XIX 辞書記述の類似性に関する問題提起



1. おおよそ「辞書」「辞典」と名の付くもので、他社のものから全く影響を受けないというものは存在しないであろう。大なり小なり、さまざまな形で影響を受ける。しかし、その受け方を詳細に観察すると、出版倫理に悖(もと)るほど、度を越していると思われるものもある。かつて、A社の『英和中辞典』がB社の英和辞典の記述を大量に真似たとして、B社から裁判所へ提訴され、敗訴したことがある。また、C社の学習英和辞典がD社の学習英和辞典を大量に真似たとして、D社から訴訟を起こされ、和解の形で矛を収めてもらったこともある。参照乞@A
 出版倫理に悖るとまでは言えないにせよ、その編集姿勢に疑念を感じざるを得ないような記述を多く収録している辞書もある。私が編集主幹を務めた『スーパー・アンカー英和辞典』(学習研究社、1997年3月初版発行)と『スーパー・アンカー和英辞典』(学習研究社、2000年1月初版発行)の記述を例に採り、そのような疑念を抱かざるを得ない記述を収録している他社の英和辞典(仮に『英和辞典X』としておく)と和英辞典(仮に『和英辞典Z』としておく)に言及する。特に、下線部にその影響関係(らしきもの)を見る。本稿の目的は、辞書記述の類似性に関する問題提起にある。この程度のことは無視[看過]すべきことなのか、それとも、やはり出版倫理に悖る類のものと解釈すべきなのか、読者のご意見を募りたいと思う。

例1私は『スーパー・アンカー英和辞典』のfinderの項の「ことわざの極意」欄に、次のように書いた。

Finders keepers (, losers weepers).見つけた人がもらう人(なくした人は泣きをみる).◆finders, losersのあとにそれぞれareが省略されている.ふつう子供が物を拾ったときなどに「ぼく[私]がみつけたんだからぼく[私]のものだ」と得意がったりむきになったりしてこう言うが、おとなも落とし主不明のあまり高価でないものを拾ったような場合にこの表現を口にすることがある.このことわざは物をなくした場合はなくした本人が悪いという、自己防衛を重視する文化の中から生まれたものである.(例)“That's my eraser. Give it back.”“It's mine now. Finders keepers.”「それ、ボクの消しゴムだぞ.返せよ」「もうぼくのだよ。見つけた人がもらう人って言うだろ」

 これに対して、『英和辞典X』はその初版においてはfinderに「発見者、取得者」の訳語だけを与えていたのに、第2版では急遽「ことわざ」欄を新設し、次のような記述を付加した。             

「ことわざ」Finders keepers, losers weepers.拾った者が持ち主、落とした者は泣く人(英米人は貴重品は自己の責任で管理するという気持ちが強く、なくした場合は他人に渡ってもしかたがないと考えるFindersと losersの後に areが省略されている

 「このことわざは物をなくした場合はなくした本人が悪いという、自己防衛を重視する文化の中から生まれたもの」とする私の考え方は、じつは私個人の考え方に基づくものであり、更なる検証を必要とするものである。ちなみに、私と一緒に仕事をしたアメリカ人女性はそれに対する異論の持ち主である。それを私の責任において『スーパー・アンカー英和辞典』に残したものである。『英和辞典X』関係者に対して、「英米人は貴重品は自己の責任で管理するという気持ちが強く、なくした場合は他人に渡ってもしかたがないと考える」と明言されるその根拠を尋ねたい。要するに、『スーパー・アンカー英和辞典』の「ことわざの極意」や、次に示す「英語文化のキーワード」の記述には現時点における“山岸流解釈”がきわめて多いのである。『英和辞典X』の「文化」欄には、私が書いた「英語文化のキーワード」欄の記述や発想に影響されたと思われる記述が目立つ(例:contract, independence, sin, sincere)。

例2)また、fairの項の「英語文化のキーワード」欄では次のように書いた。

日本語で「公平な」とか「公正な」と言った場合、それは「規則、ルール」に沿っていることをさすが、英語のfairの判断基準は「社会的モラル」である.したがって、たとえば、日本人は大型力士と小兵力士が対戦しても、両者が相撲規則にのっとって戦っている以上、それを不公平な対戦とは思わないが、英米人は歴然とした身長・体重の差がある力士を対戦させることを不公平であり、かつ反社会的なことだと考える.体重・身長別に分けて取り組ませて初めてfairなのである.

 これに対して、『英和辞典X』第2版は、その初版においては何の言及もなかったfairの項に、次のような注解を施した。

日本では「フェア」というと、スポーツのルールや会社の規則などを忠実に守ることを意味するが、様々な人種が混在している欧米社会では、社会的モラルを守るかどうかというもう少し広い見地からフェアかフェアでないかを決めることが多い.

 『スーパー・アンカー英和辞典』に添えた解説は私流の解釈によるものであって、これが最適な「fairness理解法」かどうかは、さらなる検証が必要である。その他、類例は多くあるが、ここでは2例を示すに留める(その他の例は、たとえば、上掲の4語)。

 
例3) さらに私はblood typeから blood groupを参照させ、そこに次のような参考記事を書いた。

英語国民は日本人ほど性格判断としての血液型を気にせず、他人の血液型を尋ねるようなことも普通はしない。

 これに対して、初版では訳語以外は何の注記もなかった『英和辞典X』第2版のblood typeには次のような「文化」欄が設けられた。 

[文化] -あなたはお医者さん?-
欧米では血液型による性格判断は一般的ではないので、医者でもないのにWhat is your blood type?と聞くと、驚かれることがある。運勢や性格判断には星占い (horoscope) が最も一般的である。

 この記述が『スーパー・アンカー英和辞典』に影響されたものであろうことは容易に想像がつく。この項目を書いた人に聞いてみたい。「どうして欧米では血液型を聞くのは一般的ではないのか?」と。当然立派な答えが返ってくるに違いない。

 枚挙に暇が無いのでこのくらいにするが、要するに、『スーパー・アンカー英和辞典』に参考記事や解説が施されている場合、『英和辞典X』第2版にはまことに不思議なことに「文化」欄などの新設が為されていることが多いのである。

 続いて、和英辞典である。

例1全ての和英辞典が日本語の「子煩悩な」に“doting”を与えていたことに対して、私はそれは適訳ではない旨のことを諸所で指摘した(たとえば、研究社出版「現代英語教育」誌、1988、8月号)。当然、『スーパー・アンカー和英辞典』にもそれを反映させて、「子ぼんのうな父親 a loving [fond /tender] father」の用例を収録した。いっぽう、後発の『和英辞典Z』(前出『英和辞典X』の姉妹編)は、同語の用例に「彼は子煩悩な父親だ He is a loving [fond /tender] father.」を与えた。これは明らかに私の記述に「彼」を付加しただけの“流用”と看做し得るものである。それとも形容詞3語は偶然同じ並び方をしたのであろうか。同和英辞典関係者に、3語がこの順序で並ぶ理由を尋ねてみたい。同辞典にはこの種の流用(らしき記述)が少なくない。

例2私は『スーパー・アンカー和英辞典』では「樹氷」の訳語を「(a coat of snow and) ice on a tree」とした。後発の『和英辞典Z』の訳語は括弧の使用法を含めて、そっくりそのままである。じつは、この訳語もさらなる熟考が必要なのである。なぜ「a coat of snow and」の部分が括弧に入るのであろうか。同辞典関係者にその言語学的理由を尋ねてみたい(たかが括弧と言うなかれ。括弧2つが大きな意味を持つのであり、それらの有効な使用が編集主幹の編纂理念や編集力の一端を示すものなのである)。

2.和英辞典に関して言えば、私が雑誌の連載(特に、前出「現代英語教育」誌に掲載したもの)で指摘した訳語の問題点に関しては多くの和英辞典で修正が施されている(修正自体は大いに結構なことである)。しかし、その後、私の個人著書のみで指摘・公表した訳語の問題点に関しては『和英辞典Z』を含め、どの和英辞典も誤訳のままのものを多く収録している。たとえば、『和英辞典Z』の「あくせく」「書き取り」「極刑」「酌み交わす」「極楽」「視界」「下心」「清水」「水筒」「食べ盛り」「道楽息子」等々(多過ぎるのでここらあたりでやめたい)、間違いだらけである。『和英辞典Z』が採用している「詩吟」に対する訳語など、私のかつての指摘に下手に影響された典型である。分かっていないなあ、という印象を深くする。

 こうした事実から、日本の和英辞典がどのように編纂されているかが垣間見えてくる。簡単に言えば、真剣さを欠いているのである。その点、たとえば、陸続と現れるイギリスの英語辞書の素晴らしさには頭が下がる。各社の辞書がそれぞれ個性や独自性を打ち出していて、定義の仕方や用例の選択の点で、切磋琢磨していることがよく伺える。日本の辞書出版社には、いわゆる「プロダクション」を利用しているところが多いと聞く。仕事を任されたプロダクションはあちこちの辞書の良いところを「つまみ食い」的に寄せ集め、それをもとに原稿を書くというところも少なくないと(某筋から)聞いている。中には、数社の原稿執筆を一手に引き受けている所もあるらしい。一般の原稿執筆者の中にも、既存の辞書を何冊か机上に並べて、それらの記述を要領よく(盗用・剽窃にならない程度に)換言し、それをもって原稿とするという人も少なくないようである。俗に言う“良(い)いとこ取り”である。要するに、我が国の辞書出版社には本物の“lexicographer”が極端に不足しているということである(根拠がないので、“皆無”とは言えないが)。その本格的な養成が急がれる。