T 辞書家としての斎藤秀三郎
        《私の原点》その時代と人物、そして「辞書」

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1.英語との関わり                         
 斎藤秀三郎は慶応二年(1866年)正月二日、仙台藩士斎藤永頼の長男として誕生した。六歳にして仙台藩英語学校辛未館に入り、明治七年には明治政府最初の英語学校の一つ宮城英語学校に入った。宮城英語学校では課業は主に外国人教師によって英語で行なわれた。特に米国人教師C.L.グルードは斎藤に英語の基礎を教授した人として記憶される。
 その後、明治十二年に上京、東京大学予備門(第一高等学校前身)を経て、翌年、工部大学校(東京大学工学部前身)に入り、自然科学、応用科学、造船学等を学んだ。また、終生傾倒することとなった英国人J.M.ディクソン教授からは英語を伝授された。斎藤は生涯を通じての英語研究をidiomology (慣用語法学)と称したが、その源泉は同教授の英語教授にある。同教授はスコットランド生まれの英国人で、明治十二年(1879年)来日し、のちに夏目漱石、岡倉由三郎らを教え、日本英語界の大恩人となった人である。 工部大学校卒業目前の明治十六年十二月、斎藤は放校処分を受けた。海外密航を企てたためと言われるが、真相は不明。

 ここまでの斎藤について言えることは、彼は六歳で英学の門に入って以来、殆どの学問を主に英米人から英語で教授されていることであり、工学に興味を持っていたことである。漢学その他、日本人に必要とされていた基礎教育を十分に受けた形跡はない。将来は工学士となるべき斎藤が前述した放校処分で浪々の身となったことは、結果的には我が国の英学界にとって幸いなことであった。なぜなら、事件後、斎藤は『スウィントン氏英語学新式直訳』(明治十七年)を翻訳し、英語の学び方を確信し、これが契機となって斎藤文法が形成されていったからである。なお、仙台におけるグルード、東京におけるディクソン、それにこのスウィントンの三名は斎藤英語形成の三要素となった。

 工部大学校において斎藤が一生の敬愛を捧げることになる F.ブリンクリー数学教授との出会いも、彼の青年期を語る上で忘れられない。同教授はアイルランド出身で、慶應三年(1867年)に英国陸軍士官の身分で来日し、日本女性を妻とし、生涯を知日家・親日家で通した人である。また、「ヘボンもこれにより廃れる」と称された 『和英大辞典』(An Unabridged Japanese-English Dictionary,三省堂)の編纂者の一人であり、乃木将軍夫妻殉死時に、外国人にその真相を誤解されないようにと自らの病苦を凌いで弁護の論文を『ジャパン・メール』紙に掲載した人である。

 工部大学校中退の翌年、すなわち明治十七年(1884年)、十九歳の斎藤は郷里に戻り、翌年秋に私塾仙台英語学校を開校した。同校第一回生の一人に土井晩翠がいる。
 明治二十年四月には、仙台に第二高等中学校が創設され、斎藤は翌年四月、同校助教授に就任。しかし英語主任の米国人F.W.ハーレルと衝突、同年十二月早くも辞職。衝突の原因については伝説化した話があり、それによれば、ハーレルは、A.ポープの『人間論』(ボーリンブルク卿ヘンリ・セント・ジョン宛の四書簡詩)を講ずる斎藤に対して、同詩の不適切なるを唱えたためといわれる。斎藤はハーレルに対して、「米国人には難しくて解らぬかも知れぬが、日本人には解る」と応えたと伝えられる。

 明治二十一年十一月二十七日、斎藤は前島美孝長女〈とら〉と結婚し(再婚同士であったという)、明治二十一年十二月には岐阜中学校へ赴任。岐阜は若き斎藤にとって精進の地であり、カーライル、エマソン、アーノルド、ゲーテらによる著作を読破した地であった。明治二十四年十月二十八日に岐阜、愛知、滋賀、三重、福井の五県を襲った大地震のあと、一時帰郷。斎藤はその後、単身で岐阜に戻り、妻子と合流するのは、岐阜、長崎と赴任地を変え、名古屋に着任してのちのことである。岐阜中学校には明治二十五年まで勤務したが、そこも校長と意見が合わずに辞職。岐阜中学校を辞した月に、斎藤は長崎の鎮西学院に、三、四ヵ月間のみ在職し、同年九月には既に名古屋の第一中学校に教授として転じている。しかも名古屋には翌年六月まで居住しただけである。

 この名古屋第一中学校時代に、学習院教授であった村田祐吉と知り合い、その推輓による第一高等学校教授就任のため、明治二十六年七月上京、本郷西片町十番地に転入した。 斎藤が処女作のEnglish Conversation-Grammar (『英会話文法』、明治二十六年十月)、Practical English Grammar (『実用英文典』、全四巻、明治三十一、二年)を興文社から刊行したのはこの時期で、それらは若き斎藤のエネルギーの結晶であった。この二点によって彼の名は不動のものとなった。前者は中等学校用教科書として書かれたものであり、我が国の学校文法の原型となった言語事象が多く盛られている。たとえば、「補語」の原語 complement も見えているし、「『行ったことがある』の意味には、have been in を用いて、 have gone to を用いてはならない」という学校文法の鉄則も見えている。

 当時、英学者・磯部弥一郎 (1861−1931)は神田錦町三丁目に国民英学会を創設し大規模な教育事業に従事していた。斎藤は第一高等学校教授任官以来、磯部の要請で毎週一日二時間英文学を講義していた。この頃の斎藤の教え子の一人に、のちの学習参考書の先駆・南日恒太郎がいる。 
 しかし、斎藤は磯辺と反りが合わなくなり、国民英学会から分離して、明治二十九年十月には同じ錦町三丁目に自らが創設者・校長となって正則英語学校を旗揚げした。これによって斎藤は磯辺を終生の敵とした。
 正則英語学校はその後隆盛を極め、斎藤の名講義を聞くために生徒が殺到した。講師にも、上田敏、戸川秋骨、米国人F.W.イーストレーキら、著名人が多かった。

 Practical English Grammar (『実用英文典』全四巻)は処女作であるEnglish Conversation-Grammar (『英会話文法』)を発展延長させたもので、その後の我が国の英学界にもっとも深く浸透した文法書である。すなわち同書は我が国の学校文法の内容と形式を定めたものであり、その記述は我が国における学生達の英文解釈の究極的根拠となった。イーストレーキがその校正刷りを読み、米国人学者として様々な助言を与えたことも、同書のアメリカ英語性を特色付けている。
 それからの斎藤は超人的エネルギーを発揮して続々と英文法書を著していった(生涯で二百余点の著書を有した)。中には未完成に終わったシリーズ物もあるが、それはシリーズ自体に飽いたからではなく、途中で更に偉大な著書の企画に傾倒していったからである。
 しかし明治終焉の頃、斎藤は長年自著を刊行してくれた興文社社長・鹿島長次郎と金銭問題の確執で絶交するに至り財政的危機に陥った。我が国辞書史に燦然と輝く『斎藤熟語本位英和中辞典』(Saito's Idiomological English-Japanese Dictionary)が刊行されたのは、そうした苦難期の大正四年(1915年)のことであった。
 

2.斎藤が活躍した時代
 斎藤の幼年期は廃藩置県断行(明治四年、1871年)直後であり、故郷仙台は文明開化の時運に向かっていた頃である。日本人が過去の伝統を棄てておらず、西洋の溌剌たる進取的気分と学問的知識を吸収することに邁進し始めた重厚感を持った時代であった。また、斎藤が経験した少年期は我が国の英学書氾濫時代、英学万能時代でもあった。
 斎藤がそうした特異な時代的背景を持ちながら、その教育の殆どを主に英米人によって英語で伝授されたという事実は前記した通りであるが、この点は我々が彼とその業績を語る際に忘れてはならないことである。今日の日本では幼児英語教育の重要性が叫ばれているが、斎藤が受けた幼児期・少年期教育は日本人が国内でネイティブ・スピーカー並みの英語を習得するためにはどのような教育環境が必須かということをよく教えている。
 斎藤がその天才的な語学力を十二分に発揮していた頃、時代は日清戦争(1894−5)と日露戦争(1904−5)を経験しており、日本の英学の黄金時代とも称すべき時期であった。特に日英同盟(明治三十五年、1902年、1月30日)の締結は、日本人を更に英語文化に向わせることに力を貸した。斎藤自身、正則英語学校において、R.サウジーの『ネルソン伝』を講じた。
 我々は斎藤時代の英語熱を第二次世界大戦後のそれと同一視してはならない。斎藤時代の英語熱は日本人が世界の実態と動向を見聞きし、早期に文明開化の促進を計りたいという国家的・国民的願望の発露の結果であった。斎藤はそうした時代に巡り合わせ、天性の語学力に時代を読む目を養い、努力を重ねて我が国の英学を発展させた人である。


3.
idiomology (慣用語法学)
 前記した通り、斎藤は生涯を通じての英語研究を idiomology (慣用語法学)と呼んだ。idiomology という命名は造語法上問題があるとする人もあったが、斎藤にとって自らの英語研究はidiomology と命名して初めて存立し得た。因みに、『ウェブスター英語大辞典』(第三版)、R.H.ヒル編 『難語辞典』(1971年米国版)等は同語を収録している。後世の人々が斎藤という人物に引かれる理由の一つは、彼がidiomology こそ我なりと学者らしく自己の信念を貫いた故であろう。
 斎藤のidiomology は単なる英語のイディオム研究ではない。無数のイディオムを持つ英語を、同じく無数のイディオムを持つ日本語と対峙させ解剖することにより、それぞれの背後あるいは陰に息づく両国民の心理や考え方や感じ方を発見しようとしたものである。換言すれば、斎藤の
idiomologyとは英語の生ける生理学を論じるものであった。
 

4.斎藤の辞書
 斎藤は興文社との絶縁後、印刷所を自営していたが、次第に財政危機に陥っていった。「辞典はいよいよ最後でなければやらぬ」と主張していた彼であったが、その窮迫を救うためと、熟考の結果、辞典は自分の研究の結果を盛り込むのにはもっとも便利な形式であると結論するに至ったために、いよいよ辞典執筆に着手し、全エネルギーをそれに傾注して、普及の名著 『熟語本位英和中辞典』(大正四年、1915年)を刊行した。
 同書は斎藤が一人の助手も用いずに完成させたもので、斎藤文法の結晶とも言うべき作品であった。当該単語と連結する動詞や前置詞は何かといった構文上の特質の扱い方、他動詞構文の扱い方等は巧みであり、今日のcollocatiom 研究の先駆けを成している。

 斎藤のこの辞典を語る時、我々は同じ大正四年に刊行された 『井上英和大辞典』 に言及せずにはいられない。同書は明治英学の三巨人の一人井上十吉 (ほか二名は神田乃武、斎藤秀三郎)が単独で著した辞典であるが、斎藤の辞典が純粋に斎藤の頭脳から生まれ出たものであるのに対して、井上のそれは『オックスフォード英語簡略辞典』(通称 COD )を殆どそのまま引き写したと思われる個所の続出するものであった。斎藤がCOD を参照した形跡は今に残っている。しかし彼は同辞典の記述を咀嚼し、我が物にしてから自己の辞典に利用した。我々は辞書編纂時における斎藤のこうした良心的姿勢に大きな信頼感を覚える。その意味で、斎藤のこの仕事には現代の辞書編纂家たちが見習うべき理念が窺える。
 もちろん斎藤のこの『中英和』にも欠点もあれば独断と思われる記述もある。出版当初の批判としては、時流に逆らうように採用したカタカナ発音表記がその一つに挙げられる(豊田実による改訂版では国際音標文字が使用されている)。明治・大正を初めとして、日本の風俗・文化一般に関する用例が散りばめられている点も、これが英和辞典であることを思うと、斎藤の偏向が感じられる。しかし我々はその僅かな短に目を奪われて、同書が英学界に及ぼした絶大なる影響と、それが為した偉大なる貢献を忘れてはならない。
 いかにも人間味のある 『中英和』であったが、その名の通り熟語本位であったためと、同書が必ずしも学生向きではなかったためとで、斎藤は大正十一年四月(斎藤五十七歳)、日英社から『携帯英和辞典』 を刊行した。同書は斎藤のその後の語義研究 (word-study)の成果を十分に盛ったもので、「英和辞典」としては『中英和』 よりも優れている。

 次に我々は 『斎藤大和英辞典』(昭和三年) を見なければならない。同書は斎藤の最後の大作となったもので、これほど個性豊かな和英辞典は日本辞書学史上例を見ない。斎藤はいったいに自己をその著作に頻出させる人物であるが、同書にはとりわけ多くの斎藤が書き込まれている。和歌、漢詩、俗謡等々の英訳も多数収録されている。たとえば、「明日ありと思ふ 心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 は九歳で出家した幼き日の親鸞が、得度を授ける師の慈円に向かい詠んだとされる和歌であるが、同辞典のAdazakuraの項には、Hope not the transient blossom shall / Until the morrow last:/ For who knows but the midnight gale / Thy cherished hope may blast?と見事に訳出されている。
 和英辞典にこの種のものは不要とする意見もあるが、私が斎藤贔屓と成り、和英辞典一般の改良に微力を尽くす決意をした一つの理由は正に、同書のこうした「日本らしさ」を見出したためである。斎藤が同書で我々に伝えようとしたのはその序文の末尾にあるIn short, the English of the Japanese must, in a certain sense, be Japanized.(要するに、日本人の英語は、ある意味において、日本化さるべきなのだ)という点であろう。これは その一生を狂おしいほどの愛情を持ってidiomology (慣用語法学)の研究に捧げた斎藤の悟りの境地であっただろう。この言葉にこそ後世の日本人学習者は言い知れぬ安堵感を覚えるはずである。少なくとも私には斎藤のこの言葉は和英辞典編纂事業に関わる際の一大指針となっている。


5.未完の『英和大辞典』 
 斎藤は『和英大辞典』刊行の翌年昭和四年、十一月九日午前一時、直腸癌のため、東京都麹町区五番町二番地の自宅において六十四年の生涯を終えた。「およそ人間はcause(大義)があれば絶対に死ぬものではない」 と言っていた巨人も病魔には勝てなかった。
 その斎藤が未完で残したものに 『英和大辞典』 がある。原稿は 「H 」 の項まで出来上がっていた。私はその実物原稿のコピー40数頁分を見る機会を得たことがあるが、それはB4判よりやや小形の横罫用紙に、斎藤独特の芸術品とも形容できる手で書かれた原稿であった(下はそのコピー頁で“come”の項と一部拡大)。


              

       

    

 発音には国際音標文字が使用されており、動詞の場合にはその語義分けの精密さと指示ラベルの特異さが注意を引く。たとえば、当該動詞が名詞を伴って熟語を構成する場合(例:to break bread ) には、「動副熟語」のラベルを付している。その他、「以下前置詞付」「命令法の慣用」等、有益な語法指示が目立つ。また、助動詞 can の説明は、「第一の意味」「第二の意味」「第二の意味の疑問」等の書き方で語義分けし、適所に「注意」の指示を与えている。次にその項を前著『熟語本位英和中辞典』の同項と比較してみる(1.が豊田実増補『熟語本位英和中辞典』からの引用であり、2.が『英和大辞典』の原稿からの引用であるが、後者の転載に当たっては片仮名を平仮名に変更したり代表的語義に傍線を施したりなどして前者と統一した)。
                                  

                 1.豊田実増補『熟語本位英和中辞典』から
       


                        2.『英和大辞典』の原稿から
          


                              上に続く
          


  以上の通り、『英和大辞典』のcanの項は『熟語本位英和中辞典』の同項よりもいっそう分かり易く、より有機的に語義分けされ用例付けされている。
 斎藤のこの 『英和大辞典』 が世に現れていたなら、日本英学界、日本英語辞書界をいっそう啓発したはずである。まことに貴重な学問的財産となるはずの書であった。せめて、残されている全原稿を克明に分析して、晩年の斎藤文法を後世に明らかにしておく必要がある。自信作を未完のままにして逝った斎藤自身、それを熱望しているのではなかろうか。


6.終わりに
 「斎藤秀三郎氏が日本に生まれたのは斎藤氏の不幸であるが日本に取っては幸福であった。斎藤氏が欧州に生まれたら、あの著述だけでもイエスペルセン以上に認められたであろう。」 これは斎藤とは肝胆相照らす仲であった和田正幾の言葉である。「斎藤秀三郎さんの死は国宝の損失でした」と言ったのは土井晩翠である。また、「筆者がそのインスピレーションの源泉であり、負うところ極めて大である斎藤秀三郎氏」と書いて斎藤に敬意を表したのは H.E.パーマーである。 「英語の斎藤さんにノーベル賞を与えよ」 と書いたのは東京朝日新聞である。そのいずれも英語学者斎藤の偉大さをよく称えている。斎藤を除いては我が国の英学史は成立し得ない。彼の存在はそれほど偉大であった。
 しかし、明治的豪傑斎藤にも極めて人間的な一面もある。彼は常に、「天国に行ってからも英語丈は勉強するよ、人間が此世で成し遂げる事が出来る仕事って高の知れたものさ。」と語っていたという。存命中に著した書物が優に二百点を超す、まさに《超人》としか形容できない斎藤の、これまた何と謙虚な言葉であろうか。超人斎藤のそうした一面に私はこよなく、限りなく、親しみを覚える。私が辞書家としての斎藤を 「私の原点」とする所以である。
 名著普及会から復刻されて出ている 『正則英語学校講義録』 は学習と教授の在り方の原点に立ち返りたいと願う日本人英語教師には必読の書である。受験英語で知られた長谷川康は、正則英語学校に言及して、「正則英語学校は日本人が英語を学習するには絶好無比の学校である。自分が受けたimpressionが是れである。吾々は日本人である、これ以上何を望もうか。」と言った。同講義録を通読すると、長谷川が受けた印象の正当性がよく理解できる。
 「斯の道の為に、斯の言葉のために、何人かその全力を尽くさざる」 と言いつつその全エネルギーを我が国の英語界に捧げた大恩人斎藤のためにも、我々は同講義録を熟読し、その名講義の真髄を次代の人々に伝えていきたいものである。
 斎藤秀三郎の強烈な個性と、超人的なエネルギーと、そして学者としての良心が生み出した膨大な著作が、今、時を越えて、我々の前に迫り来る。


■本稿は『翻訳の世界』(1992年4月号)に掲載された記事を同誌編集部の了解の下に再録したものである(本ホームページ用に一部形式を変更、写真一葉付加)。
《主要参考文献》
@大村喜吉著『斎藤秀三郎―その生涯と業績」(吾妻書房、1972年、第5刷)
A高梨健吉・大村喜吉著『日本の英語教育史」(大修館書店,1975年)
B『日本の英学百年』大正編、明治編(研究社出版,1968年)
C資料提供/名著普及会


斎藤秀三郎関連のサイトへのリンク

1. 斎藤秀三郎 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E
2. 歴史が眠る多磨霊園- 斎藤秀三郎 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_hds.html
3. 斎藤秀三郎 http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/saitouhidesaburou.htm
4. 短気な英語学者 http://www9.ocn.ne.jp/~gakujin/syuuhen/syuuhen-saitou.htm
5. 正則学園高等学校創設者としての斎藤秀三郎 http://www.seisokugakuen.ac.jp/other/enkaku.htm
6. 孤高のライオン:大村喜吉 「斎藤秀三郎=その生涯と業績」 
http://www.jmca.net/booky/takeshita/ryosyo11.html
7. 孤高のライオン:大村喜吉 続・「斎藤秀三郎=その生涯と業績」 
http://www.jmca.net/booky/takeshita/ryosyo12.html                 
8. 歴史が眠る多磨霊園-斎藤秀雄 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/saitou_hdo.html
9. 小沢征爾について その1 http://www.yorozubp.com/9907/990705.htm
10. 小沢征爾について その2 http://www.yorozubp.com/9907/990715.htm