X 辞書用例学から見たイラストの偏向性
            ―某学習和英辞典の場合

        

辞書でも何でも、そこに収録されるイラストの存在は「百聞は一見にしかず」の諺どおり、言葉ではなかなか判りにくいものを容易に理解させてくれる有り難い存在です。しかし、残酷[残虐]なもの、差別的なもの、反社会的なもの、その意図が分からないものなどは好ましくありません。たとえば、某学習和英辞典(1996年初版)には、そういった類のイラストが多数含まれています。そのようなものを収録する必然性は何なのでしょう。関係者はどう考えてそれらを収録なさったのでしょう。私は、そのような残酷[残虐]な、差別的な、反社会的な、あるいは意図不明なものなどを学習辞典に多数混在させるのは問題だと思います。以下に具体例を挙げながら、辞書用例学(Ipsology)から見たイラストの偏向性を論じたいと思います。同辞典の実際のイラストを公表するには忍びませんので、各イラストが収録されている項目を明示し、私自身のコメントを添えながら論考を進めます。コメントの下に添えた赤数字は便宜的な通し番号です。
 

「右」の項
男性二人が泳いでいます。 一人が
“What's the matter?”と尋ねます。
もう一人が“”My right leg hurts.”と
答えます。その男性の右足は太もも
から下が鮫に食いちぎられており、
血が流れ、鮫が去って行っています。
なぜこのような
残酷なイラストを添え
る必要があるのでしょうか。一見し
てゾッとしました。

(1)

「落石」の項
DANGER
FALLING
ROCKS
の立看板を見ている登山者の頭上で
落石が起きています。看板の下では地
中から人間の片手が見えています。あま
りにも
残酷なイラストではないでしょうか。
(2)

「よろしい」の項
女性看護師が“This chair would do,
wouldn't it?”と尋ね、男性患者が“It
would do for the time being.”と答えます。
看護師が患者に勧めている椅子の脚の長
さが違います。これも
残酷な結末を想像
させるイラストだといえましょう

(3)

「ほとんど」の項
二人の男性登山者がもう少しで岩山
の頂上に辿り着きます。しかし、先頭
の男性が蹴ったかどうかした岩が後
続の男性を直撃しかけています。これも
あまりにも
残酷な結末を想像させる
イラストでしょう。なぜこういうイラストに
する必要があるのでしょうか。
(4)



「だめ」の項
民家の風呂場で火災が起きています。
消防士が“Can I come in?”と尋ねています。
裸の女性が“No, you can't.”と答えています。
非現実的であるだけでなく、残酷でもあります。
(5)

「釘付け」の項
「彼はテレビに釘付けになっている」という
場合の「釘付け」の日英差を示すために
添えられたイラストです。英語の場合は
男性がglueでテレビ画面に接着されてお
り、日本語の場合は男性の後頭部から
30cm以上もあろうかという大釘が1本
打ち込まれています。文字どおりとはいえ、
あまりにも
残酷なイラストではないでしょうか。
(6)



「なくなる」の項
男性が岩の上から海へ飛び込もうとしていま
す。海中では先に飛び込んだもう一人の男
性が、その男性に早く飛び込むことを促してい
ます。男性の背後には鮫らしきものの背びれ
が見えています。「いよいよという時になって彼
は勇気がなくなった」という文に添えられたイラ
ストですが、これも
残酷な結末を想像させます。
(7)



「避ける」の項
The car managed to avoid the utility pole.の
英文に添えられたイラストです。クルマが
電柱にぶつかるのを避けるように描いたの
はよいのですが、結局は川に飛び込んで
しまっています。なぜこのような
残酷な
結末
にする必要があるのでしょうか。
(8)

「ざくざく」の項
「箱の中には金貨銀貨がざくざく(=たくさん)
あった」という日本文の英訳に添えられた
イラストです。海中の大きな箱を開ける男性の
背後では、今にも鮫が襲いかかろうとして
います。これも
残酷な結末を想像させる
イラストです。その必然性が見つかりません。
それに、「…がざくざくある」という日本語も
私の耳には不自然に響きます。

(9)

蛇ははって動く Snakes crawl.


 「は(這)う」の項

腰を抜かした(らしい)女性が草地(らしき場所)
を這っています。その背後ではも大蛇が今にも
彼女に飛び掛ろうとしています。この種の
残酷な
イラスト
がなぜ必要なのでしょうか。
(10)


「質問」の項
洋服売り場の女性店員に男性客が
“I have some questions (to ask you). /
Can I ask you something?”と尋ね、女性
店員は“Sure. Go ahead.”と答えています。
それだけなら問題はないのですが、
男性の背後には男性の念頭にあったのが
“BUST / HIP / WAIST”だということを示す
吹き出しがあります。男性は女性の「スリー
サイズ」を聞きたがるものだとでもいいた
げな、
ステレオタイプなイラストでしょう。
(11)


「座る」の項

場所は映画館の中です。客は男性一人で、ほか
にはだれもいません。にも拘わらず、女性が
入って来て、その男性に“May I take this seat?”
と尋ねています。男性は“Certainly.”と答えます。
わざとらしいイラストではないでしょうか。非現実
的で、必然性
が全く感じられません。
(12)

「行く」の項
垣根越しに隣家の女性が“Would you
like come over for a cup of tea?”と、
芝刈り機で芝を刈っている隣家の男性を
お茶に誘っています。彼は“OK. I'll be right
over.”と嬉しそうに答えます。男性の家では
その妻らしい女性が額から冷や汗(?)を
流しながら男性を見ています。これは
何を
意味する
のでしょうか。
(13)


「遅刻」の項

He arrived too late.という例文に添えられた
イラストです。男性の頬には女性が力いっぱい
平手打ちを喰わせたと思われる掌の跡が残
り、男の目からは涙がこぼれています。これ
も好きになれないイラストです。どちらが被
害者であるにせよ、
暴力的なイラストは感心
できません。もっと楽しいものがよいと思います。

(14)

「帰りが遅いと女房が角を出す(=怒る) My
wife gets angry [《話》 gets her back up]
if I stay out late.



「つの」の項
さまざまな「つの」(鹿、カタツムリ、牛)に添え
られたイラストです。「つの」を生やした妻(らし
き女性)が酔っ払って(?)帰宅した夫(らしき
男性)を待っています。女性の手には箒(ほう
き)が握られています。これも
ステレオタイプ
ものだといえましょう。女性にだけ「つの」が生
えるという考え方が問題だと思います。

(15)





「特徴」の項
壁に書かれた「痴漢注意」という注意書きの
そばで高齢の女性がハンカチで涙(冷や汗?)
をぬぐいながら、警察官の“Were there any
marks on his face?”という質問に“Well, he had glasses on, I suppose.”と答えています。このよ
うなイラストは明らかに
性差別・年齢差別
つながるものだと思います。

(16)








「がたん(と)」の項
The train jolted to a stop [just before it
stopped]./The train stopped with a jolt. という
例文に添えられたイラストです。場所は電車内
です。二人の女性とその間に一人の男性が
いて、吊り革に掴まっています。ところが電車
が揺れた際に、一番体格のよい女性の吊り革
だけがぷっつりと切れてしまいます。電車が揺
れたからといって、 なぜその女性の吊り革だ
けが切れるのでしょうか。
性差別的、肉体差
別的
だと思います。
(18)




「お世辞」の項
“Oh, come on! You flatter me.”“Oh,
I mean it.”という、女性と男性の対話に添え
られたイラストです。ドレスを着た体格のよい
女性が描かれていて、首には真珠の
ネックレス(らしきもの)が見えます。同時に、
世辞を言っている男性の背後の吹出しには
“ブタ” の絵が描かれていて、そのブタの首
にも真珠のネックレス(らしきもの)が見え
ます。
ある慣用句を想起させます。
(17)


「番」の項
場所は会社かどこかの受付のようです。
受付係の女性に対して一人の男性が、
“What is your phone number?”と尋ねて
います。しかし、男性の左手には催眠術を
かけているかのように振り子らしきものが
握られています。イラストではその女性は
すでに催眠状態に入っているように見えま
す。このような
反社会的で、差別的なイラス
をなぜ掲載するのでしょう。
(19)


 「すみません」 の項

クルマに乗った男性が、ヘルメットをかぶった
道路工事関係者に“Excuse me. May I get
through, please?”と尋ねています。聞かれ
た男性は“Certainly.”と答えます。しかし、道
路の前方には大きな穴(陥没部?)が待ち
構えています。学習和英辞典のイラスト
になぜこのような
悪質で、反社会的な
ものを掲載する必要があるのでしょうか。
笑えないイラストです。

(20)

「取る」の項
一人の少年が木から垂れ下がる柿らしきも
のに向けて虫捕り網を伸ばし、“May I take
two?”とそばの男性(父親?)に尋ねていま
す。その男性は大きなカゴを背負っています。
そのカゴからは柿らしきものがこぼれ落ちそう
です。彼は少年に向かって、“Take as many
as you like.”と答えます。しかし、その木は
他人の土地から枝を伸ばしているものであり、
塀の向こうでは、その家主らしき男性が冷や
汗(?)を流しながら二人を見ています。少年と
その父親(らしき人物)が行なっているのは
明らかな「窃盗」ではないかと思います。
反社
会的・反道徳的なイラスト
といえるでしょう。
(21)


「ごみ」の項
さまざまな「ごみ」の中に混じって中年の
男性が鼻からちょうちん(?)を出して昼寝ら
しきことをしています。そばではエプロンをした
妻らしき女性が“refue?”と独り言を言ってい
ます。「粗大ごみ」との連想によるイラストで
しょうが、なぜこのようなイラストでなければ
ならないのでしょうか。
ステレオタイプなもの
に思えて仕方がありません。
(22)

「はさみ」の項
場所は駅のホームです。満員電車のドアに女性
客の着衣の裾が挟まっています。その状況での
駅員男性2名の対話です。“I need some
scissors.”“Here they are.”あり得ない、
反社
会的・反道徳的な
ことをイラストにする必要が
どこにあるのでしょうか。

(23)


「払う」の項
夫婦喧嘩の最中でしょうか、妻らしき女性が
頭上に抱えたお膳を夫らしき男性に投げつけ
ようとしています。これが、“How much did
you pay for the table?”“I paid ten thousand yen.”という対話に添えられたイラストです。こ
の種の
暴力的なイラストを掲載する目的は
何でしょうか。

(24)


「もうひとつ」の項
場所はどこかの病院[医院]のようです。女性
看護士が高齢の男性患者の脈をとりながら
“How are you feeling?”と尋ねています。
それだけなら普通の場面ですが、“Not very
well.”と答える男性の枕もとに置いてあるのは
アルコール飲料の瓶とおぼしきもの2本です。
しかも、男性患者の目はとろーんとしている
ように描かれています。薬瓶なら、それらしく描
かないと、アルコール飲料の瓶と見間違えられ
るでしょう(私にはどうしても薬瓶には見えませ
ん)。
不謹慎な感じがしてなりません。
(25)



「ぽん」の項
場所はレストランのようです。ウエイターが
抜いたシャンペンらしき瓶の蓋がポーンと
勢いよく飛んで、あろうことか女性客の額に
激しくぶつかります。女性はひどく驚いている
ように描かれています。このような状況が
絶対ないとは言えませんが、
普通は考えられ
ない場面
ではないかと思います。
(26)




「−よう」の項
場所は一軒の家の玄関先です。雨が降って
おり、蛙が一匹跳ねています。少年がリュック
サックを背負って“Should I go or shouldn't I?”
と母親らしき女性に尋ねます。女性は「お好き
なように」ということで、“As you like. It's for
you to decide.”と答えます。
非現実的な場面
でしょう。
(27)




「寝る」の項
電話ボックスから泥棒らしき人物が向かい
の家の男性に電話を掛けています。その男
性はナイトガウンらしきものを着込んでいま
す。電話ボックスの男は“What time do you
usually go to bed?”と電話で尋ねます。ガウ
ンを着た男性は何のことだろうと思いながら
(2つの疑問符が男性の頭上に描かれてい
ます)“At twelve.”と答えています。やはり

然性のないイラス
トだと思います。
(28)


 上掲のイラストを収録している同和英辞典は、4年後の2000年に、その全面改訂版を書名まで変えて出版しましたが、上掲のイラストに関しては全く手をつけていません。なぜ、このような「深刻な問題」が放置されるのでしょうか。にもかかわらず、編集主幹氏はその「まえがき」で、PC (=political correctness)に言及して、次のようなことを書いておられます。
  

PC関係 2版で初めて導入したが、一歩進めた.ガラスの天井(glass ceiling) で象徴されるように、sexism について例文の内容まで検討した。これまで高度で複雑な職種や地位などについては大抵 He is... や a man of...であったが、She is...や a person of...を加えバランスよく女性もどの職種にも進出していることを示した。また、「老人」というのを社会的な面から an older [elderly] person にするように勧めてきたのもagism に配慮したためである。(以下略)

                       
 
もし、氏の書いておられることが、同辞典の「イラスト」にまで及んでいれば、書名まで変更した同辞典の改訂版では、上掲のイラスト群のうち、少なくとも、(11)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)、(22)、(24)番のものは削除されていたことでしょう。これまでイラストは「埋め草」的に取り扱われ、軽視されてきたものですが、それらが利用者に及ぼす無言の影響力を考えれば、けっして看過されるべきものではないと思います。PC問題はなにも、文例や句例にだけ神経を使えばよいと言うわけではないのですから。