19. コミュニケーション能力を
           
 育成する英語教育              
                   


  次は、第47回東北六県英語研究大会(東北六県英語教育連絡協議会主催;平成9年10月23・24にち、於 ・ 盛岡白百合学園中 ・ 高等学校、 盛岡白百合百周年記念講堂)における私の講演に一部加除修正を施したものです。 


0.
 今、ご紹介にあずかりましたように、いろいろな仕事をさせていただいておりますけれども、このような良い機会を与えていただいて、大変喜んでおります。実は昨夜カラオケに行きました。私はどこに行きましても、カラオケが好きだということが事前に関係者に伝わっております。伝えていただく理由としては、カラオケは、コミュニケーションには格好の場所だと思われるからです。いろいろと先生方と楽しんでまいりましたけれども、長い間の習性で、朝の3時半になりますと、目が覚めてしまいます。することがないものですから、何かしようと思いましたら、ちょうど良いものがありまして、私が泊まったと言いますか、用意していただいたホテルの部屋に英語の案内があり、実はそれが1行目から間違いのあるものでした。盛岡のホテルの英語が全てこのレベルだとは思いませんが、正直言って少々驚きました。コピーを取りたかったのですが、コピーの機械がないものですから、ちょっとメモをして来ました。たとえば、

  Thank you for your staying at our hotel. 

 Thank you for your  -ing. というふうには言わないですね。Thank you の次には -ing 形が来ます。神戸の某ホテルに滞在した時にもおかしな英語を目にしましたけれども、その時は、早速支配人に来ていただいて、直したほうが良いのではないかとアドヴァイスしたことがありました。支配人以下皆さんが感謝して下さるほどの表示内容だったのです。英語を母語とする方たちの中にも、気がついておられる方はいると思うのですけれど、面倒くさいと思われるのでしょうか、この種の間違いがいつまでも残ってしまいますね。それにしても、昨夜のホテルの場合、火事のことについて書いてあるところなどはひどいものでした。Emergency exit にfamiliarize して下さい、と書いてあったからです。こんなところに familiarize したくないのですけれども。そういうおかしな英語がたくさんありました。

1.
 それはそれぐらいにしておきまして、今日お話ししたいことは、分科会、その他では、コミュニケーション能力に繋がる指導、あるいは書く、読む力の指導というようなことをおやりになっているので、別の観点からのものです。お手元に粗末なものですけれども、ハンドアウトを用意いたしました。
 文部省が出している「外国語科の目標」(『高等学校学習指導要領解説』より)というところに、「外国語を理解し、外国語で表現する能力[基礎的な能力]を養い、外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てるとともに、言語や文化に対する関心を高め[深め]、国際理解を深める[国際理解の基礎を培う]」(括弧内は中学校学習指導要領における目標で、高等学校のそれと異なる文言箇所)とあります。ここで私が疑問に思うことは、外国語を理解するということは、どういうことなのだろうか、ということです。これの定義がなされていない。学習指導要領には実は定義はあるのですが、それが次のような定義なのです。
 「『外国語を理解し』とは、外国語を聞いて理解したり、読んで理解することを意味する。」 しかし、私には、外国語を理解するということ、聞いて理解し、読んで理解するということは、どういうことを言うのかということの定義がなされていないように思えるのです。一般的な言い方をしますと、日本人は日本式に理解している部分が非常に多い。英語を母語とする人たちは、彼らの文化の中で熟成された物の考え方を利用して理解します。これはもっともっと分析をすべきことだろうと思うのですが、その点に関しては不問に付したままで、指導要領は上記のように書いているように思います。
 それから、「『外国語で表現する』とは、話したり、書いたりして表現することを意味する。」とありますが、これは良いと思いますが、問題はその次の、「『コミュニケーション』とは、話し手と聞き手、書き手と読み手の意思の疎通ができること。」と書いてある点です。つまり、意思の疎通とはどういうことを言うのだろうかということについての具体的なことは何も書かれていないのです。そこで今日私が皆さま方にお話ししたいことは、コミュニケーション能力というものが先立ってしまうけれども、どの部分が問題で、どの部分がコミュニケーション能力を育成する点として可能なのだろうかということを考えていただきたい、そのよすがにしていただきたいということです。
 「意思の疎通」はそう簡単ではない、ということがあります。これは私が辞書を2冊作った経験、編集主幹として、力の限りを尽くしてやった仕事の結果から言えることです。もう一つ、その確信の元として、辞書の原稿を書いていただくために日本全国の非常に著名な先生方にお願いした結果から言えることもあります。そうした方たちに執筆をお願いしますと、あがってくる原稿で、もちろんこれは私を含めてですけれども、native speaker に手をいれられない原稿はほとんどないということです。文法的にではなくて、そのようには言わない、英語ではおかしいと言われます。逆に言いますと、nativeの先生に書いていただくと、これは日本の子供たちには良い英語ではない、日本人にはこのような用例はいらないというものが出てきます。ですから英語教育というのは非常に難しい仕事ではないかと思います。
 例えば、例1です。

例1) The problem was taken to[was brought into]court.
    (そのもめごとは裁判沙汰になった)


 これは、実は、ある英和辞典の courtの項に出ている実際の用例です。この用例の何が問題なのか皆さまお気づきになれるでしょうか。文法問題ではないのです。実はその辞書で、「裁判沙汰」と訳してあるところなのです。日本人なら、どなたでもお分かりになるように、「裁判沙汰」「警察沙汰」「浅野内匠頭の松の廊下における刃傷沙汰」、その他、“沙汰”が付くものは、ほとんど常にマイナス・イメージ、ネガティブなものです。「御無沙汰」という慣用句でさえマイナス・イメージですから。“沙汰”が付くものにろくなものがない。ところが英語では、国によっても違うでしょうけれども、少なくとも、アメリカ人にとっては、The problem was taken to[was brought into]court.は、そういうネガティブなイメージは強くないと思います。もちろん、contextによりますけれども、負のイメージは薄弱だと思います。
 日本では裁判所に行くのは最後なのですね。隣の人と非常に気まずい関係になったとします。最後の最後まで我慢をする。ですから、最悪の場合になって裁判所に行くのが普通ですね。それに対して、異民族から出来ているアメリカのような国では、むしろ、第三者に入ってもらって、解決したほうが良いと考えるのが普通ですね。ですから、日本の契約書には、最後に「誠意条項」というのがあって、もし甲と乙との間に問題が起きたら、誠意をもって解決することとあります。この誠意は英語では“sincerity”となりますけれども、今度は、sincerityの理解が違ってくるわけです。これは又、別のところでお話しできるかも知れませんが、問題は、日本人は話し合うべきところや時に十分話し合わないことが多いという点です。それで、誠意条項というのが最後に付いているのだと思います。ところが、アメリカ人の作った契約書を見ますと、もし駄目な場合は、第三者を立てる第三者とは弁護士とか、裁判所に持って行くということです。これのほうが早く解決できる。今例示いたしましたような英文が向こうの辞書にあったのだろうと思います。あるいは英語を母語とする native speaker が作ってくれた文かも知れません。それに日本人が訳文を添える時に日本人の思い入れをしてしまいます。これが実に多いのです。ですから、The problem was taken to [was brought into] court.というのは、裁判沙汰でなくて、むしろ、あくまでも裁判問題になった、裁判所で今係争中だというような、あるいは係争に入ったというような、普通の感覚で言っている場合が多い。
それから、次もある学習辞典に載っている例です。

例2) The student is obedient to his teacher.
    (あの少年は先生の言うことをよく聞く)

 これも文脈にもよるでしょうが、英語には日本語の場合よりもはるかにネガティブなイメージが付着します。先生の言うことを聞くというのは、もちろん、良いことですけれども、日本語の場合よりはずっとネガティブです。日本語はむしろ大変ポジティブであるという、そういうずれがあります。

例3) Bad news travels fast.(悪事千里を走る)

 日本の英和辞典では、受験参考書 [問題]などもそうですが、「悪事千里を走る」と訳してあります。「悪事千里を走る」と言うと日本では必ず悪いことになりますけれども、英語で言っていることはそうではないだろうと思います。むしろ悪いニュースは、一般的に速く伝わるのだということです。例えば、受験に失敗してしまった。それを友達に言ったら、「ああ、もう知ってるよ。Bad news travels fast.だからね」というふうに気楽に使うのですね。
 実は、英語の諺の日本語訳には非常に間違いが多いのです。受験参考書などにもたくさんあります。それはなぜかと言いますと、英語の文化の中で育った諺に、中国由来の諺を当てはめるからです。これが実に多い。おそらくほかの有名な諺もそうだろうと思います。例えば、次もそうです。

例4) Where there's a will, there's a way.
    (精神一到何事か成らざらん)

 「精神一到何事か成らざらん。」 これを聞くと、なんだか、火の中、水の中、がんばらなければいけない。私なども、これを見ながら一所懸命勉強したのですが。「精神一到何事か成らざらん」とか「思う一念岩をも通す」とかになるわけです。ところが、英語ではそれほど真剣なことは言っていません。Where there's a will, there's a way.というのは、本当に気楽に「その気があったらできるよ、やってごらん、がんばれば」というような、気楽なことを言う時の諺なのです。ですから、たとえば、

  I know that the entrance exam to that university
  sounds difficult but where there's a will, there's
  a way.


というように使います。ですから、「その大学の入試が難しいのは知ってるけど、意志のあるところには道があるから、やってごらん」というつもりで使うのが、この諺なのです。それを日本では、参照した限りの辞書は、「精神一到何事か成らざらん」と訳してすましているわけですね。
  
例5) Strike while the iron is hot.
    (鉄は熱いうちに打て)


 これも、日本では柔軟性のある若いうちに鍛えておきなさいという意味で使っています。しかし、英語ではチャンスを逃すなという意味でしかありません。「柔軟性のある若いうちに鍛えておけ」というのは、きわめて日本的な理解であり、日本人が作り上げた解釈の仕方であって、英語ではそうではありません。英語では本当に一般的に使います。たとえば、

  You should contact that company now that
  they're interested in your project. Strike
  while the iron is hot.


 「あの会社が君のところの製品に興味を持っているんだから、コンタクトを取ってみるべきだよ。好機逸すべからずって言うだろう」と、こういうふうに付け加えるのです。これが普通の英語の使い方だろうと思います。

 簡単に5つだけ、急ぎ、ご紹介いたしましたけれども、要するに日本語と英語の間にずれが生じるわけです。そして、日本で日本語を勉強している外国の方たちも、日本語を勉強する時、自分たちの文化で熟成されたもので日本語を理解する傾向がありますいわゆる「語用論上の転移」(pragmatic transfer)と呼ばれる現象を生じさせます。日本人なら使わない日本語を外国の方たちはよく使います。例えば、「あなたは」は “you”の意味だと習うと、それをどのような時にも使います。たとえば、年少者でも、「山岸先生、あなたは」と言うのですが、これは日本語としては変ですね。日本語では、年少者は年長者に向かって「あなた」とは呼び掛けない。私に喧嘩を仕掛けるつもりなら別ですが、普通は「あなた」というふうには呼び掛けない。職名、立場で呼び掛けるというのが普通ですけれども、「あなた」というのは英語で言うと、常に you であるという感覚で捉えてしまいます。そこが難しいところです。ですから、私はしっかりとした意思の疎通というのは、そんなに簡単には行かないのだということを、いくつかの例で、今お話ししているわけです。

2.
 次にもう1つのジャンル。日本人は日本語で考えるということです。たとえば、

  It's fall, indeed. I have a good appetite.

 ここに英語を母語とする方、つまり native の方が何人かいらっしゃいますけれど、どのようにお取りになるか分かりませんが、一般的に言って、やはり、春夏秋冬と言う季節を持っている人間の発想です。暑い暑い夏がある。そのあとに、こういうとても食べ物がおいしくなる季節がある。そういう時にこういう感覚がよく理解できるわけです。年がら年中夏、年がら年中冬という所に住んでいる人は、こんなことを言うことなどないわけです。日本人というのは秋にしか食欲が湧かないのかなあとなるわけです。ちなみに、「読書の秋」を the best season for readingと言ったら、日本人というのは秋にしか本を読まないのかなあと思われるかも知れませんね。そういう感覚というのは、季節との関わりの中で育つのですね。ですから、私たちはそういう英語を話してしまうということなのです。
 「あんな小さな地震であわてふためくんじゃなかった。」  これを、先程申しましたように、辞書を作る過程で一流の先生たちに英訳していただくのです。すると、次のような例文が出てしまうのです。

  I shouldn't have panicked for such a small
  earthquake.

 これは、nativeで語感の鋭い方なら、この英語がやや不自然であるということがお分かりになるだろうと思います。この英文のどこが不自然かと言いますと、実は文法問題ではなく、“earthquake”という名詞の問題なのですね。日本人は生まれた時から地震を知っています。又グラグラ揺れている、又地震だくらいです。ところが地震のない国や、日本ほど頻発しない国から来た人にとってみたらですね、一般的に言って、“earthquake”と聞けば“大きな揺れ”を連想することが多いようで、“微震”とは結び付きにくい。つまり、“earthquake” と聞けば、大きいのが普通らしく、弱い地震、小さな地震の場合は、別の語、例えばtremor という語がありますが、こちらの語を用いるようです。われわれは地震と言うと、大も中も小も、みんな地震ということで“earthquake”とやってしまうのですけれども、英語としては、辞書の中に入れる用例としては tremor のほうが良い場合も多いのです。それは私たちが、英語を子供たちに教える時に、気をつけなければならないことで、地震はearthquake だけだと思わないほうが良いわけです。
 それは実は、次の例にもよく言えることです。これは英語を母語とする方たちだったら絶対に間違えることのない、日本人の英語ですね。日本の子供たちはこう書きます。実はこれは英語の先生が書かれた例ですけど。

  少年は川を飛び越えようとした。 The boy tried to jump over the river.

 “river”というのは、普通の人間が跳べるようなものではないのです。イソップか何かの物語には、そういうものがあるかも知れませんが、普通の人間が跳べるものではないわけです。ところが日本人は「川」という字が日常語である上、大・中・小、みんな「川」ですから “river” とやってしまうのですが、これを英語にするなら、“stream” か“ brook”ぐらいにしないと英語になりません。
 それは、川 と riverを結び付けてしまう、俗に言う「受験」のための単語帳の悪い影響の一つと考えられるもので、私もその影響を受けて来ました。

  それはお気の毒ですね。 I feel sorry for you.

 これは、どこがおかしいのでしょう。実は、相手をとても見下している響きがあるわけです。“looking down”しているように響く。何か強者が弱者に対して使っているような英語でしょう。ですから、むしろ例えば、「(お父さんが亡くなったんですってね)ご愁傷さま」 と言う時には、 I feel sorry for you.ではなく、I'm sorry to hear that.ですね。I'm sorry to hear that. のほうが、英語として自然です。あるいは、I'm sorry about that. と言うほうが、英語として普通です。I feel sorry for you. と言うのは、どういう時に使えば良いのかと言いますと、

  "Why did you give him the money?"
  "Well, I feel sorry for him." 
  「どうしてあの男に金をやったの?」
  「うん、気の毒に思うからね。」 

 
 これなら英語として、おかしくないと思います。最近で言いますと、これは語用論 (pragmatics) の問題なのですね。I feel sorry for him.は、普通は、直接面と向かって相手に言う言葉ではないのです。native の方でも、鈍感な方は使うかも知れませんが、言葉に敏感な方は、相手に面と向かって使うのをためらうと思います。ここらあたりの感覚は、私たち普通の日本人には、よほど意識しなければ、身に付けられない類のものだと思います。私もあまり大きなことは言えないわけですが、こういうものが次々と出て来るわけです。
 もちろん、日本語でもたくさんあります。たとえば、「山岸先生、どうもご苦労さまでした」と言われる時があります。日本語では、「ご苦労さま」という言葉は目上が目下に使う言葉であって、目下が目上に使う言葉ではないですね。店屋物を届けに来てくれた人、宅配便を届けに来てくれた人に、「どうもご苦労さま」と言うのは良いですけれども、社長の退社の際に、平社員が「社長どうもご苦労さま」と言うのは無礼とみなされます。こういう感覚は、少なくとも、50代以上の人なら、お分かりになると思います。若い人に本などを貸してあげて、「先生、どうも参考になりました」と言われると、私はがっかりしてしまいますね。「参考」という言葉は、恩師にご本を貸して差し上げて、恩師の方から、「山岸君、この本、参考になったよ」と言われるのなら良いのです。目上の人から使われるのは良いのですが、その逆は非常に不遜に響く。これは時代と共に変わりますし、一概には言えないことですが、まだまだ生きている用法であることは間違いないだろうと思います。ですから、「君、誰に向かって口をきいてるの」と言われた私の後輩がおりますけれども、むべなるかなと思います。
  
  それはちょっと難しいですね。 I think it's a little (bit) difficult.

 日本人はよく言いますね(私もその一人でしたが)。ところが、日本人の言う"難しい"は"不可能だ"という意味ですね。ほとんど常に。日本人が "difficult"と言うと、それはもう"impossible"の意味で使っているわけです。ところが、外国の方たちは、そうはとらない。 英語を母語とする人は、I think it's a little difficult. の次に、実はもうちょっと付け加えて理解している。例えば、 It's a little difficult but I'll try. (ちょっと難しいけど、やってみましょう)、「難しい」ことは「やれない」ことと同義ではないのですね。「ちょっと難しいと言う程度なら、やってみてください」と食い下がられる可能性があります。
 日本なら、そこで終わってしまう。I think it's a little difficult.で分かってしまう。分かり合ってしまう。けれども、英語では but I'll try というように、言葉が続き得るわけです。日本語では「難しい」と言うのは「(限りなく)不可能」に近い。このように、英語を日本語に訳す場合に、日本語的に訳してしまうジャンルと、逆に日本語を英語にする時に、日本人が、日本的なものの考え方を入れてしまって訳すというジャンルと、大きく分けて、この二つの種類があるわけです。
 辞書作りには、多くの人の協力を求めますが、私を含めて、大きな間違いをたくさん犯します。したがって、これからは英語を母語とする人たちの力を大いに借りなければなりません。こちらでも、日本語の自由な方にお会いして、ぜひ辞書作りを手伝っていただきたいとお願いしまして、その時が来たら引き受けますと、快くご返事いただいております。お力をお貸しいただきたいと思います。これからは、そういう難しさを理解し合った人たちが力を出し合って、いい教材作りをしていかなければならないと思います。ですから、コミュニケーションというのは、人間を通して理解するのが一番良いし、又それが自然だと思います。たとえば、クリントンという大統領を通してアメリカ人のアメリカ人らしさを知ろうとする。しかし、私たちの周りには、マクドナルドその他、アメリカからの商品・製品がそれこそ山のようにあります。そういうものを見て、「これがアメリカだ」と実感することは、もうあまりありません。特に、若者たちはそうだろうと思います。それだけに、コミュニケーション能力というのは、人間がお互いに分かり合うとか、協力し合うというふうに思った時でないと醸成できないような、育成できないようなものだと思います。

3.
 次に、日本文化は英語的なコミュニケーションに向いているかどうかということです。大変大事なことです。non-Japaneseの人たちが、よく非難の声を上げることがあります。日本人は自分の意見を言わない、自己主張をしない、創造性に欠ける、というふうにです。しかし、実はこれに英語の先生が関わりを持ちます。ALTの先生たちには、日本に来て、日本の文化に溶け込める人と溶け込めない人と、大きく分けて二種類の人たちがおります。溶け込めない人たちは、非常に悪口を言います。そして、それに手を貸すというか、口を貸すというか、そういうことに「そうだ、そうだ」という日本人が、換言すれば、非常に不寛容な人たちが、一部に混じっているということを私は経験的に知っています。
 それが、実は多くの場合、誤解に基づいていたり、そのことに対する理解努力不足に起因していたりするのです。そこで、英語の先生である皆様方に、ぜひお話しさせていただきたいことは、次のことです。まず、言葉に重きを置かない日本文化は悪いと、断定してはいけないと私は思います。自分の意見を言わないとか、自己主張をしないとか、創造性がないとか、というのは、それは仕方がない。これからはむしろ、それのどこが悪いのか、どこが良いのかということを大事にしていかなければならないと思います。
 『論語』、日本が儒教の影響を受けて来たことは皆様よくご存じのここと思いますが、その『論語』の中に、こんな言葉があります。「言を察して色を観る。」 色というのは顔色のことです。相手の言葉の意味を洞察して、顔色を読むのが達人と教えているわけです。したがって、顔色を読まれないために日本人は何をやるでしょう。たとえば、国会のあの静止画像です。あれは日本人の一面を極めてよく表していると思います。静止画像は、あれが動いていると困るので、ちゃんと止めてしまう。『論語』は、顔色を読むのが達人だ、たくさんの言葉を吐くのではなくて、少しの言葉の中から相手を察する、洞察する力が必要だ、と教えています。日本の文化は、それを大事にして来ました。
 『論語』には、「巧言令色、鮮なし仁」という言葉もあります。これも、たくさんの言葉を吐く人間に対する戒めであります。「述べて作らず」ともおっしゃっています。むやみに自説を立てるなという意味です。自分のための theory を立てるなということです。「述べて作らず。」 ここに私たち日本人は、儒教影響を受けて、何百年という歴史の中で、自己主張をしないとか、創造性に欠けるという"非難"のもとを培って来ました。日本では、創造性というものは、大事にされなかった。なぜかと申しますと、「学ぶ」という字が"まねぶ" に由来することからも分かりますように、学習というのは、真似て、習い性にするという意味です。何を真似るかと言いますと、当然これは聖人です。たとえば、孔子なら孔子を真似るわけです。それがわれわれの勉強であったわけです。そしてそのことをはっきりと孔子はおっしゃっています。「信じて古を好む」と。先賢に学べ、先の聖人たち、先に生まれて良い業績を残された先賢に学べ、と孔子ははっきりとおしゃっているわけです。ですから、習い性になるまでやれということです。
 ご存じの方もいらっしゃるでしょうけど、儒教を強く批判した雑家書で、要するに諸家の説を統合した本ですが、『論衡』という本があります。これを読んで行きますと、「色を観て、もって心を窺う」とあります。儒教を批判したこの本でさえ、「色を観て、もって心を窺う」という言葉を書いています。人の顔色を観て人の心の中を読め、ということですね。こういうことを申し上げると、多くの英語の先生は、ずいぶん古いことを言うとお思いになるだろうと思いますが、私はそうではないと思います。日常、ALTの先生方と接していますと、なぜ日本の子供たちは私の目を見ないのか、eye contactをとらないのか、とおっしゃる。日本人は不誠実だとおっしゃる。実は、外国の人たちのその言葉は現代的観点から見ればもっともだと思えるのですが、正鵠(せいこく)を射ていない部分のほうが多いのです。日本人が eye contact を得意としないのは、日本の社会、とりわけ時代、時代の権力者たちが日本人[国民]にそれを要求し、それを奨励したからです。
 ちょっと横道にそれるかも知れませんが、ある県では、学童たちが昼食時に「いただきます」と言って手を合わせるのを止めさせたそうです。そのことをある新聞記事で読みました(「日本語エッセイ」における「T.偏向ということに関連して」の「合掌廃止に思うこと」をご覧下さい)。ご覧になった方もいらっしゃるかも知れませんが、教育委員会のお達しによって、「いただきます」と言うのを止めさせたのです。なぜかと言いますと、仏教だから、公教育に宗教を採り入れるのは良くないと言うのです。それでは、そういう方にお聞きしたいのですが、手を合わせることをいけないとおっしゃる方は、お葬式に行ったら、何をなさるのか。日本人でしたら、お葬式に行きますとたいていの方が遺影に向かって手を合わせるでしょう。遺影に向かって手を合わせるというのは、これは儒教の影響です。仏教ではありません。仏教では、遺影に向かって手を合わせるのではなくて、普通、「名号(みょうごう)」と言いまして、例えば浄土真宗でしたら、「南無阿弥陀仏」に向かって手を合わせます。日蓮宗でしたら、「南無妙法蓮華経」です。あの名号に向かって手を合わせるわけです。写真に向かって手を合わせるということは、普通はしないわけです。写真に手を合わせるというのは、その人に対して敬意を払う儒教の考え方だと思います。それから、お葬式から帰宅した際に、お塩をパッパッと振り掛けてもらいますね。これも仏教ではありません。神道起源です。死を穢(けが)れと解釈するからです。それから、私たちは墓参をいたします。これも仏教ではなく儒教です。と言うのは、仏教では、人が死ねば、ガンジス河の場合のように、人間の遺灰はみな流して構わない。不謹慎な言い方かも知れませんが、仏教に従いますと、人間は死ねば "ごみ" になる。遺灰を大事にするのはお釈迦様のそれだけです。あとは特に大事にする必要を認めないわけです。ですから、死んでしまえば、お墓は不要というのが、原則的、伝統的な仏教です。
 それから、私たちは位牌を作ります。位牌をなぜ作るのか。これを仏教だと思っていらっしゃる方が非常に多いのですけれど、あれは仏教ではなく、儒教です。あれがなければ、死んだ人たちは、「よりしろ」と言いまして、そこを通って懐かしい我が家へ帰って来ることができません。ですから、私たちは位牌を作って、それを大事にするわけです。それから、墓石に水を掛けます。これは仏教です。仏教では、死んで餓鬼道に落ちて、水のない世界に落ちる可能性があるからです。もしかしたら、自分の死んだおじいちゃんが、餓鬼道に落ちて、水を求めているかも知れないと思いながら、水を掛け、酒が好きだった人には酒を掛けるわけです。
 今、申し上げた中で、仏教由来のものは僅か1つです。このことを私たち日本人は知らないでやっているわけです。ですから、私たちの「いただきます」という慣用表現を、宗教的だということで、簡単に止めさせて良いのか、すでに文化に根付いた1つの礼儀、エチケットとして昇華させ、止揚(アウフヘーベン)させて行くべきではないのか、という見解も当然出て来るわけです。私たちの生活の中には、そういうふうに、長い文化の流れの中に溶け込んでしまっていて、起源や由来の分からなくなった言語・文化事象が無数にあります。それを読み解くのは大変ですけれど、ある程度はですね、そういうことをしようという意識を持っておかないといけないのではないでしょうか。英語の教師に求められるものは多いと思います。音楽の先生、体操の先生などと違って、英語の先生には、そういう一面が求められていると思います。同時に、私が皆さま方に声を大にして申し上げたいことは、日本文化に対する誇りということです。これに対する深い理解と愛情を英語の教師は要求されていると思います。
 ナショナリズムでなくて、日本の文化に対する誇りとか、理解とか、愛情とかを持っていなければ、私たち教師は子供たちを誤った方向に導いてしまうと思います。実は私などは、その犠牲者です。それが私をして辞書を作らせたと言っても過言ではありません。。私が受けた英語教育というのは、勉強すればするほどコンプレックスが生じて来る。なぜなのだ、英語学習と言うものは楽しくあるべきものではなかろうか、英語を勉強して行くとなぜ、英語を母語とする人たちに私がコンプレックスを持つようになるのだろうか、そのようなところから考えて行きますと、戦後の英語教育というのは、教育をする立場の人たちに何か間違ったところがあるのではないか、そのような気がしてなりません。
 話を戻します。もう少し紹介させていただきたいと思います。道元禅師がこういうことを言っておられます。これは『正法眼蔵随聞記』の中に残されている言葉です。
  
   理を攻めて言い勝は悪しきなり。


 これは私たちが非常に大事にして来たものなのですけれども、理というのは「理屈」ですね。「理論」でもあります。すなわち、人を 「理屈攻め」にしてはいけない。これはもう、それこそアメリカ人の好む "debate"とは正反対のことですね。理屈で相手を倒してはいけない。すなわち、相手にこれ以上言っては駄目なのだということを、自分が引くところはちゃんと引いてやって、相手にメンツを失わせないようにしなければいかない。こういうことをきちんと、「理を攻めて、言い勝は悪しきなり」という言葉は教えているのだと思います。

4.
 こういう文化の中で日本の子供たちは育って行くわけですから、あるいは、私たちが育って来たわけですから、短い何年かの、それも不十分な英語の勉強で、英語を母(国)語とする人たちと同じような感覚になれるはずがないわけです。その意味で、ALTの方たちにも、そこら辺りの勉強をしていただきたいと思います。
 仏教の教えの中に、今は全然違う意味にとられていますが、「言語道断」という言葉があります。仏教の教えの中の非常に大事な言葉です。今は「もってのほか」とか「とんどもないことだ」という意味に使われますが、元の意味はどんな意味かと申しますと、「教えの真理は言葉では表し切れない」というものです。「教えの真理、人間の一番大事なところは、言葉では言い表せない」と仏教でははっきり言っているわけです。それが「言語道断」という言葉です。「自分で体得しなさい、体で覚えなさい」と言います。「口で説明できるものではない」と断言します。禅の境地です。松尾芭蕉が座右の銘にした有名な言葉があります。「もの言えば唇寒し秋の風。」 これは「他人の短を言うなかれ、己の長を説くなかれ」という意味でしょうけれども、普通われわれは、「ものはあまり言わないほうが良い」というように解釈していると思います。他に、「沈黙は金」「問答無用」というような言葉があります。「問答無用」と言われて殺された政治家もかつてはいたようです。
 要するに、日本ではこういうことになると思います。「自己主張は精神的未熟者のすることである」。こういう文化をずっと受け継いで来ました。もちろん、これからもこれで良いと言っているわけではありません。私の父なども、明治の人間でしたけれども、そういう教育を受けて生きた人間でした。「男は黙って、サッポロビール」という宣伝がありましたけれども、ビールは黙って飲まれるよりも、「うーん、これはおいしいなあ」とか、Delicious!とか、 Tastes good! とかと言ってもらうほうが作ったほうも、飲ませるほうも、作り甲斐、飲ませ甲斐があるのではないでしょうか。
  この前亡くなられた、"寅さん"で有名な笠智衆さんは、男は1年に1回ぐらい口を開けばいいんだという教育を受けたという趣旨のことを言っておられましたけれど、現代的観点からしますと、滅茶苦茶ですね。1年に1回と言うと、何と言うのでしょうね。年頭に「おめでとうございます」と言うだけでしょうか。
 そういう中で育って来たものだから、日本の男性諸氏はあまり言葉を吐くのが、特に論理的筋道を立てて話をするのが得意ではない。こういう文化の中で育って来た人たちが英語をやっているわけです。私を含めてですけれど。なかなか難しいところがあります。
 それに輪を掛けるように、日本の制度にはコミュニケーションに不向きなところがあります。たとえば、「お見合い制度」がそうです("制度"と言うよりも"慣習"でしょうが)。お見合いは素晴らしいことです。というのは、それぞれの紹介者たちが責任を持ちますから、何かあった時には、それぞれが助けてくれるということがあります。しかし、見合いのマイナス面というのは、男性[女性]が心を込めて"言葉で"一人の女性[男性]に対して、自分はあなたと人生を共に歩みたい、生涯の伴侶としたいというような"情熱"を示したり、"愛"を語ったりしないということだと思います。卑俗な言い方になりますが、"オスとメス"とを1つがいにしてくれる、これが見合いのマイナス面だろうと思います。心を込めて、一人の女性[男性]に接近して行って、自分の思いの丈を伝えて、人生を共に歩んで行くための了解を取り付けるというようなことが、なかなか日本の男性[女性]にはできない。この慣習がそういう性向の延命を図って来たことは否めないように思います。
 それから、年長者に向かって、"言語的挑戦"はしないというのが、日本文化の1つの面でした。これは、先ほど申しましたように、『正法眼蔵随聞記』の中に「理を攻めて言い勝は悪しきなり」とありますが、日本では"debate" は根付きにくいだろうと思います。私のアメリカ人の同僚には、「日本人社会では debateは一般化しない」と断言している者がおります。

5.
 また、日本では人を直接的に差すことをしません。たとえば、皆さまはこんな会話をなさるのではないでしょうか。

  「あちら、どちら?」

 日本人ならこれで分かりますね。「あちらに座っていらっしゃる方はどなた?」という意味ですね。外国の方はお分かりになるでしょうか(因みに、「座っていらっしゃる方」と言う時の "方"も、「外国の方」と言う時の"方"も、本来は共に 「方角、方向」の意味であったもののはずです)。「こちら、どちら?」「その方、どちら?」「この方、どちら?」「あの方、どなた?」「どちらが、その方?」など、全て"方向""方角"を示していることにお気づきでしょうか。もう一度も申しますけれど、 「あちら、どちら?」 これは方向、方角以外の何ものでもないのですけれど、日本人にはよく分かるのですね。立派な日本語であり、美しい日本語だと思います。着物を着た女性、男性が「そちらはどちら様?」、「そちらの方は?」なんて言いますと、いいなあと思います。これを英語でやったらどうなるでしょう。「そちら、どちら?」 同一表現はないですね。方向・方角を表す慣用句はないと思います。こんなことができる言語はそう多くはないのではないでしょうか。まるで暗号のようですけれど。
 日本人は、まともに人を言葉で指し示すということをしない国民だと言えるでしょう。こういう言葉が発達して来たということは、私たちは露骨さを嫌う、直接的な物事を嫌う、オブラートにくるむことを好むということにもなります。お金を差し出す時でも、お祝いを包む時でも、私たちは包装に本当に苦労するわけです。
  生け花の場合がそうです。俳句の場合がそうです。短歌の場合がそうです。これらはみな"省略の美"です。こちら側はできるだけ言わないようにして、相手にこちらの意図を理解してもらうようにする。かつて、生け花は "flower arrangement"と訳してありましたが、西洋のflower arrangementが、パーティー会場のテーブルなどに置いて、さまざまな方向から見られることを意識して"arrange" されたものであるのに対して、日本の伝統的な生け花は、主に床の間において、前から見るものです("二方面生花"という生け方もあるようですが)。一輪一輪の花の周辺の空間にさえ意味を込めて生けるものだと思います。最近ではだんだん変わりつつあるようですけれども、それで伝統的な生け花は、やはり正面を中心に考えているものだと思います。生け花は生け花であって、"flower arrangement" はあくまでも便宜的訳語に過ぎません。因みに、日本語の"生け花"をどうしても英訳すると言うのであれば、"flower arrangement"よりも、"flower arranging"のほうが適切だと思います。"flower arrangement" は "出来上がった作品" を指すことが多いからです。生け花は "ikebana" とローマ字化するのが良いと思います。「おにぎり」も、「カラオケ」も、「刺身」も、それぞれローマ字化して、その実態を伝えるための英訳を与えるのが好ましいやり方だと思います。知日家であれば、"rice ball" で 「おにぎり」 を連想するかも知れませんが、「おにぎり」 は "ball" ばかりではありません。下手な人が結べば ball になるでしょうが、あれは三角形が多いでしょう(山口県の私の田舎では、不祝儀時に、おにぎりを人間の魂を模して丸く握って食べます)。因みに、おにぎりを三角形に握ることに関しては、1つの興味深い説があります。それによりますと、おにぎりを山に模すことにより、その霊気を体内に摂り込むことができると言うのです。昔の日本人は、山が全てを運んで来ると考えたようです。雲も水も雨も、みな山から出ると考えたのです。日本の山には霊気が漂っています。斎藤茂吉がそのことを詠っています。

   ちはやぶる 
      神 いたまいて 
          御湯(みゆ)の湧く 
              湯殿の山を 語ることなし


 私たちは、そういう言葉からも分かるように、山に霊気が宿ると考えました。富士山はその典型的な例でしょうけれども。山をおにぎりの形にして、体に摂り込むことによって、山の霊気を摂り入れると考えた。こういう考えは弥生時代からあったようです。今でもおにぎりの化石が残っているそうですが、それが三角形とのことです。それから、俵型もありますね。したがって、"rice ball" だけではないわけです。
 “rice”にはインディカ米とジャポニカ米とあります。日本のお米はジャポニカ米ですから、あんなに粘りがあって、握れるわけですが、日本のお米を知らない人にとっては、むしろインディカ米と言って、パサパサの外米と言われるものを連想するほうが普通でしょう。あれを "ball" にするのですから、「日本人って、どうやって食べるのだろう、スコッチ・エッグのように揚げて食べるのかな」と思うかも知れません。やはり、"rice ball"よりも、「おにぎり」(onigiri)と言うほうが良いですね。
 "raw fish"という英語は日本の「刺身」のことだと分かっている外国人は良いのですけれど、日本の食文化に関する知識のない外国人の中には、その英語を聞いて、「日本人は生の魚を猫のように食べるのかな」と思う人がいるかも知れません。[刺身」は「刺身」(sashimi)が良いですね。
 上記の例は、日本の事物を無理に英訳して理解してもらおうとすると、また無理が生じるという証拠になるものでしょう。英語は日本語に、日本語は英語に完全に訳せると考えない方が良いのでして、むしろ、解説的定義と言いますか、説明的にものごとを言う方が良いと思います。つまり、そこでコミュニケーションをしようとする私たちの意志が大事になってくるわけです。伝えたい、伝えようという思いが必要になってくると思います。

6.
 それから、日本人は “eye contact” に重きを置かない、日本人は相手の目を見ないとよく言われます。これは概ね事実です。しかし、必ずしも見ないというわけではないのです。例えば、寅さんが『寅次郎春の夢』の中で、いみじくもこう言っています。

  何も言わない。目で言うね。「お前のことを愛しているよ。」 そうすると、
  むこうも目で答える。「悪いけど、あんた好きじゃないの。」 そこで、こ
  っちも目で答える。「わかりました。それじゃ、いつまでも、お仕合せ
  に。」 そして、背中を向けて、黙って去る。それが日本の男のやり方

  よ。

 寅さん、こういう格好いいことばかりを言うのですけれど、このように、目を見ないわけではないのですね。見る時もあるのです。ただ、日本には「目上」、「目下」という言葉がありますね。この言葉が日本人の目の使い方の要点をよく表しています。「目上」、「目下」という言葉はあるのですが、「目中」という言葉はありません。あくまでも、「目上」と「目下」なのです。私はよく例に出すのですけれど、テレビ番組の『暴れん坊将軍』(松平健主演)などを見ているとよく分かります。大名でも、本当に、将軍の顔をまともに見ることができるという立場の人は、ごく一部の人に限られていたと思います。
 「もそっと、近う寄れ。」「ははっ。」 普通の大名でしたら、「ははっ。」と言う時、絶対に将軍の目を見ていないでしょうから、にじり寄って進むだけのはずです。「苦しゅうない、おもてを上げい。」  "見苦しい存在"であろう自分の存在に対して、将軍から「苦しゅうない」と言ってもらって、ようやく上目づかいに将軍の方をチラッと見ることになるのです。これが「目上」です。普通は、にじり寄っても、恐れ入りながら目を伏せたままにしているはずです。
 現在でも、作法を教える本の多くは、会社の面接などに向かう人に対して、面接担当者のネクタイの結び目辺りを見なさいと教えているのではないでしょうか。しっかりと面接担当者の目を見なさいと教えているものは、どの程度あるのでしょうか。日本人は、他人からじっと見つめられることを好まないと思いますから、面接であっても、英語圏人のような鋭い eye contactは採らないでしょう。日本人の視線のはずし方には独特のものがありますが、これは英語圏の人々には真似の出来ないものだと思います。目を見る文化というのは、それぞれの国によりますね。
 要するに、私はこういうことを申し上げたいのです。ともすると、英語の先生の中には、一部の方ですけれども、「相手の目を見ないのは良くない。人間として良くない」ということをおっしゃる方がいらっしゃる。お気持ちはよく分かるのですけれど、日本の子供たちは、日本の文化の中で育っているわけですから、英語の教室では英語的にものごとをやるべきだとは思いますが、一歩外に出たら、あるいは教室の中でも、日本の子供は日本的に行動するのは、仕方のないことだということをご理解いただきたいのです。その点、ネイティブのALTの先生方にも、協力していただきたいと思います。ただ、英語の世界ではこうですよ、ということを地道に、根気強く説く以外にないだろうと思います。どうも、そのところを履き違えている不寛容な方たちがいらっしゃる。何らかのルサンチマンがおありなのか、ALTといっしょになりながら、日本文化と日本人を攻撃するという方がときに見受けられます。残念なことです。
 日本の子供は相手の目を見ない。自分の意見を言わない。それは当たり前だと思います。私たち大人がそうなのですから。そういう中で育って来たわけですから。ですから、国際化と言われても、何が国際化か分からない。

7.
 実は、こちらに参る途中、東京駅から一関(いちのせき)まで、ある女性と席を隣り合わせました。茶道の講習か何かで、京都に行って来られた方でした。お互い、最初は黙っていたのでしたが、私がお手洗いに立ち、戻って来ましたら、それをきっかけに、「どちらまで」と話し掛けられました。ところが、この女の方がお話を始めると、それこそとどまるところがなくて、これからコミュニケーション能力の育成の話をしに行くのですけれど、岩手の方にはその必要がないくらいだと思った次第です。切っ掛けを掴まれたら、あとはお上手なのですね。最後には、「どんなご職業ですか?」と聞かれましたから、事実を伝えますと、「孫を大学に行かしたんですけど、今後どんなふうにしたらいいんでしょう」などと、話が弾むのです。切っ掛けがなかったら、私がお手洗いに立たなかったら、この方も私も、おそらく一関まで黙っていたかも知れません。ですから、日本人は、一見、取り付きにくいけれども、何かがあったら、とても取り付きやすい。あるいは、必要以上に親切にしてくれるということがあるだろうと思います。イギリス人がちょっと似ているように思います。アメリカ人にも、もちろん、そういう人はいますが、どちらかというと、イギリス人が日本人に似ているところがありますね。
 偶然でしょうけど、この学校がキリスト教の学校だということで、キリスト教の一面をお話しようとしている私としては大変緊張しております。私は、クリスチャンではありませんが、ただやはり、英語文化を勉強して来た人間として思うのは、例えば、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき」という聖書の言葉の素晴らしさを思わざるを得ません。ご存じだろうと思いますが、これは、まさに、言葉は神そのものだということなのですね。この場合の言葉はまた、真理と換言できます。神の言葉が真理なのですね。私はそう理解しています。それに関連して、大事なことがあります。それは日本では真理という言葉は、十分には理解されていないということです。
 例えば、文部省の「道徳教育推進指導資料」という手引書で、「小学校、中学校の真理や学ぶ事を愛する心を育てる」という、平成7年3月に出されたものを見てみましたら、こんなことが書いてありました。  

真理とは、最も一般には『ほんとうのこと』を意味している。したがって、真理を愛することは「ほんとうのこと」を愛することである。しかし、あることが「ほんとうのこと」であるかどうかは人間によって判断されることから、単なる思い込みに過ぎない可能性がどこまでも残る。したがって、それはいつまでも吟味の対象となるものである。その意味では、真理追究の努力は徒労にも見える。しかし、一方それにもかかわらず、我々は「ほんとうのこと」を知りたいという欲求がある。したがって、「真理や学ぶ事を愛する心」とは、何が 真理であるかをどこまでも追究しようとする内面の欲求であると言える。

 これが何を言っているかお分かりでしょうか。実は真理の大事な点を語っていない。真理というのは何かを知りたい欲求だ、ところが、人によってみな違う、と言っている。私たち日本人の不幸はここに一つあるのです。真理を教えると言いながら、真理が何かを本当には教えていない。人によって、みな違うと言って逃げているわけです。上の定義からは、どうもそのように思えて仕方ありません。 
 ところが、"真理"をキリスト教的に考えると、非常に分かり易くなります。ここにクリスチャンである方がいらっしゃると思いますが、そういう方の前で、こんなことをお話しするのは気が引けるのですが、私が勉強したところによりますと、"真理"というのは、日本では大体、知的概念のほうを重んじています。したがって、この知の、財産としての知は、人によって違うということになってしまいます。どうもよく分かりません。ところが、キリスト教的解釈によりますと、"真理"とは「事実であること」と、「永続的で揺るぎないこと」というように定義されるだろうと思います。後者が何を指すかと言いますと、それは"神の言葉"だろうと思います。神の言葉、これが真実だということは、ご存じの方も多いだろうと思いますが、「ヨハネによる福音書」第14章第6節によって知ることができます。

   私は道であり、真理であり、命である。だれでも
   わたしによらないで、父のみもとにいくことがで
   きない。


 これに対する英語訳は

   I am the way, and the truth, and the life. No one
   comes to the Father except me. I am the way,
   the truth.

 普通、"真理"とか"真実"とか訳されていますが、要するに、神の言葉が真実であるということです。ここに永続的、揺ぎないものという定義がなされています。知的財産としての、知的活動としての真理の探究の仕方と、もう一つ、揺るぎないものとしての真実があるわけです。ちなみに、英語圏では「ヨハネによる福音書」のこの部分を Christian Mother Gooseの1つ(題名The Bread Song)として、子供達に歌って聞かせたり、子供達自身が歌ったりします。次がそれです。

   I am the bread of life.
   I am the bread of life.
   I am the bread of life.
   Come unto me, Jesus said

   Jesus is the way.
   Jesus is the truth.
   Jesus is the life.
   And He is calling out to you.

 日本では、以上のような認識がないものですから、社会生活上、いろいろな問題が起こります。よく“常識の欠如”ということが言われますが、私に言わせますと、常識とは、老若男女がそれを守れば心地良く生活できる言動なのだと、定義できます。男も女も、年寄りも若い人も、あるマナーを守れば気持ちがいい、そういうものが常識だろうと思います。
 知的概念としての考え方と、もう1つ揺るぎないものとがあると思います。子供たちが、そういうものをどんどん失っているように思います。赤ん坊を洗って、汚れた水といっしょに大切なその赤ん坊まで流してしまったというような感じがします。日本全体に感じられることは、戦後大事な何かが、我が国から流れ出ているのではないかということです。大事なものとは何かと言えば、私はそれは"文化"だと思います。少なくとも、文化がその一面であろうと思います。
   
8.
 その次に申し上げたいのは、今の若者たちは、そういう中で育って来ているということです。ご存じのように、タマゴッチの問題があります。コンピュータ・ペット、タマゴッチのどこが悪いかと言いますと、確かに面白いのですけれど、あえて申しますと、要するに "yes" か "no" かしかない世界に入って行きます。今の子供たちは、いやならばやめてしまう。いやならば "off" にしてしまう。"off-on"人間、"指示待ち人間" と言った傾向を持ちます。そういう中で、コミュニケーション能力を発達させようとすれば、大人や教師は彼らの心に食い入る、何かメッセージになる言葉を持たなくてはならないと思います。
 私のゼミの学生に、「コンパやろうよ」と声を掛けると、やります。しかし、今から2、30年前の学生でしたら、こちらが黙っていても、「先生、コンパをやりますか」と言うことがありましたが、今は黙っていたら、本当にやりません。ほとんど何も動かないのです。ところが、言えばやります。まさに"指示待ち人間"と言ったところです。
 会話もとても下手です。ある男子学生に、廊下で私がこういう声を掛けました。「どう元気?」 その学生は答えました。「はい」、これだけです。私ぐらいの年齢の者でしたら、恩師から、「どう山岸君、元気?」と声を掛けられれば、「はい、おかげさまで。先生は?」とか「ありがとうございます。元気にしております。先生もお健やかで」とか、何かそこで言葉を足すのです。彼に言わせれば、「元気?」と聞かれたから、元気だから、「はい」と答えたのだとなるのかも知れませんね。
 又ある時、ある出版社の若い社員に電話を掛けました。「今度、一杯やりましょうよ」と言いますと、「はい」、そのあとは沈黙なのです。面白くも何ともないですね。会話が弾まないのです。
 もう1つあります。ある大学院生に「どう、最近、大学院は?」と言いましたら、「と申しますと?」と答えるのです。びっくりしました。かつての日本人でしたら(彼も日本人ですけれども)、少なくとも、私ぐらいの年齢の者でしたら、「お陰さまで」とか「はい、何とかやっています」とか答えると思います。ここら辺りの呼吸が、外国人にはとても難しい。日本の若者たちは、日本的コミュニケーション方法の日常化に困難を感じているようです。
 実は、若い先生方もそうなのです。よくいろいろな研究会に行きますが、「どう元気?」と言いますと、「はい」、だけです。ですから、最近はあまりそういう聞き方をしなくなりました。「はい」しかないものですから。
 今の若者たちは、コミュニケーションとは反対の方向へ動きつつあります。それを作って来たのは、私たちの年代、あるいはそれ以上の年代の大人たちだと思います。
 その子供たち、若者たちに、やはり言葉を交わす事の大切さ、楽しさを教える上で、教育は本当に大事なことだと思います。もちろん、これは、言うまでもなく、家庭が大事ですけれども、先生方には、教室で言葉を大事にしていただきたい。生徒には、「先生、先生」と言わせておきながら、生徒に対しては、「おい」「お前」「おめえ」という先生が少なくないのです。自分には「先生」と言わせておいて、子供たちにはかなり乱暴な言葉を使う。私も、今日、いつもより、おしゃれをして来ましたけれども、私たちに大事なこと、特に教師、言葉を扱う人間にとって大事なことは、説教じみるかも知れませんが、"言葉のおしゃれ" をすることです。私が普段やっていることは、朝、出掛けに、必ず、「今日は言葉のお化粧は済んだかな?」と自問することです。「今日一日、私の言葉で学生たちを不愉快な気持ちにはすまい」という、言葉のおしゃれを30秒ぐらいして出掛けます。言葉は放って置きますと、本当に乱れます。まさに、今言いましたように、対話にならない状態になってしまいます。ですから、一瞬でも良いですから、これをやってみて下さい。言葉は、年齢が高くなればなるほど、磨きをかけ易くなりますから、お勧めしたいと思います。自分が先生であれば、子供たちには、まず"見本" "手本"を示す、それが一番大事ではないでしょうか。そういう中から、先生に声を掛けて来る子供が増えて来るのですから。「あの先生、何を言っても怒られるから。」とか「あの先生は"おめえ" "てめえ"って言うから」というようになりますと、コミュニケーション能力は、まず成長しないだろうと思います。今の社会ですから、彼らは言葉をいっさい吐かなくても、生活できます。コンビニへ行こうと、どこに行こうと。

9.
 次にお話ししたいことは、コミュニケーション能力を育成するための基本的条件、教師に求められる資質についてです。
 日本人英語教師に求められることは、まず日本語を大事にするということです。私は辞書を作った経験から、次のような確信に似たものを持っています。それは、「日本人は、何十年も外国で生活した人たち、あるいはネイティブ同様の英語力を有する帰国子女を除けば、私のように、日本で生まれて、日本で英語を学んだ人間ならば、まず、絶対と言って良いほど、日本語でものを考え、日本的な英語を話し書く、そしてまた、そのことから解放されることはないだろうということです。これは、先ほど申しましたように、日本の著名な英語の先生方に原稿を書いていただいた結果からも分かります。どんな方に書いていただいても、どこかに"日本人性"が残ってしまします。もちろん、これを恐れていては何もできません。ただ、そのことを知っていただきたいのです。つまり、日本人は日本語でものを考えるということです。したがって、英語の教師である以上、それを少しでも英語的にするために、何よりも、日々の努力が大事になるわけです。そして、きちんとした英語使用の基盤になるのは、やはりきちんとした日本語使用だということです。母国語を明瞭・簡潔に話し書く努力を欠かさなければ、その姿勢は、必ずや、英語学習・英語教育に良い影響を与えるものと信じます。
 次に申し上げたいのが、英語を教える時には、先生方が“実感”なさった英語を教えていただきたいということです。自分が実感したこともない言葉、口にしたこともない表現を、"受験"と絡めて、とにかく「覚えろ」と言うのは避けていただきたい。受験を金科玉条とするのは好ましくない思います。人間はコミュニケーションのために言葉を使うわけですけれども、その教え方としては、まずいだろうと思います。私たちは誰かが良いニュースを教えてくれたら、「良かったね」と言いますね。この日本語に対する英語には、いろいろな言い方があるでしょう。Good for you.というのもありますし、場合によっては、Lucky you. とも言います。そのような英語で声を掛けられたら、掛けられたほうも Lucky me.と答える。この"一言(ひとこと)の交流"が教室の日常で必要です。こんな簡単な、中学1年生でも知っているような単語ですけれど、Lucky you., Lucky me. がなかなか出てきません。先生が普段から生徒に、こうしたやさしい単語から成り立つ表現を、感情を込めて使って行くことが大事だと思います。自分が実感したことのない言葉を覚え込ませるというのは残酷でさえあります。
 とにかく、3,000語覚えたら、今度は4,000語覚えろ、何でもいいから覚えろ、などと言う教師がいるとすれば、それは滅茶苦茶な話です。自分がやってもいないこと、しかもその意義も怪しいものを、生徒に押し付けるというのは、コミュニケーション能力には、害毒にこそなれ、薬にはならないはずです。
 それと関連して申し上げたいのが、私たちは日常的に、“豊かな言語生活”を送る必要があるということです。私たちの日常的言語生活が豊かでなかったとしたら、言語としての英語を教える私たちの成功はおぼつかないと思います。英語になったら楽に話せるという人も、あるいはいるかも知れませんが、普通はいないと思います。
 先程、仏教、儒教のお話をしましたけれども、外国人から見ると日本の文化というのは、非常に不思議な文化だということです。本当に不思議だと思います。特殊論で括るつもりはありませんが、外国の、とりわけ欧米のものの考え方や文化から見ると、例外的なところが、たくさんあります。宗教的なものを取ってもですね。しかし、日本という国は、キリストが生まれる何百年も前からあるわけですから、古代国家になりますと、弥生の頃からあるわけですね。二千数百年の歴史があります。良きにつけ、悪しきにつけ、私たちは、そういう中で育って来ました。その文化に浸った者たちが英語教育をやる。ですから、日本の英語教育においては、その中枢に日本人教師がいるべきだという考え方を私は持っています。日本の英語教育は、ALTに任せておけば済むんだなどというのは、考え違いです。ALTの力は借りなければいけません。しかし、日本人の英語は日本語的にならざるを得ない。日本的にならざるを得ないと思っています。
 理解し合うということは大事ですが、スコットランド人の英語はスコットランド人的であり、インド人の英語はインド的であるように、日本人の英語は日本的である、これはある程度仕方がない。全部許されるとは申しません。通じなくても良いということにもなりません。しかし、ある程度は許されてしかるべきだろうと、私は思います。
 例えば、日本人はThank you very much for the other day.(先日はどうもありがとうございました)とよく言います。その「先日」というのが、日本人は長いのです。英語だったら、それこそ、数日か1週間程度でしょう。「いつぞやは」という挨拶もありますね。これは英語に訳すのはなかなか難しいでしょう。
 14、5年前に、イギリスで、ちょっとお世話をした人がいます。長崎の方ですが、東京の学会で、先日お会いしました。この先生、何とおっしゃったか。「いつぞやは、どうも先生、お世話になりました。」 これ、いつの御挨拶だと思いますか。14、5年も前のことです。
 英語ではこれは訳出不能です。15年前の話をしたら、何を持ち出しているのかと思われるのと同時に、過去の挨拶をそんなにやられると、この男、何か俺にしてもらいたいんだな、と勘繰られてしまうはずです。原則として、英語では、必要な時に Thank you very much. を一度言ったら、それで良いわけです。
 「先生、推薦状をお願いします」と頼まれた学生に、次の週のゼミで会った時、黙っていられる。英語的発想で、先生には、あの時(推薦状を受け取った時)、ありがとうございました」と言っておいたから、それで良いのだと思っているとしたら、とても残念です。だからといって、14、5年前の礼まで言ってくれとは申しませんけど。
 日本語では、日本文化では、なぜそうかと申しますと、儒教の影響が色濃いわけですけれど、過去と未来とを非常に大事にするからです。私たちは過去を覚えておくということを文化として、半ば、強いられてきたところがあるわけです。「その節は」「いつぞやは」など、英語にはまずならないでしょう(この日本語の訳出不可能性に関してはここをご覧下さい)。
 「先日は」というのはありますが、英語の場合でしたら、先ず間違いなく、「先日は、引っ越しの手伝いをしてくれてありがとう」というように、具体的になるでしょうね。具体的に何に対して感謝しているのか。日本語では、そこらあたりはほとんど言いません。「先日はどうもありがとうございました」で分かってしまいます。そういう文化を持っているということも事実であるわけです。
 付け加えておきたいことは、私たち日本人教師は、私たちを育んでくれたこの国を理解し、愛し、尊敬することが大事だということです。先程申しましたように、お葬式一つをとってみても、良くも悪くも、儒教、神道、仏教の交じり合いです。私たちはそういう文化的風土の中で育って来たわけです。外国人が理解できないというところがたとえあっても、それをそうだそうだと私たちが彼らを増長させないようにする必要があります。そうだろうか、ちょっと待ってくれ、調べてみる、と言って、実際に調べてみる、するとまず間違いなく日本的理由に行き当たるはずです。民俗学の祖である柳田國男先生の本などを読んで、よく感じることがあります。
 例えば、日本の女性は、子供を道連れにして死ぬ、殺してしまう、道連れに心中する。日本の女性は、自分の子供を自分の所有物だと考えているから、などという非難がよく外国人から聞かれます(日本人の多くもそう思い込んでいるようですが)。しかし、これを民俗学的に解いてみると、どうも違うようなのです。日本では、こちらの岩手にもそういう言葉があるのかどうか分かりませんが、「七つ前は神のうち」という言葉があります。赤ん坊は、七つ、昔ですから数え年でしょうが、七つ前は人間ではないという考え方があったようです。間引きなどは、それをうまく利用したのかどうか分かりませんが、東北では赤ん坊の骨が農家からたくさん出て来るということがあるそうです。
 生んで育てられない赤ん坊を、お返しするという形で、桟俵(さんだわら)、つまり米俵の蓋ですけれども、それに括り付けて川や海に流すという風習があったようです。これを「殺した」とは考えない。「神の国にお返しする」という考え方なのです。「七つ前は神のうち」ですから、神様にお返しするわけです。殺しているわけではない。「今はあなたの面倒をみてやれない、ごめんね、でも又、帰っておいで」と言って、神の国に、一応、お返しするのだと思います。これが、桟俵に乗せて神の世界に子供を帰すという風習なのです。
 現代にそのような風習が残っていることなど考えられませんが、民俗学的に言いますと、かつては存在したことが証明されています。柳田國男先生が証明しておられることですが、あるおばあさんが、背中が曲がっているので、「なぜですか」と聞いたところ、「私は小さい時に、臼で殺されかけたんだ。その時の臼の重みが私の背中にかかって、それで母が、もう私を殺すのが忍びないと、この世に私を残してくれた。背中が片わになったのは、その時の名残なんです」と先生に報告されたと言うのです。
 予断を許さないことですが、少なくともその理由の一つとして、女性が子供を道連れにするというのは、そういうこととも関係があるのではないかと思います。自分のお腹を痛めた愛しい子です。それをこの世に残して行くのは忍びないというのは、やはり、神の世界に一緒に行こうという、そういう思いがあるのではないかと思います。
 英語教師が、そこまで知る必要はないとおっしゃるでしょうが、私はこういうことを学ぶ中から、一つの、大袈裟ですけれども、哲学のようなものを身に付けて来たわけです。つまり、私は私でしかあり得ないし、日本人でしかあり得ない。英語教育はその中でしか、やり得ない。そうであるならば、私は日本人にとって一番望ましい辞書を作ろう、日本人にとって一番良いと思われる英語教育をやろうと思っています。それしかやりようがありません。  
 私は多少の英語はできますけれど、皆さまのほうからは、いろいろな辞書を作っている、本を何十冊も書いている、さぞや英語のよく出来る人だろうとご覧になれるかも知れません。しかし私は、水の上では格好良く泳いでいる白鳥 (swan) のようなものです。水面下では、もうそれこそ一生懸命に両脚を動かしているのです。そして、何とかここで、皆さまにお話ししております。ですから、辞書を作るときでも、そいういう思いで、力のある方、あるいは同じ思いを持つ方たちに、力をお借りするわけです。

10.
 明治以降、本当に粗製濫造で訳語が作られました。この訳語によって、私たちは英語が分かったつもりになっているところがあります。たとえば、"conscience"の訳語である「良心」はこれで良かったのか。"philosophy"の訳語は「哲学」で良かったのか。"sincerity"の訳語の「誠実」はこれで良かったのか。実は全部、多少の問題があるのです。「誠実」に関してですが、英語の"sincerity"と日本語の「誠実」とでは大きく違います。"fair"をとってみてもそうです。アメリカ人との商交渉で、日本人は「フェア」だと思うのに、アメリカ人は"unfair"だと言います。それは、"fair"の捉え方が違うからです。
 一例をお話します。私がよく例に出すのですが、小錦と舞の海が闘っても、誰も不思議とは思いません。というのは、土俵というところで闘っているのですし、相撲のルールに従っているからです。日本人であれを「アンフェア」だと思う人はいないでしょう。ところが、全体的に欧米人から見ると、あれは"unfair"です。社会悪 (social evil)であるとさえ言うでしょう。それが証拠には、柔道が世界のスポーツになった時、全部 rank制になりました。日本人はルールがあって、それが守られれば良いと思っているわけですけれども、体重の違う人間が闘っていること自体が"unfair"なのです。社会的に問題があることなのです。ですから、柔道を世界のスポーツにした時に、彼らは彼らの論理に従って、体重別にしたのです。公正、公平と言う場合も、"equality"と言った場合とはズレが生じます。
 「誠実」という言葉の解釈も違います。日本人が「誠実」だと思っていることが、英語の世界ではそうではないということが往々にしてあります。
 1つだけ、やはり私がいつも引き合いに出す例ですが、ここでも引かせていただこうと思います。日本のゴボウ、キンピラゴボウの話です。あの有名な『私は貝になりたい』という映画の中で、アキモトという兵隊が、連合軍の捕虜に、食べる物がないというので、ゴボウを料理して与えました。ところが、戦争が終わって、連合軍の軍法会議にかけられて、5年の重労働です。調べてみたら、その捕虜は、この日本人から木の根っこを食べさせられた、tree rootを食べさせられたと、訴えていたのです。ところが、アキモトは良いことをしたと思っていたのでしょう。日本のゴボウは、キンピラゴボウと結び付くような、食文化の中で非常に良いイメージのものですね。ところが、「ゴボウ」に当たる英語の "burdock"というのは、bur- が「トゲ」という意味を持っており、"トゲのある植物"ということで嫌われるのです(と言っても、英語圏の人々で、"burdock" という言葉を知っている少ないと思います)。
 相手を知らないことによって、こちらが思いやりと思ったことが、向こうには思いやりでないように思えるわけです。もし、お互いが理解していたら、どうでしょう。アキモトという人が、英語圏の食文化には "burdock" は入っていないということ、"burdock" は食べないということを知っていて、その上で、「今はこれしか食べ物はないから、これで飢えを凌いで欲しい」と伝えられていたとしたら、結果はどうなっていたでしょう。あるいは、その捕虜(たち)が、日本の食文化におけるゴボウの一般性を知っていたとしたらどうでしょう。結果は反対になっていたでしょうね。戦争が終わった時に、このアキモトという兵士は、確実に勲章か何かをもらっていたことでしょう。少なくとも、大いに感謝されていたことでしょう。不幸です。お互いが不幸でした。一方は、「何もないのだけれど、食べてくれ」といった思いで、つまり、思いやりでゴボウの料理を出したのです。換言すれば、それを人間としての「誠実」な行為だと考えた。ところが、他方はそれを思いやりとはとらず、強制と解釈した。食文化の違いに起因する悲しい出来事です。この例を私がよく出すのは、ゴボウと burdock は、ちょっとした違いがお互いをこんなに不幸にするという良い例だからです。こういうことがほかにもたくさんあります。
 日本人が良いと思い、思いやりだと思うことが、向こうにとっては、余計なお世話、また、向こうにとって、思いやりだと思われることが、日本人にとっては実に押し付けがましいということがよくあります。私も同僚や友人に、アメリカ人、イギリス人、カナダ人がたくさんおりますが、彼らが、良いと思ってしてくれることが、私にとっては、押し付けがましい、"pushy"であると思えることが時々あります。
 そのところをどうするかというと、大きく分けて二つあります。
 1つは、"compromise" し合うこと、妥協し合うことですね。妥協という言葉は、アメリカ人にとっては、場合によっては、"敗北" に近いかも知れません。アメリカ人はイギリス人よりも、 "compromise" という語に強いマイナスイメージを持つかも知れませが、言ってみれば、これは「譲り合う」ということです。
 もう1つは、譲り合ってもだめなものは、これは仕方がない。Do in Rome as the Romans do.です。日本にいるときには、日本人のやることに、一応、理解を示してもらわなければ困ります。そうでないと、話が進まないということがありますから。お互いに徹底的に話し合う、そしてお互いが compromiseできるところはですね、meet halfway するかも知れません。歩み寄るということも必要かも知れません。そのようにして、できるだけ理解をし合わなくてはなりません。これが原則です。人間ですから。けれども、最後になった時には、特に行政的・管理的立場におられる方は、ここは日本なのですから、その風習に従ってくれませんか (と、押し付けるのではなく)了解を求める。このようなやり方は致し方ないと思います。大まかにはこの二つでやるのが良いと思います。この二つを上手に使い分けられる人がflexibilityのある人、柔軟性のある人だと思います。それが、国際性に繋がるのではないかと思います。この二つをやらないで、なんでもかんでも、ここは日本だからとうことではすまない時代が来ていますね。
 次に私たちがやらなければならないことは、明治以降、特に戦後、いろいろなところで誤解してきたことを正すことだと思います。
 たとえば、「先進国」ということです。英語で"developed country"と言います。そこで学生によく聞いてみます。インドはどうだろうかと聞くと、発展途上国だと言います。中国はどうだろうと言いますと、やはり発展途上国だと答えます。べトナムはと聞きますと、まず間違いなく発展途上国と言います。
 そこで疑問に思うのですが、私たちは、「進歩」 とか 「発展」 という言葉を、一面的にしか解釈して来なかったのではないでしょうか。少なくとも、半分しか理解していなかったのではないでしょうか。確かに、産業の面から見ますと、アメリカは世界に冠たる "developed country" です。しかし、そのために欠落していると思われることがあることも、又、事実です。私は常々思ったり言ったりするのですが、私たちの国、日本を例にとっても、中国を例にとっても、インドを例にとっても、先進、"development" というのは、果たして「物」や「産業」に関してだけなのだろうかということです。「心」「精神」の面はどうなのだろうか。そう思うと、インドはすでにキリストが生まれるずっと以前に、お釈迦様という、素晴らしい思想家、あるいは宗教家を生み出しています。特に、資本主義社会は、先進とか、発展とかということを、「物」としか結び付けていない。世界の人々は長い間、そういう考え方を習性として身に付けて来たように思います。ところが、私たちのこの日本を例にとってみても、ご存じのように、世界で最も古い文学作品、『源氏物語』があります。あるいは、木造建築で世界最古の法隆寺があります。あるいは、たくさんの思想家や宗教家や哲人といわれる人を輩出しています。
 そういう面でも、見方を変えると、私たちは精神的に、むしろ退歩しているのではないかとさえ思えるところがたくさんあります。「発展」と言う場合、あるいは、「進歩」と言う場合、私たちはそれらを「物」や「産業」だけに当てはめないほうが人間としては、より幸せになるのではないかと思います。それを産業革命以降、「物」や「産業」と結び付け過ぎて来たために、私たちは、先進国と言うと、ともすると欧米先進諸国を連想してしまします。そういう思い込みを私たちがしてしまったために、アジア人はその思い込みや“inferiority complex”を持って来たのではないかと思います。ですから、誇るべきものは誇れ、その中に文化的な、思想的な、精神的な発展というものがあって良いではないか、それならば、日本も、インドも、中国も、みな大いに発展してきたではないかと私は思うのです。
 日本は、よく鎖国だ、差別の多い国だ、と言われますが、確かに、いろいろな面で問題があるかも知れませんが、同じ問題なら、どこの国にもあります。聖徳太子、お一人をとってみても分かりますけれど、あの時代に、どれだけ海外に大きく門戸を開かれたでしょうか。いろいろな歴史がありました。中国に対して、朝鮮に対して、その他に対して。もちろん、ヨーロッパから見ると、まだ少ないと言われるかも知れませんが、門戸を世界に開くということが、なかったわけではない。太子のような人は、たくさん輩出されて来たわけです。ですから、私たちは誇るべきものは誇り、自分の国の文化を、もっともっと、大事にすべきだと思うのです。そういうものを中枢に据えた英語教育になっていって欲しいと、これは私の個人的希望ですけれど、思っています。それが、また、おそらく一番、日本人が安定する英語教育になるのではないか、そして、日本に来て下さるALTの方たちも、それのほうがかえって力を貸してくれ易いのではなかろうかと思います。中枢には日本人がいて良いし、また、いることが大事だと思います。
 私がまとめたいことはこう言うことになります。
 まず、英語の教師に求められることは、先程申しましたように、実感したことのある英語を話し、教えましょうということです。それから、豊かな言語生活を送りましょう。せめて、「私」とか「僕」とかぐらいで始めると、終わりも乱暴な言葉で終わらないようになると思います。英語という言語を扱う以上、日本人英語教師は、日本語も大事にすべきだと思います。教師自身が、日本文化を大事にして、愛情と理解と尊敬心を持っている必要があります。

11.
 最後に申し上げたいのは、英語教育や英語学習が精神の柔軟性や寛容精神の育成に繋がって欲しいと言うことです。不寛容と結び付かないことを祈ります。「日本は良くない」とか「アメリカ(人)のほうが格好いい」とか言うことは英語教師は口にすべきではないと思います。一部の人ですが、そういうことを言う人がいることを私は経験的に知っています。
 教師には自己管理 (self-management) が必要だと思います。客観的、知的、合理的、戦略的に、自分の言動分析をする。そして、評価する習慣を身に付けることです。自分は生徒に対して、きちんとした日本語を使っているか、きちんとした日本語教育をしているか、と言った点を自問自答することが大切です。
 それがそのまま鑑となって、生徒のコミュニケーション能力の育成に大きく繋がって行くだろうと思います。もちろん、具体的なことは、午後から、皆様方がおやりになることと思いますが、私はちょっと変わった観点からお話ししてみました。
 そして、家庭に対して、一番求めたい事は、今の家庭はものを言わない傾向を持つ家庭になっているけれども、子供に最後までものを言わせるようにする事です。「察しの文化」というのは、日本的文化ですが、お父さん、お母さんが、子供が何も言わないうちから、あるいは何か言い掛けると、「あっ、分かった」と言って、全部を了解してしまう。これは英語の先生、国語の先生、その他の教科の先生にも言えるのですが、生徒が何か言う前に、分かってしまう、察しの文化ですね。これは新世紀においては好ましくないと思います。
 全部言わせる、そういう習慣を身につけないと、コミュニケーションをしようという気になりません。この先生の前では何も言えない。お袋はどうせ、全部分かってしまうから何も言わない、ということになりかねません。最後までものを言う習慣を親も子も身に付けることです。夫婦の間でもそうです。
 最後に一つだけ、語の意味には"denotation"(辞書的意味)と"connotation "(文化的意味)がありますが、後者すなわちconnotationが非常に重要です。"dog" は「イヌ」です。四つ足で、哺乳動物で、というふうに辞書に書いてあるのが前者、すなわち denotationです。しかし、「イヌ」がどのように扱われるか、イヌとは何か、ということになると、日本語と英語で違って来ます。イヌ文化が違うということです。
 さっき、ちょっと、お話ししました。ゴボウがどのようなものであるかは辞書に書いてあります。これを植物学的に定義すれば、日英語ではさほど大きな違いはないでしょう。ところが、connotation の部分、すなわち食文化的意味においては、確実に違って来るわけです。この部分の認識が日本の英語教育では、非常に不足あるいは欠落しています。つまり、向こうの人たちは、ある語句や文(章)によって、どのようなイメージを持つのかということに対する配慮が非常に少ないのです。ですから、「誠実」とあれば、"sincerity" と訳すだけで終わってしまう。このことに関しては、『スーパー・アンカー英和辞典』 に、「英語文化のキーワード」として、適切に扱っておりますので、ぜひ、そちらをお読みいただきたいと思います。

12.
 私が本日申し上げたかったことは、結局、2点にまとめられると思います。
 1点目は、私たち日本人は日本人性を脱却することは、ほとんど不可能に近いのだということです。これは、又、英語を母語とする人たちは、それからの脱却がほとんど不可能に近い。難しいことと、努力することとは本質が異なります。けれども、脱却は難しい。
 
2点目は、それを知りつつ、ALTなどの力を借りて、望ましい形で英語教育を行なうこと、ということです。その実現は、私たちの日常の努力に掛かっています。コミュニケーション能力と、格好の良い言葉で言われていますが、日常的にきちんと意思疎通を図ることしかないのだということを自覚することが、コミュニケーション能力育成に繋がるものと確信しますテクニックは、また、違ってきます。それは、午後、皆様方がお話し合いになることだろうと思います
 大変つたないお話でしたけれど、これまでにさせていただきます。ありがとうございました。