Ⅺ  辞書用例学の実践
     ―見出し語とその訳語のスピーチレベルの問題

                                        

 現在 (平成27 [2015]年5月現在)、私が編集主幹を務める『スーパー・アンカー英和辞典』(学研教育出版)の改訂作業を行なっている。多くの人たちの協力を得ているが、その中に、同辞典を最初から最後まで目を通し、様々な忠言を行なってくださっている方がおられる(高等学校で長年教えて来られた男性だ)。有難いの一言である。だが、その中に、辞書用例学 (Ipsology) の観点から見て、首肯出来ないものも混在する。以下にその具体例の一部を挙げて、私見を述べてみる。


******************************************************************************************************

例1)ball:6およびbust A's ballshave A by the ballでは、「睾丸」を用いて「品よく」したらいかがでしょう。

 【私の見解】 正確に表記すれば、「6 [s]《タブー》きんたま(⇒(1)「勇気」の意味で比ゆ的にも用いる。(2)Ballsで「くだらねーよ!」の意味に用いることがある。)」となっている。これは元のままでなければならないのだ。提案者は「きんたま」という言葉に嫌悪感あるいは違和感を覚えて「品よく」したらどうかと提案しているのだが、それでは“言語事実”を無視することになる。そしてその点こそが、英和辞書編纂史を通じて間違って伝えられたことなのだ。つまり、ballsという俗っぽい語が「きんたま」に最も近い以上、その事実を正しく伝えることが大事なのだ。その意味こそが「タブー」と捉えられることなのだ。「balls=睾丸」という表記では不適切なのだ。


例2)bang:5(タブー)では、学習辞書らしい品性を感じる言い回しはないものでしょうか

 【私の見解】この提案にも、上記例1)で言ったことがそのまま当てはまる。正確に表記すれば、「3[c]《タブー》」となっている。提案者の言うように、学習辞書らしい品性を感じる言い回しを求めて、“性交”とか“男女の性的交わり”としようが、それは言語事実としてタブー語としてのbangの意味を正しく伝えてはいないのだ。

例3)bollocks:2「睾丸」ではいかがでしょう。 

 【私の見解】正確に表記すれば、「《英タブー》2[U]きんたま」となっている。これを「睾丸」としてはどうかという意見なのだが、この提案も例1)、例2)の場合と同じで、“的外れ”なのだ。たしかに、意味的には「睾丸=きんたま」だが、「睾丸」に値するのはtesticlesだ。だから、「bollocks=睾丸」とは出来ないのだ。

例4)get any [some] 「性愛行為を行う」のように、あえてオブラートに包んだような記述はいかがでしょう。あけすけでストレートな表記ですと、(個人的には)思わず不快感を持ちますし、「慈書」への思いには通じない気もします。 

 【私の見解】この提案の問題点も上記のものと同じだ。正確に表記すれば、(getの慣用句として「get any [some]《タブー》セックスする」とあるのだが、この「セックスする」を“オブラート”に包んではどうかという提案なのだ。だが、これを“オブラート”に包んだように表現してしまえば、“言語事実”を覆い隠すことになる。だからこそ《タブー》とラベルが付いているのだ。「慈書」とは、辞書編纂に当たっての私のモットーである「辞書は慈書(言葉を慈しむことを学ぶ書物)たれ;辞書は滋書(=言語中枢に滋養を与える書物)たれ」の前半に言及したものだ。だが、私の言う「言葉を慈しむことを学ぶ書物」とは、言葉に関する事実を歪曲したり、“オブラート”で包んで実体を隠してしまうことではない。事実を事実として(この場合であれば《タブー》というラベル)の存在を知り、露骨な訳語が添えられている事実を知った上で、英語圏の人との会話や文通などには使わないようにするということなのだ。たとえば、「get any [some]《タブー》性行為をする、異性と性交渉を持つ」などと訳せば、たとえ《タブー》というラベルが付いていても、その“インパクト”は通じない。

例5)hot:何か「品のある(遠回しの)言い回し」はないものでしょうか

 【私の見解】正確には、「[the s]《俗》(…と)セックスしたい気持ち(for)とある。これを“品のある(遠まわしの)言い回し」に出来ないかという提案だが、その種の日本語対応語を探し得たとしても、すでに上記したとおり、言語事実を歪(ゆが)めてしまうだけなのだ。俗語としての hot に限りなく近い日本語をそのまま辞書に掲載することが訳語の問題を考える際には重要なことなのだ。

例6)jackjack off 「自慰(行為)をする」はいかがでしょう。確かに「マスをかく」というのは、俗語的な意味合いと響きがありますが、あまりに(個人的には辞書に載せるには)品のようなものを感じないもので 

  【私の見解】この提案に関しても上記したことが当てはまる。正確には「[自]《米》《タブー》マスをかく(jerk off)」とあるのだが、jack off がタブー語である以上、これに当てるべきは、タブーであることを示す現在の訳語なのだ。これを「自慰(行為)をする」と訳したのでは、スピーチレベルが異なり、言語事実を曲げることになる。

例7)[the] call of natureの解説で「(用を足すことを遠回しに)」ではいかがでしょう。

 【私の見解】名詞としてのcall の慣用句に対して付けられた注文だ。正確には、「[]《普》自然の呼び声(➨大小便がしたくなることを遠回しにいったもの)」とあるのだが、提案にある(用を足すことを遠回しに…)」では意味を成さなくなる。なぜなら「用を足す」という日本語自体が“婉曲表現”だからである。つまり「大小便をする」を遠回しに言ったものだ。だから、原文にあるとおりで全くかまわないのだ。

例8)certain:1のおしまいの例文で、「漢字」がそのままkanjiとして示されていますが、どうもしっくりきません。kanji characters, Chinese characters というふうに「英語らしく」したらいかがでしょう。kanjiだけの例が、SAではかなりの数が散見されます

 【私の見解】従来の英語辞書には「漢字」に Chinese charactersを当てている例が多かった。だが、これでは「中国人の性格」とも「中国の文字」(=中国語)とも解釈できて具合が悪い。kanji charactersでも悪くはないが冗語的だ。kanjiだけで「漢字」であることを知らしめるほうがよい。

例9)consequenceas a consequenceの例文の訳例で、「解雇された」もいいかもしれません。

 【私の見解】正確には、in [as aconsequence [副]《堅》その結果、したがって. 彼は盗みが見つかり、その結果(として)クビになった」とある。つまり原文は was firedとなっている。このfireは「(人)をクビにする」という意味の口語であり、スピーチレベル的に「クビにする」でなくてはならないのだ。それに対して「解雇された」はwas dismissedとなる。dismissが「(人)を解雇する」に相当する堅い語だからだ。

******************************************************************************************************

 以上、私のもとに届いた具体的提案に基づいて、それらが不適切なものであることを私の見解と共に証明した。この、英語の見出し語とそれに当てられた訳語とのスピーチレベルのズレの問題に気づいた人は、私の知る限り、だれもいなかった。だが、今後とも、英語の実体を知る意味で、英語と日本語とのスピーチレベルは出来るだけ近似のものにしなければならない。

 なお、訳語に関しては、同じ提案者から次のような提案もあったが、これにも私の見解を添えておいた。

******************************************************************************************************

例10)incomparable:「たぐいまれな」の付記はいかがでしょう。  

 【私の見解】この形容詞に対する現在の訳語は「比類のない、たぐいのない」である。これに「たぐいまれな」を付加してはどうかという提案だ。だが、「たぐいまれな」という日本語は文字通り、“まれ”なことを言っているのであって、「(たぐいの)ない」ということを言っているのではない。それに対して、incomparable とはunequaled, unrivaled, matchlessということである。つまり、“in-”であり“un-”であり“-less”であるのだ。繰り返すが、「たぐいまれな(る)」とはあくまでも“まれ”(rare, uncommon, unusual)なのだ。したがって、「比類のない、たぐいのない、たぐいまれな」と表記するわけにはいかない。それでは“言辞矛盾”になる。参照した限りの既存の英和辞典が、「比類のない、たぐいまれなる、卓越した」と表記しているが、上記したように、明らかな“間違い”である。


例11)implore:例文で、He implored his girlfriend not to leave him.「彼は恋人に別れないでくれと哀願した」ではいかがでしょう。

 【私の見解】もとの例文は男女が入れ替わった「She implored him not to leave him.彼に別れないでと哀願した」だ。女性が“かわいそうだ”という思いやりの気持ちからの提案であるのかも知れない。だが、辞書の用例の“弱い立場”のほとんどが女性であるなら、全体的にバランスよく男女に関わる用例を作ればよいだけの話だ。この場合の例は元のままで何ら差し支えない。