琵琶湖周航の歌 (Biwako Shukõ-no-Uta) 作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋 英訳:山岸勝榮© On the Waves of Lake Biwa |
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琵琶湖周航の歌 (YouTube版)
I am a child of the Lake, rowing its watering realm 松は緑に 砂白き 雄松(おまつ)が里の 乙女子(おとめご)は 赤い椿の 森陰(もりかげ)に はかない恋に 泣くとかや The green of the pine trees against the white sand 波のまにまに 漂(ただよ)えば 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ 行方(ゆくえ)定めぬ 波枕(なみまくら) 今日は今津(いまず)か 長浜か Drifting about as the waves might decree The azure flower garden, the coral shrine Arrows are like marsh reeds, deeply rooted all At holy Chomeiji Temple, our pilgrim destination |
この曲は「著作権消滅曲」です。
昨日(2013年11月12日)のゼミ授業で取り扱った「琵琶湖周航の歌」には、滋賀県公認(?)の英語版がある(こちらにYoutubeの動画が、またこちらに英語版の解説がある)。日系アメリカ人のPhilbert Ono 氏が英訳したものだ。ゼミ授業でこの歌の英訳を済ませるまで、英語版が存在することは知っていたが、私も同氏によるその版は見なかった。授業が終わったあと、具体的には昨夕、初めてじっくりと見てみた。 上記のYoutube 版の歌唱はアメリカ合衆国イリノイ州出身の双子の姉妹Jamie Thompson さんと Megan Thompsonさん(現在、日本在住)とが行っているとのこと。 日本語の原詞とOno 氏に英訳を逐一比較すると、私にはいろいろと疑問に思えるところが出て来るが、「これは“誤訳”ではないか」と思った箇所の1つが3番に出て来る「赤い泊火(とまりび) 懐かしみ」という個所の「赤い泊火」の英訳だ。Ono 氏はこの個所をOn shore we see red fire, brings back memories.と訳し、「たき火か灯火かはっきりしていませんが、この英語だとたき火と想像する人が多いと思います」と解説を加えている(こちら)。だが、これは違うだろう。この場合の「泊火」とは舟泊まり[船着き場]か桟橋か、いずれかに設置されている“航行灯”のはずだ。私は船釣りが好きで、操縦免許も所持しているが、「泊火」の「泊(とまり)」とは、今言った「舟泊まり」か「船着き場」かの意味で用いている。第一、ここは文脈から言っても、湖岸の“たき火”と解釈して、On shore we see red fire, brings back memories.(湖岸に赤い火が見れると、思い出が浮かぶ;Ono 氏の日本語のまま)とするのは不自然だ。この点、もう少し調査してみたいと思っているが、私がもっとも不自然だと思ったのはこの個所だ。その他、違和感を覚える個所は何か所もある。1番の「旅にしあれば しみじみと」を「この旅で私の心は、凄い幸せいっぱいです」と解釈してThis journey fills my heart with, intense happiness.としていること、「のぼる狭霧や さざなみの」を「のぼる霧が蒸発したり、さざ波が来て去って行く」と解釈して、Rising mist evaporates, ripples come and goとしていること、等々、かなりの個所に疑問を感じる。だが、Ono 氏本人も「決してパーフェクトで正式な英語版とは言えません。元の歌詞の意味が不確かなところがあったり、私の個人の解釈による英語訳も入れたり、曲に合わせるためにもいろいろな限界もありました」と書いて、不完全性を認めている(ただし、そのあとすぐに、「しかし、完成度は高く反響も良く、自信を持って個人でついに2007年にCD化」と書いて、英訳へ“自信”を覗かせている!)。 【付記1】「愛唱歌の魅力を翻訳 英語版・琵琶湖周航の歌 =日系2世・オノさんが英訳」= 【付記2】こちらに「Lake Biwa Rowing Song (in English) at Imazu Port 2017 『琵琶湖周航の歌』英語版 今津港編」と題した動画があるが、‟誤訳”と私が考える箇所の英訳に本質的な変化はない。 【後日記】「赤い泊火」が“たき火”ではなく、“航路灯”だとする私の直感を裏付ける記事を見つけた(→こちらの記事の中に「赤い泊火(トマリビ)なつかしみ」と題して書かれた文章がある;今津港の‟航路灯のことだ!)。 |
以下の文章は私のゼミの特修生で大学院博士前期課程1年生の大塚孝一君の手になるものです。 興味深い比較ですので、同君の了解を得て、転載します。 |
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ゼミ生の皆さん 今回の「琵琶湖周航の歌」の英訳出課題でも、ゼミ生の皆さんがそれぞれ、山岸教授の御訳から多くの事を学んだことと思います。わたくしが今回取り上げることは、1)リズムに合わせるための、原詞にない英語の訳出方法、2)誤訳と思われる箇所の二つです。 このために、教授の御訳だけではなく、「琵琶湖周航の歌」の英語訳を作ったPhilbert Ono氏の英訳を参照し(こちらより引用http://photoguide.jp/txt/Biwako_Shuko_no_Uta)、考察をしていきます。 例によって、yahoo boxにpdfファイルを用意しました。ファイル名は「訳比較 16 琵琶湖周航の歌」です。ダウンロードしてください(本稿末尾にpdfを転載;山岸)。 【考察1 原詞にない英語の訳出方法】 ①《1番3行目 「昇る狭霧や さざなみの」》 山岸教授は「昇る狭霧」をthe mist settling inと、「さざなみ」はthe wavesと、それぞれお訳しになっています。これだけではリズムに合わないことから、教授はthe mist settling inにはthinという形容詞を、the wavesにはas they ripple upという形容詞節を、それぞれ補っていらっしゃいます。 Ono氏は、「昇る狭霧」をrising mistと、「さざなみ」をripplesとそれぞれ訳しています。山岸教授と同様にOno氏もリズムに合わせるために言葉を補っています。前者にはevaporatesという動詞を、後者にはcome and goという動詞句を使っています。主観的なことですが、前者にevaporateを補うことに私は違和感を覚えます。確かに、霧が起こる現象として、evaporateは適語と言えますが、この語を詩に用いることは詩を詩たらしめる語の選択として、少々合わないように感じます。 ②《2番2行目 「雄松が里の 乙女子は」》 「乙女子」の訳語として、山岸教授はmaidenをお選びになっています。その語にpureという形容詞を補われています。 一方のOno氏は、「乙女子」をyoung maidenと、youngという形容詞を用いています。 ③《3番1行目 「波のまにまに 漂えば」》 山岸教授は原詞に忠実な訳として、drifting aboutを用いていらっしゃいます。しかし、それだけでは“字足らず”になりますので、この動詞句を修飾する副詞句as the waves might decreeを加えられています。「波が命令するかのように」という、いわば擬人法です。 それに対して、Ono氏のwe drift from wave to waveという訳語は、原詞の「波のまにまに 漂えば」に当たります。その語句を補う形でstraying aimlesslyという副詞句を用いています。こちらも主観的なことですが、aimlesslyという語は詩として、あまり適していないようにも思えます。 ④《5番1行目 「矢の根は深く 埋もれて」》 題の原詞に対して、山岸教授はArrows are like marsh reeds, deeply rooted allとお訳しになっています。リズムに合わせるために、like marsh reedsという形容詞句が補われています。 Ono氏は該当行をSharp arrows buried deeply, way into the groundと訳しています。氏もリズムに合わせるために、sharpという形容詞、way into the groundという副詞句をそれぞれ追加しています。 以上、リズムに合わせるために補われた訳語を挙げました。その対処方法は、多様で、副詞や形容詞を句や節にして補うことができるということが分かります。言うまでも無く、その種の訳出は、可能な限り原詞のニュアンスを壊さぬようになされるべきです。このような“補語句”を観察することで、今後私たちが、リズムに合わせるためにどのような訳出をすればいいかということが分かります。さらに、教授の別の曲の御訳を考察することで、体系立たせることが可能になります。 【考察2 誤訳と思われる箇所】 ①《「手」はarmかhandか》 4番に「仏の御手」という原詞があります。教授は「手」をarmsとお訳しになっています。おそらく教授は「抱かれて」という動詞から、「抱く」のは「手」ではなく、「腕」だとお思いになったのだと思います。わたくしもそう思ったので、armsと訳しました。「手」は「肩から指先に至る間の総称」(『広辞苑 第5版』)という意味がありますので、「手」をarm(s)と訳すことには問題はありません。一方のOno氏はhandsと訳しています。ゼミ生も私以外は皆hand(s)と訳しています。しかし、handでは、「抱く」ことができません。よって、Ono氏の訳語と私以外の訳はミスリーディングということが言えるでしょう。 ②《「何」が「夢のごと」か》 5番の4行目に「比良も伊吹も 夢のごと」という歌詞があります。その歌詞に対する山岸教授の御訳はWhat happened at Hira, Ibuki, seems just like a dreamとなっています。一方、Ono氏は同箇所をHira and Ibuki too, only but a dreamと訳しています。ゼミ生もOno氏同様に、次の様に訳しています。Feeling like Hira and Ibuki as dream / The mountain such as Hira and Ibuki is like a dream / Hira and Ibuki are such a dream / the Hira and Ibuki. the old days seems a dream / Hira and Ibuki in the old days are like a dream / Also Hira and Ibuki as a dream / I’ll feel both Hira and Ibuki are as a dream ゼミ生の皆さん、分かりますか。原詞「比良も伊吹も 夢のごと」が表していることは、別に「比良」や「伊吹」が「夢のよう」と言っているわけではないのです。あくまでも、それらの場所で「起こったこと」が今となっては「夢のようだ」と言っているわけです。それほど、昔と今が違うということを意味しています。Ono氏や私たちの訳出は、「比良」や「伊吹」という場所が「夢のよう」という意味になってしまい、原詞を忠実に表している英訳とは決して言うことができず、完全に誤訳ということが言えます。 このような「誤訳」(と思われる箇所)が生じるのには理由があります。それはただ一つ、原詞を正しく理解していないことです。理解がおぼつかないものを、どうして他の言語に適切に訳すことができるでしょうか。もちろん、翻訳には翻訳者の目標言語の力量も問われます。一つだけ例を挙げます。「昇る狭霧」を皆さんは、riseを用いています。誰一人として教授のようにsettle inという語句を選んだゼミ生はいません。riseでも間違いではないでしょうが、settle inの方が文語としての訳語に適しているということが言えます。 このような、目標言語の力量も重要ですが、原詞を正しく理解できないことは、その力量も十分に発揮することができず、誤訳の“もと”になります。改めて、私の日本語の読み込みの甘さを感じました。 平成25[2013]年 11月12日 大塚 孝一
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