14. 好きこそものの上手なれ
           ―英語辞書を編纂して―

【本稿は2012 [平成24]88日(水)に開催された明海大学外国語学部英米語学科One Dayセミナーにおいて私が受講生(高校生)に話したことの増補版です。】


みなさんは 保己一(はなわ ほきいち; 1746-1821)という江戸時代に活躍した盲目の国学者の名を聞いたことはありますか。『群書類従』『続群書類従』という名の国文学・国史を主とする膨大な叢書の名はどうでしょう? 歴史学・国文学等の学術的な研究に多大な貢献をしているもので、今日に至るもその価値は減じていないものです。これらを編纂したのが保己一です。寛政の改革で有名な老中・松平定信(1758−1829)は数万冊の古文献を頭に記憶した保己一のことを「塙は人にあらず、書物の精が生まれ変わったのだ」と言ったそうです。ちなみに、保己一は、江戸で『太平記』を暗記してそれを人に読み聞かせて名を成している者がいることを聞き、「わずか四十巻の本を暗記することで妻子を養えるなら、自分にも不可能なことではない」と言ったという逸話が伝えられています(保己一資料館HPより


 かのヘレン・ケラー(Helen Adams Keller; 1880-1968)の両親は「保己一を手本にしよう」と言って、ヘレン・ケラーの教育に当たったそうです。実際、ヘレン・ケラーは来日した際1937 [昭和12]426日)、保己一の記念館を訪れています。その折に、通訳を通して、「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と述べたと言われています。また、別の所でこんな言葉も述べたそうです。「私はいつか日本へ行ってみたい。そうしたら必ず埼玉を訪ねてみたい、そう願ってきました。それが今日やっと実現したのです。こんなうれしいことはありません。なぜなら、私が心の支えとして、人生の目標としてきた人物がこの埼玉の人だったからです。その人の名前はハナワホキイチ先生といいます。…私は幼いころ母親から塙検校(保己一)の業績と不屈の精神を聞かされ発奮しました。塙先生は私に光明を与えてくださった恩人です」。【ヘレン・ケラーの来日を可能にした陰には、日本の社会事業家・岩橋武夫(1898−1954)の多大な尽力があったことを忘れてはいけないでしょう。岩橋は早稲田大学理工学部在学中に網膜剥離のために失明した人です。郷里の関西学院大学文学部英文科に移り、大阪市立盲学校教師となり、のちにエジンバラ大学に留学し学位を得て、関西学院大学文学部の講師になりました。のちに、大阪盲人協会の会長に就任、ヘレン・ケラー宅を訪問して、ヘレン・ケラーに日本訪問を要請しています。岩橋はその後、日本盲人会連合会長、日本ヘレン・ケラー協会幹事長などを歴任。身体障害者福祉法制定に尽力し、1954年に持病の心臓性喘息が悪化し、56歳で亡くなっています。】


 保己一は1746年、延享(えんきょう)3年に武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉保木野)に生まれましたが、5歳の時に病気がもとで視力が弱り、その後、7歳の時に失明しました。失明後、他人から聞いたことを一言一句忘れることなく、物覚えも非常に早くなったそうです。

 15歳になった時、江戸に出て、最初は盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門し、按摩・鍼・音曲などの修業を始めましたが、生来不器用だったらしく、その道では上達を見なかったそうです。絶望のあまり自殺さえ考えたそうですが、学問をしたいという保己一の希望を雨宮検校は受け入れ、3年間の猶予を与えるので、それで見込みが立たなければ国元へ帰るように言ったそうです。

 保己一はその後、当時のそうそうたる学者(国学・和歌・漢学・神道・法律・医学等)の下で学問を続けます。保己一には視力が欠けていましたから、すべて人が音読してくれたものを暗記して学問を積みました。

その結果、自分の耳で聞いたものを全て文字に起こしてもらい、安永8年(1779年)には『群書類従』という一大叢書として纏められました。古書の散逸を危惧した保己一が、菅原道真を祀る北野天満宮にその刊行を誓ったものでした。江戸幕府・諸大名・寺社・公家などの協力を得て成った、古代から江戸時代初期までの史書や文学作品など、計25部(1273530666冊)から成っています。保己一34歳の時に始め、74歳の時に完成したものです。何と、40年もの長年月がかかっています。

『続群書類従』は正編と同じく計25部に分かち2103種、1000巻、1185冊の一大叢書です。保己一死後、その弟子たちが纏めたものです。もちろん、多くの人たちの大きな支援があったとは言え、その中心を成したのはほかならぬ塙保己一でした。ちなみに、塙保己一は総検校(盲官の最高位の名称)でした。

ちなみに、400字詰め原稿用紙の原型を作ったのも保己一だと言われています。



 私が保己一の話を初めて知ったのは高校生になった頃でした。高校の図書館で偶然目にした苦労人の話を書いた本を読んでいて、正直なところ、大きな衝撃を受けました。健常者でさえやろうとしないことを、いや健常者であればそんなことを考えることはなかったかも知れませんが、盲目の一人の少年が幼い日から自分の耳を信じ、耳を頼りに、聞き集めたことを種々分類整理して『群書類従』、『続群書類従』という前代未聞の叢書を編纂したという事実に対してです。「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」という言葉を思い出しました。

 私は小学校時代は、山口県の海や山で過ごしたと言ってよいほど、勉強には無縁の子供でしたが、中学校に入ってから、何か少しは勉強しなければと思い立ち、よく考えてみたら、ゼロから始められる科目として英語しか存在しませんでした。これが私が英語に力を入れ始めた単純な理由です。山口県から東京に出て来た中学3年生の時と、高校3年間の計4年間、私は英語部に所属し、いろいろな英語弁論大会にも出場しました。もちろん今と違って、私の周辺には英語を母語とするようないわゆるnative speakerはほとんど居ませんでしたから、親からレコードを買ってもらい、それが擦り切れるまで聞いて、自分の英語を英語らしい音に近づけるように努めました。学習環境に恵まれていない時代だったからこそ、集中力を養うことも、頑張ることも出来たのかも知れません。

 高校1生になった時に参加した英語弁論大会で優勝して授与されたイギリスのThe Concise Oxford Dictionary(いわゆるCOD)2年生の時に優勝して授与されたThe Pocket Oxford Dictionary (いわゆるPOD)、大学2年生になったばかりの新年度オリエンテーションで、優等生に選出・授与された『研究社英和大辞典』の3点の辞書が私のその後の運命を決定づけたように思います。こんな立派な辞書を作ってみたいという夢を持つようになりました。私の中学・高校・大学時代の英語の辞書(英和辞典、和英辞典、とりわけ後者)の質は相当に悪いものでした。「私が辞書を作るなら、この個所はこういう原稿にしたい。こういうことを盛り込んだ書き方にしたい。」などという夢を自分の手元の辞書に赤鉛筆で書き込むようになりました。それが習性になったと言っても過言ではありません。

 後日、そうした“自分で作った”辞書を学研の辞典編集部の人に見せる機会に恵まれました。それがきっかけで、『ニューアンカー和英辞典』(1991)、『スーパー・アンカー和英辞典』(2000;第2版2004)、『スーパー・アンカー英和辞典』(初版1996;2009年現在第4版)『アンカーコズミカ英和辞典』(2007)という4点の英語辞書を編纂することになりました。最初の私の辞典である『ニューアンカー和英辞典』を編纂する際に苦労した学問的成果を纏めたもの(『学習和英辞典編纂論とその実践』、2001)が、後日、私が応用言語学博士の学位を申請するための主論文となったことも今となっては良い思い出です。

 視力も大きく減退し、運動不足のために糖尿病・高血圧・椎間板ヘルニアなどにも悩まされましたが、途中で一番“こわい”“恐ろしい”と思ったことは、ある夏、夏で13本の歯が抜け落ちた時でした。それまで、大学教授と辞書編纂家としての、いわゆる“二足のわらじ”を履いていたために、相当に悪くなっていた歯周病を手当てすることなく放置しておいたことが原因で、虫歯でもなんでもない歯が、次々と抜けて行ったのです。ぐらぐらしている歯を自分の指でつまんで力いっぱい引き抜いたことも何度もあります。電車通勤をしていて、乗車中に何度か気を失って倒れたこともあります。車の運転中に居眠りをして先行車に追突したこともあります。原因はいずれの場合も睡眠不足でした。今は懐かしい思い出です。

 最初にお話しした塙保己一は盲目の人でした。それから比べれば、私など大いに幸せな立場の人間でした。ただ、「好きこそものの上手なれ」の言葉が教えるように、自分の人生でいつも心しておきたいことは、自分は何が好きなのか、何が得意なのかということを知っていることだと思います。それさえ分かっていれば、それを自分の人生の灯台として、その灯台を目指して進んで行くことが大事だと思います。どんなに回り道をしても、灯台の明かりを見失わない限り、いつかは必ずそこに到達できます。「継続は力なり」(Continuity is strength.)だと思います。


 ここで話を今回のロンドン五輪に移します。世界中の全ての選手たちが、自分の力の限りを尽くして闘っています。その中の我らが日本人の一人、体操個人総合で金メダル、団体総合と床運動の銀メダルと、計3個のメダルを獲得した内村航平選手(1989- ) の努力に焦点を合わせましょう。北京五輪の団体総合と個人総合で銀メダルを獲得した時はまだ19歳でした。内村選手は3歳の時から両親が営むクラブで体操を始め、トランポリンで自分の得意とするひねり技のコツを掴んだそうです。幼い日の自由帳に、自分の手で演技をコマ送りしたイラストを描き、キャラクター人形を動かしてはイメージを膨らませ、自分の技を磨いて行ったと言います。今では、どんなに高速で回転していても、空中での自分の居る位置を正確に把握できるそうです。まさに、好きな体操のためなら努力も苦にならないのですね。その内村選手も、高校1年次のインターハイでは総合で140位と、全く振るわなかった時がありました。体操選手に必要な筋力が備わっていなかったからと言われています。その弱点を1年間で克服し、翌年、高校2年次には何と、同じインターハイで優勝を果たしています。技術力と筋力と精神力とが備わった結果だったのでしょう。「練習でできないことは、試合でもできない。」 これは内村選手の言葉です。


 今日、このセミナーに参加してくださったみなさん。どうか、自分の夢を持ってください。そしてその夢の実現のために、誠実に努力してください。努力の持続は、その結実の時期については多少の差はあるでしょうが、必ず報われます。みなさん一人一人が、自分という種を「夢」という大地に撒き、それに水や栄養をやり、手を加えて行って、初めて大きく実るものです。塙保己一が志を立てて江戸へ出たのが15歳と言われています。私が、将来は英語で身を立てたいと漠然と思ったのも同じ年齢の頃だったように思います。皆さんとそんなに年齢は変わりませんね。どうか、みなさんも「継続は力なり」ということを信じて、誠実な努力を続けてください。私が編纂した英語辞書は全て1500頁から2000頁を超えるものです。しかし、そのいずれも1頁目の1行目の1字目から始まります。最初からそれだけの辞書が出来るわけではありません。「倦(う)まず撓(たゆ)まず」という言葉があります。「飽きたり怠けたりしないで努力すること」という意味です。その意味の正当性を実感できる皆さんが一人でも多く出ることを心から願っています。努力は決して嘘をつきません。私は来月で68歳になりますが、気持ちは、辞書作りを夢見た、若かったあの時と同じです。私はみなさんのお父さん以上の年齢ですが、若いみなさんに負けないように努力を続くて行くつもりです。お互いに頑張りましょう。(終わり)


Dreams, in general, take their rise from those incidents that have occurred during the day. ―Herodotus (484?-425? BC)
   
夢は、一般に、その日のうちに起こりしことより生起す ― ヘロドトス(古代ギリシャの歴史家)