2. 満足度の高い大学英語授業の創造
「この授業で学んだこと」
慶應義塾大学法学部2年生・英語V受講生による授業評
【2001年、平成13年、1月12日(金)授業最終日に提出】
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●「Defensive―守りの姿勢を持とう」という先生のお話は、私には最初ネガティブなものに思えていました。しかし、この一年間、日本のことを学び、日本人である私が、今まで考えずに生きてきた日本の奥深さに気づいたとき、Defensive
とは誇りを持つことにつながっていることがわかったのです。欧米に劣等感を感じ、追いつけ追い越せの風潮は戦後から今に至るまで続いていますが、今ではその我が国の姿に寂しささえ感じてしまいます。手本にすること、目標にすることは悪いことではないと思うのですが、捨ててはいけない、忘れてはいけない日本の心を大切にしてほしいのです。日本の“和を大切にする心、” “自分がへり下り他人を立てる心、” そして全ての感情・姿勢の底にある“思いやり、” これらは日本人特有の財産であるからです。日本のことについて、知らないことはまだまだあります。そして、何げなく使っている言葉や行動にも、意味があるということをまだ気づかずにいる事も沢山あるはずです。しかし、確実に私はこの一年間で日本を見つめ、日本人の心に触れることができました。Animism(全ての事物に霊魂が宿る)の姿勢で物事を見つめ、考え、そして一方から物事を見つめるだけでなく、色々な側面から考えてみるという姿勢をもつきっかけにこの授業はなりました。、また、先生がいつか授業中、明治学院でクラスをもたれていた時に、S.A.君という学生に出会ったというお話をされ、彼の“時間がない”という言葉は今でも私の心に印象深く残っています
【下記注記をご覧下さい―山岸】。私の祖父も昨年12月にこの世を去りました(12月15日の授業に欠席しました。すいません)。祖父の最期の最期まで“生きよう” “生きたい”という力は、私たちに“生きる”ことを深く考えさせてくれました。私自身、これからどんな方向でどんな道を歩いていくかわかりませんが、精一杯生きること、その時その瞬間を大事にして生きていこうと思います。そして、山岸先生のおっしゃっていた、「命ある限り自分の選んだ道で役に立ちたい」というお言葉の様に、私にできること、私にしかできないことで、生きる限り一日一日役に立って、又、私自身が幸福だと誇れる生き方をしていきたいと思います。この授業から多くのことを学び、考えることができました。本当にありがとうございました。先生もお体に気をつけ、これからも英語に対して、日本に対して考えが変わる学生が増えるよう、授業を続け、辞書をつくり続けて欲しいと思います。そして、私も少しでも日本に対して
Defesiveな姿勢を持てる日本人が増えるよう、私なりに努力したいです。「日本人が変わらなければ、外国の人はかわらない。日本人がどうして欲しいのか言わなくては、外国の人はわからない」のであり、私たち自身がまず、自国を理解し誇りを持つこと、自分を押さえて相手を立てるだけでなく、知ってほしい、教えたいというポジティブな姿勢を前に出すことも、これらかを生きる私達には大切だと思うのです。これからも、私のように山岸先生と出会い、日本のこと、英語のこと、そして又、自分自身のことについて考えることの貴重な時間を持てる学生が増えることを願っています。一年間、本当にありがとうございました。 (女子学生)
【注記】1994年、明治学院大学・戸塚校で担当した学生の一人、S.A.君が心臓病で亡くなったことを紹介し、生きてこの世にあることの素晴らしさ、大切さを説いたことを指しています。同君は限りある日を、精一杯に生きた素晴らしい青年でした。確か埼玉県から遠く横浜・戸塚校地まで通っていたと思います。障害を抱えながら、前期、一度の欠席もなく私の授業に出席していました。ある日、私が、「君は頑張り屋さんだね」と言うと、「先生、僕には時間がとても貴重なんです。足りないんです」と答えました。その時、私は同君が幼い頃から置かれた試練を知りました。おうちの方のお話ですと、幼い頃から数度の大手術に耐えたようですが、同年後期は一度の出席も果たせず、志半ばにして亡くなりました。電話口でお話になったお母上は、「障害のある息子を受け入れてくださった学院に感謝しています。しかも、非常勤の先生からもお悔やみをいただき、朗は幸せ者です」とおっしゃっておられました。あれから7年近くが経過しますが、同君の真剣な眼差しが忘れられません。同君の鎮魂のためにも、教職を退く日まで、私はより良い教師への努力を欠かないようにしようと思います。合掌。 「きみは輝くために生まれて来た」をご覧ください。
●先生の授業を受けてみて一番初めに、「他の英語の先生方とは違った雰囲気の授業だなあ〜」という実感をしました。中学、高校と慶應の内部で進んできて、いつの間にかテストのための勉強をしている自分に気づき始めていましたが、その中でも語学に関していうと英語、中国語、ロシア語、どれもなぜか暗記科目としてしか見れなくなっていて、そんな中で勉強していたためもあるでしょうが、語学には、積極的に、意欲的にといった勉強姿勢が持てませんでした。
語学が嫌いなのかというと、一概にそうとは思えず、高校1年生のときにアメリカのウィスコンシン州に1ヶ月間ホームステイに行ったときのことを思い出すと、「あの時もう少し英語が話せればなあ。」と、今になって英語を話せるようになりたいと思うので、嫌いではないと思っています。だけど、何処かで英語を好きになりたいという気持ちも薄くなってきていました。
全部が全部日本の英語教育が悪いなんていう気はありません。実際、自分でも英語の文法がわからず何度となく英語なんて、と思ったことがありました。だけど、せめてもう少し日本人の学生が、英語を好きになるような、英語が話せるようになったらいいな、と思えるような授業を先生がしてくれないかな?そうすれば、もっともっと英語を好きになれそうなのに、と思ってきました。
中学ではいませんでしたが、高校では生徒が英語を楽しんで学んでくれたら、と思って教えてくれると感じた先生が1人いました。授業自体はそこまで他の先生と違うところはなかったのですが…。
僕の友達の中で、留学した友達、帰国子女の友達が何人もいますが、「英語なんて向こうにいけば話せるようになるよ」という人が少なくありません。それと同時によく耳にしたのが、「大学受験をしてきた人たちには文法じゃかなわないよ。文法なんてあっちいったってできるようにならないもん!」という言葉でした。「文法なんて考えないでしゃべるの?」って質問にも、大体の友達が当たり前のように、「いちいち文法なんて考えて英語がしゃべれる? 日本語だってそういうもんじゃない?」 という返事が返ってきました。
先生の授業中に先生が何回も口にした言葉で、学生が黒板に英語の解答を書いて発表したとき、「うん、すごくよくできてる。これならあっちの人も(←疑問を抱く外国人の方)よく分かると思います。細かいところをいうと、こことかこことかはこうしたほうがいいですね! でも、今はそんなところはいいです。よくできました。」という言葉がありましたよね?何回も聞いた言葉だったので聞き間違いではないと思いますが。(笑)
あの言葉をはじめて聞いたとき、すごい感動しました。今まで僕が習ってきた先生方の中で、相手に自分の言いたいことを伝えられるようにすることを一番最初に、それから文法を正していけばいい、と考えて、生徒に接する先生がいなかったからです。そんな先生にもう少し早く授業を習いたかったって思う人も多いと思います。実際、留学してた何人かの友達に、先生の編集した辞書を見せたり、先生の授業の内容を話したりしましたが、みんな「面白そうだね!」とか、「知らなかったー! そうなんだぁ!」とか、興味を示します。先生の書いた辞書を見て、「面白いね、この辞書!」という反応も少なくありません。先生の辞書を買いにいった友達もいます。僕自身、辞書を見て面白いと感じたのが先生の辞書が始めてだったから、みんなの言うことがすごく良く分かります。
先生が授業で取り上げた「外国人の疑問あれこれ」についても、自分の学の無さにびっくりしました。外国人の方にああいった質問をされたときに、何も答えられないのではないかと思うぐらいでした。先生が、一つ一つについて幅広く教えてくださったおかげで、英語以外にも、日本の文化、もっと大きく言うと日本のことについて、とてもとても勉強になりました。先生が言うように、今の日本人の学生が、日本のことをどれだけ知っているだろう?って言ったら、ほとんどの学生が、先生の授業でやった外国人の質問に対して外国人の方が納得のいくような説明をできないと思います。実際、先生の教えてくれたことを周りの人に話すと、「そうなの?」とか、「そうなんだぁ!」という反応が多いです。
この1年間の授業を振り返ってすごくすごく大事なことをたくさんたくさん先生には教えていただきました。本当にありがとうございました。たった1年間でしたが、英語に対しての、苦手意識、好きになれない気持ちが、いつの間にやら何処かへ吹っ飛んでしまいました。後期の途中、家の事情で学校にしばらく来れない日が続いてしまいましたが、本当にすいませんでした。
できることならもう少し早く山岸先生のような授業をしてくれる先生の授業を受けたかったです。そんなことを言ってもいまさら始まらないので、この1年間の授業を頭の片隅において、自分で英語の勉強の仕方を見つけて、早く英語が話せるように、また、外人の方に日本のことを聞かれたときに、「分からない〜!」ってならないように日本のことについて日本人として知っておきたいことを勉強したいと思います。
1年間ありがとうございました。本当に、本当に、先生の授業は楽しい授業でした! これからも、先生の授業のスタイルを崩さないようにより多くの学生に英語を勉強することの面白さ、英語を勉強する上で大切なことを教えてあげてください。応援しています。(男子学生)
●高校の頃から、私は英語が嫌いだったわけではありませんでした。一時は英文科への進学を考えたほど、英語の勉強に対してはわりと積極的なほうだったと思います。けれど大学に入ってからは、部活にのめり込んでいったこともあって、英語の授業は必修だからやっているだけ、という感じになってしまいました。あまり魅力も感じなくなっていたのです。
しかし、先生の授業を受けて驚きました。このような英語の授業は今までになかったからです。英作文があまり得意でない私はやっていけるのだろうかと不安でした。でも実際には、文法とか、技術の問題ではないのだとわかりました。英語の授業だという気がしないくらい、今までのとは違っていました。
英語をなぜ学ぶかというと、英語でコミュニケーションをとるためなのはわかりきったことです。そのためには、言語の背景となる文化の理解が必要なのも容易にわかります。しかしわかっていても、実はとても難しいことなのだということにはなかなか気づけなかったようです。他文化を理解するということは、自文化との差を知ることでもあると思います。ければ私達は日本文化すらよくわかっていないのだと改めて感じました。わかってはいないからこそ、日本人は日本文化に対してネガティブになりがちなのでしょう。外国人に「変だ」と指摘されると、何も言い返さないまま自分の文化を否定してしまうのです。いいかげんに、日本人は日本文化についてのコンプレックスをなくすべきだと思います。そうでなければ、本当のコミュニケーションは成立しないのではないのでしょうか。そのためには、まず自分自身を知り、日本文化に対して誇りを持つべきだと思います。そして、何が正しくて何が間違っているのか、自分の考えをしっかり持ちたいと思います。
この授業で学んだことは、コミュニケーションに本当に必要なのは、複雑な文法よりも文化の正しい理解だ、ということです。また、英語を学ぶうえでの新たな可能性に気付くこともできました。そして英語と関係ない次元では、何にでも疑問を持ち、それについてきちんと考えることが必要だ、というのも授業の中で学んだことです。本当に、これほど楽しいと思った授業はなく、私の専門である法律科目よりも、私の人生にとって有益だったと思います。一年で終わりではもったいない、もっと習いたいほどですが、先生に教わったことを元に、自分で新たな可能性を探して生きたいと思います。一年間本当にありがとうございました。(女子学生)
●T.なぜこの講義を履修したか。 英作文の力をつけたかった。これが何よりもこの講義を希望した大きな理由である。講義の説明の際に、先生が受験英語の大きな欠点を指摘したうえで今後この講義で扱う教材を説明なさったときに、この講義を受ければ実践的な英作力が身につくであろうと確信したので、履修を希望した。また、自分が受験時に使っていた辞書
(アンカー辞典シリーズ)の製作に携わっておられると聞いたことも、自分の興味を引いた。
受験時は採点されることに重きを置くゆえに、「実際の生活にこの表現が使われるか?」などと考えることはまったくなかった。講義を受ける前はこの点に大変引け目を感じており、先生の講義を受ける資格が自分にあるのかと不安になったりもしていた。しかし、一年間の講義を通して少しでも受験英語の後遺症から抜けられればと思い、受講を決めた。
U.この講義を受けているときの感想。 この講義の形式は、初めてであった。自分から手をあげ発言の機会を設けねば、評価されることがないという、積極的な参加を余儀なくされるこの手の講義を受けたのははじめてであったから、4月当初は当惑した。
講義中先生から質問されることも、日常の生活では常識と高をくくっているものばかりなので、どれも一筋縄では答えを思いつかなかった。その結果、毎回の講義を通して「考える」という行為を自然と身につけることができた。
また、全く知らなかった日本文化の伝統的な知識を得ることができたり、外国人の視点からの問題提起という形式のおかげで、常識とされるはずの日本の物事を見つめなおす機会を得ることもできたりした。この結果表面的な日本文化の理解をさらに一歩深めることができたし、大変興味深く知的好奇心を刺激する楽しい話を聞くこともできた。これはほかでは経験できない体験であったと思う。毎回の講義で得るものもさることながら。自分で発表する際にも文献にあたり様々な知識を吸収することができた。
V.講義を一年間受け終えての感想。 今まで知らなかった日本独特の考え方や慣習について、深い考察をする機会がとても多かったので、より日本について知ることができたのではないかと思う。しかし、何よりもこの講義を受けてよかったと思うのは
「考える」、そして 「発言する」 という行為に親しむことができたことである。普段何気なく使っている言葉や何気なく行っている行為について、自分たちはなぜゆえにこのような行動をとるのかを
「考え」、自分なりの考察を、誰かに強制されることなく自主的に、「発表 (発言)する」。先生は、学生が発した答えにはいつも必ず大きく頷いてくださるので、自信をもって思ったことを発言できた。この行為を一年間繰り返すことで自分の頭の中に確立された、物事を自分なりに考えることのできる「思考回路」は何物にも代えがたい。これこそが自主性を重んじ、自ら学ぶという慶応の精神であると実感した。大学在学中にそんな経験を体験できたのはこの講義のおかげであると思う。もちろん、講義の中で手にいれた知識も大変貴重だとは思うが、この学習スタイルを会得できたことが、一年間の講義を終えて何よりもうれしいことである。この講義から何を得たかと問われれば、胸をはって、慶応の精神そのものである独立自尊であると、自分は言うことができる。
後期に一時的に体調を崩し欠席が続いたことは、本当にもったいなかったと後悔しています。もっと知らない知識を習いたかったと思っています。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この講義は、何も改善する必要はないです。自分はそう、断言できます。今後もより多くの学生たちに日本文化の奥深さ、世界の文化の多様性、考えることの面白さを教え続けてください。山岸先生、一年間本当にありがとうございました。(男子学生)
●私は約1年間のこの授業を通じて、日常生活の中で当たり前の事として特に疑問を持つことのなかった、日本での出来事、日本人のしぐさ、習慣、日本語の意味等の、日本の様々な事物各々にこめられている文化的、宗教的、社会的背景を知る事ができました。また、日本の事物に対して、なぜそうなるのか疑問に思う事も増えてきて、能動的に接する事ができるようになったと思います。
最初に「外国人の疑問あれこれ」と書かれているプリントを見たときには、子供が親に尋ねているような、その質問の純粋さに、本当に外国人に理解してもらえる「答え」が見つかるかどうか不安に感じたのを覚えています。(「外国人に」というよりも、自分も含めて日本人にも納得してもらえる理由を挙げられるか自信がなかったような気がします。) 一つの疑問の答えを得るために、図書館で本を調べ、何時間かかっても答えが見つからないこともありました。そして、なんとか自分の納得の行く答えが出来上がり、授業で発表すると、先生が更に違った面からの答えをおっしゃり、自分の詰めの甘さを感じるとともに、先生の幅広い知識を通じて、日本の伝統や文化の奥の深さを感じる事ができました。
また、自分の伝えたい事を伝える事、その難しさも学べました。つまり、自分で調べてきた事を単純に英語に訳すだけでは駄目だという事、言語の中に隠されたその国の文化の存在を学ぶ事ができました。その違いがもっとも現れるのが、「自己主張」やその対極にある「謙虚」であったように記憶しています。この言葉ほど日本と外国で評価が違う言葉は無いのではないでしょうか。この同じ意味なのに、異なる社会的な評価を受ける存在に、単なる会話の道具としての言語ではなく、文化や伝統といった、その国における歴史の流れの証明といえるような、言葉の大きな存在意義を感じます。
最後に、一方通行の授業の多い大学の講義の中で、この授業は双方向での先生とのやり取りができる数少ない講義でした。授業の始めに、政治・芸能・歴史の話でのみんなの多彩な意見に、新鮮な価値観を感じたり、時には驚くこともありました。なかなか授業中だけでは考えがまとまらず、授業が終わってからもその話題について考えることが少なくありませんでした。そういう意味で、この授業では単なる英語という語学の枠をこえて、大学での勉強とは何かを学ばせていただいたと思います。一年間、どうもありあとうございました。(男子学生)
●この授業では、今まで大学で勉強してきたような英語とはぜんぜん違うものを学んだと思います。正直言うと、英語を勉強したというよりは日本の勉強をしたほうが多かったような気がします。しかし、これが日本人がすべき本当の英語教育だと分かりました。そんな授業に出会えてすごく幸せであり、先生に感謝するばかりです。
英語を学ぶことは、私にとって「話して、相手に通じる」ことができれば良いと思っていました。2年間ほどオランダのインターナショナルスクールに通ってはいたものの、そこでは様々な国の学生が一緒に勉強をし、ときに日本人がかなり多かったように思います。そのため、向こうの学生も日本人のことを分かっていたようで、あまり「なぜ日本人は○○するのか」といったような疑問を発せられたことがありませんでした。ドイツの現地校に通っていたころは、まだ小さかったこともあり、何度か日本のことを聞かれた事はありましたが、たいした答えをしなくても普通にむこうの人々と生活できたのは、当時の私がまだ幼くて、むこうの生活になれていたので、ほとんどむこうの人々と同じような環境だったからだと思います。
今は日本に住んでいる時間も長くなり、自然と日本人的な行動や考え方が多くなってきているような気がします。この授業を受ける前、それがあまり良いことだとは思っていませんでした。しかし、それは自分が「日本」に関して知識がないからであり、日本人には日本文化があり、それが今につながっているのだとわかりました。今まで勉強したことすべて納得できて、より自分が日本人であるように思えました。日本人が如何に自分たちのことを知らなさ過ぎるかということを知り、残念に思うと同時に、もっともっとこういった授業を普及すべきだと感じました。
これからはもっと日本に外国人が増え、外国人と交流する機会も多くなると思います。そういった時に文化の違いで多々弊害が起きると思います。そういった時に日本人がどれだけ自分の国のことを理解できるように話すことができるか、これがきっと英語を話すことの中で一番大切なことなんだなと気づきました。日本語で話すように、そのまま英語で話しても通じない。考えてみれば当たり前のことだと思います。日本人が日本人以外の人々と接触する機会が少なかったせいもあり、普通に日本人同士が会話するときのように、英語でもそのまま直訳して話していたのだと思います。
この授業で学んだことは英語を話す時だけでなく、それ以外にもいろんな場面で必要だと思います。最近は日本の文化を継承するものが少なくなってきているように思います。日本人がもっとこういう勉強をすれば、もっと日本人は自分達に誇りを感じ、ずっと文化が消えることはないのではないでしょうか。この授業を機に、これからももっと日本について知識を増やし、英語でもちゃんと対等に会話ができるようにしたいです。この授業では日本人が“defensive”になり、ちゃんとした英語の会話ができるようになると同時に、もっと自分たち自身に誇りを持つ必要があるということを学んだと思います。(女子学生)
●私はこの授業を履修する前までは、この講義の内容を全くといっていいほど理解していなかった。履修案内をみて、これならそれほど大変そうじゃないし、時間も合うからこれにしようと軽い気持ちでこの授業を選択した。しかし一年間、この授業を受けて本当に自分にとってプラスになったと思う。
この授業は今まで私が受けてきた英語の授業とは全く違った。これまでは英作文を書くにしろ話すにしろ、常に先生は文法の間違いを指摘して、私は
「これでも通じると思うんだけど…。」 と心で思うしかなかった。
そんな先生方とは対照的に山岸先生は、文法の間違いを指摘せず、自分が伝えようと精一杯書いた英作文を誉めてくださった。私は何よりも、「十分伝わります。」
と先生が私の英作文に対しておっしゃってくださったことがうれしかったです。
この授業で私は、今まで自分が何も疑問ももたず、当たり前の事実として受けとめてきた日本の事柄について興味をもつことができた。進んでいろんな日本の事柄、日本人の性質について調べてみようと思った。おそらくこの授業を受講していなかったとしたら、興味を持つことは残念ながらなかったと思う。
私は日本人の性質を説明するのに、日本人を擁護するように説明するべきだということに初め気づかなかった。どうしても批判的な目で見てしまっている自分がいた。
しかし、この授業を受けているうちに、日本人が〜であると言われるにはすべて背景があり、それは決してマイナスなことではないということがわかった。だから批判的な目で見るのではなく、日本人は〜という歴史を歩んできたから…なのだと胸を張って述べればいいのである。
私がこのように考えることができるようになったのはこの授業を受けたからです。一年間とても勉強になりました。感謝してます。(女子学生)
●この授業では様々なことを学習しましたが、それらに共通することは「自分の立場を守る」ということです。その内容として、立場の基礎たる日本文化についての知識、それらに対する自信、価値観の多様性などが挙げられます。第二次大戦以降など、近世から現代にかけての数百年は欧米の台頭した、いわば物量の時代です。そのようなここ数百年の歴史的優位・物的優位だけで、私たちは今までの数千年の世界の歴史はあたかも欧米中心であったかのような錯覚さえ覚えます。
現代の日本は、それら欧米先進国の強い影響をうけて、眼に見える物ばかり価値観を見出してしまいがちです。そして逆に東洋で発達した精神世界に対する尊厳を失いかけているとも言えます。東洋には今でこそ先進国に匹敵する経済力を持つ国もいくつかありますが、ここ数年は白人優位の思想がはびこり、アジア・アフリカ系の人々は、欧米人に劣っているのではないかという、うしろめたい気持ちが少なからずあったのではないかと思います。そのような時代においては、各民族は欧米の価値観を安易にありがたがるのではなく、また自分たちの文化を安易に軽視するのではなく、自分たちが幾年にも及ぶ長い時間の中で形成した文化に隠された「歴史的意味」を今一度模索する必要があります。利便性の追求も大切なことですが、だからといって今まで惰性に行われてきた、一見無駄に思える思考、慣習、文化、言語が、本当に排除に値するかは自分の眼で確かめてから行わなければなりません。その際そこに込められた先人の思考を回想することで、私たちは自分たちの歴史に対する自信を時にとり戻す事ができ、初めて欧米と対等に渡り合うだけの基礎が作られるのだと学びました。
特に日本は、先頭に立ってアジア諸国を牽引していく重い立場にあると思います。日露戦争での勝利から高度成長期における日本経済の台頭に至るまで、歴史の中で、日本がアジア諸国に自信を植え付けたという事実もまた、存在します。たとえば、マレーシアは日本をモデルとしたルックイースト政策をかかげているし、また台湾人の8割は親日家です。授業でも、ケイジョン大学などがその例として挙げられました。これらの諸事実を聞けば日本人は驚くでしょう。なぜなら諸外国が思っている以上に、日本国民は日本の歴史を自己否定し、逆にいくつかの国は日本に対して良い印象すら抱いているからです。国民は猛省するあまり自分たちがしてきた善い行いすらも過去の恥ずべき歴史として封じ込めてしまいます。当然、日本が与えた甚大な損害もありますが、そこにばかり焦点を当てていては、歴史的事実はねじ曲げられてしまうのです。そこで私たちも欧米先進国のいうがままにならず、自分の利益を主張することで、真実が発見でき、有用な対等関係にたてるのだと思います。
以上のように、自分たちの文化の尊厳を回復するには、物量優位の先入観を破る必要があります。先入観に囚われるということは、換言すれば、既成の価値観・欧米先進国の価値観に甘んじることになるからです。
先生はこのことと関連して、スキーマーの話をしてくださいましたが、まさに私も同様に考えます。これは東洋、西洋の差異のみならず、国同士、宗教同士、民族同士、個人同士など、様々な構成間の隔たりの溝を埋める手がかりになります。多様な価値観を許容するべき自由主義を採用すれば、当然の弊害として、異なる価値観の衝突は不可避でっす。
授業においては、このように日本文化に対する尊厳の回復の必要性を学びました。その教材として、「外国人の日本に関する質問」を使用した。この外国人の日本に対する問題提起から、私はどこが他文化と自文化との差異なのか、その境界線を明確に把握することが出来たと思います。そして、その差異から当然に物量優位の結論を帰結するものではなく、精神世界の素晴らしさを学ぶことができました。例えば、アニミズムや共食文化等もこの授業で学んだ重要な考え方です。
また先生が授業の中でおっしゃった言葉の一つにとても印象に残っているものがあります。それは「人は捨てても名は末代」という言葉です。もちろんこの理論を貫けば、自由主義・個人主義を排することになり、妥当ではありません。現代は既に看板やプライドのために命をなげうったりするような時代ではないからです。しかし、そのような前提を認識していても、私がなおこの言葉に関心を抱いたのは、現代の位置に行き過ぎた自由主義・個人主義にも疑問を感じるからです。出発点はやはり個人ですが、その狭い枠内に終始していては、人間関係も摩擦が生じるばかりで発展がありません。時には団体主義の視点を以って協力しなければ、共同体としての利益が図れないからです。また、人間は経験を以って学ぶことが非常に多くあります。過去の考えを踏襲することは、現代では「ふるい」と批判されがちですが、端から受けつけないというのはあまりにも近視眼的です。そこで温故知新を実践するに、文化や歴史を遡及させて探求することが必要なのでしょう。
私は今まで、日本の事ならそれなりに知っているつもりになっていました。しかし、その浅はかな考えはこの授業によって覆されたといえます。この授業を受けることで、今まで知らなかった日本文化の多くの良い点や学ぶべき点を知ることができたからです。そして同時に同世代の人間にも同様に日本文化のよさを伝えられるようになって欲しいと思うようになりました。そのため、この授業で学んだことはなるべき多くの人に伝えるようにしています。なぜなら先生が授業内でそうしてくれたように、やはり問題提起がなければ問題意識は芽生え得ないからです。多くの日本人に同様の問題意識を持ってもらい、そして日本の文化に誇りを持ってもらいたいと思っています。このように多くの日本人が日本の文化に誇りを持てば、「自分の立場を守」られるようになります。
文化とは、その共同体の歴史であり、同時に様々な分野においての基盤をなすものともいえます。その意味で、この授業で学んだことは単なる知識に収めるものではなりません。例えば、世界における日本がその立場を公正に評価され、諸外国と対等な関係に立つにも、やはり、「自分を守る」というこの姿勢は重要です。だから今後も、この授業で学んだ様々なことを活用していきたいと思います。一年間どうもありがとうございました。付記:本当にありがとうございました。この授業のことは一生忘れません。いつかまたお会いできたら幸いです。(男子学生)
●私は、この授業を通して、日本人であることに対して、自信と誇りを持つことができるのだということを学びました。そして、それを前提として、国際的な関係を他の国々と築いていき、直すべきところは直す、しかし、そうする必要のないところは、迎合することなく擁護していく必要があることを学びました。
もちろん、このことは保守的にあるいは国粋主義的になる必要があるという意味ではありません。ただ、これまで自国の文化があまりにもないがしろにされてきたのではないかという気がしているのです。
国際化のしゃかいという言葉が叫ばれて久しくなりますが、その中にあって、日本は独自性を失いつつあるような気がします。欧米諸国からバッシングを食らうたびに、ションボリなるか迎合するか、そういうことを戦前から一貫してずーっと繰り返してきているような気がします。
果たして、単に英語が話せれば国際人とでも称することができるのでしょうか。決してそうではないはずです。しかし、残念なことにそうであるかのような風潮が日本には存在しています。
おまけに、気づいてみれば、生活様式もすべて欧米化されてしまっていて、日本古来から続いてきた様式も、いわば伝統的なものとして形だけが残っているように思えるのです。
そこに光をあててくれたのがこの授業だったと確信しています。形骸化したかのように見える日本の文化に着目してみれば、にじみ溢れんばかりの日本人の温もりを感じ取ることができました。
なぜ、日本人はおむすびを三角形に結ぶのか。なぜ、日本人は無宗教なのか。なぜ、日本人は贈り物をする際に「つまらないものですが」というのか。一見すると非合理的な日本人の所作の中に、欧米人にはない温もりを感じ取る事ができるのです。
そして、これらの疑問に共通する答えとして、農耕民族、単一民族、村、アニミズムといったキーワードを挙げることができるのだと思います。なるほど、してみると、日本人はすぐれてアナログな国民なのだということが分かってきます。そして、近年、国際化の中でデジタルなものが取り入れられているわけですが、その際に、単にアナログな面を無視してデジタル化していくのではなく、むしろ、この相反するテーゼをアウフヘーベンすることによって、新たな物を生み出していくことが必要なのではないかということをこの授業を通して学んだわけです。
もちろん、そのためには自国の文化についての正確な知識が必要です。私は、この授業を通して、先生のように専門的とはいえませんが、せめて、今述べてきたことを全うするに必要な範囲で自国の文化について学習を続けていきたいと感じました。それが仮にも日本人として生まれてきた以上の、せめてもの責任であろうと感じています。(男子学生)
●まずわたしがこの授業を受けてよかったと思うことは、文化についての認識を新たに出来たことです。
現在情報化が進み、様々な国の文化(アメリカ文化が根強いにしても)が日本にも浸透しています。その結果、日本文化は他の文化と絡み合ったものになっています。ただ、わたしが授業の影響か、感じるのは、古より伝来する日本文化が根強く残っていたりするということです。つまり、一方では現代日本というのは他の文化に侵食されてもいるが、日本文化は慣習的には、残っており、それもまたやたら頻繁に顔を出しているということです。
そのミックスされた感のある文化が現代日本を作り出し、また、新たな文化を生み出しているのでしょう。文化のダイナミズムは歴史的に新しいものではないでしょう。その運動は過去から連綿と受け継がれて今日まで続くものです。その意味では完全に過去から断絶した文化というものは存在し得ないでしょう。
そして、現代日本の様相を見ると、やはり歴史的に見ることのできるものが多いことに驚きます。わたしたちが当たり前にこれまで見てきたものが他の国の人に不思議な目で見られたとき、はじめて説明しようとして自らの生活を司る歴史性を認識します。同じ国の人同士では、このような気付きが少ないのですから貴重な体験だと思います。
授業では、知らず知らずに引き継いでいる自らの属する国の文化を疑問にさらす視点というものを見てこられたのでとても良かったと思っています。この文化を意識して暮らすのと暮らさないのとでは大きな差があります。というのも、文化に自覚的に生活することで、「そういえば、なんでだろう?」と、これまで思ってきたささやかな謎が解き明かされるのが良い刺激となります。
要するに、他者(外国人の視点)を知ることは自ら(日本人であるところ)を知ることである、ということでしょうか。その意味で、とても学びの多い授業でした。ふつう、特に語学の授業は詰め込み的なもので自分の頭でいちいち考えることは無理です。この授業は先生のお話を聞き、考えるきっかけを与えてくださったのでありがたかったです。一年間、いろいろとお世話になりました。これからはわたしは外国人の質問にも自分なりに答えられる日本人でありたいと願います。どうもありがとうございました。(女子学生)
●私は正直この授業を取るまで、こんなスタイルの英語の授業があるとは思っていませんでした。だからとても驚いたのと同時に、大変興味を持ちました。授業で学んだもので一番大きなものは、先生が考えていらっしゃる、日本人・日本文化をよりよく理解した上で日本語を英語にしていくという姿勢です。文化の違いは1つとして価値観の違いとして表れるでしょう。同じ言葉でも、日本ではプラスイメージを持って捉えられるもの、英語ではマイナスイメージで捉えられるものがあるはずです。それを知らない、考えないで私達が英語を使ってしまえば、例えば相手のアメリカ人に大きな誤解をされてしまうのです。先生はこのことを毎時間のように口すっぱくおっしゃっていらっしゃいましたが、それはそのようなことを考えている方がいまだに少ないからでしょうね。私達が英語を学ぶ上で理由の1つとして、英語を使って外国人とコミュニケーションをとって、そこから分かる相手との違いから日本の文化を知り、伝えることがあると思います。本来英語教育はそういった目的から始まったものでしょうが、1つの科目となり、受験においても必要となり、いつのまにか変わってしまったのでしょう。英語を学ぶ本当の意味というものを、この授業が教えてくれたと思います。また様々な日本文化を学びました。
自分は東京で生まれ、育ってきました。家族は両親と姉のいわゆる核家族で、年に何度か祖父の家に行く程度。日本の文化を考えることなく今日まで育ってきました。だから恥ずかしいことに、先生がおっしゃっていること、みんなが調べてくること、自分が調べたこともほとんど初耳の連続でした。私達が日常している何気ないことが、日本人の歴史に関わっていることに驚くばかりでした。たとえば、「日本人の学生はなぜ固まって後部に座るのか?」という疑問は、合理的な説明要因がなく、古くからの日本の階層社会からきているという説明に強い説得力を感じました。ウチとソトをはっきり分けるムラ社会、山と神を崇めたり、土を大事にする農耕民族、仏教と儒教の混ざった日本の宗教観。本当に様々な日本人らしさが私達の身近に残っていることを知りました。来年以降はフランス語を主に学ぶ予定ですが、これらのことはもちろん間違いなく英語以外でも生かしていけることなので、フランス語を学ぶ時も忘ずにいきたいと思います。一年間ご指導ありがとうございました。
(男子学生)
●授業パンフレットを見て、面白そうと思い志望したこの授業でしたが、本当に為になる授業でした。英作文が苦手な僕でしたが、この1年で成長したと思います。何よりも自分で考える事を学びました。問題を自分で選び、発表する。僕はなるべく調べないで自分で考えました。普段何気なく行動している事が、外国人には理解できない事。また、それが歴史的な背景と結びついている事など、様々な事を知りました。確かに僕らは英語だけについて言えば、文章も読めるし、少しは話せるかもしれない。しかし、英語圏の文化や思想・考え方など、英語を本当の意味で、理解していたとはいえません。英語は人と人とを結ぶ道具なのであって、相手の文化などを知らなければ、本当の意味で英語を話せる事にはなりません。何よりもこの授業で僕は自分の生まれた国、日本の素晴らしさを知りました。自分の生まれた国について、知らないという事は恥ずかしい事です。日本を知った上で外国人と英語を使い、コミュニケーションする。この事を一年間言いつづけてくれた先生に感謝しています。これからも日本、そして英語に対して興味を持ち続け、世界中の人に英語を使って日本を誇れるように勉強します。一年間ありがとうございました。(男子学生)
●僕が山岸先生の授業から学んだことは大きく分けて4つあります。それらはまず第1には、頭の中でしっかりと物事を考え、それを自分の意見として発表すること、そして第2には、自分が今まで知らなかった日本文化や慣習などの知識を教えていただいたこと、さらに第3には、成果にはいろいろな文化があり(特に英語圏の文化と日本文化の比較)、それらは異なることもある。そのような状況の中で、自分達の文化について発信・発表していくという姿勢、最後に第4には、日本語と英語はそれぞれ違う文化的背景の下で培われた言語であるから、単語のイメージや意味すること、また表現が必ずしも一致しないし、大きく異なることがある。そのことを知らないで異文化の人々と接すると重大な摩擦や誤解を生むので、それを回避するために両文化についてよく学び、互いの違いを知り、とくに英語を使ってコミュニケーションをするときには、それらを意識したコミュニケーションを行うようにするということです。特に僕が重要と思ったのは1番目と4番目です。英語で(日本語を含めて)発表する前に、まず自分の頭の中で考え整理し理解できていなければ、良い発表・発信ができないという御指摘は、考えることの重要性を教えていただきました。分からないこと複雑なことについてよく考え、具体化していくというのはとても難しいことであり、また時間のかかることだと思います。具体化するためには、様々な調査が必要ですし、その物事を理解することが必要です。発表・発信がうまく行えるようになるためにこれからも努力していきたいと思います。第4番目の御指摘が興味深かったことは、英語圏と日本語圏ではある単語や概念に対して連想するイメージが違うということです。たとえば、日本で「恥ずかしがり屋の性格です。」という分には特に問題はなく、逆にかわしい、微笑ましいといった印象を与えます。ところが、英語圏で
“I'm shy.”と言うと “shy”と言う単語自体にネガティブな一面があり、さらに恥ずかしがるという行動自体も消極的と受け取られマイナスイメージになるというものです。このような文化の違いを挙げた数多くの事例は、とても興味深く、文化の違いを意識したコミュニケーションの重要性を教えていただきました。
今まで挙げてきた4つの点をまとめてみると山岸先生の授業というのは、英語表現においてテクニック的なものではなく、文化的側面、中身を重視した表現を教えていただいた授業だと思いました。(男子学生)
●僕は正直にいって、春、この授業を初めて受けた時びっくりしました。率直な感想はというと、「この授業、英語じゃなくて日本文化だな。」でした。しかし、一年間この講義を受けていて、本当にいろいろなことを学んだと思います。いろいろな一般教養を学びましたが、一番大切なのは「文化の違いを考えること」を学んだことです。
僕はそれまでは「外国人とコミュニケーションをとるためには、まず彼らの言葉が聞き取れて、そして自分の考えを話すことがすべてであると思っていました。それゆえ単語や熟語を覚え、また英語を聴くことが英語を学習することだと信じて疑いませんでした。確かに単語を知らなければ自分の考えを伝えることはできませんし、相手の話すことばを聞き取ることができないなら相手の言いたいことを理解することもできません。しかし本当の意味で外国人とコミュニケーションをとるには互いの文化の違いを認識する必要があることを学びました。
考えてみれば当たり前ですが、我々日本人と、欧米人では明らかに持っている物差しが違うのです。そのことを会話をするにあたっては認識する必要があります。自分達にとって当たり前のことでも彼らにとって不思議なことはたくさnあるのです。逆に彼らにとって当たり前でも我々が理解しがたいことも多いのでしょう。
よって、外国人とのコミュニケーションをとるには我々と彼らの持っている物差しの違いつまり文化の違いを理解しなければならないのです。それを僕に気付かせて下さったのが山岸先生でした。
それは外国人と話し、コミュニケーションをとる時だけに大切になるのではなく、日常生活においても同じであると僕は近頃思うようになりました。身近な例をあげるなら、親と会話をするときです。両親と僕とでは30〜35離れており、考え方が違うのは当然です。お互いがわかりあうには、僕らは親の世代を理解し、親は僕らの世代を理解しなければならないのです。親子でコミュニケーションがとれない家庭というのはそれができないのでしょう。そういったことがわかるようになった自分は人間的に成長できたと思います。
文頭において勝手かつ失礼なことを申し上げて本当に申し訳ありませんでした。しかし今年山岸先生の授業をとって本当によかったと思っていますし、僕と同じように思っている学生も少なくないでしょう。一年間、本当にお世話になりました。来年以降も頑張ってください。(男子学生)
●私は以前から、日本の文化や習慣が人々の記憶から失われつつあることに危惧感を抱いていました。また、日本的な風俗、習慣が恥ずかしいもの、時代に合わないものとして切り捨てられていくことを悲しく思っていました。しかし、だからといってそれを正当化する、ましてやそれらのよい点を他人に論ずるなどという術を知りませんでした。やはり西欧の、白人の文化を尊重する最近の日本の風潮に影響されたのかもしれません。
山岸勝榮先生の授業は、「英語」という日本文化とはかけ離れた講義単位でありながら、英語を通じて日本のすばらしい面を発見するという比較文化論のような授業であり、大変興味深い内容でした。これまで私が感じていた「悪い、古いものではないのではないか、なにか説得的な説明ができるのではないか」というわだかまりが、授業をきいているうちひとつひとつ解決されていくので、とても爽快でした。
先生の授業のうち、最も印象に残っている話は「アニミズム」に関するものです。過去の日本人の、想像力の豊かさ、思想の奥深さに感銘を受けました。このような貴重な文化を失おうとしていることに、我々は気づきすらしていないのが今の日本の現状でしょう。惜しいことです。白人至上主義(というのは言い過ぎかもしれませんが)、英語万能主義がまかり通っている世の中に疑問を感じる必要があると思います。先生の授業の内容で扱ったような、日本の文化を
Defensive に説明することができるひとが一人でも多く世に出ることを期待しています。(当然自分もその一員になるつもりです。)(男子学生)
●まず、この授業を受ける前に思ったことは、教科書が、辞書である和英辞典であったことから、どんな授業をするのだろうか非常に不思議だったことです。そして、英作文の授業だから過去のことを考えてみて、難しい英作文の問題を出されて、細かい文法を注意されるのかと思っていました。
そして、初めての授業に配られたプリント「外国人の疑問あれこれ」を見て、日本人のぼくたちは当然、当たり前のことだと思っていることに関する疑問だが、自分の意見や知識、また調べた知識をもって英語で答えるのは、はっきり言って難しいなと思いました。自分で問題を解いてみると、難しいのは数々のこの当たり前だと思っていることに対して、答えを日本語で考えることだったのです。つまり、やる前、英語に訳すのが厄介だと思っていましたが、自分で考えたり、調べたりした事に対して、自分の意見もふまえ、まず日本語にするということが最も難解なことでした。この事により、考えると言う事と、自分の感じたことがないような日本における風習や習慣について多くのことを多く学べました。 そして、先生がおっしゃった言葉で最も印象に残っているのは、「日本人の学生が英語を話せないのは、文法とかそういう前に、自分の意見や考えが用意されていないからである。」と言う感じでおっしゃっていたことである。そういわれて見ると、宗教や日本の風習や習慣、また政治のことであっても、何があり、何が起こっているというような情報というものは多く頭に入っているが、それに対しての意見や考えと言うものは全く持っていませんでした。そうして、この授業を受けているうちに、先生のされる話や、クラスのみんなの発表や、自分も調べたり、考えたりして発表していくうちに、多くの自分の考えや意見を持つようになれた気がします。そして、こういう文化や習慣について知ることによって、日本の文化というものが、決して、外国の人々に文句を言われたり非難されたりすることはないすばらしいものであるという自信を持った気がします。(男子学生)
●あるテレビ局で「ここが変だよ日本人」という番組を放送している。日本の日常生活から社会現象まで、あらゆる事に関して外国人が疑問を投げかけ、それに関して、外国人と日本人が討論をする番組である。自分自身この番組を見ながら、時には感情的になってしまう事もあり、日本と外国の文化の隔たりの大きさに憤りさえ感じてしまうこともあった。しかし、冷静になって考えてみれば、日本人として当たり前の事が外国には受け入れられないということも当然であり、それをいかにして外国人を説得し、また、外国人の考えを尊重するか、このことは、21世紀の情報化社会、国際化社会に生きていく私たちにとって、重要な課題である。そのことを深く意識させてくれたのが、まさに山岸先生の授業であった。
先生の授業は言ってみれば、英語の授業というよりもむしろ、日本人の立場として、普段当たり前のように生活している日本の文化を考え直すための授業であったと思う。多くの外国人から発せられる日本人の日常生活、社会事象に関する疑問を冷静に分析するものである。様々な問題を考えていく中で、中には、「これは明らかに日本人が間違っている」と受け取る事のできるものもあった。外国人がこういった疑問を発するのも、当然だと思えたものもあった。今までの自分であれば、ただ感情的になってしまってそれで終わりだった。しかし、この授業を一年間受けていくうちに「なぜおかしいのか」、「外国人はどのような立場、背景をもってこのような疑問をなげかけるのか」、「日本人の立場として何とか説得できないだろうか」などと考えられるようになった。まだまだ、外国人とこのような事に関して討論していく事などとうていできないだろうが、この授業が日本人としてこういった当たり前のことを考える契機となったことは自分にとって大きな事であったと思う。
高校までの(大学の一部の授業でも行われていると思うが…)英語の授業とは一線を画したこの授業。これから、社会に出て様々な国の様々な考えを持った人々と接していくうえで、わたしにとって大きな経験となったことは間違いないと思う。(男子学生)
●今回この授業から学んだことは二つある。先ず一つ目は、英語教育においては、肝心の「英語」を学ぶことは大切だが、それと同じくらい、相手の文化を理解しなければならない、ということである。私は英人にもてなされたことがあるが、その時このことの必要性を強く感じた。どんなに英語が堪能でも、話すことがなければ意味はない。二つ目は、他文化を理解することは自らの文化を理解することにつながるということである。外国人の視点に立つことで、普段何気なく考えていることを遠く見ることができ、自らの文化の基礎をきちんと認識できるのである。
そして、これらは英語を学ぶ目的になるはずである。しかし、今までの英語教育では、この二つを認識したことはなかったし、今回の授業の内容などは豆知識程度の扱いしかされてこなかった。これらは英語を学ぶ意味そのものだと思うが、なぜこれがおざなりにされたのか今は不思議である。(女子学生)
●「日本に対して defensive な答え方をしなさい。」、これは、先生が授業中に私達に何度もおっしゃったことです。先生の授業を1年間通して受け、学んだというのは、この言葉に要約されるのではないでしょうか。
日本人は、反日本的な考え方を持っている人が多いというのは、私も前々から感じていました。自分も日本人でありながら、「日本人はそういう性質を持っているのだからしょうがない。」、「欧米人の様にこういう風にしなければいけないのだけれども日本人にはそれができない。」、「私もそうしたほうがいいと思うのだけれど、一般的な日本人はそれができない。」、などと日本は不甲斐無い国だと半分あきらめているような発言をする人が多いのです。
それに対して先生が教えてくださったのは、日本人の行動、考え方に対して、肯定的に捉えよう、ということでした。日本人でありながら知らなかった日本のことを、自分で調べたり、クラスメートの発表を聞いたり、先生の言葉を聞いたりして、何事にも歴史の中から答えが出てくるのだということが分かり、改めて日本が歴史の深い国だということを認識し、私達が普段何気なく取っている行動も何らかの昔の習慣に由来していることが分かりました。このようなことを認識できるということは、より日本を知ることができるし、それによって自分達の慣習や伝統と言われているいるものや、さらには普段私達がとる行動なども、理由が分かって納得できるし、分かるということは、日本を愛することの第一歩だと思います。おそらく日本人は他の国に比べて、自分の国のことを知らなさすぎると思います。しかし、これに関しても、日本は第二次大戦に負け、それまでのアイデンティティーを壊され、日本国自体を真っ向から否定されたからに違いありません。日本が悪いから、間違っているから負けたのだと徹底的に言われつづけたら、誰だって日本が嫌いになるでしょう。私は戦争にだって理由があったと思うし、あの時代、どの国も同じようなことをしていたと思っています。けれどもたとえそうでなかったとしても、そのことを理由に現代を生きる私達までもが日本を否定する必要はありません。私達が日本を愛して、守っていかなければ、いつまでたっても日本の国際的評価は上がらないと思います。なぜなら、自国の人さえも好きでない国を他の国の人が好きになるはずがないからです。だから、もっと多くの人に日本を好きになってもらいたいし、いい国だと思って欲しいです。
先生の授業をとおして、私は日本について知らなかった色んなことを学べました。でも何より大事なことは、このような日本をもっと好きになろうという気持ちにさせられたことだと思います。私と同じようにクラスメートのみんなもこう感じてくれていたらいいと思います。そして、今後こういった人達が増えていけば、きっとみんな日本が好きになると思います。(女子学生)
●私は、4月に履修要綱を開いてこの授業の覧を見たとき「これだ!」と、思いました。履修要綱には日本文化に対する理解を深めることが目的とされており、それが私のニーズにぴったりと合いました。
私は、大学に入ってから、春、夏と長期の休みにはそれまで貯めたバイト代をはたいて、バックパックを背負って旅行に出ます。アジアの混沌とした雰囲気もさることながら、ヨーロッパにいくとありとあらゆる国の人と出会います。そうすると、やはり、ユースホステルなどで夜を徹して、みんなでいろんなことを話します。宗教について、政治について、文化について…。ありとあらゆる話題の中でそこで出会った様々な友達は私に日本について様々な質問を投げかけます。
そんなときに、自分自身が日本文化に対してほとんど通じていないことに気がつき、愕然としました。今年一年、山岸先生のこの授業を受ける事が出来て本当に一つ一つ聞き漏らすまいと大事に授業を受けてきました。一つ一つの質問がかつて私が質問されたことがあるものであったり、そうでなくてもそれに通じるものがあったりと発見の連続でした。
しかし何よりも得がたいものは、この授業を通じて自分なりの日本人としての在り方というものがほんの少し見えてきたような気がする事です。今までは旅行中に日本についていろいろと質問される事がうれしい反面、どこか「これでいいのだろうか」と後ろめたいような気持ちになるばかりでしたが、これからは、胸をはって答えられる質問が少し、増えたのではないかと思います。この授業が終わっても、自分なりに日本の文化と言うものに敏感でありたいと思います。そして、いつかは先生のようになりたいと思います。一年間素晴らしい授業をどうもありがとうございました。これからも先生の教え子だと胸をはっていえるようなそんな日本人になりたいと思います。(女子学生)
●この授業を受けさせていただき、今までの英語がいい意味で根底から覆された。今まで正しいと思い込んでいたことが、そうでないと判明したいと、毎週何らかの発見があり、非常に新鮮であった。
まず、単語に関してである。今までいかに自分が無思慮に単語を使っていたか、がよくわかった。日本語訳には表れないが、きちんとニュアンスが違う単語を、私は今まで全部ごちゃ混ぜにして使っていた。難しく高度な文法、熟語を覚えるより、こちらのほうがずっと大切であると思う。
次に自分自身のことである。自分でも気付かず、当たり前だと思っていたことが、実は他の国のひとにとってはぜんぜん当たり前ではなく、不思議であったりすることがあるということである。たとえば、「誠実」の捉え方であったり、「はっきりとものを言うこと」に対する感覚である。こういった感覚のずれが誤解を生み出し、溝ができてしまう原因であると思う。そうであるから、英語を学ぶのであれば英語を母国語とする人たちとの感覚のずれ、彼らの文化など、特にキリスト教が英語圏の人々に与えている影響を知る必要があると痛感した。また、それと同時に、自国のこともきっちり説明できるように知っておく必要があるであろう。だから、無意識のうちに受けつがれていること、ひそかに自分自身に深く根付いていることを認識し直すことが大切であるし、自らの
identity のためには不可欠であろう。また、そうすることで、自分に、あるいは日本に自信が持てるのではないであろうか。他国の人から、「日本人は不可解だ」と言われがちであるが、そう言われた時、日本人自身がわからず説明できないために一種の自信の喪失に陥ってしまう。少なくとも私はそうであったが、この授業により考える機会を与えられ、1年間先生の授業を受けさせていただき、少しは説明できるようにはなったと思う。
最後に、1年間この授業を通して、1番記憶にのこっていることは、先生がおっしゃられた「常に
defensiveに」というお言葉である。私は今まで、日本人批判をされるとつい否定的に答えるあるいは考えてしまうことをしていたのであるが、先生の授業により、defensiveであることの大切さを学ぶことが出来た。(女子学生)
●この授業を取ろうと思った理由は「まず日本のことをきちんと説明できるか」という考え方に惹かれたからです。それ以前に韓国人の友人ができたりしたこともあり、外国の人と付き合っていく上で何かの役に立つだろうと思ったのです。しかしこの授業ではそれ以上のことを学べたような気がします。実際に外国人からのつっこんだ質問を目の当たりにして、最初のうちはどう答えてよいのか戸惑うばかりでした。私達が当たり前だと思っていることを、それが当たり前と思わない人々に説明するというのはとても難しいことだと痛感し、そしていかに私たちが「日本人」としてのバックボーンをもって生きているかということに気が付きました。
これから生きていく上で外国人の方々と関わることは多くあると思います。自分のバックボーンと違う背景を持って生きている人に自分たちを説明する時、私たちは注意しければならないことがあるということを学びました。まず私たち自身が自分たちの行動を見直し、どんな背景があってこのような行動をとるのか、理解し、分析することが大切であることがわかりました。そしてそれを理解すると、外国人から見た変な行動や批判的に取られるような自分たちの行動もきちんと説明することができるようになります。自分たちの行動の原点を理解せずにただ批判を漫然と受け取ったり反論すべき時でもできなかったりするうちはきちんとした相互理解へのコミュニケーションは成り立っていかないと思いました。なぜなら説明できなかったならば外国人は日本人に対して疑問を持ったまま、日本人は理解できない、あるいは変な人々、と見られたままの状態にあるからです。
グローバルな世界では相互の文化の尊重というものがとても大切になってきます。そのなかで、相手が私たちの文化を理解しようとしてくれても、私たちが自分たちの文化を理解せず、説明もできずその上批判ばかりしていたら、成り立つ相互の尊重も成り立たなくなってしまいます。そして私たちが自分たちの文化を理解し、誇りを持って、相手にも理解して欲しいと思う時、同時にそのことによって相手の「自分の文化を理解して欲しい」という気持ちや相手の文化に対する誇りも理解することができると思います。そのことは、より深い相互理解に結びつくのではないでしょうか。英語など違うバックボーンを持つ言語を使いこなすのはとても難しいことだと実感しましたが、この授業で学んだことに注意すれば相互理解の手段として大きな役割を果たしてくれる大切なツールなので、上手く使ってきちんとコミュニケーションを取れるようになりたいと思いました。(女子学生)
●私は今まで、英語の和訳というのは、ただ辞書に載っている単語を文法的に当てはめていさえすればよいと思っていました。そ一方で、辞書に載っているいくつかの単語の中からどれを選んだらよいか迷うこともしばしばでした。
しかし、この授業を受けて初めて、日本と外国とでは文化が全く異なるため、英単語を文字通りに当てはめていたのでは、同じ日本人には意味が通じても、外国人には全然通じないのだということを思い知らされました。考えてみればその通りで、英語を使うからには外国人に通じなければ意味がなく、そして文化の全く違う外国人に意味が通じるようにするには、日本独特の文化であるということの説明を入れなければならないのです。私たちは普段、同じ日本人という民族としか接しておらず、言わなくても分かり合える部分が多いため、いちいち言葉の意味を説明することに慣れていません。そのせいか従来の辞書もそのようなことを説明してあるものはありませんでした。しかし、先生の辞書を引けば、どの意味を選んだらよいのか迷うことはありませんでした。
英語を学ぶ上で大切なことは、いかに相手に自分の言いたい事を正確に伝えられるかだと思います。その証拠に、私が外国で1ケ月半ほどホームステイをしていた時、英語の文法などわからなくても、適切な単語さえ並べていれば言いたい事は伝わりました。この授業は、私が忘れかけていたことを思い出させてくれただけでなく、その「伝える」ためのツールを与えてくれたことと思います。
更に、私がこの授業で得た一番大きなものは、今まで日本人であるにもかかわらず全くと言っていほど知らなかった自国の文化や歴史について知る事ができたことです。外国人に質問された時、自分の国の事なのに知らなかったら、日本人としてとても恥ずかしいと思います。これからもどんどん国際化していく社会の中で、自分は日本人であると胸を張っていえるように、外国のものばかりを良しとするだけでなく、自国の良いところにも目を向けていけるようになれたらと思っています。(女子学生)
●この授業から学んだことは、細かなものも挙げれば数え切れないほど沢山あると思いますが、印象に残っているのは、私達が当然と思っている(日本人としての)文化・習慣が外国の人からすると決して当然ではなく、その原点からさかのぼって説明していかなければならないこと。これは、日本人である筈の私にとっても難解で骨が折れました。そして、宗教による大きな違いです。この授業で、私は毎回、いかに自分が自国の文化・歴史・宗教を分かっていないか痛感させられました。それとともに、自国の文化のみならず他国の文化を知らなければ、比較したり論点を挙げることすらできないことも今更ながら思い知りました。
私が一年間のこの授業を通じて感じたのは、もっと宗教を理解したいということです。高校時代は、自分は無神論者だ、宗教などばかげていると思っていました。そして、大学に入り、一年間、政治学科で学んでみて、政治や文化はその時代の思想から生まれ、それは宗教と密接にかかわっているのだと感じました。私が興味を持っているヨーロッパの文化・芸術の中には、キリスト教の概念から生まれたものも、またそれと密接にかかわっているものも沢山あります。
この授業で、宗教が人々に与える影響を再び実感しました。来年、もっと授業数が減って楽になったら、様々な宗教の概念を勉強し、理解していきたいと思います。それが、他国の人々を理解していくことにつながると思うからです。自国の文化を知り、誇りをもって他国の人に教えられるようでなければならない、そのことは、前期で強く感じましたが、後期では他国のことをもっと知りたいと思うようになりました。ただ、そこでわたしがひっかかってくるのが、授業で取り上げた「外国人の疑問」のほとんどが欧米からのものであり、欧米との対比ですんでしまったことです。先進国的な概念からすれば、欧米が身近でかつ実践的・対比的なのかもしれませんが。図書館で、外国人からの日本人に対する日常的な質問をいくつか集めた物を見つけました。その中に、“なぜ日本人は電車の中で眠るのか”というのがあり、確かタイの人は、こう言っていました。「時間の有効活用というのなら、私達は睡眠・読書より、周りにいる人たちとおしゃべりを楽しむのに」。 漠然と“外国人”からの疑問というなら、私はこういう対比の仕方もあるのではないかと思います。(女子学生)
●交通手段や通信手段が発達し、世界が小さくなったと言われる今、他文化理解や多言語の習得は社会の中で生きていくうえで重要視されるようになってきている。しかし、それが「他文化理解」という言葉の表面だけでは決して伺い知ることのできない難しさ、奥の深さを持っているという事実を実感できたのが、私にとってのこの授業の一番大きな収穫だと思う。
どんなに英語を流暢に話せても、文法や単語の知識が豊富にあったとしても、相手の文化を知ることは出来ない。もちろん言語の習得は大切だが、それは始まりに過ぎない。言語はあくまでも表現するための記号であり、それがわかるだけではその土地に満ちている空気の感触まで理解することは出来ないのだ。その空気を吸って育った人のものの考え方は、別の空気を吸って生きてきた人がすんなり受け入れられる種類のものとは限らない。別の社会の文化を理解しようとすることは、そこで生きてきた個人を理解することにつながる。国際化が叫ばれる今の世の中で人間関係を構築する上で、まさに必要とされるべき姿勢なのではないだろうか。
またそこには、お互いを理解するのでも決めつけるのでもなく、理解しよう、してもらおう、というスターとラインに立ち、努力することが大切なのだ。相手に理解してもらうためには、自分が吸い続けてあたりまえだと思っていた空気をまず見つめ直し、自分が先に理解している必要がある。(女子学生)
●この授業から学んだこととして、第一に自国の文化を守る姿勢、defensive
attitudeを挙げたい。文化は国の人々の生活が、何十年、何百年と積もり重なって形成されてゆくものであろう。従って、文化とはその国の人々の生き方と言えよう。21世紀は国際化の時代であり、世界中の人々との交流の機会が増えていくだろう。あらゆる人種の人々と接することは、他者の文化に触れるということになる。自国の文化を守る姿勢は不可欠になってこよう。さらに、相手に説明する能力も必要になる。この授業が後々生きてくると考える。また、日本文化を守る姿勢により、他の文化を持つ人々をより良く理解できよう。自国の文化を深く理解することにより、他の文化の人々とより密接なコミュニケーションが取れる。お互い、より深く自国の文化を理解しているならば、密度の濃い議論ができる。相互理解も深まろう。国際化が進み、他の文化との共存がテーマとなってくる21世紀において、相互理解は重要である。繰り返すが、時代を考えてみても、defensive
attitudeは大切なものとなろう。
第二に、相手に説明する能力、発信能力の重要性を挙げたい。自分の考えを他人に正しく伝えることは重要であろう。自分の考えを相手に理解してもらえないならば、良いコミュニケーションが取れない。他人との信頼関係も築けない。社会で生きていく上で、他人との信頼関係はなくてはならないものである。自分の考えを発信できないと、相手に誤解を生む。やはり、発信能力を向上させることが大事なのだ。私はこれまで、発信型の教育を受ける機会が少なかった。発信能力を鍛えていくべきだと考えている。だから、この授業の発表は、自分にとって有意義なものであった。今後は、発信能力がより大切になっていくのではないか。21世紀は情報化が進む。コミュニケーションの手段もインターネットやメールの普及で格段に増すこととなろう。受け身の姿勢では情報化社会の中で取り残されていってしまう。自分の考えを相手に正しく伝えるということは、案外、難しいものである。より多くの人々と、より良いコミュニケーションを図るために、発信能力を向上させていきたい。このようなことを授業を通して学んだ。
●この授業の初回に先生は、「君達の英語の既成概念を根本から壊します」みたいなことをおしゃってました。この瞬間、正直、「この授業、ヤバイんじゃない?」と思いました。今振り返ってみると、僕としては「壊された」というよりも、「別の角度から英語に光が当てられた」というイメージです。
僕はいわゆる“受験英語”で慶應に入ってきた部類です。英語も相当な自信科目でした。しかしそれは「読む」ことだけであって、「書く」「聞く」「話す」には自信がありません。ただここでいわゆる受験英語に対する批判に僕は批判したいです。なぜなら、「読める」ということは、とても大切であるということです。「しゃべれない日本人」だからといって、駅前留学NOVAとかいっても応急措置すらなってないと思います。この授業でもとりあげられていますが、なぜ日本人が「話す」ことが苦手なのかといったら、それはやはり話す機会、もっと言うと話す必要がないからなのです。英語を本当に話す必要性が生じたら誰であろうと話せるようになると私は思うのです。そしてその時、受験英語と言われる物をしっかりこないしている人間の方が駅前留学をして「話せるつもり」になっている人間より絶対に上達が早いと私は思います。しかし、いわゆるあたりさわりのない会話ができる人間より、自分の専門とする領域の文献を読みこなし(私の場合法律ですが)、かたことの会話ができる方が私は有益だと思います。そうでなくとも世界で活躍しようとする人間は、読み、そして話せるようになるでしょう。
少し脱線してしまいましたが、この授業の話に話題を戻します。私は大学の授業というものに全く期待していませんでした。それは大学の講師がどうこうだという以前に、私は勉強というものは自分でするものだと思っていたからです。ですから当然のごとく、語学以外の授業にはほとんど出席していません。その是非は別として、私はこの授業だけは90分たいくつすることなくすごせました。あえていうならば、僕は学生の発表より先生の話がもっと沢山聞きたかったです。先生は日本を
“Defensive” にとおっしゃいました。僕はその考え方に大変感銘しました。以前から思っていたのですが、確かに日本には無数の欠点があります。外圧がないと動きにくい国でもあります。しかし僕は日本人でよかったと思うのです。日本人は外国にないすばらしいものをもっています。逆に外国には沢山の欠点があると思います。僕はよく思うのですが、山岸先生は外国人に相当沢山の不満を持っていると思います。英語界の第一線で活躍する人だけにそのようなことが目に付く機会が多いと思うのです。僕が授業中に思ったことの1つは、日本人への疑問ではなく、外国人への疑問を扱いたいと思ったことです。たとえば、Q
「なぜ、外国人はすぐに暴動をおこすのですか。例えばバスケットボールのシカゴブルズが優勝した時、待機していた警官が対処できないほどの暴動がおきるのでしょうか?」
もっと腹立たしかったのは、外国人の疑問32で、「日本人はなぜ清潔にするのに…」というものがありますが、この疑問自体が疑問です。まあ、個人の感覚が違うといってしまえばおしまいですが、私は外国人にこの質問をそっくり返したいと思います。一番印象的なのは、大リーグの選手達がツバを吐きまくることです。これは幼いころから見ていたのでとても印象深いです。又、最近、大リーグの選手達がひまわりのたねをベンチに吐きまくっているのも見ました。考えられません。まるでそうじさせていない鳥カゴみたいです。僕はむしろ外国人が雑であると思います。また、自己主張が強いことはいいことなのかもしれませんが、ちょっと強すぎるのではないでしょうか? (最近は個人主義のいきすぎを反省する風潮もアメリカで強いそうですが…) 一言でいってしまえば、何故、相手の気持ちをもう少しでもかんがえられないのでしょうか? 極論すると、何故、そんなに人間性がないのでしょうか? まるで子供のようにすら思います。(まあ、僕も極端なんですが…)
又、脱線しますが、僕が英語を勉強したてのころ、外交官になりたいと、少し思いました。漠然とは外国へのあこがれ等もあったと思いますが、最近はほとんど興味を感じなくなりました。それは何故かというと、言葉が通じる日本人同士でさえ分かり合えないことが多いのに、まして言葉、文化、何もかもが違う、外国人とは到底うまくやっていけないような気がしたからです。僕は世界ではなく日本を相手に生きようと思ったわけです。このように言うと自分が大変小さな人間と思われてしまいますが、
それでも構いません。僕はありがちですが、弁護士になって困っている人間を助けたいと思っています。確かにそれは国際弁護士という職業でも実現できます。しかし、私は自分の適正を考えてこちらの道を選んだつもりです。世界で活躍できる人間は他に沢山いると思います。自分の究極の目的の実現可能性、達成感などを総合衡量して、自分は日本を相手に生きようと思っているわけです。
誤解されては困りますが、自分は英語が不要だといっているわけではありません。ただ、自分が世界を相手にしようとしている人間ならこの授業をさらに興味深く聞けただろうなと思うと少し残念なのです。ただ、「日本を知る」ということができて非常に良かったと思います。これは今までのフォローでも何でもありません。何回か休んでしまいましたが、この授業は本当に毎回楽しみでした。友人にも、「大学で唯一価値ある授業」っていったこともあります。それくらい知的好奇心を刺激される授業です。外国人の疑問の中でも、私達が通常全く意識をしないようなことを聞かれると、「ハアー」と思うものです。お互いの文化の差が違う限り、真の意味での相互理解は得られないと思います。しかし、相互に文化を知り合い、それを許容できるようになると素晴らしいなあと思います。そうすれば平和な世界が訪れるかなあと思います。
この授業をよりよく改良するとすれば、先ほども述べましたが、もう少し講義形式にしてほしいということです。つまり、疑問の表をもう少し整理して(たとえば、疑問28,29、60を1つにして)、先生の話を中心として授業をしたらどうかなあと思います。もちろん学生たちが考えや意見を述べることも必要なのですが、僕は先生の話を聞いている時が一番充実しているように感じました。(まあ、コレは本当に個人的な意見です。)(男子学生)
●山岸先生の授業で多くの事を学ぶことが出来たと思っている。日本人であることに誇りを持つこと。世界では日本人が誤解されることが多いが、それらは我々の意思表示が不完全なために起こる、ちょっとした擦れ違いが多い。もちろんそれが起こるのは英語力の欠如もあるが、それ以上に、理解してもらおうと努力していないという点が問題であると感じた。それに加えて、教育、受験、辞書の問題なども挙げられる。
しかし一番この授業で学んだ点は、どのようにして他人、それも外国人に自分の意思を伝えようかと考えていく過程で、もっと相手のことを理解しなくては本当の意味でのコミュニケーションは取れないということでした。また、先生の英語に対する情熱、日本人を誇りに思っている姿勢に感動しました。先生みたいな熱い教育者の授業を受けられて、良かったと今さらながら思っています。(男子学生)
●講義要綱で概要を見た時点で興味をひかれるものがありました。最初の頃は、今までの英語の授業とは全く異なる授業内容、授業スタイルに戸惑いも感じましたが、だんだん慣れていくうちに楽しみになるようになりました。今までの授業のような英語を
「勉強している」 というような感覚はありませんでした。その代わりに、授業が終わる毎に充実感と日本人としての義務感のようなものがわいてきました。今まで気にもとめなかったようなことが、いざ疑問として目の前に並べられて、全て自国に関することばかりなのにどれにもはっきりと答えを述べるはできませんでした。そんな自分を日本人として恥ずかしいく、また情けなくも感じました。この授業が、英語だけに限らず、様々なことを勉強したい、知りたいと思うきっかけの一つになったと思っています。知識を増やすことができ、またそれを知恵に変える努力の必要性を感じとることもできました。今後必要になるであろうプレゼンテーションの養成とその必要性を感じることができました。さらに授業で感じることができたのは、日本、日本人の素晴らしさです。日本人はやさしい民族だといわれますが、その本当の意味と由来が分かった気がします。これからは日本人としての自覚と誇りを持ち、その根源となるものにも磨きをかけたいと思います。また、グローバル化時代に向けて、先生のなさっている和英辞典作成作業は、それの成功によって事の根底をひっくり返すほど日本にとって重要な事であると思います。せっかく素晴らしい日本文化、日本人の意思や考えも正確に伝えられなければ世界から真の理解と信用は得られないからです。
この講義を一年受講し終わって、素直に良かったと思えました。辞書作成、教授のお仕事、ともにお体に気をつけて頑張ってください。素晴らしい辞書が出来る事を期待しています。一年間ありがとうございました。(男子学生)
●この授業で学んだことは、英語やその他の言語を学ぶ際重要なことはその言語の単語や文法を多く覚えることではなく
「伝える力」 を持つことであ り、そしてその 「伝える力」 を持つためには二つの重要な点があるということである。
1つ目は自分で英文を書いたり自分で英語をしゃべる時には、どうしても日本語として自分の頭の中で構築された言葉を英語に訳して出力するのであるが、その日本語と英語の変換は決して容易に行えるものではないということである。さらにそれはより単純で日常生活でよく用いる言葉、表現ほど当てはまるのである。それはこの授業で私の知らない単語が例に出されたことがなかったということからもわかる。(神=
Godでないなど) つまり、そういった言葉ほど日常生活に深く根ざしたこと、言い換えればその言語の属する文化思想という背景の中ではじめて意味が定義されるものであるからである。したがって私の頭の中で「神」を思い浮かべそれをGodという言葉で表し、それが欧米人の頭に入って理解される時、それは神とはまった異なるものになるわけで、その言葉は「伝える力」を何ももっていないのである。そのことを理解して英語の単語の意味や使い方を学ぶことが「伝える力」を持つ上で必要不可欠な要素である。
そしてこの授業で学んだ「伝える力」を持つために重要なもう1つの要素は、上で述べたように、言語と言うものがその文化背景を背負ったものであるなら、何よりも私達は日本文化についてより深く知っておく必要があるということである。近年国際化という言葉をよく耳にするが、それは英語をしゃべれるということや、欧米の習慣を取り入れるということではなく、international
の inter- (相互)にあるように日本文化と外国の文化が対等にその人々によって相互に理解し合うことである。そのために私たちは自分自身の文化を理解し、国際化の中だからこそ誇りを持って尊重するべきである。
この2点は私がこの授業で外国人の疑問に答えることの難しさによって気付かされたことである。そしてこれらのことは英語やその他の言語を学び、また外国人と付き合っていく上で常にその基礎に存在する「もっとも重要なことであると私は思う。(男子学生)
●この授業は英語の文法であったり読解法を事細かに勉強するわけではなかった。しかし、自分の伝えたいことを英語で話す機会があっても、これまでの勉強法では英語を母国語にするような人にはそれが伝わらないことがある上、時と場合によってはそれが自分にとって不利益になってしまうことがあることがわかりました。それは生きた英語を知らないために不自然な英語になってしまっていることだったり、日本と英語圏の文化の違いによるものだったりしますが、僕が毎時間楽しく勉強出来たのが後者の部分でした。日本・英語圏の文化の事を余りよく知らずに「日本は欧米に比べて考え方がだめだ。」などと考え「アメリカやイギリスのまねをするべきだ。」といったような、今思えば大きな間違いともいえる先入観が心のどこかにずっとあったことに気付きました。この授業で僕がまず日本に関してもっとよく知ろうとした結果、次第に日本が好きになっていき、日本に関してディフェンシブでいようという考えに変わってゆきました。日本人なら当たり前過ぎるほど当たり前で、考えもしなかった文化が一歩日本のソトに出るとさまざまな疑問の目で見られる。その当たり前の文化をいざ日本人である僕が答えようとしても、意外に分からないものでした。またなぜ海外の人がそれらの疑問をもつのかもその人が所属している文化圏を知らないとわからないので言葉足らずになってしまったりもしました。
この授業でおこなったようにな日本の文化を他の文化の人に説明するということは、国際化・グローバル化が騒がれる今にこそ、自分達の主義主張を正確に他の文化圏の人に伝えるために必要なことであるという大きな課題を学ぶことが出来た気がします。(男子学生)
●山岸先生の授業を一年間受けてきてまず感じたことは、日本人として生きている中で普段何ら疑問とは思わない現象について、外国人からの視点でその現象をみていくことだったので、今までに無く新鮮だったということでした。僕は10年ほど前に4年間アメリカに住んでいたことがあったので、外国人の考え方に共感できる部分も多少あり、疑問を考えるにあたって少しは外国の生活が役に立ちました。そして、その疑問を考えていきながら日本人という民族も一年前より理解できました。良く授業中に先生が外国人ならこうするなどといった事柄をおっしゃっていたとき、昔のことを思い出しながらうなずく場面が多く、日本人と欧米人の考え方についてあらためて考えさせられました。これから英語の授業はありませんが、英語とは一生付き合っていきたいので、昔の経験を生かして、日本人という事に自覚を持ち、外国人のことも視野にいれつつ、今後英語と付き合っていければなあと思います。(男子学生)
●先生が授業でおっしゃったことのうち、強く印象に残ったのが、「自国のよく知らない国際人などありえない」
という言葉である。私はこの授業を通じて、日本文化について多くのことを学んだつもりである。例えば、農耕文化の影響が現代においてもなおいたるところに色濃く残っていること、村八分の具体的内容、赤米の話、若衆組などといった言葉の存在など、とにかく枚挙にいとまがない。授業で聞いたことだけでなく、発表やレポートの準備のために語源辞典など普段あまりなじみのなかった本を読んだ事もまた、勉強になった。さらに、授業では日本文化のみならず、欧米文化をも学んだ。具体的には、酒や言葉に関する聖書の記述を学んだりした。欧米文化を知ることにより、日本文化をより深く理解することができるようになったと思う。このように、1年間勉強してきたわけであるが、日本文化について自分はまだまだ知らないことが多すぎる、というのが正直な感想である。この授業で学んだことを基礎として、これからもさらに理解を深めていきたい。
また、授業では英語の使い方についても、以下のようなことを学んだ。まず、日本独特のものについては無理に訳語をあてたりせず、きちんと説明を加えるのがよい。たとえば、神を
God と訳したり、恥を shame と訳したり、予備校を
preparatory school と訳したりすると、誤解を与えてしまう。それから、ある英単語がプラス・マイナスどちらのイメージを持っているのかにも注意すべきである。例えば、different
は(英語世界、特にアメリカでは)プラスであり、逆に
carp はマイナスである。さらには、書き言葉と話し言葉との区別にも気を遣う必要がある。例えば、many
は書き言葉的であり、a lot of は話し言葉的である。この1年、英語学習に関して言えば、文法や単語の力こそ大して伸びなかったものの、上述のように、案外気が付かないがそれでいて重要なことをいくつか学んだのである。
この授業から学んだことは、決してこれだけではないが、私は日本文化と英語学習の2点に絞って書いてみた。最後になりまして申し訳ありませんが、山岸先生、1年間本当にありがとうございました。(男子学生)
●1年間を通して山岸先生の授業を受けて、僕は英語を学ぶ際の大切な事を学びました。それはつまり、英語を学ぶという事の最大の要因、世界の多くの人々とコミュニケーションをとるという事において、自分達日本人の文化を我々自身がもっと深く理解しなければ、上辺だけの薄い付き合いは出来てもお互いの事を真に分かり合えないという事です。
又、その民族独自の文化という点ではアメリカにはアメリカの、イギリスにはイギリスの、それぞれ独自の文化がり、特に慣用句やたとえ話等はどちらかでの使われ方をそのまま直訳すると全くその意味が他方には伝わらないのである。この様な現代日本の受験英語では全く触れられもしない様な大切な根本のことを学び、大変良い授業であったと思うと共に、この様な事を学べ、良かったと思います。1年間どうもありがとうございました。(男子学生)
●僕が1年間、山岸先生の授業を受けて学び感じた事、それは日本人でしか感じ得ない生活や物事に対する感性であったり、過去に慣習的に行われていてその名残として今でも我々が無意識の内に行っている事を(それらを文化と呼ぶのであればそれを)英語を用いて異文化を有する人々に伝える事の大切さである。正直この授業を受けていたはじめの頃は、「このような授業が大学における英語の授業としていかなる価値を持つのであろうか? 文献講読であったり、英会話学校で行われているようなスピーチ能力を重視した対話形態の授業こそが、これからの国際人としての教養である『英語』という学問を修めるにあたって必要とされるのではないか?」という疑問を抱いたものだった。しかし授業の回数を重ね先生が何を学び取って欲しいのかを感じ取る事によりその懐疑は心の中でこの授業への興味へと変わって行った。英語を僕らが学ぶのは、決して僕らが異国の人間に近づく為ではなく、我々日本人を異国文化を有する人々に理解してもらいアピールするツールを得るためである。また他国の言語を学ぶと共に自国の言語を自顧して自らの言語の裏に隠された文化を学び差異を知る、そのようなアプローチも言語を学ぶという事は有畜している。「英語を日本の公用語に…」などという論潮が現在流布しているが、何とも的外れな意見であると僕は今考える。決して話す言語が変わろうとも、歴史と共に培われてきた我々自体は変化しない。英語を学ぶ効率化は図られるが、それでは何か本末転倒のような気さえする。なぜなら違う文化を持ち、違う言語をもつ者同士が交流を図り相手の文化を知りたいと考える、そのとき初めて英語に限らず『言語』全般を学ぶ必要性が出てくるのだと思う。そのイミをこの授業は、僕の8年間の英語の学習を通して教えてくれた。(男子学生)
●1つ目に、さまざまな視点でものごとを見る大切さを学びました。私は先生の授業を受けてから、いろいろなものの見方が自然とできるようになった気がします。この授業では日本をディフェンシブに考えることがテーマであり、このテーマは日本離れしつつあった私にとって非常に難しいテーマでした。普段考えもしないことをこの授業では考えることが多かったため、授業以外でも普段と異なった見方ができるようになったためだと思います。
2つ目に外国語を学ぶ意義と言うものを感じることができました。私はこれまで外国語を学ぶ意義は、外国語の書物を読んだり、外国人とコミュニケーションを取ったり、外国を旅行するためであると思っていました。しかし、授業を通し、私は外国語を学ぶ本当の意義は、お互いの文化を伝えあい、認識しあうことによる、グローバル社会の構築にあると気づくことができました。(男子学生)
●文化に defensiveであれ…。これは、先生が授業中、繰り返しておっしゃった言葉です。最初、これを聞いたとき、私はあまり意味が飲み込めませんでした。しかし、先生の授業を受けるにつれ、だんだんとその意味するところが分かってきました。つまり、日本人が日本人として国際的に尊敬されるためには、まず何よりも自分たち自身のことを尊敬しなければならない、ということだろうと思います。
私たちには、古代より連綿と受け継がれてきた日本という風土や文化があります。そして、またそれは今後も大して変わらずに続いていくでしょう。にもかかわらず、私たちはあまり自分たちの文化というものに関心を払っていません。そうした中、自分たちの何気ないしぐさや生活習慣、ものの考え方について発せられる外国人からの質問はとても鋭いものがあると思います。これに着眼した先生の授業は大変興味深いものでした。
特に印象に残っているのは、「共食文化」と「若衆組」の話です。「お供え物はちゃんと食べたほうがいい」ということを祖母からいわれたことがありますが。私は単にもったいないからという合理的な理由しか思いつきませんでした。ですが、先生の話を聞いて、神様と同じものを食べる、という古くからの考え方に関係があるのだなと思いました。また、若者が共同体を作るというのも、現代の少年問題に対して示唆に富む話だと思いました。それで、私なりに、自分たちの文化にディフェンシブであるためには、どうしたらよいかを考えてみましたので、それをこの文章の結びとしたいと思います。
それには、詰まるところ、自分たちの国の言葉である日本語と、その民族の共通の意識を持つための日本史をしっかりと教育する必要があると思います。古典や歴史は「素養」として持つべきものだと思います。そして、そこから文化が熟成されてくるのだと思います。したがって、自分たちの文化を深く知ることができたならば、同時にその方法を国粋的な方向に誤らない限り、外国の文化についてもより深く理解できるようになるでしょう。(男子学生)
●1年間、山岸先生の授業を受けてなにより感じた事は、「英語」に対する意識の変化でした。4月にこのスタイルの授業の説明を受け、しばらくはどんな授業になるのだろうか、と期待と共に正直言って不安もありました。しかし、1年経って、いままでこんなに考える事のできた授業は英語の授業ではもちろんの事、他の授業でもなかったと思っています。しかも、今まで日本人としてあたりまえのようにしていた事に対し、新たな認識をすることができました。また、先生が解説してくださることは今まで自分の知識にはなかったことばかりで、先生のご経験に関することなどは非常に興味深いものがありました。また、時事的な問題などにも触れることができ、森首相の神の国発言や田中長野知事に関することなどは、僕も関心があったのでそのことが授業に出てくる事はすごくよかったと感じています。(会社の英語表記に関する質問にお答えいただきありがとうございました。) そして、日本人として英語を使う上で、日本のこと、文化を知っておくというのは非常に重要なことだと分かりました。日本語の表現一つをとっても、一概にそれを英語にすることは危険であり、その状況に合うような訳し方、または日本語としてそのまま表現するということを学びました。これは本当にいままで考えもしなかったことで、一つの言葉を英訳するのに辞書のとおり、適当に言葉を当てていけばいいのだろうとさえ思っていました。本当に1年間ありがとうございました。(男子学生)
● 1年間授業を受けてみて自分自身で感じたのは、こんな英語の授業の形もあるんだな、と思ったことが一番大きい。今まで自分自身が受けてきた英語の授業というのは何か一冊教科書があってそれを一年間かけて訳していくという形態のものが多かった。そういう中で、このようなどっちかといったら日本の文化を知るといったことに重きをおいた授業というのは非常に新鮮だった。確かに自分はこれから社会に出て行くわけであるが、それまでには自分自身を一番よく知っておかなくてはいけない。それと同様に世界に出て行くためには自分の根っこの部分である、日本というものをよく知らなくてはいけないというこの授業の基本的な考えはすごくよくわかるし、そうであると思った。そこがしっかりしていないと自分自身の存在もあやふやになってしまうと思う。実際歴史などで学んで日本のことは一応わかっていたつもりであったが、それはあくまでマクロな視点だけであって、民衆の形成していったものつまりミクロなものはほとんどわかっていなかた。これからはこの両方の視点で物事を見られるようにならなくてはいけないと思う。つまり自分自身の意見はしっかりもたなくてはいけない。でもそれを意固地に押し通すだけでなく、客観的な視点でも、物が考えられなくてはいけないということである。それと同時に授業の中で、納得できる意見というのもあったけれど、先生がおっしゃっていた意見の中にも自分自身で納得できないものもあった。そのような時にはまだ自分への確固たる自信がないせいか、そこで何もできなかった。これは反省しなくてはならないが、このようなことを確認できたことはよかったと思う。これからは自分自身をしっかりもってそれをどんどん外に出していかなくてはいけない年になってくると思う。それに今のうちに気づきそれを実践できるようにならなくてはならない。最後になりますが、今年一年お世話になりました。ここで教わったものの捉え方、考え方というものをこれからの学生生活ならびに社会に出てからも役立てていこうと思います。(男子学生)
●一年間、山岸先生の英語の授業を受けてきたわけでありますが、自分にとりとても良い経験とためになったと思っています。いままでは、自分が、日本という国に住み、そして日本人でありながら、日本の伝統、文化、習慣あるいは日本人の性格などをあまり見つめたことがありませんでした。
しかし、この授業によって、日本のことを色々調べたり、考える機会が与えられ、歴史を振り返り、農耕民族であることからきた様々な習慣、しきたり、そして日本人の心などを学ぶことが出来、大変面白かったです。また、自分の国、自分達日本人のことを調べるので、とても興味深く、英語の授業が楽しいものになったと思います。ただ、日本にしかない行事や言葉を英語で説明したり、日本人にしかない心を英語で表現することに苦労し、また難しさを感じました。しかしこのことにより、以前に比べ、自分で物事を考え、それを意見として言う事が出来るようになり、また日本の文化の深さを知ることが出来ました。また今、日本は多くの事を外国から取り入れて、日本人の間では、外国のほうが素晴らしいようなイメージがありますが、日本にもそれと同じぐらいか、もしくはそれ以上の素晴らしい良い点がある事に気付きました。
現代の国際社会で、外国に通用する人間になることはもちろん大切でありますが、日本にずっとある伝統や習慣は守りつづけていきたいと思いますし、「相手を思いやる心」、「へりくだった心」、みんなで助け合ったり、争い事をしないというような「和の心」等はいつまでも日本人はもちつづけるべきだとこの授業から感じ取りましたし、またそうしていくべきだと思いました。
これから社会に出る私達は、外国人とも対等に付き合え、そしてなおかつ、こういう日本人の素晴らしい点を外国人に伝えていければ最高であると思っています。
最後になりますが、日本の教育にもっと多くこのような授業がでてくると、皆も、より興味深く、楽しく、英語の授業に臨めるのではないかと感じました。先生もこれからまた新たなる挑戦にむかって頑張ってください。一年間どうもありがとうございました。(男子学生)
●僕がこの授業で学んだこと。それは異民族間における物事の感じ方の違いである。普段日本で暮らしている中では絶対に感じないようなことが、外国人にとっては疑問を抱き得ることなのだというのは非常に新鮮な驚きだった。それと同時にいかに自分が日本、あるいは日本人というものについて無知であったかを思い知らされた。日本人の根底に流れる農耕民の文化、考え方が欧米の文化に決して劣ることのないすばらしいものであるということが大変よくわかった。山岸先生のおっしゃるように日本の文化に対して「ディフェンシブ」でなければいけないのだと強く感じた。また、授業中に一つの疑問が僕の中に湧いてきた。それは、外国の大学生というのは自国の文化をきちんと理解しているのだろうか、ということである。例えば、自分が突然
「なぜ日本人は無宗教でいられるのか」と問われたら、すぐには答えられないと思う。そこで逆に「なぜ宗教なんか信じるのか」と質問したなら外国の大学生はこちらが納得できる答えをだしてくれるのだろうか。そう考えると、外国の文化に対して様々な疑問が浮かんでくる。この授業を受けていると、外国人と直に討論したくなる。このように他の文化をもつ人々に対する興味というものも先生の授業から学んだものだと思う。
先生の授業からはこれまで述べたように多くのことを学んだ。しかし、最も大きなものは英語というものの面白さである。僕は正直言って英語は苦手だしあまり好きではなかった。しかし、先生の授業では細かい文法の誤りを気にせず自由に作文できた。それは学問としての英語だけでなく、意思伝達の手段としての英語に触れることのできる機会だった。これまでの問題集をながめるだけの英語学習ではなく、確かに英語を学んでいるという実感をもって取り組むことのできた時間だった。本当に冗談抜きで、もし中学の時の英語を先生が教えてくれていたら英語嫌いになっていなかったであろう。先生の授業を受けられたことを大きな幸運であったと思います。1年間ありがとうございました。(男子学生)
●言語、あるいは外国語というのは、決して文化とは切り離すことができないものなのだ。言語というものは、単に音声であったり、構文であるとか、意思の伝達手段というだけでなく、社会行動そのものなんだという事を知りました。英語を学ぶにあたっては、英語を話す人々の、国の、生活の歴史と背景を理解する事が大事にとどまらず、必要不可欠なのだという事、そしてそれ以上に、我が国、日本という国の文化を一日本人として、良く学び、理解してゆくべきだと気付かされました。
日本における英語教育の現状を見ると、いわゆる受験英語と生きた英会話と称されるものの両極端に分かれてしまっているように感じます。僕の学んだ英語も、いわゆる受験英語であったし、それは文法や音韻のような形式面ばかりを強調し、意味が軽視されていたと思う。つまり、英語あるから、それを教えるといった、言語中心主義とも言えるものであった。人間を言語に従属させている考えであった。先生の授業では、「人間がいて、英語が必要だから、その言語が必要だから教える」という姿勢が伝わってきた。
文化の理解をぬきにした外国語学習はあり得ない。日本が今後国際社会の一員として、積極的に発言し、リードしていく事が必要であるし、なおさら、英語の背景となる文化、習慣や宗教、価値観の違いについての正しい理解と認識が求められる。文法上の間違いや、下手な発音などの初歩的ミスのほうがずっと傷が浅くてすむ。
先生の授業では、毎回が発見の連続でした。それは自分の発見です。自分が何気なくしていた行動や考え方が、根の部分を理解することにより、全体が見えるような気がします。そしてその行動や考えが意味を持つように感じました。そして日本が少し好きになりました。
世界の中で生きていくことを余儀なくされている日本の将来を考えてみると、英語の教育においては、社会言語学的な視点も取り入れたより良い姿の英語教育が又、日本という国を正しく理解し、肯定的に守っていくような教育が不可欠であると思います。その教育が中学・高校の段階からきちんと行われてるとよいと思います。最後に、とても有意義な授業ををご教授いただき、一年間、どうもありがとうございました。
(男子学生)
●僕が、最初にこの授業を選んだのは情けない理由からであった。政治学科の英語の選択は4月初めにまず自分の希望をいくつか提出し、その中からコンピュータによって抽選され決定されるというものである。僕は友達に電話をし、どの授業が楽に単位を取れるか聞いた。その中に山岸勝榮の文字があり、僕は疑う事なくその名前を希望に入れ提出した。そしてこのクラスに振り分けられた。募集要項などは一回も見ずに決めたので、この授業はどのようなことをするかなどとは一切知らずに授業がスタートした。
この授業の最初の印象は、「えっ、辞書買うの? 高いなー。」であり、できることなら辞書を買わずに過ごしたいと思っていた。しかしそれから何回か授業を重ねるうちに、授業中何回も辞書を使うので、「これは辞書を買わずにやり過ごすことは無理だ。」と思い買った。買って驚いたのは編者が山岸勝榮、先生なのだ。
辞書と言うあのような分厚いものを作った人が目の前にいる。そう考えるとなんだか先生が偉大に見えてきて尊敬するようになり、授業に耳を傾けるようになった。よくよく聞いてみると、なかなか話がおもしろい。先生は僕が知らなかったことで、普段考えもしなかったようなことを質問してくるし、その答えもよく知っている。身近な話で例えると、「よそう」と「つぐ」の違いなど考えたこともなかった。言われてみれば
「あー、なるほど。」 と思うが、なかなかそこまで至らない。そういった意味でこの授業を受けていて良かったなと思う。他の人たちはきっとそのような機会がないだろう。(男子学生)
●我々日本人が英語を考えるにあたって、英語そのものの理解を日本的に理解している事が多い。そこに、英語を母語とする人たちとのコミュニケーションがうまくいかない原因が見られる。
たとえば、我々日本人が “harmony”という言葉を「集団社会において協調性を重んじる」という日本的ニュアンスで使っても、英語を母語とする人にはなぜ集団社会の中で協調性を重んじる必要があるのか、日本人と同じようには理解できない。むしろ、その中で個性を発揮してこそ集団社会が発展していくのではないか、と考えてしまい、そこでは均質のコミュニケーションは成り立たない。
まず少なくとも、異文化間のコミュニケーションを成り立たせるには、互いの相手の文化を理解しよう、協力し合おうという姿勢が必要である事は当然である。例えば、日本に招かれた外国の教授が、「日本人は授業中に質問はあるかと聞いても返事をせず、授業後にやってくる。自分のプライベートな時間を奪う気か」と怒って帰ってしまったような例がある。この教授に足りなかった事は、大前提としての、異文化を理解しようという気持ちであろう。
「自己主張」「創造性」というものをあまり表に表さないのは日本人が昔から持っている自然の姿である。たとえ外国人から見てその点が不満であっても、それで全て日本文化が悪いと断定してしまう事は、あってはならない事である。日本には日本文化として良い面、そして他国の文化になじまない部分も当然に存在するのである。先ほど述べた、「自己主張」や「創造性」というものにしても、日本では古来より儒教の影響を色濃く受け、「学ぶ」ことは「まねぶ」ということ、つまり先人の業績を真似ることにより学習する事が良い事とされてきたのだ。そこに、英語文化としての「自己主張」や「創造性」が求められたとしても困るのである。どちらかが良いという問題ではない、馴染む馴染まないの問題である。
次に、我々が英語を学習する上で必要な事は、日本文化をもっとよく知るということである。例えば、「おにぎり」を英語では“rice
ball”と呼ぶが、これではなぜ「おにぎり」が三角形をしているのか説明できていない。これは古代の人々が霊の宿るところ、雲・雨・湯水などの出ずるところとしての「山」をイメージして三角形にしているのだ。
また、“rice ball” というとインディカ米で作った、パサパサした物をイメージしてしまうおそれもある。こういったことを考えると、「おにぎり」は
“onigiri” とするのが一番である。別の例では、「刺身」を
“raw fish” と訳すものがある。これでは、何も知らない外国人は、日本人が生魚を貪り食うという風に捉えかねない。「刺身」も
“sashimi” とするのが一番である。
こういった例にとどまらず、英語で表現する以前に、日本文化を本当に理解していなければ英語表現はできないのである。もっと、日本文化を知り、学ぶ必要があるのだ。“national”
なしの “international” などないとは、つまりこの事をいうのだ。
以上、まとめてこの授業から学んだ事は、英語文化や日本文化の良いところ、悪いところを正しく認識し、相互の妥協点を見つけて、自分なりに再構成していくこと。また、日本の文化に対して誇りに重い、自国の文化をもっと深く知ることであろう。(男子学生)
●4月からこの授業を受けて最も感じたことは、僕が日本国民でありながら日本の文化に対して無知に等しいということだった。課題のプリントを初めて見た時、分かるものはほとんどなかった。そして先生がよく「その説明では外国人はますます疑問に思う」とおっしゃっていた事からも分かるように、日本の文化を英語で表現することの難しさを感じた。それらのことを通じて、僕はいわゆる「国際的」という言葉を誤って理解していたことに気付いた。今までは英語をしゃべれ、海外で生活できるような人を国際的な人間だと思っていた。しかしこの授業で色々な話を聞いてこの意見が変わった。僕は、国際的な人間というのはます自分の国の文化をきちんと理解し、その上で外国の文化を理解する人間、そのためにはただ外国の文化に順応するのではなく、自分の国の文化に誇りを持ってそれを基礎とし、外国文化の特徴とそれが形成された背景などを考え、受け入れがたい物に対しても納得して受け入れられる人間のことだと考える。ここで基礎とすべき自分の国の文化の理解の仕方をこの授業で学んだ。自国の文化を調べ、学ぶというのはやってみれば結構楽しいものであり、時には友達と一緒に話し合ったりもした。それでも英語にするとうまく表現できず、苦しんだりもしたが。さらに日常的なちょっとしたことに対して考えてみると、授業で全体としてやった、日本人のそのたどってきた歴史ゆえの思想、性質が現れていることが多くあった。この今まで気にかけもしなかったものの考え方を少しでも身につけられたことがこの授業を通じての僕の一番の収穫だった。これから先、将来的に外国人とかかわることがあると思う。その時には自分の国の文化を誇りを持って説明でき、その上で相手の文化を理解できるように心掛けたいと思う。1年間ありがとうございました。(男子学生)
●この授業では、たくさんの外国人からの疑問について考えてきましたが、その中で何も調べたり考えたりせずに即答できるものはほとんどありませんでした。どの疑問も今までならば、「文化の違いだから仕方がない」で済ませていました。ではその文化の違いとはどんな違いか。そしてその根本には何があるかなど、それより深く考えることをしていませんでした。しかし、この授業で、今まで何気なく行っていたことや、使っていた言葉にはそれぞれに文化的根拠があることを知り、母国に対する知識のなさに危機感を覚えました。英語を学ぶことは、日本語を話せない人と会話を交わし、理解を深めるのにとても有効な手段です。しかし、今の状況ではたとえ英語を上手く話せたとしても、自分の母国に対する知識がないために、会話は交わせたとしても、相互に理解することは不可能でしょう。自分が他国の人々とかかわりあうためには、まず自分が母国のことを理解する事が先だと思います。この授業ではそれがはっきり見えたような気がします。
では、その文化の根本にあるものですが、そこにはやはり宗教が大きく関係していることを感じました。特に欧米人たちの行動がほとんど聖書に基づいて成り立っていると言っても言い過ぎではないほど、キリスト教が習慣の中に見えたのはとても興味深かったです。そしてそれに劣らず日本の文化にも神への感謝などがあって習慣となったものがたくさんあり、それぞれの国の文化を知るには宗教を知ることが第一だと思いました。
この授業ではあまり発表できませんでしたが、それぞれの疑問に自分なりの答えを考え、そして先生や他の人の意見を聞くことで非常に自分のためになったと思います。自分が当然だと思っていることも、外国人にとっては理解できないこともあるということはたくさんあり、それに対する十分な答えを用意できなければ相手との相互理解はあり得ません。だけら、外国人との相互理解のためにも、そして何よりも自分は日本人であるのだから自分の文化についてもっと深く知っていなければならない事を学びました。(男子学生)
●まず、この授業を受講してきたことで、自らの文化を見直すチャンスをいただいたと思います。我々日本人は非常に豊かな文化を持っています。しかし、それについて我々若者は知らなさ過ぎると言うことを実感しました。それを外国人から質問されたことで見直すことになろうとは、なんとも皮肉な気がします。
「外からの攻撃に対して“ディフェンシブ”であること。」 これがこの授業における最大のテーマであったと思います。外国人からの質問に対して、いかに納得のいく、説得力のある答えを用意するか。これは本当に難しいことでした。まず自分が、自国の文化をよく理解していないのですから。答えを用意すべく、図書館などで書物を読み進んでいくうちに、自分の知らなかった豊かな日本の文化が見えてきました。さらには、自分の郷土の文化に目を移すこともできました。素晴らしい文化を再発見するにあたって、それらがどんどん色を薄めつつあるという悲しい現実も実感し、我々はしっかりと文化を継承していかねばならないのだ、という使命感じみたものも感じました。
自文化を説明するにあたっては、他の文化、特に説明する相手の持つ文化も知っていなければならないということも、この授業から学んだことの一つです。“神”一つとってもそれぞれの文化によってまったく違う意味をもつということなど、考えてみたこともありませんでした。日本語を該当する英語に“直訳”するということが、いかに危険であるかと言う事を思い知らされました。正直な話、和英辞典なんてどこまで信用してよいのだろうかと、疑心暗鬼になりました。