(3)きみは輝くために生まれて来た
1.この世に生きて在ることの素晴らしさ、命の大切さ
若者の自殺が少なくありません。最近では、インターネットを通じて“知り合った友人(たち)”と連れ立って自殺をする若者もいるようです。なぜ死に急ぐのでしょう。自分は無価値な人間だから、いじめを受けていて毎日が苦しいから、将来が見えず生きて行くことに自信が持てないから、大人が無理解だから、失恋したから、何となく毎日がムシャクシャするから等々、理由はさまざまのようです。しかし、それらの理由は、人間一人の命と引き換えにするには些細であり過ぎます。そのわけを私なりに述べて行きましょう(もちろん、異見の出る余地があることは承知しています)。
まず、“人の命”の大切さについて考えてみましょう。きみはどのようにしてこの世に生を受けて来たのでしょう。両親の夫婦としての営みの結果です。夫婦愛・男女愛の結晶であるのが普通でしょうが、単なる男女の性的結合の結果である場合もあるでしょう。いずれにせよ、きみの父親が有していた精子の数は数千万個から数億個であったはずです(60億個の精子があると聞いたこともあります)。仮に1億個としておきましょう(最近の若者が有する精子の数は昔の男性のそれと比較して、相当に減少していることを証明する医学的統計もあるようです)。
1億個の精子のうち、きみという精子は、きみのお母さんの(普通は)たった1個の卵子との出会いを果たすために、99,999,999個という莫(ばく)大な数の兄弟姉妹たちと壮絶な戦いを繰り広げます。この世に生を受けるためのその戦いに勝ち残ったきみは、晴れてお母さんの子宮に落ち着いて、約10ヶ月間の時を経ます。つまり、きみは“自分の意志”で、生まれたくて生まれたくて、その壮絶な戦いに挑み、勝ち残ったのです(生物学的、医学的にはそうでないかも知れませんが、そう考えることで私たちは自分の“存在価値”に気付くことができます)。きみが大切な人である理由はここにあります。きみが自分を「無価値な人間だ」と自暴自棄になり、自殺を考えるなら、きみはきみのために蹴落とされた、99,999,999個という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちに申し開きができないでしょう。きみはこの世に自分が生まれたくて生まれて来たのです。それが、きみが一生懸命に生きなければならない理由だと思います。そして、それが、きみが99,999,999個という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちに責任を感じなければならない理由でもあるのです。人間の命が大切である理由は、もう分かると思いますが、各人がそうしてこの世に生を受けて来ているからです。健康体で生まれて来た人、何らかの身体的障害を持って生まれて来た人、その誰もが“自分の意志”でこの世に生まれて来たと、私は考えています。ですから、人の命はみな貴重ですし、その貴重な命をお互いが認め合い、尊重し合わなければならないのだと思います。
2.きみの誕生日は、きみの兄弟姉妹たちの命日
誕生日を祝ったり、祝ってもらったりすることは、幾つになっても、うれしいものです。しかし、きみが気づいていないと思われることがあります。それは、きみの“誕生”は、きみの無数の兄弟姉妹たちの「命日」でもあるということです(厳密には、兄弟姉妹たちの命日は、きみという精子がきみのお母さんが用意した一個の卵子と首尾よく受精し、子宮腔(くう)内に着床した周辺時期でしょうが)。上記した数字で言えば、99,999,999人という莫大な数のほかの兄弟姉妹たちは、きみの“生”によって、“死”への旅立ちを余儀なくされたのです。これは厳粛な事実です。きみが輝かなくてはならない理由はここにもあります。 私たちは、Happy
Birthday to you! Happy Birthday to you! Happy Birthday, Dear 〜! Happy
Birthday to you! とキリスト教徒でもないのに、楽しく歌いますが(それはそれで良いのですが)、一瞬でも良いから、そうした無数の兄弟姉妹たちの冥福を祈り、自らがこの世に生まれ得たことに感謝すべきでしょう。
今の日本の教育(学校教育、家庭教育)に欠けているのは、そうした“生命教育”であり、“人間教育”だと思います。幼い時にこのような教育を徹底的に施さないと、人間は自分という存在も、他人という存在も大事に思えなくなってしまいます。自殺をする、いじめをする、その理由を探っていくと、“命”とは何か、なぜ大切かが理解できていないらしいことに辿り着きます。「殺人はなぜ悪いことなのか」と真顔で尋ねる若者がいると聞きます。残念に思うのは、そのような質問に答えを出せる大人たちがあまりにも少ないということです。「悪いことは悪い」とだけ答えることも可能です。しかし、“なぜ”と聞いている若者たちにとっては、そのような答え方は十分な説得力を持たないでしょう。きみよ、きみの誕生日は、きみの兄弟姉妹たちの命日でもあるのです。
3.いじめの卑劣さ
いじめを苦に自殺をする年少者が少なくありません。何と言うことでしょう。いじめの卑劣さ、陰湿さは、いじめが、常に「力の強い[強い立場の]者から力の弱い[弱い立場の]者への攻撃」である点です。無力な者や弱者の立場にいる者をいじめることは、間違いなく卑劣であり、卑怯であり、陰湿です。いじめを正当化する理由は存在しません。いじめの結果、人を自殺に追いやるということは殺人以外の何ものでもありませんし、したがって、許されることではありません。前述したように、人の命はきわめて大切なものです。それを奪ったり、奪うことに繋がったりする行為が許されるはずがありません。
いじめを苦に自殺をする子供たちの話をテレビ・新聞などで知るたびに、私の胸は張り裂けそうになります。親も教師も、それぞれが最大の努力をしているとは思います。それでも、自殺者が出るということは、やはり、彼らの「心」が救われていないからでしょう。精神的に耐え切れない重荷を背負ってしまっているからでしょう。自殺を図ろうとする者を思いとどまらせるだけの力強い応援、説得、愛情などが不十分なのではないでしょうか。じつは、その応援、説得、愛情などは、いじめを受ける側の者だけでなく、いじめる側の者にも必要なものだと思います。いじめる側の者にも「心」に救われない部分が存在するのだと推測します。その部分が精神的歪(ゆが)みとなって、他人に対して攻撃的になるのではないでしょうか。いわゆる「いじめっ子」は、この世に生まれ出た自分自身の意志力の偉大さ、素晴らしさなどに気付けないでいる子供なのだと思いますし、それゆえに、いつかどこかで精神的歪みを生じさせてしまっているのだと思います。そうした子供たちもまた、親や教師や社会の温かな愛情と、理解と、信頼を必要としているのではないでしょうか。
4.「他人(ひと)の痛み」が分かる人間であること
よく、「他人の痛みの分かる人間になりなさい」とか「他人の立場に立ってものが考えられる人間になりなさい」などといった言い方がなされます。しかし、これらの言い方は抽象的過ぎて、多くの子供たちや若者たちにはピンと来ないのではないでしょうか。“他人の痛み”“他人の立場”と言ったところで、まず、“自分自身の痛み”自分自身の立場”とは何かが分かっていない者に、他人の痛みや他人の立場など分かろうはずがないと思われるからです。
“自分自身の痛み”“自分自身の立場”を本当に認識するには、人間の命の尊さを徹底的に認識することが必要だと思います。私は、個人個人が自分の命の不思議と素晴らしさと尊さとを本当に感じ(られ)た時、他人のそれの大事さも同様に感じられるものだと思っています。そこから、いじめは(少なくとも)減少して行くように思います。
換言すれば、一個の命の“重さ”は、それがこの世に生を受けて出て来る確率の低さゆえの“尊さ”でもあります。自らの命の“重さ”“尊さ”を本当に認識し、実感することが出来る時、私たちは、他人のそれを奪うことは勿論のこと、それを毀傷(きしょう)することも許されないということに思い至るだろうと思います。老若男女、親も教師も、皆、このようなことを子供たちや若者たちにきちんと教えていく必要があります。
5.きみが輝けるように
私は大学教師ですから、どうしても身の回りの大学生を念頭に置いてものを言ったり書いたりします。教室においては、学生諸君に、専門分野の重要なポイント、基礎・応用理論、分析方法論などを教授し、彼ら自身がその成果を、自主的に選んだり、私から与えられた課題に有機的に応用・援用したりして、学問、真理追究を行なえるように指導します。しかし、ゼミナール、オフィスアワー、“飲み会”など、人数が限られたり、交流の輪が小さくなったり、人間関係が密になったりした場合には、相当に“身の上相談”的な話に耳を傾け、アドヴァイスすることも多くなります。授業であれ、個人的な付き合いであれ、私はいつも、学生たちが現在も将来も輝いていられるようにと願いながら、先に人生を生きた者の一人として、私の知識や経験を体系的に、あるいは“人間臭く”伝えようと努力しています。日本人の国民性であれ、日本の文化であれ、伝えて行こうと努力しなければ、遠からぬ将来、取り返しがつかないほど荒廃して行くのではないかと思います。“他人の痛み”が分かり、“他人の立場”に思いを致すことのできる優しさ、思いやりといった精神的活動も、親・教師・社会が日常的に具現していなければ、子供たちや若者たちが自らの肌で感じ取ることはないでしょう。
現代の日本人に不足しているのは、そうした、きわめて基本的な人間性ではないかと思います。テレビ番組を見ても、娯楽雑誌を見ても、暴力や性などを必要以上に強調したものがきわめて多いという印象を受けます。人生を先に生きた者の一人として、大学教師として、一生懸命に生きて来たことが、現代の若者たちにもよく理解してもらえるであろうことは、私のゼミ学生諸君や、一般学生諸君がよく証明してくれていると思います。それを裏付ける諸君の言葉は本HPの諸所に掲載してあります(たとえば、「満足度の高い大学英語授業の創造」)。やはり、「伝えよう」、「分かってもらおう」、「知ることの喜びを分かち合おう」といった気持ちを持ち続けて教壇に立てば、たいていの学生諸君は、こちらの意図をよく汲んでくれると思います。まず、教師自身が輝こうと努力していることが肝要でしょう。そうでなければ、学生諸君に向かって、「きみよ、輝け!」などと言えたものではないと思うのです。
6.おわりに
全ての人間は、自ら望んで生まれて来たこの世で、精一杯輝いて生きる権利を有しています。政治も法律も教育も、みなその権利が最大限に活かされるように整備され熟成されていかねばなりません。一人一人の人間、とりわけ未来のある子供たちや若者たちが、いじめに苦しんだり、自殺を考えたり、実際に自ら命を絶ったりするようでは、けっして正常な社会とは言えません。大人社会は、明日を生きる子供たちや若者たちに凛(りん)とした態度で接し、彼らに対して物事の善悪をきちんと教えて行くべきだと思いますが、それに先立って、大人社会が自己研鑽と自己啓発を欠かしてはならないと思います。子供たちや若者たちは大人社会の反映であることを忘れるわけには行きません。最後に、子供たちや若者たちも、それぞれの立場で、自分たちなりに自らを磨き、より望ましい社会構成員となる努力を欠かしてはならないということを付言しておきます。きみは輝くために生まれて来たのです。 だから、きみよ、輝け!
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こんばんは。「きみよ、輝け!」(3)の末尾、拝読いたしました。 私は先生から生きることの大切さを教わった一人です。今回先生に質問してきた人のように、物事を否定的に考えてしまう人が世の中にはたくさんいるのだろうと思います。それは仕方のないことだと思います。以前は私もそうでした。生きていて意味があるのかと考えたこともありました。 明海大学で山岸先生と出会って私は変わりました。誰か一人でも自分の存在をよしとしてくれる人がいれば、それだけで生きる意味はあるのですよね。それを思ったとき、私は以前の自分とは違う自分になれた気がします。 私と同じように山岸先生から生きることの大切さを教わった学生はたくさんいると思います。人は変われるはずです。私はそう信じています。 私の考えをずらずらと書いてしまってすみません。山岸先生のもとで学んだ一人として、一言申し上げたく投稿させていただきました。久本真琴(2001年度・卒業生) |
投稿時間:02/05/23(Thu) 22:44
投稿者名:佐藤 光恵
タイトル:山岸先生へ
山岸先生、こんばんは。現ゼミ生の佐藤光恵です。「君よ、輝け」(3)拝見させていただきました。人によって物事の受け止め方は違うものなのですね。全てが悲観的になってしまうときも確かにあると思います。しかし、いつまでも自分を否定して生きるなんて楽しくないと思います。せっかくこの世に生を受けたのだから、私は出来る限り、毎日笑って暮らしたいです。 投稿してくださった方は、今の人生に目標がないのでしょうか。それとも大きな目標を掲げすぎ、理不尽な世の中に絶望しているのでしょうか。どちらにせよ、きっと物事を深く考え込んでしまう人なのでしょうね。自問自答を繰り返し、早く自分なりの答えを見つけ出せればいいですね。 現ゼミ生 3年佐藤光恵 |
山岸先生、こんにちは。石井彩です。「きみよ、輝け!」(3)を読んだ読者からの質問と、先生のご回答を拝読させて頂きました。読ませて頂いているうちにこの読者の方は何かご自身で大きな事を抱えていらっしゃるのかと思いました。人は皆、生きるために生まれてきたこと、誰しもが輝ける素質を持ち合わせていることこの方は十分理解されていると思います。しかし、何か事情がおありで自分自身を違った方向に追い込んでいるとすればその悩みや痛みの根本は何なのでしょう。同じ学生としてこの方とお話してみたいと思いました。人間の本質は皆素直だと思います。周りの状況や取り巻く人々によって人は変わっていくのでその変化もそれぞれあると思います。いい方向に変わり、それを機にまた自分自身で頑張ったりまた、自分の意に反してこんなはずではなかったと言うことが起きると落ち込んでみたり。人生のうち楽しいことや、嬉しいことよりも悲しいことやつらい事が多いのは私の解釈なのですがその少ない楽しいことや嬉しいことが倍になって自分の所へ帰ってくるよう神様が今は我慢しなさい。そうすればきっと後でいいことがあなたには待っているのだから。と試練を与えて下さっているのではないかと思うのです。生きていることは本当に素晴らしいです。是非このことを学生の方にも伝えたいと思います。 山岸先生からのアドバイスがこの学生の方の心に響きますよう、また先生にご指導いただいている教え子の一人としてどうぞご自身を大切になさってくださいと私もメッセージを送ります。読んでいただきありがとうございました。失礼致します。石井 彩(現・四年次生) |
こんにちは。お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ございません。「君よ輝け!」(3)を拝見いたしました。世の中には、他人にはわからない悩み、痛みを抱えた人がたくさんいます。私もたびたび、ここに存在しているわけを見失うことがあったように思います。ですが、二年生になった時、先生が授業で、「一億の兄弟姉妹達を蹴落として、生まれてきたくてここに生まれてきたんだ」というお話をしてくださってから、自分が生まれてきた意味を知り、そして使命感が沸き起こり、頑張ろうという意欲も沸いてきました。今までなぜと思っていた、両親でさえも納得がいく答えをだしてくれなかったことに、先生が心のこもった温かいお言葉で答えてくださり、不覚にも涙が流れてきました。今でも、落ち込んでしまったり、くじけそうな時は、このお話を思い出し、前向きに頑張っています。先生にメールを送ってきた学生は、想像を絶する何か深い傷を負っているのかもしれませんし、事情があるのかもしれません。今すぐ立ち直り、前向きに進んでいくことは難しいことであると思いますが、いろいろなことを少しずつ理解し、頑張っていってほしいです。それでは失礼いたします。下田麻理亜(4年) |
山岸先生、こんばんは。「きみよ、輝け!」(3)を読んだ読者からの質問と先生のご回答を拝読させていただきました。 私はこの「きみよ、輝け!」(3)を印刷をして就職活動の鞄にいれ持ち歩いています。なぜかといいますと、大学2年次に履修させていただいた「対照言語研究」で先生にこのお話をしていただいて、とても勇気が出ましたし、とても感動をしたからです。苦しい時や自信が無くなった際には、心の中でグッとあの授業の時に感じた頑張ろうと思った気持ちを思い出すようにしてきました。就職活動を通して、自分自身のこと、社会のこと、企業というもの、性別、学歴、いろいろなことを考えさせられます。もちろん普通に過ごしていては出来ない経験が出来、成長できたり、知識が増えたり、自分自身を見つめ直せたり、新しい友達が出来たりと良いこともたくさんあります。しかし、性別で判断されたり、学歴で判断されたりと悔しい思いも幾度となく経験して、悲しくなったり、いらついたりすることもあります。そのときにこの先生のお話を拝読させていただくことで、「次頑張ろう!」「前向きにいこう」と気持ちを高めることができます。 「きみよ、輝け!」(3)に投稿してきた学生らしき匿名希望者は、全く自己背景を載せてはいませんが、きっと心に傷を持っているのではないかと思いました。この学生は、先生のお言葉を見てきっと何かが心に芽生えたから、先生にメールを送るという形で助けを求めたのではないでしょうか。私も先生にアドヴァイスをいただいている一学生としてこのように感じました。もしまた先生にこの学生から反応があれば、先生とこの学生に差し支えがなければ、ご紹介いただければと思います。この学生が、もし悩んでいるのであれば、前向きに過ごすことが出来るようになるよう願っております。失礼致します。 |
こんばんは。現ゼミ3年の竹田 望です。返信が送れてしまい申し訳ございません。 人の生死に関わるお話というものは、きっと誰もが興味を示すものだと思います。もしかすると小さな会話の中でも、そういった話題での一つの言葉のおかげで誰かを救うことがあるかもしれなく、逆に絶望に追いやってしまうことになるかもしれません。先生の文章には、そういった気遣いの心や慎重さなどと同時に、どこかで苦しんでいるかもしれない誰かに対して全身全霊で語りかけたいのだ、という心が感じられました。 私がいつも先生にお会いして思うことは(勝手な私の感じたことなのですが)、常に全身で私達に接して下さるということ、一秒でも無駄にせずにできるだけ多くの言葉を私たちに吸収してほしいのだというお気持ちです。その一生懸命さが私達の心に響き、私の「やる気」に繋がります。外部から刺激を受けないと気を張っていられない自分の弱さも痛感しております。 「自殺」ということですが、キーボードを打つ手が止まってしまいます。普段ニュースやテレビなどで耳にする為、思うことは様々あるのですが、実際に自殺を考えてしまうまで追い込まれる人の気持ちや話をきくと、言葉がうまく出てこなくなってしまいます。ただ私も落ち込んだりすると、どん底まで落ちて、簡単には気持ちをプラスに持っていくことができない性格なので、自殺を考えてしまう人達の気持ちが全くわからないということではありません。確かに、つらいことが何度も続くと苦しくなり、自分の無力さ、無気力さ、他人との違い、そして自分の無意味さが加わって来ることもあるかもしれません。ただ少なくとも、やはり、家族、友達、知人、加えて先生のように一対一でお話をしたいと言ってくださる人がこの世にいる限り、急いで死を選ぶ必要はどこにもないと思います。増して、自分が生活しているのは、広い宇宙の中の、地球の中の、日本という小さな国の、例えば私なら千葉県でしかありません。私が生きることを許されているのはここだけではないのです。外に目を向けてみればどこかしらに自分が生きられる所があるはずです。 一年前くらいに、「17歳のカルテ」という洋画を見ました。主人公が確か精神分裂病ということで精神病院に入り、退院するまでのお話です。私が一番印象に残ったのは主人公の退院直前の言葉です。先生に泣きながら心を打ち明けることが出来た時の言葉なのですが、「周りと同じようにうまくやれないつらさ。」というようなことを言っていました。あまり上手くお話できないのですが、私はこの言葉は多くの人が一度は抱いたことのある感情なのではないかと思います。きっと誰もが知っている感情で、それは人によって大きさが違うだけで、そしてそこから抜け出せるきっかけが有るか無いかというだけの違いに感じます。 纏まりのない話になってしまい申し訳ございません。でもとても深く関心を持ってしまう問題です。もっともっと自分の考えを出せる様、自分なりに少しずつ調べて見たいと思います。 |
こんばんは。現ゼミ3年竹田 望です。返信が遅くなり申し訳ございません。「きみよ、輝け!」の読者から再度返事があったということで、私たちにこの掲示板を通してお伝えくださりありがとうございます。 私の感じた所ですと、この人はとても真面目で頭のよい人といった印象です。と同時に、感受性も高く、常に様々な事柄に対し自分の中で混沌と戦っている様にも思えました。人間誰もがそうだとは思いますが、この人は普通の人よりも生真面目な故、又は、何か頼れる救いが欲しいが為に、一つの事柄に対し納得出来るような一つの「答え」が欲しいのかもしれません。その為、先生に自分の思うところを話し、自分を納得させて欲しかったのかなと思いました。 彼は、先生の意見は、教師としてのnoblesse obligeが強いものだと言っていましたが、私は、先生の送ってこられた人生が、そして今の生き方が、先生があそこでお書きになられた文章にそのまま表れているのだと感じました。上手く言い表せず、なんだか偉そうなことを言ってしまっている気がします。申し訳ございません。 しかし彼は、始めは匿名で唐突に先生に質問を掲げてきましたが、先生へ、そして私たちゼミ生にもきちんとした文章で返信して来たことにうれしく思いました。また、他人からの疑問にお返事なされたり、私たちにもこういった機会を通して何か少しでも学ばせてあげたい、といった先生の温かいお心遣いがとても感じられました。現ゼミ生3年 竹田 望 |
こんばんは。卒業生の久本です。 再度読者からの返事があったということですが、早速読ませていただきました。○山×男さんは「人生は無意味だ」と考えているようですが、私は返信されてきた文章から「そこそこ楽しい人生」を送っているように感じました。そう思うのは私の勝手かもしれません。これからは少しでも物事をポジティブに考えることができれば、「そこそこ楽しい人生」を送っているのだと思えるようになるのではないかと思います。これからも○山×男さんが山岸先生のHPを訪れることで、また、楽しみを見つけることで、○山×男さんの「強度」が強くなることを祈っています。久本真琴 (2001年度・卒業生) |
山岸先生、ゼミの皆さん、こんばんは。大山はるかです。 私は○山×男さんのお返事を拝読し、前回のものとは雰囲気が違うように思いました。名前を載せているからかもしれませんが、前回あった棘が文章から無くなっているように思います。前回のものは、読んでいて痛々しかったし、ただ文句をつけているようにしか思いませんでした。しかし、今回のものは○山×男さんのお考えをきちんとお聞きすることが出来、また参考文献を挙げていただくなど勉強にもなりました。 >私も「人生は無意味だ」と考えますが、ただし「意味」という語そのものが曖昧で定義が難しいがゆえの「無意味」です。床に臥し沢山の管に繋がれ植物のようになりながらも生きている人と、体が丈夫で、夢に向かってあらゆる努力ができる人を同列において意味を考えることは、不毛に思われます。もちろん抽象を繰り返した先に、人類共通の意味というものがあるのかもしれませんが、神は存在するのかという問いと同じくらい、難しいことのように思われます。 確かに、私もこのようなことを考えてしまうことがあります。しかし、答えはいつもでません。ただ悲しくなってしまいます。○山×男さんは、このように難しいことを考えられる方だから、先生のお話を見られたときにいろいろと考えられたのだと思いました。 ○山×男さんが自殺を考えていたり、マイナスの気持ちばかりではないことが分かり安心致しました。ゼミ生以外のお考えというものは、新鮮ですし、今回のものは考える良いきっかけとなりました。○山×男さんのお返事をご紹介いただき有り難う御座いました。大山 はるか(現ゼミ生・4年) |
山岸先生、こんにちは。現ゼミ生の佐藤光恵です。返信が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。 「人生は無意味か、否か」私なりに再度考えてみました。自分の今いる状況によって、どちらにも定義できると私は思いました。生まれた国、生まれた環境、その他もろもろが、その人の考え方に大きな影響を与えるのでしょう。「人それぞれ、いろいろな考え方がある」理解していたつもりでした。しかし、私は何もわかっていなかったように思います。○山×男さんは、自分なりにたくさん考えて、今の結論に達し、何もすべての事に無気力になっているわけではなかったのですね。 私自身のことを、少し書かせていただきますと、私の今の生活はとても「有意義」だと思っています。周りに沢山大好きな人がいて、大好きな勉強ができ、大好きなサッカーを毎日見ることができます。この生活を無意味と言ってしまったら、バチが当たってしまいそうです。私も数年前までは、かなり物事に悲観的でした。しかし、沢山の人に会い、柔軟に物事を考えられるようになりました。今の自分がいるのは、今の自分になれたのは、過去の自分があったからだと、今ははっきりと言えます。○山×男さんの考えは、○山×男さんのものですから、無理に変える必要はないと思います。しかし、もし○山×男さんに私のように、何かが変わりそうな転機が訪れた時には、「人生は有意義である」という考えを思い出していただけたらうれしく思います。現ゼミ生 3年 佐藤光恵 |
先生、みなさん、こんばんは。返信が遅くなってしまいまして、大変申し訳ございませんでした。私達のために、お返事のメールをお知らせくださり、ありがとうございました。江口さんがお書きになったものを拝見させていただき、現在のご様子が伺え、安心いたしました。生について考えること、人それぞれ考えが異なりますし、定義は難しいですね。私は、「人生はそこそこ楽しい」と考えていますが、江口さんがこのように、メールを送ってくださったことにより、いろいろな角度から物事を考える、いいきっかけとなりました。ですが、やはり、たとえどんな状態、状況におかれているにしても、人が生きている意味というのはあると思います。考えが甘いかもしれませんが、そう信じたいです。とても、難しい問題でしたが、様々なことを考えさせられ、また勉強になりました。心より、感謝申し上げます。ありがとうございました。それでは失礼いたします。 下田麻理亜(現4年) |