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1. 赤い鳥 小鳥 The red birds, pretty little birds 2. The white birds, pretty little birds 3. The blue birds, pretty little birds |
この詞・曲共に著作権はありません。 |
小鳥のイラストはこちらからお借りしました。 |
山岸ゼミ専用掲示板で、ゼミ特修生の大塚孝一君(大学院博士前期課程1年生)が、今回の私の訳と 茜町春彦(あかねまち はるひこ)氏のそれとを対比して、次のような興味深い分析を行っています。 同君の了解のもとにその文章を転載します。 |
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ゼミ生の皆さん 今回も前回同様、山岸教授の御訳と他の方が訳したものを比較します。googleを使って「"赤い鳥小鳥" 英語」で検索したところ、茜町春彦氏が訳出したものがありましたので、そちらを比較の対象とします(茜町氏は歌の絵本と題して、様々な歌を英訳しているようで、この「赤い鳥 小鳥」も訳出をしていました。下記にあるyahooボックス内にその絵本(PDF)をアップロードしました【下に引用:山岸】。それでは、一行目から見ていきます。 【1行目】 山岸教授は「鳥」を複数として扱っていらっしゃいます。それに対して、茜町氏の訳語では「鳥」は単数です。単数か複数かに関しては本日の授業にて、山岸教授が言及なさっていたように「どちらでもいい」ということでした。ただし、「目の前にいる鳥ではないときは基本的に複数を用いるという文化がある」(このカギ括弧内に関してはうろ覚えです。教授がおっしゃったことを間違って聞き取っていた可能性もあります。もしそうであれば、早急に訂正しますので、その旨を知らせてください) 原詩は「赤い鳥 小鳥」という名詞が二つ並んでいる形ですが、山岸教授は原詩に対して忠実に訳出なさっています。それに対して、茜町氏の訳は"That red bird is a little bird."となっています。これはいわゆるコピュラ文で、「あの赤い鳥は小鳥だ」、「あの赤い鳥が小鳥だ」というように、二通りの解釈できます。つまり、一種の曖昧性を持ってるわけです。ただ、文脈の中で用いるとその曖昧性は消えます。ここでは前者で解釈する方が好ましいとは思います。しかし、それでも原詩の「赤い鳥 小鳥」のニュアンスと違うことは日本人であれば分かると思います。だからこそ、ゼミ生は誰一人として、コピュラ文を用いずに1行目を訳出しているのではないでしょうか。 【2行目】 1行目のbird(s)を受けて、山岸教授はtheyを、茜町氏はitを用いています。そして、原詩「なぜなぜ」に該当する箇所については、山岸教授は"Why, oh, why"と訳出なさっています。一方、茜町氏は"Why? Why"を充てています。どちらも大差はないのかもしれませんが、2行目を歌ってみると分かることがあります。それは、山岸教授の御訳はリズムに乗れますが、茜町氏の訳では、若干の物足りなさがあります。少なくとも私はそう感じました。山岸教授と茜町氏の違いは"oh"の有無ですが、こんな小さな単語の有無でリズムに乗れるか乗れないかというところが決定されるのは非常に興味深いところです。この行の日本語の拍は7ですが、それにできるだけ近づけるように山岸教授が工夫をなさったということでしょう。 【3行目】 この行は、山岸教授の御訳と茜町氏の訳の対比というよりも、茜町氏の単語使用に注目せざるを得ません。はじめて茜町氏の訳語を見たときに飛び込んできた単語が"feeded"でした。私は最初目を疑いましたが、どうみても"feeded"と書いてあります。たぶん、feedをいわゆる規則動詞だと思い、feededとしたのでしょう。しかし、これは決して標準的な英語とは言えないしょう。 加えて、it feeded red berriesという英文です。このfeededを見る限り、feedは他動詞として機能していると言えます。しかし、他動詞のfeedは「・・・に食物を与える、えさをやる;(家族など)を扶養する;(赤ん坊)に授乳する;(feed oneself)自分で食事をする」(『アンカーコズミカ英和辞典』初版)という意味で、目的語には食べ物[えさ]をもらう側がくるはずです。その語法を大いに逸脱したかたちで茜町氏はこの文を作ったと言うことができるでしょう。単なる誤りなのか、それとも意図したものなのか、真相が知りたいところです。 【全体】 山岸教授の御訳と茜町氏の訳を全体的に見たとき、ピリオドの有無にも気づくと思います。山岸教授は各連の2行目で疑問符をお使いになっている以外は、ピリオドをお使いにはなっていません。一方、茜町氏の英訳には各連1行目、3行目全てにおいてピリオドを打っています。2行目は山岸教授同様、疑問符で終わっています。英語の詩では、ピリオドを打たないのが通例でしょう。詩にピリオドを打つということはどういうことか。飛躍のしすぎかもしれませんが、今回の原詩の1番に句点をつけてみましょう。 赤い鳥 小鳥。 なぜなぜ 赤い。 赤い実を 食べた。 どうでしょうか。野暮ったいと言いましょうか、何か詩ではないもののように感じます。定型である俳句に対して、自由律俳句が生まれたように、句点がない詩に対して、句点を打つ詩も存在すると思います。優劣はありませんが、個人的には「らしさ」がある前者の形が好みです。英語の詩にピリオドを打つことによってネイティブはどのように感じるのでしょうか。興味深い結果が得られそうです。 【小考察】 今回も前回同様、山岸教授の御訳を別の方の訳と比べてみました。ゼミの授業でも仲間の作品を自分のと見比べて、なぜそう解釈したのか、なぜその訳語を選んだのか、なぜ・・・と、問いを投げかけることで、より理解が深まります。 この「赤い鳥 小鳥」を英訳している人はなかなかいないようで、インターネット上では、茜町氏の訳しか見つけられませんでした。そういう意味では大変貴重な訳出でしたが、惜しむらくは3行目の誤り(と思われる)です。先ほども書きましたが、3行目に関しては真相が知りたいところです。 《追記》 今回の「赤い鳥小鳥」の英訳を探しているときに、こちらのホームページを見てみました(下記リンク参照)。そこには、「英語では They Are What They Eat (「食べたものがその人のからだになる」)ということわざがあるらしく、」とありました。今回の歌を反映しているようなことわざですが、このことわざを英語のネイティブは知っているのでしょうか。ちょっと訊いてみたいと思っています。 http://shinka3.exblog.jp/3606763 平成25[2013]年7月8日 大塚 孝一
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