XX\ 学 習 和 英 辞 典 ― そ の 後 ―
    EFL Japanese-English Dictionaries
      ―Afterwards―
         
山岸 勝榮 (YAMAGISHI, Katsuei)
  

Summary

 More than 25 years ago, I wrote a series of articles for Kenkyusha’s Modern English Teaching (then a well-known magazine for Japanese teachers of English, but unfortunately now discontinued), focusing upon incorrectly or unsatisfactorily translated words, phrases and sentences extracted from EFL Japanese-English dictionaries. There were too many linguistic problems in them. In this article the author selects some of the examples which he discussed in the above-mentioned series, and considers how much or in what way the problems have been improved or revised in the dictionaries since then.


連載を始めた頃とその動機
 今から四半世紀以上も前(1986[昭和61]年頃)、筆者は研究社発行の英語雑誌「現代英語教育」誌(現在廃刊)において、「和英辞典を考える」と題する連載を開始し、それまで筆者が論考しておいた和英辞典の諸問題を公表し始めた。焦点は高校生・大学生を中心として編纂された、いわゆる学習和英辞典に絞った。連載は途中で途切れることもあったが、計12回、約3年間続いた。
 それまでにすでに、『ライトハウス和英辞典』(第1刷1984;研究社)、『プログレッシブ和英中辞典』(第1刷1986;小学館)という、それ以前の学習和英辞典よりも大いに改良されたものが公刊されており、とりわけ前者は訳語が2つ以上並列される場合は必ずそれらの意味の区別、または文体上の区別をし、文法・語法・日英比較などなどに関する注意をふんだんに盛り込むものになっており、後者はとりわけ「重要な語については原義をT、比喩の意味をUに分けるなど、語義分けを厳密にし、日本語の概念を明確にするように努め」たものになっていた。その他、多様に改良を施していたが、両者の大きな特徴はそうした点だった。
 これらの辞典の出現により、和英辞典は「面白くない辞典」、「実用的でない辞典」から、「面白い辞典」、「実用的な辞典」に衣替えを始めたと言っても過言ではなかった。そうした改良はもちろん喜ばしいことではあったが、筆者の立場からは、改良の余地はまだ多く存在すると思われた。そこで、以下の諸点を論考することにしたのである。

PartTで問題としたこと
 神はGodか (1986年12月号での指摘)
 それまでに参照した限りの和英辞典が、「神」という日本語の第1訳語にGodを与えており、用例としては、たとえば「神を信じる believe in God /神を敬う revere God/神を讃える glorify God /神(に)かけてそれは真実である I swear to [by] God that it’s true. /何が起こるか神のみぞ知る God only knows.」など、大文字で始まるGodのものばかりであった。だが、これはキリスト教、ユダヤ教など、一神教の神を意味する語であり、八百万の神という考え方が一般的な我が国の「神」にはそぐわないものだ。その事実を考えれば、小文字で始まるgodや「神性を持つもの」を意味するdeityといった語の扱いは、まことに「申し訳程度」のものであった。筆者はこの指摘を行うと同時に、その後、筆者自身が編集主幹を務めることになった『ニューアンカー和英辞典』(1991年1月10日;学習研究社)では、「神」の項を次のように取り扱った。

  
 かみ 神

   a kami, a god, a deity; God
   【解説】(1)日本人の一般的な宗教意識にはキリスト教の場合のような唯一絶対の
   神Godは存在しないので、「神」は小文字のgod(「女神」はgoddess)で表すか、kami
   (複数形もkami), higher being, higher powerなどを使って表現する。(2)ギリシャや
   ローマなどの多神教の神々もgod, goddessで表す。(3)deityはgodの意のやや古い
   語で、「神性を持つもの」の意でも用いる。
    ●家庭に祭ってある神さま a household god/神道の神 a Shinto god/農耕の
   神 an agricultural god /縁結び[福]の神 the god of marriage [wealth] /やおよ
   ろずの神 the eight million kami [deities ] / a myriad of kami/(キリスト教の)全
   知全能の神 the Almighty God / God Almighty /ギリシャ[ローマ]の神々 the gods
   of Greece [Rome]./神を信じる believe in the Shinto gods [in God] /大学入試の
   合格を神さまに祈る pray to the kami [the Shinto gods] for success in college
   entrance exams /苦しい時の神頼み People turn to religion in times of distress.
   /《比喩的》お客様は神さまです The customer is always right. /神がかる(→
    見出し語)

 以上の取り扱いから分かるように、筆者は日本人として、「和英」である以上、あくまでも「和」を優先的に取り扱うべきだという考え方を貫いた。筆者のこの考え方に何らかの影響を受けた人々がいたかどうかは分からない。しかし、その後、和英辞典の「神」の項の取り扱いに注意を払うようになってくれたのではないかと、各辞典の表記法の変化から推測している。次に示すのは、2011年12月に出た某学習和英辞典(以下、『和英辞典A』と表記)の「神」の項の冒頭部分である。

   かみ [神]
   《多神教の神・男神》god [C]; 《多神教の女神》goddess [C];《多神教の男神・女
   神》deity [C] 《god, goddessより堅い語》;《特にキリスト教など一神教の》God
   [U] 縁結びの神 the god of matchmaking / 試験の合格を学問の神に祈った I
   prayed to the god of learning that I would pass my exams. /この神社では大蛇
   が神として祀られている The great snake is enshrined as a god in this shrine.
    /古代ギリシャの神々 the gods and goddesses [deities] of ancient Greece /神
   を信じる believe in God / 神にかけて真実を語ることを誓います I swear by God
    (that) I will speak the truth. / そのあとどうなったかは神のみぞ知る God only
   knows what happened after that. (以下略)

 上記のように、同辞典は、それまでのものと異なり、日本人と「神」との関係に配慮した書き方になっていることが認められる。既述した通り、「和英」である限り、その点を欠いてはならないはずだ。もっとも、残念だが、和英辞典の中には、旧態依然とした書き方をしているものもある。可能な限り早い改良を望みたい。


言い換えについて(1987年1月号での指摘)
  和英辞典の中には、「ごはん[御飯]→めし[飯]」、「くう[食う]→たべる[食べる]」、「けんめい[懸命]→いっしょ(う)けんめい [一生懸命・一所懸命]」、「こやし[肥やし]→ひりょう[肥料]」というような、矢印を用いた言い換えを行い、その参照先で当該見出し語を扱うというものがあった。だが、この種の扱いは、日本語の実態を損なうものだと思った。たとえば、最初の「ごはん[御飯]→めし[飯]」の場合で問題点を考えてみよう。
  「ごはん」を「めし」の項に導くのは、和英辞典としてははなはだまずい。なぜなら、両者が日常的には、慣用的に、相当異なる語だからである。この処理をしている某和英辞典が「めし」の項に挙げている用例、「飯を何杯食ったか」、「飯の支度はまだか」はいずれも日常的には使用がはなはだ限られているものだと思う。後者など、まるで横暴な亭主が貞淑な妻に詰問しているかのように響く。やはり、「ごはん、何杯食べた?」とか、「ごはんの支度はまだ?」のような日本語文例こそが必要である。したがって、同辞典の取り扱いでは、その2文例は収録されないということにある。また、「ごはん」の立項がなければ、「あごにごはんつぶがついてるよ」とか「朝 [昼・晩] ごはん」のような複合語も収録されないままになってしまう。
  また、「くう[食う]→たべる[食べる]」の言い換えもはなはだまずいだろう。これでは、「蚊がくう」、「(鳥・魚などが)餌をくう」、「時間をくう」、「肩透かしをくう」、「いっぱいくう(=だまされる)」、「臭い飯をくう」など、きわめて日常的な慣用句が掲載されないままになってしまう。
  さらに、「けんめい」がなければ、たとえば、「警察による懸命な捜査にもかかわらず犯人は捕まらなかった」というような日常的な日本語は収録されないままになってしまう。こういう場合、日本人は、「警察による一生 [一所] 懸命な捜査にもかかわらず犯人は捕まらなかった」などとは言わない。
  最後の「こやし」だが、これを「ひりょう」で処理するわけにはいかない。なぜなら、これでは、「あるものの成長の助けになるもの」という比喩的な意味での「こやし」の例、たとえば「他人のどんな意見も自分の将来のこやしにする」というような日本語の例を収録することができなくなってしまう。(その他の例は省略。)
  こうした処理法をしている問題の和英辞典は、その改訂版でも、一部を削除したものの、まだそのままにしているものも多い。だが、すでに証明したように、そうした処理法は日本語の現実の姿を誤って行ったものではなはだ不適切なものである。早急に問題点に気づいてもらいたいものだと思う。


(3)用例について (1987年2月号での指摘)
  同連載で、和英辞典に収録する用例について多角的に論じたが、筆者が一番問題としたことの1つが、人称代名詞の「彼」「彼女」の取り扱いだった。全ての和英辞典が、多少の表現方法にこそ異なりはあるものの、次のような日本語の例をあちこちの項目で収録していた(英文省略)。

   彼は私よりも5年先輩である。/ 彼 [彼女] は私のずっと先輩です。/ 彼は大学では私より2年先輩でした。/ 彼は私の高校の大先輩です。/ 彼は私のかなり先輩だ。/ 彼女は同窓会の大先輩である。

 筆者は年齢の関係もあるだろうが、こうした用例における「彼」「彼女」の使い方に大いに違和感を覚える。たしかに、最近は(と四半世紀ほど前に書いている)、テレビ講師が孔子や孟子のことを「彼」と呼び、若い母親が小学校のPTAの会合で自分の息子や娘のことを「彼」、「彼女」と言う時世になってしまっている。しかし、少なくとも四半世紀ほど前の筆者も現在、本稿を執筆している時点においても、やはり上掲のような文例の人称代名詞の用法には馴染めない。
 呼ばれる側の立場に立って考えてみよう。5年も後輩の人物から、ずっと後輩の男・女から、大学の2年後輩から、高校時代のはるか後輩から、声の届く範囲内で、自分を「彼」とか「彼女」とかと呼ばれて、何の抵抗感も覚えない日本人がどれくらいいるであろうか。四半世紀前よりも、あるいは抵抗を感じないという日本人が多少は増えているであろうが、私の推測では、多くの日本人はやはり、そう呼ばれることに心穏やかならざるものを感じるはずである。筆者が後輩なら、先輩に向かって、「…さん」、「…部長」、「…先生」などと呼びかけるだろう。
 「われわれは彼の古稀を祝ってパーティーを開いた。」というような日本文を書く人は、そのような文が日常的にどう用いられるかに思いを致してみるとよいだろう。筆者には、
このパーティーは、彼なる人物の「教え子」や「仕事の後輩たち」や「人生の後輩たち」が開いたものだとは到底思えない。「彼」なる人物の同僚・同級生・先輩・仕事仲間などであったろうと想像する。そう想像するのが自然であろう。
 このように、「彼」、「彼女」という人称代名詞は便利な存在である。しかし、上掲のような取り扱い方は、母語たる日本語の自然な姿を歪めたものにしてしまう。和英辞典は「和」の部分において、「良き国語辞典」でなければならない。したがって、不自然な人称代名詞の用法は極力避けるべきだと思う。
 以上のような内容のことを四半世紀ほど前に書いた。現在の和英辞典の日本語はどうだろう。おかしな用例の数はだいぶ減ったように思うが、まだまだ、不自然な「彼」「彼女」の用例は現代にいたるもいくらでも発見される。残念なことだ。


PartUで問題としたこと。
 問題のある訳語・用例(1988年8月号での指摘)
 当時の和英辞典の見出し語に対応する訳語には、簡単に言ってしまえば、“誤訳”が少なくなかった。たとえば、「検眼」、「子ぼんのう」、「すす(煤)」、「吊り橋」、「どぶ」、「名付け親」等々、枚挙に暇がなかった。

 最初の「検眼」の場合を例に採ってみよう。参照した限りの和英辞典の訳語は“eye examination”であった。だが、この語から連想されるものは、眼科医によるそれであり、日本の英語学習者が普通に思い出す、学校の身体検査や、眼鏡店・デパートなどの眼鏡売り場で受ける「検眼」は「視力検査」のことであり、それはan eye test, an eyesight testのことである。
 四半世紀が経過した現在、その語の訳語はどうなっているであろうか。2008年10月発行の某和英辞典(以下、『和英辞典B』と表記)は、いまだ“eye examination”だけを何の注記もなく掲げており、『和英辞典A』は訳語を出さずに、「眼科で検眼してもらった I had my eyes examined [tested] by an ophthalmologist.」という文例だけで済ませており、これと言った進展は見られない。

 2番目の「子ぼんのう」の場合、参照した限りの和英辞典が、その訳語例として「子ぼんのうな父親 a (very) doting father」を挙げていたが、日本語の「子ぼんのうな」と英語の“doting”とでは意味がずれる。日本語の「子ぼんのうな」はプラスイメージの語であるが、英語の“doting”は extremely fond, esp. foolishly soの意である。すなわち、日本語の「子ぼんのうな」にはないextremely、foolishlyという感じが付きまとっている。したがって、各和英辞典が挙げていた He is a doting father. / He dotes on his children. / She is really a doting mother. / She really dotes on her children.のような用例はむしろ「溺愛(できあい)」に近いものである。
 筆者が編集した『ニューアンカー和英辞典』では次のような表記を採用した。こうすることで、従来の誤解が避けられると思ったからである。

  こぼんのう 子煩悩 ●子ぼんのうな父親 a loving [fond / tender ] father
  【参考】doting fatherとすると「子どもを溺愛(できあい)する父親」の意になる。

 現代の和英辞典ではどうなっているだろうか。『和英辞典A』を見てみると、次のような表記になっていた。

  こぼんのう [子煩悩] 彼は子煩悩だ[=子供を非常にかわいがっている] He
  loves his children dearly. ; [=愛情深い父親だ] He is a loving father.

ちなみに、同辞典の初版の表記は次のようなものだった。

  こぼんのう [子煩悩] 彼は子煩悩だ He dotes on [upon] his children. (子供を
愛している); He is a fond father.(子供に甘い)

 すでに理解出来たごとく、同初版の「He dotes on [upon] his children. (子供を溺愛している)という書き方は完全な間違いである。
 いっぽう、『和英辞典B』の最新の取り扱い方は次のようになっている。

  こぼんのう [子煩悩]  ?彼は子煩悩な父親だ He is a fond [OR doting] father. /
   あの人はああ見えても子煩悩です You might not believe me, but he dotes on his
   child.
 
 これもすでに理解できたごとく、doting、dote on の取り扱いが誤ったものになっている。もっと見出し語である「子ぼんのう」や、英語のdoting、dote onの意味分析を正確に行うべきである。

 次に、「すす(煤)」の取り扱いを見てみよう。筆者が四半世紀以上も前に参照した全ての和英辞典が、「すす(煤)」の訳語に“soot”を当て、用例に同語やその形容詞のsootyを用いたものを挙げていた。たとえば、「すすを払う sweep away the soot /君の顔はすすだらけだ Your face is sooty. /煙突にすすがたまった Soot has collected in the chimney.」といった具合だった。
 たしかに、煙突や石油ストーブなどの場合はsoot (=black powder produced by burning)でよい。しかし、日本人が日常的に「すすを払う」、「台所の天井はすすだらけだ」などと言えば、その「すす」がsootでないことは容易に理解できるであろう。少なくとも、筆者にとっての「すすを払う」、「天井のすす」はsootではなく、dust やgrime、とりわけcobwebs (クモの巣)である。したがって、「天井のすすを払う」はsweep the cobwebs from the ceilingとなる。そこで筆者は『ニューアンカー和英』では次のような処理を施した。

   すす 煤 soot(ばい煙); a cobweb(くもの巣 ・煙突がすすで詰まったようだ
    The chimney is almost clogged with soot. ?天井のすすを払った We swept the
    cobwebs from the ceiling. ?この部屋はすすだらけだ This room is full of cobwebs.

 このように表記することで、日本語としての「すす(煤)」の最低限度の意味用法が学習者に伝わると思う。それでは最近の和英辞典における同語の取り扱いはどうなっているであろうか。まず、『和英辞典A』の取り扱いを見てみよう。

   すす [煤] soot [U] ・すすを払う sweep soot / その石油ストーブからすすが
   出ていた Soot was coming out of the coal stove. / すすだらけの天井 a soot-
   covered ceiling /すす払い year-end thorough cleaning (to welcome the New year)

 以上のような扱い方であるが、その中にcobweb が扱われていないのがいかにも残念である。この語とその用例はやはり収録されていてしかるべきであろう。
 同じく最新の『和英辞典B』での同語の扱いはどうなっているであろうか。

   すす [煤] soot [U] ●煙突の中はすすだらけだった The inside of the chimney
   was covered with soot. ⇔ chimney was all sooty. /天井のすすを払う sweep
   the soot off a ceiling /多くの寺が12月にすす払いを行う Many temples do a
   traditional year-end clean-up in December.

 以上の通りだが、やはりcobwebは未収録だ。ちなみに、1928 [昭和3]年発行のかの『斎藤和英第辞典』の「すす(煤)」の項の用例には、「煤を拂う to sweep away the soot / weep away the cobwebs / clean the house」ときちんとcobwebの用例が収録してあり、斎秀三郎という“明治の巨人”の偉大さを痛感する。斎藤の和英は相当に英語力のある学習用であるが、読ませ、考えさせる辞典だという思いを強くする(もちろん、同辞典が「いことづくめ」でないことは言うに及ばない。たとえば「子ぼんのう」の訳語にはdote ponの用例しかない)。

 次に「吊り橋」の場合を見てみよう。当時、筆者が参照した和英辞典の全てが、この語の訳語として“suspension bridge”を唯一挙げていた。だが、この語は、現代的に言えば、横浜の「ベイブリッジ」、東京の「レインボーブリッジ」、明石海峡の「明石海峡大橋」など、大規模なもの(=a bridge hung from cables fixed to towers)を連想させる語であり、日本人が昔から馴染んできた、山間の吊り橋をいう場合には不適当である。たとえば、平家一族の哀話を秘める徳島県の「祖谷(いや)のかずら橋」のようなもの、すなわち「山の[谷に架かる]吊り橋」は“hanging bridge” と呼称すべきものである。和英辞典でる限り、この訳語を無視するわけにはいかない。 それでは最新和英辞典の1つ『和英辞典A』はこの語をどう処理しているであろうか。

   つりばし [釣り橋、吊り橋] rope [suspension] bridge [C]《rope bridgeはロープと板で
   できた釣り橋、suspension bridgeは鋼鉄製の釣り橋》?釣り橋を渡る cross a rope
   [suspension] bridge / 峡谷に釣り橋をかける span a gorge with a suspension bridge

 以上のように、一応の工夫が見られる。だが、これでは、先に筆者が示した「祖谷のかずら橋」のような吊り橋を英訳することはできなくなる。祖谷のかずら橋はrope bridgeではない。一方、『和英辞典B』は、訳語は現在に至るも“suspension bridge”のみであり、まことに残念な取り扱いをしている。

 次に「どぶ」を見てみよう。昨今の都会では見かけない場所だが、未舗装のままの道路を多く持つような地域には、しばしばこの「どぶ」が見受けられる。筆者はこの日本語から、「汚水のよどみがちな溝」を連想する。英語で表現すれば a ditch the water of which tends to remain stagnantと訳すことになる。ところが、四半世紀ほど前に筆者が参照した和英辞典の全てが、ただ単に“ditch”(溝)、“drain”(排水溝)、“ gutter”(道路沿の、主として雨水などの)、“sewer”(地下の下水溝)と言った語を並べているだけった。それでは、現行の『和英辞典A』はこの語をどう処理しているであろうか。この辞は、この語に対して、次のような訳語と用例を与えている。

   どぶ [溝] 《排水溝》ditch [C];《道路沿いの》gutter [C] ●どぶをさらう clean a ditch [gutter]

 すでに了解できたであろうが、この訳語と用例は日本語が持つ「どぶ」の意味を正しく表したものとは言えない。あくまでも便宜的なものである。

 最後に、「名付け親」であるが、これについてはかつての和英辞典の全て、godparent; godfather (男)、godmother (女)のような訳語を与えていた。中には、「以上は英米で生まれた子の洗礼式に立ち会い、名前を付け、その子の家庭教育に責任を持つ人のことをいう」という注記まで添えるものがあった。『和英辞典A』の旧版(2版まで)は次のような書き方をしていた。

  godfather [C](男の)名付け親、教父、代父
  godmother [C](女の)名付け親、教母、代母
  godparent [C] 名付け親、教父[母]、代父[母]
  【用例】彼は私の長男の名付け親であった。
  He stood godfather to my first son.

 だが、これらの訳語は“全く無意味なもの”であり、英語学習上、害悪に近いものである。なぜなら、英語圏(キリスト教圏)のgodfather [-mother, -parent] は「名付け親」にはならない。あくまでも新生児の洗礼式に立ち会い、その子を保護し、その子の人生の良き道案内人となることを誓う立場の人である。これに対して、日本語としての「名付け親」は、昔は母方の祖父がその任に就くことが多かったが、一般的には、新生児に名前を付ける、親以外の人を指す。したがって、日本語と英語との間には大きな概念的相違が存在する。この点に気付かないで学習和英の原稿を(とりわけ英語教師が)書けば、上記のような書き方になりがちなのである。
 それでは『和英辞典A』の最新版はこの語をどう処理しているであろうか。次に示すように、用例を示すのみであるが、初版・第2版までの過ちは削除している。

 なづけおや [名付け親] 彼は私の長男の名付け親だ He named my first son.
 / イルカの赤ちゃんの名付け親 a person who names the baby dolphin

 ところが、『和英辞典B』の同語の取り扱い方は、相変わらず「godparent [C]; godfather (男)[C]、godmother (女)[C]」のままである。残念ながら、この辞典編集陣には日英語間の意味の違いが分かっていないようだ。


(2)訳語・用例とスピーチレベル(1988年9月号での指摘)
  Martin JoosがThe Five Clocks (1962)で、英語の機能的差異をfrozen style(凍結スタイル)、formal style(正式スタイル)、consultative style(諮問スタイル)、casual style(略式スタイル)、intimate style(親密スタイル)と5つに分けて以来、筆者は英語のスピーチレベルに大いに興味を持つようになった。その立場から、和英辞典の見出し語・訳語・用例の関係を見てみると、四半世紀前までの和英辞典にはあまりにも多くの問題点が内包されており、それを知った時には、正直なところ愕然とした。たとえば、尾籠な話で恐縮だが、Joosの上掲書を見てから、「うんち」を英語では何と言うのだろうと思い、学校備え付けの某社の和英大辞典を見てみたところ、「小児語=大便」とあって、「大便」を見るように指示してあったのを思い出す。「大便」にはfaeces, fecal matter, dung, excrementのような語があることも分かった。だが、高校生だった筆者の頭にあったのは、「英語にも“うんち”に当たる砕けた語があるのではないか?」という思いだった。このことは「おしっこ」と「小便」の関係にも言えることであった。結論的には筆者の考え方は正しく、英語では「うんち」に相当するのはpoo-poo, doodoo, ka-ka, number two, yuckyなどであると分かった(ちなみに、「おしっこ」はpee, tinkleなど)。
 そういう目で、四半世紀前以前の和英辞典はスピーチレベルという点では、全て、何の役にも立たないものばかりであった。筆者は『ニューアンカー和英』において、上記のような訳語を添え、次に示すような用例を掲載した。

   ●うんちに行く go poo-poo /おまるにうんちする make ka-ka in a potty /タマが
   台所にうんちしたよ Tama did number two in the kitchen. /おしっこなの、うんちな
   の? Now, you want to do a tinkle or a yucky?

 筆者は「うんこ」(stools) を別扱いし、それに用例を加えた。こうすることで、学習者に語句とスピーチレベルとの関係を教えることができると考えたのである。 それでは最新版の『和英辞典A』および『和英辞典B』はこの語をどのように取り扱っているであろうか。まず、『和英辞典A』で「うんち」を見ると「うんこ」を参照するように指示している。そこで「うんこ」を見ると、次のような取り扱いになっている。

   うんこ (⇒だいべん[大便])《米略式・小児語》poop [U], 《英略式》poo(h) [U]
   ●ママ、うんこしたい Mom, I want to poop [make doo-doo]./ あっしまった、
   犬のうんこを踏んでしまった Oops, I stepped on some dog poop.

 いっぽう、『和英辞典B』は「うんち」を次のように処理している。

   うんち caca [C]; poo(-poo) [C](?いずれも小児語)?うちの子、ひとりでうんちが
   できるようになったのよ Our little one can wno go to the toilet by himself. /
   ママ、うんち出たよ Mommy, I’ve poo(p)ed. / うんちしてくる I’m just going
   to the toilet.

 以上のように、日常語の「うんこ、うんち」の取り扱いは日本語に相当するものになっており、学習者に好ましい取り扱いがなされていて喜ばしい。筆者は四半世紀ほど前の連
載で次のように書いた。

  「うんち」のような語を日本人がどれだけ用いる必要があるか、という意見もあろうが、頻度を問題にするのなら、すでに収録してある語句の中には、収録の必要をまったく認めないものは多数ある。「うんち」は生活用語であること、これからは海外生活をする日本人がますます増えると予想されること、生徒たちや学生たちは結構こういった「生きている」日本語の対応語を知りたがっていること、などの諸点を考えれば、私ならこの語はぜひ収録した。少なくとも、「大便」よりはずっと日常的な語であると思う。


2.どの程度、改良されたか

 筆者のこの意見が正しかったことは、参照した限りの他の和英辞典が、上記の2辞典でも分かるように、この語の対応語にレベルのあったものを与え、適切な用例も盛っていることから証明できるであろう。
 このほか、「現代英語教育」誌での筆者による「和英辞典を考える」は、ほかの多くの点に関しても歯に衣着せない物言いで論じ、筆者自身が一論者で終わるのではなく、学習和英辞典編纂者の一人として、その後、実際に大量の原稿を執筆し、“理論倒れ”にならないように注意してきた。

 本稿はその連載の問題点が2012年現在、どれほど改良されているかを知るために書いたものだが、紙面の関係で、問題点の大まかなものだけを見てきたに過ぎない。しかし、これまで記述してきたことからも分かるように、最近刊行された学習和英辞典2点を見る限り、筆者が問題とした諸点のおよそ五分の三が改良・改善されているが、その余地はまだまだ多く残っているというのが、現在の筆者の偽らざる印象である。筆者としては今後とも、我が国の辞書編纂の向上のために微力の限りを尽くす覚悟である。

【追記】ある筋から、某社の新しい学習和英辞典をいただいた。なかなかよく出来ていると思いながら、パラパラめくっていると、「事故のあと、進退伺いを出した」という日本文とその英訳 I submitted my informal resignation after the accident.が筆者の目に飛び込んで来た。よく見ると、「進退伺いを出した」を「非公式の辞職届を出した」と換言せよという指示もあった。
 残念ながら、これは日本語の「進退伺い」を誤解して英訳したものだ。普段、そんなものを出す必要のない人たちが、その語の意味・用法を十分に確認せずに、例文を書き、それを英訳したのだろう もしやと思い、手元にある電子辞書3点の用例を見てみた。1点目には、「進退伺いを出す submit one's resignation」、2点目には、「進退伺いを出す submit an informal [a preliminary] resignation」、3点目には「事故の責任を感じて彼は進退伺いを出したHolding himself [Feeling] responsible for the accident, he indicated his desire to resign.」とあった。
 3点の中ではやや好ましい書き方だが、やはり不十分だ。それに、「進退伺い」の訳語に、即、resignation を当てている点もまずい。そこで、自ら“最強の和英辞典”と銘打っている某社の和英辞典を参照してみた。そこには「進退伺いを出す(=辞表を出す)send [hand] in one's resignation 」とあった。つまり、「進退伺いを出す」とは「辞表を出す」という意味だと理解しての英訳である。残念ながら、これも日本語の「進退伺い」を誤解している。言いにくいことだが、こうした「親ガメこけたら」式の英訳を見ていると、これまでの和英辞典がどのように作られてきたかを推測することができる。深く自戒
しなければならない。ちなみに、「進退伺いを出す」は、筆者なら次のように表現し、注記を付すだろう。

  彼はその事故のあと、すぐに部長に進退伺いを出した。Right after the accident he wrote
  a letter to his manager asking whether he should resign.【参考】英米には進退伺いを出す
  習慣がないので、例文のように「辞職すべきかどうかを尋ねる手紙」のように意訳する。

 このように表記することで、「進退伺い」の意味・用法を利用者に理解してもらう努力をするだろう。

【注】本稿は、明海大学大学院応用言語学研究科紀要「応用言語学研究」No.15 (H.25 [2013] 3) に掲載され、のちに論説資料保存会「英語学論説資料第47号」(2013年発表論文集)に収録されたもの。

【追記】小論「和英辞典編纂者の責任は重く、大きい」を参照(こちら)。