X 新時代に望む学習英和辞典情報
A.コミュニケーションと学習英和辞典
「実践的コミュニケーション能力」という言葉をよく見聞きするようになった。 幾通りかの解釈が可能であるが、筆者としてはこれを
「英語的発想で英語でコミュニケーションを図ることができる能力」
という意味に解釈することにしている。たとえば、日本人英語では次のような応答がなされることが少なくない。
英語圏人: Would you like some more
salad?
(サラダをもう少しいかがですか。)
日 本 人 : I've had enough.
(もう十分にいただきました。)
多くの日本人はこの日本文から、特に何の違和感も抱かないであろう。 日本語として成立するからである。しかし、英語ではかなり不自然な応答になっている。それは、英語では、まず No, thank you.と言ってから、続いて I've had (more than) enough. と応答するのが言語的ルールだからである [ただし、I've had (more than) enough, thank you. のような答え方も正しい]。 上記のように I've had enough. とだけ応答すると、「もううんざりです(=I'm disgusted.)」と言っているように響く恐れがある。すなわち、英語の場合、相手からの申し出を断るには、まず礼を述べ、次に断りの言葉や理由を言うのが普通である。従って、「実践的コミュニケーション能力」の一部として、我々はこのルールをきちんと体得しておく必要がある。また、教師が日常的に利用する(はずの)学習英和辞典には、名詞としての
enough の項にこの慣用表現が収録され、どういう用い方をすれば、どういう意味に解釈される(可能性がある)かという点が適切に記述されている必要がある。参照した限りの英和辞典は、「I've
had enough. もう十分です、ごちそうさま」とだけ表記しているか、I've had
enough, thank you. のような用例を示し、それからその用法を知らしめようとしていると思われるものばかりであるが、前者の書き方はミスリーディングであり、後者の書き方も、相当に英語力のある人でなければ用法のポイントに(気づかないというよりも)気づけないであろう。前述のような言語的事実を承知している教師であればよいが、そうでなければ、「I've
had enough. もう十分です、ごちそうさま」だけを棒暗記して、それを英語圏の人との会話などに使用することを自分の生徒たちに奨励する可能性がある。新時代の学習英和辞典は、やはり、こうした慣用句を取り扱う際には、上記のような用法上のポイントをきちんと押さえた上での記述を行い、教師を含めた利用者にその点への注意を向けることができるようにする必要がある。
従来の学習英和辞典は、明らかに「受信型の辞典」 (decoding [passive] dictionaries)であって、「発信型の辞典」
(encoding [active]dictionaries) とは言い難かった。しかし、英語学習の一大目標は、英語世界の言語的・文化的ルールを学び、それを活用できるようになることであるし、前出の「実践的コミュニケーション能力」という言葉もその点を含んでいるはずであるから、これからの学習英和辞典はその点に十分に留意して編纂されたものである必要がある。
そこで本稿では、新指導要領に謳われている「実践的コミュニケーション能力」の養成に資する情報を、筆者が関係した 『スーパー・アンカー英和辞典』(学習研究社、1997年;以下 『SA英和』と略す)に具体例を求めながら、新時代に必要と思われる学習英和辞典情報の一面について考えてみたい。
B.学習英和辞典における言語慣習に関する情報
前出の enough の場合、 『SA英和』では次に示すように、対話形式の用例を収録し、食べ物などを勧められたときの答え方をきちんと説明した。
“Would you care for some more
roast beef?”
“No, thank you. I've had more
than enough.”
「ローストビーフをもう少しいかがですか」
「いえ、もう十分いただきました」
◆食べ物などを勧められたときの答え方。まず、
礼を言ってから、次に断りのことばや礼を言う。
このように表記することで、 I've had (more
than) enough.に付着する恐れのあるマイナスイメージを取り除くことが可能になる。その他の例を見てみよう。
例1) please と 「どうぞ」
中・高の教育研究部会総会などで講演を依頼されることが少なくないが、そのような折にしばしば耳にするのが、please
という小さな副詞の誤用である。英語で司会をなさる方の多くが、講師としての筆者を演壇に導かれる際に
“Professor Yamagishi, please.” と言われる。日本語の「山岸先生、どうぞ」もしくは「山岸先生、お願いします」のおつもりであろう。
また、筆者が講演を終えて聴衆に質問を募る場合、その時の司会を務めて下さっている方の多くは、質問者に対して、“Yes,
please.”と言われる。この用法も、「はい、どうぞ」という日本語的発想に従ったもので、英語的には同じく誤用である。
そこで 『SA英和』の please の項では、次に示すように、「解説」と銘打った囲みを設け、次のような解説を施すことにした。
【解説】 please と「どうぞ」の違い
(1)日本語の 「どうぞ」 は、人にものを勧めるとき、要請や依頼を
するときなどに広く用いるが、英語のpleaseは人への要請や依頼を
ていねいに響かせるために命令法の動詞とともに用いる。(2)
した
がって、たとえば「きみの辞書、使っていい?」「どうぞ」のように人の
頼みを承知したときの「どうぞ(いいですよ)」には“please”ではなく、
“Go ahead.”, “Certainly.”,
“Of course.”などを用いる。(3)講演者
が講演などを終わったあと、質問者に向って「(はい)どうぞ」と言う
場合には、“Yes, sir [madam].”とか、具体的に“Yes,
Mr. [Mrs., Ms.,
Miss] Smith.”のように応え、pleaseは用いない。
これからも分かるように、please は 「人への要請や依頼をていねいに響かせるために命令法の動詞とともに用いる」ものなのである。したがって、“Professor
Yamagishi, please.” という英語は、「山岸先生、(そちらに座っていらっしゃらないで、早くこちらに)どうぞ」とか「山岸先生、お願いします(から、こちらにおいでください)」という、要請や命令のように響く恐れがある。結論を言えば、講演者を壇上に呼ぶ場合には、“Professor
Yamagishi.”だけで十分である。ステージで司会者が、登場する歌手などを紹介する時の「…さんどうぞ」にも
please は用いない。英語ではそういう場合は
“Ladies and gentelmen, we present Michael
Douglas!”(みなさん、マイケル・ダグラスさんをご紹介します)だけでよい。
この please の誤用に関しては、注意を喚起できる環境に恵まれれば、どこの講演でもできるだけそのようにしているが、そうでない場合のほうが多く、何も言わずに帰宅している。今もこの誤用を繰り返している講演会や総会が全国のどこかに存在しているであろう。
例2) of course と「もちろん」
前記の please 同様、多くの誤用例に出くわすのがこの
of course である。これは日本語の「もちろん(です)」と直結させたために生じる不自然さである。同僚のアメリカ人の一人は、出欠を取る際に学生に“Can
I use your pen?”(ペン、使っていい?)と聞いて、“Of
course, you can.”(もちろんです)と答えられた時のことを回顧して、あの言い方は偉ぶっているように響いてよくないと言ったことがある。そういう場合はむしろ、“Yes,
go ahead. / Sure.” とか、もう少し丁寧には“Certainly.”と答えるほうが良いということであった。Of
course は文脈や言い方によっては、「当たり前でしょう」「言う必要なんかないでしょう」と言っているように響くことが少なくないからである。そこで
『SA英和』では、of course の対話例を次のように処理することにして、この句にまつわる問題点に利用者の注意を喚起した。
【対話】 “Can I borrow your book?”
“Yes, of course, you can.”
「本をお借りしていいですか」「ええ、もちろんいいですよ」(◆この
答え方は偉ぶっているように響くので、Yes,
go ahead.(ええ、どう
ぞ)のような答え方が好ましい)/ “You're
not hungry?” “Of
cóurse nòt.”「おなかはすいてないだろうね」「もちろん(すいてな
いよ)」(◆文脈によっては「当然じゃないか、何でそんなことを聞く
の?」という不審や非難の響きを持つので、No,
I'm not.と答える
ほうが無難。場合によっては No,
thanks.のように答えてもよい。
例3)ashamed と 「恥ずかしい」
英語圏の人々から、日本人英語として指摘される形容詞の1つにこの
ashamed がある。「恥ずかしいからその写真を見ないで」とか、「恥ずかしいからそんなこと聞かないで」という場合に、この形容詞を用いて、それぞれを
Don't look at that picture. I'll be ashamed.
/ Don't ask me that. I'll be ashamed. のように訳すのは、正しくない(と言っても、筆者の学生たちの多くは、Because
I'll be ashamed don't look at that picure.
/ Because I'll be ashamed don't ask me that.のように、Because...の構文を用いるが)。Ashamedという形容詞は「不名誉に思う」「(恥ずべき行為をして)恥と感じる」という意味であり、日本人が言いたいのは「きまりが悪い」という意味であるから、「きまりが悪い」の意味のembarrassed
を用いなくてはならない。
ちなみに、筆者の男子学生の一人がイギリスに夏期語学研修に行った時のことである。イギリス人の先生から自分の父親の誕生日を聞かれて答えられなかったので恥ずかしい思いをしたことをホーストファミリーに言った。その時の英語が、I
was ashamed when I forgot my father's birthday.だったらしい。ホストファミリーは怪訝な顔をしたそうだが、当人は何のことだか分からずに、しばらく説明して、自分が言いたいことは、I
was embarrassed when...であったとようやく気づいたらしい。そこで
『SA英和』 では ashamed の項の「語法」として、次のように書いて、利用者の注意を喚起することにした。
【語法】ashamed は「悪いことや体裁の悪いことをしたので恥ずかし
い」の意。単にきまりが悪いとか、内気なために恥ずかしいという
場合は embarrassed や shy を用いる。
この理解がきちんとしていれば、「恥ずかしがるなよ」は “Don't be shy!”
でよいが、「間違いをすることを恥ずかしがるな」なら “Don't be ashamed of
making mistakes.” を使うということも理解できるであろう。あるいは、「恥ずかしい話ですが、私はコンピュータのことは全然わからないんです」のような日本語は
“I'm ashamed [embarrassed] to say this, but I don't know anything about
computers.”のように、ashamed でも embarrassed でも良いということに気づくであろう。ちなみに、前者
(ashamed) は「できて当然なのにできない、できなくて恥だ」と言っているのに対して、後者
(embarrassed) は単に、きまりが悪いと言っている。
難しいのは、日本語と英語の発想の違いに起因する表現法の違いの場合である。たとえば、日本人は他人から(個展会場などで)「すばらしい作品ですね」と言って褒められた場合、「いやあ、お恥ずかしいかぎりです」と自己卑下的に応答することが少なくないが、この対話を英語にして、“You
really have some excellent pieces of work
here.” “No, I'm most embarrassed.” と言えるかと言えば、そうはいかない。こういう場合、英語圏人は普通は「うれしい」「光栄である」と考えるのが普通なので、“Thank
you. I'm flattered.”と答えたり、“Oh no,
nothing to be proud of.”(いえいえ、誇るほどのものではありません)のような言い方をし、「褒められて恥ずかしい」というような考え方はしない。このような、発想法の違いが日本人教師にも学習者にもきわめて難しい。
以上のことから、生徒に「実践的コミュニケーション能力」を身に付けさせるには、教師自身が、コミュニケーションに支障をきたしたり、誤解の原因になるような(たとえば、上掲のような)語句に関して、十分な知識と運用能力を持つことが前提になるということも理解されたであろう。
C.学習英和辞典における英語文化に関する情報
前にも類似のことを書いたが、それを換言すれば、英語学習とは言ってみれば、英語というゲームと、それに備わったルールとを学ぶことであり、「実践的コミュニケーション能力」はそのルールによってそのゲームに自ら参加できることである。日本語というゲームに備わったルールを英語というゲームに持ち込めば、英語のゲームに支障が出るのは当然である。B.で挙げたような言語習慣も英語のルールであるが、英語の背景を成す文化もルールである。従って、英語教師はその点をきちんと理解して教育に当たる必要がある。
たとえば、『SA英和』を除く他社の学習英和辞典で
fair, opinion, public-speaking, public spirit,
self-assertion のような語を引いても、それらの語の文化的背景をきちんと教えてくれるものは皆無である(だからそれらは利用価値が下がると言うつもりはない。辞典にはそれぞれの特色があり、それが各辞典のまさに存在価値なのだから)。しかし、各語に筆者が添えたような言語文化的解説・注釈は、実践的コミュニケーション能力を獲得するには必須のはずである。以下に
『SA英和』 から実例を引いてみる(訳語・各種記号などは省略し、解説・参考記事のみ転載)。
fair 【英語文化のキーワード】 日本語で「公正な」とか「公平な」
と言った場合、それは「規則、ルール」に沿っていることをさすが、
英語の fair の判断基準は「社会的モラル」である。したがって、
たとえば日本人は大型力士と小兵力士が対戦しても、両者が
相撲規則にのっとって戦っている以上、それを不公平な対戦だ
とは思わないが、英米人は歴然とした身長・体重の差がある力
士を対戦させることを不公平であり、かつ反社会的なことだと考
える。体重・身長別に分けて取り組ませて初めてfairなのである。
opinion 【参考】英米などの多民族国家では、きちんと自分の意見
を持ち、それを主張できる人間が尊敬される。したがって、日本人
が言いがちな I have no opinion
in particular.(特に意見はありま
せん)は英語国民からは、主体性のない人間、あるいは、他人の
言うことに興味を示さない人間などのように解釈されることがある
ので注意を要する。
public-speaking 【参考】英語国の学校では、人前で自分の意見
を述べたり、スピーチをしたりする
(speak in public) ことのできる
子供の育成に力を入れる。大学などにはそれを集中的に学ぶた
めのコースを設けているところも少なくない。
public spirit 【参考】英語国で重視される概念の1つ。たとえばボ
ランティア活動に見られる公共心の実践はキリスト教精神に裏打
ちされて定着している。
self-assertion 【参考】英米、特にアメリカでは、自分の考えや立
場を明確に理解してもらう必要から、親はわが子が自己主張の
できる子に育つことを期待し、学校もその実現を目ざしている。自
己主張のできない人のために
assertion-training course (自己
主張訓練コース)を設けている学校さえある。
ちなみに、某学習英和辞典で public-speaking
を引くと、訳語としては「演説」しか挙げていないが、これでは英語文化に占めるこの語の本当の姿は見えてこない。最低でも、「人前での話し方、話術;演説(法)」のような訳語がほしい。public
spirit の「公共心」、self-assertion の「自己主張」も、やはり、英語文化におけるそれらの実情を教えてはくれない。英和辞典の中には、self-assertion
に 「自己主張」以外に 「でしゃばり」という訳語を記載しているものもあるが、この英語が後者の意味で否定的に用いられるには、それ相応の文脈が必要なほど、プラスイメージのほうが濃い語であり、前述した通り、特にアメリカのような多民族国家においては、self-assertion
は当然の行為と受け取られるものである。
D.言語的・文化的ルールと学習英和辞典
最近の学習英和辞典の進歩には、目を見張るものがある。英語と英語文化に関する情報のうち、日本人学習者に有益と思われるものを分類・整理し、解説・参考・注記などの形で、自社の辞典に収録しているからである。しかし、筆者が本稿で言及してきたような情報となると、いまだ不十分な処理状態だと言わざるを得ない。
高校生を中心とする学習英和辞典の場合、収録語数の多さを誇る必要はない。微に入り細を穿った語法解説も必須ではない。高校3年生までに修得を期待されている英語の語彙や語法・文法知識はさほど多くもなければ複雑でもない。それらを本当に自分のものにできれば、大抵のことは言えるし書けるはずである。
これからの学習英和辞典に必要な情報は、すでに述べてきたことから分かるように、英語というゲームを行なう際に必要なルール(語法・文法的ルールのような言語的ルールのみならず、文化的ルール)を分かりやすく教えてくれるものである。その文化的ルールを学習英和辞典に平易・明確に記載することが肝要だと筆者は考えているのであり、そのための辞典作りに励んでいるつもりである。それを具体化したのが『SA英和』のコラム記事「英語文化がわかる99語」である。
単語や語法・文法の暗記も重要である。しかし、さらに重要なことは、本稿で取り扱ったような言語的・文化的ルールをきちんと理解し、それらを活用できるようにしておくことである。英語教師にはその点の認識と具体化が要求されていると思う。
外国語学習に必要な考え方の1つは、“different
games, different rules”(ゲームが違えば、ルールが違う)ということである。我が国の英語教育に不足していた考え方の1つがこれであり、この考え方を具現化した適切な英語教育が行なわれれば、新時代の英語教育はさらに大きな成果を生むであろう。
【本稿は「山形英語教育」第45号(平成12年7月1日発行)に寄稿したものの転載です】
【慶應義塾大学法学部2年生・英語Vの授業は、本稿で取り扱った文化的ルールの学習・応用によって、受講生の学習意欲を高め、授業の活性化に成功した例です;「U満足度の高い大学英語授業の創造」をご覧下さい】