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きみは輝くために生まれて来た
                                               「きみよ、輝け!」1頁目へ                                          


1.この世に生きて在ることの素晴らしさ、命の大切さ
 
若者の自殺が少なくありません。最近では、インターネットを通じて“知り合った友人(たち)”と連れ立って自殺をする若者もいるようです。なぜ死に急ぐのでしょう。自分は無価値な人間だから、いじめを受けていて毎日が苦しいから、将来が見えず生きて行くことに自信が持てないから、大人が無理解だから、失恋したから、何となく毎日がムシャクシャするから等々、理由はさまざまのようです。しかし、それらの理由は、人間一人の命と引き換えにするには些細であり過ぎます。そのわけを私なりに述べて行きましょう(もちろん、異見の出る余地があることは承知しています)。
 まず、“人の命”の大切さについて考えてみましょう。きみはどのようにしてこの世に生を受けて来たのでしょう。両親の夫婦としての営みの結果です。夫婦愛・男女愛の結晶であるのが普通でしょうが、単なる男女の性的結合の結果である場合もあるでしょう。いずれにせよ、きみの父親が有していた精子の数は数千万個から数億個であったはずです(60億個の精子があると聞いたこともあります)。仮に1億個としておきましょう(最近の若者が有する精子の数は昔の男性のそれと比較して、相当に減少していることを証明する医学的統計もあるようです)。
 1億個の精子のうち、きみという精子は、きみのお母さんの(普通は)たった1個の卵子との出会いを果たすために、99,999,999個という莫
(ばく)大な数の兄弟姉妹たちと壮絶な戦いを繰り広げます。この世に生を受けるためのその戦いに勝ち残ったきみは、晴れてお母さんの子宮に落ち着いて、約10ヶ月間の時を経ます。つまり、きみは“自分の意志”で、生まれたくて生まれたくて、その壮絶な戦いに挑み、勝ち残ったのです(生物学的、医学的にはそうでないかも知れませんが、そう考えることで私たちは自分の“存在価値”に気付くことができます)。きみが大切な人である理由はここにあります。きみが自分を「無価値な人間だ」と自暴自棄になり、自殺を考えるなら、きみはきみのために蹴落とされた、99,999,999個という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちに申し開きができないでしょう。きみはこの世に自分が生まれたくて生まれて来たのです。それが、きみが一生懸命に生きなければならない理由だと思います。そして、それが、きみが99,999,999個という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちに責任を感じなければならない理由でもあるのです。人間の命が大切である理由は、もう分かると思いますが、各人がそうしてこの世に生を受けて来ているからです。健康体で生まれて来た人、何らかの身体的障害を持って生まれて来た人、その誰もが“自分の意志”でこの世に生まれて来たと、私は考えています。ですから、人の命はみな貴重ですし、その貴重な命をお互いが認め合い、尊重し合わなければならないのだと思います。

2.きみの誕生日は、きみの兄弟姉妹たちの命日
 誕生日を祝ったり、祝ってもらったりすることは、幾つになっても、うれしいものです。しかし、きみが気づいていないと思われることがあります。それは、きみの“誕生”は、きみの無数の兄弟姉妹たちの「命日」でもあるということです(厳密には、兄弟姉妹たちの命日は、きみという精子がきみのお母さんが用意した一個の卵子と首尾よく受精し、子宮腔
(くう)内に着床した周辺時期でしょうが)。上記した数字で言えば、99,999,999人という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちは、きみの“生”によって、“死”への旅立ちを余儀なくされたのです。これは厳粛な事実です。きみが輝かなくてはならない理由はここにもあります。 私たちは、Happy Birthday to you! Happy Birthday to you! Happy Birthday, Dear 〜! Happy Birthday to you!  とキリスト教徒でもないのに、楽しく歌いますが(それはそれで良いのですが)、一瞬でも良いから、そうした無数の兄弟姉妹たちの冥福を祈り、自らがこの世に生まれ得たことに感謝すべきでしょう。
 今の日本の教育(学校教育、家庭教育)に欠けているのは、そうした“生命教育”であり、“人間教育”だと思います。幼い時にこのような教育を徹底的に施さないと、人間は自分という存在も、他人という存在も大事に思えなくなってしまいます。自殺をする、いじめをする、その理由を探っていくと、“命”とは何か、なぜ大切かが理解できていないらしいことに辿り着きます。「殺人はなぜ悪いことなのか」と真顔で尋ねる若者がいると聞きます。残念に思うのは、そのような質問に答えを出せる大人たちがあまりにも少ないということです。「悪いことは悪い」とだけ答えることも可能です。しかし、“なぜ”と聞いている若者たちにとっては、そのような答え方は十分な説得力を持たないでしょう。きみよ、きみの誕生日は、きみの兄弟姉妹たちの命日でもあるのです。

3.いじめの卑劣さ
 いじめを苦に自殺をする年少者が少なくありません。何と言うことでしょう。いじめの卑劣さ、陰湿さは、いじめが、常に「力の強い[強い立場の]者から力の弱い[弱い立場の]者への攻撃」である点です。無力な者や弱者の立場にいる者をいじめることは、間違いなく卑劣であり、卑怯であり、陰湿です。いじめを正当化する理由は存在しません。いじめの結果、人を自殺に追いやるということは殺人以外の何ものでもありませんし、したがって、許されることではありません。前述したように、人の命はきわめて大切なものです。それを奪ったり、奪うことに繋がったりする行為が許されるはずがありません。
 いじめを苦に自殺をする子供たちの話をテレビ・新聞などで知るたびに、私の胸は張り裂けそうになります。親も教師も、それぞれが最大の努力をしているとは思います。それでも、自殺者が出るということは、やはり、彼らの「心」が救われていないからでしょう。精神的に耐え切れない重荷を背負ってしまっているからでしょう。自殺を図ろうとする者を思いとどまらせるだけの力強い応援、説得、愛情などが不十分なのではないでしょうか。じつは、その応援、説得、愛情などは、いじめを受ける側の者だけでなく、いじめる側の者にも必要なものだと思います。いじめる側の者にも「心」に救われない部分が存在するのだと推測します。その部分が精神的歪
(ゆが)みとなって、他人に対して攻撃的になるのではないでしょうか。いわゆる「いじめっ子」は、この世に生まれ出た自分自身の意志力の偉大さ、素晴らしさなどに気付けないでいる子供なのだと思いますし、それゆえに、いつかどこかで精神的歪みを生じさせてしまっているのだと思います。そうした子供たちもまた、親や教師や社会の温かな愛情と、理解と、信頼を必要としているのではないでしょうか。

4.「他人(ひと)の痛み」が分かる人間であること
 よく、「他人の痛みの分かる人間になりなさい」とか「他人の立場に立ってものが考えられる人間になりなさい」などといった言い方がなされます。しかし、これらの言い方は抽象的過ぎて、多くの子供たちや若者たちにはピンと来ないのではないでしょうか。“他人の痛み”“他人の立場”と言ったところで、まず、“自分自身の痛み”自分自身の立場”とは何かが分かっていない者に、他人の痛みや他人の立場など分かろうはずがないと思われるからです。
 “自分自身の痛み”“自分自身の立場”を本当に認識するには、人間の命の尊さを徹底的に認識することが必要だと思います。私は、個人個人が自分の命の不思議と素晴らしさと尊さとを本当に感じ(られ)た時、他人のそれの大事さも同様に感じられるものだと思っています。そこから、いじめは(少なくとも)減少して行くように思います。
 換言すれば、一個の命の“重さ”は、それがこの世に生を受けて出て来る確率の低さゆえの“尊さ”でもあります。自らの命の“重さ”“尊さ”を本当に認識し、実感することが出来る時、私たちは、他人のそれを奪うことは勿論のこと、それを毀傷
(きしょう)することも許されないということに思い至るだろうと思います。老若男女、親も教師も、皆、このようなことを子供たちや若者たちにきちんと教えていく必要があります。

5.きみが輝けるように
 私は大学教師ですから、どうしても身の回りの大学生を念頭に置いてものを言ったり書いたりします。教室においては、学生諸君に、専門分野の重要なポイント、基礎・応用理論、分析方法論などを教授し、彼ら自身がその成果を、自主的に選んだり、私から与えられた課題に有機的に応用・援用したりして、学問、真理追究を行なえるように指導します。しかし、ゼミナール、オフィスアワー、“飲み会”など、人数が限られたり、交流の輪が小さくなったり、人間関係が密になったりした場合には、相当に“身の上相談”的な話に耳を傾け、アドヴァイスすることも多くなります。授業であれ、個人的な付き合いであれ、私はいつも、学生たちが現在も将来も輝いていられるようにと願いながら、先に人生を生きた者の一人として、私の知識や経験を体系的に、あるいは“人間臭く”伝えようと努力しています。日本人の国民性であれ、日本の文化であれ、伝えて行こうと努力しなければ、遠からぬ将来、取り返しがつかないほど荒廃して行くのではないかと思います。“他人の痛み”が分かり、“他人の立場”に思いを致すことのできる優しさ、思いやりといった精神的活動も、親・教師・社会が日常的に具現していなければ、子供たちや若者たちが自らの肌で感じ取ることはないでしょう。
 現代の日本人に不足しているのは、そうした、きわめて基本的な人間性ではないかと思います。テレビ番組を見ても、娯楽雑誌を見ても、暴力や性などを必要以上に強調したものがきわめて多いという印象を受けます。人生を先に生きた者の一人として、大学教師として、一生懸命に生きて来たことが、現代の若者たちにもよく理解してもらえるであろうことは、私のゼミ学生諸君や、一般学生諸君がよく証明してくれていると思います。それを裏付ける諸君の言葉は本HPの諸所に掲載してあります(たとえば、「満足度の高い大学英語授業の創造」)。やはり、「伝えよう」、「分かってもらおう」、「知ることの喜びを分かち合おう」といった気持ちを持ち続けて教壇に立てば、たいていの学生諸君は、こちらの意図をよく汲んでくれると思います。まず、教師自身が輝こうと努力していることが肝要でしょう。そうでなければ、学生諸君に向かって、「きみよ、輝け!」などと言えたものではないと思うのです。

6.おわりに
 全ての人間は、自ら望んで生まれて来たこの世で、精一杯輝いて生きる権利を有しています。政治も法律も教育も、みなその権利が最大限に活かされるように整備され熟成されていかねばなりません。一人一人の人間、とりわけ未来のある子供たちや若者たちが、いじめに苦しんだり、自殺を考えたり、実際に自ら命を絶ったりするようでは、けっして正常な社会とは言えません。大人社会は、明日を生きる子供たちや若者たちに凛
(りん)とした態度で接し、彼らに対して物事の善悪をきちんと教えて行くべきだと思いますが、それに先立って、大人社会が自己研鑽と自己啓発を欠かしてはならないと思います。子供たちや若者たちは大人社会の反映であることを忘れるわけには行きません。最後に、子供たちや若者たちも、それぞれの立場で、自分たちなりに自らを磨き、より望ましい社会構成員となる努力を欠かしてはならないということを付言しておきます。きみは輝くために生まれて来たのです。 だから、きみよ、輝け!

【付記1】 生への執着心を持ちつつ、この世を去らなくてはならなかった若者もいます。どうか、そういう人がいることを知って下さい。U満足度の高い大学英語授業の創造「この授業で学んだことの第1番目に引用した授業評の「注記」(S.A.君のこと)をご覧下さい。
 ちなみに、次の文章は後日(平成15年7月17日)、本HP内の「折々の記」に書いたものです。胸の痛む事件でした。
  
 
ある女子学生の死 (07月17日)
今日の学科会の席上、英米語学科のある女子学生(19歳)の自殺が明らかにされた。鬱病に悩んでいたらしい。私の授業に出ていない学生であったために、個人的なことは何も分からなかったが、辛い思いでその知らせを聞いた。自宅マンションの13階だったか14階だったか、その踊り場あたりから飛び降りたらしい。自殺する前に友人の一人に携帯電話を掛けていたとも聞いた。そのために、受けたほうの学生もその後、自分の無力を恨み、悲嘆にくれているという。一昨年にも、私のゼミの女子学生が、高校時代から仲良くしていた友人に自殺され、同じように、自分の無力を嘆いて、しばらく立ち直れなかったことがある。
 自殺を考える人の心の奥は私には分からない。しかし、自分の性急な死が周囲の人々、とりわけ当人を愛し、慈しんで育てた親に計り知れない大きな悲しみを与えることもまた事実である。そのことに思いを寄せる心の余裕もなくなったからこそ死を選ぶのであろうが、私にはどうにも釈然としないものが残る。
 今回の自殺者の話を聞いて、すぐに思い出したのが、同じく19歳でこの世を去った、明治学院大学2年生のS.A.君のことである。彼は生きることを熱望しながら、幼い時からの持病であった心臓病が悪化して亡くなった。私は非常勤講師として彼を半年間教えたが、彼は2時間以上もかけて埼玉県から横浜市戸塚区の明治学院大学横浜キャンパスまで、一日の休みもなく通学し、朝1時限目の私の授業に出席した。「心臓病を患っているそうだけど、遠くから、欠席もなく僕の1時限目の授業に出て来て、君は頑張り屋さんだね」と言うと、「先生、僕には時間がとても貴重なんです。足りないんです。」と言った。夏休み明けに彼の死を知らされた。そういう若者もいるのである。
 同僚も私も辛い一日であった。心から冥福を祈る。

【付記2】 スウェーデン出身の歌手 Lena Mariaさんの歌声は聞く者の胸に染み渡ります。彼女には両腕がなく、左脚は右脚の半分の長さしかありません。名門ストックホルム音楽大学を卒業し、パラリンピックでは水泳選手として大活躍したかたです(98年3月長野冬季パラリンピック開会式での熱唱も記憶に残ります)。生来のハンディーを全く感じさせない明るい性格と笑顔が、その歌声同様、じつに素晴らしいと思います。大分コンサートの模様を千葉テレビ(平成14年5月18日「サタデースペシャル」)で見ましたが、その時の彼女の言葉にも感動しました。「もし生まれ変わってもまた手がない私で生まれて来たい。手のない代りに神様は私にいろいろなものを与えて下さったから。」 そんな内容のメッセージでした。「障害者」という言葉を口にすることさえためらわれる彼女の“輝き”を見るとき、人間はきわめて異なった条件を持ってこの世に生まれるのだということを実感します。つまり、私たちはどのような形で生を受けようとも、
「他人(ひと)とは違った形で有能なのだ」(differently-abled)ということです。そして、ふと『五体不満足』の著者・乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんの“輝き”の素晴らしさを想起しました。お二人共、「生まれたい」という、自分の強い意志でこの世に生まれて来られたのだと思います。だからこそ、本当に“輝ける”のだと思います。
 
Lena Maria : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2
乙武洋匡氏公式サイト
:http://ototake.com/
 

読者からの感想と私からの返事
         (「折々の記」への感想もありましたが、ここでは省略しました)
  ◆はじめまして。HPを拝見させていただきました。 賞賛の声は沢山寄せられていると思うので、 唐突ですが、若干の疑問提起をさせていただきます。 「輝き」について  「君よ輝け」では、生の正の面を主張されていますが、これでは 納得できないくらい、社会に対し生きる意味を求めても得られない 人もいると思います。たとえ生まれてきたことが生物学的に自分の 意志だったとして、半強制的な現代社会空間に生きざるを得ない中で、 物の豊かさを得た我々のより上位の欲求(心の豊かさ等)を満たすのは、 大変なことではないでしょうか。 一億分の一の話などに感銘を受ける人は、まだ大丈夫だと思うんです。 そうではない精神的絶望の極みにいる人、あるいは無意味さを享受して しまっている人に対し、どのようなメッセージを与えられるとお考えですか?  またその人たちの「死の自己決定」については、どんなことがあっても 反対されますか?  (中略)単なる素人考えでHPに掲載されていることの読みの甘さや、興味本位的で 質問の論理的展開がおかしな部分もあるかと思いますが(それから敬語の 使い方も・・・)、こうした疑問をもつ学生もいるということを、お分かりいただければと思っております。 (2002年5月20日受信)

  
 ◆匿名様 メールを拝見しました。まず、感想をお寄せ下さったことにお礼を申し上げます。『こうした疑問をもつ学生もいるということを、お分かりいただければと思っております』という末尾の一文から、あなたが学生であるらしいことが推測される程度で、あなたに関する情報は何も得られませんので、抽象的な文言を残すことを恐れながら、ご返事します(正直なところ、私は不明な相手への応答を好みません)。
 「きみよ、輝け!」の文章では『納得できないくらい、社会に対して生きる意味を求めても得られない人もいると思います』、というご意見は、全くその通りだと思います。『精神的絶望の極みにいる人、あるいは無意味さを享受してしまっている人に対し、どのようなメッセージを与えられるとお考えですか?』というご質問も答えにくいものですが、私はこう考えます。社会はそうした人を作り出さないようなシステム作りを目指す必要がありますし、教育(家庭教育を含め)もそれに連動する必要があります。そういう人もいるでしょう。それならば、なぜ、そうなったのか、そうさせた社会的要因は何か等々を探り出し、より良い解答、あるいは対処法を考え出せる力を持った社会作りをする必要があると思います。私は「無意味さを享受する」という考え方を理解することはできますが、やはりそれを否定しなければなりません。たとえば、あなたがそうした人の一人だと仮定します。あなたは『無意味さを享受』しているかも知れませんが、あなたをこの世に送り出し、愛し、慈しみ、信頼している人が一人でも二人でもいる内は、その人はやなり『精神的絶望の極み』には居てはいけないと思いますし、『無意味さを享受してしまって』はいけないと、私は思います。あなたの存在をよしとする身内、友人、後輩、先輩などが一人でもいる間は、そういう考え方を持つべきではないと、私は思います。
 『精神的絶望の極みにいる人、あるいは無意味さを享受してしまっている人に対し、どのようなメッセージを与えられるとお考えですか?』というご質問への解答は、正直を申せば、一介の英語教師には出しにくいものです。荷が勝ち過ぎると言ったほうが正確でしょう。ただ、私は私の言葉や、私の勇気づけで、一人でも二人でも、輝くことの必要性や意味を考えてくれる若い人が出てくれれば、私のHPのあの文章はそれなりの価値があろうかと思います。仮に(仮にです)あなたが『精神的絶望の極みにいる人、あるいは無意味さを享受してしまっている人』だとします。それならば、私は「是非、話し合いましょう」「一度、心の底から語り合ましょう」と言いたいと思います。そうして、あなたが、そのような心理状態になった過程を知り、私の58年ちかくの人生の全てを掛けて、アドヴァイスをしたいと思います(「説教」ではありません)。一介の英語教師にできることはそれが限界です。個々人の『死の自己決定』を否定する力を私は持ちません。しかし、そのような決定をするために私たち人間はこの世に生を受けたのではないはずです。そうであるならば、そのような決定を為さしめた「何か」を取り除き、「生き抜く自己決定」をしてくれるように微力の限りを尽くしたいと思います。私は「私にできること」しかできません。それを一生懸命やり抜くだけです。
山岸勝榮(2002年5月21日返信)

上記「読者からの感想と私からの返事を読んだ山岸ゼミ生の反応

投稿時間:02/05/23(Thu) 00:32
投稿者名:久本真琴
タイトル:
山岸先生へ
こんばんは。「きみよ、輝け!」(3)の末尾、拝読いたしました。
私は先生から生きることの大切さを教わった一人です。今回先生に質問してきた人のように、物事を否定的に考えてしまう人が世の中にはたくさんいるのだろうと思います。それは仕方のないことだと思います。以前は私もそうでした。生きていて意味があるのかと考えたこともありました。
 明海大学で山岸先生と出会って私は変わりました。誰か一人でも自分の存在をよしとしてくれる人がいれば、それだけで生きる意味はあるのですよね。それを思ったとき、私は以前の自分とは違う自分になれた気がします。
 私と同じように山岸先生から生きることの大切さを教わった学生はたくさんいると思います。人は変われるはずです。私はそう信じています。
 私の考えをずらずらと書いてしまってすみません。山岸先生のもとで学んだ一人として、一言申し上げたく投稿させていただきました。久本真琴(2001年度・卒業生)

投稿時間:02/05/23(Thu) 22:44
投稿者名:佐藤 光恵
タイトル:山岸先生へ

 山岸先生、こんばんは。現ゼミ生の佐藤光恵です。「君よ、輝け」(3)拝見させていただきました。人によって物事の受け止め方は違うものなのですね。全てが悲観的になってしまうときも確かにあると思います。しかし、いつまでも自分を否定して生きるなんて楽しくないと思います。せっかくこの世に生を受けたのだから、私は出来る限り、毎日笑って暮らしたいです。
 投稿してくださった方は、今の人生に目標がないのでしょうか。それとも大きな目標を掲げすぎ、理不尽な世の中に絶望しているのでしょうか。どちらにせよ、きっと物事を深く考え込んでしまう人なのでしょうね。自問自答を繰り返し、早く自分なりの答えを見つけ出せればいいですね。
                                  現ゼミ生 3年佐藤光恵

投稿時間:
02/05/24(Fri) 16:08
投稿者名:石井 彩
タイトル:山岸先生へ
山岸先生、こんにちは。石井彩です。「きみよ、輝け!」(3)を読んだ読者からの質問と、先生のご回答を拝読させて頂きました。読ませて頂いているうちにこの読者の方は何かご自身で大きな事を抱えていらっしゃるのかと思いました。人は皆、生きるために生まれてきたこと、誰しもが輝ける素質を持ち合わせていることこの方は十分理解されていると思います。しかし、何か事情がおありで自分自身を違った方向に追い込んでいるとすればその悩みや痛みの根本は何なのでしょう。同じ学生としてこの方とお話してみたいと思いました。人間の本質は皆素直だと思います。周りの状況や取り巻く人々によって人は変わっていくのでその変化もそれぞれあると思います。いい方向に変わり、それを機にまた自分自身で頑張ったりまた、自分の意に反してこんなはずではなかったと言うことが起きると落ち込んでみたり。人生のうち楽しいことや、嬉しいことよりも悲しいことやつらい事が多いのは私の解釈なのですがその少ない楽しいことや嬉しいことが倍になって自分の所へ帰ってくるよう神様が今は我慢しなさい。そうすればきっと後でいいことがあなたには待っているのだから。と試練を与えて下さっているのではないかと思うのです。生きていることは本当に素晴らしいです。是非このことを学生の方にも伝えたいと思います。
 山岸先生からのアドバイスがこの学生の方の心に響きますよう、また先生にご指導いただいている教え子の一人としてどうぞご自身を大切になさってくださいと私もメッセージを送ります。読んでいただきありがとうございました。失礼致します。石井 彩(現・四年次生)

投稿時間:
02/05/25(Sat) 17:39
投稿者名:下田麻理亜
タイトル:山岸先生へ
こんにちは。お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ございません。「君よ輝け!」(3)を拝見いたしました。世の中には、他人にはわからない悩み、痛みを抱えた人がたくさんいます。私もたびたび、ここに存在しているわけを見失うことがあったように思います。ですが、二年生になった時、先生が授業で、「一億の兄弟姉妹達を蹴落として、生まれてきたくてここに生まれてきたんだ」というお話をしてくださってから、自分が生まれてきた意味を知り、そして使命感が沸き起こり、頑張ろうという意欲も沸いてきました。今までなぜと思っていた、両親でさえも納得がいく答えをだしてくれなかったことに、先生が心のこもった温かいお言葉で答えてくださり、不覚にも涙が流れてきました。今でも、落ち込んでしまったり、くじけそうな時は、このお話を思い出し、前向きに頑張っています。先生にメールを送ってきた学生は、想像を絶する何か深い傷を負っているのかもしれませんし、事情があるのかもしれません。今すぐ立ち直り、前向きに進んでいくことは難しいことであると思いますが、いろいろなことを少しずつ理解し、頑張っていってほしいです。それでは失礼いたします。下田麻理亜(4年)

投稿時間:02/05/25(Sat) 21:59
投稿者名:大山 はるか
タイトル:山岸先生へ
 山岸先生、こんばんは。「きみよ、輝け!」(3)を読んだ読者からの質問と先生のご回答を拝読させていただきました。
 私はこの「きみよ、輝け!」(3)を印刷をして就職活動の鞄にいれ持ち歩いています。なぜかといいますと、大学2年次に履修させていただいた「対照言語研究」で先生にこのお話をしていただいて、とても勇気が出ましたし、とても感動をしたからです。苦しい時や自信が無くなった際には、心の中でグッとあの授業の時に感じた頑張ろうと思った気持ちを思い出すようにしてきました。就職活動を通して、自分自身のこと、社会のこと、企業というもの、性別、学歴、いろいろなことを考えさせられます。もちろん普通に過ごしていては出来ない経験が出来、成長できたり、知識が増えたり、自分自身を見つめ直せたり、新しい友達が出来たりと良いこともたくさんあります。しかし、性別で判断されたり、学歴で判断されたりと悔しい思いも幾度となく経験して、悲しくなったり、いらついたりすることもあります。そのときにこの先生のお話を拝読させていただくことで、「次頑張ろう!」「前向きにいこう」と気持ちを高めることができます。
 「きみよ、輝け!」(3)に投稿してきた学生らしき匿名希望者は、全く自己背景を載せてはいませんが、きっと心に傷を持っているのではないかと思いました。この学生は、先生のお言葉を見てきっと何かが心に芽生えたから、先生にメールを送るという形で助けを求めたのではないでしょうか。私も先生にアドヴァイスをいただいている一学生としてこのように感じました。もしまた先生にこの学生から反応があれば、先生とこの学生に差し支えがなければ、ご紹介いただければと思います。この学生が、もし悩んでいるのであれば、前向きに過ごすことが出来るようになるよう願っております。失礼致します。

投稿時間:02/05/27(Mon) 01:07
投稿者名:竹田 望
タイトル:山岸先生へ
こんばんは。現ゼミ3年の竹田 望です。返信が送れてしまい申し訳ございません。
 人の生死に関わるお話というものは、きっと誰もが興味を示すものだと思います。もしかすると小さな会話の中でも、そういった話題での一つの言葉のおかげで誰かを救うことがあるかもしれなく、逆に絶望に追いやってしまうことになるかもしれません。先生の文章には、そういった気遣いの心や慎重さなどと同時に、どこかで苦しんでいるかもしれない誰かに対して全身全霊で語りかけたいのだ、という心が感じられました。
 私がいつも先生にお会いして思うことは(勝手な私の感じたことなのですが)、常に全身で私達に接して下さるということ、一秒でも無駄にせずにできるだけ多くの言葉を私たちに吸収してほしいのだというお気持ちです。その一生懸命さが私達の心に響き、私の「やる気」に繋がります。外部から刺激を受けないと気を張っていられない自分の弱さも痛感しております。
 「自殺」ということですが、キーボードを打つ手が止まってしまいます。普段ニュースやテレビなどで耳にする為、思うことは様々あるのですが、実際に自殺を考えてしまうまで追い込まれる人の気持ちや話をきくと、言葉がうまく出てこなくなってしまいます。ただ私も落ち込んだりすると、どん底まで落ちて、簡単には気持ちをプラスに持っていくことができない性格なので、自殺を考えてしまう人達の気持ちが全くわからないということではありません。確かに、つらいことが何度も続くと苦しくなり、自分の無力さ、無気力さ、他人との違い、そして自分の無意味さが加わって来ることもあるかもしれません。ただ少なくとも、やはり、家族、友達、知人、加えて先生のように一対一でお話をしたいと言ってくださる人がこの世にいる限り、急いで死を選ぶ必要はどこにもないと思います。増して、自分が生活しているのは、広い宇宙の中の、地球の中の、日本という小さな国の、例えば私なら千葉県でしかありません。私が生きることを許されているのはここだけではないのです。外に目を向けてみればどこかしらに自分が生きられる所があるはずです。
 一年前くらいに、「17歳のカルテ」という洋画を見ました。主人公が確か精神分裂病ということで精神病院に入り、退院するまでのお話です。私が一番印象に残ったのは主人公の退院直前の言葉です。先生に泣きながら心を打ち明けることが出来た時の言葉なのですが、「周りと同じようにうまくやれないつらさ。」というようなことを言っていました。あまり上手くお話できないのですが、私はこの言葉は多くの人が一度は抱いたことのある感情なのではないかと思います。きっと誰もが知っている感情で、それは人によって大きさが違うだけで、そしてそこから抜け出せるきっかけが有るか無いかというだけの違いに感じます。
 纏まりのない話になってしまい申し訳ございません。でもとても深く関心を持ってしまう問題です。もっともっと自分の考えを出せる様、自分なりに少しずつ調べて見たいと思います。


再度・読者からの感想
 
前出の読者より、山岸ゼミ生の上掲の意見(「山岸ゼミ専用掲示板」に書き込まれたもの)に対する感想をお寄せいただきました。今回は実名を記しておられますが、本欄では匿名(○山×男)としておきます。転載をお許しくださった○山×男さんに感謝致します。 (2002年6月1日受信)

山岸勝榮様
山岸ゼミの皆様

 先日感想のメールをお送りした、
○山×男と申します。「きみよ、輝け!」 3 にて、新たにゼミの皆さんの感想を拝見しました。応答義務があると思うので、再度所感を述べさせていただきます。

●生の意味を考えることについて
 少し古い本ですが、ノンフィクションライター藤井誠二氏と社会学者宮台真司氏の共著 『美しき少年の理由なき自殺』 (メディアファクトリー)には、「人生は無意味だ、 だけどそこそこ楽しい」という概念と、「人生はそこそこ楽しい、だけど無意味だ」という概念の比較があります。この本に出てくる「美しい少年」S君は、後者の考えを たどり、人生の選択肢の一つとしての死を選びました。S君の唯一の親友渡辺君は、 「無意味だけれども、そこそこ楽しい人生」を生きています。
 似ているようでまったく異なる両者の比較を、この本では「強度」という語を用いて説明しています。すなわち、渡辺君のように「意味」はないと考えていても、人生をそこそこ楽しむ「強度」さえあれば、「終わりなき日常」も生きられる。人生はそこそこ 楽しいけれども“所詮”無意味だと考えるS君は、誰のせいでもなく、自己完結した理由で、自殺をしました。それを避けるために「意味」にすがるのではなく、「強度」を身につける手段への試行錯誤が、S君には別の形でもっと必要だった、宮台氏はそう語っています。
 宮台氏のファンだったS君は、同じく無意味さをやり過ごせず試行錯誤を繰り返して きた宮台氏の後を追うように、様々なことを試みていました。しかしそれは宮台氏の 焼き直しに過ぎず、自らの力で強度を手にした宮台氏のようにはなれなかった、そう 説明されてもいます。  
 この本を読んで、S君に通じるものが私にもあると感じました。共感は心の中で同じような思いや考えがなければ起こらないことですから、「無意味さ」と対峙するにはどうしたらよいのかという疑問が、S君への共感を通じ私の大きな問題となり現れてきました。
 私も「人生は無意味だ」と考えますが、ただし「意味」という語そのものが曖昧で 定義が難しいがゆえの「無意味」です。床に臥し沢山の管に繋がれ植物のように なりながらも生きている人と、体が丈夫で、夢に向かってあらゆる努力ができる人 を同列において意味を考えることは、不毛に思われます。もちろん抽象を繰り返した先に、人類共通の意味というものがあるのかもしれませんが、神は存在するのかという問いと同じくらい、難しいことのように思われます。
 そうした事を考える中、「きみよ、輝け!」を見つけました。山岸先生のHPからは、氏の英語教師としての noblesse oblige がこの上ない程感じられます。「きみよ、輝け!」も その一端であると思いました。しかし同時に生徒さんたちの意見も重ねて見た際、その純粋すぎる考えが不可解なものに見えてしまったのかもしれません。ポジティブな意見が連なる中で、その逆の立場からの考察があってもいいのではないかと思い、 こうした問題についてニヒリストとも捉えられかねないような質問になってしまいました。 それが機でゼミのみなさんにご心配をおかけするようなことがあったならば、お詫びいたします。
 私は昔から体が弱く、それは一つのハンディキャップですが、可能な範囲ながらも 色々なことを学んでいます。楽しいこともあります。インターネットを通じたコミュニ ケーションで、実生活ではなかなか得られない「承認」を手にすることもできます。ですからある程度の「強度」は得ていると思います。私の自己背景について心配 してくださった方もおられましたが、その点は大丈夫です、と申し上げておきます。
 私の提示した疑問はネガティブ過ぎますし、これに関わることで山岸先生やゼミの 皆さんの英語辞書研究に悪い意味で波風を立ててしまうのは不本意ですから、この 問題についてはこれで最後にします。

***

世界中に殺伐とした雰囲気がある中で、ワールドカップという心を熱くしてくれるイベントが始まりました。よくないことが多いのは、倫理的モラトリウムでしかないと考えていますから、こうしたとても明るい話題で、それが少しでも解消されればと思っています。皆様の研究にも、何らかの形でいい追い風になるのではないでしょうか。また華やかな雰囲気の裏に隠れた、日本の外の国々、あるいは人々についての、様々な事情や問題に目を向けるいい機会でもあると思います。 私もお祭気分を楽しみながら、そういった視点で見ていきたいと思っています。

それでは最後に皆様のご健勝を祈って。
貴重なご意見ありがとうございました。
                            ○山×男

                                                                                              

再度・読者からの感想を読んだ山岸ゼミ生の反応

投稿時間:02/06/02(Sun) 23:05
投稿者名:竹田 望
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
こんばんは。現ゼミ3年竹田 望です。返信が遅くなり申し訳ございません。「きみよ、輝け!」の読者から再度返事があったということで、私たちにこの掲示板を通してお伝えくださりありがとうございます。
 私の感じた所ですと、この人はとても真面目で頭のよい人といった印象です。と同時に、感受性も高く、常に様々な事柄に対し自分の中で混沌と戦っている様にも思えました。人間誰もがそうだとは思いますが、この人は普通の人よりも生真面目な故、又は、何か頼れる救いが欲しいが為に、一つの事柄に対し納得出来るような一つの「答え」が欲しいのかもしれません。その為、先生に自分の思うところを話し、自分を納得させて欲しかったのかなと思いました。
 彼は、先生の意見は、教師としてのnoblesse obligeが強いものだと言っていましたが、私は、先生の送ってこられた人生が、そして今の生き方が、先生があそこでお書きになられた文章にそのまま表れているのだと感じました。上手く言い表せず、なんだか偉そうなことを言ってしまっている気がします。申し訳ございません。
 しかし彼は、始めは匿名で唐突に先生に質問を掲げてきましたが、先生へ、そして私たちゼミ生にもきちんとした文章で返信して来たことにうれしく思いました。また、他人からの疑問にお返事なされたり、私たちにもこういった機会を通して何か少しでも学ばせてあげたい、といった先生の温かいお心遣いがとても感じられました。
現ゼミ生3年 竹田 望

投稿時間:02/06/02(Sun) 23:16
投稿者名:久本真琴
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
こんばんは。卒業生の久本です。
 再度読者からの返事があったということですが、早速読ませていただきました。○山×男さんは「人生は無意味だ」と考えているようですが、私は返信されてきた文章から「そこそこ楽しい人生」を送っているように感じました。そう思うのは私の勝手かもしれません。これからは少しでも物事をポジティブに考えることができれば、「そこそこ楽しい人生」を送っているのだと思えるようになるのではないかと思います。これからも○山×男さんが山岸先生のHPを訪れることで、また、楽しみを見つけることで、○山×男さんの「強度」が強くなることを祈っています。久本真琴 (2001年度・卒業生)

投稿時間:02/06/03(Mon) 00:36
投稿者名:大山 はるか
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
山岸先生、ゼミの皆さん、こんばんは。大山はるかです。
 私は○山×男さんのお返事を拝読し、前回のものとは雰囲気が違うように思いました。名前を載せているからかもしれませんが、前回あった棘が文章から無くなっているように思います。前回のものは、読んでいて痛々しかったし、ただ文句をつけているようにしか思いませんでした。しかし、今回のものは○山×男さんのお考えをきちんとお聞きすることが出来、また参考文献を挙げていただくなど勉強にもなりました。
 >私も「人生は無意味だ」と考えますが、ただし「意味」という語そのものが曖昧で定義が難しいがゆえの「無意味」です。床に臥し沢山の管に繋がれ植物のようになりながらも生きている人と、体が丈夫で、夢に向かってあらゆる努力ができる人を同列において意味を考えることは、不毛に思われます。もちろん抽象を繰り返した先に、人類共通の意味というものがあるのかもしれませんが、神は存在するのかという問いと同じくらい、難しいことのように思われます。
 確かに、私もこのようなことを考えてしまうことがあります。しかし、答えはいつもでません。ただ悲しくなってしまいます。○山×男さんは、このように難しいことを考えられる方だから、先生のお話を見られたときにいろいろと考えられたのだと思いました。
 ○山×男さんが自殺を考えていたり、マイナスの気持ちばかりではないことが分かり安心致しました。ゼミ生以外のお考えというものは、新鮮ですし、今回のものは考える良いきっかけとなりました。○山×男さんのお返事をご紹介いただき有り難う御座いました。大山 はるか(現ゼミ生・4年)

投稿時間:02/06/03(Mon) 15:42
投稿者名:佐藤光恵
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
山岸先生、こんにちは。現ゼミ生の佐藤光恵です。返信が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
 「人生は無意味か、否か」私なりに再度考えてみました。自分の今いる状況によって、どちらにも定義できると私は思いました。生まれた国、生まれた環境、その他もろもろが、その人の考え方に大きな影響を与えるのでしょう。「人それぞれ、いろいろな考え方がある」理解していたつもりでした。しかし、私は何もわかっていなかったように思います。○山×男さんは、自分なりにたくさん考えて、今の結論に達し、何もすべての事に無気力になっているわけではなかったのですね。
 私自身のことを、少し書かせていただきますと、私の今の生活はとても「有意義」だと思っています。周りに沢山大好きな人がいて、大好きな勉強ができ、大好きなサッカーを毎日見ることができます。この生活を無意味と言ってしまったら、バチが当たってしまいそうです。私も数年前までは、かなり物事に悲観的でした。しかし、沢山の人に会い、柔軟に物事を考えられるようになりました。今の自分がいるのは、今の自分になれたのは、過去の自分があったからだと、今ははっきりと言えます。○山×男さんの考えは、○山×男さんのものですから、無理に変える必要はないと思います。しかし、もし○山×男さんに私のように、何かが変わりそうな転機が訪れた時には、「人生は有意義である」という考えを思い出していただけたらうれしく思います。現ゼミ生 3年 佐藤光恵

投稿時間:02/06/05(Wed) 03:15
投稿者名:下田麻理亜
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
先生、みなさん、こんばんは。返信が遅くなってしまいまして、大変申し訳ございませんでした。私達のために、お返事のメールをお知らせくださり、ありがとうございました。江口さんがお書きになったものを拝見させていただき、現在のご様子が伺え、安心いたしました。生について考えること、人それぞれ考えが異なりますし、定義は難しいですね。私は、「人生はそこそこ楽しい」と考えていますが、江口さんがこのように、メールを送ってくださったことにより、いろいろな角度から物事を考える、いいきっかけとなりました。ですが、やはり、たとえどんな状態、状況におかれているにしても、人が生きている意味というのはあると思います。考えが甘いかもしれませんが、そう信じたいです。とても、難しい問題でしたが、様々なことを考えさせられ、また勉強になりました。心より、感謝申し上げます。ありがとうございました。それでは失礼いたします。 下田麻理亜(現4年)
投稿時間:02/06/05(Wed) 15:35
投稿者名:近藤 崇
タイトル:Re: 読者から再度返事がありました。
「この世はすべて美しい」お釈迦様は最終的にこの世をそう表現なさいました(と記憶します)。しかしその境地に至るまで、お釈迦様は悩み苦しまれたのです。お釈迦様ほどではないものの、私達も悩み、苦しみ、時に「絶望を享受する」のです。山岸先生のHPにご投稿なさった方も私もそうです。しかし私は「悩み苦しむ事」自体に「意味」があると考えます。時に人は悩まなくてはなりません。そうでないと極端ではありますが「多幸症」という病気を患ってしまいます。悩み、苦しみ、そして考え、何かを模索する事で人は成長し、もしそれを解決或いは克服したならば、それはこの上もない素晴らしいものを会得したことになるのです。もし解決或いは克服できなくても、前向きに考える事が重要です。何故なら、人生ははかなく時として無意味なものだからです。私は小学校1、2年生の時、布団に入り、雨漏りで変色した天井を見ながら、「もし、今死んだら僕の記憶はどうなるんだろう?生まれる前は?今何で生きているんだろう?今ここにいる自分は何(者)なんだろう?」と考えたことがよくありました。そう考えて怖くなった事があります。高校の現代文の先生がこう考える事は人間にとって必要なことと教えてくださいました。未だにこの答えは出ていませんが、私は「結局私達一人一人は無力で無意味な存在なのではないか。しかしながら、この長いようで実は短い人生を一所懸命生きる、精一杯生きるしかないのでは。それが私達の使命なのではないか」と考えるようになりました。又そう信じています。人生は無意味かもしれません。しかしそれを否定し、そう思わないために皆が尽力しなければならないと私は考えます。意味のある人生ばかりが人生ではありません。人生の中で無意味な事が沢山あってもいいのかもしれませんね。それでは失礼いたします。 現ゼミ4年次生、近藤 崇
◆上記感想を送って下さった○山×男さんは、「私の提示した疑問はネガティブ過ぎますし、これに関わることで山岸先生やゼミの 皆さんの英語辞書研究に悪い意味で波風を立ててしまうのは不本意ですから、この 問題についてはこれで最後にします」と書いておられますので、交信はこれで終了致します。山岸勝榮


 
きみは息を呑むほど美しい光景に何度出会ったことがありますか?