30.「長年大学生を教えてみて思うこと」

                                                          
                         
講師  明海大学教授 山岸 勝榮先生

【本稿は、 平成212009]年1221日(月)第49回愛媛県高等学校教育研究会英語部会・講演」で講演したものです。一部に加除修正を施したい箇所もありますが、12年近く経っても、内容的には全く古色を感じさせませんので、昨今の若い[若手の]英語関係者のために改めて掲載しておきます。令和2021]年72

 「みなさん、初めまして」と申し上げる方と、「お久しゅうございます」と申し上げる方とがいらっしゃいます。7年前になります。この場所をとても懐かしく思っております。・・・   今日はこのタイトルのとおりなんですけれども、おそらく皆様方に、高校・中学校の関連でお役に立つこともあるだろうと思います。実は、前回(講演「日本の英語教育に不足していること」)お話ししたのを簡単にまとめてみました。前回はもう7年前ですので、そのときには大学生だった、高校生だったという先生方もたくさんいらっしゃると思うんですけれども、こちらでお出しになっている英語部会の会誌39号に収録していただいておりますので、詳しくはそちらをご覧いただきたいと思っています。そのときに、「4つの不足」についてお話ししました。日本の英語教育には「自己認識の不足」があるのではないか、つまり外国人の疑問とか不満に適切な回答を示さない傾向が強いのではないか、ということを詳しくお話ししました。2番目として、「自信の不足」。これは、もう今は随分良くなりましたけれども、私の世代には特にあったんじゃないかなと思うんですが、欧米諸国、とりわけ米国の事物に過剰の憧憬を持ち、自国の言語文化を過小評価する傾向があったように感じております。3番目に、「自己表現力の不足」。これは現在でも変わらないだろうと思うんですけれども、それには察しの文化、不言実行が関係してきます。英語圏では、不言実行よりも有言実行の人を大変尊敬します。これはまあ仕方がないかなと思います。寡黙をよしとする、Silence is golden.ということわざが英語にもありますけれども、日本の方がはるかに寡黙をよしとする、ということですね。それから4番目として、「自他を対照する力の不足」。これは、英語と日本語を客観的に比較する力ということです。意味には大きく分けて、辞書に書いてあるとおりの意味と、文化が創り出した単語なり文なりの意味(文化的意味)がありますけれども、そういうものに気付かないままに日本的に発想をして、あるいは理解をして、英語を使ったり書いたり聞いたり読んだりする、ということについて述べました。

 それからそのときに申し上げたのは、「これからの英語教育に望むこと」ということで、私の希望を4点出しました。「これまで不足もしくは欠落していたものを埋める努力をしよう」。「言語文化に優劣はない」。これだけは私は強く申し上げたいものです。どんな言語にも文化にも絶対に優劣をつけてはいけない。アイヌの人々は、アイヌ語を使う人はいなくなっても、アイヌの血を引いている人はいますし、それに優劣はつけられないわけで、これはまさに御地と東京の文化や方言、どちらがいいかというのに優劣がつけられないのと同じですね。やはり、皆それぞれに文化・言語には誇りを持っている人々・民族がいるわけですから、それを徹底させよう。英語の教師は、英語がいいんだとか日本語が劣っているとか、逆に日本語がいいと言う人もいるかもしれませんけれども、言語に優劣をつけることのないようにしよう、ということ。

 3番目として「英語圏の事物を利用して日本のすばらしいところを教える努力をしよう」。例えば、コイン。とりわけ "Flip a coin to decide who should go."(誰が行くか、コインをフリップして決めよう)というようにコインの話が出てきたら、じゃんけんの心を教えよう、というお話をしました。じゃんけんというのは、石に紙にはさみです。少なくとも石は紙に負ける。紙は石に勝つ。けれども紙ははさみには負ける。つまりあれは絶対に勝ち負けが半々です。勝つものがあれば負けるものもあるということで、どれかが必ずしも勝者というわけではない。じゃんけんにはそういうやさしさがあると言いますか、負けるところもあれば勝つところもあるわけです。

 それからチェスが出てきたら、将棋の寛容さを教えよう、というお話をしました。これはどういう意味かと言いますと、日本文化というものの中の、非常に日本的なる部分を将棋はよく示している。将棋というのはですね、インドで5世紀頃にできたものですけれども、ヨーロッパに行ってチェスになりました。中国の将棋も韓国の将棋も特徴があります。日本の将棋とは全く違う。それは何かと言いますと、西洋のもの、あるいは他のアジアの諸国のものは、敵の駒を取ったらそのまま使わない。ところが世界の中で、日本の将棋だけは、取ると後で使うわけですね。これはもうみなさんよくご存知だと思います。これは何を意味するかというと、日本人のものの考え方をとてもよく示している。相手が敵であっても、ひとたび心を開いて、胸襟を開いて味方になれば、あるいはごめんなさいと言えば、それで許してやるのみならず、非常にそれを大切に扱う。これは歴史がよく示しています。例えば、徳川15代将軍が、明治になったときに、普通でしたら敵ですからあれは殺されても仕方がないわけですね。ところがあの人に華族の称号まで与え、大変珍重したというか重要視したというか、そういうことがあります。そういう将棋の寛容さを教えようということを私はお話ししました。

 それからナショナルフラッグ(国旗)が出てきたら、日の丸の意味を教えよう。これは国粋主義を教えようというのではなくてですね、少なくとも他の国の、とりわけ中東アジア、例えばトルコでもそうですけれども、国旗というのはだいたい月か星が使ってあります。これは何を意味するのかというと、砂漠を歩くときには一番怖いのは太陽ですね。灼熱の太陽。それこそ4050度のなかで歩くことはできないので、夜になって涼しくなって月または星の位置を判断しながら歩いていくわけですね。ですから彼らにとっては月とか星とかが移動の一つの指針になるということ。ところが日本はやはり、農耕民族として、太陽の、お天道様の光を大事にするわけです。ですから、あんなふうに赤(日の丸)になったんじゃないかな、そんなお話をしました。

 それから何よりも、戦争とか戦士の話が出てきたら、やはり日本国憲法というのは世界に誇るものである。戦争を放棄しているというのはなかなかできることではないし、これはやっぱり日本人が血を流してきた一つの結果として、これからも大切にする必要があるだろうという話をしました。

 それから4番目として、「減点方式よりも加点方式を励行していこう」。とにかく日本の英語教育は、私が受けたものもそうですけれども、これはsがないから2点減点とか、theがないから1点減点とか2点減点とか、とにかく減点減点減点である。そうすると、もううんざりしてしまう、もしくはがっかりしてしまうことが多いわけですね。そうではなくて、何か英語を書いたら(あるいは言ったら)、少なくとも褒めて加点をしてやる。「よくできたね。ただし、君の英語は・・・」というふうに言ってやるといいですね。例えば、「趣味は何ですか」を "What is your hobby?" と聞く。そうすると、「よくできたね。」と。あるいは"Do you have a hobby?" と聞いたら、「よくできたね。」と褒めてやります。「けれども、"Do you have a hobby?" という言い方はね、相手の趣味が一つしかないと限定をしている、だからかえって相手に失礼なんだよ。"Do you have a hobby?"とか"What is your hobby?"とか、こういう断定というのは、相手の趣味を一つと考えているので失礼になる可能性が高いんだよ。」というようなことを言って、英語の正しい姿を教えてあげる。少なくとも「こんな英語はないよ。」と言ってぱっと切ってしまわない、ということですね。やはり大学生をずいぶん見ていると、言葉は悪いですが、痛めつけられてきている諸君が少なくない。

 そんなことで前回の講演のまとめとしたことは、「英語教育は人間教育の一環であることを忘れまい」、「言語・文化に優劣はないこと、言語と文化は不可分であることを理解させよう」。次に、「自分が教わったとおりには教えまい」。これは私が鉄則にしていることです。自分が教わったのをそのままにやるというのは改善がないということ。まあ最高のいい教育を受けてそれを受け継ぐということは悪いとは思いませんけれども、少なくともそういうことは普通はないわけです。だいたいどこかに間違い・嘘・誤解があったりします。ですから過去に学んだことを大いに改善し、より効率的に教えよう。これはとりわけ若い先生方にお願いしたいことです。自分が教わったとおりに学校で教えないこと。やっぱり自己研鑽と言いますか、少し堅い言葉ですが、自己研鑽を続けるということ必要だと思います。教師生活の最後の日まで、有終の美を飾っていく日まで、磨かなければいけないと思うんですね。それから4番目として、「生徒には英語を学ぶことはいつも楽しい("It's always a lot of fun to learn English. ") ということを実感させよう」"It's always a lot of fun to learn English." 英語を学ぶことはいつも楽しい、おもしろいなって実感させよう。それには何よりもだれよりも教師自らが英語を教えることはいつも楽しい。"It's always a lot of fun to teach English." 英語を教えることってこんなに楽しい。自分は英語を勉強してきてこんなに楽しい毎日を送っているって言える。それを肌で感じさせられる教師というのはいい教師だと思います。こんなことをお話しししました。これは雑誌にも出ておりますので、詳しくはそちらをご覧になって下さい。

  今日お話ししようと思っておりますのは、以下の、大きく分ければ2点、細かく分ければ6点です。「英語学習に拒否反応・嫌悪感を示す傾向」が非常に大学生を教えてみて強いなと思います。それから「英語を不自然な日本語で訳す傾向。これはまさに中高の先生方にぜひともお願いをしたいことです。例を出しますのでですね、そういう教え方をなさってないだろうかということを考えていただければありがたい。それから4番目として、「日本語文化を英語文化でも通じるものと考える傾向」が非常に強い。これは若い先生方であろうと年長者であろうと、日本の英語教師(私も含めて)に、だいたいそういう傾向が見られると思います。5番目、「英語の場面・文脈に日本語的に反応する傾向」が強い。6番目、「英語の場面・文脈と音の関係を軽視する傾向」が非常に大学生に見られる。この6つをまとめようと思っています。具体的に見て参ります。

 まず、1番の「英語学習に拒否反応・嫌悪感を示す傾向」。これは英米語学科・英語英米文学科等、英語専攻の学科は英語が好きで来ていますからあまり言えないのですけれども、それ以外の学部学科、具体的に申しますと、経済学部・法学部というようなところでは、その傾向が非常に強い、もう英語にはうんざりするということなんですね。慶應義塾大学の学生の反応については私のホームページに詳しく書いてあります。結局、慶應義塾大学に入ることが目的で、入ればあとはもう勉強しない、ようやく英語から解放された、という感じです。私に言わせれば、本当の英語を勉強するには大学生になってからなので、それが入り口であるはずなんですけれども、もうほとんど勉強しない。慶應義塾大学にしてそうです。いや慶應義塾大学だからなのかもしれません。つまり、入試合格が目的化しているわけですね。そういう意味では日本の英語教育は成功していると思います。しかし、英語学習が生涯学習の一環であるということから見ると、成功だとはおおよそ言えないということを実感しています。次にですね、これはご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、ベネッセの教育研究開発センターが今年1月から2月に実施した、第1回中学校英語に関する基本調査(生徒調査とも言い、全国公立校33校、中学2年生2,967名、約3,000名を対象にした調査)によりますと、中学1年生の後期までに、実はなんとすでに8割近くの生徒が英語に苦手意識を持っているということが書かれています。これは恐るべき数字だと思います。つまり、わずか中学1年生の後期までには、英語は苦手なんだという意識を持っている。これはゆゆしき数字であり問題であろうと思います。9割以上の中学生が小学校時代に英語に触れているわけですが、中学入学前に「英語は好き・どちらかと言えば好き」と答えた者は、わずか4割5分です。「嫌い・どちらかと言えば嫌い」が4割3分ですね。好きと嫌いの数字がほぼ同じ。こういう数字が我々の前に示されますと、やはり考えなければいけない。そして、つまずきに関して言いますと、「文法が難しい」と答えた生徒が8割、「英語の試験で思うような点数が取れない」と答えたのが7割強、「英語の文を書くのが難しい」が同じく7割強となっています。英語学習の目的を尋ねた質問に対して、「中学生のうちは勉強しないといけないから」と答えた生徒が8割弱、「英語のテストでよい点を取りたいから」も8割弱、「できるだけよい高校や大学に入りたいから」が7割強となっているわけですね。これはもう目的から勉強しているような感じがします。もちろんこれは、日本の現状を考えてみたときに仕方がないと言えば仕方がないのですが、はたしてその中で教えられている英語に問題はないか、と思うわけです。大学生を教えてみて垣間見えるものを、今日は少しお話ししてみたいと思っているわけです。それからさらに、「どんな英語の授業が受けたいですか」という質問には、「入試に役立つ授業」が4割弱ですね。やはり入試が出てきます。「英語が好きになる授業」が3割強、「積極的なコミュニケーション能力が身に付く授業」が1割強程度ですね。次に、「好きな教科は」という質問に対して、トップに上がったのが保健体育、それからその順序なんですけれども、音楽、社会、美術、理科、家庭科、技術、数学の順で好きな割合が減少していきます。なんと驚くべきは、英語が最後から2番目で、最後は何かと言うと、国語なんですね。非常におもしろいというか(おもしろいという言い方は誤解を招きますけれども)、非常に私の興味を引いたのは、国語も英語も言語なんですね。要するに言葉を扱うものですけれども、日本の子供は国語を一番最後に持ってきている。これは、国語をほとんど英語と同じように並べているということですね。大学生もそうです。まず4月に、「諸君の中で英語のあまり好きじゃない、大っ嫌いな諸君を含め、とにかく英語が好きじゃないという諸君は手を挙げて。」と言いますと、英米語学科の学生以外はもう8割から9割くらい手を挙げます。ほとんど挙げます。その次に、「じゃあ日本語・国語も死ぬくらい嫌いだ・あんまり好きではない、とにかく嫌いだという人は手を挙げて。」と言うと、きょとんとした顔するんですね。何を言ってんのか、という顔をします。実はここが非常に大事なんですね。私たちは日本語でラブレターを書き、メールを書き、けんかをし、恋を打ち明け、悩みを打ち明けるわけですね。英語圏の人は英語を使って同じことをやっているわけです。この非常に単純なことに我々は気づくべきじゃないかなと思います。つまり英語圏の人にとっては、英語というのは別に苦しむ対象ではあり得ないわけですね。国語もそうであるはずです。ただ何が嫌いかというと、英語について言われる文法の約束事とか、国語についての約束事とか、そういうものが嫌いになっていくわけですね。これをそのままにしておいたら、ますます英語嫌い・国語嫌いができてくるだろうと思っています。

  2番目としてですね、大学生を教えてみてとてもよくわかることは、不自然な日本語で訳す、ということです。これは高等学校・中学校の影響が非常に大きいと思います。例えば、(a) You have to get up early.を訳させると、だいたい日本語としてきちんと伝わりますのでを付けましたけれども、必ずと言っていいほど、「あなたは早く起きなければなりません。」と訳します。「あなたは」と訳します。しかし、「諸君に聞きますが、諸君は『あなた』って使える人だれ?」と言うと、考えちゃうんですね。まず、女子学生でも「あなた」って使える人はほとんどいません。だって友達はみっちゃんとかよっちゃんとか名前で呼ぶし、お母さんはお母さんって言うし、「あなた」って使わない。それなのに、英語のときになると突然「あなた」が頭をもたげてくるんですね。「あなたは早く起きなければなりません。」と。実際にはどうでしょう。こちらの方言があると思いますけれども、私が長いこと使った関東の方言でいきますと、「早く起きなくちゃだめよ。」とか「早く起きて下さいね。」となります。これはなにか妻が夫に言ってるような言い方で、まぁこんなに丁寧に言ってくれるとうれしいですけれども。それから「早起きするんですよ。」とか、学校教育でこういう日本語を使っていただきたい。つまり、少なくとも英語を母語とする人たちは、教科書をこういう感覚で使っているわけです。だから、御地の方言でかまわないので、そういう日本語を普段から使わないといけないと思います。とにかく英語になると、突然普段使わないような日本語が出てくるのです。

  2番目もそうです。 (b) You don't have to worry about it. (あなたはそれについて心配する必要はありません。)  30名くらいの小さなクラスでしたけれども、学生たちに、「この日本語を君はいつ使うか。」と聞いていきますと、「使うことはありません。」と答えた。それはそうでしょう。日本語としてはよく理解できるものだけれど、使わない。「ではなんて言ってるか。」と聞くと、「そんなこと心配しなくていいよ。」とか「そんなこと心配いらないよ。」とか「その件は心配ご無用です。」とかが返ってきた。最後のは学生が使う場面はほとんどありませんけれども、これも生きているものですね。(a)(b)も共通しているのは、Youを「あなた」とは訳さないということです。「あなた」という日本語は、英語教育の中で出てくる以外はほとんど日常的には出てこない。家庭であれば妻が夫を「あなた」と言うこともあるでしょうし、家庭によってはお父さん、お母さんが子供のことを「あなた」と言う家庭もあるかもしれません。いずれにせよ、非常に限られていると思います。私は、「あなた」という言葉は日常的には非常に限られた人にしか使いません。

 それから次は、(c)What are you looking at?  これも「あなたは何を見ているのですか。」とは言わないでしょう。この内容をどんな言葉で伝えるか聞いてみますと、「何見てんの?」「何眺めてんだい?」「何調べてんの?」と返ってきます。look atを辞書で引くときちんと「調べる」という意味があるので、「よく調べたね。」と言ってやります。それこそここで加点方式です。「がんばったね。」というふうに褒めるようにしています。 それから(d) Where did you get that? もそうですね。「どこでそれを手に入れたのですか?」そんな日本語にまず出会うことはない。日常的に使うことはないですね。じゃあどんなふうになるかというと、「それどこで手に入れたの?」「(購入してもいいし、無断入手でもいいし)どこで手に入れたの?」「それどこで買ったの?」という意味になる。「それ誰がくれたの?」という意味にもなる場合もある。「それどこで聞いたの?」という意味にもなる。「それどこで仕入れた(ネタな)の?」こんな日本語にもなると思います。これが生きている日本語です。中学・高校から英語を始めるときには、こういうわかりやすい、そして子供たちが日常で使っている表現を英語にあてる、そういう工夫が、あるいは努力が必要だと思っています。

 それから次にですね、3番目として、英語をあるいは英語文化を、日本語あるいは日本語文化で理解したつもりになる傾向、これは翻訳家でも英語の先生になった方でも、場合によっては通訳者でも、本当に大きな問題を抱えています。実は辞書が抱えています。もし、先生方の手元にある辞書で、conscienceという言葉を引いて、「良心」という語が最初に出てくる辞書があったら、その辞書は早速焚書(ふんしょ)にしていただきたい。焚書なんて言葉はおわかりでしょうか。まあこれ冗談です。少なくともですね、よい辞書ではありません。残念ながら、日本の英和辞典は全部「良心」と書いてありました。ようやく最近、私の力説が功を奏したのか、「善悪の判断力」と書いてある辞書もぽつぽつ出てきました。それから電子辞書でもそうですね。「良心」を和英辞典で引きますと、conscienceが出てきます。これは違うのです。なぜ違うのかと言いますと、「善悪の判断力」というのがまずメインです。conscienceといったらなによりも「いいか悪いかを判断する力」という意味なんです。それが証拠にですね、a good conscience が「良心」です。つまり、goodがついてはじめて「良心」という意味になるのです。それからbadがついたら「悪い心」となるわけですね(「悪心」とは一般的には言いませんけれども)。決して「よい良心」という日本語は一般的でないことは、みなさんよくご存知だろうと思うんですね。「悪い良心」というのもおかしいですね。でも訳せばそうならざるを得ないんです。つまり、大切なことは、英語文化では、とりわけキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のような一神教では、ここではキリスト教に限定しますけれども、conscienceというのは、人間が誰でも持っているものと捉えていません。conscienceというのは、神の子供であるということを認めて、日常的に神と正しい交信をする努力をするときに、人間の心に植え付けられるものです。これがconscienceなんです。「いいか悪いかという判断力」をだれもが持っているわけです。ところが、例えば、汚職は悪いということはだれでもわかっているけれども、それをしたときに悪いということがわかることがconscienceなんですね。人はみんなそれぞれ持っている。それが例えば「正」を支配する側に触れたときには、やっちゃいけないという判断力になるわけです。これが初めて good conscienceなんですね。これが、いいやいいや、やっちゃえやっちゃえ、というふうに目をつぶってやるのがbad conscienceになっていくわけです。だからconscienceというのは良心そのものではない。つまり、「善悪の判断力」に付随して、文脈によって出てくる意味であるわけですね。ですから、辞書がいい辞書か、編集主幹がそこらあたりを良心的に作ったかどうかは、この言葉を引いてみたらすぐわかる。皮肉な語ですね。conscientiousなものかどうかは、conscienceを引いたらわかるということになります。

  それから次にですね、etc.。これなどは日本語になってしまいました。ところが英語の先生も含めて、ついこの前まで大学で学んでいたという若い先生も含めて、私の年代の者も含めて、etc.というと、「など」と覚えています。したがって、△I like volleyball, basketball, etc. 大学生のほとんどすべてがetc.をこういうふうに使います。残念ながら、etc.というのはですね、まず商業文とか非常にフォーマルな文とかで使うだけです。会話で使うと、特にこういう中・高生が使うと、とても変です。ではなんて言うかというと、英語では、○I like volleyball , basketball and other ball games. というふうに言います。それがball gameであれば and other ball games になりますし、sportsであれば and other sportsでもかまわないわけですね。これが日本語でいう「など」にあたるんです。ですからetc.というのは、だいたいフォーマルな文とか商業文とかに出てくるもので、まず中・高校生が使っていいものではないのです。それから、2番目のように言ってもかまいません。○I like various ball games と先に言っておきます。「私はいろんなボールゲ−ムが好きだ」including volleyball and basketball. こういうふうにincludingを使って表すことも可能です。大学生は、今言いましたように、日本語でconscience は「良心」、 etc.は「など」というふうに覚えたために、こういう間違いをやるわけです。これはおそらくそのように習ってきたことの結果だと思います。

 それからheavenheavenと言ったら日本人は「天国」ですね。「私の妻が天国に行った」とは私は言わないです。というのは、天国に行ったことはないので、どこか確実にわからないからです。しかもキリスト教徒ではありませんので、安易には使えませんが、日本人は宗教とは無関係に人が死後に行くところととらえますね。「〜さんは、〜ちゃんは天国に行きました。」幸せに暮らしているところというイメージが強いです。ところが、英語文化では、死後に行くところというふうには必ずしもとらえない。半分はとらえない。どういうことかと申しますと、heavenというのはthe kingdom of God(神の王国)と同義です。つまり、キリストが、この世の人々に入ることを奨励した王国で、罪を償った善人のみが至福を享受できる場所として、生きているうちから入ることを奨励しています。決して死んでから行くところではない。それが半分です。少なくとも罪を購わなければならない、と教えているわけです。でも日本人は、宗教に関係なく、人が死後に行くところととらえています。そういう感覚で学生はheavenをとらえていて、特に文学部の学生に小説なんか読ませると、そういう理解をしているなぁと感じさせられます。

 それから次にhell。これはもうまったく「地獄」と覚えます。ところが、日本語としての地獄は、読んで字のごとしです。地獄とは地下の牢獄という意味です。その次が大切なんですが、「放免の余地」を残しています。日本人の多くは地獄を象徴的なものとして軽く受け止めます。ところが英語文化において、キリスト教、ユダヤ教のような一神教においては、hell(地獄)というのは、まぁ本当は地獄と訳すのはずれが生じるのですけれども、hellSatanが支配する地下深くの暗黒の世界と火の世界で、救われない魂が陥るわけです。キリスト教徒にとっては実在の世界です。だからこそ、どういうことが起きるかと言いますと、ここに行きたくない、となるわけです。プロテスタントとカトリックとでは多少違いますけれども、少なくともカトリックでは煉獄(Purgatory)というのがあります。ここにしばらくいて、そして天国に行く可能性はあるのですけれども、とにかくキリスト教徒のような一神教を持つ人々は、これを実在の世界と考えることは今でも普通です。それをよく示す例があります。例えばですね、日本の病院に皆さん方が行かれてですね、病院の中にお坊さんがおられるという場面をもしご覧になるとすれば、おそらくそれは霊安室だろうと思いますね。ところがアメリカやイギリスに行きますと、病院には神父さんや牧師さんがいくらでも来ておられる。ホスピスは特にそうです。それは生きているうちに罪を贖って天国に行くために、牧師さんあるいは神父さんにお願いをして話を聞いていただいて、そういう問題点を解決するわけですね。ところが日本では、お坊さんというと、死んでからというイメージがあって、嫌な言葉ですけれども、葬式仏教なんて言葉さえもあるくらいです。もしそういうふうにお坊さんが皆さんの所に行かれて、「おばあさまがなくなりそうだということですけれども私がお話ししましょうか」なんて言うと、縁起でもない、縁起が悪いと日本人だったら思うんじゃないでしょうか。ところがキリスト教では、hellに陥りたくないという思いで、救われない魂が陥るところだから、救われたいというふうに考える。これは、細かいところでは違うでしょうけれども、キリスト教一般、プロテスタント、カトリック一般に言えることだと思うんですね。あれほど地獄とhellとは違うわけです。

 それから先ほどちょっとお話ししましたけど、hobbyという語ですね。日本語としてのhobbyというのは、学生はほぼこのように覚えています。つまり、hobby=趣味、趣味=hobby。ところがこの日本語の「趣味」というのは多義的です。つまり、ゲームもパチンコも読書も映画も音楽鑑賞もショッピングもみんなhobbyですね。ひどいときになると、「趣味は何ですか。」---「無趣味です。」「寝るのが趣味です。」なんていうような会話さえ出てくるぐらいhobbyという言葉は気楽に使われる。ところが英語のhobbyというのは、そういうものは普通は含みません。そういうものはpastimeとかrecreationという別の言葉を使って表すわけですね。具体的に言いますと、料理とか絵画とか切手収集とかコイン収集とか、「積極的なそして知的な」というイメージが強い言葉ですね。知的な活動をイメージさせる言葉です。したがって、さっき言いましたが、△What is your hobby? それから  △Dou you have a hobby? という言い方は、どうか教室ではできるだけ避けてほしい。もしそれをお使いになるとしたら、加点方式の一部として、「それもちゃんと立派に通じるよ」という材料にはしていただきたいのですけれども、それを教えないでいただきたいですね。なぜかと申しますと、△What is your hobby?とか△Do you have a hobby? の中の"a"というのは、あなたは1つしかないと決めているのです。だから、「どうせあなたは1つしかないだろうけれども、それはなあに?」と言わんばかりに(それは少し極端ですけれども)、 相手に対して決めつけた言い方になっているわけです。じゃあなんて言うかというと、もし単数形で使いたいのであれば、○Do you have a hobby of any kind? (「どんな種類でもいいんですけど何かhobbyを持ってらっしゃいますか。」) これはpossibleです。O.K.です。それからもしhobbyを使って複数形でやるときは、Do you have any hobbies? というふうに、any hobbiesとしますね。必ず複数形で聞いて下さい。これは立派な英語です。「あなたはいろいろhobbyを持ってらっしゃるでしょうけど、どんなhobbyですか。」というのはかまいません。とにかく単数で聞くのは、○Do you have a hobby of any kind? 以外は避けた方が無難です。これはもう高校生、大学生、中学生、おそらく日本の英語学習者はですね、そういう問題を抱えていると思うんですね。正しくない使い方をしてきた、あるいは少なくとも問題がある使い方をしてきた。では一番一般的なのは何か。「趣味は何ですか。」というのは、 ○What are you interested in? これはどうしても日本の教室では、「何に興味を持っていますか。」という日本語と結びつけるから、子供たちはこれを「趣味」と結びつけられないんですね。そういう結び付け方をしたのは、やはり先生の責任も少なからずあると思いますね。少なくとも「趣味はなぁに」という日本語を与えて、○What are you interested in?と結び付けさせることも大事だと思います。それから ○What do you do in your free time? (「暇なときは何してんの?」)とか、○How do you spend your free time? (「暇はどんなふうにして過ごしてんの?」)という言い方も、「趣味は何?」に代わるものとしてよく使いますね。こんなふうに、Do you have any hobbies? という言い方はDo you have a hobby?、ということを付け加えていただきたいと思います。こんなふうにhobby=趣味と結びつけることの問題点を少しお話ししてみました。

 それから、実は非常に大きな問題ですけれども、introduceは「紹介」と覚えている。まずまちがいなく中・高生でもそういうふうに覚えているんじゃないかなと思うことがあります。この前も教育実習に行きましたが、そこのとても若い、エネルギッシュな女の先生が、やはり間違って使っておられた。そのように大学まで学習なさったんでしょうね。どういうことか。Let me introduce our school. そのときはこの先生は、"Let me introduce our class."と言って、ALTに紹介していました。そこにたまたま私の教え子が実習に行っていたわけですね。あぁ、ここでも出ているなと思いました。実はintroduceというのは、辞書を引けばわかるのですけれども、人を紹介するときに使う言葉です。だから、学校とか組織をintroduceとはやりません。だからLet me introduce our school.という英語はないのです。あれを言うには、Let me tell you about our school. あるいはLet me tell you something about our school.となる。somethingを入れてもかまいません。これが「紹介させて下さい。」という意味になります。introduceというのは次に人が来る、もしくは、日本の文化の中には中国からのintroduceされたものもある、というふうに人以外のものが来ることもありますけれども、建物が来ることはありません。「松江市を紹介させて下さい。」というのも、Let me introduce Matsue city.とは言いません。Let me tell you something about Matsue city. というふうになるんですね。小さな語ですけれども、全国レベルで間違えているような気がします。

  それから次ですね。これも大学生はめちゃくちゃに間違えています。これは実は英語の先生も多いのです。Of course.(もちろん)。何が問題かと言いますと、日本人のOf course.の使い方は英語圏の人から見ると、不遜です。威張っているように響きます。なぜでしょう。それは例えば、 Do many Japanese eat rice for breakfast? (日本人の多くは朝食にはご飯を食べるんですか)--- Of course. これ、立派な英語ですけれども、Of course.という言葉には非常に不遜な響きがある。つまりネイティブスピーカーにはこんなふうに響いているわけですよね。「当たり前でしょ、そんなこと。知らないの?」と響いているわけです。これはですね、多くの人が間違えると思うんですね。英語では「もちろんです」というのは  ○Yes, they (usually ) do. と言う。これは日本の学校では残念ながら教えないんですね。例えばですね、これはかまいません。「山岸先生は辞書をたくさん出してらっしゃるんですね。」それに対して私が"Of course." これはかまわない。なぜでしょう。もちろん私はそういうふうには言いませんよ。だけど言うとしたら、「当たり前でしょ。あたしのことを知らないんですか。あたしのことはたいていの英語の先生は知ってますよ。」というふうに、私が不遜な気持ちで言っているのだから、いいわけです。でもそれでもですね、やっぱりOf course.を使うのに私は抵抗を感じます。なぜだろう。「先生はたくさん辞書を編纂してらっしゃるんですね。」Yes, I am.とか Yes, I do. とかYes I did.とかいうふうに答えます。Of course. というのは非常に抵抗があります。まず、同僚のネイティブスピーカーと私がOf course.を使うときはそうじゃない。例えば、「山岸さん、あなた忘年会出る?」Of course. これはかまいません。「当ったり前じゃない。」となりますね。それから「山岸さん、この辞書使っていい?」Of course. これもかまいません。なぜか。「当ったり前でしょ。あなたと私の間じゃない。友達じゃない。」こういう感覚で使うんですね。この「当たり前じゃない」という気持ちが出せるときに使うんです。だから、人間関係の中でOf course.って使えるときは、逆に言えば、いい人間関係になっているわけですね。ところがそうじゃないときはSure.とかCertainly.とか別の言葉で言うんですね。Of course.を正しく使って下さい。これには何よりも、スーパーアンカーやコズミカを見るとわかるわけです。これだけ読んだだけでもいいですね。それから、Can I borrow your pen?もそうです。「ペン借りていい?」△Yes, of course. これを使っていい人間関係ならかまいませんからにしておきましたけれども、普通はOf course.はやっぱり抵抗を感じます。Sure.とかGo ahead.とか両方くっつけてSure. Go ahead. と普通は言いますね。一番丁寧な言い方は何か、日本の高校生は結構知っているんですけれども、あまりにも丁寧すぎて使わないのは何かと言いますと、Certainly.ですね。まずこれは、高校生の口から出てくる英語としては非常に丁寧すぎます。そういう英語がたくさんあります。例えばですね、典型的な例が、How do you do?です。これを中学生にやらせるとしたら、かなりの罪悪ですよ。How do you do? Nice to meet you. どうしてだめなのか。How do you do?というのは日本語で言うと、「初めてお目にかかります。」とか、もっと言うならば、「お初にお目にかかります。」というような非常に古風な言い方です。英語園の若い人たちあるいは先生方の周りにおられるネイティブスピーカーたちは、How do you do?とは言わないと思います。Nice to meet you. とかHello.とか、もっと若い子は、Hi! で終えてしまいます。How do you do?というのは、大人が改まった場所で使う英語です。したがって日常的ではない。Certainly.というのは改まって丁寧な言い方ですから、高校生・中学生が使うことは、まずないです。まぁ、一般の人間やALTとの関係の中では、最初のうちはCertainly.と言ってもかまいませんけれども、親しくなってきたら、"Sure." "Go ahead."などが普通です。

 それから、pleaseは「どうぞ」。「どうぞ」と覚えるためにpleaseとする。大学生はみんなそうです。英語の先生もそうです。今日は日本語で紹介いただきましたから、よろしいのですけれども、英語で紹介して下さるのならどういうふうに紹介して下さるだろうかと考えておりました。日本全国どこへ行ってもだいたいこのように紹介して下さるんですね。「それでは山岸先生どうぞ。」というのを"Mr. Yamagishi, please."と言います。この英語は残念ながら正しくないのですね。なぜか。この英語のニュアンスは、(もちろん言い方にもよりますが)こんなことを言っています。「山岸先生、いつまでもゲームなんかやってないで、出てきて下さいよ。」と言う感じです。どうしてそうなるかというと、pleaseという語は、「お願いですから」というニュアンスが強いからです。逆に言うと「お願いですから」という気持ちを伝えたいときには、pleaseを使うといいんですね。でもPlease sit down. とよく言いますね。これは、言い方によってはこういうふうに響くんですね。「立ってると邪魔だから座ってくれませんか。」ただ普通に言うとき一番大事なのはイントネーションです。発音ですね。Sit down. だけで十分です。Pleaseというのは、「せっかくいす出したんだからお願いですから座って下さいよ」という妙なニュアンスがつくわけですね。それともう一つ、pleaseをつければ丁寧になるというのは誤解です。Please sit down.Sit down.を少し丁寧にしただけであって、Sit down.という命令であることには何の変わりもないのです。pleaseをつければ丁寧になるというのは誤解なんですね。あくまでも命令が柔らかくなるだけの話です。だから、親しい間柄であればHave a seat.とかSit down.だけで十分です。「ご着席下さい」だったら、Be seated. だけで十分ですね。pleaseというのはじゃぁどんなふうに使うのかというと、例えば、「お茶1杯いかが」How about another cup of coffee? ---Oh, please.「お願いします。」というふうに使いますね。Can I use this pen? --- △Please./ Yes, please. これは通じますけれども、残念ながらをつけました。このニュアンスは、「このペン使っていいですか。」「あ、お願いです。ぜひ使って下さい。」これは正解ですね。でも「どうぞ」ということにはなっていないんですね。「どうぞ」というのはSure.とかGo ahead.とか Why not?です。丁寧にはOf course. これはもうさっき言いましたように、親しい間柄では「当たり前のことだろ」というニュアンスで使います。繰り返しますが、Of course.は「当たり前でしょ、あなたとの関係だから。」という気持ちで、pleaseは「お願いだから」という気持ちで。それから、Will you get me the paper? (「新聞取ってくれませんか」)---Yes, please.でしたら、「あ、お願いですから読んで下さい。」という意味になります。普通は、Here you are. とか Here it is. とかO.K. になりますね。それから、日本の大学生が間違えているものに(これもどこか高校までで間違えたんだと思いますが)Here you are.Here we are.の違いがあります。例えば、Will you get me the paper? ---Here you are. と言ったら、相手だけが読む、相手に読んでもらうわけです。例えば、パソコンを立ち上げました。そのときに、「山岸先生見て下さい。」と言うとき、"Here you are, Professor Yamagishi." となりますね。ところが、Here we are.という言い方もありますね。これは一緒に見る、一緒に飲む、一緒に何かをする、という意味ですね。だからパソコンを立ち上げた外国人がHere we are.と言ったら、「先生見られますよ。私も見ますけど。」ということなんですね。だから、お茶を持ってきたときに、Here we are.と言ったら「私も一緒に飲みますよ。」Here you are.と言ったら「あなたにお茶を持ってきましたよ。」という意味なのです。これが結構大学生は使い分けられないでおります。

  次に、罪と罪人(つみびと)です。「法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為」と三省堂の大辞林には書いてあります。つまり、日本語の罪というのは、crimesin区別をしていません。法律的罪は英語でcrimeと言います。道徳的・宗教的罪はsinですね。ところが、日本語では一緒になっています。したがって日本人の多くは、悪事をはたらくことを連想し、罪に、不履行の罪もあることに気付かない。どういうことかと申しますと、日本人は「罪」というと、「私は罪を犯していないので関係ない。罪人とは他人事なんだ。」ととらえてしまう。辞書によりますと、罪人とは、「罪を犯した者。悪事をはたらいた者」と書いてあります。しかしこれは残念ながら、日本人が日本語で理解をしたものです。そういう感覚で、sinを理解しようとすると、理解できなくなってしまいます。日本の辞書(和英辞典も英和辞典も)は、非常に大きな問題を抱えています。どういうことかと言いますと、sinとはan offense against God(神に逆らうこと)ということで、神の掟に逆らうことなんですけれども、罪とはこういうことなんですね。罪には2種類あります。a sin of commission a sin of omissionです。日本人が理解できるのは、commissionだけです。commissionというのは、履行した・行った・関わった罪ということですね。したがって、いじめは誰でも罪だと思っています。しかし、いじめを見ていて何もしないことも罪だということに、日本人は気付かないことが多いのです。どうしてかというと、それは英語ではa sin of omission(不履行の罪)と言います。大変深刻なことですけれども、日本にはまだ「いじめ」というのはたくさんあります。知らん顔しているのも罪なんですね。英語のsinnerというのは何よりも、We are all sinners.(われわれはみな罪人である。) 罪人でない人はだれか。イエスキリストと聖母マリアだけですね。神はもちろん例外として。そして、A  saint (聖者)でさえも、is a sinner. (罪人なんだ。) どんな罪人かと言いますと、who never stopped trying to improve himself or herself.(自己研鑽に励むことを怠らなかった罪人)ととらえるわけですね。私たちは、罪をsinだと覚えてきた。ちょっとできる子供になれば、crimeは法律上の罪だということを知っています。しかし、イコールで結んでも、そのsinの心はほとんど理解していない。これは英語の先生も含めてだということは、辞書を見てもわかるわけなんです。これを知ったときにはショックを受けました。commissionomission。これを「履行の罪」と「不履行の罪」と日本語では呼ぶことにしています。  次にですね、スーパーアンカーの1版から3版までですね。今度第4版が出ましたけれども、そのときには私はこういう例を書きました。「学校へ行く途中で1万円札拾っちゃった。」「ついてるじゃん。」"I found a 10,000-yen bill on my way to school."  "Lucky you!"です。"Lucky you!"というところを引いていただくと出てくるんですけれども、アンカー・コズミカを出したときにも実は10分の1になってしまいました。ところが今度出したのは、500円になってしまいました。1万円が20分の1の500円になってしまいました。ここに、私の悲しい悲しい話があることを皆さんご存知ないでしょう。どういうことか。1版の辞書を出したときに、九州のある大変有名な学校の先生からクレームがついた。「先生、スーパーアンカーはいいんですけれども、教育上よくないのでは。どうしてか。1万円拾ったらお巡りさんに届けるのが普通でしょ。学校来る途中で1万円も拾っといて、ついてるじゃんはないでしょう。」これ和英じゃないんですね、英和なんですね。私は英語文化を教えようとしているわけです。実は英語では、(人にもよるでしょうが)1万円くらいのことはほとんど問題にしません。なぜかというと、"Finders, keepers, losers, weepers."という言葉があるんですけど、今でもちっちゃな子供たちが言います。「見つけた人は持ってていいんだよ。無くした人は泣く人なんだよ。」つまり、移動民族・騎馬民族というのは、自分の安全は、自分の宝物は、自分でちゃんとしろ、ということなんですね。ユダヤ人は特にそうです。そういう歴史があるわけですね。だから、1万円落としたのは、落とした人間が悪いと考えるんですね。拾った人間は運がいいわけです。ところが日本はそうじゃない。集落(村落)共同体で生活していますから、村の中で1万円を落としたら、その村の誰かに決まっている。猫ばばしちゃいけない、ということですね。だから、お巡りさんに届ける。お巡りさんが猫ばばしたらどうするんでしょうね。まぁそれは問わないことにして、おそらく届けるでしょう。学研から、「先生、どうしてもこのままじゃまずいのでは。やっぱり使っていただかないとしようがない。」と言われて、しようがないなというので、10分の1(1000)にしました。それで今度辞書を開けてみました。私、500円になったのを知りませんでした。いやどこかで言われて知っていたのかもしれません。でも、もう少々うんざりしてましたから、適当にやって下さいと言ったのかもしれません。1万円が500円になった。この落差がですね、あぁ、日本の英語教育は(末期症状じゃないんですけれども)、こりゃまずいなと思いましたね。英和辞典なんですね。英語の文化を伝えたいわけですね。それなのに、日本語の、お巡りさんに届ける、になってしまいました。これ言い出すと、だんだん不愉快になりますからやめますが

 続いて、日本文化を英語文化でも通じるものと考えます。「昨夜、久しぶりに親父の背中を流した。」今こんな家庭があるか、こんなお風呂があるかどうかわかりませんが、日本人はこの日本語がよくわかると思います。それを英訳しました。 Last night I scrubbed my dad's back for the first time in years. ところがこれを見ましたら、一緒に風呂に入るという文化がない人は、あれはまず、お父さんが身障者だという連想をします。さもなければ、ちょっと言いにくいんですが、この親子ちょっと変な関係です。「お父さんいい体してるね。衰えないね。」と言ってるのかもしれません。いずれにせよ、正常には理解されないということですね。だから、学生は、あの日本語に対してああいう英訳を添えてくるんですね。これはおそらく英語の先生方も似たようなところがおありだと思います。 それから、「彼は指導教授への盆暮れの贈り物を欠かしたことがない。」この英訳をすればあのようになります。(He has never failed to send his academic adviser midyear and year-end gifts. )。ところが、あれを見たネイティブは「あぁこの彼なる人物は、指導教授に盆と暮れに賄賂を送っているんだとしか思いません。点をよくしてもらいたいんだな。博士号出してもらいたいんだな、修士号出してもらいたいんだな、というふうにしか思わないんですね。なぜか。盆と暮れという習慣がないからです。習慣がないものは、どうしたらいいかというと、実は1番はもう書きようがありません。そういう習慣を持ってない。では2番の場合は、全く日本語に出てきてない言葉を書いてやります。as is customary in Japan 「日本での習慣のように、日本の習慣に従って」と書くと、英語圏の人も、あぁ習慣なんだと思う。Do in Rome as the Romans do.(郷に入っては郷に従え)と思うわけです。あれがなければあの英語は誤解のもとにしかならないということですね。

 それから3番目として、「母校の名誉を傷つけないように全力を尽くします。」学生はだいたいああいうふうに書いてきます(We'll do our best not to disgrace the name of our school. )。ところが、名誉を傷つけるという発想は、英語圏の人には非常に希薄です。英語圏の人でしたら、We'll do our best to bring honor to our school.  学校に名誉をもたらすために、という発想をします。つまり、名誉を汚すのではなく、名誉をもたらすと考える。これは発想の違いですから、そういう発想がない限りは、大学生も高校生も書けないだろうと思います。こういうことを辞書に非常に丁寧に盛ったつもりです。とりわけ出たばかりの4版は、ここらあたりは心を込めて、力を尽くして書いたつもりでおります。

 次です。会社などで「上からの援助があるからきっとうまくいくよ。」これは日本人だったらこう言いますね(With (some) help from above, I'm sure we can make it)。ところが英語を母語とする人、神のもとに平等であるという平等意識の強い人は、上からと言うと、神からの助けと思う人が非常に多いんですね。With God's helpという意味で解釈するわけです。ところが日本人は、上からといったら上司からという連想が強いわけですね。だからそういうときには誤解を避けるために、With (some) help from my boss とかWith (some) help from the top managementというふうに言い換えるほうがいい。つまり、「上からの援助」を直訳すると英語圏の人は神様を連想するということです。学生がよくこういう英語を書いてきます。

 それから、「昨日の晩、うちでは豆まきをした。」これもあのように訳すと文法的にはパーフェクトです(Last night we[our family] scattered beans.)。しかし、文化的にはちょっとばかりまずい。なぜかと申しますと、まず、どんな豆だろう、なぜ2月3日にまくんだろう、という連想が英語圏の人には浮かびます。そこで、無い英語を書いてやる。Last night we[our family] scattered roasted beans(煎った豆)とします。それから、どこにも書いてない言葉を補ってやります。to drive out[away] evil spirits(悪霊を追い払うために)。あのイタリックの部分を書き加えることによって日本の意味は伝わります。だから学生にこういうことをしっかりとわからせるために、こういう例を使ったりします。学生はほとんど直訳をしてきます。

 それから、最後の例です。「僕の大学入試合格を尾頭付きで祝ってくれた。」これも、尾頭というのはwith a whole sea breamと書いてあります。直訳してあぁいうふうにやります(Our family celebrated my success in the college entrance examination with a whole sea bream.)。残念ながら、鯛のイメージは国によって違いますけれども、英語圏ではあまり良いものではない。それと、鯛をあぁいうふうに食べるということはない。ご存知のように、鯛というのは、日本では「めでたい」につながるから鯛を食べるわけです。色も赤ですけれども。そうすると、一番最後のところに付けました、あの何語かが実は非常に重要になってくる。Our family celebrated my passing the college entrance examination by eating a whole sea bream, a fish eaten on festive occasions. 「おめでたいときに食べられる魚の一種である鯛」と付けないと、日本人の伝えたい、尾頭付きで祝うというイメージは伝わらないということです。こんなふうに大学生は日本語でものを考えています。それを訂正してやるのは大変な苦労です。

 それから、時間が来てしまいましたので簡単に申しますと、こういう歌があります。文部省の「茶摘み」です。夏も近づく八十八夜、というのがあります。これをある学生に訳させますと、the 88th day of Spring. と書いてきます。辞書に「春の88番目」と書いてあったからでしょうけれども、これでは英語圏の人には何の意味かまったくわかりません。要するに、意味を伝えるわけです。そうすると、私が訳したように、Summer is drawing near; the finest time for picking tea, (お茶を摘むのに一番良い時期が来たよ。)というふうに88夜の意味を伝えてやります。これが英語圏の人に日本の歌の意味を伝えるということになるわけですね。the finest time for picking tea,というのが大事なところです。

 それから、「おぼろ月夜」(菜の花畠に、入り日薄れ)。ある学生は、The field is full of rape blossoms ..... と訳しました。ところがびっくりしたことに、rape blossoms というのが和英辞典に出ています。こんな言葉を使って英訳したら、日本の菜の花畑はめちゃくちゃですね。こわい。これを私は、yellow flowers(黄色い花)というふうに、さりげなく訳しました。ほかにも、「夏の思い出」(夏が来れば思い出す、はるかな尾瀬 遠い空 水芭蕉の花が 咲いている 夢見て咲いている 水のほとり…)というのがありますね。水芭蕉を和英辞典で引くと何になるか。恐ろしいことに、skunk cabbage です。水芭蕉をつぶすと、スカンクがおならをしたときのあの臭いにおいがしてたまらない。日本人はつぶしたりなんてしません。だからあのかわいい花のイメージになるんですね。それならどうしたらいいかということを学生に考えさせます。花のイメージを彼らは自分で考えて、英語圏の人に理解してもらえる正しい訳をするようになります。こんな苦労もあります。

  あとは、場面によって、日本人は、ハクション(Ahchoo!)というと、「大丈夫?」(Are you OK[all right]?)と言います。英語では残念ながら「大丈夫?」とは言いません。God bless you.と言います。Are you OK?というのは本当に病気の時しか使わない。明らかに顔色の悪いときにしか使わない。それから、「コーヒーいかがですか?」と言う時も、日本人はきちんとNo, thank you. を付けないために、Well, I've had enough.「あ、十分いただきました。」と直訳してしまいます。あのWell, I've had enough.は、No, thank you.がなければ、「もううんざりしました。」という意味になってしまいます。No, thank you.が必要です。

 それから次に、「ご注文はお決まりですか。」と言うときはこういうふうに言います。May I take your order? / Are you ready to order? で結構ですが、ネイティブの人は、What can I bring you, guys?とかWhat will it be today?とかいろんな言い方をするんですね。つまり生きている英語というのは、日本人が学校で習うよりももっともっと生きていて、いろんなバラエティーに富んだ形を取るということです。学生を通じて見えてくることは、非常に決まりきった、あまり一般的でないものを使っているということですね。

  最後になりますが、「英語の場面と音の関係」を非常に軽視します。これはアラン・ターニーさんという方が書いたものですけれども、@番からG番まであって、どこにアクセントを置くかによってみんな意味が違う。意味の93%は音で決まる。3%だけが言葉で決まる。英語は、93%は音・アクセント・イントネーションなんだ、ということです。I thinkI(@)に力を入れると、「君はどう思うか知らないけど私はこう思うよ。」A番に力を入れれば、「確信しているわけではないけれども、こういうふうに思うよ。」になる。B番は、「他の人と比べれば彼はね」という意味。C番に力を入れると、「日本語を書くのはそうではないけれども、話すのは上手だよ。」という意味がある。それからJapanese。「例えばChineseJavanese(ジャワの言葉)ではなくて、日本語がね。」と言うときはJapa-が強くなります。それに対して日本語一般と言いたいときは-neseが強くなります。それから、「どのくらい上手なの?」と聞かれたから答えるけれども、very well very(F)を強めて、Very(とっても)だよ、となる。それから、「彼の日本語はうまくないって言った?」と君が聞くから答えるけれども、とっても上手だよ、と言いたいときは、Very wellwell(G)が強くなるんですね。学生はほとんど何の意識もしないで、ただ読みます。そしてそれなりに訳します。しかし、アラン・ターニーさん(清泉女子大の教授で夏目漱石の専門家でしたが、亡くなりました)によりますと、8つ単語があるときには8つ意味がある可能性があるということなんですね。詳しくはまた皆様方が出していらっしゃる雑誌に書きますので、是非ご参考になさって下さい。

  では、まとめといたします。まず、長年教えてきて思うことがあります。3点です。1点は、言語・文化間に優劣の差がないことを徹底させ、自他の言語文化を慈しむ学習者を育てるようにしてきました。それを辞書に盛るようにしてきました。そして、2番目として、英語と日本語及びそれを用いる人々の文化は多様に異なるわけですね。その点は私の対照言語研究という授業(対照言語学を易しく言い換えた授業)の中で徹底的に教えるようにしています。それから何よりも、言葉を尽くし意を尽くせば、だいたい地球人としてたいていのことは理解し合えるなと思っています。最後にゲーテの有名な言葉ですが、英語で言えば、これは逆説的に言っています。自分の言葉を分析する力を持っていたら、必ず外国語は分析できるんだということだと思うんですね。このようなことで、限られた時間の中でお話しをさせていただきました。いろんな問題点を一つ一つもっともっと詳しくお話ししたいのですけれども、これで終わらせていただきます。時間の関係で大変早口で申し訳ありませんでした。また雑誌にも載せさせていただきますので、ぜひご参考にして下さい。どうもありがとうございました。

  山岸先生、昨年末はお世話様になりました。わかりやすい講演内容で、大変勉強になりました。6ページ目のアンダーラインを施したところが自信がありませんので、よろしくお願いいたします。その他にも訂正がありましたらよろしくお願い申し上げます。