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この歌に著作権はありません。 |
背景画像はこちらから拝借しました。 |
以下の文章は私のもとで研究を続けている博士前期課程1年生の大塚孝一君の手になるものです。 興味深い文章ですので、同君の了解を得て掲載します。 |
山岸勝榮教授 この度の御訳Homesicknessを拝読いたしました。そちらを分析いたしましたので、ご多忙のところ恐れ入りますが、ご一読ください。 ------------------------------------------------------------- 山岸教授の御訳を拝見し、非常に興味深いと感じた箇所は、各連の最終行の御訳です。 《第1連、第2連の御訳:主語は“人”か“自然”か》 第1連最終行と第2連最終行はそれぞれ「風吹きゃ 木の葉の 音ばかり」「空には寒い 茜雲」という歌詞であり、いずれにおいても“人”が明示されておりません。これらの原詞に対して山岸教授は以下の様に訳出をなさっています。 第1連最終行「風吹きゃ 木の葉の 音ばかり」And when the wind blew up, I only heard the rushing of the leaves 第2連最終行「空には寒い 茜雲」The sky was covered with cold clouds dyed crimson by the setting sun 前者は、主節の主語が“人”になっています。後者は“人”が表れていません。どちらの行も風景の描写であるのに、このような訳出の違いが見られるのはなぜでしょうか。もちろん、これらの原詞から山岸教授がそうお感じになったと言ってしまえばその通りですが、わたくしはそれだけではないと考えます。 結論から言えば、第1連最終行の御訳出に関しては、同連同行と第2連の1行目との関わりを重視なさったのではないかと考えています。同様に、第2連最終行の御訳出は、同連同行と第3連1行目の関係が重要であるとご判断になったということが言えるのではないでしょうか。 まずは、第1連最終行ですが、第2連1行目は「母さま恋しと 泣いたれば」となっており、視点は“人”になっています。この歌では、故郷を想う人の行動や心情が歌われていますが、決して各連が独立しているわけでは無く、連が進む毎に、時間の経過が見え、この者が抱く心情がその時々の情景描写と巧みに絡み合うことによって、その者が抱く“里ごころ”が表されています。第1連最終行は次の連の1行目とのつながりが強いため、結果的に山岸教授は「(風吹きゃ 木の葉の 音ばかり)聞こえた」というようにお感じになったということが言えます。つまり、第1連の最終行では、主節の主語を人で表す必要があるのです。ちなみにわたくしはAll I heardを主語にしましたが、when the wind blew upという山岸教授の御訳とのつながりは不自然になりますし、“人”が主語になっていないため、焦点がぼけている訳ということが言えます。 続いて第2連の最終行ですが、こちらは第1連最終行とは対照的に、後続する歌詞、つまり第3連の1行目の歌詞が「雁 雁 棹になれ さきになれ」というように、人が出てきていません。人の行動ではなく、情景描写を優先なさった結果の御訳The sky was covered with cold clouds dyed crimson by the setting sunという御訳になるということが言えます。 このように、詩全体の“流れ”をお考えになり、第1連最終行では人を主語に、第2連最終行では自然を主語になさったということが言えます。 《第1連、第2連の御訳:誰が“迎え”に行くのか》 第3連最終行の原詞は「お迎え頼むと 言うておくれ」です。この原詞を山岸教授はRouse the people at home and ask them to see meとお訳しになっています。わたくしは“迎えに行く人”は「母」かと思い、my momと訳出をしました。しかし、山岸教授の御訳を拝読し、原詞では、「誰か」ということを特定していないことに気がつきました。そして「我が故郷にいる人々」という特定していない表現が最適であるということを勉強させていただきました。もちろん、the people at homeにmy momも含まれているのでしょうが、原詞に明示されていないことを無理矢理表すことは、時に翻訳を通じて“誤解”を与えることもあろうかと思います。それは翻訳の意義に沿ったものではありませんから、避けるべきことであります。 このthe people at homeという表現は、常に原詞に忠実な御訳をおつくりになる山岸教授の翻訳のエッセンスが含まれているというように感じます。 平成26[2014]年3月18日 大塚 孝一 |