[ 英語辞書批評の在り方
1.誠実な英語辞書批評を「怖い」と思いたい
英語辞書編纂に携わる者の一人として、また、英語辞書の真の発展を願う者の一人として、自説の正当性を論証するために、他社の英語辞書の問題点を指摘することがあります。すると必ず、「お前の辞書にだって(このような)間違いがあるではないか」「ガラスの家に住む者がガラスの家に住む者に向かって石を投げるでない」「自分の辞書が一番良いというような口ぶり[書きぶり]をするでない」などといった、実名・匿名による非難の声が寄せられたり、私が犯した誤り・誤訳などの指摘が(相当に“名誉毀損的”に)為されたりします。本質を見損なって、すぐに感情的になってしまう人が少なくないようです。ある学会の懇親パーティーで、酒に酔った某著名学者が、酒の勢いからでしょうが、「山岸さんは我々の辞書のことをいろいろ言ったり書いたりしているようですが、あなたが何を言っても書いても我々は怖くも何ともありませんから」と言ったことがありました。「我々」とは某社の辞書編纂陣という意味だったでしょう。「怖くない」という言葉の真意は分かりませんが、正直なところ、この言い方には大いに落胆させられました。「何を言っても」と言う中には、「誠実な辞書批評であっても」「真実を言っていても」という意味も含まれるからです。
私たちは先達が切り拓いた道を歩んでいます。破壊的な辞書批評や、口汚く他人批評をしている人が一部にいますが、そのような人は、「井戸水を汲み上げる者は、その井戸を掘った人々の労苦を思うべきである」という言葉を反芻する必要があるのではないでしょうか。あとに続く者が、その井戸の稚拙さや欠点を指摘することは容易なことです。しかし、その井戸が多くの人々にどれほどの恵みをもたらしたか、その井戸をどう改善すれば、あとに続く人々に、より安全な水を供給できるのかを常に考え、先達に感謝と尊敬の念を抱きつつ、後輩としてできる精一杯のことをなすべきだと思うのです。
これまで私が常に思い続けて来たことは、「私が歩み、躓(つまづ)いてばかりいた英語道(みち)を、あとに続く人々が、同じ所で躓かないように、少しでも道ならしをして歩きやすいようにしておきたい」ということです。私が三十年以上の年月を掛けて知り得たことを、私の学生はわずか一年間(セメスター制の場合は半年間)で私から教わることができるのです。それがあとに生まれた者の幸せであり特権でしょう。私たちも先達から同じような幸せと特権とを与えられて今日までやって来たのですから。
「きみよ、輝け!」のトップ頁にも引用しましたが、私は内村鑑三の「何か一つ事業を成し遂げて、出来るならば我々の生まれた時よりも此日本を少しなりとも善くして逝(ゆ)きたいではありませんか」という言葉が好きです。私はまた、鈴木大拙の「教育とは、先覚者が自分の経験した心理の道行を、若い者の心のうちに同じく起さんとする努めである」という言葉も好きです。
英語辞書批評は「建設的・発展的」でありたいと思います。真実を伝えてくれる人を“怖い”と思い続けたいとも思います。その意味で、私が関係した英和辞典、和英辞典に問題があれば、どなたでも、是非とも、ご指摘下さり、場合によっては、「建設的・発展的」代案・提言をお寄せ下さればありがたく思います。あとに続く人々のために、少しでも良い辞書を作って、それをこの世に残して逝きたいと思っていますので。
2.英語辞書批評は冷静・客観的に行ないたい
英語辞書批評の在り方に関連しては、私はかつて下記のような論文を発表したことがあります。それらは主に、「アンカー・サンライズ問題」と「宝島問題」を辞書関係者として論評したものです。前者は、『アンカー英和辞典』の発売元である学習研究社が、著作権を侵害したとして、『サンライズ英和辞典』の発売元である旺文社と同辞典編者・小川芳男氏を相手取り、その発行・販売の差し止め、総額4,000万円の損害賠償、謝罪広告を求める訴訟を、昭和63年(1988年)1月28日に、東京地裁に起した一件を取り扱ったものであり、後者は、代々木ゼミナール講師・副島隆彦氏 & Dictionary-Busters が、宝島社発行の『欠陥英和辞典の研究』(1989)で、研究社発行の『新英和中辞典』(第5版)および『ライトハウス英和辞典』(初版)を《日本でいちばん売れている英和辞典はダメ辞典だ!》というキャッチコピーと共に、激烈に批評した一件を取り扱ったものです。それらに対して、私は終始一貫して、「建設的・発展的」に、事の本質を明らかにしようと努めています。特に、後者では、副島氏側の多くの謬見(びゅうけん)を指摘し、謬見であることの根拠を示しています。同氏はのちに同社発行の『英語辞書大論争!』(1990)においても、前著同様の激烈な筆致で研究社の辞書批評と日本の学者達を批評しています。同書に関しては、特に(3)の「英和辞典と典拠主義」において、氏の謬見を指摘しつつ、私自身の「辞書批評の在り方」論を展開しました。この2件の問題を取り扱って感じたことは、「英語辞書批評は冷静で、客観的で、正確であるべきである」ということでした。副島氏は某所(2000/11/29掲示分)で、自著 『欠陥英和辞典の研究』に言及した上で、「私は、あのとき自分の書いたものを、一行も訂正することなく、かならず、再び、この国民の前に、示してみせる。私の深い決意に付き合ってくれる人などいなくてもよい。私は、鬼になってもやりとげる」と断言しておられますが、氏をそこまで頑なにさせている《何物か》とはいったい何なのでしょうか。一度、氏と膝を交えて「辞書談義」をしてみたいものです。氏さえ了解して下さるなら、喜んでそのための場所設定など致しましょう。私の座右の銘である、「真実に謙虚たれ」が、今、私にその再確認を迫ります。
(1) 『欠陥英和辞典の研究』の嘘・・・・・・「現代英語教育」誌
(研究社出版、1990、2)
(2) 英和辞書批評の在り方―『欠陥英和辞典研究』の場合
・・・・・・・・・・・・・「現代英語教育」誌(研究社出版、1990、3)
(3) 英和辞典と典拠主義・・・・・・・・・・・・・・・「現代英語教育」誌
(研究社出版、1990、8)
(4) 英和辞典と著作権 [創作性]・・・・・・・・・「現代英語教育」誌
(研究社出版、1990、11;連載「英和辞典を考える」の一部
として)
(5) 辞書評価の在り方 ・・・・・・・・・・・・・・・・「現代英語教育」誌
(研究社出版、1990、12;連載「英和辞典を考える」の一部
として)
(6) 正しい「英和辞書」―二つの英和辞典・提訴問題・・・・・・・・・
・・・・・・・ 「正論」誌(産経新聞社、1990、5)
【以上の論文はいずれも、後日、拙著 『続・現代英米語の諸相』 (こびあん書房、1992年)
に収録しましたが、 本ホームページにも、『欠陥英和辞典の研究』の嘘、英和辞書批評の在り方―『欠陥英和辞典研究』の場合、英和辞典と典拠主義、正しい「英和辞書」―二つの英和辞典・提訴問題については再録済みです】
◆『欠陥英和辞典の研究』『英語辞書大論争!』の両書が発刊されてから十数年が経過しました。同書に再度言及したことで、同書の著者(諸氏)が議論を再燃させたいという意向を持たれるようであれば、喜んでそれに参加します(場所は本ホームページ上でも、他所でも構いません)。ただし、条件として、「あくまでも、建設的、共栄的に、節度を守って」ということを条件にしたいと思います。本ホームページまでメールを下さい【後日記:その後、「XXI『欠陥英和辞典の研究』、『英語辞書大論争!』の著者に思う」を書きましたから、この注記は無効となりました】。 山岸勝榮