叱られて (Shikarareté) 作詞:清水かつら 作曲:弘田竜太郎 英訳:山岸勝榮© Scolded Lyrics:SHIMIZU, Katsura Music: HIROTA, Ryutaro English Translation: YAMAGISHI, Katsuei © |
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1. Scolded, scolded 2. Scolded,
scolded |
この歌には著作権はありません。 |
イラストはこちらからお借りしました。 |
以下の文章は私のゼミの特修生で大学院博士前期課程1年生の大塚孝一君の手になるものです。 興味深い文章ですので、同君の了解を得て、転載します。 |
山岸勝榮教授 山岸教授の御訳Scoldedを拝読しまして、以下に分析、および感想を書かせていただきます。 《原詞に“表れていない”英語》 英訳をリズムに乗せるために、若干英訳に言葉が加えられることは、歌の翻訳ではよく見られます。今回山岸教授がお訳しになりました「叱られて」にも、リズムの面での問題を解消するための英語表現が見られます。しかし、それらの英語表現はそのためだけでは無く、今までわたくしが山岸教授の御訳を分析し、名付けた「論理を保つ英訳」という一面も担っていることが分かります。例えば、第1連では、3行目にlooks after the baby boyという表現があります。これは歌詞の「直訳」ではありません。後続するlulls him to sleepにつなげるために必要な表現ということが言えます。もしこの表現がなければ、少々唐突な英語ということになり得るでしょう。他には、同連最終行のat that time of dayも論理を保つために用いられているということが言えます。当然、前行のIn the eveningという語を受けていると考えられます。つまり、きつねが「こん」となく時間帯は「夕べさみしい」の「夕べ」であるということがこちらの表現から分かります。同類の表現として挙げられる箇所は第2連4行目の行頭Thereです。前行のthat mountainを受けるために用いられているということが言えます。この語が無ければ、前行とのつながりが見えず、非論理的な英訳と解釈されることもあり得るでしょう。以上、3箇所の英語表現とその機能を提示しました。 しかし、もう一つ別の機能を持つ英語表現もあります。それは、第1連2行目のapprenticeという語です。この語は前後を論理的につなぐ働きをしているわけではなく、boyという語をより明確にするために用いられた語と言えます。boyだけでは原詞のニュアンスが伝わりにくいため、apprenticeが添えられることで英語圏の人々には、boyのイメージがより明確に伝わるということが言えます。 前者の場合は、英語が分かっているからこその技法と言え、後者は日本語、つまり原詞が分かっているからこその英語表現ということが言えます。翻訳というものは、そのジャンルを問わず、元の言語と目標言語を理解していなければ成立しないということが上記の例より分かります。 《原詞の代名詞とその英訳から分かること》 山岸教授もブログにてお書きになっているように、この原詞は理解するのに少々困難を伴います。山岸教授が困難をお感じになっていたのですから、わたくしなどは、この分析を書いている今も歌詞の理解に苦しむところがあります。これでは、到底原詞に沿った英訳などできるはずはありません。 この歌詞の解釈が困難な点の一つに人物(あるいは「視点」)があります。「あの子」はどういう子なのか。性別ははっきりしているのか。「あなたの 花のむら」の「あなた」とは誰を指すのか。「ほんに花見は いつのこと」はどういう視点で歌われているのかなどです。このように日本語は実に曖昧な表現が成立します。やっかいなことに、普通の日本人はその曖昧さをあまり感じることはありません。翻訳してみてはじめて、このような曖昧さに気がつくということが多々あります。外国語への翻訳を通して初めて母語の性質に気がつくということです。山岸教授が頻繁に引用される、ゲーテの「外国語を知らざるものは自国語をも知らざるなり」という言葉が真理を突いたものであることを実感します。 ここでは人物を例に取り上げましたが、これを“感じ”、時には分析して確実に理解することができるのは、やはり、この歌の場合は日本人であるということが言えます。急いで付言しますが、民族的に日本人が優れていると断言しているわけではありません。Shakespeareの作品であれば、本当に理解をしているのはひょっとするとShakespeareの本家本元であるイギリス人なのかもしれません。The Great Gatsbyを完全に理解しているのはアメリカ人なのかもしれません。中には新渡戸稲造や鈴木大拙などのような稀有な英語力の持ち主もいますし、エドワード・サイデンステッカー氏やドナルド・キーン氏のように日本文化に精通なさっている方もいらっしゃいます。しかしそのようなことは“例外”と言っていいでしょう。 いずれにしましても、上記で述べた点は、より広く深い考察が必要でしょし、文学作品の翻訳を比較対照した論文を読む必要がありそうです。 平成26[2014]年3月10日 大塚 孝一 |