1 偏向ということに関連して
      ―日本人が気付かない日本人の不幸



◆偏向教育に思うこと
◆合掌廃止に思うこと
◆政教分離に思うこと
◆捕鯨反対運動に思うこと


偏向教育に思うこと
 戦後、それまでの我が国の価値観は、その多くが否定され、我が国を解体しようという連合国の意図にまんまと乗った多くの無思慮、無節操な日本人は、祖先が営々と築き上げた伝統、文化、歴史、国民性などの優秀な連続性を遮断することに進んで手を貸した。我が国の過去と未来とに責任を感じる者は少なくなり、日本的家族の美風は多く消滅し、最近ではそれの結果であるかのように家庭内暴力、尊属殺人が続発、さらには家族型経営方針を背骨としていた多くの日本企業も倒産への道を辿っている。教育現場も同様である。「学級崩壊」などというおぞましい日本語がマスコミを賑わしている。学級崩壊とは、大人社会と一般家庭の崩壊の延長線上にあるものに過ぎないもののはずである。
 昨春 〈2000年)、東京都国立市立第二小学校の卒業式で、児童達が校長に国旗を降ろさせたうえ、土下座を迫ったことがあった。職員会議の内容を児童が知っていたとも言われる。「子供に相談しないで国旗を掲げたのは民主主義に反する」「多数決で多いほうに決めるのが民主主義だ」などと臆面もなく言ってのける教員達がいる(詳細に関しては「正論」6月号を参照)。そうかと思うと、「主人公である子供たちの心を一番に考えてほしい」「子供たちは『日の丸・君が代』を拒否する気持ちを持っている」「ドイツの学校でハーケンクロイツが掲げられたことを想像してほしい。その旗を見て悲しむ子が一人でもいたら、それはやめるべき」(詳細に関しては「産経新聞」5月26日付を参照)などと、いかにも子供達の心を十分に理解しているようなことを言う者もいる。子供たちの “野生” を “自主性” と取り違える、こうした教員達が何と多くなったことか。
  「『日の丸・君が代』を拒否する気持ち」とは、両者が先の大戦に利用されたこと、軍国主義日本と天皇制を連想させることなどに起因するもののことであろう。しかし、それならば一つの疑問が生じる。戦争に利用されたもの、軍国主義日本と天皇制を連想させるものであると言うのなら、前記教員諸氏は「旅券」すなわち「パスポート」は所持していない、あるいは所持しないのであろうか。旅券の表紙に印刷された「十六弁一重表菊紋」「菊の御紋章」すなわち皇室の御紋章(十六弁八重表菊紋)に匹敵するものだからである。ちなみに、皇室の御紋章は日本海軍軍艦の艦首にも取り付けられたものであり、したがって軍国主義の象徴でもある。
 「日の丸」「君が代」が戦争に結びついたことを歴史的事実として教えるのはよい。しかし、同時に、日本の子供達に、昔の人達がなぜ、白地に赤丸を好んだのか、この「赤」は一体何を指すものか、縄文人が好んだ朱色や藤の木古墳に見られた赤色と関係があるのか、太陽の色か、それとも血液の色か、「さざれ石の巌(いわお)となりて苔の生(む)すまで」とは一体どのような意味か、一体なぜ、「さざれ石(細かい石)」が「巌(巨大な石)」と成り得るのか、物理的には全く逆であるべきではないのか(巌がさざれ石に成ると言うのなら話は分かる)などの疑問を通じて、その「日本(文化)的なること」を生徒達に考えさせ、答えを導き出せるように指導することも、日本人教員としてなすべき重要なことではないか。子供達には、善悪・長短両者を適切に教え、何を後世に伝えるべきか、何を伝えるべきではないかということを自らきちんと判断できるようにしてやることが教育である。
 前記小学校で校長を糾弾した教員達の偏向教育の証拠をもう一例挙げよう。彼らは生徒達に、校長のやっていることは「基本的人権に違反する」ものだと立派なことを言わせておいて、今度は生徒達が校長に土下座を要求するのを容認もしくは黙認している(前掲「産経新聞」)。人に(それもあろうことか校長に対して)「土下座をしろ」と罵声を浴びせることが「民主主義」なのか。考えてみると良い。「土下座」とは、人を人とも思わない封建時代の、「基本的人権に違反する行為」の最たるものではないか。新しい時代に生きる子供達を教育している筈の彼らが、子供達に「土下座をしろ」などと、大時代的なことを言わせるとは何たることであろう。これを「偏向教育」と呼ばずに、何と呼べば良いのか。
 それにしても、不甲斐ないと思うのは、校長、教頭の児童達への返事である。「君たちにつらい思いをさせて、悪かった」(校長)、「国旗、国歌のことは君たちに相談することでないと思って進めてきた。しかし、結果として、君たちを傷つけることになってしまって申し訳なかった」(教頭)など、本当にこんなことを言ったのかと耳目を疑いたくなるほど情けないものである(両者とも前掲「産経新聞」)。酷な言い方だが、この発言によって、ご両人はご自分達が学校教育管理職者としての資質を欠いていることを露呈してしまったようである。我が国には今、間違いなく「偏向教育」が蔓延している。


合掌廃止に思うこと
 旧聞に属するが、某県内の公立小中学校では、子供達が給食の時に「合掌」の号令と共に手を合わせるのは、特定の宗教を強制するものであり、信教の自由を謳う憲法二十条と、公立学校での特定の宗教活動の禁止を定める教育基本法九条違反であるから廃止せよという声が挙がり、実際に合掌をやめた所もあるという(詳細は「朝日新聞」平成8年7月8日付を参照)。何という皮相的観察であろうか。
 確かに、仏教で行なう合掌は仏に対する絶対的帰依を表す動作である。禅宗では合掌によって礼拝するものは、「絶対普遍なるもの」とされている。私個人は、合掌は私の命の糧となってくれる食物に対して、また、その産出に関わった多くの人々に対して、感謝の念を具体的に表明するための日常的行為だと思っている。したがって、私は山頂などで御来光を目の辺りにするたびに、殆ど反射的に合掌している。それが日本人の本来の謙虚さの一例であったはずである。結論的には、合掌は多神教的日本文化の一部として昇華させるべきものと信じる。
 合掌廃止論者達に尋ねてみたい。あなた達はご自分の上司、同僚、後輩などの葬儀、告別式が勤務中に挙行された場合には、「公務中の宗教行事への列席は不可能ですので、欠席いたします」と明言し、その信念を堅持できるのか、と。そんなことなどできるはずがなかろう。第一、あなた方が公教育の場に持ち込んでいる「西暦」はキリスト紀元のことであり、極めて宗教的ではないか。
 もう一つ尋ねてみたい。あなた達は、ご自分が仏教儀式だと思っている葬儀が、実は極めて多神教的であることをご存じだったか、と。遺影に合掌するのは(仏教起源ではなく)儒教式、葬儀後の清めの塩は(仏教起源ではなく)神道式、墓を作り、墓参をするのは(仏教起源ではなく〉儒教式なのである。末期の水や、墓石への水掛けに至ってようやく仏教式となる。我々が仏教式だと思っている葬儀一つを取ってみても、それが如何に多神教的であり、また、そのこと自体が日本(文化)的であるかということにあなた方は気付くべきである。


政教分離に思うこと
 日本人には「政治」と「宗教」とを水と油のように考えたり、両者を敵同士のように感じている人が多いようである。「政教分離」の英訳 the separation of religion and politics [government] を見てもその点が窺える。文字通りには、「政治[政体]と宗教の分離」 となり、この解釈に従えば、政治家のような公人が靖国神社に参拝することさえ物議を醸す(前記「合掌廃止」の問題も「政教分離」の皮相的解釈の結果である)。
 これに対して、例えば、アメリカ合衆国で言う「政教分離」は、日本のそれとはだいぶ違う。英語では the separation of church and state [politics]、文字通りには、「国家[政治]と教会の分離」となる。換言すれば、アメリカ合衆国のそれは、あくまでも国家[政体]が特定の「教会」に便宜を図ったり、特別待遇を与えたりしてはならないという意味の筈である。それが証拠に、アメリカ大統領は4年に一度、国会議事堂のバルコニーにおいて、宗教色の濃い(プロテスタント)就任式を行い、それには牧師が立ち会う(第35代大統領 J.F.ケネディーだけはカトリックであった)。
 アメリカ合衆国が政治[政体]と「宗教」とを厳密に分離していない点は、同国の裁判所の壁や同国発行の硬貨に IN GOD WE TRUST (我々は神を信じる)という文字が掲げられ、刻まれていることからも窺われる。1776年の独立宣言以来、キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒などの区別なく、アメリカ人にとって「神」(GOD) が存在することなど自明の理なのである。だからこそ、アメリカ人はまた、現在でも Memorial Day または Decoration Day と呼ばれる 「戦没者追悼記念日」 を、事実上、国家的式典として催すのである。このことはイギリスのホワイトホールにある戦没者記念碑を中心に催される Remembrance Day または Remembrance Sundayすなわち「両大戦戦没者記念日」にも言える。

 因みに、アメリカ合衆国バージニア州北部にあるアーリントン墓地は、その英語名の Arlington National Cemetary が示す通り「国立」である。そこには、多数の戦死軍人と無名戦士が、ケネディーと共に埋葬され、追悼されている。靖国神社に何らかの法的措置その他が採られていれば、公式参拝云々は問題にすらならなかったであろう。国家のために尊い命をささげた人々を、国家が追悼するのは当たり前のことなのだから。
 なお、前記した通り、「政教分離」を日本的に解釈すれば公教育の場では「西暦」を使用することはできない事になる。それがキリスト教という宗教色を色濃く持っているからである。日本のキリスト教関係者は「政教分離」と「西暦」の問題をどう考えるのだろうか。とにかく、我が国の政治家、宗教家、教育関係者は、「政教分離」とは何か、どうあるべきかをあらためて討論すべきである。

捕鯨反対運動に思うこと
 鯨肉が非日常的な食物となって久しい。鯨肉を食する文化を持たない先進諸国の一方的論理、力の力学で我が国の食文化が今一つ消えていこうとしている。「グリーンピース」と名乗る、海賊さながらの環境団体も日本の食文化に横槍を入れ続けている。国際捕鯨条約第八条に基づく合法的調査捕鯨にさえ理不尽に文句をつける輩である。彼らがあれほど狂気的に捕鯨反対を唱えるのは、おそらく、環境保護のシンボルとして自国選挙民の支持や賛同が得られやすいからであろう。
 英、米、豪、ニュージーランドなど、日本の捕鯨に反対する国々の魂胆は分かっている。日本が海から食料を調達する道を断ち、自分達の国の食料を日本に買わせたいからである。要するに、「兵糧攻め」である。
 英、米、豪、ニュージーランドなどもかつては捕鯨国でありながら、鯨油の代替物が見つかると、途端に「捕鯨反対国」に早変わりして、日本の鯨食文化を標的に難癖を付け続けている。因みに、H・メルビルが1851年に発表した小説『白鯨』は、米国が捕鯨国だった頃のものである。
 現代に至っては、英国、豪州は牛肉を、米国は鶏肉を、ニュージーランドは羊肉をそれぞれ食文化の一部としていながら、その事実には目を瞑り、他国の食文化に口を挟む、その横暴ぶりを我が国は許してはならない。
  日本が捕鯨から手を引かされて、何が起こったか。インド洋、カリブ海などでは鯨が増え過ぎて、地元漁民は不漁続きで困るという状況が生まれた。巨大な鯨があちこちの海洋でサンマ、イワシ、スケトウダラ、マグロなどを食い荒らしたり、襲ったりしているからである。海洋は巨大な鯨だけのものではない。海洋資源のバランスを保つためにも、鯨の適切な間引きは必要不可欠の行為である。第一、豪州を例にとれば、地元民はカンガルーが増えすぎたと言っては、ライフル銃でそれらを間引きしているではないか。それに、捕鯨反対国では「ホエール・ウオッチング」などと称して、鯨を観光資源にしているが、鯨やシャチは巨大な野生動物であって、人間がみだりに接近してはいけない生き物だ。それを観光の対象にするのは、彼ら人間の傲慢である。独善的態度で日本の捕鯨に横槍を入れ続けている、前記の国々や環境団体は、自分達の家畜偏重の食文化こそ反省すべきである【捕鯨問題に関しては、小松正之著『クジラは食べていい!』(宝島新書、2000)に詳しい】。
 山口県長門市の港町仙崎はかつては捕鯨で栄えた地域であるが、捕鯨廃止後何十年も経過しているのに、人間の手にかかった鯨を供養するために法要が営まれている。一頭一頭の鯨には戒名さえ付けられているという。こうした日本人による供養の姿勢を捕鯨反対国にもっと知らせる必要がある。「11. 海辺に打ち上げられるクジラなどに思う」を参照

【本稿は雑誌『動向』 (平成12年9月号) に寄稿した 「空にさえずる小鳥に羞じよ」を一部修正して転載したものです】


後日記1.
1)「政教分離に思うこと」に関連して、本日(平成14年[2002年]7月16日)の「朝日新聞」(朝刊)に面白い記事を見つけた。次のようなものである。

             長野県議会に「お守り」贈る
               徳島県議団が激励

 長野県議会最大会派の県政会に15日、徳島県議会最大会派、自民党県民会議の2人が訪れ、四国霊場1番札所霊山寺の必勝祈願のお守りを贈り、「地方議会のかがみになってほしい」と激励した。
 贈られたのは、大小二つのお札と県政会議員の人数分のお守り。自民党県民会議は、3月に汚職事件で起訴された前徳島県知事の辞職に伴う出直し知事選後、野党に転落。5月には、3人が長野を訪れ、県政会議員から、知事対策のアドヴァイスを受けていた。

 この記事が示唆することは何か。公人・私人の別なく、日本人にとって「政教分離」の原則を日常的に遵守することなど不可能ではないかということである。上記の「お守り」は“仏教”と関係したものであり、「政教分離」の原則に抵触する恐れのあるものである。しかし、いったいどれだけの日本人が、そのような行為を咎(とが)めだてするであろうか。ちなみに、同日の「天声人語」には日米の「政教分離」に関する記事が掲載してある(下に引用)。

 公立小学校に通っている娘のことで訴訟になった。毎朝、星条旗への忠誠の誓いをさせられるが、その中に「神の下で」という言葉がある。これを公立学校で唱えさせるのは政教分離の原則に反するのではないか、と「無神論」の父親が提訴した。米国の場合である◆日本では、天皇の皇位継承の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)に、県知事が公費をつかって出席したことで訴訟になった。いずれも憲法の政教分離原則をめぐる訴訟だが、ほぼ時を同じくして米連邦控訴裁判所は違憲の判決を、日本の最高裁は合憲判決を出した◆判決を読み比べると、米国の判決は、誓いの言葉の宗教性とその押しつけを丹念に立証しようとし、日本の判決は、大嘗祭の宗教色を認めつつ、あっさり「社会的儀礼の範囲内」とした◆米国では、判決に猛反発する連邦議会をはじめ、大騒ぎになったため、控訴裁は判決の効力を停止した。ブッシュ大統領も「米国の歴史と伝統を踏み外した判決だ」「常識的な裁判官が必要だ」と◆「神の下で」という言葉が付け加えられたのは54年、いわゆるマッカーシズムの時代だ。共産主義者を「非国民」として排斥した時代で、その行き過ぎは後に反省される。米国の判決は、その歴史的背景にふれている。いままた愛国心が高揚している時期で、今度は裁判官が「非国民」視されかねない状況だ◆日本の判決も「国家と神道」の密接な結びつきが弊害をもたらした歴史に触れた。その時期「非国民」という言葉が排斥の常套句(じょうとうく)だった。日米どちらも自国の歴史から学ぶことは多い。

2)平成19 [2007]年5月28日、衆議院赤坂議員宿舎で自殺した松岡利勝・農水相(62)を乗せた車を見送る安倍晋三首相ほかの閣僚は全員合掌した(その写真は「朝日新聞」2007/05/30に掲載されている)。それを見ても、日本人が完全な“政教分離”などできないことがよくわかる。

後日記2.
 「捕鯨反対運動に思うこと」に関連して、次の論考を参照ください。反捕鯨の病理学(第1回)」「 反捕鯨の病理学(第2回)」