6 悪態の宗教性と俗性
       ―若い人たちに知っておいてもらいたいこと
           



1.悪態の宗教性            
  西鶴の『世間胸算用』巻四の「闇の夜の悪口」によれば、京の八坂神社では、大晦日の夜に、参詣の老若男女が、左右に分かれて、神前の燈火を暗くし、お互いの顔が見えない中で、悪口の言い放題を言い合って、笑い合う神事があったことが分かる。
  次にその悪態の一部を引用する(引用に当たっては、便宜上、現代漢字に直した箇所、ルビを削除した箇所、漢字を平仮名に変更した箇所がある)。


 「おのれはな三ケ日の内に餅が喉につまって鳥部野へ葬礼をするわいやい」(鳥部野は東山の麓の火葬場、墓所)
 「おどれは又人売の請(うけ)でな同罪に粟田口へ馬にのって行わいやい」(粟田口は京の東に位置する刑場)
 「おのれが女房はな元日に気がちがふて子を井戸へはめおるぞ」
 「おのれはな火の車てつれにきてな鬼のかうのものになりをるわい」(かうのものは香の物、食物)
 「おのれが父(とと)は町の番太をしたやつじや」(番太は卑賤の役)
 「おのれがかかは寺の大こくのはてじや」(寺の大こくは僧侶の隠し女) 
 「おのれが弟(おとと)は衒云(かたりいい)の挟箱(はさみばこ)もちじや」(衒云は詐欺師の相棒、手先)
 「おのれが伯母は子おろし屋をしをるわい」
 「おのれが姉は襠(きやふ)せずに味噌買いに行とて道てころびをるわいやい」(襠は腰巻)

  このように、相当に度ぎつい悪態が登場している。この悪態祭りが大晦日に行われるのは、いったい、なぜであろうか。おそらくは、一年間に積もった心の塵や煤(すす)を、その年の内に払って、心新たに正月を迎えたいという、日本人の謙虚さの表れであろう。こういった悪態祭りは、我が国のあちこちにあったようである。他には、たとえば、栃木県足利市大岩の最勝寺や、茨城県西茨城郡岩間村の愛宕神社などが挙げられる(参照:下記後日注記)。ただ、これらは前出の「闇の夜の悪口」の場合と異なり、正月に行われている(後出の「野崎参り」は五月)。
  悪態祭りについて、飯田六郎氏は次のように書いている。 

 一体、祭りの時に限って、公然と悪態をつくことが許されたというのはどういうことであろうか。部落なり、村どうしで悪態(嘘や法螺)をつき合うというのは、相手を言い負かすことによって、その年の豊かな稔りを約束されると信じたことの名残りであろう。それが変化して個人どうしの悪態となり、また、祭りには悪態がつきものだという観念が生まれたのであろう。(『喜怒哀楽語辞典』、29頁)

  氏によれば、昔、「千葉笑い」というのがあって、これは、千葉家が領主として繁栄していた頃、初春に領内の百姓たちが領主の悪口を言っ大笑いするという行事があったそうである。領主に悪口を言うことがなぜ祝福になるのかという点については、氏は次のように指摘する。

 初春に祖神、もしくは祖霊が子孫の家を祝福に来て(盆や正月の本来の意味)、その際に教訓やらあてこすりの言葉を残す行事が古くからあった。戦前の沖縄に残されていたアンガマアという行事(盂蘭盆)は、その形であった。村人が仮装して家々を廻って、教訓を与えたり、あやまちを露骨に咎め最後に祝福したというが、時代がたつにつれて悪態をつのは神様ではなく同じ人間であると思うようになる。それでも、宗教的行事としては神様の資格において考える。「千葉笑い」のような行事において悪態をつくことが祝福だという観念は、以上のことを考えなければ解釈できない。ここでは、領民が神様の代行をしているものである。(前掲書、29−30頁)

  縁起かつぎの悪態をあつかった上方落語に、お染・久松で有名な野崎村の野崎観音にまつわる「野崎詣り」がある(桂春団治のお家芸であった)。

 「へツへツ…、そら、あかんわ。わい、静かにしてたら、口に虫が湧く性分やねン」
 「けったいな性分やなァ、お前は…。 あ、ほんなら、ちょどええわ。アノ、堤(つつみ)を歩いてる人と、喧嘩をせェ、喧嘩を…」
 「ワハッ、そら、あかん。わい、喧嘩、きらいや。それに、第一、こっちは、舟に乗ってんねン。陸上(むこ)から石でも投げよったら、お前、逃げるとこあれへん」
 「情けないなァ、お前は…。心配せんでもええ。野崎詣りの喧嘩はナ、なんぼ口で口論(いいあい)しても、手ェひとつ掛けん、というのが名物や。ええか…  ここで、口論(いいあい)するやろ。舟が住道(すみのどう)へ着く、さきほどは失礼いたしました、これからは仲ようお詣りいたしまひょか、サ、おいなはれや。(ポンと手を打つと、踊りの手振りで)チャラカチャンチャン…と、踊りながら行くのや。なァ、往く道だけの喧嘩や。この喧嘩に、言い勝ちさえしたら、その年は運が良(え)え、いうねン。…運さだめの喧嘩、一番やったらんか」
 「あ、なるほど。運さだめの喧嘩か…。そんなら、おれやったろ。(以下略)」

  この「野崎詣り」の縁起かつぎもやはり、勝敗を神意の現れとみたところから生じたものと思われる。歌舞伎の『助六』、式亭三馬の『浮世風呂』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』等々にみる掛け合いや啖呵などの悪態は、江戸文芸の重要な構成要素の一つであるが、これは悪態祭りのような、宗教的行事に付随して発達した悪態の、さらに成長・変化した一形態であると思われる。ただし、悪態をつくこと自体は、何も江戸時代に始まったものではなく、古人はすでに『古事記』にオケノミコト(のちの顕宗天皇)とへグリノオミシビとが、一人の女(オオウオ)を争って、言い合いをするところが見えている。


2.悪態の俗性
  『助六』や『浮世風呂』などには、胸のすくような、江戸っ子の啖呵や掛け合いがふんだんに出てくる。ちなみに、この「啖呵」とは、「痰火(せきを伴って激しくく出る痰)」のことであり、「痰火を切る」とは「痰火を治療する」ことをいい、これが直ると胸がすっきりするところから、胸につかえている溜飲を下げるような、銘く歯切れの良い話し口調で話すことを、比喩的に「痰火を切る」と称したものである。
  こうした啖呵、掛け合いなどの「悪態」の本領は、何と言っても、相手の口を封じ 屈服させることであり、その、もっとも効果的な方法は、周知の奇抜な譬えや事物を引き合いに出しながら、周囲にいる味方や第三者を共感させ、哄笑させることであった。
  『浮世風呂』に出て来る啖呵の例を見てみよう。喧嘩を吹っ掛ける生酔いの男に、柔肌の男がこう啖呵を切る。

 インニヤサおまえまでがおつかじめる事アねへはな。こっちやアでへてへな事アりやうけんして、ちんころがうんこを、踏んだやうな面(つら)で通さアな。無面目も程があらア。何処の釣瓶(つるべ)へ引かかった野郎か。水心もしらねへ泡ア吹ア。コレヤイ、六十六部に立山の話を聞アしめいし。あたまツからおどかしをくふもんかへ。石菖鉢(せきしょうばち)の日高(めだか)なら、支体(づうてへ)相応なばうふらをおつかけてりやア、まだしもだに。鯨や鮎(しゃっちょこ)を呑うたア、でへそれた芥子之助(けしのすけ)だア。堀抜(ほりぬき)の足代(あしば)へ、家鴨(あひる)が登らうといふまで、おれに取てかかったのが胸屎だ。

  相手にこう啖呵を切られた生酔いの男は、最初の自分の啖呵、「コレ番頭、先刻(さっき)から喧嘩の対手(あいてが欲しかったが、やうやうの事て二人一時(いちどき)に出来た。とてものことに笊(ざる)を貸せ、湯の中を探して見たら、最(もう)二三人はあろう。サアサア皆覚悟しろ」もどこへやら、完全に降参してしまう。  
  ここで我々は悪態の機能のいくつかを知ることができる。すなわち、相手を悪態で屈服させることによって、当人の悪意を喪失させ、暴力を未然に防いでいる。しかも、周囲の人間の共感的な笑いが起きることによって、仲間同士の集団的結束力が強固になっている。悪態をつく本人が何等かの意味で、カタルシスを得ることは言うまでもない。
  ところが、時代を下った現代では、啖呵らしい啖呵を聞くことはめったにない。むしろ、すぐに暴力に移行する、陰湿で不健康な悪態が横行しているようである。もし、そうであるとすれば、それは「悪態の衰退」であると言えよう。「悪口もだんだん堕落した。悪口いう側は、悪口がもともと人を生かすものであることを、忘れたところでそれをいい、悪口うける側も、それをうけた場合の寛容と謙虚性をうしなった。こうして悪口は陰口にまでおちるのである」と指摘したのほ世良正利氏(『日本人の笑い』 174頁)である。陰口、告げ口、讒言(ざんげん)なども、それぞれが、悪態の一形態であるには違いはないが、これらは人を生かすよりも、むしろ人を殺す、邪道の悪態である。
  心ない女子学生の讒言で、助教授から教授への昇進を阻まれた人もいた(本多顕彰 『大学教授』 50-1頁)。
  池田潔氏の『教師のらくがき』には、「怒った話」と題して、次のようなことが書かれている(200ー2頁)。これなども、無知と悪意に基づく陰口の一例である。多少長く引用させていただく。

 かれこれもう三年になる。大磯から通勤の途中、三人の紳士が乗り込んできて、雨のせいか割合に空いている通路を隔てた向う側の席に腰を下ろした。新聞を読んだり朝からうつらうつら居眠りしている車中に、当時として整った服装をした相当な年配の重役タイプが語り手で、連れの二人が聴き役、高い声が次第に調子づいてきて話の筋もよく通る。いつのまにか、その辺りみんな聴き入って私も書物を膝にのせたまま、「…・・・三井の重役なんて連中も、みんなうまくやってるさ。現に大磯にいる池田成彬ね、先生なんかも清貧を売物にしているが、実際はなかなかどうして、どうして…」 おや、と私は胸がどきついた。「三井をやめて十何年たってずっと無収入のはずなんだが大きな別荘に入っているし、住民税だって、吉田茂より多いっていうんだ。清廉潔白でどうしてそんなことができる? ちゃんとうまくやってるのさ。たとえば例の財産税ね、あれだって先生は一割だけ納めてあとの九割は知らん顔さ。大蔵大臣をやったから税務署の方だって手は打ってあるし… 一割だけだよ、あとの九割は払わないんだからひどい話さ…」
 私は、文字通り、呆然としてしまった。三井をやめてから十何年、父はほとんど無収入の生活を続け、戦災で東京の家を失うと大磯にいて少しは残った書画骨董の売食いをしてきた。(中略)とすると、この連中の紳士の話はどういうことなのだろう、いい加減な男の無責任な放談とはわけが違う。いわば公開の席で父の名をハッキリ挙げ一割と言い、九割と言い、税務署を威圧してとキッバリ言い切っている。(中略)私は怒った。相手の紳士よ、何とでも言え、物見高い車中の人たちよ、おやじの悪口を言われて、むくれだした馬鹿息子を笑わば笑え、私は立上り名刺を出し、面談の機会を与えて欲しいといって、時と場所を相手の指定に任せた。(中略)その日の夕方、ある大銀行の重役室で私たちはいろいろと語り合っていた。

  いつだったか、一度自殺未遂をした十二歳の少年が、その後、学校友達から「自殺ッ子、自殺ッ子!」と囃し立てられ、悪態の限りを尽され、ほんとうの自殺を敢行してしまうという、痛ましい事件があった。これなど、まさに、「人を殺す悪態」、最悪の悪態の例である。
  現代の日本人は、こうした、悪意的な「陰性の悪態」に毎日の少なからぬ時間を費やしているのではあるまいか。そうではなく、悪態祭りや『助六』や『浮世風呂』などに見るような、善意的な「陽性の悪態」、換言すれは「人を生かす悪態」を、いま一度、育成し直す必要がありはしまいか。そのために、悪態祭りに見るような、「悪態の宗教性」を再認識する必要性がありはしまいか。
 悪態祭りの意義を知るとき、私は、「悪態」という、言語活動の一形態に、「神意」を意識した、“いにしえびとたち”の謙虚さと優しさを思わずにはいられない。



3. 悪口雑言の奥に潜むもの
  最後に、悪口雑言の奥に潜む深い愛情の例を、室生犀星の『あにいもうと』に例を取って見ておこう。小畑という学生の子を孕(はら)んだ妹の《もん》を、兄の伊之介が口汚く罵倒する。《もん》も負けずに悪態の限りを尽くす。二人の悪罵(あくば)を聞いていた母親は、「親身の兄妹のにくしみ合う気持ちはこんなに突っ込んで悪たれをたたくものか」と嘆く。《もん》にも、母親にも、伊之介の真意が分からない。実は、悪口雑言の限りを尽くすことで、邪魔者にされかねない妹に、伊之介は、母親と周囲の者の同情を向けてやりたかったのである。「そうしないと皆がもんを邪魔者にするからだ」という伊之介の真意の言葉を聞く時、我々は、言葉の表層にだけ囚われてはならないということを実感する。室生は我々に、この兄妹を例として、罵詈雑言の奥に隠された、日本人の“甘え合い”の一つの形を描いて見せてくれているのだと考えられる。
  悪態のつき方や、その言葉遣いは民族や文化によって種々様々であるが、人を貶(おとし)めたり、窮地や死に追いやったりするような《負》の遺産は次代に残さず、上記の「悪態の宗教性」に見るような《正》の遺産の復権を望みたいものである。

【本稿は、富士見言語文化研究会発行「ふじみ」誌(1991、12)に寄稿したものの増補版です】

後日注記:平成16年[2004年]2月14日(土)、宇都宮市観光コンベンション協会に招かれて講演を行なったが、そのあとの懇親会で、足利市大岩の最勝寺で行なわれる悪態祭りに詳しい地元の方にお話を伺うことができた。その方によると、現代では、子供達は自分達の先生(教師)を、夫は妻を、妻は夫を対象に悪態をつくことが多いそうである。


【付記】3.に書いた室生犀星の『あにいもうと』に関して付言すれば、私は成瀬巳喜男監督が1953[昭和28]年に映画化したものが好きだ。兄の伊之介を森雅之、妹のもんを京まち子、小畑を船越英二が演じた。伊之介、もんの母親は浦部粂子、父親は山本礼三郎、次女は久我美子だった。