XX[ 日本学の一部としての学習和英辞典作り
The Making of an EFL Japanese-English Dictionary
as Part of Japanology
山岸 勝榮 (YAMAGISHI, Katsuei)
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Although EFL Japanese-English dictionaries have so far incorporated into themselves results of the comparative studies between Japanese and English, they have been only part of the linguistic explanations sporadically added to entry words, their sample phrases or sentences, and haven’t been much of a great help to fully understand the connotative meanings of the English sentences attached to the preceding Japanese sample sentences in the dictionaries. For example, a recently published Japanese-English dictionary contains as one of the sample sentences the following: “父は深夜2時ごろぐでんぐでんに酔っぱらって帰って来た (Chichi wa shin'ya niji goro gudenguden ni yopparatte kaette kita ) My father came home completely smashed at about two o’clock this morning.” To the Japanese, this Japanese sample sentence sounds quite natural.
To English--speaking people, especially to monotheists, however, the English
sentence will likely or probably sound unnatural or, to some, shocking
as if the writer or speaker claimed that his or her father was a heavy
drinker or a social dropout due to alcohol-related issues. This attitude
is closely related to the fact that in the monotheistic culture the person
who drinks should carry his or her liquor well, and heavy drinkers or drunks
will most probably frowned upon. Interestingly, however, if you change
the subject from “my father” to someone else, in the third person, for
example, he / she, the reader’s emotional reactions will be changed and
accepted as it is. In this article the author will pick out concrete cases
which are seemingly equivalent but different in the background or connotative
meanings and show how to reconcile the lags by introducing the knowledge
acquired through Japanology or the scientific study of things Japanese.
KEYWORD: 学習和英辞典、言語と文化の不可分性、キリスト教文化、日本学
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1.学習和英辞典(an EFL Japanese-English Dictionary)と日本学(Japanology)
学習和英辞典(以下、「学習和英」)とは、「日本人学習者が日本語を英語に直す際に必要となると思われる言語・文化情報を、十分かつ適切に提供することを目的として編纂された学習辞典」のことである。筆者が直接関係したもので言えば、『ニューアンカー和英辞典』(学習研究社刊)、『スーパー・アンカー和英辞典』(学研教育出版)がその例である。また、日本学(Japanology)とは、「日本の事物の科学的な研究」(the study of things Japanese in a scientific manner)の事である。一般には、「日本研究」(Japanese studies)とも言う。
2.学習和英に日本学の視点を採り入れることの重要性
これまでの学習和英に日本学の研究成果が盛り込まれなかったわけではない。それは様々な形で盛り込まれた。たとえば、「日英比較欄」に記載されている記事の中には、日本学あるいは日本研究の成果に基づいて書かれたものが多い。たが、1点だけ、きわめて重要なことが欠落していたか、不十分な扱いしかなされていなかったのだ。具体例を挙げながら考えてみよう。
たいていの日本人にとって、たとえば、「息子の入試合格を尾頭付きの鯛で祝った」といった文の真意を理解することは容易である。そこで、これを、たとえば、We
celebrated our son’s success in the entrance examination with a whole
sea bream.あるいは、Wecelebrated our son’s passing the entrance examination
by serving a whole sea bream.のように英訳したとする。文法的には問題はない。辞書関係者を含め、たいていの日本人はこの英文で自分たちの意図したことは英語を母語もしくは日常使用しているような外国人には理解してもらえると思いがちだ。したがって、既存の学習和英にこの種の用例が掲載されていても、その日本文と英訳文とが並列されているだけであった。既存の学習和英には、そうした用例は無数に存在する。確かに、日本のことをよく知っている外国人にはそれを望むことができるであろう。だが、日本人と「尾頭付きの鯛」との関係に不案内な外国人に対してそれを望むことはまず無理である。特に、a
whole sea bream(一匹、丸ごとの鯛)の意味が分からないであろう。
そこで、日本人と「尾頭付きの鯛」との関係を、たとえば、「祝い事の際に食べられる魚である鯛を食卓に載せること」と解釈して、これをby
serving a whole sea bream, a fish eaten on festive occasions と訳せばどうであろうか。少なくとも、最初のwith
a whole sea bream.では分からなかった、「尾頭付きの鯛」を食卓に載せる意味がだいぶ明瞭になるであろう。
次の例を見て見よう。たとえば、「せいい 誠意」あたりの項目の1用例として、「ひとに怪我をさせておきながら、病院に見舞いにも来ないなんて、僕はあの男の誠意を疑うね After injuring you, he didn’t even come to see you at the hospital. I have to doubt his sincerity.」のような日本文と英文とを見た時、日本人であれば、その日本語に何の違和感も抱かずに、その文の言わんとするところを理解するであろう。だが、英語国、とりわけアメリカ合衆国のような多民族国家では、怪我人の所に見舞いに行くということは、早々に自分の非を認めたということを意味する。したがって、交通事故の場合、たとえ加害者になっても、普通はまず保険会社に連絡し、その指示や助言を待って行動する。日本人のように、まず見舞いに行くことで、謝罪の気持ちや誠意を示そうとするというようなこと
は普通はない(ただし、昨今の日本でも、アメリカ人と同じような対応を採る人たちが増えて来た事は否定できない事実である)。
もう1例、別の例で見てみよう。「つけとどけ 付け届け」あたりの1用例として、「私は指導教授には盆暮れの付け届けを忘れない I never fail to send my academic adviser midyear and year-end gifts.」が収録してあったとする。そして、それが自分にも当てはまるという利用者が、その英文をそのまま利用したとする。ところが、日本事情に不案内な英語圏人がこれを見たとすれば、彼らはこの英文から、日本人がその日本文から感じる「当然性」とは異なった感情を持つであろう。文法的には正しいし、日本人にとっては極めて自然な発想であるために、この英文が内包している問題点に思いを致すことはまずないであろう。
3.具体的にはどういうことか。
それでは、上掲の3例と日本学的視点との関係はどのようなものであろうか。第1例(「息子の入試合格を尾頭付きのタイで祝った」)の場合、たとえば、この文例を「尾頭付き」もしくは「鯛」の項に収録するとした場合、その項の(食)文化的解説あるいは「日英比較」として、次のように記載してあったとしたらどうであろう。
「日本人にとって、鯛(真鯛)は高級魚で、その色と名称から縁起の良い物というイメージが濃いが、英語圏にはそうしたイメージはない。したがって、それが祝い事に使われる魚であることを付言する必要がある。」
こうすることで、その英文を見る外国人は、少しでも日本人が思い付くイメージに近付くことができるであろう。あとは、「百聞は一見にしかず」の諺通り、実物を見たり、食べたりして貰わなければならないであろう。そうした「尾頭付きの鯛」にまつわる情報を日本研究の成果の一部として、もっとも望ましい場所に記載しておけば、英語を書こうとする学習者には大いに便利であろう。 このような、成果を学習和英のしかるべき個所に盛り込むためには、その情報を日本人の食文化や慣習の実態を理解した上で過不足なくまとめておくことが前提となる。そうした情報を科学的な姿勢で研究し、まとめることを筆者は日本学あるいは日本研究の一部だと思っている。
また、第2例であるが、この場合も、たとえば、次のように日本人社会に見られる慣行について、次のように書いてあったとする。
「日本では、加害者が速やかに被害者の所に見舞いに行くことを誠実の表れと解釈する傾向が強いが、英語圏、とりわけアメリカ合衆国のような多民族国家では、はやばやと自分の非を認めたと解釈されがちである。事故を起こした場合には、まず保険会社に連絡をするというのが一般的反応である。」
こう書いてあれば、日本人学習者は、「ひとに怪我をさせておきながら見舞いにも来ないなんて…」という発想自体が、大いに日本的なものであるということを知るであろう。また、この点を知ることで、曖昧な英語表現を作り出す恐れも(少)なくなるであろう。このような情報の適切なる文字化も日本学あるいは日本研究の仕事の一部と考えて差支えないであろう。
第3例の場合であるが、これも日本人の日常生活で普通になっている長い間の慣習を反映している。昨今の日本人、とりわけ若い世代には、そうした慣行が希薄になっていることは否めないが、それでもその慣習を順守している人たちも多い。すなわち、自分の指導教授に、盆暮れにいわゆる“お中元”“お歳暮”を贈ることを普通の社会的常識としている日本人もまだまだ多いし、そうした慣習が近い将来、消滅するとは考えにくい。そこで、そうした用例に続いて、たとえば、次のような解説が施してあったとすればどうだろう。
「英語圏には、自分の指導教授に特別な季節の贈り物をするという習慣はない。したがって、この英文を見て、書き手はその指導教授に“賄賂”を贈っていると解釈される恐れがある。」 わずかこれだけの注記を施すだけで、日本人と英語圏人との慣習の違いを日本人学習者に知らしめることができ、学習上、有益な情報だと思ってもらえるであろう。
4.「日本的なるもの」に対する現行学習和英の問題点
某学習和英で「あまからい 甘辛い」を引くと、salty-sweetという訳語と共に、「肉を甘辛く煮る boil meat sweet and salty」のような用例が挙がっているのに気付く。しかし、この挙げ方は問題である。それは、具体的には、筆者が過去に行った作文の試験の結果に表れた。私は、問題文の1つに、「私は魚を甘辛に煮た」を出したことがある。その日本文に対する、35名の受講生のほとんど全員が、I cooked (the) fish sweet and salty.と訳した(定冠詞のtheを入れた者と入れなかった者とがいる)。そして、そう訳した理由はすぐに判明した。そう書いた受講生が所有していた電子辞書に搭載された某和英に上記のような句例だけが挙がっていたからである。すなわち、受講生は「肉を甘辛く煮る boil meat sweet and salty」の「肉 meat」の部分だけを「魚 fish」に置き換えて、それで事足れりとしたからである。
同書のその表記法は学習上、はなはだ不適切なものだと言える。なぜなら、日本人学習者にとって必須の情報は「魚を甘辛に煮る」の「甘辛い」が上記のようなsweet
and saltyではないからである。「魚を甘辛に煮る」という場合の「甘辛」を材料的に見れば、「甘い」のは砂糖だが、「辛い」のは「塩」(salt)ではなく「醤油」(
soy sauce)だ。つまり、日本人が「魚を甘辛に煮る」場合に使用するのは“砂糖醤油”だ。したがって、「私は魚を甘辛に煮た」は、I
cooked the fish sweet and salty.ではなく、I cooked the fish with sugar
and soy sauce.とするのが適切である。
そこで、「あまから 甘辛」の項目が次のように処理してあったとしたらどうであろう。学習者は、日本と英語圏の魚や肉の料理法・味付けの違いを知ることができ、自分たちが犯すおそれのある間違いを犯さないで済む可能性が高くなるであろう。
「魚を甘辛に煮る cook fish with sugar and soy sauce ┃甘辛の煮付け flavoring
with sugar and soy sauce / salty-sweet flavoring 【注意】日本語で「魚を甘辛に煮る」と言った場合は、「甘い」のは砂糖で、「辛い」のは醤油だが、英語圏で「肉を甘辛に煮る」と言った場合の「辛い」は塩味であるから、訳出に当たってはその点に注意する必要がある。」
もう1例を既存の某学習和英から引いておく。某辞典の「名付け親」の項には、次のようにある。
なづけおや 【名付け親】
godfather [c](男の)名付け親、教父、代父
godmother [c](女の)名付け親、教母、代母
godparent [c] 名付け親、教父[母]、代父[母]
【用例】彼は私の長男の名付け親であった。
He stood godfather to my first son.
しかし、この表記法は学習和英としては甚だ不適切なものだと言わざるを得ない。歯に衣着せずに言うなら、この定義では全く役に立たない。なぜなら、一般の日本人英語学習者なら、(英語教師を含めて)誰でも、「英語では名付け親をgodfather
[-mother, -parent]と言うのだ」と早合点する可能性が大だからだ。ちなみに、上記した35名の受講生に「私の名付け親は私に祖父です」を英訳してもらったところ、My
godfather is my grandfather. / My godparent is my grandfather. / My grandfather
is my godfather. / I asked my grandfather to become my godfather./ My parents
asked my grandfather to be a godfatherなどの非英語文を書いた(全ての訳文が非英文である)。
これは同和英に収録されている語が、いずれもキリスト教(のような一神教)を背景として生まれたものだという点、日本語としての「名付け親」の実際をきちんと解説もしくは説明していないために生じた誤りだ。 英語教師を含め、きわめて多くの日本人が誤解していることだが、英語圏(キリスト教圏)のgodfather
[-mother, -parent]は「名付け親」にはならない。あくまでも新生児の洗礼式に立ち会い、その子を保護し、その子の人生良き道案内人となることを誓うのである。これに対して、日本語としての「名付け親」は、昔は母方の祖父がその任に就くことが多かったが、一般的には、新生児に名前を付ける、親以外の人を指す。したがって、日本語と英語との間には大きな概念的相違が存在する。この点に気付かないで学習和英の原稿を(とりわけ英語教師が)書けば、上記のような書き方になりがちである。
以上のことは、「名付け親」に関係する慣習を日本学の一部として学び、承知しておかなければ、適切には反映できない類いの情報である。
そのほか、現行の学習和英には、単語[語彙]レベルで多くの問題が生じている。1例だけを挙げておけば、たとえば、某学習和英は「おしいれ 押入れ」の項の訳語としてclosetだけを添えている。だが、日本人の考える「押入れ」と、英語国民が考える
closetとの間には大きなイメージの違いがある。同辞典はまた、その句例として、「ふとんを押入れにしまう」という日本語を挙げ、その英訳として
put the bedding in a closetを添えているが、この英語から、日本人が「ふとんを押入れにしまう」という日本語からイメージする場面に類似のものを連想できる外国人は(よほどの日本通を除いて)普通はいないであろう。
こういう場合は、安易に英語を用いずに、「押入れ」をan oshi-ire とローマ字化し、それにたとえば、「押入れとは日中、寝具を収納しておくことを主目的とした戸棚の一種である
Oshi-ire is a kind of (built-in) cupboard used chiefly to store bedding
during the day.」のような日英文を添えておくほうが、外国人には「押入れ」がどのような物であるのかが想像できて好ましいであろう。「押入れ」イコール
closetという発想は実状に混乱をきたすだけであろう。理想を言えば、「押入れ」の項に、日本の「押入れ」と英語国のclosetを写真・イラストなどで紹介したいものだ。まさに「百聞は一見に如かず」に一歩近づいたものになるであろう。
5.ほかにどのような文例が問題となり得るか。
日本人の英語学習者のみならず、私を含めた英語教師も例外ではないのだが、ほとんどの日本人は自分たちの産み出す日本語の大部分が、きわめて濃い日本語的発想に影響されていることに気付いていない。たとえば、日本人にとってごく自然な次のような日本文のどこに、英語圏文化から見た場合の「違和感」「異文化性」が潜んでいるであろうか。日英語の意味・含みのズレに関するヒントだけを書いて、解答は敢えて示さない。あくまでも問題提起としておきたい。
例1:父は深夜2時ごろぐでんぐでんに酔っぱらって帰って来た My father came home completely smashed at about two o’clock this morning.(某辞典の「ぐでんぐでん」の項)
例2:彼はよく美人の奥さんのことをのろける He often talks fondly about
his young beautiful wife. (某辞典の「のろける」の項)
例3:彼は売名のためなら何でもやる He would do anything for the sake of publicity. / He will do anything to advise himself [to seek publicity]. (某辞典の「ばいめい 売名」の項)
例4:少年は大勢の前に出ると恥じらいを見せてうつむいた The boy looked shy in front of the large crowd and cast his eyes downward.(某辞典の「はじらい 恥じらい」の項)
例5:ここではみんな名前を呼び捨てにすることになっている We are all on a first-name basis here. (某辞典の「よびすて 呼び捨て」の項)
例6:彼らは土足でずかずかと上がり込んできた They walked right into the room with their shoes on. (某辞典の「あがる 上がる」の項)
以上のような用例を学習和英に収録する場合、原稿執筆者・編集[監修]者はどこにどのような配慮をすべきであろうか。ヒントだけを言えば、第1例の場合は、日本文化と英語文化とにおける「飲酒」に対する価値観・習慣の違いをきちんと理解しておく必要がある。第2例の場合は、日本文化と英語文化とにおける「身内の者」への賛辞や賞讃の送り方の違いをきちんと知っておかなければならない。第3例の場合は、「売名」という行為に対する彼我の受け止め方の違いをきちんと理解しておく必要がある。第4例の場合は、「恥じらい」に対する日英差、および「恥じらい」という日本語とその対応語とされるshy(ness)との違いを承知しておかなければならない。最後の第5例の場合、日本語としての「呼び捨て」とはどのような行為で、その日本語の暗示的意味(含み)は何かという点を理解し、それを適切にまとめなければならない。最後の第6例の場合であるが、この日本文(「彼らは土足でずかずかと上がり込んできた」)は「日本の家屋では玄関で履物を脱ぐ」という生活習慣があることを前提としている。これに対して、英語圏の家屋では履物(特に靴)は履いたままであり、脱ぐのは普通は入浴時か就寝時であるので、英語圏人がこの英文(They walked right into the room with their shoes on.)を見ても、当り前のことを言っているとしか思わないであろう。つまり、この用例の日本語と英語との間には意味的相違が存在するのである。したがって、日本語の用例自体にたとえば「(履物を脱ぐことが期待されている)日本間に」というような何らかの語句を添えて、外国人の理解を少しでも容易にする努力をする必要がある。
そういった点をおろそかにしていると、日本人学習者は「日本語でものを考え」、それが「英語圏でも通用する」、「同じように理解してもらえる」と考えてしまう。その結果、それを読む側の人々(ここでは、キリスト教を文化背景に持つ英語母語話者)に、日本人が思いもしなかったような誤解を与えたり、過った印象を与えたりする恐れが多分に出て来る。
6.不適切な日本語分析による英訳文
現行の学習和英には、多数の不適切文が収録されていることに驚かされる。具体例を拾ってみよう。
例1)彼女はいつも男といちゃついている She is always flirting (with men)./俊ちゃんと美恵ちゃんがソファーの上でいちゃついていた I saw Toshi and Mie necking on the sofa. (某辞典「いちゃつく」の項)
《コメント》日本語としての「いちゃつく」には、「人前をはばからずに」といった負のイメージがあるのに対して、英語のflirtは「(ウインクをしたり微笑んだりして)異性に愛情を示す」という意味で用いられるのが普通であり、負のイメージは普通はない。人前での愛情の表現の仕方が彼我で異なることを認識していないまま、このように英訳文を添えても、日本語が持つ含みは伝わらない。
例2)父の病気がよくなるように神に祈った I prayed to God that my father would recover from his illness. (某辞典「かみ 神」の項)
《コメント》「神に祈る」をpray to Godで表現できる日本人も一部にはいるであろうが、ほとんどの日本人にとっては、「神に祈る=pray
to God」ではない。一般日本人の 「神」の理解をきちんと認識した訳出にすべきである。ちなみに、某和英の「ごりやく 御利益」の項に挙がっている「お祈りしたらご利益があった
God has answered my prayers.」、「神に願をかける pray to God」、「神に助けを求めて拝んだ
Heprayed to God for help. 」などのGodに関しても、一般の日本人にとっての「神」はGodではないということが言える。これは明らかに、そうした原稿を書いた辞書関係者が、英語(の世界)に我が身を置いて物を考えていることの反映である。
例3)酒を酌み交わしながら(=酒を飲みながら)しばし歓談した We had a pleasant chat over a glass of wine. (某辞典「くみかわす 酌み交わす」の項)
《コメント》日本の「酒文化」において「酒を酌み交わす」ことは、「酒を飲む」こととは同一の動作あるいは概念ではない。その点を明確にしておかないとこのような言い換えを行なってしまい、結果的に誤訳をしてしまう。また、日本人が「酌み交わす」場合の「酒」がワインというのも一般的とは言えないであろう。
例4)事故のあと、進退伺いを出した I submitted my informal resignation after the accident.(某辞典「しんたいうかがい 進退伺い」の項)
《コメント》英語圏には存在しない「進退伺い」だが、それが日本語でどんな意味か、同辞典には分かっていないようだ。「進退伺い」とinformal
resignation とでは意味が異なる。
例5)私もその会の末席を汚させていただいた I had the honor of being present at the meeting. (某辞典「まっせき 末席」の項)
《コメント》英語圏には存在しない「末席」という考え方だが、だからと言って、「その会に出席するという光栄に浴した」と言い換えるのは、日本語的観点からは早計過ぎるであろう。
わずか5例を挙げただけだが、これらの日本文の背景にあるのは「日本人の物の考え方の反映」である。昨今、日本人の価値観の多様化と共に、「いちゃつく」ことが日本人にも必ずしも負のイメージで捉えられなくなりつつあるようだが、それでも一般的には、この語は負のイメージの濃い語であると言えるであろう。神の捉え方、酒の酌み交わし方、進退伺いを出すという身の処し方、末席を汚すという考え方には、今持って日本人の思惟方法が反映されていると考えて差支えない。そういった事実を「日本学」、「日本研究」の一環として、きちんと研究・調査し、その上で、対応表現として添える英語との異同を明らかにすることが学習和英の編纂には必須のことである。それはまた、これまでの学習和英に関わった人々が気付かなかったか、部分的にしか気付いていなかったか点である。したがって、今後の辞書学研究には必要不可欠の観点である。
7.英語文化の単語レベルの場合
昨年の秋(2011年10月2日7時55分配信)、産経新聞が「米、談合で連続摘発 景気悪化・・・自国保護鮮明に」と題した記事をインターネット上に流した。それには次のようにあった。
米司法省が日系企業を価格カルテルで連日摘発している。日系企業の談合体質を問題視し、米国で改めて“ジャパン異質論”が高まる可能性がある。世界的な経済停滞で、自国企業の利益を守りたいとの意向もあるとみられ、狙い撃ちが続くとの見方は強い。司法省による罰金支払い合意の発表は9月28日から3日連続。古河電気工業のケースでは、罰金額が2億ドル(約153億円)と巨額なうえ、日本人幹部3人が禁錮刑を受けた。カルテルで外国企業の幹部が禁錮を命じられるのは異例といい、日系企業の間では、「かつてない緊張感が漂っている」(米国駐在の電機大手関係者)。
立て続けの摘発について、同省当局者は「特段の理由はない」と偶然を強調する一方、今後については「コメントしない」としており、追及の手をゆるめる気配はない。背景には、日本の特異な企業体質として以前から問題視してきた「談合」へのぬぐえぬ不信感がある。
歴史的な円高水準や原材料価格の高騰で業績が圧迫されるなか、利益確保のため「禁じ手」に走ってしまう日本企業が後を絶たない。日本国内でも昨年、公正取引委員会がカルテルなどで納付を命じた課徴金の総額は過去最悪の約700億円に上った。(以下略
)
こうした日本企業に対するアメリカ側の対応を日本人は深刻に受け止めなければならない。もちろん、アメリカ側の理不尽な要求は断固はねつけるべきだが、その際も、彼我の物の考え方、商習慣の違いを日本人がよく理解した上で、相手と渡り合わなければ、いたずらに感情論に走るだけになってしまう。その際、大事なことの1つは、日英語の「語彙レベル」、もっと平たく言えば「単語レベル」の比較を徹底的に行っておく必要がある。英語国(ここではアメリカ合衆国)を念頭に置いて、ビジネス世界での必須語である「accountability 対 説明責任」、「fairness 対 公正、公平」、「responsibility 対 責任」「the
accused 対 被告人」の4語を採り上げて、その点を論じてみよう。
1)accountability 対 「説明責任」
この英語は日本語の一部にもなっていて、日常的に「アカウンタビリティー」というカタカナ語が当てられている。また、その日本語対応語は「説明責任」である。だが、その語の実像をどれだけの日本人が理解しているであろうか。はなはだ心もとない気がする。最初に、「アカウンタビリティー」を『デジタル大辞林』で引いてみよう。それには次のようにある。
1説明の義務・責任
2政府や公務員が政策やその執行について国民の納得できるように説明する義務を持つこと。説明責任。
3企業が出資者から委託された資金を適正に運用して保全し、その状況を出資者に報告する義務をもつこと。会計責任。
4多額の資金援助を受ける科学技術研究者は、その研究の意義を説明する義務・責任を負うとする考え方。
確かに、日本語としての「アカウンタビリティー」は以上のような意味である。しかし、それには1つだけ大事な点が抜けている。それに違反した場合にはどうなるのか。この語にはその点への言外の意味もきちんと内包されている。
英語としてのaccountability が内包している「厳しさ」は日本語の「説明責任」からは到底測れないであろう。それはあとで述べる「responsibility 対 責任」とは異なり、組織や権力構造に関連する概念で、それらが自らの義務や意思決定に関して合理的な根拠を持ち、倫理的にも問題があることを他(国民・一般社会など)に対して説明し、その結果を引き受ける責任をいう。したがって、英語のaccountability(およびその形容詞であるaccountable)から連想されるものは「厳しい罰則」である。日本人が考えがちな「お詫び」程度で済むものではない。
たとえば、会社の社長がその責任を全うできなければ、減給・降格・解職などが待っている。牧師や神父であれば、聖職からの追放が待っている場合が少なくない。学生であれば、当然、放校・退学ということになる。したがって、accountabilityは説明責任さえ果たせればそれで良いというようなものではあり得ない。その代わり、responsibility
の場合とは異なり、accountabilityを遂行した場合には、きちんとした報酬(昇格・昇任・昇給など)がもたらされるという含みもある。日本企業を含め、日本人の多くはこの点に対する認識を欠くか、それが不足しているために、同語を気楽に捉えているように見受けられる。
2)fairness 対 「公正、公平」
同語の形容詞「フェア」はずいぶん昔から日本語の一部になっている。だが、英語としての同語の本当の姿を知らない日本人のほうが圧倒的に多いであろう。日本企業が「フェアだ、フェアだ」と声高に言っている時、英語圏の企業は、「日本はアンフェアだ、アンフェアだ」だと抗議する。その理由は、両者が捉えている「公正、公平」の概念にズレが生じていることに気付いていないからである。分かりやすい例が、相撲の取り組みや柔道の試合である。前者の場合、日本人にとって、大形力士と小兵力士とが闘っても、それが「土俵」の上で、その場所のために用意された規則に則って行なわれている限り、それは「公正、公平な取り組みだと認識される。だが、英語圏の人たちのfairnessの基準からすれば、その取り組みはunfair(不公平)な取り組みと映る。なぜなら、そもそも体重も身長も異なる二力士が闘うこと自体がunfairなのであり、それをfairなものにするには、体重も身長も同等のものにする必要があるのだ。 その点をよく示すのが、我が国の柔道の国際化であった。かつての柔道は大柄な選手と小柄な選手とが試合をすることは普通のことであった。そんな中で、小柄な選手が大柄な選手を圧倒する姿、平たく言うなら、「小柄な選手が大柄な選手を投げ飛ばす」姿に、日本人は喝采を浴びせたものである。そのあたりのことを示す言葉が、「柔よく剛を制す」だろう。具体例で言えば、「柔道の神様」と称された三船十段(三船久蔵;1883-1965)の柔道にそれがよく当てはまる。三船十段は159センチ、55キロという小柄でありながら、身長においては自分よりも20センチ以上、体重においては自分の倍以上もあるような大柄な柔道選手を隅落とし(通称“空気投げ”)で倒したが、日本人はその業と雄姿とに驚嘆し、拍手喝さいをおくった。
ところが、その後、柔道が世界のスポーツとなり、オリンピックの正式種目となってからは、ボクシング同様、完全に体重別になったことは周知の通りである。体重によるハンチーを解消することがその目的である。レスリング、空手、キックボクシング、重量挙げ等々、いずれも体重別階級制を採用している。そうすることをfairだと考えるのである。 この点をきちんと理解しておかなければ、上記したように、日本人や日本企業が「公正、公平」だと思っている事が、外国ではunfairであると解釈される事がある点に気付かないままになる恐れが多分にある。
【注記】次の記事を参照。「XXU「男女共同参画」の英訳 は“gender equality”でよいか」
3)responsibility 対 「責任」
次に、responsibility 対 「責任」だが、日本人が考える責任意識は、自分の所属する集団に向かいがちであり、個人の責任範囲は不明瞭であることが多い。役所・会社などで「はんこ」をいくつも共同で押すのも、責任を分散・解消しようという意識の表れである。一方、英語圏でのresponsibility は、人としての規範に沿って、倫理的に行動することを言う。したがって、英語圏人は集団内部においては、何よりも自分の責任範囲を明確にし、その責任を果たそうという意識が強く働く。さらにまた、日本語の「責任を取る」は、辞職・辞任・退職と結び付くことが多いが、英語のresponsibilityは、まず自分に責任があることを認め、しかも関係者に分かるような形での善後策を採ることを言う。したがって、それが辞職・辞任・退職に繋がる場合は、「取るべき責任を取った」あとであり、辞職・辞任・退職が先ではない。この点は日本の社会では普通行なわれていない(厳しく言えば、周囲がそれを許さない)のが現状である。この両者の違いは、日本人も日本企業もよく心得ておく必要がある。
4.the accused 対 「被告人」
他動詞としてのaccuseは「(人)を告発する、告訴する」という意味と結び付けられることが多いが、そのため、日本人学習者はこの動詞を負のイメージの濃い動詞だと思いがちだ。ところが、これは「(人)が不正行為をしたと主張する」ことであって、直接的に相手を責めたり、非難したりするとは限らない。それをよく示すのが、表題のthe
accusedという語だ。これは、あくまでも「告訴された人」という意味であって、その訴えが事実かどうか、当人に非があるか否かは裁判所において審判の結果として決まることである。ところが、裁判慣れしていない多くの日本人は「告訴された」時点で、すでに被疑者を負のイメージで捉えてしまいがちである。この点は外国の日本企業を初め、一般の日本人もよく心得ておく必要がある。
以上の点はまず英語教師がきちんと理解しておくべきことである。なぜなら、英語という外国語を一般の日本の子供たちに初めて触れさせるのは、他ならぬ日本人英語教師である。その英語教師たちが、英語の明示的意味(辞書的意味; denotative meaning)と暗示的意味(文化的意味、含み; connotative meaning)の違いを理解せずに、英語を教えれば、どうしても日本語的発想に大きく影響された英語を話したり書いたりすることを教える恐れが大である。その傾向が大きいことは、筆者自身のこれまでの英語指導の実体験を通じても断言できることである。
5.おわりに
以上、学習和英辞典に日本学もしくは日本研究の研究成果を盛り込むことの必要性、重要性を事例と共に簡潔に論じてきた。これまでの学習和英の場合、主に「日英比較研究」の成果としての日英語の違いが盛られることがあったが、その情報の選び方、掲載の仕方は相当に恣意的なものであり、思い付き的なものであった。今後は、本稿で示したような、日本学の立場に立った、科学的態度による広範な日本研究の成果を学習和英に盛り込むことが肝要になるであろう。英語は主にキリスト教を文化背景として生まれた言語であること、したがって英語の単語には、キリスト教的価値観に基づいて生まれたものが無数にあること、また日本語の単語には儒教、仏教、神道など、複数の宗教的文化背景を持って成長してきた言語であることを学習和英編纂者たちはよく心得ておく必要がある。
【注】本稿は、明海大学大学院応用言語学研究科紀要「応用言語学研究」No.14 (H.24 [2012] 5) に掲載され、のちに論説資料保存会「英語学論説資料第46号」(2012年発表論文集)に採録されたものである。】