XI 異文化理解のための英語辞書
1.はじめに
人間であれば、どんな国の人々とも、話し合いで分かり合え、どんな問題も解決できると楽天的に考えている人はいないであろう。宗教がらみの民族紛争などは、民族同士が理解し合うことの難しさを如実に示している。そこに見られる憎悪の深さは、容易には消滅しそうにない。しかし、「平和」を希求する気持ちを失えば、人間であることの意味も失われてしまう。特に、われわれ一般人は“民間外交”のレベルで、お互いの理解と信頼を深めるための努力をしなければならない。英語学習はその“希求心”を育成するものでありたいと思う。私自身はつねにその“希求心”を私の辞書作りの原点としてきた。したがって、『ニューアンカー和英辞典』を編纂した時には、以下の「3つの願い」を心に銘記した。それは、
1.英語学習を楽しく実りあるものにする辞典でありたい。 2.日英文化を尊敬する日本人を育成する辞典でありたい。 3.世界平和を誠実に希求する人々の為の辞典でありたい。 |
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というものであった。理想がどの程度実現できたかについては、利用者各人の判断を待つのがよかろうが、自分としては、理想へ向けての実践が確実に1つの成果を見たという実感は持っている。当然、『スーパー・アンカー英和辞典』編纂時の「願い」も、同じく、上記の3点であった。難しい言い方になるが、和英辞典の場合には、「日本人の知情意と真善美の世界を紹介・啓蒙することに寄与するものでありたい」と思うし、英和辞典の場合には、その反対に、「英語国民の知情意と真善美の世界を紹介・啓蒙することに寄与するものでありたい」と思っている。
2.日本人は日本語で考える
大学時代の私は、真剣に学習しさえすれば、英語国民と同じような英語が話せたり、書けたりするものだと思っていた。英語を自由に読み書きできないのも、流暢に話せないのも、自分の努力不足や貧困な英語教育制度のせいだと思っていた。しかし、大学院に入ったころから、何かしら、奇妙な思いに囚われるようになった。いくら“自信”を持って書いた英文でも、ネイティブチェックをしてもらうと、頻繁に“gramatically
correct but not English ”とか“basically acceptable but not natural”とか“Japanese
English”とかといったコメントがあちこちに付されて返却されたからである。辞書用原稿を執筆するようになってからも同様であった。ここでも、その多くは、“文法”に関してというよりも、“発想”に関しての訂正がほとんどであった。そのようなコメントが付されるたびに、自分の“日本人性”を思い知らされたのである。最近、ようやく“赤”を入れられる回数や量が減ったものの、今もってその“日本人性”から完全には脱却できないでいる。
数点の英語辞書を編纂する立場に立ってからも、その思いは残った。そして、今ではそれはほとんど“確信”とも言えるものになっている。「日本で生れ、日本で育った普通の日本人は、日本語で考え、その考えに従った英語訳、日本語訳をする」という思いである。いわゆる“帰国子女”か、常に“英語漬け”の状態を創り出せる一部の日本人を除き、普通の日本人にとって、英語らしい英語を話したり、書いたりすることなど不可能か、それに限りなく近いというのが、現在の偽らざる心境である。たとえば、次のような日本語を英訳してみよう。
a) 彼はすっかり横着になって自分のふとんも敷かない。
たいていの人はこの日本文を、a) He has become very lazy and doesn't even make his bed.とするであろう。もちろん、これでよい。しかし、この日本語を見た時の日本人の念頭にある「ふとんを敷く」とはどのような時間(帯)に、どのような動作で行なうものであろうか。それに対して、この英文を見た英語母語話者たちが連想する“make
one's bed ”とはどのような時間(帯)の、どのような動作であろうか。その違いについては、答えを出す必要もあるまい。普通の日本人英語学習者は、“bed-making”の日英差など考えずに、日本的にのみ“英作”するのが常であろうし、それで“自分(たち)の思い”は通じたと感じてしまう。それでは、次のような日本文はどうであろうか。
b) 食べ過ぎてげっぷが出た。
c) 先生は難問に腕組みをして考え込んでしまった。
d) 彼はばつが悪くなり、ぺろっと舌を出した。
e) 道で拾った 500円玉を猫ばばしたら、しばらく後ろめたい気分だった。
f) 足でドアを閉めようなんて横着だ。
これらの日本語は数通りの英訳が可能であるが、代表的なものは以下のものであろう。
b) I belched [burped] after eating too much.
c) When asked a tough question our teacher lost himself in thought
with his arms folded [with folded arms].
d) Embarrassed, he stuck his tongue out.
e) I felt a bit quilty for some time after I pocketed the 500-yen coin
I found on the street.
f) Closing the door with your foot is a sloppy thing to do.
日本文はそのいずれも、私たち日本人が平素、普通に使用しているものである。また、英語は、そのいずれも日常的な普通の単語で書かれたものである。それでは、問題は何であろうか。じつは、日本文のほうが、そのいずれも、「日本文化」を反映したものであり、「英語文化」とはズレるものなのである。
b) に関して言えば、“食後のげっぷ”に対して日本人は、英語国民よりも、寛容である。“満腹感”を表す方法として、故意に出す人もいるくらいである。これに対して、英語国民は一般的に、食事中や食後のげっぷを不作法と捉らえるのが普通である。
c) の場合、「腕組み」は英語国では“拒否”や“反抗”の動作であり、日本人が思うような“考え込む”時の動作ではない。日本では国会議員などがよく腕組みをして、目を閉じているが、あの光景が英語国民にはどのように映るかは想像に難くあるまい。
d) の場合、「ぺろっと舌を出す」行為は、英語国では子供っぽいしぐさか、軽蔑のしぐさである。英語国であれば、普通は「肩をすくめる」(shrug
one's shoulders)であろう。
e) の場合は、取得物と“後ろめたさ”との関係は国民[民族]性、宗教性などによって異なる場合の1例と考えられるものである。英語には“Finders
Keepers, Loosers Weepers.”(見つけた人がもらう人、なくした人は泣きをみる)という諺さえある。イギリスの子供たちがこの諺に、独特のリズムを付けて、取得者としての権利を主張している場面を何度か目撃したことがある。大人たちも、落とし主不明のあまり高価でない物を拾ったような場合にはこの表現を口にする。この諺は、物を紛失した場合は紛失した本人が悪いという、自己防衛を重視する文化の中から生まれたものと考えられる。「拾った物は交番に届けること」を幼い時から教えられる日本人には、なかなか理解できない感覚であろう(昔ほどではないにしろ、日本人のこの“正直さ”に感嘆する外国人は今も少なくない)。 最後の
f) であるが、これは“横着”に対する彼我の感じ方の違いを反映したものである。最近では日本人も、英語国民並に“横着”になったが、それでもドアを足で閉めるのはあまり褒められた行儀ではないと感じる日本人は多いであろう。これに対して、英語国民なら、手がふさがっているのなら、“足”でもどこでも使ってドアの開閉をすればよいと考える人が大多数であろう。
このように、私たちが、何気なく言ったり書いたりしている日本語には、「日本文化」が染み付いているのが普通である。英語学習においては、この辺りのことをきちんと押さえておかないと、“英語文化”を“日本語文化”という眼鏡を通して、勝手に解釈して、相手を理解したつもりになってしまう恐れが多分にある。
3.英語国民は英語で考える
今度は逆を見てみよう。英語国民と話をしたり、彼らが書いたものを見ていると、明らかに“英語性”を反映していると思われる表現に出くわすことが多い。次の文例を見ていただきたい(カッコ内は出典国)。
a) George has that awful habit of picking his teeth.(米)
b) Making the baby eat his spinich is struggle. (米)
c) Mother punished my little brother by keeping him indoors.(米)
d) Inevitably he quarrelled with his mother-in-law. (英)
e) He's the ideal sort of teacher ― direct, friendly and informal. (英)
f) In America people are thrown in jail if they are drunk in the street.(米)
一見、何の変哲もない英文であるが、これらを英米人のだれかが口にしたとする。そのどこに“英語性”が観察されるであろうか。
まず、a) では、爪楊枝を使って歯をほじる行為が、米国(その他の英語国)では“みっともない”(awful)
行為であることが分かり、b) では、米国では幼児にホウレン草を食べさせることが一苦労
(struggle) であることが分かる。後者の場合、日本人なら“ニンジン”が使われる可能性が高いであろう。米国の幼児には、ポパイがホウレン草を食べて力を付けるのを見て、いやいやながら自分もそれを食べ始めるという幼児も少なくない。c)
の場合、米国の子供にとって、自分の部屋に閉じ込められることが“懲罰”であることが分かる英文である。日本の子供なら、親から「出て行きなさい」とか「出て行け」と言われるところである。これは“自由の所在”に対する考え方の違いである。一般の日本人は昔から、“村八分”にされたり、村から追放されることを極端に嫌ったから、「出て行きなさい」とか「出て行け」と言った懲罰方法に恐怖を感じてきた。いっぽう、米国人にとっては、自由というものは“家の中”にではなく、“家の外”にあると考えており、その自由を剥奪されて、自分の部屋に“閉じ込められる”ことに恐怖を感じる。彼らの建国史を見れば、その点も納得できるであろう。
d) の場合、「ご他聞にもれず、彼は姑と喧嘩をした」の“ご他聞にもれず”(inevitably)
とは、英国(その他の英語国)では、日本の“嫁姑”問題と異なり、“婿姑”の関係が取り沙汰されることを示している。
e)は英国(というよりも英語国民)にとっての「教師の理想」が、“率直で、フレンドリーで、形式張らない”人だということを教えてくれる。
また、f) からは、アメリカでの酔っ払いの扱われ方が分かる。確かに、日本にも“トラ箱”はあるが、“jail”とは認識されていないであろう。秋田民謡の酒屋唄、新タント節(ハア、酒は良いもの、気が勇むもの、飲んだ心地は富士の山/ソラ、だれが何と言っても、飲んだほうが得だ)、黒田節等々、わが国には、“飲酒”を容認したり賛美したりする唄が無数にある。それは日本人と酒がどのような関係を持って来たかを如実に示すものである。反対にキリスト教国には、「汝、酒に酔うことなかれ。むしろキリストの御霊に酔うべし」という戒めがあり、飲酒(の程度)に関しては日本とは比較にならないほど、厳格な捉らえ方をする。ちなみに、日本人は酒量が増えた人や深酒をするようになった人のことを、「ストレスが溜まって(来て)いるのだろう」とみなす向きがあるが、キリスト教国では、それを「社会性や人間性の破綻」と捉らえる向きがある。要するに、“social dropout”になったと捉らえる傾向があるのである。
4.これからの辞書の1つの在り方
以上、多数ではないが、日本人の書き話す英語に“日本人性”を、英語国民の書き話す英語に“英語国民性”をそれぞれ観察することのできる実例を示した。私は日本語文化と英語文化の違いばかりを強調するつもりはない。ただ、私たちの書き、話す英語に“日本人性”が反映することは避け難い事実であることを例示したかったのである。それゆえに、“異文化理解”の実践に当たっては、相手とは考え方、感じ方、価値観等々が異な(ることがあ)って当然と捉らえ、その異なりを相互理解に努めながら乗り越えて、英語教育に携わる各人の努力をより良い方向に収斂させて行くべきであろうと思うのである。「オーラル重視」の傾向は良いのであるが、通じれば良いというようないい加減な態度が進行してはなるまい。言葉を慈しむような、結果として、そのこと言葉を用いる人々が大切に思えるような、そういう態度を育成する英語教育でなくてはなるまい。辞書はその育成に資するものでありたい。
個人的には、英和辞典はもっと英語文化を教えてくれるものであってほしいと思う。反対に、和英辞典は日本文化が伝えられるように助力してくれるものであってほしいと思う。たとえば、“souvenir”を「みやげ物」とだけ覚える日本人学習者が多いことを思えば、英和辞典には、「日本人は“みやげ(物)”の意でこの
souvenir をよく用いるが、これは他人への贈り物とは限らず、旅の思い出として自分のために買う品を含む。したがって、自分以外の人へのみやげ物には
gift やpresentを用いるのがよい」というような注記がほしいし、和英辞典にも、「みやげ(物)=souvenir」ではないことの明記がほしい。そうしておけば、「私は記念にその試合の切符を取っておいた」という日本文を見ても、I
kept the ticket in remembrance of the game. という訳し方と同時に、I kept the ticket
as a souvenir of the game.のように、souvenirを使った訳出も可能になろう。収録語数の多さや語法の詳細さは中型以上の英和辞典・和英辞典に任せるとして、高校生以下の学習用辞典には、そうした、日英比較や異文化理解のための情報こそ、真に必要なものであると思う。
5.最後に
辞書指導の目的の1つ「辞書を活用できる自立した学習者を育てる」ことである。換言すれば、辞書指導は生涯学習との関連で考えるべきものである。したがって、学習者には、何よりも、「辞書を引くことの楽しさ、面白さ」を実感させるような工夫を凝らした辞典を持たせてやりたいと思う。
慶應義塾高校の1生徒が、私が編纂した英和辞典に関して、こんな言葉を寄せてくれた。「僕は日英比較の欄が好きで、この間もinsectとdragonfly を読んでとても参考になりました。(中略)また日英比較にもどりますが、funeral
のところで、英米人は伝統的には土葬であることを知りました。カトリック教徒とユダヤ教徒が来世での復活を信じて火葬にしないなど、宗教心にあついことも学びました(以下略)。」
また、鹿児島県内のある盲学校の先生は、こんな言葉を寄せてくださった。「まさに辞書は読むものということを実感できるすばらしい辞書です。授業でlove一語を取り上げて一時間が楽しくあっという間に過ごせました。生徒たちの反応もとてもすごいものがあります。待望の辞書、有難うございました。」 同氏が送ってくださった、天眼鏡を使いながら、私が編纂した辞書を“読んで”いる盲学校生徒諸君を写した写真には、私は深く感動した。まさに辞書編纂者冥利に尽きると言える。このような、辞書の楽しさを実感した生徒たちは、あとは自分でその楽しさを増強させていくはずである。
残念ながら、わが国の中・高の多くは、適切な英語辞書指導を行なっていない。私の手元には、そのことを実証するデータがふんだんにある(辞書指導の不備は何も英語の辞書だけではない。私は漢和辞典の活用法も教わったことがない)。適切な指導が行なわれない理由に関しては、本稿では割愛するが、最近の辞書は「利用しなければ損」と思わせるほど、すばらしい内容のものが多くなっている。この点を多くの教授者に実感していただきたいと思う。そういう辞典を利用しつつ、授業との関連で、必要な情報を抽出し、整理して、教室に臨むとよいであろう。「英和辞典は受験の邪魔だ」「和英辞典など見るな。知っている単語で表現しろ」と暴言を吐く教師が一部にいることも知っている。しかし、異文化理解を進めるために英和辞典、和英辞典が大いに役立つことはまぎれもない事実である。辞書を「宝の持ち腐れ」にしないようにしたいものである。