的というものを考えると、仕方がない、もしくは自然なことだと思います。というのは、中学・高校の英語学習の究極の目的は、僕にとっては入学試験に受かることであって、悲しい事ですが、英文化を理解すること、実際に生きた英語で英語圏の人々と話をすることは、二の次であったと思います。よって、もうすでに入学試験という究極の目的を達成した今、ようやくその関心が既存の英語教育の型から解放され、生きた英語へとその足が向かうことができたのだ、と言えます。しかし、日本の教育システムがこうある以上は、やはり、そう簡単に日本人の英語感覚のズレはなくならないでしょう。それは試験の内容や制度をとってみてもわかります。試験自体が僕達に求めていることがそもそも日本人の英語なんだと思います。試験を実施しているのも大半は日本人であるのだから、それは仕方のないことでしょう。だから、僕が行なってきた英語学習の目的は、そのまま、試験自体が求めていることに直結していたのであるから間違いではありません。入学試験という目的のなくなった今、新しい英語学習の目的、方法をちょうど模索するような時期に、先生の授業を受けることができたのは、幸運である思います。新しい英語の学習の仕方を明確に僕の中に築いていると思います。最後に、1年間、どうもありがとうございました。先生が変わらず今の姿勢でいて下さることを願います。(男子学生)

●僕が中学・高校で受けてきた英語教育というものは、目前に受験を控えていたこともあって、文法偏重の受験英語対策といった感じでした。今思えば、あの6年間にもっとオーラルコミュニケーションなど実際に使える英語を勉強できていればという気持ちはあります。もちろん文法を学ぶことは英語の学習をするうえで重要でしょうが、今の日本の英語教育はあまりに文法偏重である、そんな気がします。この授業では、英語と日本語のズレ、スピーチレベルなど、これまであまり勉強をしたことのなかったことを扱い、とても新鮮な経験でした。また、日本の文化・習慣などについて英語で紹介するというのは、日本人として世界の人と向き合っていくうえで必要な技術であり、「使える」英語だなと思いました。(男子学生)