5.満足度の高い大学英語授業の創造
     ―受講生諸君の声に学ぶ

      2003年度慶應義塾大学法学部2年生(英語V受講生)諸君の場合


ここ数年、慶應義塾大学法学部2年生で、私が担当する英語Vを履修した諸君に、「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」というテーマの下に、感想文を書いてもらっています(参照)。以下に紹介するのは、学年暦2003年度[平成15年度]の履修生諸君のものです(2クラス分;登録者数39名クラスと37名クラス)。これらを分析し、次年度に活かしていきたいと思います。
 2001年度2002年度の場合同様、「過去の英語学習に思う」と「この授業で学んだこと」とを同一頁に掲載してあります。学生諸君にはメール送信を依頼しましたので、コピー&ペーストの形式を採って掲載しています。ただし、明らかな誤字・脱字は修正し、個人名は省略しました【掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています】。今年度も素晴らしい学生諸君に恵まれて本当に幸せでした。教師冥利に尽きるとはこのことだと思います。



過去の英語学習に思うこと

私は慶応大学に一般入試で入ったので、受験英語として、海外で日常的に使うか否かなど特に意識することもなく、勉強していました。文語体の熟語や構文、細かい文法など実際のネイティブの人も使わないようなものをひたすら暗記する机上の勉強より、本場で使えるスピーキングや英作文の指導を義務教育の頃からしてくれたら、日本人がこんなに英語能力水準が低い国民にはならずにすんだであろうと思います。英語そのものやアメリカ文化に心から興味を抱かせてくれるような授業はほとんどありませんでした。ただ、日本の英語教育が批判される昨今ですが、私自身は単語、文法、構文を暗記して長文を読めるようになるという過程を通じて、外国語を習得する楽しみを中学生の頃から感じていたし英語の勉強も好きだったので、あながち受験勉強も批判できないと思います。「読む」「書く」ことの基礎はできているのだから、後は自分で興味を持って努力すれば、「聞く」「話す」ことはできると思うからです。

しかし、受験英語を極めた、極めてないに関わらず「聞く」「話す」が日本では習得できず、お金をかけて海外に留学する人が大勢います。これはやはり、日本の英語教育が改善されるべきことを示唆しているのでしょう。

この授業で学んだこと 私が山岸先生の授業から学んだことはたくさんありすぎるのですが、大きく3つに分けたいと思います。第1に、事前に調べてきたものでないことを、頭の中でしっかりとを考え、それを自分の意見として発表することの大切さです。第2には、普通に日常生活を送るだけでは意識すらしなかったであろう日本文化や日本人が持っていた精神文化、慣習などを知ることができたことです。私たち若者は特に日本人たるもの、日本文化を外国人に説明できない人が多いと思います。この授業を通じてアメリカ人と比較して日本人の良くない面もありますが、誇りと思っても良い国民性や文化がたくさんあることを改めてミクロ、マクロな両視点から学びました。先日映画「ラスト・サムライ」を観て日本の武士道に感動したのですが、多くの外国人も同じように感動したようです。このように、私たち日本は伝統的に誇れるものをたくさん持っているのだから、新しいものを追い求めるだけでなく、温故知新の精神で自国の文化を学び、自国と他国の差異まで学ぶことによって、日本人として確固たるアイデンティティを持ち、自国のことを外国人に説明できるようになるべきだと思いました。第3には、英語と日本語は異なる文化的背景の下で培われた言語であるから、単語のイメージや意味すること、また表現が一致しないことや大きく異なることが多いということです。そのことを知らないで異文化の人々と接してしまうと誤解を生むので、それを避けるために両文化についてよく学び、互いの違いを知り、とくに英語を使ってコミュニケーションをするときには、それらを意識したコミュニケーションを行うようにすべきということです。先生の取り組んでいらっしゃる辞書がいかに素晴らしく、私たちが従来使っていた辞書が全く言語を両文化から考えないで書かれた稚拙かつ不十分なものであるかを知って遺憾の念を覚えました。

最後に、まとめさせていただくと、山岸先生の授業は今までの私の英語に対する観念をさまざまな角度からくつがえすものであり、毎回楽しく、知的好奇心をそそるものでした。だからこそ、何気ない日常の中の風習も今までだったら特に深く考えることがなかったのに、何故なんだろう?と疑問に思うようになって、授業以外でも気になったら自分で調べて深く考え、理由付けをする習慣がつきました。私が、これから日本人として国際社会で生きていく上でも大変有意義なことも学ぶことができてとても感謝しています。本当に1年間ありがとうございました。(女子学生)


■過去の英語学習に思うこと 私が中学校から高校までの六年間受けてきた英語教育について、その長所と短所を述べたいと思います。まず長所は、文法を緻密に学習することができること、単語を多量に知ることができることだと考えます。英語に対して全く知識の無い状態に、全ての基礎となる正確な文法を学ぶことは不可欠ですし、受験勉強の際多量に頭に詰め込んだ単語が、今日様々な英文を読む際にその文章の手がかりとしてはたらき精神的な抵抗を減じていることは明らかです。そして短所は、言葉の一番の目的である「相手に伝える」という意思が欠如していることだと考えます。その結果の一つとして、英語の「現在」というものに教育が追いついていないことを挙げることができます。日本で言えば古語になるような英語を今日でも同様に使用されているかの様に教えられることによって、実際に英語を用いて会話をする、または文章を書くときに、正確に自分の考えを伝えられないばかりか失礼となってしまうことがあるのです。以上のことから、現在行われている英語教育は、利点もあるものの実用的であるとは言い難いものと考えられます。
 この授業で学んだこと 私が山岸先生の授業で学んだことは、大きく分けて三つあります。第一に、上記の今まで受けてきた英語教育の短所を知ることができたことです。学校で教えられた、という事実によって教育を盲目的に信じてしまっていましたが、その中にも多くの間違いが潜んでいることに気付くことができたことは、私にとって大変勉強になりました。第二に、正確に自分の意思を伝える英語を、毎週の授業から学ぶことができたことです。相手に考えを伝える際の基本的な書式はもちろん、自分や同じクラスの学生が書いた文章を先生御自身がその場で添削して下さることによって、いかに自分たちの英語が意味をなさないか、そして、どうすれば正しく伝わるかを身をもって学習することができました。クラスの都合上先生が添削して下さる文章量が限られてしまうのが残念でしたが、自分が発表している時以外の全ての授業時間が有意義で、非常に無駄のない授業だと感じました。そして最後に、日本について深く考える機会と、それによる知識をこの授業によって得ることができました。「国際化」という言葉が無造作に無分別に用いられる現代の裏側で、日本に住んでいる人々が日本について何も知らないという事実は確かに存在していると思います。実際に、この授業で扱った多くの質問の答えを即座に説得力を持って説明することは非常に難しく、この一年は自分の無知を痛感する一年であったと言えます。その中で、少しずつ日本についての知識を蓄え、多くを考えたことは私という内容の薄い人間に厚みを加えることになったと思います。以上のように、先生の授業から非常に多くのことを学ばせていただきました。さらに、毎週先生のお人柄に触れることができ、それも私の大きな喜びの一つであったことを述べておきたいと思います。(ここで、先生のご家族に対する熱い想いに関するお話を伺うときが、特に私の楽しみであったことを告白致します。)来年度には、そういったお話も含めた先生の授業を拝聴することができないのは非常に残念ですが、先生から頂いた教えを胸に、さらに自分を磨いていきたいと考えております。一年間という短い時間でしたが、本当に、ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 文法知識の習得と正確な文章読解能力の向上、幅広く単語・熟語・構文を身につけること。大学入学までの英語学習はそれにつきました。英語を理解する上での基礎を学べた点で、よかったと思っています。大学入学後、ディベートやプレゼンを通じて英語で意見を発表することを学びましたが、論理的な文章構成でもって意見に説得力を持たせること以外に、新たに学んだ事はなかったのが事実です。結局、今までの自分の英語学習を振り返ってみると、読み書きの方法と、英語圏の人々に自分の意見を説得力をもって伝える方法とを、理屈の上で学んだだけのような気がしています。実際に彼らを前にしたときに、「どう表現すれば誤解されずに思いが伝わるか」は学んできませんでしたし、彼らに「本当に伝えるべきものは何なのか」についても、授業を通じて明確な指針が示される事はありませんでした。そのためか、英語の本質に触れたという実感は、得られずじまいでした。
 この授業で学んだこと 英語の本質に触れたという実感が、ついに得られた授業でした。そしてそれ以上に、日本語や日本文化に対する理解が深まりその良さを再認識できた事が、何よりの収穫だったと思います。英語的発想のルーツを聖書に求め、日本語的発想を日本古来の宗教的思想などから分析していくという思考方法を学べたことで、これまで何となくでしか分かっていなかった双方の文化への理解度や洞察力が、格段に増しましたし、日英両言語を本質的な部分から理解することができました。今まで学んだ英語表現の知識を整理することができたことや、どう表現すれば英語圏の人々に言いたいことが正しく伝わるのかを、英米と日本双方の文化的背景から探っていくすべを学ぶことができたのも貴重でした。日本の文化こそ、外国人に伝えるべきで、そのための表現手段として英語はあるのだという先生の持論は、これからの僕の英語学習の明確な指針になっていくでしょう。一年間、本当にありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 僕は、2歳から8歳の頃まで父の転勤によって家族とアメリカに住んでいました 。そのため、他の人たちと比べたら自分は比較的めぐまれた環境で英語と接触してきたと思います。しかし日本に帰ってきて、中学受験によって英語の勉強は皆無に等しくなり、かなり英語を忘れてしまいましたが、入学後は帰国子女クラスで再びネイティブの先生の下で習うことができ、そのクラスでは文法などよりもプレゼンなどの話すこと中心の勉強でした。そのため、その勉強に違和感がなかったものの、一般クラスの 授業内容を聞くと、「なんか変だ。」と違和感を感じずにはいられませんでした 。形式ばかりの勉強で、実際の英語の中身を何も学んでないように感じました。中学の自分でさえもそれを感じるほど日本の英語学習はおかしいのに、山岸先生のような 授業をしてくれる人もいるのに、この先もずっとそのような勉強が進んでいくと思うと、 残念で仕方がありません。逆に自分は、アメリカ在住という貴重な経歴をもてたことがすごく嬉しいと思え、それを与えてくれた親にも感謝しています。
 この授業で学んだこと この授業では、日本、を含め世界各国それぞれに違った独自の文化・習慣があるということ、またそれによって外国人には分からないその国のやり方は身近にあり、納得させるのは予想以上に大変であるということです。しかしそれは大事なことであり、 お互いの交流の深さにつながるものです。また、日本で学べる英語はまだまだ不十分 で、山岸先生のような英語の本質を教えてくれる英語こそ学ぶべきことである。 山岸先生のような方に学べて大変に光栄に思います。この授業で扱うテキストの提供問題も、アメリカに住んでいたからか感覚で分かることもあり、自分のその感覚を自覚させてくれ、かつ貴重な知識を与えてくれてありがとうございました。「異国を知る前に自国を知れ」という言葉を聞いたことがあるのですが、外国人と接触する上では 自分の国のことをよく知らないと、本当の意味で相手を理解し、理解してもらうこともで きないということを改めて感じました。これからの英語学習、そして人生にもプラスになる授業を受けられて幸せです。山岸先生のご講義、深い感謝を込めて本当にありがとうございました。 (男子学生)

■過去の英語学習に思う まず私が英語を学び始めたのは大半の人と同じく中学入学時です。そして単語や覚えろと言われた熟語、文をそのまま暗記していました。そしてその後塾に入り、さらに暗記英語に身を委ねるようになりました。そしてそのまま慶應の付属高校に入学し、つめ込み英語から開放されたかと思いきや、実際はテストの前に教科書を読んで単語などを丸暗記するというスタイルは大きくは変わりませんでした。その後、外国文化に興味を持ったことなどをきっかけに英語を話したいと思うようになり、英会話学校に通い始めました。外国人の先生と遊んだり飲んだりして、「話す英語」というものを知ってからは、とにかく一緒にいてコミュニケーションをとり、それを家庭学習(英語のテレビ番組や映画、リスニングCD、新聞、洋書など)で補う形で勉強していました。この方法で飛躍的に英語力が伸び、今ではアメリカ人の女性とお付き合いをするまでになりました。とはいえまだまだ不充分極まりないです。これからも精進いたします。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業は今までの授業とははっきりいってまったく違うものでした。まず、思ったのは、授業の話題が主に日本の文化、考え方についてのものであったこと。日本で20年生活しているというのに、先生が話されることが知らないことばかりで、とても新しかったです。いろいろな考え方を聞くことができました。次に、正しい英語の追究というものです。先生のような形で英語の間違いを訂正するのは初めて見ました。今までの先生が訂正するのは、文法的な間違いや、暗記させられるような熟語表現の形に合致しない場合や、冠詞、三人称や単数複数のs、など形式的な間違いばかりでした。この授業で先生が指摘する日本の英語の間違いや、たまに生活の中の英語表現(例えば「花をつみに言ってくるわ!」など)からは耳が離せませんでした。とはいえ週一回の授業で、私達の間違っているであろう英語を完全に直し、本当の英語を十分に教えるのはのは不可能です。しかし、先生のおかげで、本当に正しい英語を自分で学び、作り上げようという基礎がしっかりと出来たので、感謝しています。あと、感想みたいなものですが、先生を見ていてとても楽しそうに授業をしているなあと思いました。今まで見てきた教師の中で一番楽しそうでした。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は中学・高校時代の6年間、一般的に言われる「受験英語」というものを勉強してきました。過去の英語学習を振り返ってみて思うことがいくつかあります。まず、「受験英語」は、文法を中心とした学習のため、実際に英語を使って会話をする際に文法ばかりを気にしてなかなか言葉にならないということです。文法中心の学習の長所は正確な文章を作ったりリーディングの力がつくことであると思います。しかし、それでは英語を使って会話をする際に必要であるリスニングとスピーキングの力を存分に伸ばすことができません。文法中心の学習をするよりも実際に英語を使って発言する場を設けることの方が実用的な英語につながるのではないでしょうか。また、いくら一生懸命英語を勉強していても、ネイティブの人と話したことがなければ、緊張して普段の学習の成果を出すことは困難です。そのようなことを避けるためにも生の英語にふれることができるオーラルの時間を作ることが必要だと思います。  
 この授業で学んだこと この授業では、文法の正確さよりも、日本の文化・習慣を理解し、英語で表現して伝えること、自分の意見を積極的に述べることに重点を置いていました。このような方針の授業は「受験英語」を長く勉強してきた私には大変衝撃的であり、授業内容も大変興味深いものでした。また、この授業を受けて、自分があまりに日本の文化について知らなかったという事実に気づかされました。何気なく暮らしている生活の中にも昔からの風習が根付いていて、自分がそれを理解し、誇りを持って他国の人に伝え、理解してもらうことのすばらしさを学びました。また、自分が正しいと思って使っている英語も、時には全く違う意味で相手が理解してしまう危険性も学びました。先生が授業中にしてくださるお話もとても面白く楽しみでした。その中から学ぶことも数多く、今までの自分の行動を見直すこともでき、大変ためになりました。この授業で学んだことは、これから生きていく上で役に立ち、身になるものであったと思います。一年間、どうもありがとうございました。先生の授業やお話はいつも大変面白く、楽しみでした。私は来年イギリスに留学するのですが、そこでこの授業で学んだことをいろんな人に伝えてきたいと思います。この授業で学んだことは、イギリスでも大変役に立つと自信を持っていえます。本当にありがとうございました。(女子学生)
 
過去の英語学習に思う 高校の頃、私は英語を暗記科目だと思っていました。(現にそうおっしゃる先生もいらっしゃいました)数多く単語、文法を覚えた者がテストで高得点をとれると当然のように受けとめ、より多く覚える事を念頭に勉強していたように思います。そのような英語学習も、耐えられないほど嫌だったという訳ではありませんでしたが、心のどこかで「面倒くさい」「つまらない」と感じていました。その「めんどうくさい 」や 「つまらない」が蓄積してか、大学に入ってからは英語を勉強しようと思う気が起こりませんでした。大学受験と言う一つの関門をくぐり終え、目的意識が一つなくなったせいもありました。  
 
この授業で学んだこと 山岸先生の授業を受けて、私の英語への認識も変わりました。先生は文法や、通り一遍の単語の意味などよりも、私たちの、相手に伝えたいという意思を一番に尊重してくださいました。受験英語の減点方式が尾を引いて、英作文に苦手意識を持っていた私も、まず、伝えたい事を文にする事からやり直す事が出来ました。その他にも先生の授業は相手の文化、自分たちの文化をよく理解したうえでコミュニケーションをとることを念頭においてあり、実際に外国人と触れ合うときに気をつけること、主張すべき事を勉強する事ができました。 とかく日本人は非難されやすい事に疑問を持っていたのですが、その一つの原因として日本人の一つの特性に言い訳を潔しとしない面や、村社会の中で育ったため激しい 自己主張を嫌う面があります。このような日本人である自分を再認識し、それをふまえたうえでどのよう外国人と付き合うか考える機会が出来ました。また、先生の授業は、日本の文化を再認識する事によって外国の文化との差異がより明確に浮かび上がってくるので、その違いを楽しむ時間でもありました。先生はよく「国際化、国際化というけれど、外国との付き合いは国の”際”でやるものではない」とおっしゃっていました。どれだけ受験英語を完璧に勉強しても、 相手の国、いわんや自分の国の文化や特色を知らなければ国の“際”での交流しか出来ないでしょう。日本人同士ですら、認識の違いで衝突するのですから、日本人と大きく異なる環境で育った外国人と渡り合うには相手の事をもっとよく知り、認める事が必要です。本当に外国人と交流し、より良い関係を築きたいのなら相手の国の文化、自分の国の文化をともによく理解している事は不可欠でしょう。そして本当に外国人と良いコミュニケーションが取れたとき英語は「つまらなく」も「面倒くさく」も無く一つの交流の手段として自分の中で大きな財産になるのではないかと思います。一年間、先生の授業を受けて日本人としての自分について考えさせられる事が非常に多かったです。しかし、なによりも楽しい英語の授業を受けられて幸せだと思います。本当にありがとうございました。これからもお体に気をつけてお過ごしください。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私が初めて外国人とコミュニケーションをとったのは二歳の頃だった。父は外国語教育に熱心だったため、友人のアメリカ人を毎週土曜に夕食に招くようになり、兄と私は自然と英会話レッスンを受けるという流れになっていった。まだ幼かった私は見慣れない外国人に驚き、母の後ろに隠れて恥ずかしがりながらも何となく英語に親しんでいった。それから中学二年生までカナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人の先生に英会話を習った。これは、どんな国の英語も聞き取れるように、との父の配慮だった。それと並行して、公立中学ではいわゆる教科書英語を習い、学習塾でも受験的な熟語や文法事項だけをたたき込んだ。当時は、家に長期間アメリカ人の高校生がホームステイしていて英語を話す機会も多かったので、英語を話すことに対して苦手意識は全くなく、コミュニケーションに困ることも全くなかった。中学三年生になったとき、受験勉強に専念するためにネイティブの英会話レッスンを辞めてしまった。これが私の英語力が衰えるきっかけとなってしまった。受験勉強の甲斐あって慶應義塾の附属高校に入学したが、私の頭に残っていたのはたくさんの実用的でない熟語と、英語を話すことへの恐怖感だった。高校には外国人の先生が多く、込み入った話をしなければならない機会も多かったが、生徒の3分の1は英語の完璧な帰国子女なので、友人に頼りっぱなしになってしまい、トライすることさえ忘れてしまった。父がせっかく作ってくれた土台、私の中の「生きた英語」は消えたまま、私は大学に進学した。
 この授業で学んだこと「外国人の疑問に答える」この授業内容を履修要綱で読んだとき、何だかワクワクした。なぜなら、かれこれ5年も外国人とまともに会話をしてなかった私は、外国人から見た日本に興味を持ったからだ。また、文法や読解の勉強にはうんざりしていたので、自分の発想力を試してみたくもあった。期待通り、山岸先生の授業は毎回、私に新鮮な驚きを与えてくれた。理由なんてあるのかな?と思うような難しい外国人の質問にも、それぞれに大きな理由があることに感動した。そう、トライすることを私に思い出させてくれた。また、外国人と日本人のものの捉え方の違いや、間違った英語表現などとても有意義だった。もう一度、楽しみながら英語で会話できるようになりたいと思うようになり、夏休みに留学する決心までついた。カリフォルニア大サンディエゴ校キャンパス内の寮で夏を過ごしたが、先生の授業で学んだことはそこでたいへん私を助けてくれた。アメリカ人のみならず、イタリア、韓国、スイス、ブラジルなど様々な国の学生との交流の中で私は日本人として本当の日本、日本人について堂々と主張することができた。日本について誤解や偏見を持っていた人も少なくなかったが、お互いの国について腹を割って話すことにより壁がなくなり、理解と信頼を築くことができたときは本当に嬉しかった。そして私は再び、英語で世界中の人と話すことの楽しさを感じられるようになった。
  私は決して、お世辞にも真面目な学生とは言えません(笑) 殆どの授業では、後ろのほうに座って上の空になってしまうことが多いような学生です。でも自分でもびっくりすることに、先生の授業では恐ろしいほど集中して、積極的に挙手をして参加してしまいます。気がつくと一時間半の授業はあっという間に終わっています。それはきっと、楽しみながら学んでいるからだと思います。もし先生のゼミがあったなら是非参加させていただきたいほど、先生の授業は私にとって最高でした。一年間ありがとうございました。先生に感謝し、尊敬しております。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 過去の英語学習において、長所だと思うところは、文法を重視することで、文章の構成がわかり、単語を入れ替えることによって簡単な文章を作れるようになったことです。短所は、細かくチェックされるため、×マークが目に付き、自分は英語ができないんだ、という意識が非常に強くなるというところだと思いました。もちろん自分は英語の基礎がなっていないわけですが、よりその意識が強くなり、学習意欲もそがれたような気がします(言い訳なのかもしれませんが)。それに加えて、英語をネイティブの方と話す機会、そもそも話すことすら少ないので、苦手意識が先につくられると、話すことに臆病になってしまうことも挙げられると思います。
  この授業で学んだこと この授業で、私は言葉というものは、文化と密接にかかわっている、という こ とを学びました。日本のように、当たり前のように同じ言葉を話していると、暗黙のうちに使っている言葉のニュアンスが伝わり、日常において文化を意識することはまれでした。しかしこの授業によって、当たり前のこととして受け入れてきたものについて、日本のことについて、自分がいかに知っていなかったか、ということを思い知らされたのです。日本の文化もそうですが、欧米の文化、特に宗教に対する想いというのは、日本にいる私たちにとってなかなか思い至らない事柄でもあります。今まで 日本を出たことのない私にとって欧米との考え方の違いというのは、何によるものかつかみかねていましたが、文化や環境の違いによって生まれたものが多いことを知りました。そして、それならばきちんと自分たちの国ではこういう習慣、文化があるんだということを相手に説明する必要があり、説明すればわかってもらえる、という人とのコミュニケーションの基本も学んだように思います。☆一言。一年間今までとは違った視点から英語の授業を教えてくださり、気づかなかったことの多くを、気づかせていただきました。本当にお世話になり、ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 小学校6年間はシンガポールに在住し、日本人学校ではあったが、外国人講師による英語の授業があったため、英語を学ぶスタートとしてはよかったと思う。中学時代はまあ、よくも悪くも日本英語教育。読み中心でつまらない科目になってしまった 。中学時代はそれでも外人講師の授業もあったため、それは楽しかった。日本語の勉強を している人で、お互いカタコトの日本語・英語で会話していたのはいい思い出である。高校の英語は最悪だった。教科書を読んで訳すだけ、ひたすら文法。浪人時代、駿台で1年間英語を勉強したが、この1年間が1番英語が楽しかったと思う。教え方はうまく、おもしろい。さすがプロという感じがする。高校教師の安定した場所でさして向上心もなく教鞭をとっている人間とは雲泥の差があった。浪人したこともあって語彙には自身があるし、英語は読むことはたぶんかなりのレベルにはあると思う。しかし、これだけの語彙がありながら会話にはまったく使わない。むしろ知っているだけに余計に簡単な単語が出てこないような感がある。中学の英語は会話のみでいいと思う。会話がある程度できるようになってから、高校でグラマーを学べばいいと思う。そのためには大学の入試制度にも大きな変革が必要なのは当然ではあるのだが、なかなか難しい問題である。
 この授業で学んだこと 自分がどれだけ自分の国のことを知らないかということを痛感した。外国に行くにしても、自国の文化もろくに理解していないようでは話にならないと思う。ゆとり教育とかいう制度があるなら、日本文化や常識を教えるほうがいいのかもしれない。英語で説明するというのも、いかに日本を知らない相手にわかりやすく伝えるかというとを意識して英文をつくるというのは初めてのことだった。文法は多少間違ってもなんとか伝わる英語に、という考え方は今までの日本英語教育では考えられないものだった。日本の教育では文法的な完璧さを求められる。本当に重要なのはなんなのかを考えさせられた。文法的には間違っていなくても、どこかおかしな英語。日本人の英語はまさにそれであると思った。この授業は英語だけでなく日本文化論の授業の素もあったように思えた。どこか普通の英語の授業とはコンセプトが異なる変わった授業だった。そのため今までの英語の授業にはない刺激があった。この授業は本当にためになったと思う。家庭教師で自分が教える際にも、このような異なった視点から教えてあげると、もっと興味を持ってもらえるかもしれない。1年間、本当にありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 日本の英語教育はとかく文法や単語・イディオムなど暗記物を重視し、会話を疎かにしていると批判されがちである。私の中学校では先生方もその点を配慮し、授業の中で英語を使って話す時間をたくさん設けていた。しかし、実際には単語も文法も知らない生徒同士では会話らしい会話もできなかった。高校受験のため塾に通いだしてからはそれこそ日本人型の英語教育を受けてきたが、そこで語彙力、文法力もつき、私のリスニング能力、会話能力も飛躍的に伸びたので、このような勉強の仕方も悪くはないと思う。しかし、山岸先生がおっしゃる通り、英語圏の文化を知らずして英語を使うということは、非常に害のあることだとその頃から感じていた。日本の英語教育に足りないのは文化を教えることであると思う。私は、運良くICU高校に入り友達も半分以上が帰国生という恵まれた環境にいたので、多少は感覚的に、欧米的なものの見方や単語のニュアンスなどを学ぶことができたが、まだまだ知らないことばかりである。
 この授業で学んだこと 私がこの授業を受けて一番強く感じたことは、自分を含め日本人は日本文化についてほとんど知らない、また知っていてもうまく説明できないということである。今の英語教育の流れとしては、文法や単語能力よりもコミュニケーションに重点をおくようになってきている。私は、欧米文化を知りさえすればコミュニケーションはできると思っていたが、実際コミュニケーションとはお互いを理解することであるのだから、自分のことも説明できなくてはならないのだと思った。また欧米文化を知るということそのものが、日本文化を知ることであるということを学んだ。そして、双方の文化のバックグラウンドを知れば知るほど、日本語では表現できない英語、英語では表現できない日本語がどんどん出てくることがわかった。これからは、もっともっと日本を含め様々な国の文化を学び、そこから生まれてくる言葉というものをもっと丁寧に使いたいと感じた。 最後になりましたが、先生の授業は毎回毎回新しい発見があり、本当に楽しかったです。大学に入って初めて授業に心から興味を持つことができたと言っても過言ではないです。先生に教えていただいたことは一生忘れません。1年間という短い間でしたが本当にありがとうございました。それでは失礼致します。 (女子学生)

■過去の英語学習に思う 私が今までに経験してきた英語学習の長所は、高校受験や英検などの、主にペーパーで英語能力を試されるときに役にたったことです。しかし、習った英語は数学のように形式化していたように思えます。過去の英語授業のせいにしてはいけないかもしれませんが、受験や資格という目標がなくなってしまうと英語がすぐに身近な存在ではなくなってしまい、苦手意識をもつようになってしまいました。つまり、短所は言語としての英語を身につけることができなかったのではないかということです。今までの英語学習が無意味というわけではなく、ペーパー能力をつけることも英語をコミュニケーション手段の1つとして学ぶことの両方が必要であると感じました。なぜならやはり英語の成績は点数化されるとわかりやすく、判断基準としては不可欠なものであるからです。しかし、英語を学ぶときに最初は後者のほうから始めたほうがいいのではないかと思いました。しかし、そのためには受験英語のしくみを変える必要がでてくので難しいことだとも思いました。
 この授業で学んだこと 私は、山岸教授の授業で英語が言語であることを学びました。当たり前のことかもしれませんが、今までは英語を人の能力を判断する材料としてしか考えていませんでした。外国人の疑問などをやってきて、伝えることが大切であると感じました。英語にも古語のようなものがあり、それを普通に使ってきたことに驚き、単語の中に宗教的な意味合いやネガティブ・ポジティブがあったりと、今までの英語への認識をくつがえされるような感じがして、とてもたのしく、興味深い授業でした。また、日本人についてもいろいろ教わり、日常生活のなかでも、授業の中で学んだことを意識しています。何気ないことにも何か理由があるのではないかと思い、また、それを考えることを楽しんでる自分がいます。そして、法学部の学生として山岸先生の授業を受けられたことにとても感謝しています。今年、自分にとって一番印象的で衝撃的な授業でした。一年間ありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 中学から現在までほぼ8年にわたって英語の勉強をしてきたわけですが、振り返ってみると、それはテストのための勉強であったような気がします。語学を学ぶのは好きなので、それなりの興味を持って勉強してきたのは確かですが、結局は、学校のテスト、入学試験、TOEICなどなんらかの試験対策のための勉強であったと思うし、また自らの意思で違う勉強法を選び自主的にそれをやらなければ、このような状態はさけられなかっただろうと思います。そして今、ある程度の読み書き、会話はできても、辞書は手放せないし、話そうと思っても言葉がポンポンと出てこない状態をとても残念に思うし、疑問を感じます。時間にして考えれば、一国語を習得するのには十分すぎるであろうのに、一体自分は何をしてきたのだろう、と感じます。
 この授業で学んだこと まず思うことはこのような勉強をしてくれば、今ごろは英語を使いこなせていただろうな、ということです。毎回基本的な言い回しなのに知らなかったり、間違って覚えていたことに気づかされました。また、テストがなくても、興味をひかれたり、使えるな、と思う知識ばかりだったのですすんで覚えておこうと思えたので、本来こういう勉強をすべきだったのでは、と思いました。また、日本人についてもかなり学べて、日本人の誇るべきところをたくさん知りました。すごく貴重なお話、たくさん頂きました! 本当の意味ですごくおもしろい授業でした。1年間お世話になりました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 過去の英語学習を、山岸先生の授業を通して感じたことは、メリット半分、デメリット半分に分けられるなということです。日本の学生が受験のために英語を勉強するにあたってどうしても、英語は単語、文法中心にならざるを得ません。このことは回避できないのが現状なので、この現状にプラスアルファの要素が必要だと思います。現在もあまり変わらないと思いますが、日本の過去の英語学習は文法をある程度覚えたらひたすら単語の詰め込み作業になります。この点インプットの素養に幼少のときから鍛えられている日本人には合った勉強法なのでしょうが、アウトプットを紙の上でなく、常に相手との意見交換も考えなくてはならない会話上では役に立ちません。特にリスニング力、発音力はきちんとしたある程度の期間の練習が必要です。これは日本人がアウトプットをどうしても壁にしてしまっていることはTOEIC等のリスニング主体のテストにも現れています。私は、今の状態にプラスして会話の練習が必要であると思います。詰め込みも単語力の増強という点では役に立つのでこれを捨てるというわけではなく、これに平行して何割かの力を会話、アウトプットの練習に向ければよいのではと考えるのです。
 この授業で学んだこと 私は英語Vの授業を履修し、自分の意見の組み立て方、表現することの大切さを学ぶことができたと思います。「減点方式の授業をしない。」 私は今までこの授業のように自分が行動を起こすことで評価されていく体験をしたことがなく、ひどく最初動揺してしまったことを覚えています。間違ったら恥ずかしいという思いが先行して、慣れるのに時間がかかったのも事実です。しかし、授業が2回3回と進むにつれ、自分から授業に参加しようという姿勢、そして自分が発言するときには、論理的に考え、それを表現していくという態度が身についていきました。私が発表した問題はどれも天皇に関するものなど思想的なものが所々に散在したものだったため、先生の御講義を聞くまで考えもしなかったものや、自分が知らずに済ませていたことなども考える機会となり、有意義だったと思います。また、授業を通して自分以外の学生の意見も直接に聞くことができ、どのように他の人が考えているのかも垣間見ることができました。自己と異なる意見もあり、どこがどう違うのか、自分の中にいかに取り入れるか等も考える癖を身につけることもできたと思います。実際の授業の内容で記憶に残っているものとしては、個々の表現が現代語であるか、古語のような表現なのかと知ることができたことが印象的でした。通常の英語の授業では実際に使われている言葉というものは、日本人の先生方がほとんどの授業の中で、特にあげられる内容ではなく、知的好奇心を暗記の授業と決め付けていた英語で発揮することができ、考えを改めさせられました。最後に全体的に学んだことは、まとめになってしまいますが、自分の享受することのできる授業を最大限利用し、何か学べることがないかと行動していく態度だと思います。それだけこの講義が魅力的だったということだと思いますが、英語に限らず他の授業でも実行していけることであり、たいへん学べたことは大きかったと思います。(男子学生)

過去の英語学習に思う 今までに自分が学んできた英語は常に「テストで高得点を取るための英語」でした。「英語圏でどのように使われているかなんてどうでもいい。授業や参考書で与えられた単語や文章をまる暗記して、テストでいい点を取る。」それが自分の勉強方法でした。だから、はっきり言って過去の自分は英語の指導者を必要としていませんでした。一人でどんどん暗記すれば、いい点が取れるからです。だから、教科書の和訳を読んで、単語の意味を教えたりするような形式の授業には正直うんざりしていました。
 この授業で学んだこと しかし、山岸先生と出会って初めて、「英語の先生」に出会った気がしました。先生の授業は、英語圏で日常よく使われている表現を教えて下さるものでした。もちろんそのような表現は知っているものがほとんどです。しかし、日本語をいざ英語に訳そうと思うと、頭に浮かばなかったり、硬い表現になってしまったりで、もどかしさを感じるとともに、「自分に一番欠けていたのは、これなんだな。」と気づかされる日々でした。もちろん、単語や文法を頭に詰め込むことも大事なことです。道具は持っていなくては使えないからです。しかし、その道具の使い方を知るためにも、山岸先生のような授業がもっとなされるべきだと感じました。3学年からは語学の授業もなくなり、これからは一人で勉強することが多くなると思いますが、近い将来必ず留学して、生の英語に触れ「英語を使える人」を目指していきたいと思います。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 単語、熟語、文法。大学に入るまで、私にとって英語学習という言葉が意味するものはそれだけでした。とりあえず単語、熟語を覚え、文法を理解する。色々な構文の形を暗記し、文章を同じ意味で書き換えられるようにする。そうすれば試験問題は解けるようになる、と。けれども、大学入試を終えて、もう試験で点数を稼ぐためだけの勉強をする必要がなくなったとき、改めて自分は何のために英語を勉強しているのか、そもそも今までしてきたことは本当に英語の学習になっていたのだろうか、と疑問を感じました。確かに、単語や文法は大事です。日本語とは違う言語なのですから、まず単語を覚え、構造の違いを理解し使えるようにするのは基本です。けれどその土台を築いたあと、些細な文法の間違いを気にしたり、文法上は正しくても、実際には使われていないような構文を一杯詰め込んだりすることの他に、すべき学習はたくさんあったのではないか、という気がします。
 この授業で学んだこと この授業ではそういった今までの英語学習において欠けていた部分、というよりも、まさしく本来の英語の学習を実践していると感じます。大学に入るまでに私がしてきたことは、英語という言語の学習ではなく、英語の試験のための勉強に過ぎなかったのだと気付かされました。言語である以上、英語は生きているものだし、私達が日本語を使うときと同じようにTPOによる使い分けや様々な表現方法があること、言語は文化の一部であり、また価値観の違う異文化間で意思疎通を図るための道具でもあるのだから、まず前提となっている相手(ここでは英語圏)の文化をよく理解すること、そして日本の文化を相手が理解できるように説明することの重要性を学びました。それを留学生の質問に答えるという形で実践練習でき、またその過程で、自分が日常で当たり前だと思っていたことや慣習が実は日本の歴史や文化に深く根差しているものだと知ることができ、自分の日本人としてのアイデンティティについて考えさせられました。国際化の進む現代で求められているのは、こういう学習なのではないかと思います。これからもこのような学習を続け、授業で学んだことを実践していきたいと考えています。一年間、本当に有意義な時間をありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 私が生まれてから始めて学習で英語に触れたのは、小学校一年生のときに近所の英語塾に通い始めたときでした。先生も日本人で、ほんとに基本的な会話や単語しか学ばなかったので、後々の学習にとても役に立ったというわけではなかったのですが、英語文化に触れるという経験としてみれば、やっておいて良かったと思います。中学から始まった学校の英語教育は、とにかく文法、単語、その反復練習でした。しかも、文法も単語を根本の意味を理解して身につけるのではなく、ただ表面上の成り立ちや1単語1意味を丸暗記するだけのものでした。さすがに高校に入り、受験用の塾に通うようになると、1から文法の意味を理解しつつ覚えるようになりましたが、学校では依然暗記すればできるようなテストが続き、受験用の勉強でも、単語、慣用句、基本的な文法の形の暗記に偏っていた事は否めません。しかしながら一方で、繰り返し反復して暗記することによって、骨の髄までマニュアル的で一義的な英語が叩き込まれ、しっかりとした素地はできました。 この授業で学んだこと 今年山岸先生の授業を初めて受講し、今までの英語の授業とのそのあまりの違いに驚きました。授業を英語で進めるわけでもなく、一面に英単語が印刷されたプリントや教科書を使うわけでもない。日本語で、日本の事を説明するために今まで当たり前に受け止めてきた事を考え直したり、1つの英語表現にもその歴史的背景や宗教、文化面を考慮して、生きた英語表現を身につけられる時間だったと思います。その都度、今まで私が学んできた学校教育英語がいかに実際に使いづらいものかという事が分かりました。初めはその今までとの違いに戸惑いましたが、時間がたつにつれてこの授業の学び方のコツが分かってきて、授業が楽しくなっていきました。最後のほうは、日本文化の真髄、生きた英語、ニュアンスの違いなどがうまく学べて、日本語と英語のおいしいトコ取りだなと感じました。先生のお話は示唆に富んでいてとてもためになりました。1年間ありがとうございました。これからもこの授業で学んだ事を忘れないでいたいと思います。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 私は今までの英語学習には良かった点も、これから改善すべき点もあったと考えます。まず良かった点ですが、中学校から大学受験を通して大体の英文なら辞書があれば読むことができるようになれたことです(表面的な意味だけでコンノテイションまでは読み取れませんが)。これは中学・高校時代の文法・構文学習と大学受験の膨大量の単語カードが効いていると思います。次に、改善すべき悪い点はたくさんあります。@暗記中心の学習で、聞くことや、特に話すことに重きが置かれなかった。A学習している英語のレベルが分からない。たいていは古い言い回しでスピーチレベルでは使われないものばかりでした。Bスペルミス、冠詞・前置詞の間違いなどがテストで細かく減点されてしまう。これが原因で書くことや話すことが消極的になり、ひいてはできなくなってしまいます。他にも数多く悪い点はありますが、総括して言えば丸暗記中心の受動的・消極的な英語学習です。このような学習を続けていけば、日本人はいつも黙っていて話してもつまらないと言われても仕方ないと思います。
 この授業で学んだこと 私はまだ一度も日本から出たことがないのですが、山岸先生の授業を受けて、カルチャーショックをうけたような気がしました。外国人はこう考える、何故ならそれは聖書の〜に根ざした思想が根底にあるから、など、山岸先生がおっしゃる外国人の文化、言動、考え方にびっくりすると共に、それには深い文化的歴史的理由があるということを学びました。そして何気ない言葉の裏にも辞書には載っていない意味や歴史・文化が隠れていて、軽率にそれを踏まえずに使ったりすると、誤解を生み、相手を怒らせたり傷つけてしまうことがあるということも学びました。また私は正直、今まで日本や自分が日本人であることにあまり誇りをもっていませんでした。すぐに謝って、自己主張もなく、妥協が好きな日本人を情けないと思っていました。しかし日本の文化や日本人の性格も、先達が苦労して作り上げた長い歴史の賜物であって、立派な理由があることを山岸先生から学び、自分が今まで20年も日本に住んでいながら、いかに日本について無関心で無知であったかを恥じるとともに、日本人であることを誇りに思いますし、外国人に日本の素晴らしい文化を知ってもらいたいとも考えるようになりました。今では、足を引きずるようにして歩く人の姿さえ、いとおしく思えます。相手を理解するためには、相手国の歴史・文化を知り、日本人の発想からではなく、相手がそう考える理由を納得してその立場で考えなければならない。逆に日本のことを理解してもらうには、まず自分が日本の歴史・文化をよく理解し、相手に納得してもらえるように、日本に関して説明する力、知識を持たなければならない。私は英語という授業の枠でありながら、以上のような今までの英語学習または日本人に欠けていた最も重要なことを山岸先生から学ばせて頂いたと考えます。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 中学・高校の英語の授業を思い返してみると、非常にインプットする事が多かったように思う。単語の意味の暗記、文法問題の反復練習、長文読解など、とりあえず先生の授業を受動的に聴くというものだった。そのお陰で文法的な面では非常に強化されたのではないかと思う。私は中国人の友人と話をする時やメールをする時に英語を用いるが、彼らの英語は文法的な観点から考えると、明らかに日本人よりも劣っているのだ。もちろん私たちの英語が素晴らしいなどとは言えないが、文法に関しては少なくともきちんと教育されたのではないか。しかしながら、いざ話をするとなるとたじたじしてしまう。日本人は話せないと言われるが、アウトプットするための訓練をしていないのだから、当然である。近年小学校から英会話の授業が取り入れられるなどいわゆる英会話に対する取り組みが日本で見られるようになった。しかし、ただ言葉を発しようとしてもうまくいかない。それはその前提となるような表現する力をつけていないからではないかと思うのだ。そ して私が一年間受講してきたこの授業では、そのための力をつけるような学習が行われていたのではないだろうか。
 この授業で学んだこと  私が一年間通じてこの授業で学んだ事は、これまでの「英語」という枠に留まらない非常に総合的なものであったと思う。英語を相手に伝える、その前提としての「理解」というものの必要性を実感した。まず、相手国の考え方・習慣を知ろうとする姿勢である。英語をただのアルファベットの配列と考えない、そんな授業であった。さらに、英語という母国語ではない言語を通じて自分の国の価値観・慣習を見る、あるいは見ようとする姿勢とその道しるべを学ぶことが出来たのではないかと思う。自分のことを表現すること、そしてその際に受験用の単語帳には載っていない日本語と英語のズレ・文化の違いを認識しなければならないということ、こういったことは今後の私の「英語」を大きく変えるであろう事である。最後に、私は一人の人間としての山岸先生にこの場を通じて出会えた事もまたこの授業で学んだ最も大きな事であった。私は、これまでの授業であんなに自分の事をきちんと認めている先生にあったことはない。自分のことを認めているからこそ、私たちのことを信じる事が出来るのではないかと思うのだ。(たとえば、挙手の回数は自己申告
【注】であることはその表れであると思う。) 山岸先生、一年間ありがとうございました。(女子学生)
【注】私のクラスでは一回の授業で何回挙手し、発言したかを、授業終了後、自己申告の形で、私の手元にある申告書に“正”の字で書いてもらいます。《優》を取りたい諸君は、試験・レポート提出以外に、半期で25回以上の挙手が必要となります。)

■過去の英語学習に思う 近年、日本の英語教育は批判を浴びている。すなわち、「読む、聞く」といった詰め込み式のインプットばかり行い、「話す、書く」というアウトプットが足りない、というものである。確かに、言語というものはアウトプットが足りなければコミュニケーション手段としての意味をなさない。しかし、だからといってインプットをおろそかにしていいわけではない。私は中学・高校と慶応義塾湘南藤沢に学んだ。そこでは、日本の典型的な詰め込みではなく、文法や単語の知識と並行して、プレゼンテーションやライティングの授業が必修として取り入れられていた。私はこの方針に賛同していたし、アウトプットという実践の場がある事で楽しく英語の授業を受ける事ができた。また、英語とはコミュニケーションの手段である、という認識を無意識のうちに身に付けたと感じている。そして何より、英語を「使って」人と話そう、という意識、意欲が身についた。しかし、そういった教育を受けてきた私が、今英語を自在に操れるか、というとそうではない。もちろん、私個人の努力の不足も原因の一つではある。しかし英語を本当に使えるようになるためには、インプットとアウトプット、双方が一定の能力まで達していなければならないのである。いくら積極的に喋り、書く意欲があろうとも、単語や文法の知識が不十分ならば何も出てこない。日本の教育が行ってきた、単語や文法の基礎知識は、確かにそれだけでは意味をなさないが、最終的に英語を駆使できるためには必要不可欠な能力なのである。今私は、それを身をもって感じている。なぜなら、私はアウトプットの必要性ばかりに気をとられ、機械的な単純暗記作業である文法や単語の学習をおろそかにしたからである。私は、英語教育において改善しなければならない点は、インプットを批判し止める事ではなく、インプットとアウトプットを並行して行う事であると感じる。そして何よりも、双方の能力の必要性を生徒に認識させるような授業スタイルを取り入れる事だと考える。英語教育に疑問を感じる点はまだある。それは、英語は英語という学問を究める事、という語学の本質から外れた目的が設定されてしまっている点である。これは日本の受験の為の英語学習、詰め込み式の勉強法と決して無縁ではないだろう。語学は、自分の考えた事、お互いの文化を伝える為の手段であって、語弊がある事を承知で言えば、英語を学ぶ事そのものに目的があるわけではないように思う。これからはもっと、生徒の英語に対する意欲をあげるためにも、英語を実践として使うという場を増やし、英語の「手段」という側面を強調した教育をのぞむ。そして一番疑問に思う事は、英語から日本語、日本語から英語への「訳」が正確ではないという点である。言葉というものは根ざした文化や習慣に基づいて形成されていく。だから一つの文を細分化し、それぞれにいちいち訳をつけてみても、それは本当に「通じる」言葉にはならない。まず元となる言語が本当は何を言いたいのか、という背景を的確に読み取った上で、それに相当する他言語を注意深く選び出して初めて「訳」は成立するのである。今の日本の学習ではこれを学ぶ事は難しいだろう。英語を学ぶ際に、そういった文化の違いを学べたら、と、今改めて感じている。 
 この授業で学んだこと 私は初回この授業を受けた際に驚いた覚えがある。私にとって文法の英語の授業というものは、机に座って、教科書を使ってひたすら英語の文法を教え込まれるものというイメージがあったからだ。それは日本の教育に対する偏見だったように思う。一般の日本の学校からすれば特殊な英語教育環境といえるであろう学校に在籍していたせいもあるだろう。とにかく私は、その思い上がった考えを改めざるを得なくなった。山岸先生の授業は、まず何よりも私達日本人が当たり前に知っているべきである「日本の文化」を学ぶところに主眼がおかれていた。先生の、教科書には書いていない日本の古くからの習慣、行事の話はとても興味を持って聞く事ができ、いかに自分が日本人について知らない事が多いかを思い知らされた。よく、「外国語を学ぶ事は母国語を知ることでもある」という。この授業はまさにそれを実感できる本物の英語の授業であったと感じている。英語は何かを伝える為にある。日本を知らない外国人に、日本の文化や日本について伝える事の意義を改めて感じた。私は今まで、英語で話すべき事は英語圏に関連する事だけだ、という勝手な勘違いをしていた。しかし、日本人である私がやるべき事は、そして実際に仕事において英語を使う場面というものは、自分達の周りに普段ある事をいかに英語に置き換えて他人に伝えられるか、という、普段日本語に求められるものと同じ能力だということに気づく事ができた。そして、授業中に取り上げられた外国人が感じる日本についての素朴な疑問では、日本が他国からどう見られているのかを知る事ができて新鮮であったのと同時に、質問される事でより日本の伝統やそれに根ざしている文化に気づく事ができた。前述したが、互いの文化の違いや背景を理解しないと、思った事を的確な外国語に置き換える事はできない。私はその重要性に気づく事で、英語に対する意欲があがったと思え、感謝している。また、手を挙げて発言する事、発表をする事など、強制のされない、しかし積極的な姿勢を求められる授業のスタイルに心から賛同した。学ぼう、という意欲に合わせてそれを活かせる授業は良い授業であると思う。私はこの授業を取って、英語を何のために学び、使うかという意義と、日本の文化をもっと伝えられるようになりたいという意欲を得た。この授業はとても意義のあるものになったと思っていると共に、豊富な日本についての知識をお持ちである先生に心から尊敬の念を表したいと思う。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 中学から英語教育が始まり、高校、大学と学んできているわけですが今までの英語学習というのはいわゆる受験であったりテストであったりが目的で、なぜ勉強するかというと「点を取るため」という理由からでした。そのような学習によって得られることはマニュアル化された英語であり、日本人の先生が考えた模範解答にできるだけ合致するように問題を解いていくテクニックだけだったような気がします。たとえば「あなたの趣味は何ですか?」を英訳せよという問題があったとして、これに対しWhat is your hobby?と解答したらおそらく正解がもらえると思いますし、僕が家庭教師だったら同じく正解にしていました。しかしこれを欧米人に使ってしまうととても失礼な質問になってしまうことを山岸教授の授業を受けて初めて知りました。このように中学1年生程度のやさしい英語問題でさえもしっかりした解答をすることができない今までの英語教育はやはり問題であると思います。これからの英語教育はいい学校に入るためや、いい点数を取るための勉強方法ではなくもっと本質的なことを教えていくべきだと思いました。山岸教授の授業の中でいろいろ学んでいくうちに、欧米人と話す機会がある時など何気ない簡単な台詞が実は失礼な言い回しになってしまっているのでは、と1から英語を勉強しなおしたい気持ちになります。
 この授業で学んだこと 山岸教授の授業を受けて、今までの英語学習では得られなかったようなことを学べただけでなく、日本の文化や道徳といったものまで学ぶことができました。日本人が今あたりまえに行っているようなことに儒教が大きく関わっていたり、いわゆる列強と呼ばれた欧米諸国からも一目置かれるような日本独自の文化であったり魂が存在することを知ることで、改めて日本人に生まれてよかったと思いました。今の日本は景気も良くなく、どこか日本はもうだめだといった雰囲気が漂っていますが、この授業で日本人としての誇りを思い出させて頂けたと思います。また、いかに英語と日本語の間に差異があり、宗教、文化、環境の違いによって何気ない一言が大きな勘違いを生んでしまったりするのかということも学べました。欧米では日本人の我々が想像もしないくらいキリスト教などの宗教が生活に大きく関わっていたり、我々が普通だと思っていることが相手方からは信じられないことだと思われたり、またその逆もあるということをこの授業で知ることができました。友人に英語の授業でこんなことをやっていると教えると皆、興味津々でした。山岸教授の授業を履修できたことで毎週金曜日が楽しみになり、大学2年生を有意義なものにできました。これからも御身体に気をつけてがんばってください。短い間でしたが1年間ありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 英語を勉強し始めたのを中学生の時からと考えても、すでに8年間になるが、この長い歳月の中での英語学習といえば、単語の丸暗記や構文etc文法だらけのものであった。このような勉強法をひたすら繰り返すことで、私はいわゆる難関校のトップレベルの入試英語をくぐり抜けてきたのである。しかし、その反面何年経っても英語というものが自分の身に付いている気にはなれないでいた。それをはじめて痛切に感じたのが1年の時のCNNニュースを聞くというリスニングの授業だった。この授業の春のテストが50点中24点で、なんと最低点をとったのだ。ついこの間まで英語の偏差値も非常に良かったはずが、大学に入った途端に英語が不得意科目となったことに自分でも本当に驚いた。入試でリスニングがなかったとはいえ、今まで目安としていた偏差値が、英語の能力の高さとは全く別の次元のものを指しているのだということを知った。そして2回目のショックが、今回の山岸先生の授業である。簡単でかつ完璧に見える英語の一文も、実は自分がイメージしていることと大きく異なった印象を英語圏の人に与えていたりするというのだ。日本人がプラスに表現しようとしていることであっても、正反対のマイナスに捉えられたり、表現が堅すぎたりしておかしかったりする。このように、入試では全く問題のなかった私の英語力は、聴覚の面でも表現力の面でも根本的に何かズレていて役に立たないということに気付かされた。忘れてしまいそうで当たり前である、英語が「言語」であるという視点から考えると、画一的な丸暗記や文法ばかりではなく、むしろ全く 違った文化背景を持つ人々を繋ぐコミュニケ−ションとしての機能を重視し、その間に生じる相互意識のズレもまたきちんと認識していく必要があると感じた。
 この授業で学んだこと
 この授業は他の授業とは全く違う形式で本当に面白かったし、ものすごく色々な面で勉強になった。授業で習う全てが新鮮であり、発見の連続でもあったからである。外国人の疑問を通して、今まで疑問すら感じなかった日本独自の文化や伝統に目を向けるようになり、日本人として誇れる部分というものも同時に学んできた。外国人から見て、日本のどこが異様に受け取られるのであろうか。我々は、欧米との違いがあれば、何の迷いもなく日本風を切り捨て欧米風を採用してきた背景がある。しかし、それは決して日本風が悪いのではなく、それにはそれなりの訳があって存在しいているのだから、その日本風の良い所をきちんと説明することができれば、外国人だって必ず受け入れ、ましては感心するかもしれない。しかし、そのためにはまず我々日本人自身が日本という国について知る必要があり、その知識を説明できる力も必要である。この授業の中に毎回毎回その知識が詰められ、学生は自由に発言が求められ、自らの調べた範囲で発表を行ったりした。授業中の発言というのには慣れないため、始めは発言を成績に結びつける間接的な強制という感じがしていた。しかし、その発言も次第に思ったらすぐに答えるという自然な行動としてクラス全体に浸透してきた気がする。実際にこの1年を通して日本について知らないことは非常に多く、その新しい発見に触れることは大変興味深かった。先生の質問に答えられなくても少なくても自分の頭の中で一度は考え、他の授業のような完全な受け身としてではなく、主体的に授業に参加するようになっていた。講義要綱を見て何となく履修してみたが、この山岸先生の授業はいつまでたっても印象に残るものになっていくと思います。ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 山岸先生に出会うまでの、僕の英語学習とは、受験英語の訓練に他ならなかった。徹底的に文法の反芻をし、あらん限りの力で単語を覚える。いかに多くの構文と単語を知っているかが「英語」のできる唯一の指標であった。 これでよかったこともある。何はともあれ英語を読む、書くはできるようになったからだ。それに、たくさんの入試問題や練習問題を解くこと、単語帳を端からがぶ飲みすることで短期的に効率よく英語博士にはなることができた。しかし、中高3年間で覚えた構文や単語は大学生活の中、一瞬で記憶のかなたへと埋没した。なぜか、僕たちは英語を理解し「使う」訓練をしたのではなく理解し「覚える」訓練をしていたからだ。高校ではかなり高いレベルで「覚える」訓練をする。つまり、覚えて使うではなく、覚えたらより高度なことを覚える繰り返しをするからだ。そのため、その単語の本来の意味はもちろんのこと実際に使われているかの真偽さえわからないのが現状だ。ただ無意味に覚えれば、暗記の速度は速いが、忘れるのも速い。日本の大学生の英語レベルが相対的に低いのはこのためであると思う。難しい構文や俗語を覚えることにどれほどの意味があるか、正直わからない。しかし、僕が学んできた英語教育の一番の短所は「実際に英語をどう使うか」ではなく「どう覚えるか」に終始してきたことであると思う。
 この授業で学んだこと 山岸先生には1年間多くのことを教えていただいた。ひとつは英語を恐れずに使うことだ。難解な構文や単語、規則に縛られた勉強をしていたため、いかにきちんとした英語を使うかが頭の中にあった。伝えたいこと、聞きたいことは山ほどあったが、僕はいつもこの呪縛に囚われ、英語を話したり使ったりする機会を自分で失していた。そしていつしか僕の英語力は受験時代からかなり退化していた。山岸先生は、たとえ細かい文法の間違いがあっても、表現が幼稚であってもいい。外国の方に興味を持って話を聴いてもらうこと、自分の伝えたいことを理解してもらうことのほうがずっと大事だと教えてくださった。授業でも細かい指摘は少なく、伝わっているかよく調べたかを重視してくださり、積極的に褒めてくださった。もうひとつは、日本のことをよく知る機会を与えてくださったことだ。僕たちは「国際」とか「グローバル」といった言葉を常に使っている。視線の先は世界といったところか。しかし、自分の国のことがわからずして世界が見られるはずはない。見られると勘違いしているだけだ。英語を通して日本文化に触れる機会をこの時期に持てたのは貴重な体験だった。日本という国を再認識できたこと、日本人として生まれたことに誇りを感じることができたことは大変意義深かった。しかし、授業で自国の文化を学ばないといけないことに現在の文化教育の低さを感じざるを得ない。僕は、幸せだと言えるだろう。電車に乗っていてお年寄りに席を譲ろうとか、ポイ捨てをやめようとか当然のことを先生に意識させていただいた。これだけでも授業をとってよかったと思っている。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は中学・高校・大学で英語を学んできました。英語で受験をしたことがないので、いわゆる受験英語と呼ばれる学習はしたことがありません。中学・高校の英語学習を振り返ると、「読む」・「書く」がその中心だったと思います。とりわけ高校の3年間は、文法の授業も少なく、リーディングの授業が8〜9割位を占めていたと思います。テストは、テキストを暗記すれば点数が取れてしまうものだったので、ついつい一夜漬けになってしまい、自分に吸収されたものはごくわずかしかないように思います。そのため、受験で入学してきた人たちとの語彙数や文法力の差を感じることも多くあります。しかし、受験にとらわれない分、授業で新聞やインターネットの記事を読む機会がありました。英語の基礎が少ないため新聞記事を読むのは大変でしたが、タイムリーな時事問題が取上げられるので、日本の新聞やニュースでは取上げられないような立場の意見などを読むことができ、その内容は興味深く、今でも印象に残っています。一方で、イギリスにホームステイし語学学校に通い、様々な国の人と話したことがきっかけで、文法よりも何よりもまず、自分の考えや気持ちを相手に伝える手段としての英語に非常に関心を持つようになりました。その点では、中学や高校で学んできた英語学習ではコミュニケーションの手段としての英語を満足できる程身に付けることができず、残念に思います。
 この授業で学んだこと 日本の文化に対する外国人の疑問に答えるという内容に興味を持ち、この授業を履修しました。日本の文化や風習を説明するにあたって、自分の日本の文化・習慣に付いての知識の少なさを目の当たりにし、恥ずかしく思いました。日本語、英語といった言語の違いは単に文法や言葉の違いだけでなく、そこにその言語を使う国の成り立ち、文化、宗教など様々な背景の違いがあらわれているのだということを学ぶことができました。語学を学ぶと言っても、文法や綴りといった細かい1元的な面に必要以上に捕われるのではなく、多元的に積極的に学ぶ姿勢を少しでも身に付けることができたと思います。また、日本の文化の良いところ、悪いところを認識することで、より一層英米人との考え方の相違点を知ることができました。その上で、同じことを伝えるにしても表現の仕方が全く異なり、日本語から英語に直すとかえって相手に不快を与えたり不自然になってしまったりするような日本人の英語表現を、伝わる英語に直していく授業は毎週とても興味深かったです。また、先生の教科書を拝見したり、外国人の疑問にどうしたら分かりやすく、興味をそそられるような文章になるか考えることから、単語一つ一つが持つ意味をきちんと吟味し、その場その場に適した言葉を使っていかなければいけないということを学ぶことができました。山岸先生の授業は、私が探していたような、自分の気持ちを伝える英語を学ぶことができる英語の授業で、毎週毎週がとても貴重な時間でした。1年間ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う これまで、私達は、中学、高校と、何の疑問も感じないまま、ただひたすらに英語学習をおこなってきました。国の教育方針のままに英語をつめこまれて来た 、といっても過言ではないかもしれません。これまでの英語教育では、ひたすらに単語、熟語、構文といった基本事項(時には日常会話のレベルをはるかに超える難解なものまで)を頭に叩き込み、主に受験という目標のために勉強してきたといってもよいでしょう。単語力、という面においては、かなり有用な教育かもしれませんが、反面、私達のように、読むことにおいては一定水準以上の能力を持ちながら、いざ、会話をするとなると、全く言葉が出ないという学生を多く作り出してしまいました。つまりは、「インプット」の練習ばかりで、「アウトプ ッ ト」の練習をおろそかにした教育が行われてきたのです。英作文、といった作業も、一見アウトプットのようで、実際には決まった文を書けば点がもらえ、それ以外は細かく意味のない減点をされる、いわば「英借文」でしかない、と思います。こういったことから、もっと実践に有用な、正しい英語を学ばせる教育方針を、国には打ち出してほしいものだと感じます。
 この授業で学んだこと 私が、一年間を通じて、山岸先生から学んだことといえば、数えればほんとうにきりがありませんが、ここではかいつまんで書いていこうと思います。第一に、今の日本の英語教育の真の姿についてです。前にも述べましたが、今の英語教育は、全く意味のない減点方式にとらわれ、最も重要な、相手とのコミュニ ケーションの成立という目標を忘れ去っています。ただいわれるがままに単語などを詰め込んできた私にとっては、何か大きな過ちを、自分が指摘されたような気持ちになったのを覚えています。第二に、多くの英語に間違った解釈がなされている、という事実です。こういった分野の先駆者ともいえる山岸先生の生の声に触れ、現在の辞書の多くの間違いが知れたことは、自分の今後にとってもかけがえのない経験になったと思います。そして最後に、「英語」のみならず、自国の文化について再発見したことが多くあったということも忘れてはならないと思っています。以上、簡単にではありましたが、私は本当に、短い間とはいえ、山岸先生の講義を受講させていただくことができてよかったと心から思っています。一年間本当にありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は中学入学時から英語の学習を始めましたが、中学・高校でも大学受験に際して通った予備校でも、単語を覚え、熟語を覚え、構文を覚え、短文の和訳のパターンを覚え、英語長文をいかに読解するかのテクニックを身につけるということを反復していました。もちろんそこで反復・継続して記憶したことは現在の私の血となり肉となっていると思います。しかし、同時に「この文章をこう訳す」というように機械的にパターン化して記憶してきたことで、相手と自分との立場・関係や場面といったTPOに対応できない硬直した英語を身につけていていました。英語に慣れ親しむというよりも先に、とにかく文法を厳密に身につけ、そのルールを踏み外さないようにテストを受け、文法というルールを踏み外す毎にその都度細かな減点をされた答案が返却される・・・ということを繰り返すことで、型にはまり込み、TPOに応じて柔軟に英語を考えることが出来ないままだったように思います。
 この授業で学んだこと 先生の授業を受けさせていただいて、非常に多くのことを学んだと思います。過去に学ぶことのなかったTPOに対応した細やかな英語表現もそうです。そして、英訳・和訳をパターン化して暗記することで日本語と英語にズレが生じるのは、そもそもの双方の文化背景に由来しており、語学を学習するに際してはそうした文化背景への理解も不可欠であるということも教えていただきました。また、海外からの日本人(あるいは日本文化)への疑問というものに取り組むことで、まず自らの文化背景についてあまりに無知であることを痛感しました。そして、そうした疑問に取り組むうち、日本人である自分がなぜそのような思考経路を辿るのかが少しずつ分かってきたように思えます。学んでいくほどに日本の文化に興味を持ち、大げさかもしれませんが、誇りを感じるようになりました。そして、その文化への海外からの疑問に答えるべく、コミュニケーション手段として英語を使い、説得的な英文作成を試みることは、非常に真剣に取り組めましたし実践的で勉強になりました。一年間という短い時間でしたが、本当にありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は今まで小学校・中学校・高校・大学で英語の教育を受けてきました。小学校では外国人の先生とゲームなどをして、英語に親しみました。これは始めて英語を学ぶ者にとって、英語に対する恐怖感を取り除くよい方法だと思います。中学校から本格的に英語の授業が始まり、教科書の文章を読んで文法などを学びました。また、この頃は声に出して英語を読む教育もなされて、暗唱大会が開かれたりしました。中学校では英語の基本をしっかり教わり、また、スピーキングに慣れることもできたのでよかったと思います。高校では中学校の延長のような内容で、大学受験のために勉強しました。色々な単語や連語を身につけることができましたが、実用性のないものが多く、ふだんの生活で使えないものばかりでした。そして大学に入ってからの学習は、主に読解で、普段使わないような表現がたくさん入った文章を読みました。もっと実用的な英語を学べればいいのにと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業は私が今まで受けてきた英語の授業では学べなかったことを学ぶことができました。まずは外国人の目には日本人はどのように映っているか、ということを知りました。私たち日本人が生活の中で何気なくやっていることにこんなにつっ込んで質問されるとは思いませんでした。その何気ないことに対する質問に答えることで、日本の習慣などを再確認し、さらには今まで以上に深く知ることができ、とてもよかったと思っています。日本人である私たちが日本のことについてよく知ることは大事なことです。また、教科書のほうでは今まで気づかなかった日本人的な英語の間違いを知ることができ、日本人ではなく、外国人を相手にした英語を学ぶことができました。そして、授業で手を挙げて発言することで、高校・大学生活で失っていた授業に対する積極性を身につけることができたと考えています。この姿勢は他の学習にも活かしていくことができると思います。(女子学生)

過去の英語学習に思う 過去に私に英語教育をしてくださった先生方には非常に感謝しています。小・中・高の英語教育の目的は、私にはよくわかりませんが、先生方はみな、スピーチやゲームなどそれぞれに独自の方法で、教科書の読解・文法では決して味わえない、英語を学ぶことの楽しさを教えてくださいました。そんな私を少しでも、英語嫌いにさせたのはやはり、受験英語だったような気がします。知識の詰め込み型の勉強は、その実際の使い方までは教えてくれません。苦労して勉強して大学に入っても、その英語はなかなか使えません。それどころか実践する機会もありません。帰国子女の友達や留学生の流暢な英語にあこがれても、もはやそれを学ぶことに半ばあきらめムードが漂っています。グローバル化・・・英語の必要性もわかります。文法を型通りに学ぶことが無駄だったとは思いませんが、せめてもうすこし、実用的な教育をしてほしかったと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業は私にとって革命的でした。英語という科目を受けているはずなのに、同時に日本文化についても学ぶことができました。しかも、日本語でそれを学ぶのと違って、外国人(特に英米人)の日本に関する疑問に答えるという形式なので、日本で当たり前とされていることが当たり前で片付けられないのです。先生(外国人)はなんとなく・・・で済まされず、なぜ・どうしてを追究してきます。それを繰り返すうち、日本文化の根底にあるものを知らず知らずのうちに、身につけていたような気がします。それから、この授業では言葉の大切さを学びました。実用的な英語表現、間違いやすい英単語の使い方だけでなく、日本語の語源・使い方まで、先生は様々な話を織り交ぜて話してくださったので、非常に興味深かったです。この授業で学んだことを生かして、日本人として外国人に質問されたときに恥をかかないようにしたいと思います。(女子学生)

過去の英語学習に思う  英語という教科が学校の授業として入ってきたのは中学に入ってからですが、私が中学、高校でやった授業というものは、教科書を中心に短文、長文を読み、その中に出てくる単語、文法を先生が解説してくださるという感じでした。試験は、主に文章の間違い直し、前置詞の穴埋め、文章の書き換え、和訳・英訳などが出ました。大学受験の際に通った塾でも同じようなことをやっていたように思います。こうした授業を通して、私が思った長所と短所を述べたいと思います。まず長所だと思う点は、文法に強くなったことです。文法問題をたくさん解くことで、いろいろな構文を覚えました。試験に出るような問題には得意になりましたし、動詞の変化や単数、複数形、冠詞などを気をつけて丁寧に文章を作れるようになりました。単語も一生懸命覚えました。そのおかげで、単語も増え、英文が読みやすくなりました。次に、短所となる点は、英語が話せないということです。ペーパーテストは得意でも、外国の方々の前に立ってしまうと、なかなか言葉が出ないのです。また、一生懸命覚えた単語も、「どういう時に、どう使うのか」がいまいち分からないということもよくあります。ニュアンスの違いなどがよく分からず、「日本語から作る英語」になってしまうのです。ただ単語帳を通して覚えた単語では、間違った使い方をしてしまう恐れもあります。やはり、叩き込む、という英語学習には問題があると思います。 
 この授業で学んだこと  私は、この授業を通して多くのことを学びました。山岸教授の授業は、自ら授業に参加する、つまり、手をあげるという機会を与えてくれました。中学、高校を通して、自ら手をあげるということをしてこなかったように思います。やはり、恥ずかしいという感情が最初に来てしまい、受身の授業となることがほとんどでした。しかし、山岸教授の授業では、手をあげる、そして自分の考えをしっかり伝えるということに一生懸命取り組みました。これから社会に出て、自分の意見をしっかり言うということは大切なことだと思います。この機会を与えてくださったことに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。また、この授業を通して、「自分は日本人であるのに、いかに自分の文化を知らないか」を痛感しました。日ごろの日本人の一つ一つの行為には歴史的背景があったのだということを知りました。先生は、日本という国と向き合うという機会を与えてくださいました。この授業で山岸教授に出会っていなかったとしたら、何も知らずに社会に出でしまっていたのです。今考えると恐い気がします。毎回山岸教授がしてくださる話は、どれもが本当に勉強になるものでした。いろいろなことを教えてくださってありがとうございました。毎週金曜の三限は、いつも楽しみでした。一年間本当にありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 今までの私の英語学習を振り返ってみると、文法・イディオムの暗記が英語学習の中心だったように思います。言語の背景にある文化のことはほとんど考えもせず、ひたすら英文を和訳する、英文の空欄補充をするというような勉強を繰り返してきました。そのような学習の結果、新聞を読むなど書かれているものから情報を読みとる能力はある程度ついてきたと感じますが、実際に自分が言いたいことを言える能力は残念ながら不足していると思います。ボランティアで、日本語学校の学生(中国・韓国の人)とお話する機会があり、そこで日本語の学習をはじめて一年も経たない人たちが大変上手く日本語を話していて驚いたことがあります。私は中学から今まででかれこれ8年英語を学んでいるのに、彼らが日本語を話すように、英語を使えるようになっているだろうか、と考えさせられました。コミュニケーションの手段としての英語を身につける学習ではなく、受験や学校の試験といった日本の中だけで通用する英語に重点が置かれた教育を受けてきたと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業から言語の背景には文化があるということを意識するようになりました。英語を学習するには英語圏の文化も知らなければ、文法的に正しい文であっても外国人に自分の伝えたいことを正確に伝えることはできない。このことは、今までの文法中心の英語学習では学んでこなかったことです。そして、英語圏の文化を知るよりもまず自国の文化について十分に知る必要性を感じました。「外国人の疑問」には、日本で日頃よく目にする光景や日本の風習について外国人の視点からたくさんの疑問があげられていましたが、改めてなぜと聞かれるとわからないものばかりでした。日本人でありながら、自分がどれほど自国の文化について無知であったか痛感しました。「国際化社会と言われているが、自国の文化について知らない人間が他国について理解することなどできない」と先生がおしゃっていたことが印象的でした。1年間、「外国人の疑問」と教科書の学習を通じて、日本の風習や日本人の価値観には農耕社会、アミニズム、言霊思想といったものがいきていること。そして、そういったことの説明をしないでうわべだけの事柄を言っても外国人に日本文化についてよりよく理解してもらうことはできないことを学びました。また、英語圏の人々の価値観にはキリスト教が多大な影響を与えていることもわかりました。日本には素晴らしい文化がたくさんあることを知り、そういう部分は他文化の人々に自信をもって伝えていきたいです。反対に、日本の良くない部分は他文化から学ぶべきだと思いました。また、今までの英語教育では、日本語をそのまま英語に直せさえすればいいと言われてきて、自分の書いた英文が外国人にどのように思われるかなど考えたこともありませんでした。日本語と同じように英語にもスピーチレベルがあること、外国人が使わないような英語表現であることなど考えもせず、今まで英語を勉強していたということに気づかされました。英語は外国人とコミュニケーションをとるための手段であるのになぜ、このようなことを過去の英語学習では教えてくれなかったのか不思議です。この授業をとらなければ、過去の英語学習について考えたり、英語と日本語の間にある文化的相違についてこれほど考えることはなかったかもしれません。この授業をとって日本について、英語について今まで知らなかったことを学べて良かったです。そして、英語で話してみたいと思う事もできました。一年間熱心にご指導いただきありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私は中学、高校時代から英語という科目はとても好きでした。なぜなら、新しい言語を学んで、これがしゃべれるようになれば憧れの外国人と話せると言う気持ちも有りましたが、数学や科学のように細かい計算もないし、かといって国語のように心情を読み取るといった抽象的な問いも無く、英語の知識が全く無い状態からのスタートなので、教えられた文法を覚え、それを応用して正しい文章書けば良かったからでもあるかもしれません。このような、文法を教えてもらい、頑張って覚えてテストで間違えないようにするということの繰り返しは、その時は他の授業もそうだったので特に何も感じなかったのですが、今思うととても退屈だったと思います。そもそも、本来なぜ英語を学ぶのか、と自分に問いかけてみると、やはり外国人と、自分とは違う文化を持つ人と交流したい、という思いからでしょう。ですから、本当はもっと生きた英語、間違ってもいいからどんどん話す、という事が出来ていれば、今の私のように、文法や単語はそれなりに知っていても、スピーキングやリスニングは苦手と言う事態に陥らなくて済んだのだと思います。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業を初めて受けた時、実はとてもあせりました。なぜなら、私は今まで学校生活において、ほとんど手を挙げて発言ししたことがなかったからです。そして、最初は半分諦めの気持ちも交えつつ、手を挙げるようになってみて、今まで自分がすごく恥ずかしいことのように勝手に思いこんでいた、間違えるということが、実は全然恥ずかしがるような事ではないということを、身をもって知ることが出来ました。まだまだだとは知りつつも、少し自分が進歩できたように思いました。そして、この授業で何より良かったことは、今まで全く知らなかった日本の文化、価値観などを知ることができたことです。これまでは、自分で今考えても理由が全くわからないのですが、なぜか日本の文化は遅れていて、欧米、特にアメリカの文化の真似をしたほうがよい位に思っていました。このまま自分の国に自信も誇りも持てないどころか、知識すらない状態で、海外に出たいなどと言っていた自分が情けないと同時に、この自分が何も知らないという事実を知ることが出来たことを、心から嬉しく思います。日本の文化はとても奥が深くて、まだまだ知らないことだらけで、面白いことが溢れていると思います。それを知るきっかけを与えていただいたことに、感謝しています。(女子学生)

過去の英語学習に思う  私は公立の中学校に通っていました。そのときから英語を学び始めたのですが、中学では、基本的に文法や教科書にある決まりきった例文に沿って教わるという授業が中心でした。高校は、県立の進学校に進んだのですが、そこではまさに受験英語というような授業内容で、文法、長文読解、オーラルというように授業も 細分化されており、また週に一度の長文読解のテストや毎回の単語テストなどがありました。中学、高校を通して私は確かに英文読解や文法、英作文などの力はついたと思いますし、だからこそ大学にも入れたと思います。ただその中で英語を話すあるいは異文化に触れるという機会はとても少なかったように感じます。大学入試に英語のリスニングはあっても、スピーキングはありません。だからといって、ネイティブも知らないような文法をおしえるのではなくて、言語というのは第一にコミュニケーションのため手段なのですから、まず恥ずかしがらずに英語を話すことから学んでいく、または異文化の人たちと交流する中で学んでいくということが大切だと思います。
 この授業で学んだこと  私が初めてこの授業を受けたとき、とても大きな衝撃を受けました。それは英語の授業であるのに、自分がいかに日本の文化について無知であるかを思い知らされたからです。それからは毎回先生が話されるお話や授業がとても興味深く、日本の文化の素晴らしさや、英語圏と日本との文化の違いについて、また日本語と英語の持つニュアンスの違いについてとても深く理解できました。そして何よりこうした日本の文化の素晴らしさを他の文化圏の人々に正確に伝える、発信することの大切さを感じました。そのためにも自分自身もっと努力が必要だと痛感しました。また英語とはあまり関係ないかもしれませんが、授業をうけていて、先生が礼儀であるとかマナーといったお話をされることがあったのですが、そういったことを教えてくださる先生というのは、これまであまり出会ったことがなくて、私にとってとても新鮮であり、またすごく大切なことを学んだという思いがしました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 過去の英語授業は、英語と日本語間の対訳に重きを置いており、 語彙数等を増やす、表現方法を増やすことに特化していた感がある。これは、悪いことではなく、実際に英語を実践しようと思ったら、 ある程度の表現方法がないと英語表現は不可能であるので、 英語教育の当初にこのような方法をとることは間違いではないと思う。しかし反面、教え方はステレオタイプでマンネリ化したものであり、 受け手の興味を示唆するものではなかった。また、文豪ゲーテの 有名な言葉で、「外国語を知らないものは、母国語を知らない」というものがあり、これは過去の英語の教科書でも見開き等に登場しており、さも英語を学ぶことの必要性を説いている言葉のような扱いをされてきた。しかし、私は思う。この言葉を逆の立場にとって解釈するならば、「外国語を学ぶことによって、母国語の真の意味が分かってくる」ということになるだろう。にもかかわらず、これまでの英語教育は、外国語を学ぶことはしても、それによって浮き彫りになってくる母国語、すなわち日本語の真の意味を受け手に教えることはしてこなかった。これが今までの英語教育の問題点であろうと私が考える点である。
 この授業で学んだこと  英語の語彙数、表現、会話能力を磨くという意味では、他の授業に劣る面もあったと思うが、それ以上に意味のあることが出来た授業だったと思う、これまで、私は日本に生きていながら、日本の風俗、慣習、日本人の人間性などに疑問を抱いては来なかった。これは、日本に暮らしていてさもそれが当然であると無意識下で刷り込まれた結果、別にさしたる疑問もさしはさまずに来たという面が大きいと思われる。しかし、英語との対比では、日本人がいかにその固有の風土でいろいろな文化を熟成させてきたかがはっきりと分かり、非常に 興味深く日本語と再び向き合うことが出来た。これはとても意味のあることであったと感じている。大学の、学校教育としては最後となる英語の授業で、このような英語の習得によって生じる母国語への興味を充足させてくれるような授業を受けることが出来、非常に有意義なものとなったことを感謝したい。他方、われわれが今までに授業で学んできた英語表現が、いかに日本的な英語表現で生きたネイティヴな英語表現と違うかということを教えられたという点でもこの授業を受けてよかったと感じている。(男子学生)

過去の英語学習に思う  中学一年生の時より、英語学習を始めて十年弱が経った。これだけの年月をかけて、今の私は、外国人と通常のコミュニケーションを取れるようになったかといえば、そうではない。英語をなぜ勉強するのか、私なりにずっと考えてきた。私は英語はあまり好きではなかったからである。なぜ好きではなかったか、それは、これまで受けてきた英語教育は本当にすべてが受験と結びついたものであったし、それ以外に使う場所のないものであったからである。これまでの英語の試験は、考えて解く試験はほとんどなく、暗記さえすれば点数のもらえるものばかりであった。英語は日本語と同じように意思を伝えるための道具であったはずである。しかしながら、伝えたい意思の抜けた道具の暗記ばかりの勉強は、自ら勉強しようとする意欲へはあまりつながらなかった。また、大学試験の多くにヒヤリングやスピーキングがないために、英語教育の多くが読み書きばかりの教育であったので、話すことや聞くことに関しては、抵抗を感じるようになってしまった。この様な教育では意思を伝える道具としてでさえ、活用できない勉強ではなかったかとふりかえる。
 この授業で学んだこと この授業では、前述した過去の英語学習とはまったく異なった勉強ができた。実践で使うことなく、ただ闇雲に暗記してきた単語や熟語を外国人が聞いたら、どう聞こえるのか、限られた量の中でも、その違いの驚きは毎回大きなものであった。今年の夏、海外のボランティアで、各国から来た13人の外国人と南仏で1ヶ月間共に生活をした。海外に行っていつも思うことは、日本の文化や日本人の良さである。外国人の中で生活して、私が感じている違和感と同じように彼らは日本人をとても不思議な存在であると感じているようであった。その違和感の原因が、この授業で解く「外国人の質問」の回答であり、それが文化であるということがこの一年間で一部にすぎないけれどもよくわかった。この違和感の原因である文化をお互いに知ることなくては、本当に同じ人間としてのコミュニケーションをとることはできないと思った。この授業で、日本の伝統行事や日本人の行動の理由を勉強して、私は自分がいかに自分の国を知らないかということを身にしみて感じた。まずは自分の国の文化を勉強しなくてはならないと思った一年間であった。(女子学生)

■過去の英語学習に思う
 私は小学校のころから塾に行って英語を学んでいました。もっとも、学んでいたといっても簡単な英単語を使った遊びのようなものでしたが。本格的に英語を学習するにいたったのは、やはり中学校からでした。しかし、普通の中学校での英語学習というのは高校受験に必要な知識を身につけるためのもの、そして高校での英語学習も大学受験のためのものです。ずっとそのガイドラインにしたがって勉強しただけなので、今に至っても実用的な英語はほとんど身についていません。自分の努力、力量不足もさることながら、現在の日本における英語の学習形態には大きな問題があると思います。現在の英語の学習形態ではそれがただの受験のためだけのものになってしまっていて、とても実用的なものとは言えません。今の形態では発音もセンスもなかなか身につかないことでしょう。自分はそんな勉強しかしてきていなかったので、今はそのことをとても残念に思います。 
 この授業で学んだこと
 この授業では、今までの英語学習においてはまったく学んだことがないことを多々学ばせていただくことが出来ました。それらは今まで受験用の学習くらいしかしてきていなかった自分にとってはかなり衝撃的なことでした。まず、一番驚いたのは辞書の中身についての否定でした。今まで辞書というものは英語を学習する上で必要不可欠なものであり、正しいことを前提として使っていました。ところが山岸先生の授業を受けると、日本人とアメリカ人の歴史的背景などからくる言葉に対する感覚の違い等を知ることができ、日本人が作った辞書を鵜呑みにすることはできないんだなとつくづく実感しました。この授業を通して自分の英語観はかなり変わったと思います。まだまだ力不足でうまく使うことはできませんが、自分にとってはこのようなことを知ることができただけでも本当にいい経験になりましたし、きっとこれからの糧になっていってくれるだろうと思います。この授業をうけて、本当にためになりました。1年間ありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 中学1年生になって初めて「授業」として「英語」という科目に出会い、英語と共に歩む道も今年でかれこれ8年目になります。しかし中学以前から、日常生活で「ハロー(Hello)」や「バイ(Bye)」といった英会話は、自分だけでなく、親しい友達の口からも自然に出ていました。もちろん、「会話」には程遠いわけですが、立派な英語フレーズだと私は考えています。その他にも「ハッピーバースディ」だの「メリークリスマス」だの、今も昔も英語は日本人のコミュニケーション手段の一つとして、立派に健在しています。最近よく「小学校からの英語教育の是非」が議論されていますが、英語が日本においてそれだけの存在感があるにも関わらず、正式に学び始めるのが中学1年生からというのは、少し遅いのではないかなと思います。授業中に山岸先生がおっしゃっていたように、自分は今まで、本当の意味での英語を学んでこなかったでしょうし、正直な話、英語の先生も本当の英語を教えてくれなかったような気がします。そう考えると、今までの8年間、よくそれで続けてくる事ができたなぁとある意味感心してしまいます。もしも自分が中学生の時に山岸先生のような方にお会いしていれば、一味も二味も違う英語の世界に触れる事ができたのかなぁと思うと、少々残念です。
 この授業で学んだこと それは何といっても、自分たち「日本人」が自分たちの国「日本」について、まだまだ知らない面がたくさんあるということに気が付いた、ということです。外国人の方から寄せられた、日本人や日本の言語文化に関する疑問の数々を授業で取り上げました。日本に生まれ、日本語を母国語として毎日話している日本人の自分ですが、改めてこのような疑問に正面から向かってみると、自分の「日本」に対する理解度の低さに反省を迫られた感でいっぱいです。また異言語間コミュニケーションの場合、たとえ同じ内容の文章でも、お互いの文化や生活習慣・環境で、まったく違った捉え方をされてしまうことも勉強になりました。そういった中で、細かい文法にミスがあろうがなかろうが、「相手に伝える」というのが一番大事だということが、とても強く心の中に残っています。相手国のことを深く知り、自国はそれ以上に深く知る。そうすることでお互いの国の良いところ・悪いところが現れてくると思います。相手国の良いところを積極的に学び、自分たちの慣習・文化に取り入れ、そして同時に、自国の良いところも伝えることができれば、最高のコミュニケーションになるのではないかと思いました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は主に教科書を読み、文法を少しやる、といった授業を受けてきました。私は英語の勉強の意図を見出せず、勉強することをしなかったので当然のように苦手科目になりました。英語の面白さはしばらくして気付きました。「コミュニケーションの手段である」ということさえも最初はわかっていなかったくらいです。筆記体の書き方が雑である、という注意を初めに受けてしまい、その他にまた注意を受けていくうちに、英語とはまさにテストのための勉強であると思ってしまいました。
 英語を好きになれるかなれないかで、勉強量も吸収の仕方も変わっていくと思います。この点は教師だけに任せるのは荷が重いかと思いますが、ぜひ教師の方には頑張っていただきたいと思います。話は少し変わりますが、先生は英語教師自体があまり英語についての正しい知識がないとおっしゃいました。英語教師がなっていないと、教えられる生徒はもちろん正しい知識を得られるわけがなく、つまりは英語教師をちゃんとしないといけないということでした。今私の友人に英語教師を目指している人は何人かいますが、実際のところ、やはり教職に就く人も間違った英語教育を受けているのが現状なので、なかなか本当の英語教師は生まれないのではないかと思っています。大変難しいことだとは思いますが、過去の授業を思い返す限り、ちゃんとした英語教師の育成こそ真の英語教育につながると思いました。
 この授業で学んだこと この授業では日本人としてやらなければならない、知らなければならないことがまだまだたくさんあるということを学びました。お恥ずかしい話ですが。外国人とコミュニケーションをとるためには相手の文化を理解しないといけない、と思っていました。自分の文化を知ることで、外国人とのコミュニケーションもうまくいくのだと知りました。他に、今まで話していた英語は間違いだったことも発覚し、言葉を学ぶ難しさと楽しさを学びました。
 先生に学んだ日本人としての心、精神、文化など様々なことを、これから理解をもっともっと深めていきたいと思っています。これらの一見英語とは無関係そうな事が、私にとってはとても大切なことになりました。先生には本当に大切なことを教わりました。「日本人としての心」を忘れずに、「生きた英語、使われている英語」の学習にこれからもがんばっていきたいと思っています。(女子学生)

過去の英語学習に思う 中学から始めた英語学習は英検や高校受験に受かるために、単語や文法をひたすらに覚えていくだけでした。長文に対する読解力が身につき、それはそれで良かったと思っています。しかし、文章を読めるようになることに力を入れすぎているような気がします。リスニングやスピーキングは授業ではほとんど扱われることがなく、その結果いざ人と英語を話すときに今までの勉強はあまり役に立たな いことが多いなとよく感じるようになりました。特に発音の練習は中学、高校と 授業ではまったく練習したことが無い。文法や単語量も大切だと思うが、もっとバランスのとれた英語教育が必要なのではないかと思う。
 この授業で学んだこと 英語の授業というものは、英文を読んだり文法や単語を覚えたりするものだと思っていたし、実際中学、高校とそういった授業だったので、初めて先生の授業を受けたときはとても新鮮な感じがしました。この授業で学んだことで一番印象に残っているのは、正しい文法を学ぶよりも、相手の国の文化を理解するほうが重要だということです。多少文法が間違っていても内容がしっかりと相手に伝わる 文章が書ければよいと先生がおっしゃっていたのがとても印象的でした。授業で使っていた外国人の疑問では、日本の文化に対する外国人の視点というものも勉強でき、教科書ではいままで学んできた英語の使い方に間違いがあり、それは文化の差や価値観の差によって生まれてくるということで、文化や価値観の違いを学ぶことこそが正しい英語を学ぶ第一歩になるのだと感じることが出来ました。 (男子学生)

■過去の英語学習に思う 中学校での英語教育といえば、教科書を読んで、理解し、基本となる文法をひたすら覚えていたように思う。とても面白いものとは言えなかったが、その学習がなかったとしたら、英文を書いたり、読んだりすることはできなかったのではないだろうか。高校は、慶応義塾湘南藤沢高等部だったので、他の学校の英語教育とは少し異なっていたかもしれない。大学受験がないため、文法などをひたすら覚えるということはあまりなかった。英語の授業はスピーチの仕方を学んだり、外国人教師によるグラマー、劇をやったり、ディベートをやったりした。外国人教師による授業が多く、すべてを理解することは難しかったが、聞き取りの訓練になった。スピーチの授業では、スピーチをする際の立ち振る舞いから、原稿の書き方を習った。ディベートでも反論の仕方や進行の仕方を習ったが、その場で考え、英語にして話をするのは大変困難であった。しかし、スピーキングのいい練習になった。このように過去の英語教育はそれなりに役には立っているものの、実際に「使える英語」は身につかなかったと思う。
 この授業で学んだこと この授業では、多くのことを学んだ。まず、日本文化の素晴らしさを知った。日本人でありながら、日本のことを何も知らなかった自分が恥ずかしいと思った。日本人としての誇りと、日本文化の知識が身につく授業だった。次に生きた英語を知ることができた。文化が違えば、同じ意味を指す言葉でもとらえ方が違ってきたりする。微妙なニュアンスの違いや、相手が受け取る印象、くだけた英語を知ることができた。ただ、今回学んだのはほんの一部であり、私はもっと多くのことを学びたいと思った。短期でも、留学をして、生きた英語を身につけたい。そして、日本のことを、自分の英語で外国人に伝えられるようになりたいと思う。先輩に、英語が好きになる授業だと聞いて、受講したが、本当に英語をもっと学びたいと思うようになった。短い間でしたが、ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 中学校から高校までの六年間、私は英語を学んできました。それはいろいろな国の人と交流ができるのだと信じて始めたものでした。しかし今現在、そうはなっていません。会話はろくにできず、簡単な日常表現でさえ辞書をひかなければ不安なほどです。受験勉強としての英語学習は難しい文章を解読するためのものだったような気がします。難しい構文の文章を読むための材料の詰め込みでした。この作業は僕に何をできるようにしたのか、結果として残っているものは受験での出題頻度の高いものだけです。こちらの意思を伝えるためのものが少なすぎるのです。山岸先生の授業でそのことを思い知らされました。日本のことを全く正しくつたえられない自分が恥ずかしくて歯痒くてしかたありませんでした。英語の教育においてはもっと「自分を伝えること」を考えるべきなのだと思います。とくに、多くの人が始めに取り組むであろう中学校での教育では、小難しい構文を暗記させていくのではなく、普段から使えるものを教えるべきだと思います。山岸先生の授業でも教えていただきましたが、一つのことを伝えるにも多くの表現があり、そして、適切に使い分けが必要なのだということを認識させてあげてほしいです。これは当たり前のことのようですが、受験にさらされた子供たちはそんなことより受験にでることの方が重要に思われ無視してしまうのではないでしょうか。
 この授業で学んだこと 山岸先生に教えていただいたことは、英語表現だけでなく、日本と英語圏の文化の違い、そして日本の文化のすばらしさでした。英語表現では、「英語に敬語はない」といった固定観念を打ち砕かれました。英語にも多くの表現があり、それを学ぶ重要性を認識できました。また、英語圏の人々の生活の根本となる思想なども教えていただき、壁となっているものは言葉だけじゃないのだということも思い知らされました。そしてなにより日本文化をあらためて、というより「はじめて」知ったということです。私は自分の国のことを知らなさ過ぎました。はじめは英語の授業なのになんで日本語だらけで、なんで日本の話が多いのだろう、と不思議に思っていました。しかし、今ではその重要性、意味が多少なりとも理解できているつもりです。私達にも根底に根付く文化は当然のごとくあるのだし、それを知ることで自分の国に、文化に、そして国際人としての自分に自信が持てるようになるのだと思います。この一年、山岸先生の授業は私の英語学習を再スタートさせてくれました。これからも励んでいきたいと思います。山岸先生、すばらしい授業を一年間本当にありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私が大学に入学するまでに出会った英語学習は、大きく別けて二つのタイプがあったと思う。一つは、ニューヨークの日本人小学校にいた頃に出会った英語学習である。それは、ほとんどがネイティヴの先生に教わったものであり、ビンゴ・ゲームや歌を中心に、より身近なところから英語を学んでいたように覚えている。また、1クラスの人数も10人ぐらいの少数であり、そのせいか英語で交換日記をつける等の先生とのコミュニケーションが多かった。
 私が経験した二つ目の英語学習のスタイルは、日本に帰国した後の中学・高校・学習塾で受けた英語学習である。それらに共通していたのは、ただただテキストに載っている英文を和訳していたということである(これは、大学1年生時に履修していた授業でもそうだった)。また、英単語や英熟語を暗記させられた。それらは、私にとってただの苦痛な時間でしかなかった。
 この授業で学んだこと 山岸先生の英語の授業を受けて最も驚いたことは、「英語」の授業であるにも関わらず、一年間受講した結果、より日本のことおよび日本人のことについて詳しくなれたということである。それは、授業の後半で行う「外国人の疑問」という学習内容で、特に詳しくなれたと思う。この経験は、私が今まで受けてきた英語学習の中では決して得られない経験であった。普段、日本人であるわれわれが気にもとめないようなことであっても、突き詰めて考えてみるとよくわからないことはたくさんあり、自分は日本のことや日本人のことを何もわかっていなかったのだなと痛感した。
 また、細かな文法問題にとらわれず、減点方式を用いない授業方式は、私にとって新鮮な経験であった。それにより、のびのびと答えることができたし、英作文も楽しく書けてありがたかった。(男子学生)

過去の英語学習に思う 僕は慶応義塾中等部、慶応義塾高校と内部進学であったため受験英語とは無縁の日々であった。だから必要以上に英語の文法だ、なんだかんだと押し付けられはしなかった。ではどんな授業(高校)をしていたかというといたって普通、何を持って普通とするかは分からないけれど一年生のときは、テキストはニュークラウンを使い、速読英単語という教材を使い英語の基礎レベルの向上に努めていたと思う。二年生のときは映画(評決のとき)を見たり、ネイティブスピーカーの方の授業が週に二コマありリスニングに重点を置いていたと思う。三年生のときは先生が持ってきた新聞の題意の読み取りや短いエッセイを読んだりしていた。面白かったけれども英語の力が確実に伸びたかは自分では判断しかねる。
 この授業で学んだこと
 大学に入ってからなぜにまだ英語をやらなくてはならないのかと少々辟易していましたが、先生と出会い確実に英語が好きになりました。今までには特に嫌いだという意識はなかったけれど、なぜに英語はやらなくてはいけないのか?という疑問があり、いまさらまた英語を学ぶ必要性がまったく感じられなかった。しかし、今までに教わってきた英語のいかに間違いの多かったこと、日本人のものの考え方、外国人の考え方などとても刺激的でした。また先生もとても教養があり、知識があり、向上心も旺盛で人間的にもすばらしいと思います。自分は何かをするときに明確な理由付けが無いと、頑張ろうという気にはなれないタチですが、先生の授業を聞いているとまだまだ勉強しなくては、と思いました。一年間ありがとうございました。(男子学生) 

過去の英語学習に思う 私が一番最初に英語を習い始めたのは小学校4年生の時でした。母親が英語の先生だったため、その影響で習い始めましたがそれから10年近くたちますが、英語を習得できたとはとても言えません。中学校の英語の授業はひたすら穴埋め問題をやり基本的な発音を繰り返し、教科書にかいてあるダイアログを暗記しただけです。今思えば簡単な会話でもいいので声に出して覚える、という授業のほうがよっぽど効果があったと思えます。高校の授業も文法中心で単語テストや教科書を訳すのみの授業でした。英語の授業のみについてではなくなってしまうかとは思いますが、授業中常に先生からの一方通行の授業だったためもっと自分達で作文をして発表したり様々な場面で役立つフレーズを覚えたりする方が将来に役立つ英語を学べたのに、と思います。
 この授業で学んだこと
 まず最初に自分の今までの英語学習では足りないところが沢山あるということを実感しました。大体同じ意味だと思っていた単語もそれぞれに深い意味があり、使っていい時、使うのをさけなければならない表現などを学ぶことができてとても有意義でした。似たような意味の単語は沢山あり、昔から英作文などを作る時、先生に添削されてこっちの単語の方が言い、と指摘されても実際なぜそっちの方がいいのかということまでは説明してくれた先生は一人もいませんでした。英語には歴史があり、文化などの背景があってこそそれぞれに意味がついているということを学べましたし、英語と日本語のニュアンスの違いを身にしみて学ぶことができたと思います。私達が普段何気なくつかっている英文が実際に会話の中で全く違う意味を持ってしまうことが多々あるのだな、ということに気付けただけでもこの授業を履修してよかったと思います。しかし、この授業で学んだことをこれで終わりにするのではなく、教科書などを参考にしてさらに会話のなかでしっかり意味が通じることのできる表現などを学ぼうと思います。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 過去の英語教育を振り返って、日本の英語教育に一番欠けていると思う点は、英語をアウトプットさせる作業です。アウトプットさせる作業とは、言い換えれば、英語で「何か」を伝える、英語で「何か」を表現する、ということであり、この「何か」にあたる部分が与えられる機会が少なすぎるのです。日本は英単語や熟語、文法、語法を覚えさせることにおいては十分すぎる程です。しかしいくら単語や熟語、文法、語法を知っていても、日本人の英語力はアジアでも最低ランクです。この原因は明らかに、インプットした材料を使って文章を作ったり発音したりといったトレーニングをあまり積んでいないからだと思います。この状況はいってみれば、部品は揃っているのに組み立てずそのまま放置しているか、あるいは慣れていなくてどう組み立ててよいかわからない、うまくくみたてられない、そんな状態です。アウトプットのトレーニングを積むことこそが、英語学習において大変重要なことではないかと思います。
 この授業で学んだこと この授業で学んだことは色々ありますが、わたしはとりわけ「相手を説得する」ことの重要性、またその際いくつか踏まえなければならないことがあるということを学びました。自分を相手に理解してもらう時は、話を論理立てること、説得力をもったものにすること、相手の立場にたって考えた上でのものにすることが必要で、これが無ければとうてい伝わらないということを、「外国人の質問に英語で答える」に取り組みながら、痛切に感じました。今日の多様な世界では、互いを正しく認識し、理解しあうことがたいへん求められていくはずだと思います。論理立てて主張したり根気強く説得したりすることを嫌ったり、言い分が通じないとすぐ感情的になる、人の話を聞かない、自分さえよければいいと考えるのは全く時代に逆行するものです。ついつい、「めんどうくさい」、「どうせ言ってもわからない」、などと考えてしまいがちですが、相互理解のために、多少苦労してもやらなければならないのだと思います。この授業は、そのようなことを考えるきっかけとそのためのトレーニングを積めたと思います。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 過去の英語授業について思うことは、まずは実用性がないということです。中学校から英語の授業というものが始まったわけですが、まず習うことと言えば、「This is a pen.」でしょう。「これはペンです。」などという会話は今までの人生で日常で使ったことがありません。確かに文法を学ぶ上では一番基本となる形で、わかりやすいかもしれませんが、しかしもう少し工夫がされて欲しいと思います。また、過去の英語授業で楽しいと思ったことはほとんどありません。楽しいと思ったのは、外人の臨時講師が来て、英会話のような授業になったときだけです。ただ教科書を読むだけの通常の授業はただ退屈なだけでした。教科書の内容が興味をそそられるようなものだったら話しは別だったのですが。日本人は、文法はできるのに会話になると全然だめだし、リスニングの能力も低いです。自分の思っていることを口に出して表現しようとしても言葉が出てこない、という人が大半ではないかと思います。現に私もそうです。会話では、文法ももちろん大切でしょうが、それよりも慣れが必要なのではと感じるので、中、高の英語の授業では会話中心の授業になるといいと個人的には思います。
 この授業で学んだこと 先生の授業を受けてみて思ったことは、英語の授業っぽくないということです。むしろ国語の授業のような感じを受け、画期的だなぁと思いました。外人の疑問に答えるというテーマを通じて、いろいろな日本についての知識を学べたし、日本人的な英語と英語圏の人々の英語との違いを知ることもできました。和英辞典に出ている単語でも実は日本語にうまく訳せていないとか、赤鼻のトナカイを英語詩にしようとすると実は違うとか、まさに目からうろこ状態です。さらに先生の方針だそうですが、減点方式ではなく加点方式という点も画期的ではないかと思います。多少の文法の間違いがあっても、だいたい通じるからよしなどと言うことは、今までの英語学習ではありえませんでした。以上、一年間先生の授業を受けて一番強く思ったことは、この授業を履修して良かったということです。(女子学生)


■過去の英語学習に思う 今までの英語学習というと机上の勉強というイメージが強い。高校の授業での英語はただひたすら先生の言ったこと聞き取りをノートに書いて覚えるという形だった。自宅に帰っても、文法の練習をやり、長文を読み、単語をノートに書きなぐって覚えるという非常に単調な作業を繰り返すばかりであり、テストもどれだけその単調な作業を繰り返してきたのかを問うような問題ばかりであったように思う。長所はといえば、何千語という単語力と、文法力である。文法は中学の頃からさんざんやったので、比較的くずれのない英語を書けたし、難しい単語もたくさん覚えたので難解な文章も読むことが出来ると思う。しかし、今まで、インプット型の勉強しかしてこなかったため、アウトプット、つまり、知識を使って実際に話したり書いたりすることが出来ないのが今までの英語学習の最大の短所であるように思う。
  この授業で学んだこと この授業で学んだのはなんと言っても生きた英語である。先生は「ほとんどの会話は中学生までの単語力で話せる」とおっしゃっていたが、まさにその通りであることを実感させられた。今まで、どんなに英語をやってきても、外人に会った時に会話をすることが出来るという自信がついたことはなかった。それは今まで文法力や単語力ばかりに気を取られすぎていたことが原因であったと思う。しかし、この授業では、文法が間違っていても、単語のスペルが間違っていても、伝えたいことが伝われば誉めてくれる。加点方式で評価してくれたのも自信につながった。また、使える英語を教えてもらえたのも良かった。私が気付かなかったニュアンスの違いや、文化の違いによる解釈の違いを学ぶこと出来た。そして、この授業で一番私のためになったのは、英語圏の文化を学ぶことが、そして、自国である日本の文化を学ぶことが出来たことである。自国の文化を満足に語ることの出来ない自分にも直面することが出来た。これからは、自国のことをもっと知り、誇れる文化は他国のたくさんの人々に伝えていきたいと思った。(女子学生)

過去の英語学習に思う 中高と試験問題を解くためだけの勉強をしてきたのだと強く思う。単語を覚え、アクセントを覚え、長文を時間内に読むテクニックを覚えた。しかし英語を話せるようにはならなかったし、それでもいいと思っていた。そんな私が高校二年の春に二週間と短い間だったが、アメリカ・バージニア州に ホームステイをした。そのとき、私の頭の中には一応言いたい事を英語にしたものが浮かんでいたのだが、なかなか言葉にして発することができないという、悔しいことことが何度もあった。それまで高校の授業では文法や読解ばかりで、もちろん私の勉強不足もあると思うが、自分の意思を伝えるという訓練を全くしていなかったからだろう。その二週間を通して強く英語が話せるようになりたいと思った。だが、そう思う気持ちも日々の単語テストや、先の見えない長文にあっけなく崩れてしまった。このような経験から、英語学習は何よりもまず英語で話したいと生徒に思わせ、またその気持ちを継続できるような環境をつくることが重要ではないかと思う。
 この授業で学んだこと 「伝えたい」という気持ちがあれば多少の文法的間違いは問題にならないということ。これはとてもうれしいことだった。英語を話すときはいつも内容より先に文法を気にしてしまい、うまくコミュニケーションできないことが何度もあった。けれど先生の授業やお話の中で、inとかatの位置を気にせずとも、内容があれば伝わるということを実感した。また、いままで当たり前と思っていたことを、改めて起源から調べることで 日本の風習や伝統について深く知ることができたことは本当に良かったと思う。自分がこんなにも日本の文化を知らなかったのは、本当に恥ずかしいことだった。それにこの授業を通して文化が異なれば「あたりまえ」も「なぜ」に変わることを改めて感じた。そしてその「あたりまえ」には古くから日本人に流れる思いやりの気遣いや、相手を立てる心があふれていると知り、日本人もなかなかやるなぁ〜と感動した。先生の授業のおかげで日本人の「心」というものに少し触れることが出来たと思う。こんな素敵な授業をしていただいてとても感謝しています。一年間ありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う まず長所から述べる。私は地元の公立中学に入学したときから英語学習を始めた。そのときから現在まで8年の歳月が流れた。この8年間で辞書を使用しながらも、英字新聞や雑誌、日本語の吹き替えなしのABCワールドニュースなどを完全理解できるまでに英語の先生は、私を教育してくれた。また、ALT制度により、中学の早い時期からネイティブ・スピーカーと話す機会を得ることができた。海外から日本にやって来る方はそれほど多くないため、英語で話しかけたり話しかけられたりする経験が少なく、そして海外旅行や海外留学に行ったことのない私にとって、この機会は貴重であった。なぜなら、もしこの制度がなかったならば、私はネイティブ・スピーカーと意思疎通することなく、テープから一方的に流れてくる英語のみを聞いて、英語学習を終えていたであろう可能性が高いからである。
 次に短所を述べる。それは、自分の言いたいことが100%伝わる英語学習をしていないことである。第一にこれは、ネイティブ・スピーカーは使わない単語や表現法を授業で教えたり、テストや入試に出題したりしていることに原因がある。大学側にしてみると、そのような出題形式にすれば、勉強をしている人、していない人の区別を付けやすいという狙いがあるのかもしれない。そして学校や予備校は、そのような出題形式で入試を行う大学へ、何人の合格者を輩出したかということに気を配るため、入試に対してほとんど異議を申し立てない。第二にこれは、言葉における辞書的意味のみを強調し、文化的意味をないがしろにしていることに原因がある。文化的意味をなしがしろにしている理由として、授業時間の少なさを挙げることができるのではないだろうか。なぜなら、日本と英語圏の国々との間では、これまでに依拠してきた文化に違いがあり、数多くの単語において、それに含まれている意味合いが異なっているため、一つ一つ違いを説明しなくてはならないのであろうが、これだけで膨大な時間を費やすことになってしまうため、少ない授業時間では行うことができないからである。この長所と短所から分かることは、英語に関するかなり多くの知識を中学から獲得することができるにも関わらず、適切な教授活動がなされていないことである。この点を強く思ったので、まとめに代えて「過去の英語学習に思う」を終える。
 この授業で学んだこと  私はまずこの授業で、「日本文化は世界に誇ることができるものである」ことを学んだ。一例として以下のことが挙げられる。「欧米流の『個人主義』や『自己主張』が大切である」と私たちは小さいころから言われ続けてきたため、「日本流の『集団強調主義』などは劣ったものである」と考えがちであった。ところが「『集団強調主義』は、何千年も前に始まった稲作農業による定住化で自然発生した村社会において、支配者たる長の言葉に従って行動することに合理的根拠があったことから考え出されたものである。よって欧米流の『個人主義』などは日本文化にそぐわない」といった内容のお話を初回の授業で伺った際私は、「周りに流されて、自分が日本文化のすばらしさを見逃している」という強い衝撃を受けた。私はこのような形で触発され、外国人の質問に対する答えをできる限り多く手がけるようにした。答案を作成している間、外国人から「おかしい」と言われ続けてきた日本文化の根底には、日本人の従順さや異文化に対する柔軟性、儒教の教えを大切に守ってきたことといった、何も卑下することのない素晴らしいものの存在に気付いた。同時にこれは、誇りに思って良いと感じた。
 次に、私自身が「自分の文化を知らなさ過ぎである」ことを学んだ。この点は、上で述べた「日本文化の素晴らしさを見逃している」ことに重なる。日本は敗戦のショックから立ち直れず、欧米信仰を強めてきた。その結果、日本文化を頭ごなしに否定すこととなり、素晴らしさを見逃す結果となった。この流れを受けて私も多くを見逃していることを知った。そしてこの点は、私が外国人の質問への答案を作成する際、半分以上を文献探しに費やしたことからも説明することができる。
 最後に、「英語を学ぶことは、日本と英語圏、両文化を学ぶことである」という事実を学んだ。例として「ごぼう」と“burdock”を挙げる。「ごぼう」には、料理の一品になるくらい肯定的な意味合いが含まれているが、“burdock”には、人間は食べない木の根という否定的なニュアンスがある。このように、それぞれの文化における単語の文化的意味を知っていなければ、こちらが言いたいことを伝えることができないと授業を受けて心から感じた。「過去の英語学習に思う」でも述べたことではあるが、この点は本当に強調しておきたい部分のため、再び述べることにした。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私がアルファベットに出会ったのは幼稚園のときです。ワークにひらがなと一緒にのっていて、これはなんだろう、と思った記憶があります。そうして英語に初めて出会ったのは小学5、6年の時でした。そのころ、私の周りでは「えいごきょうしつ」に通うのはピアノやそろばんといったお稽古事のように捉えられていたのです。そこでの授業は楽しいものでした。文法は何もなくて、ただ先生の出す動物の絵当てゲームをすることがしばしばでした。そうして十分慣れた頃、中学の教科書を使って文法のイロハを学び始めました。といっても会話文が中心です。力になったかというと疑問ですが、この体験のおかげで私は英語嫌いにならずにすんだような気がします。一方、母は英文学科の出身だったので、自ら英語を教えようとしてくれましたが、なぜか母の教え方を当時の私は好みませんでした。今思えば、母が教えようとしていたのはガチガチの「文法」だったのです。第一文型、第二文型、、、その具体例や、動詞のこまかな変化は、確かにいつかは必要ですが、タイミングが重要であると考えます。そうでないと、英語が嫌いになってしまうでしょうから。現在の中高生に対する、英語教育の姿勢にも、このことは言えるのではないでしょうか。
 この授業で学んこと 端的に言えば、日本文化の奥深さ、です。自分が生きている国の文化の、味わい深い豊かさを知り、目からうろこが落ちたことは一、二度ではありません。ただ一つだけ、日本文化を語る際に、外国の資料や考えを使うことも一つ有益ではないか、と私個人は考えています。日本の文化を作って来たのは確かに日本人です。しかし、箱の中からは箱の外面や全体像、ほかの箱は見えません。あるいは、自分たちと同じ箱が他にあるやもしれません。日本人としての独自性、特殊性を箱の中から丹念に観察する、と言うことを先生の授業で学べたことは貴重な体験となりました。さらに、そこに人間としての普遍性に基づく資料を取り込んだり、日本人だけでない、韓国、中国、インド、ペルシアといった人類の文化の大きな流れの中にある日本の文化を見出すことが出来たなら、さらに素晴らしい体験になるのではないでしょうか。またそうすることによって、私たちの文化の認識は、世界の認識に通ずることになります。先生のクラスから巣立っていく誰かが必ず、いつか世界で働いたり、あるいは日本外交に携わるでしょう。その際に、他国の文化を、自分の文化の母、あるいは兄弟として見る視点があったなら、それは国相互の友好な交流のみならず、無益な文化破壊を回避し、平和を促進する術となるのではありませんか。辞書の次は、時代を産む「人」を創ってください。英語面では、減点や間違いに捕らわれずに、のびのびと英語を書く楽しさ、内容をいかに含ませるかに苦悶する充実感を味わいました。二つとも久しく忘れていたこと、あるいは初めてであったかもしれません。一年間ありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 私は小学4年生のころから週1回英語の塾のようなものに通っていました。そこでしていたことは自己紹介のしかた、物の数え方、物の呼び方、挨拶の仕方など基本的なものでしたが、この授業では英語で歌を歌ったり基本的なことを楽しく使いながら覚えていく形式のものだったので、中学生の初めての英語の授業にも気後れすることもなく、入れたことを覚えています。逆にいえば、もし自分がこの授業なしで中学生から英語を始めたとしたら、英語に苦戦していたことだろうと思います。中学生のはじめから、何も予備知識もなく英語に入ることは一部の頭の良い学生しかついていけなく、多くの生徒には負担になると思います。その負担が英語嫌いになると思います。しかも1年生の後半から文法形式に変化していくのでいま思うと勉強をしていて生活で英語を使うという観点が自分の中からもなくなっていったように思います。またそのようにテストの科目という状況のなか、実際の生活の中で英語を使う機会がなければ会話に対する意欲がなくなっていったように思います。しかし、その後の受験英語は自分にとって、けっしてマイナスではなかったとおもいます。確かに実際に使わないような単語を覚えることは無意味だし、英作文の点数のつけ方もナンセンスですが、英語の論理性に触れたことは自分にとってとても意義がありました。
 この授業で学んだこと 20031229日から200419日までヨット、ファイアーボール級の世界選手権に出場する機会を頂き、出場してきました。今回のワールドはイギリス、フランス、チェコ、カナダ、アイルランド、日本、オーストラリア、ドイツなどのチームの参加があり、場所はオーストラリアのアデレードでおこなわれました。ここで、外国人とレセプションなどを通じ交流してきましたが、ヨットの話ばかりが飛び交い文化の話までは発展せず、残念な思いをしましたが、それぞれの国の選手と話していると自国の文化に誇りを持っているさまを言葉の節々から感じられ、とてもうれしい思いをしました。そのなかでも自分から日本の文化をアピールしていくことの大事さをかんじました。この授業で日本の文化の貴重さ、素晴らしさを学ぶことができたので、それをいかにつたない英語ながらも伝えていきたいなと思いました。またそのようなお互いの国の文化たとえば日本では勝ったものは負けたものの健闘をたたえる、レース前にお互いの健闘を祈るという文化を伝えることができたなら、もっとよりよいレースができただろうし、文化交流を通じてお互いのことを理解できたと思います。(男子学生)


過去の英語学習に思う 自分は内部進学者です。英語の受験をしていないので、単語を覚えている量も少なく、文法も自信がありません。いままで英語の授業を受けてきてはっきり言ってとても苦手です。そして嫌いです。なぜ自分がこれほどまで英語を嫌いになったかというと「覚えろ!」という意識がつよすぎ、それに対する反発によるものと、一回嫌いになるとまわりにどんどん遅れをとり、取り残されてしまったことです。英語は言語であり、頭に詰め込めばいいというようなものではないと思ってきました。この台詞を英語を出来る人が言うとかっこいいのですが出来ない人がいうとまったく説得力がありません。自分がいかに英語を学ぶことをさぼってきたか、なぜあのときにやらなかったのかと今大変後悔しています。
 この授業で学んだこと  一年間どうもありがとうございました。この授業を選んだ理由は1.授業内容が面白そうだったから。2.先輩に楽だよと言われたからです。自分は英語の授業は楽ならいいやなどと思っていました。しかし授業がはじまってみるとこんな英語の授業があったのかととても驚き、文法を覚えろという授業を受けてきた自分にとってとても新鮮でした。自分は日本人であることに誇りをもっています。日本人に生まれてよかったと思っています。しかし授業の課題である自分の国の文化を外国人に答えることは出来ません。この授業をうけてどれだけ情けないかと感じ、そしてその内容を伝 えるには英語を使えないといけないことを感じました。今まで苦痛になってやってきた英語を自分からやらなければいけない。こう思ったのは始めてかもしれません 。今後の自分の英語に対する考え方に大きな影響を与えてくださった先生ありがとうございました。(男子学生)

過去の英語学習に思う 私はこれまで日本における英語教育の標準的な教育を受けてきたように思う。すなわち読めるが書けない・聞けない・話せないという状態である。英語圏の人(英語を話す外国人を含む)から話しかけられても満足なコミュニケーションが取れる自信もないし、もしかしたら避けてしまうかもしれない。学校側から要求されているレベルをある程度高いレベルでこなしてきたはずの結果がこれである。 もちろん私は現状の英語能力に満足してきたわけではないが、受験という関門を突破するためには現在の教育システム通りのことをしなくてはならない。やはり今の学校教育の中で受験の占める割合は非常に高いため、英語教育を変えていくためには受験の内容を変えていくことが必要だろう。リスニングを増やす、使える英語表現を学べるようにする、などである。そしてもう1つ思うことは、本物の外国語と触れ合う機会があまりにも少ないということである。英語教師も受験英語を教える能力はあるが、その大多数がそこで終わっている。ネイティブスピーカーが教えに来る授業もあったが、ほとんどは授業として重要視されたものではなく、せいぜい月に数回しかなかった。これではいざ英語を使わなくてはならない事態になっても、経験がないため臆してしまい、実践する場をますます失してしまいかねない。10年近く日本の英語教育を受けてきた私が思うのは、意味のある英語教育をしてほしいということである。
 この授業で学んだこと
 この授業で一番強く思ったのは、なぜ私たちはこんな表現も知らないのかということだった。日本語に訳すと子供でも使っているような表現を、いくら英語圏ではないとはいえ私たち大学生が使えないのか。そんな今まで習ったことのない日常の基本表現を学べたのはとても有意義だった。そして外国人の日本に対する疑問について考える授業では、私たち日本人が改めて自分の国の文化を考え、それをどのようにして外国人に伝えるかということを1年間で勉強することができた。(男子学生)

過去の英語学習に思う
 私の過去の英語学習は、中高一貫校の6年間を通じた英語である。言い換えれば、スタートした時点から大学受験を意識し系統だてられた英語学習であったと思う。特に高校二年間の英語学習は、難解な文章を文法知識を総動員して精訳していく、といった印象が強い。それは自分としてはゲームのような感覚で楽しむことができ、英語という「科目」を嫌いになることはなかった。大学入学後一年間も、私のなかでの英語への認識・姿勢は変わることはなかった。
 しかし、2年生となり、山岸先生の授業を受講してからは、いままでの英語学習がいかに形骸化したものであったのか、思い知らされることとなった。英語という道具を用いて、何を伝えるのか。伝えることを、どれだけ自分は理解しているのか。中高6年間の英語学習に欠けていたのは、言語本来のダイナミズム、文化や社会との接点ではないだろうか。細かな文法事項や切迫した受験のために、英語を媒介とした日本文化の相対化というマクロな視点を見失ってしまっていたのである。
 けれど一方で、現在、塾講師として家庭教師として中学生に接している自分の経験からすると、中学生に自らの伝えたいことを英語で表現することを要求するのは、かなり酷である。彼らはその思いをつたえるための語彙や文法知識を持たない。安易に文法・単語を作業として詰め込むことを警戒しながらも、英語学習初期段階での地道な反復練習も、やはり必要なのかもしれない。
  この授業で学んだこと 一年間、山岸先生の英語を受講して私にハッキリと見えてきたのは、英語を使って欧米文化から相対化された、日本の文化であり社会であった。定住農耕社会、ムラという共同体への帰属、神道・仏教・儒教の融合、アミニズム、言霊信仰・・・など、先生のおっしゃる文化的背景はいまも私たちの生活文脈・思考様式に深く影響しているものばかりだった。いわば、言語はその国の文化の玄関なのではないか。意識してみれば、様々な言葉に文化の足跡が残っているのではないだろうか。厳密には、学んだこと、ではないと思うのですが、自発的な雰囲気ななかでの授業を構築していく方法がとても私には刺激的であり、心地よかったです。一年間を通して多くの知的発見がありました。一年間、ありがとうございました。(男子学生) 
 
■過去の英語学習に思う 私は、これまで中学、高校と約6年間も英語教育を受けてきたが、その英語とはただ教えられた構文や文法、単語熟語などを組み合わせただけのいわば「パズル」だったのかもしれない。その「パズル」は、ひとつひとつのパーツが明確に定められており、そのパーツをどう組み合わせるかの正確さが重要であった。そしてそこではそのできあがった「パズル」がその場面において適切かどうかには疑問は持たれていなかった。思うに、語学というものは定型性のあるものではなく、流動的に変化する「生き物」なのである。「生き物」に決まりきった定型性などはない。つまり自分の意思を正確に相手に伝えるには、場面に応じてパーツを変えることが不可欠である。今まで我々の受けてきた英語教育の誤った「パズル」志向が、日本人が外国人から様々な場面で誤解されてきたことに起因しているのではないだろうか。   
 この授業で学んだこと
 @で記述したように、私はできあがった「パズル」の正確さを第一に置き、「こういった場面ではどういう表現が適切か」という考えを軽視していた。しかし、この授業を受けて、ある場面においてのその表現の適切性の重要さ、を理解することが出来た。それと共に、今までの感覚だと不思議なことと感じたと思うが、この英語の授業を受けて日本文化のすばらしさを再認識することができた。自分でさえ理解していないというような外国人の日本に対する質問には深い意味が込められている。そしてその質問を調べる時、我々は今まで知り得なかった日本独自の文化の合理性、美徳を理解した。現在はますます国際化する一方だが、このような時代だからこそ我々は日本人であると言うことを再認識し、足元を見つめ直していかないといけないと思った。一年間、本当にありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は小学校から私立に通っていたので、小学校一年生から英語に接する機会がありました。先生がネイティブの方であったこともあり、英語に全く抵抗感や苦手意識を持つことなく中高6年間を過ごすことができたように思います。私の受けてきた英語教育の長所は英語を授業科目の一つに留めなかったことにあると思います。私たち生徒は、英語を自分の可能性を広げる一つの道具として見ていました。小学校ではたどたどしくてもネイティブの先生に通じたときの喜びを、中学校では英語を書くこと、読むことの楽しさを知ることができたことが大きな影響を与えているのではないでしょうか。これらを経験したことが、高校では文法的に複雑な英文を意地でも読もうとする姿勢につながったように思います。反対に短所として挙げられるのは、他の学校とも共通すると思いますがやはり大学受験を念頭に置いた文法教育です。もはや英語を母国語としている国々では死語と化しているであろう非実用的な慣用句や構文を覚える労力をもっと有効的に使うべきです。確かに単語や文法事項はある程度覚えなければ英文は読めるようにはならないと思いますが、必要なことを必要なだけに絞るべきだと思います。受験のための英語学習ではなく、大学生活のため、将来のための英語学習であって欲しいと思います。
 この授業で学んだこと   既述したような英語教育を受けた私にとって英語は得意分野でした。しかし、この授業を受けて自分の英語理解がまだまだ浅いものであったことが分かりました。前までは英文を日本語に訳すことで理解したつもりになって満足していました。むしろそのように教えられていたので、当然だと思っていました。よく考えれば、日本の長い歴史の中で培われた価値観を含む日本語と、全く違う文化や価値観を持った英語が同じであるはずがないのですが、それまでは全く同じとは思っていませんでしたがほぼ同じだろうと考えていました。言語を習得するということは、その記述方法はもちろんのこと、その言語がつくられた国の文化、歴史、そして価値観も知るということであることを、そしてたった数秒で言える単語には、その説明に何十倍以上もの時間を要する歴史と重みがあることをこの一年間の授業を通して学ばせていただきました。私にとってこの授業はとても貴重な経験となりました。これからも英語の理解を深めていきたいと思います。一年間本当にありがとうございました。(女子学生)

■過去の英語学習に思う 大学の英語の授業には、英語は使うためにあるものだという基本的な意識が少ないように感じられる。そのため、僕達は英語を学ぶために勉強するという状況から抜け出せずにいる。これはいわば、テストや単位のための勉強であり、実力がつくとは言いにくい状況ではないだろうか。
この授業で学んだこと この授業では、上記で挙げた使うための英語というのがはっきりと意識された授業であったように感じる。そこには、英語は自分の考えを伝える手段であるということが強調され、その方法をWritingを通して学ぶことができた。さらに大事なことは、伝えるべき手段を持っていても日本人として伝えるべき内容を持たなければ意味がないということをこの授業を通して感じられたことであった。日本を再認識し、またそれを伝える工夫をする。当たり前のことだが現在の英語教育では欠けていることを学べた気がする。(男子学生)

過去の英語学習に思う  私の今までの英語学習を振り返って、長所・短所をまとめてみました。長所は2点です。1、いわゆる日本の受験用英語がみにつき、受験英語が得意になった。2、熟語や単語の記憶ばかり受けたので語彙が増えた。短所は3点あります。もちろん全て、日本の英語教育のせいにすることはできませんが思ったことをあげてみました。1、日本人的な発想の英語の教育を受けたために英語文化圏とかけはなれた解釈による単語・熟語をみにつける結果となってしまった。社会背景が違う文化どうしであるから一つの単語でも注意して翻訳する必要があるにもかかわらず、日本社会は安易な解釈を行ってしまったと気づかされました。2、減点教育を受けたために積極的になることができなかった。どうしても間違いを恐れ、十分な納得がいかずに、ただ丸暗記をするということもあった。3、筆記・読解中心の教育であったので実際に外国人を前にして単語が出てこない、積極的に話しかけられないようになった。

 この授業で学んだこと この授業で学んだことでとても印象に残っているのは2点あります。1点目は日本文化についてです。英語の授業であるのになぜ、日本文化なのかと思うかもしれませんが、私は本授業を通して日本の文化・日本人の心の有様を知ることができました。そして、日本人であることを誇りに感じるようにもなりました。このことはまた、外国人と話すときにも大いに役に立つと思います。自国文化を知らずに他国文化を知ることは難しいことだと思いました。

2点目はPC問題など英語文化圏についての知識が増えたことです。今までは日本のみで通用する英語教育を受けていたので、PCなどは全く気にしていませんでした。また、「仕方がない」などの日本と外国の文化の違いからくる差も知ることができました。例え英語を話すことができてもそのような文化の差をしっかりと認識することなしに外国人と対等に付き合っていくことはできないのだと思いました。以上です。1年間ありがとうございました。(男子学生)


過去の英語学習に思う 中学校から数えて今年で英語の勉強は8年になります。でも、それらは「英語の勉強」の勉強だったことを知りました。つまり、実際に社会に出て使える英語ではなく、英語の勉強のための学校英語だったということです。今までの英語学習が、丸々無駄だったとは思いません。英語に「慣れる」ために、常に英語に触れている必要があったからです。ただ問題は、日本と英語圏の生活状況、宗教等の文化、習慣などから照らし合わせて実際に使える英語を学習していく必要性を学校や指導者が軽んじていたことだと思います。今まで私が学んでいた英語の授業では、たいてい決まりきったひとつの答えしか教えられませんでした。(例えば「ゆるさない」ならdon't forgive、「がんばれ!」ならDo your best!)しかし実際にはそれがいかなる状況でも使えるわけではないことを知りました。英語を教育させる気があるのなら、半端に使えない日本人英語を教えるのではなく、中学からきちんと実用的な英語を教えていく環境が必要だと思います。
 この授業で学んだこと 最もこの授業を受けて心に刻まれたのは、日本人であることに誇りを持つということです。別に今まで誇りを持っていなかったわけではなく、むしろ私は外国から批判されるとすぐに弱気な態度に出たり、自虐的になりがちな日本の世論やマス・メディアを情けないと思っていました。でも、逆に日本の良さをどれだけ知っているか?という質問にはほとんど答えられなかったと思います。集団を重んじて、仲間意識を大切にする日本人、礼の気持ちを大事に考える日本人などの話を聞いた今では、ノーベル賞の授賞式で頭を何度も下げる日本人が少し誇らしく思えるほどです。この授業は自主性が強調され、尊重されるのでテスト前にだけ使われるようになっていた「考える力」を鍛えなおすことが出来ました。教師が率先して学生と一体になる授業はとても新鮮でおもしろく、授業とはこうあるべきだなと改めて感じましたし、たびたび出る小話を、とても楽しみにしていました。授業内容・形式等は非の打ち所がないのですが、唯一、時間にもう少し気を配っていただければありがたかったと思います
【注】英語の授業であり、日本の授業でもある。そんなサブタイトルが似合う授業でした。今年一年大変ためになるご講義をありがとうございました。これからもそのあふれ出るエネルギーで迷える英語教育界に警鐘を鳴らし続けてください!(男子学生)
【注】
この指摘は私がついつい話に夢中になり黒板に書いてもらっていた学生諸君の英文に加除修正を加えられずに「来週回し」にしてしまったことを言っているものと思われます。私の反省点の1つです。

過去の英語学習に思う そもそも、日本では英語を使う機会が少なすぎる。これではいくら単語や文法を詰め込んだところで英語が上達するわけがない。ラケットも握ったことの無い人間がテニスの本だけ読んで練習もせずにウィンブルドンに出場するようなものだ。もっと日常で英語を話す機会をつくるべきだ。一番いいのは、日本がアメリカの51番目の州となって英語を公用語にしてしまうことなのだが、いかんせんそうもいくまい。しかしそのくらいの意気込みが無ければ、日本人の英語はあと10000年たったとしても上達はしないだろう。せめて学校の授業だけはすべて英語で行うことくらいは必要である。音楽や映画など、あれほどアメリカが好きで、しかも物まね上手な日本人のことだ。少し本気をだせば英語くらいすぐに習得できるようになるはず。
 この授業で学んだこと 言葉は文化である。この一年を振り返って想うことは、この一言に尽きる。どの言語にも、それぞれ特有の歴史にもとづく文化が刻まれている。その文化を理解することなしには、どんな言語も真に習得することはできない。通訳だけなら機械ひとつでこと足りるのだ。お互いの文化を相互に理解しあったとき、はじめて本当の会話がなされうるである。
 ・言葉なくして、人は世界と触れ合うことはできない。言葉というフィルターを通して、人は世界を見ることができるのだ。今度はもうひとつのフィルターを手に入れよう。そのフィルターを通して、人は新しい世界を見ることができる。そして次は新しいのと古いのと、重ねて見てみよう。その向こうには、無限の可能性が広がっている。
(男子学生)

過去の英語学習に思う 長所:中・校合わせて6年間の学習期間があり、その間に出できた語彙は十分豊富である。したがってしっかり学習すれば語彙不足で会話に困ることはないはず。文法中心の学習なので、一つの仕組みを知ることにより、無限の表現ができることになる。丁寧な(?)英語表現が身につきそうである。短所:インプット中心(文法、リーディング)の授業なので、アウトプットする機会(会話、ライティング)が少ない。特に会話する機会があまりにも少ないため、いざというときに自分の思いを上手く表現できない。単語やイディオムなどをどのような場面でどれを使うべきか教えられていない。受身の授業。ユーモアに欠け、楽しくないかも。先生によって能力がまちまち。古く、死語になったような表現が未だに通用する世界。単語の意味をイメージとして訳されていない。大学受験の為の英語教育になっている。
 この授業で学んだこと 英語表現の正しい使い方。文化の違いが言語にも現れてくるということ。「ここが変だよ日本人」の答え。そのほとんどが日本がかつて農耕社会・村社会を作って集団生活を営んでいたこと、儒教の影響につながるということ。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 下の2番とすこしかぶるところがありますが、難しい文法やほとんど使いそうも無い英単語ばかり覚えさせられて普段の英会話で使えないのではやっていた意味が薄いと思います。主語を抜くと命令形だとは習いましたが簡略化されてくだけた表現だとは習いませんでした。こういった勉強のため外国に行っても使えないのだから外国に行こうとかもっとしっかり英語を勉強しようという気はあまり起こりませんでした。また、細かく文法をチェックしてatやonやinをいちいち気にしなければいけないのは点数によるランク付けには有効かもしれませんが身に付くとはいえなかったです。受験などで差をつけるためにはしょうがないのでしょうが学問としての英語をやってばかりで覚えておいて役に立つ言語としての英語ではなかったような気がします。
 この授業で学んだこと 後半のスピーチレベルによる英語の使い分けが特によかったと思います。英語を話すには英語圏の国に行くのがいい手段だと思います。例えばホームステイではステイ先の家族の人はもちろんのこと英語を母語とする一般人と話さなければいけませんが日本の英語教育で習ったような教科書英語はあまり伝わらないとよく聞きます。そこでスラングではないですが、現代の一般的な英語が使えれば挨拶くらいは自信を持ててとりあえず話してみようという気になると思います。3単語くらいの日常用語を使えるか使えないかというのは大きな違いだと思いました。また、日本の文化を外国人に説明するのは日本語でまとめるだけでも新たな発見でこういうことを外国人は聞きたがるのだな、われわれは普段こんなことを疑問に思っていないのだな、とわかりました。先入観が無いということはいろいろな発見ができてよい面がありました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私が受けた日本での英語学習を簡単に表現すると、読み書きに突出した英語教育であった。リスニングやスピーキングの教育はほとんどされず、ひたすら単語を覚え難解な文章を読まされてきた。しかし、リーディングや文法、語彙力に関してはかなり高いレベルにまで教育されている。この点は日本の英語教育、学習のメリットであるともいえうるだろう。そうは言っても問題点も多い。私はこれが日本の英語教育がリーディングやライティングばかりである理由だと思うが、中学や高校での教師のレベルである。私の高校の英語の先生のほとんどは明らかに英語が話せなかった。確かに読んだり書いたりするには問題なかったのかもしれないが、当時の私でも彼が話せないことは明白であった。そのため生きた英語を教えることができなきなかったのだと思う。今日とは違い、昔は海外へ留学したり、英語を話したりするチャンスが少なかったので致し方ないといえばそうなのかもいしれないが、やはり問題だと思う。
 この授業で学んだこと 一番印象的だったのが、日本の文化と欧米の文化の違いを欧米の人達から意外と理解されていないことが多いということを知ったことである。日本では当たり前のことが、実は世界ではそんなことは絶対にしなかったり、欧米では当たり前のことが日本ではとんでもなくおかしなことだったりすることは、結構多く存在する。国が違えば文化も違うのは当たり前で、その文化の違いを上手く説明してあげること、また逆に外国に行ったときには現地の日本とは違う文化を理解することに努めるべきだということは、もはや当たり前のこととして私の中で捉えられている。私はこの授業全体を通して英語のみならず、昨今世界に対して非常にオープンになってきた日本の国民として、違った文化を持った海外からの訪問者に対してどのようなスタンスを取っていけばいいのかを学ぶことができ、世界とは切っても切り離せないこれからの日本の社会を生きていくうえで非常に役立つことをたくさん学ばせていただいたと思う。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私が今までに受けた英語教育を振り返ってみると、味気なかったなあ、というのが大枠の感想として出てくる。中学校時代には、主に塾での勉強が中心となっていたが、いわゆる受験英語の勉強であり、眠気をかなり催すものであったと記憶している。もともと、かなりのめんどくさがりやで、暗記という作業がかなり嫌いであったため、記憶がほとんどのウェートを占める英語が、他の教科と比べて苦手となっていた。同じように暗記が中心となる理科と社会は、興味があったこともあってかなり得意だったため、いかに英語に対して苦手意識をもち、嫌っていたかが今思い返してみて(自分のことだが―)わかる。単語を覚えるのも好きじゃなかったし、熟語を覚えるのも苦手だった。なにより嫌いだったのが文法の勉強だった。眠い。恐ろしく眠かった。通常、中学生が塾の授業において、寝るなんてことはまずありえなかったのだが、英語の文法の授業だけは、どんなにがんばってもうとうとしてしまうときがしょっちゅうだった。高校の時はほとんど記憶にない。内部生だったので、必死になって英語の勉強をすることはなかったからだろう。テスト前に単語を覚えて、それなりに成績をとる。これが高校三年間の英語学習のすべてだった。
 この授業で学んだこと
 この点、今年度受けた山岸先生の授業はいままでのものとは全く異なり、興味をそそられるものだった。日本人に日本のことを聞いても全くわからない、という指摘は前からあったので、自分なりに考えてきたつもりだったが、山岸先生の授業でいままで全く考えたこともなかったような、日本の伝統・習慣について、理解することができた。まさしくこれは目からうろこの体験だったと思う。友達と「あれは語学じゃなくて地域文化論日本だよなー」なんていったこともあったが、それほどいままで受けた英語の授業とは異なる、面白いものだった。また、日本との文化的違いなどから生じる英語との意味の違いという、今まで考えたことのなかったことも知ることができた。この一年間の授業は今までの英語の授業のなかで、比べ物にならないくらい面白いものだった。一年間ありがとうございました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う  中学校から始まった僕の英語学習は今年で9年目に入る。もし9年もアメリカ生活をしていれば、流暢な英語でもって金髪の女の子に愛の告白の一つでも出来るようになっているだろう。しかし今の僕といえばTOEICで発表できない点数を取る始末。現実は厳しい。高校・大学と受験を経験することなく大学まできた僕は一般に言う「受験英語」という知識・技術を身につけることなく学校での英語の授業のみで英語能力を 培ってきた。そこでは文法や単語を『期末テストの直前一週間で』覚えていた。リスニングは洋楽CDとたまに聞くラジオ。方法は教科書も配布されたプリント も何度も読んで丸覚え。そうやって「乗り越えて」きたのが英語の授業だったよ うに思う。おかげで単語や基本的な文法は頭に入っているようだ。それに英語読むことは 多少できる。しかし授業がとにかく単調で予習してきてしまうとやることがなくて暇な時間になってしまっていたと思う。少なくとも化学・数学の授業の方が楽 しかった。
  この授業で学んだこと 僕がこの一年間の授業で一番印象に残っていることは「アメリカでの日常生活で使用されている単語は3000だったか…とにかく予想より遥かに少なかった!」という事だ。確かに授業中に先生が紹介される会話構文は全て本当に簡単な単語からなる表現ばかりだった。それだけ僕は知っている単語の使い方を知らずに、知識を生かしきれていないのだと痛感した。だから毎週先生が紹介される会話表 現は新鮮で、日本語から英語にどうやって変えるのかを考えるのがまた楽しかった。さらに僕が知っている単語で実はこんなに色々な表現が使えたのだという発見は、大学受験をしていなくて絶対的な単語知識が少ないと悲観していた自分に とって嬉しい発見だった。もし近々海外に行く機会に恵まれたらこの英語のノートを持って行こうと思う 。そして日本文化を積極的にアピールしたい。また、是非とも使ってみたいフレ ーズがある How are you? I can't complain. こう切り替えして、今までの固定的なあのフレーズから脱却したいと思う。 アイムファイン センキュー エンジュー? (男子学生)

■過去の英語学習に思う 我々は過去8年に亘り英語を学習してきたわけであるが、その大部分は高校・大学受験に使うための「受験英語」でしかなかったと思う。それは、今の私を見てみれば容易に判断することができるだろう。どういうことかというと英語を学んだ結果、何も残っていないのである。つまり英文を読む能力しか身につけることが出来ず、「話す・聞く」といった実践的な能力はまるでついていないのである。それはやはり中学・高校を通して、リスニングなり、スピーキングなりの授業時間が不足していたためであろうと思う。そもそも言葉というのは、読むことと話したり聞いたりすることは同格と考えて良いものだと思う。それに対して、学校での時間配分はリーディングが8割、スピーキング・リスニングが2割といったところだろう。時間の配分をちょうど半分ずつにしろとは決していわないが、もう少しアウトプットの授業をした方が良い。私のような、あまり使えない英語を習得することになってしまうから。
 この授業で学んだこと この授業で学んだことはたくさんある。まず挙げたいのが、英語を話せるだけではあまり意味がなく、英語で話す内容がより重要だということだ。そして話す内容がしっかりしていれば、英語が拙いものであっても大丈夫だということである。確かに片言で話したとしても、ネイティブなら十分理解してくれるはずである。しかし、取るに足らないことばかり言っていては、内容自体は理解できてもネイティブの共感を得ることは出来ないだろう。また同じように今まで一番気をつけていた「文法」もネイティブを相手には不正確でもあまり関係ないということも実感させられた。言いすぎかも知れないが今までの勉強は余り役に立たなかったのかもしれない、とも思った。英語勉強への扉を開いてくれたことは確かだが。またこういった考えをこの授業で学んだことで、自分をみがくこと、自分の発言を向上させていくことの大切さも実感することが出来た。これは僕にとって大きな発見であったと思う。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 中学校,高校と英語を学んできたわけだが、果たしてそれらの一体どれくらいが実際に使える英語学習であったのか疑問である。しばしば問題にされるように,中高の英語学習は受験のため の勉強であったような感がぬぐえない。ひたすら覚えさせられる単語の数々・・・。それぞれに対義語や類義語があり,それが本当に同じ意味であったりすることはないのにその違いや使い分けはそっちのけでとりあえず書き換え問題ができることのほうが優先された。能動態から受動態への書き換え,形式主語を使っての書き換えなど,それによってどのように意味が変わるのかということは全く問題にされず、ひたすらパズルのように問題をこなしていくことが大事だった。他言語を学び習得するということは,その言語をとりまく生活環境や文化,そこで育まれる人々の考え方を学ぶことぬきにはできないことであると思う。そして,過去の英語学習で私が学ぶことができなかったのもまたそういったことであったのではないかと思う。
 この授業で学んだこと 過去の英語学習が英語圏の人々の文化や物の考え方,捉え方を重視しないものであったのと対照的に,この授業ではそういった本質的なものを重視していたように思う。授業のテーマとしては,「外国人の疑問に英語で答える」というものであったので,一見したところ日本のことについてしか考えないように思えるが,外国を学ぶことは自国を学ぶことだというのはよく言ったものである。まさに日本を通してそれと比較する形で英語圏の文化や思想を学んでいくという授業であり,中高とやってきた英語学習とは一線を画すものであった。授業中山岸教授もしばしばおっしゃっていたが,本来なら中学校や高校で教えられて然るべきことばかりであったと思う。後から補強するという形ではあったけれど、大学になってこのような英語教育を受けることができた私はまだ幸運であったと感じる。欧米の人々への理解を深めることもできたし,何より日本人としての自分に自信を持つことができた。(女子学生)

■過去の英語学習に思う
私は中高、塾内の付属校だったので、一般受験を経て慶應に入ってきた人たちに 比べては文法や受験対策の英語教育に縛られてきたわけではありませんでした。 中高では外国人の先生たちのクラスも多く、オーラルコミュニケーションなどに力を入れた授業が多かったように思います。そのような授業の長所としては、外 国人と英語を使ってコミュニケーションをとるために必要な技術を学び、またそ れを実践する機会を沢山得られたことだと思います。昨年、所属している部活の 関係でアメリカの大学に2週間行った時、少しは会話することができたのはその おかげかな、と感じました。短所としては、単語力や文法力があまり身につかず、特に文章を書いたり読んだりするときに困るということかと思います。日本の英 語教育では、近年コミュニケーション能力をつけることが重要視されてきているように感じますが、最初からそれだけに偏ってしまっても伝える中身がなかった りしたら意味がないのではないかと思います。
 この授業で学んだこと  先生の授業に出会って、英語を学ぶということは、違う文化や環境の人に自分の伝えたい何かを伝えるための方法を学ぶということであることをはじめて認識することができました。そして、日本人である私たちが普段無意識で行っていること、話していること、それらの意味や価値を正確に外国人に伝えるためにはまず 自分自身がきちんと理解しなければいけないということにも気づくことができました。今まで英語を学習することが苦痛な時もあって、なぜ英語を勉強しなけれ ばならないのかわからなかったけれど、自分が伝えたいことを相手に伝えるため に必要なことだとわかって納得することができたと思います。また、先生の辞書作りについてのお話を聞いて、辞書に対する見方が変わり、興味を持って読むようになりました。文法に自信がないのですが、発表の時に、多少間違っていても言いたいことが伝わると言っていただけてとてもうれしかったです。最後になりましたが、先生に出会うことができて本当に良かったです。一年間、どうもありがとうございました。(女子学生)

過去の英語学習に思う 私はこれまで、いわゆる詰め込み方、大学受験対応型の英語学習をしてきた。具体的に言えば、単語は「A=B」といった形式を何も疑うことなく暗記し、文法に関しても細かいことまで覚え、英作文では少しの間違いも許されてこなかった。今から考えると、確かに無駄なこと、実際には使えないことが多いかもしれない。ただ、基本的な文法事項、英文から得られた情報および基本的な単語に関しては、現在でも役に立っており、むやみやたらに後悔はしているというわけではない。また、私は国立大学を目指していたため、その勉強法としてじっくり英文を読み読解していくというものを行っていたので、英文に関してただ読み流すよりも、興味を持って取り組んでいく姿勢が身についたことも大変重要な財産だと思う。ただ、母校の悪口を言うわけではないが、パラグラフリーディングといったような速読をもっとうとして内容に関しては必要最低限でよいとする英語学習法には多少の疑問を抱いている。読み取れる情報から的確な判断をし、そこから正しい答えを導けるかを試し、事務処理能力の高い者を選ぼうとしているのだろうが、本当の学力というのは「考える力」にほかならないと考える私には、じっくり読んでその英文に隠された文化の違いなどに気づき、それを基にして考えるといった問題の方がより高いレベルの学生を集めることができるのではないかと考えているためである。
 この授業で学んだこと では、私はこの山岸先生の授業から何を学んだのであろうか? 率直な意見を述べると、先生の日本に対する姿勢に疑問を感じることも多かった。しかし、今までの学習法にはなかった、外国からの日本人の使う英語や、日本文化への視点というものにとても興味深く取り組めた。具体的に言うと、単語や文法に関しては、キリスト教と神教・仏教という異なる宗教からくる考え方の違いにまで遡り、日本人の使う英語と本来の英語のニュアンスの違いの説明をなさったのを聞いたときにとても感銘をうけた。また、私たちがあまり深く考えずに行っている行為(例えば年越しそばなど)に関して、改めて調べ、日本文化を再発見できたことにはとても満足している。この経験は以後、外国人との接触および討論の場でも生きてくると思う。貴重な体験であったと私は思う。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は中学、高校と英語を学習していく中で日本の英語教育に疑問を感じ続けてきました。これは私だけでなく多くの大学生が考えていることであると思います。中学、高校で英語の成績がよいということが英語が使えるということにはなりません。難解な構文を読み解く力はあっても聞いたり話したりすることはできない。私も例外でなくその一人であります。しかもその能力でさえも受験期がピークであり、燃え尽き症候群となってしまう人が少なくありません。いかに日本の英語教育が受験志向であるかということでしょう。しかし最近では大学入試も少しづつ変化しており、ヒアリング等実用的分野が増えてきているので、それに向けて努力する生徒の英語能力のバランスはよくなっていくことでしょう。山岸先生はこのような日本の英語教育の現状に一石を投じられていることを知り、こういう方もやはりおられるんだと安心しました。これからもご尽力されることを祈っております。高校までの受験英語はつまらなかった、辛かった。自分の過去を否定したくありませんが正直な気持ちであります。
 この授業で学んだこと 山岸先生の授業を1年間受講し、しみじみ感じさせられたことが、私たちはあまりに日本のことを知らな過ぎるということです。日本人は英語をはじめ外国のことばかり目を向けている。国際交流の前にわが国のことを知り、それを伝える力がなければならない。その通りだと思いました。今の日本人は日本人としてのアイデンティティを失っていると言われます。話はそれますがイラク自衛隊派遣 でもやたら反対意見がありますがこの国の現状を考えれば、止むを得ないことは 当然であると思います。自衛隊がイラクに行かないことが平和だと考えるのだろうが、それも論理が通らない。日本の現状を真に理解していない人が反対するのだと私は思います。この授業でいくつも日本のあれこれを知ることができました 。そして自分が日本人であることにますます誇りをもつことができました。これからも私と同じような経験を得ることができる学生をどんどん増やしていってください! (男子学生)

■過去の英語学習に思う 私は、俗に言われるエスカレーター式の大学付属中高一貫校を卒業しました。大抵そういった大学付属校の授業では、世間一般で言われるような日本の英語教育の弊害といったものを感じられる以前の問題が存在する傾向があります。その為、以下の感想は高校1年から3年まで通っていた予備校や自分が使用した参考書などから感じられた事柄について述べたことです。日本の英語教育の弊害としてよく指摘されることの多い文法中心主義についてですが、私個人としては、功罪の両面があり一概に否定的に評価するのは間違っていると思います。まず功罪の「功」の面として挙げられてしかるべき点は、英文がとりあえず読めるようになるということです。今でも文法を徹底的に叩き込んだおかげで、大概の英文は辞書さえあれば理解できます。この点は、もっと評価されていいと思います。一方、功罪の「罪」の面は、あまりにも文法を気にし、会話の際に頭の中で英作文をしてから話そうとしてしまう為に、英語教育を6年間受けても海外旅行の時に、しどろもどろになってしまうことです。このように考えてみると、従来の英語教育の功罪は漢文のように読解だけを重視し為に発生しているのではないかという気がしました。
 この授業で学んだこと
 この授業で学んだことと言えば、日本語と英語との間には宗教や文化的な相違がある為に、ただ「神」という時でさえ大きな誤解を招いてしまうのだということです。そのような意思疎通における誤解を避けるためには、キリスト教を理解しなければいけないと同時に、日本の文化自体を知らなければそもそも異文化を相対化できないということを改めて気づかされました。そして、私たちの考え方の中に無意識に存在する儒教や仏教、そして神道やアニミズムの影響を意識化することができました。恥ずかしながら授業を受けるまで知らなかったのですが、「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」や「袖触れ合うも他生の縁」といった言葉は、今も脳裏に焼きついています。何か英語の授業を通り過ぎて、人生を生きていく為の糧を得られたような気がします。どうも1年間ありがとうございました。最後に、わたしの好きな和歌に「恋いし恋いしと 鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が 身を焦がす」というのがあるのですが、今改めて考えてみるとあまりに日本的であり英語に直すのは非常に難しいなあと思いました。そこで、来年の授業では、演歌だけではなく和歌を英語に直すといったことをやると面白いのではないかと思いました。(男子学生)

■過去の英語学習に思う 僕が今まで受けてきた英語教育は、他の平均的日本人が受けてきたのとほぼ同じである。つまり、リーディング、ライティング、リスニング、スピーキングの順番に時間が費やされて、たたきこまれるというものである。しかも、前二者と、後二者の間には決定的なカリキュラムの差がある。しかも、前二者の中でくらべても、圧倒的に、リーディングに費やされる時間というものは多い。「読む事」のスキルを磨くということに、六年間、中学から高校にかけて全精力を、注いできたと言っても過言ではない。そして、その方法というのも、英語の本質的理解を目指すものではなく、単語を覚えて、文法をマスターして、段階を踏んでいくというものだ。授業で使われるものの、多くも無味乾燥なものばかり。山岸先生のように、演歌を題材にするといった、興味深い試みもない。もちろん、純粋に英語を勉強するのも好きな人もいるだろう。けど、何故、英語を勉強するのかと質問されたら、僕を含めて多くの人はこう答えるのではないだろうか? 大学受験があるからだと、、、。
 この授業で学んだこと この授業で学んだのは英語というよりも、良い意味で、日本語そして、日本の文化についてだったように思う。当たり前のように、周囲には日本語があふれているにもかかわらず、先生が、外国人の疑問として、提示してくれたものの、多くを僕は日本語ですら、説明することができなかった。けれども、先生の授業を通じて、または、自分で調べるという作業をする事によって、普段は、意識しないような、基本的日本人の思考方法を学び、そして、そういう日本人として、生まれてきたことのすばらしさを再認識できたという素晴らしい機会を得る事ができました。同時に、独特な、日本独自の言葉とかを、考え、苦労して、英作することで、受験用ではない、有意義な英語能力も上達したのではないでしょうか。先生の授業を受講した事で、これからは、世界に発信するための英語力の上達の必要性を実感いたしました。なかでも、後半にやった演歌の英訳は、本当に興味深く、来年先生の講座を受講する人をうらやましく感じます。一年間どうもありがとうございました。(男子学生)


■過去の英語学習に思う 日本人にとっての英語教育は言語習得そのものを目指したものであるように思われる。しかし、こういった考えかたは、かなり現実離れしているのではないであろうか。「英語学習の目的」においても何のために、どうしたいからその目的に向かうのかといった先まで考えず、その目的のためには英語だけでなく、あらゆる知識、たとえば日本の文化や、またその国にはどのような文化があり、どんな政治が行われ、国民がどのように生活しているのかを知る必要があるのではなかろうか。なぜなら、日本語は英語から著しくかけ離れた言語であり、英語文化と日本語文 化も非常に異なるからだ。あらゆる知識の蓄積なくして、英語は話せるようにな らないだろう。ただ単なる中身のない会話なら別だが、果たしてその程度のコミュニケーション能力は必要なのかは疑問だ。わたしたち学生も考え直さなければならない。英語を話したいのなら、英語を学ぶことはもちろんだが、話せる内容を持つべきだろう。
 この授業で学んだこと 単なる知識のつめこみではなく、単語の語源をたどり、英語と日本語の違い、文化の違いについて学べたのが、とても良かった。今までの文化や環境の違いについてほとんど考慮しなかった英語教育が如何におかしかったのかについて改めて 実感した。又、英文化のみではなく日本文化について学んだ際、如何に日本国民が自国の事について無知なのかを痛感した。そして、語学というのはその国の国民の歴史、感情の積み重ねを土台として作られているという事実を知った。私は受験英語のような表面的な英語教育は嫌いであったが、この授業のような本質的な英語教育は面白いと思えるようになった。(女子学生)


■過去の英語学習に思う  私は中高一貫の学校へ通っていたので英語の学習は6年間計画でつくられたカリキュラムを通じてしていました。中学1年は週7回、英語の授業がありそのうち1回は英会話の授業でした。中学時代はほぼこの形態は変わらず、高校からはリーディングとライティングに分かれましたが、私の学校は進学校でしたのでほとんど大学入試対策の授業でした。よく大学入試対策の英語では将来に役立たないといわれていますが、私はあながちそうは思いません。なぜなら、いまの中学高校の英語教育では生徒たちが英語を本気で学ぼうというやる気を養うことができないと考えるからです。大学受験では英語はとても重要です。ですからみな英語に真剣に取り組みます。私もそうだったのですが、英語は勉強すれば勉強するほど面白くなってくるものです。それに大学受験の勉強で覚えた単語などは、覚えておけばおくほど後々有利なのは言うまでもありません。たとえ大学受験のためだから、といっていやいや英語を始めたとしても、学べば学ぶほど英語の魅力にとりつかれていくと私は思うのです。 
 この授業で学んだこと 私は先生の授業を受けることができてとてもよかったと思っています。先生の授業から学んだ一番大事なことは、外国語を学ぶにはまず自国、日本を知ることだということです。言葉というものはその国の文化、歴史がとても影響しています。だから言葉を話すときはその言葉の背景にあるものをきちんとわかっていなければならないのだ、と痛感しました。実際先生の用意してくださった「外国人の質問に答える」という数々の質問の一覧に対して、自分では改めて調べなければ何一つ満足に答えられませんでした。しかしこの授業があったおかげで日本のことが少しずつわかってきましたし、英語のことがもっと好きになりました。これからも英語の学習はもちろん、日本についても学んでいこうと思います。最後になりましたが1年間本当にありがとうございました。(女子学生) 
 
■過去の英語学習に思う 僕は付属の慶應中等部から上がってきた内部生なので受験英語というものを知りません。いままでの英語の授業はありましたが正直言ってあまり興味もわかない上に成績もパッとしませんでした。中高の英語の授業は教科書から知らない単語を辞書で調べ一番先に載っていた日本語を横に添えて単語ノートを作って一生懸命暗記したり,必死にいろんな構文を覚えて当てはめて文を作ったりで学内試験が終わるとすっかり忘れ興味もわかないものだから自発的に勉強したりはしませんでした。あと読み書き中心に授業が進んでいたので会話,リスニング能力は皆無でした。やはり過去の英語の授業はどうしても受動的で,「将来英語が使えたらよいだろう」という英語の必要性が具体的に見えてこない曖昧なスローガンみたいな下で出口のない迷路に迷い込んでいた気がします。
 この授業で学んだこと 率直に言うとこれほど興味の湧く授業は初めてです。自分にとってもう出尽くした感じに溢れていた今までの授業と違い,英語の必要性を感じました。ただ社会にでて・・とか漠然な理由ではなく自分が日本人であること,そのことを示すために必要だと感じました。自分の国の文化,風土,習慣を正しく外の人間に伝えること。これが日本人が世界における一種の存在証明であると思います。
内側から日本を見る目。外側から日本を見る目。この両者は自分が本当に自国を理解した日本人であるために互いに欠けてはいけないことだとと授業を通じて強く感じました。自分の内面を磨くためには自分を見る鏡を磨かなければならない。そんな気がします。(男子学生)
 
   
                  課題としての感想文以外に、何人もの諸君が、
            
謝辞的メッセージを寄せてくれました。そのうちの2例を紹介します。

この一年間、金曜4限の英語の授業は本当に楽しかったです。こんな授業が語学のクラスにあるんだ!とすごくわくわくしました。山岸先生がいつも笑顔で様々な幅広い知識や思想を教授して下さるあの時間はいつもあっという間に過ぎてしまったように感じます。背筋をピンと張った先生の姿がかっこう良かったです 。「僕のダメなところは反面教師にしてください」という先生のお言葉、その後からそのポイントを探してはみたのですが…見つかりません。英語の楽しさばかりが見えていた授業でした。本当にありがとうございました。たった一年で英語への考えや姿勢が自分でも変わったように思います。先生の授業の間はずっと英語がすっごく楽しい、と感じられました。来年は演歌(★)が課題ですよね。おもしろそうです。後輩にも是非勧めてみようと思います。 (男子学生)
  
(★)来年度の授業の中に「演歌」の英訳作業をいれることを指しています。

1年間という短い間でしたがありがとうございました。山岸先生の授業を履修して本当に良かったと心から思います。先生の授業は学ぶ点が多かったことは言うまでもありませんが 、フェラーリ(★)や先生のご家族の話などとても楽しく、もう授業がないと思うと残念でなりません。また福沢先生のお話もなさっていましたが、自分はその福沢先生がお創りになった慶応義塾で学ばせていただいているのに自覚がたりなく恥ずかしい限りです。今後は慶応義塾の名に恥じぬよう日々努力し、また山岸先生から学んだことを忘れずに、いつの日にか社会に貢献したいと思います。今まで本当にありがとうございました。(男子学生)

  (★)
世界最高級車の1つ「フェラーリ」を創ったエンツォ・フェラーリとその息子ディノ・フェラーリの話のことを指しています。