]Z.正則教授法と変則教授法

◆本稿は日本医事新報社刊『日本医事新報 Japan Medical Journal』誌NO.42742006[平成18]年3月25日)の「質疑応答」欄に掲載されたもので、同社編集局報道課の許諾をいただいて転載しております。


Q.英語の教育方法について。漢文にレ点は一、二点をつける方法で英文を訳する方法があったと聞く。逆に、左から右に読む流儀を「正則」といい、東京の正則学園はそれを英語教育の基本としていたという。前者のほうの教育法の名称、簡単な文例を。また、いつ頃までこのような教育法は存在していたのか。(
大阪府 W

A.英語の意味を漢文解釈の時のようにレ点や一、二点を打って解釈しようとする方式を「漢文訓読式(解釈法)」とか「漢文訳読式(解釈法)」と呼ぶ。この方式は、ペリー来航時の通詞を務めたジョン万次郎、こと中浜万次郎(1827-1898)が、安政6(1859)に本邦初の英会話書として出版した『英米対話捷径』(「捷径(しょうけい)」は「近道」の意)の中で紹介したものであり、たとえば、次のような表記になっている。

こたえるか   あなた  言ひ 一レ  イギリスことばを
   Can(キャン)        you(ユー)       speak(スパーカ)       English(エンゲレセ)?

あなた    言ふ    イギリスことばを   十分に    こころよく
 You(ユー)      speak(スパーカ)      English(エンゲレセ)             pretty(フロテ)       well(ウワエル).

 中浜万次郎によるこの英語教授法は、できるだけ正確な発音を仮名で示し、しかも、それまでの日本人に馴染み深い漢文訳読式を用いることによって、日英語の著しい語順の違いを学習者に知らしめ、親しませようとしたものである。この方式は明治初期に流行し、これに倣った英学書が相次いで出版された。また、この方式は明治20年代まで行われた。 

「正則」という用語は「変則」と並存したもので、本来は制度上の用語として、明治新政府がそれまでの開成所を(大学)南校とした時に始まる。それによれば、「正則」は「外国人による授業で、教師に従い、音(アクセント、イントネーション等)の学習をし、会話を学ぶことを主とする」ものであり、それに対して「変則」は「日本人教師による授業で、文意を理解することを主眼とし、漢文素読式を採用し、音声には注意を払わない」ものであった。したがって、必ずしも、「左から右に読む流儀を《正則》と呼ぶ」のではない。

「変則」は音声を重視しない学習法であったため、学習者の英語読みには惨憺たるものがあった。たとえば(「時には」の意の)sometimes、(「隣人」の意の)neighborはそれぞれ「ソメチメス」「ネジボー」と読まれた。このようなことも手伝って、「変則(教授法)」による訓読解意中心の指導法はマイナスイメージを持つ用語となり、プラスイメージを持つ「正則(教授法)」の対極にあるような偏見が生まれるにいたった。

 明治29年(1896年)、『斎藤英和大辞典』を編纂し、英語教育史上不朽の存在とされている英語学者・斎藤秀三郎によって神田区錦町に設立された正則英語学校(正則学園の母体)が「正則教授法」を用いて英語活用者の養成を目指したことはよく知られている。当時の正則英語学校での授業の模様は、『正則英語学校講義録』(復刻版、全六冊、名著普及会)によって伺い知ることができる。

ちなみに、明治初頭の慶應義塾では、原書の解釈を主とする方法、すなわち「変則(教授法)」に基づく授業が行われていたが、明治5年(1872年)にカローザス(C. Carrothers)などのアメリカ人教師を招き、「正則」「変則」の両者を採用するに至った。

「正則教授法」による「正則英語」が人気を博している中で、検定教科書の一つとして出版された『Monbusho Conversational Readers正則文部省英語読本』(全5巻)も忘れられない存在である(明治223年、外山正一編、R.H. Chamberlain校補)。外山が明治30年(1897年)に著した、同読本の手引書とも言うべき『英語教授法』を読むと、いかに外山が同『読本』を用いて英語を「正則」に学ばせ、会話の材料とすることを重んじていたかがわかる。      

(文献)
1.『日本の英学100年―明治編』研究社出版1968
2.大村喜吉著『斎藤秀三郎伝―その生涯と業績』第5、吾妻書房,1972
3.伊村元道著『日本の英語教育200年』大修館書店2003