20. 辞書作りから見た日本の英語教育
本稿は、平成14年[2002年]1月10日に開催された第39回北海道高等学校教育大会英語部会研究集会(会場:北海道札幌厚別高等学校)での私の基調講演「辞書作りから見た日本の英語教育」の増補版です。当日私が行なった模擬授業「コミュニケーションと辞書」に関しては、こちらをご覧下さい。 |
今回の講演・模擬授業の推進役となって下さった先生方(ありがとうございました)【平成14年[2002年]1月9日撮影】 |
0.はじめに
これまで私は『ニューアンカー和英辞典』『スーパー・アンカー和英辞典』『スーパー・アンカー英和辞典』(いずれも学習研究社刊)の編纂に直接的に関わってきました。そのほか、『小学館ランダムハウス英和大辞典』(小学館)、『リーダーズプラス』(研究社)などの英和辞典、『パーソナル和英辞典』(学習研究社)などの和英辞典にも多少の関係を持ってきました。その経験を通して我が国の英語教育を顧みた時、一英語教師としてのみ存在していたのでは到底見えなかったであろう問題点が多く見えてきました。本日はそれらの代表的なものを列挙しつつ、より望ましい英語辞書と英語教育との関係を考えていきます。
T 私が辞書から理解していた英語の世界
私が英語の辞書を初めて手にしたのは、私が中学生になったばかりの頃で、兄が所有していた中学用和英辞典でした。今でもかなりはっきりと覚えているのですが、最初に「握り飯」を引きました。そこには“a rice-ball”とありました。「なるほど、握り飯は英語では“a rice-ball”と言うのか」と妙に感心したように思います。と同時に、少々不思議にも思いました。「どうして“ball”と言うのだろう。三角形の握り飯が多いのに。」 この時の素朴な疑問がその後の私の辞書作りに繋がって行ったことになるかも知れません。それから事あるごとに、「これを英語では何と言うのだろう」と思いつつ和英辞典を引くようになりました。「神」を引いたのは中学2年になったころでしょうか。詳細に記憶しているわけではありませんが、確か「(キリスト教の)God;[多神教の]a god」とあったように思います。当時の私には「多神教」という意味が不明確でした。しかし、日本人的に考えた場合の「神に祈る」の英訳を探すことができなかったことも、どういうわけかよく覚えています。私が見たのは、“pray to God”だったでしょう(prayなどという動詞はまだ知りませんでした)。
英和辞典も兄の“お古”を使いました。これを利用して、学校で教わったばかりの単語をよく引きました。当然ですが、訳語(すなわち、「日本語」)を通じて「英語」の世界を理解した気になっていました。中学校から大学(正確に言えば大学院)まで、私は一度もきちんとした辞書指導というものを受けたことがありません。ほとんど独学です。考えてみれば、ひどい話です。私を含め、私の周辺のだれもが英語を「日本語」を通して理解していた(ような)のですから。
大学3年生になったばかりの4月、とんでもないことが起きました。某社発行の和英辞典(「よろしく」の項)の「今後ともよろしくお願いいたします I
hope to see more of you.」を覚えた私は、それを英会話担当の米国人女性講師に対して第一回目の授業終了後に使ったのです。当然、日本語的な意味での「今後ともよろしくお願いいたします」のつもりでした。ところが、同講師は赤面して教室を出て行きました。あとで分かったことは、それは「あなたとお付き合いしたい」という意味に解釈される慣用的表現だったのです。辞書の絶対的権威を信じていた私には、なぜそのようなことが起きるのか、皆目見当がつきませんでした。驚くべきことに、数年前刊行された某ハイブリッド方式和英辞典の「よろしく」「今後」「付き合う」の3項には、「今後ともよろしくお付き合いください」の英訳として I hope to see more of you. が挙げてあるではありませんか。私が「被害」を受けてから40年近く経過しているのに、まだこのような勘違いが横行しているのは残念です。別の時、別の米国人教授に、「今後よろしくご指導下さい」のつもりで、Please guide me well afterward. を使って、怪訝な顔をされたことがあります。この英語表現も某和英辞典に収録されていたものです。
使えば使うほど、英語母語話者に怪訝な顔をされる私の英語とはいったい何なのか、正直のところ大学2、3年生のころの私は自己嫌悪に陥っていました。結論的に言えば、私が理解していた英語の世界とは、日本語の世界でしかあり得なかったのです。換言すれば、私が「愛用」した英和辞典は「英語の世界」を十分に教えてくれるものではなく、和英辞典は「日本語の世界」を十分に英語に訳す術を教えてくれるものではなかったと言えます。英和辞典にしても、私が使用したものに、of courseと「もちろん」、pleaseと「どうぞ」、conscienceと「良心」、sincerityと「誠実」、authorityと「権威」、shameと「恥」との違いを適切に教えてくれるものはありませんでした。もっとも、当時の私は(そしてその後、大学教師になるまでの私は)それらの間に大きな違いがあるなどということすら理解できていませんでした。
U 原稿を書き、編纂作業を通じて知ったこと、それは日本の英語教育が欠いた、あるいは日本の英語教育に不足したものであった。
A)connotation (暗示的意味、文化的意味)の世界への配慮の欠如または不足
前記した語句の日英比較を簡単にやってみましょう。まず、of courseと「もちろん」ですが、たとえば、“Can I borrow your
dictionary?”(きみの辞書、借りていい?)と聞かれた場合、“Yes, of course, you can.”と答えるのは、尊大に響くので、“Yes,
go ahead.”(ええ、どうぞ)のように答えるのが良いと思います。Of
courseは文脈によっては「当然でしょ、なぜそんなことを聞くのですか」と言うような非難の響きが出るので注意が必要です。
次にpleaseと「どうぞ」の関係ですが、日本語の「どうぞ」は、人にものを勧める時、要請や依頼をする時など広く用いますが、英語のpleaseは人への要請や依頼を丁寧に響かせるために命令法の動詞と共に用います。したがって、たとえば、「きみの辞書、借りていい?」と聞かれたのに対して、「どうぞ」と答える場合、日本人学習者は“Please.”と答えがちですが、この場合は“Sure.”“Why not?”“Go ahead.”“Certainly.”“Of course.”などを用います。講演者が講演などが終わったあと、質問者に向かって「(はい)どうぞ」という場合にも、“Please.”とは答えずに、“Yes, sir [madam].”“Yes, Mr. [Mrs., Ms., Miss] Smith.”などのように答えます。要するに、please、即「どうぞ」ではないということです。「(本日の講師)山岸先生、どうぞ」と言う場合も、“Professor Yamagishi, please.”とは言いません。この間違いは英語の先生の間でもきわめて多く見聞きされます。
続いて、conscienceと「良心」の関係ですが、conscienceはほとんどの英和辞典が「良心」という訳語を第一に掲げていますが、この語はむしろ「(個人における)善悪感」「善悪の判断力」という意味が主で、キリスト教徒として生活する際の言動の判断基準となるものです。悪を避け善を行なわなければならないとする気持ち、すなわち「良心」はそれに付随して出て来る感覚です。したがって、conscience 即「良心」ではありません。
英語のsincerityを通じて日本語の「誠実」との間に大きな意味的違いがあることを教えてくれたのは、Ruth Benedict著Chrysanthemum and the Sword (『菊と刀』;1946)でした。この本のお陰で、日本人の考える「誠実」(自他を考えるが、どちらかと言えば他に重きを置く)が英語圏人には「不誠実」に映る可能性があること、逆に、英語圏人の sincerity が日本人には「不誠実」であったり、「冷酷」に映ったりする可能性があることなどを理解することができました。簡単に言えば、英語のsincerityはむしろ、「自分に忠実 [正直]であること」ということでした【「誠実」とsincerityの問題に関しては、拙著『日英言語文化論考』(pp.18-21)に詳述してあります】。
ちなみに、我が国の学校には、その校訓として、「誠実」という言葉を挙げているところが少なくありません。インターネットを利用して、無作為的に高校40校を選んで、その校訓を調べたところ、13校が同語を校訓とし、3校が「誠」か「至誠」を校訓としていました。残りの24校のうち多くは「協調」「和」「質実剛健」「努力」などであった。中には、「汗と夢」(ある中学校は「汗と涙」)を校訓とするところもありました。校訓なしとする高校も1校ありました。(本日の会場、札幌厚別高等学校の校訓は「よく考え、まじめにがんばる」と出ていたと記憶します。)いずれにせよ、日本人の好きな「誠実」ですが、日英語差を理解しておかないとコミュニケーションに支障をきたすことにもなりかねません。
次に、authorityと「権威」との関連ですが、日本人(特に戦後の日本人)は「権威」というものに胡散臭さを感じてきたのではないかと思います。「天皇の権威」「校長の権威」「教師の権威」「父親の権威」等々、地に落ちた感のある概念ですが、それは、日本語の「権威」が不明確なものであるためだと思います。一方、英語のauthorityにはキリスト教の影響も色濃く出ています。たとえば、「ローマ人への手紙」(13:1―2)には、
Every person must submit to the supreme authorities. There is no authority but by act of God, and the existing authorities are instituted by him, consequently anyonewho rebels against authority is resisting a divine institution,…. すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむくものである。 |
とあります。もちろんこれは「正統なる権威」であり、非正統的権威、神の御心を妨害しようとする権威には従う必要を認めないのです。
最後に、shameと「恥」ですが、日本人にとっての「恥」は自分と社会との関係で作り上げられた評価が毀損されたような場合に言うことが多いのに対して、英語のshameは自分自身の価値規範からの逸脱があった場合に感じるのが普通です。したがって、shame即「恥」ではありません。
◆
忘れられないことですが、英国への留学も私の英語理解を深めてくれることになりました。簡単な例で言えば、英国人の理解するdogは、日本人が理解する「犬」とは異なることを実感しました。英国人にとってのdogは、日本人とは比較にならないほどに“friendly”です。これは逆に、日本語の「犬」の語源が「居ぬ」であることを考えてみても理解できることです。「居ぬ」が望ましい人間社会にあって見れば、「犬侍」「犬死に」「犬畜生」「警察 [官憲]の犬」などという、犬を軽視した表現も生れようというものです。
このような単語レベルでの日英語の暗示的意味もしくは文化的意味 (connotation)に本格的に注意を払って編纂された辞書の出現は比較的最近のことで、まだ20年かそこらしか経過していないでしょう。ただし、改良の余地は英和辞典、和英辞典の両者に未だ多くあります。たとえば、和英辞典を使用しながら、次の日本文を英訳するとします。
a) 戦時中、多くの日本人がこの崖から海へ飛び込んだ。 |
おそらく多くの日本人学習者はこれを
During the war many Japanese jumped into the ocean from this cliff. |
のように訳出するのではないでしょうか。ところが、英語圏人にとってのこの英文は、日本人が「戦時中、多くの日本人がこの崖から海へ飛び込んだ」という日本語から連想するような悲惨な場面ではない可能性があります。むしろ、水泳目的で崖から飛び込みをしているような(楽しい)場面を連想するでしょう。その一大理由は、キリスト教では「自殺」が禁じられているからです。そこで、自殺目的で崖から飛び込んだという意味を伝えるには、最低でも、文末に to die を付加して、
During the war many Japanese jumped into the sea from this cliff to die. |
とする必要があります。より好ましい英語としては、
During the war many Japanese killed themselves [died] by plunging [jumping] into the ocean from this cliff. |
のような言い方が考えられます。あるいは、
b) 父の背中を流すのは久しぶりだ。 |
という日本文を訳せば、
I haven’t scrubbed my dad's back for a long time. / It's been a long time since I last washed my dad's back for him. |
のようになると言う人が多いのではないでしょうか。しかし、これらの英訳も誤解される恐れがあります。英語圏人によっては、「父」なる人物は身体障害者だと誤解するかも知れません。人によっては、この父と息子は同性愛者だと思うかも知れません。それは、英語圏では入浴は一人ずつ行ない、複数の人間が(恋人・夫婦なら別かも知れませんが)1つの浴槽に入るということは普通ではないからです。それに対して、(我が国でも入浴スタイルは欧米式になっている家庭も少なくないでしょうが)、日本人は公衆浴場で親子が「裸の付き合い」(これは英語にはない表現です)をすることは普通のことですし、一般家庭で、息子が「親父、たまには背中でも流そうか」と言いつつ、親子で風呂場を共用することは珍しいことではありません。
類似のことは、
c) 久しぶりに息子と風呂に入った。 |
のような日本文にも言えます。この日本文を見て違和感を覚える日本人は稀有でしょう。それでは、これを
Last night I had a bath with my son for the first time in a long time [in a long while / in years / in ages]. |
のように英訳したとします。文法的には全く問題がありません。しかし、父親と息子(母親と娘)が一緒に入浴する習慣を持たない英語圏人にとって、この英文は、b)の文の場合と同様の違和感を覚えるものとなる恐れがあります。
もっと平易な文を例に採ってみましょう。
d)彼は二度と来ないだろう。 |
これはほとんどの英語学習者が正しく英訳できるでしょう。正解は
He will never come again. |
です。しかし、文脈のない場合のこの文から英語圏人の中には、「神 [キリスト]は決して再来されないであろう」という意味に解釈する人がいることを忘れるわけにはいきません。
あるいは、
e) トムはやって来ると必ず日本文化の話をします。 |
の英訳を考えてみましょう(実はこれは某高校教科書に収録されている練習問題の1つです)。これを訳せば、多くの人は
Tom never comes without talking about Japanese culture. |
とするのではないでしょうか(上記教科書の解答もそうです)。しかし、この場合のcomeから「(性的に)絶頂に達する、“いく”」という意味を連想する英語圏人がいることは、日本人には気づきにくいと思います。その場合の曖昧さを回避するためには、
Tom never comes to see me without talking about Japanese culture. |
のような訳出が良いでしょう。
ほんの数例でしたが、以上の例から理解できることは、日本語からの直訳は時として思わぬ誤解を招くことがあるということです。我が国の英語辞書(英和、和英を問わず)や学校英語は、この点への配慮を欠いていたように思えてなりません。今後は、今以上に日英語差に留意しつつ、適切な記述を施した辞書や参考書や教科書が出現する必要があります。
B)文脈(語用論的)世界への配慮の欠如または不足
言葉の真義は文脈によって決まります。ところが、日本人英語学習者は、日本語の社会的・文化的理解力を英語の発話行為または会話の他の側面に持ち込んでしまいます。いわゆる「語用論上の転移」(pragmatic transfer)と呼ばれる現象を生じさせるのです。たとえば、日本語の次のような対話は自然なものです。
a) 「もう少しサラダはいかがですか?」「いえ、もう十分にいただきました。」 |
それでは、これを英訳して、次のように言ったとします。
“Would you like some more salad?”“No. I've had enough.” |
この英訳の問題点は何でしょうか。応答文の“No. I've had enough.” です。英語では、“No, thank you.”と言ってから“I've had enough.”を付加します。あるいは“I've had enough.”と言ってから、文末に、“Thank you.”を付加するのです。辞典の中には、I've had enough.を次のように表記しているものがありますが、これはミスリーディングでしょう。
I've had enough. (1)もう十分です、ごちそうさま.(2)もううんざりだ. |
この表記では、「英語圏では、飲食物を勧められた場合、まず礼を言ってから、次に断りの言葉や理由を言う」という言語的約束事が理解できません。類似のことが次の場合にも言えます。
b)「何かお手伝いしましょうか?」 「いえ、結構です。」 「本当ですか?」 「ええ、本当に大丈夫です。」 |
これを訳せば、次のようになるでしょう。
“Do you need any help?” “No, thank you.” “Are you sure?” “Yes, I'm sure.” |
この対話の場合、最後の応答文の“Yes, I’m sure.”に不足があります。英語では、普通、“Yes, I'm sure, thanks.”のように謝辞を述べるほうが良いからです。もう1例、今度は次のような対話例を訳してみましょう。
c)「きみが言っていた本を買ってあげようと思ったんだけど、だめだったんだ。ごめんね。」 「ああ、気にしないで。」 |
これを英訳すれば、おそらく次のようなものになるでしょう。
“I tried to buy you a
copy of the book you mentioned but I couldn't. Sorry about that. ” “Oh, never mind.” |
この場合も、応答文に問題があります。英語では、たとえば、“Oh, that’s OK. Thanks
for trying.” のように、謝辞も述べるほうがより自然でしょう。これからの英語教育は、このような特定の発話の適切性を判断する能力、換言すれば「語用論的言語能力」(pragmatic competence)を身に付けさせる必要があります。したがって、その能力の涵養に資する英語辞書・教科書・参考書が必須のものとなります。
C)キリスト教(一神教)世界への配慮の欠如または不足
a) キリスト教理解が遅れた理由:幕末日本が医学・造船学・軍事学等を国防的観点から西洋に倣うという姿勢を強く打ち出した(すなわち、自然科学の知識の吸収には熱心だった)のに対して、キリスト教を中心とした西洋の思想・風俗・習慣等の流入を厳しく制限したためだと思われます。要するに国力を西洋並にすることには熱心でしたが、西洋の「心」の理解には無頓着であったということです。逆の方向から言えば、近代日本は、日本製品を中心とする「もの」の輸出には熱心でしたが、日本人や日本文化の「心」の輸出にはさほど熱心ではないままに来たように思います。近代国家日本が、世界の国々の尊敬や信頼や賞賛を勝ち得ないとすれば、それは国家や国民の「心」が不在になりがちであったからだと思います。
b) 英語圏文化の中軸にはキリスト教文化があり、その文化は「言葉」に重きを置く文化だという点の認識の不足。天地創造も言葉で為され、神・キリスト・予言者は全て言葉で人のあるべき姿や為すべき事柄を示しています。「ヨハネによる福音書」(1:1)にはキリストご自身が「言葉」であることが明記されています。ちなみに、「ペテロの第一の手紙」(4−11)にも、「語る者は、神の御言(みことば)を語るにふさわしく語りなさい;Speak as if you uttered oracles
of God.)とあります。一方、日本文化では「言葉」を軽視する傾向があります。
c) 自己主張 (self-assertion)を当然とする文化。「マタイによる福音書」(7−7)には次のようにあります。
Ask, and you will receive; seek, and you will find; knock, and the door will be opened. For everyone who asks receives, he who seeks finds, and to him who knocks, the door will be opened. 求めよ、さらば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 |
同内容のことが「ルカによる福音書」(11:9−10)に出て来ます。要するに、「求めなければ与えられない」ということです。ちなみに、「ヨハネによる福音書」(15:5)には「私から離れてはあなたがたは何一つすることはできないからです」(for apart from me you can do nothing)とあります。これは観点を変えれば、神の恩寵があれば成功するという考え方をします。したがって、石川啄木の「働けど働けど我が暮らし楽にならず」はキリスト教的には、「神の恩寵に恵まれていないから」と解釈される恐れがあります。「積極性」(aggressiveness)や「自己主張」(self-assertiveness)が高く評価される風土はこのような宗教的背景を持って生れて来たものと思います。
d) 「もてなし」とhospitalityの違い。キリスト教的には善行の報酬は求めません。それは復活 (resurrection)の時に神から受けると考えるからでしょう。「もてなし」について言えば、「ヘブル人への手紙」(13:1−3)には、
Never cease to love your fellow-Christians. Remember to show hospitality. There are some who, by so doing, have entertained angels without knowing it. きょうだいとしていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはなりません。ある人々は、気づかないで御(み)使いたちをもてなしました。 |
とあり、また、「ペテロの第一の手紙」(4:9−10)にも、
Above all, keep your love for one another at full length, because love cancels innumerable sins. Be hospitable to one another without complaining. 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛はまことに多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。 |
とあります。人をもてなすということは、キリスト教では神の命令でもあるのです。
いっぽう、日本人は「もてなし」という言葉から、できるだけたくさんの、それも出前の料理を取り寄せたり、料亭・レストランなどに招待したりすることを連想するでしょう。遠路からの泊り客に対しては、24時間面倒を見なくてはならないと思いがちです。そのため、場合によっては、勤めを休んで接待をするということにもなります(英語圏人は、わざわざ欠勤してまで人をもてなすことを普通はしません)。また、主婦は主婦で、客を丁寧にもてなさなければならないと思って、自分は台所でせっせと働き、客と交わることが少ないと思います。英語圏人の多くは、そういう日本人の人のもてなし方に居心地の悪さを感じがちです。さらに、日本人は、男性だけを招待するということが普通ですが、英語圏では、人を招待する場合には、夫婦、男女単位というのが普通です。
いずれにせよ、英語のhospitalityはキリスト教精神に裏打ちされたものであり、自分達の都合が良い時にだけするというものではありません。他人と心を通い合わせるために、他人に心を開くために行なう社会的行為です。上記の「ヘブル人への手紙」(13:1−3)、「ペテロの第一の手紙」(4:9−10)はそのような行為を不平を言わずに自然に行なうことを命じています。
日本人は「もてなされることは借りを作ること」と考えがちですが、英語圏人は普通はそうではありません。彼らは、貸し借りは契約書を交わして行ないます。日本語の「つまらないものですが」「何もありませんが」のような表現が生まれた背景には、そうした「貸し借り」の発想が横たわっているものと考えられます。
e) 英語圏では、family
mattersを第一に、business mattersを第二に。日本では「家庭のこと」は私的なことであり、仕事場には持ち込むべきではないと考える傾向が強いと思います(例:仕事場の机上に家族写真を飾ることは普通ではないでしょう)。
f)キリスト教との関係を理解しておきたいその他の英単語:
hell(地獄)◆日本語の「地獄」は文字通り、「地下の牢獄」の意で、人間界への転生の可能性を残します。いっぽう、英語のhell は脱出不可能な場所です。 |
llness 病気)◆神からの試練と捉える傾向があります。日本人にはそういう考え方はなく、それから逃れようとします。そのために、癌を宣告されたような場合には、それを自分の人生の終わりと考え、自殺を考えたりします。 |
individual(個人)◆人間世界で神と対面した、究極的単位としての一人の人間と解釈できるものです。 |
lie (嘘) ◆日本人は「嘘は悪いこと」と考え、「嘘つきは泥棒の始まり」と教えますが、英語圏では「ついて良い嘘、悪い嘘」と考え、敵を欺くための嘘は良い嘘、身内・仲間をだます嘘を悪い嘘と考える傾向があります。そのことをよく示すのが、アメリカの警察などが行なう「おとり捜査」です。 |
money-making (金儲け) ◆日本語ではマイナスイメージの強い語ですが、これは金を扱うのが「(士農工商の)商」だったことと関係があるでしょう。キリスト教文化では、この世のもので神の手にならないものはないと考え、道徳的に良いと考えられる物事から利益を得ることは「神の喜ばれること」であったのです。 |
nature (自然)◆かつての日本人にとって、「自然」は文字通りに、「自ずから然り」というもので、それは「神」であり、侵すべからざるものでした。自然の中に神を見、自然そのものを神と思ったのです。山は神そのものであり、滝も神そのものだったのです。いっぽう、一神教では、natureはあくまでも神の創造物であり、人間が手を加えてしかるべきものだったのです。したがって、「ここでは全てが自然のままに保存されています」という日本文と、Everything is preserved in a state of nature here.という英文とではニュアンスが異なります。 |
V Uの問題はそのまま日本の英語教育の大きな問題点でもあった。
1)大学入試問題の罪;テクニックに走る傾向
我が国の大学入試が多くの問題を抱えていることは周知の事実です。たとえば、ドナルド・ハリントン著『大学入試英語を批判する』(英友社、1978)、Gareth Watkins・河上道生・小林功著『これでいいのか大学入試英語』(全2冊;大修館書店、1997)などを見ればそのことがよく分かります。私自身、Problems of English in University Entrance Examinationsと題する論文を書いたことがあります(「ふじみ」第19号収録、1997)。具体的問題に関してはそれらの著書・論文に当たっていただきたいと思いますが、私が持っている印象は、我が国の大学入試問題は言語事実に関する瑣末的な問題を問い過ぎるというものです。
高校や予備校の先生の中には、大学入試対策の一環として英作文指導をする場合に、「知っている単語で書け」「とにかく何でもよいから、単語を連ねておけば何点かはくれるから、書けるだけ書け」などという乱暴な発言をする人がおります。そこには「スピーチレベル」(speech level;言葉のTPO)、「レジスター」(register;言葉の使用域;相手・目的・場面などに応じて使い分ける発話者の言語変種)などと言った概念は出て来ません。
2例だけ挙げましょう。たとえば、「私は真理の探究に一生を捧げたい」という日本文を英訳せよと言われた場合、「知っている単語で書け」「とにかく何でもよいから、単語を連ねておけば何点かはくれるから、書けるだけ書け」の教えを守った受験生が、I’d like to spend all my life in pursuit of truth.と書いたとします。“文法的”には全く問題はありません。しかし、この英文はregister
clashを起しています。すなわち、I’d like…がインフォーマルな言い方であるのに対して、in pursuit of…はフォーマルな言い方です。日本語の「私は真理の探究に一生を捧げたい」に近い英訳をするとすれば、たとえば、I wish to dedicate my entire life to the pursuit of truth.のようになるでしょう。
あるいは、日本人高校生が電車の中で話し掛けられたカナダ人青年に対して、「日本に来た理由は何ですか」と聞くような場面が設定されているような場合に、受験生がその日本語を、What is the purpose of your coming to Japan?と訳した場合にはどうでしょうか。文法的にはやはり、何の問題もありません。しかし、これでは税関吏が入国者に対して来日目的を尋ねているように響きます。普通の場面でなら、むしろ、What have you come to Japan for?のような言い方になるでしょう。受験生に上記のような適切な英語を書かせるためには、教師自身が日頃言語感覚を磨いておく必要があります。なお、上記『これでいいのか大学入試英語』の上巻の「はじめに」(ii)で、著者のお一人・河上道生氏が次のように書いておられます。
入試問題の不適切さと欠陥は役に立たない勉強を高校生に
強いている。この状況は、生徒のみならず高校教師をも被
害者にしている。教師は入試問題を批判して改善させる責
務を生徒と社会に対して負っていることを認識すべきであ
る。
私も氏のご意見に賛成です。「大学入試問題の質が悪いのは分かっている。しかし、そのような問題が現実に出題されている以上、生徒・受験生には、効率的な解答方法を教えざるを得ない。現在の受験英語は必要悪である」と言った高校教師がいました。いかにも正論に響きますが、高校教師たちがこのような考え方を持つ限り、大学入試問題作成者の反省も十分にはなされないように思います。気が付いた者たちから地道に改善して行くほうが、結局は大きな変革に繋がるはずです。
2)教師の英語圏文化理解の欠如もしくは不足
普通の日本人が日本で英語を勉強した場合、当然ながら、日本語でものを考え、それを英語に訳す。そしてその英語の“非英語性”に気づかない。たとえば、次の日本語を英訳してみよう。
例1)ご家族・お友だちをお誘いあわせの上、当クラブにご入会ください。 |
これはたとえば、
Please ask your family and friends along to join our club. |
のように訳せます。しかし、個人主義文化を持つ欧米ではこういう発想自体が一般的ではありません。あるいは、次のような日本文の場合はどうでしょうか。
例2)先日は結構な物をいただいて、本当にありがとうございました。 |
これを英訳すれば、たとえば、次のように訳すことができます。
Thank you very much for (giving me) a nice present the other day. |
文法的には問題はありませんが、英語圏では、普通、過去への礼は言わないでよいのです。その時、その場で一度礼を言えば、それで十分です。何かの事情で、その時、その場で礼が言えなかったという場合は、たとえば、Thank you for giving (my daughter) Cathy a ride home from school the
other day.(先日は娘のキャシーを学校から家まで車で送ってくださってありがとう)のように言います。
このように、英語圏文化理解が欠如もしくは不足していると、英語として不自然な表現を採用する恐れが多分にある。この点、我が国の英和辞典、和英辞典はまだまだ多くの改良の余地を残していると言えます。
3)教師の辞書理解不足(「収録語数の多いもの、語法に詳しいものが良い辞書」という迷信)
我が国の英語教師のほとんどは、自らが「辞書指導」を受けて来ていません。したがって、生徒・学生たちにも適切な辞書指導を(まったく、もしくはほとんど)行なえない状態で何年も教師を務めているというのが実態でしょう。その結果、受験との絡みで、「収録語数の多いもの、語法に詳しいものが良い辞書」という迷信さえ生み出します。「お宅の英和辞典 [和英辞典]には…という語[句・用例]が収録されていないから生徒には推薦できない」などという発言をする教師も少なくありません。
辞書作りを通して思うことは、その迷信はあくまでも迷信であるということです。科学的根拠などまったく見当たりません。確かに、「収録語数の多い辞書、語法に詳しい辞書」は英語教師にとっては便利でしょう。しかし、教師にとって便利なものが、学習者(生徒・学生)にとっても便利であるとは限りません。.
W これからの英語教育の在り方
1)文法学習の目的に対する認識を改めること。
文法学習の真の目的は大学受験にあるのではなく、言語の構造を知ることによって、その言語を母語とする人々の民族的[国民的]性格や文化的本質を究め、もってそれらの人々とのより良き意思疎通を図り、共存共栄の道を探って、地球市民同士の幸福を実現することにあります。
(例1) | 英語では主語と動詞は前に置くのに、日本語はなぜ(主語を省略することもありますが)動詞を文末に置くのでしょうか。 I think [don't think] that.../(私は)...だと思う[だとは思わない]。 |
(例2) | サメの仕業だ。網がざっくり食いちぎられている。 This is a sharks’ doing. The net has been chewed to pieces.→(英語的語順) The net has been chewed to pieces. It must have been done by sharks. |
日本語にはなぜ、あいまいな言い方が少なくないのか。
(例1) | 茶でも飲んで帰りませんか。→(含み)他の飲み物でもいいですよ。→(含みの含み)→あなたと一緒だと楽しいから、等。 |
(例2) | ビール、2、3本とおつまみ、適当にみつくろって持って来て。(含み)→亭主[マスター/ママ]に任せるよ。→(含みの含み)こちらの懐具合なども心得て、こちらの一番都合の良いようにみつくろってくれるなど、気心のしれた人間関係だ、等。 |
2)コミュニケ−ションの真の意味を日常化すること。
communicate... <ラ to make common to many, share with others | |
(a) | to share or exchange opinions, feelings, information, etc. with... |
(b) | to successfully make each other aware of their feelings and ideas |
(c) | to have a common channel of passage |
(d) | to receive [deliver] Holy Communion |
3)schoolの真義を理解すること。←Gr.
schole (leisure to dispute in search of knowledge) schoolとは「知識を求めて討論するために確保する余暇」の意。なぜか、schoolとは「余暇」(leisure)の意味であるということだけが流布しているようですが、それは本義ではありません。Moratorium(「猶予期間」=「遊びの期間」ではなく、「自己を確立するための自己との格闘期間」)と、このschool (leisure to dispute in search of knowledge)の本義を我が国の学校に根付かせる必要があります。
Y まとめ
以上、辞書作りから見た日本の英語教育の種々相に関連して私見を述べて来ました。これを次のようにまとめておきます。
(1)最近の英語辞書(英和・和英)は学習者の立場に立って編纂されたものが多くなって来たが、まだまだ改良の余地は多い。特に、日英言語・文化差の大きな事柄に関しては、早急な改良が俟たれる(たとえば、対話形式における日英差を、語用論・談話分析の点から明確にし、その成果を辞書・教科書・参考書などに盛り込む)。
(2)大学入試問題は瑣末的なこと(たとえば、単純なアクセント問題、構文の無意味[単純]な書き換え、単純に諺の意味を問う問題、2文が同じ意味になるようにさせる連立完成式問題、等々)を尋ねることをやめ、英語がコミュニケーションの手段として使用されていることが実感できるような問題を作成すべきである。たとえば、諺を使った次のような設問は愚問と言ってよい。
【設問】次の英語の諺に相当する日本の諺は
どれか(実際には選択肢はもっと多い)。
(a) | Where there is a will, there is a way. |
(b) | Nothing ventured, nothing gained. |
(c) | Practice makes perfect. |
(1) | 習うより慣れろ。 |
(2) | 虎穴に入らずんば虎子を得ず。 |
(3) | 精神一到何事か成らざらん。 |
英語の諺は英語世界で熟成され、用いられて来たものであり、日本の諺は日本語世界で熟成され、用いられて来たものである。したがって、意味・用法には大なり小なりの差異がある。諺を使った入試問題の作成は避けたほうがよいが、作問するというのであれば、日本語の諺とは切り離した、英語世界で実際に用いられる形の問題を用意すべきである。たとえば、むしろ、私が『スーパー・アンカー英和辞典』の「ことわざの極意」で採用したような、諺が実際の会話の中でどのように用いられるかがよく分かる文や対話例を利用して、その中から設問を作っていけばよい。たとえば、次のような文と対話がある。
(a) | I know that the entrance exam to that university sounds difficult, but
where there’s awill, there’s a way. (その大学の入試が難しそうなのは知っているけど、意志あるところには道は開けると言うからね。 |
(b) | “Do you think I should apply for the
scholarship?”“Yes, I do. Nothing
ventured, nothing gained.” (「私、奨学金を申し込んだほうがいいと思う?」「そうね、やってみなければ何も得られないじゃない。」) |
(c) | “Grandpa, how come you’re so good at karaoke?”“Practice makes perfect.” (「おじいちゃん、どうしてそんなにカラオケが上手なの?」「練習が完璧にするって言うだろう。」) |
これを利用して、次のような問題を作ることができる。
【設問】次の( )内の日本語の意味をよく表す英語の諺を書きなさい。
(a) | その大学の入試が難しそうなのは知っているけど、(意志あるところには道は開けると言うからね)。 |
(b) | 「私、奨学金を申し込んだほうがいいと思う?」「そうね、(やってみなければ何も得られないじゃない)。」 |
(c) | 「おじいちゃん、どうしてそんなにカラオケが上手なの?」「(練習が完璧にするって言うだろう。)」 |
このような作問であれば、受験生が覚えた英語の諺も無駄にはならない。要するに、受験英語が日常的コミュニケーションの道具としての英語から遊離している点に問題があるのであった。諺であっても、実際の日常会話に使えるのであれば問題はない。なせなら、日本人も日常的に、適所において適切な諺を使用するからである。
(3)生涯学習の一環としての辞書指導を徹底させる。辞書から必要な情報を適宜得る方法をきちんと指導しておくべきである。英和辞典が便利な場合はどのような場合か、和英辞典が本領を発揮するのはいつか、辞書が無力になるのはどのような場合か、英英辞典利用のメリット・デメリットは何か等々についても、適切に指導しておきたい。
辞書は言語文化世界を凝縮したものです。したがって、英和辞典は主に英語世界を、和英辞典は主に日本語世界を、それぞれもっとも要領よく、簡潔に説明してくれるものである必要があります。よく編纂された英和辞典、和英辞典(必要に応じて英英辞典)を最大限に活用して、学習者に言葉の世界の広さや面白さなどを教えたいものです。