ふじの山(富士山) 作詞・作曲者:不明 英訳:山岸勝榮© Fuji-no-yama (Mt. Fuji) Lyrics and Music: Unknown English Translation: YAMAGISHI, Katsuei© |
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1. With
head above the golden clouds, high against the sky
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この歌に著作権はありません。 |
以下の文章は私のゼミの特修生で大学院博士前期課程1年生の大塚孝一君、および現3年生の草皆高広君の手になるものです。 興味深い比較ですので、両君の了解を得て、転載します。 |
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特修生の皆さん 山岸教授の「ふじの山」の御訳とエリザベス・狩野先生の英訳を比較していきます。狩野先生は、イギリスの方で、旺文社の『オーレックス和英辞典』の編集委員です。英訳はこちらにまとめましたので、以下のURLの「共有」フォルダ内にありますPDFファイル「訳比較 18 ふじの山」をダウンロードしてください【下にPDFとして掲載;山岸】。 山岸教授と狩野先生の英訳を比べますと、山岸教授の御訳は一言で言えば、「日本人として英訳」と言えます。一方、狩野先生のものは「英語圏の人々としての英訳」ということが言えるでしょう。以下、具体例を挙げて比較対照をしていきます。 まず、曲名の「ふじの山」です。山岸教授はFuji-no-yama (Mt. Fuji) となさっています。曲名をローマ字化することで、原詞に対する忠実度が保たれています。狩野先生はMount Fujiとしています。「山」を英語化させています。善し悪しではなく、山岸教授と狩野先生がどのような立場からこの曲名を英訳なさっているかが分かる好例です。 次に、第2連の「きものきて」の箇所です。山岸教授はa freezing white kimonoと英訳なさっています。狩野先生はa gown of whitest snowとしています。山岸教授はあくまでも日本人の視点で、狩野先生は英語圏の人の視点で、それぞれ訳出なさっていることがわかります。狩野先生はこの点について、「「雪のきもの」や「すそをとおくひく」などから冬の富士山が美しい純白の花嫁衣裳を身にまとっているというイメージを膨らまし、「きもの」をあえてkimonoではなく wedding gown (ウェディングドレス)を表す gown と訳した。」と言われています。(URL http://olex.sakura.ne.jp/blog/2011/01/24/240/) 最後に最終行の「富士は 日本一の山」という原詞です。山岸教授はFuji-san of Japan - greatest of all our mountainsと訳されています。狩野先生はMount Fuji reigns supreme.と訳されています。山岸教授は「富士」を題名の英訳と同じように、ローマ字化なさり、そのあとの「日本一の山」をgreatという形容詞の最上級で表されています。狩野先生はreignという動詞を用いて表現されています。この点について、前掲のウェブサイトでは「『あたまを雲の上に出し』ており、また日本人にとって崇敬の対象であることから、『日本一の山』を『君臨している』と訳した」と述べていらっしゃいます。 確かに日本人にとって富士山は「崇敬の対象」であります。富士山の麓に暮らす人々はおそらく「富士山が見ている」という“躾”をうけたことがあるでしょう。これは、「お天道様が見ている」に繋がるものです。それほど日本人は富士山を神格化していたわけです。個人的な好みでものを言えば、狩野先生のreignという訳語は少々“行き過ぎ”ているように感じなくもありません。そう思うのは、わたくしが日本人である“証拠”かもしれません。 以上三箇所の原詞を取り上げ、山岸教授の御訳と狩野先生の訳を比べてきました。このことから分かるように、山岸教授は「日本人」という立場で「日本人が感じる富士山」を英語になさっています。一方狩野先生は「英語圏の人」という立場で「日本人が感じる富士山を、英語圏の文化というフィルターを通したもの」を英訳なさったということがわかります。 山岸教授も狩野先生も原詞を大切になさっており、忠実に英語で表現なさっているということは明確に分かります。この点、Greg Irwin氏の翻訳作品に見られる「自由訳」とは“線引き”をしなくてはいけません。しかし、原詞に忠実であっても、このような立場や視点の違いにより、それが英訳にも反映されるということは非常に興味深い事実であると思います。 平成26[2014]年3月2日 大塚 孝一 「ふじの山」PDF |