28. 我が国の英語教育に思う
 
―慶應義塾大学法学部2年生の意見 その2―

その1こちら

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@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私が高校までに受けた英語教育は基本的にリーディング中心のある意味で受身の授業でした。そして、どの教科でもいえることですが、受験のための勉強でした。基本的にはテストで点が取れればいいという勉強の仕方で、言い換えれば点を取るための授業でした。そのため、特に英語を学ぶ理由・意義については一切考えませんでしたし、特に説明はされなかったと思います。当時から感じていた漠然とした不安は映画などを見ていても全く聞き取れないし、そもそも自分たちの教わっている文法などが使われていないのではないかと不安を感じていました。もちろん英語圏の人と接する機会など殆どありませんでしたし、英語の文献を読む必要性など皆無でした。当時の私の英語の科目の位置付けは、ただ点の取りやすい科目といったものでしたので、周りの友達が英語が出来なくても、どうせ実際に使う機会もないし出来なくても問題ない、むしろ他の科目で点を取ればいいやという考えに私も納得していました。授業に関しても、教科書を単純に進めるといった感じで、英語という言語を扱うというよりも文法などをまるで数学の方程式であるかのように論理的に淡々と進められていた感じがしました。特に英語に言語としての興味を持たせようという努力もなかったように思います。そんな授業でしたから、もちろん言語・文化の比較などもありませんでした。しかし、今考えて見ると、教える側の立場の先生方もそのようなことを考えたこともなかっただろうし、知らなかったのではないかと思います。英語辞書の利用に関しては、リーディングという授業形態の影響で英和に関してはわからない単語の意味を調べる目的で積極的に使うよう指導された記憶がありますが、和英に関しては特別な指導もなく、また特に使う必要性を感じたこともなかったので、中高の六年間を通してもあまり多くは使ったことがありません。私は慶應義塾高等学校出身なので、特に大学受験を意識した勉強というのはしていませんでしたが、中学が公立の学校だったので、高校受験というのをある程度意識した授業にはなっていましたが、帯に短し、襷に長しといった感じで、中途半端で結局塾の方がメインになり、あまり学校の授業というのに対してまじめに取り組まなかったことを記憶しています。以上のべた内容が、私が受けた英語教育です。その中で、好ましかった点は、文法をしっかり頭に入れることができ、英語の文章を論理的に捉えることが出来たことではないかと思います。また、長い間海外で暮らしていた年の離れたいとこが言っていたのですが、自分の話したいことを相手に通じさせるという点では、ただ単語を並べるだけでも通じるのだが、ビジネスにおける会話をしようとするとただ単語を並べるだけの英語では不可能で、もっと高度な英語が求められる。そのときに日本の英語教育は、高度な英語を修める上でもっとも適した方法だといっていました。逆に好ましくないと思った点は、リーディング中心の授業のせいもあってか、英語というものを書く、あるいは聞くということに対してはある程度修得できるとは思いましたが、いざそれを声に出す、あるいは実際に人間に対して使ってみるということはあまりなかったため、結果的に外国人に声をかけたり、彼らから道を尋ねられたりしても、しどろもどろになってしまうのではないかと思いました。また日本語でも文学において使われる言葉と、我々が普段使う言葉では大きく隔たりがあり、後者ではとても使われないような複雑な言葉を前者で使う場合があります。当然英語でも同じことが言えるのですが、日本の英語教育は前者の言葉を重視する傾向があるようで、もちろん複雑な文法を修めることも重要だとは思いますが、敷居が高く、途中で挫折してしまう人も多いのではないかと思います。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業は今まで受けてきた英語の授業とはスタイルが違い、まず自分の考えを積極的に発表することに重点が置かれており、その点が大きく異なっていたことだと思います。積極的に授業に取り組むために、常に教授が質問された内容を考えるというのも今までの英語授業ではなかったことだと思います。また、今までに受けてきた英語の授業では辞書の内容を単純に信じてよかったのですが、この授業では辞書の中には誤りもあり、中には全く逆のニュアンスのものもあるということを知りました。そして今までの授業ともっとも異なっていたと思われる点は日本と欧米との文化の比較が行われていたことです。私は高校生の時に一ヶ月ほどカナダにホームステイに行ったのですが当時感じていた漠然とした違和感が理解できた気がします。私がこの授業で学んだことは今までの授業で学んだ表現をそのまま使ってしまうと大きな誤解を生む可能性があるということです。例えば英語で「特に宗教はありません」というつもりで“I have no religion.”というと、欧米の人は神を捨てた背信者というニュアンスで取る可能性があることや、日本語の謙虚という言葉にはプラスのイメージが強いが欧米では自分の能力を過小評価する嘘つきと見られる可能性があるということ、日本人の持つ「やさしい」という感覚が欧米では理解されないということなどです。あと私が一番感じたのが今まで当たり前だと思っていた日本人の持つ文化・風習・趣向などを説明してほしいといわれたときに困ってしまうということでした。日本人の持つ文化特に宗教に関して最近は積極的に取り組む人は少なくなってきていますが、日本人の持つ習慣などには今でも多く宗教の影響が残っていました。しかし、日本は神道・仏教・儒教の三つの宗教がベースになって作られておりとても複雑になっていました。また特に神道においては様々な神を崇めていて、そのような考え方が一神教の国々にはない日本の他文化に対する寛容性の素地を作っているのだということも学びました。次に僕がこの授業を受けて自分の将来に対してどのように役立つかを考えてみると、日本は明治時代から欧米に対して強い劣等感を持ち、欧米をモデルにして発展してきましたが、農耕民族と狩猟民族の差があるので民族性からして大きく違うので単純に比較が出来ないし、そもそも文化に優劣などつけようもないものなので日本の文化の中でいいものは残していくべきだし、逆に新しく入ってきた文化でもいいものをきちんと取捨選択して残していくべきだという考えが生まれたのを活かしていきたいと思いました。

B まとめに代えて−わが国の英語教育への提言
 私がこれまでの英語教育において欠けていると思う点は大きく分けて2つあります。まず一つが英語をしゃべる授業あるいは機会が絶対的に少ないということです。基本的に英語というのは言語なのであるからどんなにしゃべる側が稚拙な英語をしゃべっていても聞く側が理解しようという気持ちを持ってくれていれば通じるのだと思います。これは日光に行ったときのことなのですが、食べ物屋さんに入った際にその店の方が欧米人に対してそれこそ文法など関係なく単語を並べていただけでしゃべりかけていたのですが相手のほうもそれを理解しようと努力していたようで談笑していました。一方私は面白そうだと思っていたのですが、結局照れくさくてしゃべれませんでした。つまり、日本人の英語はとりあえずの会話をする能力があるのですが、英語を口にすることに慣れておらずそのせいでしゃべれないと決め付けてしまっている人が多いのでもっとしゃべる機会を作る必要があると思いました。二つ目は山岸教授の授業のように日本人と欧米人のメンタリティーの違いを説明する機会がないということです。言語はあくまで文化の一部に過ぎないのだから日本の文化と欧米の文化との違いをきちんと自覚しておかなければいざ使う時に自分の伝えたい意味とは正反対の意味で伝わってしまう可能性があります。以上の点からこれからの英語教育はしゃべる授業を増やす必要があると思います。また複雑な文法も必要だとは思いますがそれは全員が学ぶ必要があるとは思えないので、もっと実用的な内容を教えるべきだと思います。最後に英語教育とは関係ないですし、これは本来家庭でなされるべきことなのですが現在の家庭というのを考えると難しいので、学校で日本の文化を行事などで取り入れていき日本人の持つ文化というものに対する理解をもっと深めるべきなのではないかと思います。そういったことで日本人の文化に対する自覚を深めていかなければ日本人の持つ文化の特殊な部分を理解できないし、また欧米の文化の日本とは異なる点を理解できないと思うからです。(30300230 浅野 宏)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が最初に英語に触れたのは、幼稚園時に子供向けの英語教材(カセットやビデオ)を聴き始めた時だったと記憶している。その教材では名前の言い方や日付・時刻の尋ね方などを学んだが、読み書きに関しては小学校中学年になって行き始めた塾で初めて教わった。
 中学・高校でも英語の学習は塾が中心となっていて、学校での教科書を用いた英語の授業には殆ど積極的には参加していなかった。英会話を学んだ経験は、中学二・三年生時に通っていた(英語圏ではない国の)日本人学校での授業のみで、他は専ら「受験」を意識した文法的な事項の学習に終始していたように思う。英語を学ぶ意義についての説明は、高校入学後に「文系でも理系でも英語は受験に使うから、一年生の内からしっかり授業を聞くように」という趣旨のものしか為されなかった。しかし、教科書をゆっくりと読み進めるだけの高校の授業は、質でも量でも受験対策として不充分であり、大半の生徒が放課後に塾に通っていた。
 だが、受験科目としての英語がつまらないと感じたことは一度もなかった。それは恐らく、英語学習を単なる面白い「遊び」として捉えていたからだと思われる。センター試験だけではなく多くの大学の入試問題が、穴埋めや並び替え、誤文訂正などの形式を採っていたために、「速く正解を見つけて点を獲る」反射神経を養うことに、私だけでなく多くの友人が腐心していた。
 大学に入ってからの英語の授業は、高校までのものより内容が充実していて楽しく参加できた。不得手だったリスニングを2年続けて受講したことで、生の英語に対する苦手意識を多少はなくすことができたと思う。演習問題を解く機会が減って、単語力などは相当落ちてしまったが、大学院の入学試験の為にTOEICを受けるので、それに向けた学習をそろそろ始めようと考えている。

A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 まず、英語そのものに関しては、受験勉強としてただ丸暗記していた英語表現が、実際に使った場合に英語圏の人々にどう解釈されてしまうのかを学ぶことができたのが、最も有意義な点であったように思われる。in order toやcan't help doingなどの当たり前のように読み書きしていた表現が、ネイティヴとの日常会話で使うには堅苦し過ぎて不向きであったり(前者)、年少者が用いると大げさであったり(後者)するということなど、これまでの英語学習では全く目を向けていなかった事項について丁寧な説明を受け、この先どのように外国語を学んでいくべきかを自分なりに考える貴重な機会を得られたと思う。
 また、「キリスト教徒」「狩猟民族」といった観点から、日本文化と対比させて英語圏の文化を考察することで、自国の文化・風習について多くの知識を得ることができた。日本人がよく口にする「お陰さまで」や「つまらないものですが」などの表現についても、一見うわべだけの形式的な社交辞令であってもその起源を辿れば根底にきちんと合理性が存在することを知り、日本文化の精緻さを再認識した。
 私は、システマティックに文法事項だけを学ぶ英語教育が、世の中で言われているほど悪いものだとは考えていない。外国語を学ぶ楽しみの一つは、自国語と異なる言語体系を解きほぐし理解していく、一種の「征服感」であると思うからだ。外国語とは「使わなければ意味がない」ものではなく、それ自体でも思考のトレーニングとしての役割を果たし得るものである。しかし一方で、外国語がコミュニケーションの道具であることもまた真であり、学生から社会人になった時により必要となるのはむしろ後者であろう。ただ闇雲に学ぶのではなく、それを活用して意思疎通を行う、いわば「2次利用」の段階について自分がいかに考えていなかったかを、1年間この授業を受講して知ることができたように思う。

B まとめに代えて―我が国の英語教育についての提言

 私が日本の英語教育において改善すべきだと考えるのは、以下の3点である。

 @新学習指導要領・「ゆとり教育」の抜本的見直しによる充分な学習時間の確保 
 まず第1に、義務教育における英語の授業時間の大幅な拡大、具体的には小学校中高学年での英語教育の全般的導入を実施すべきだ。
 中学・高校での英語の授業で実感したことだが、40〜50人のクラスに週1回ALTを1人招いたところでコミュニケーションなどできない。現実的に考えると、国民のほぼ総てが日本語話者である日本では、まず机に向かって「地道に時間をかける」ことなしには外国語の習得は難しいのである。だが、1年の授業時間を仮に40週とすると、英語の授業を週5時間行っても1年に200時間、3年で600時間。1日4時間で計算すれば150日間分しかない。中学校など行かずとも5ヶ月で独学できてしまう量しか、我が国では英語教育を義務付けていないのだ。この圧倒的な学習時間の不足を解消するには、小学校の6年間を効率的に利用するしかないように思われる。
 その為にはまず、小学校低学年時点で徹底的に母語の理解をさせる必要がある。日本語という確かな「足場」がなければ、小学校で外国語教育を行ったところで余計に子供の頭を混乱させるだけであろう。
 しかし、近年のいわゆる「ゆとり教育」の実施により、平成14年度の小学校6年間の国語の授業時間は平成4年度に較べ約220時間削減されている。他の科目でも約70〜140時間が削減されており、削減時間の合計は500時間を超える。また、中学3年間の国語・英語の授業はともに約100時間削られている。
 読み・書き・計算の基礎力をしっかりと養うべき義務教育の段階でここまでの削減を行うのは、もはや国が義務教育を「放り出した」としか思えない。この方針を決定した人間の何割が自分の子供を公立学校に通わせているのか、といった疑問も浮かぶが、ともかく初めに行うべきは、形骸化しつつある義務教育の建て直しである。

 A良質なテキストの使用・原典に触れる学習
  時間数ばかり増やしたところで、中身が向上しなければ何の意味もない。そこで次に考えるべきは、英語教科書の内容の充実化である。少ない時間数で消化できるぎりぎりの分量しか載せないのではなく、難解な箇所に脚注をつけるなどして、英米文学の原典や英語で書かれた評論を多く載せれば、英語に興味がある生徒にとってはそれを読み解くのが大きな楽しみになるように思われる。あるいは、古今の著名な日本文学作品を英訳して教師やALTが添削を行うなどの指導も、できる限り行っていくべきであろう。日本語・英語を問わず、質の良いテキストに多く接することで言語に対する感覚を磨くことが重要だと私は考える。

 B教員免許の更新制導入、習熟度別授業の一般化、単位制・飛び級制導入
  第3に、これは英語の授業に限らず全般的に言える事だが、教える側・学ぶ側の双方の質の向上を図らなければならない。
 私の出身中学では、教師が授業中に堂々と赤字の入ったマニュアル(いわゆる「虎の巻」)を教卓に置いて授業をしていた。質問に行ってもろくな答えが返ってこないのみならず、挙句の果てには「俺を困らせる為にわざと難しい質問をしている」などと言いがかりを付けられるというのが、私の見た地方の公立中学の実状である。たとえそれが一部の者であるにせよ、「いったん採用されれば、無難に毎年同じことを喋っていさえすれば良い」という公立校の教員の意識の低さを変える為には、数年おきに教師自身の学力を全国規模で試験する「教員免許更新制度」が不可欠であると私は考える。
 同時に、学ぶ側の意識も向上する必要がある。最低限でも小学校高学年の段階で、クラスを解体して科目ごとに習熟度別に授業を行い、年度末にそれぞれのコースで最低限学ぶべき事項をテストし、そこで単位を取得できなかった者には長期休暇中の補習を義務付ければ、「学校の授業が解らない」という小中学生は大幅に減るのではないかと思われる。併せて飛び級制度も導入すれば、年齢という枠に捉われず自由に学習ができる環境を子供に与えることができるのではないだろうか。
 「落ちこぼれ」が出るのを恐れるあまりに全体のレベルを下げてしまうのは、単なる悪平等以外の何物でもない。理解が遅い者には徹底的なフォローを、理解が速い者には更にハイレベルな課題を、という姿勢で教育に当たるのが、子供の可能性を考えた真の「平等」ではないだろうか。学習意欲の乏しい者にも最低限の基準には到達させ、貪欲に知識を求める者には欲しいだけそれを得させる、そんなシンプルな方針を採ることで、英語のみならず教育全般の改善を図ることができると私は考える。(30307439 鈴木千秋)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 私は中学に入学してから英語の勉強を始めた。まず、日本人の先生にはアルファベットの表記と自己紹介の仕方、それから文法を習い、オーストラリア人の先生からはイギリスの小学生が使う教科書を使った授業を受けた。後者では、先生の後について発音したり、英語での質問に対して英語で答えたりということをしていた。ハロウィーンの時期には外国のお菓子が配られたりもした。しかしその中で、オーストラリアやその他の英語圏の文化について特別に紹介はなく、もちろん日本文化との比較もなかった。英語と少しでも触れ合う機会を持つように、そのような意図の下の授業だったのだろう。では、なんのために英語と触れ合い、英語を学ばなくてはいけないのか、それは目の前にあるテストや高校への進学、そして漠然とした将来のためであると思っていた。だが、今考えてみるとそれは学んだのではなく、覚えていたにすぎない。もちろん文法の勉強が大切であることは間違いなく、まず知識がなくては書くことも話すこともできない。教科書の例文を今でも思い出せてしまうほど完全に暗記したことは、無駄ではなかったと思う。しかし、暗記のみでは、それがどのような場面においても正しいものであると思えてしまう。実際には、日本に2週間ほどホームステイしていたイギリス人の女子中学生と話した際、教科書にのっている表現を使って話し掛けても幾度となく首をひねられてしまったのだが。 高校は進学校ではなかったが、塾に通っていた。ただ、受験用に勉強にとりくんでいたわけではなかったので、学校でも塾でも与えられた課題として、文法や単語を覚えるだけだった。考えてみると、辞書の使用法について指導を受けたことはない。塾ではある辞書の使用を指定され、皆で同じ用法、例文を確認しながら英作や読解をした。そこに間違えがあるとは全く思いもしなかったし、英語は日本語と完全に対応しており、単語帳の裏と表のように使えるものだと思っていた。あえて思い起こしてみると、中学一年生の時に学校で勧められたNHKの英会話ビデオの中で、少年が帰宅した際に“I’m home.”と言ったのを聞いたとき、確かに不思議に感じたのを覚えている。「ただいまと」と「私は家にいます」ではちがうのではないか、と思ったのだった。
 私が残念なのは、自分が中高の6年間、全くの受け身に回ってしまい、なぜ英語を勉強するのか、英語やそれを含む言語とは一体何か、ということを考えようともしなかったことだ。たとえば音楽ではスメタナやシベリウスが国民楽派であるということを知ってこそ、ショスタコーヴィチの背景にあったソ連社会主義を知ってこそ、彼らの音楽を真に享受できるように、言語も、その背景を知ってこそ意志の疎通ができるはずなのだ。逆を言えば、それを知らない限りはその言語を使いこなすことはできないのかもしれない。
 英語の授業ではないが、高校時代に古代文学の授業を受けたことがある。古今和歌集と万葉集を比較しながらの授業だった。その中で、たとえば、虹を美しいとは思わない時代があったことや、古今和歌集では決して桃を詠まなかったことなどを習った。虹や桃・桜自体が何ら性質を変えてはいないのにも関わらず、同じ国内でも使う時代とその文化によって意味が真逆になる。だとすれば、国外においては尚更であることは想像がつく。英語の授業でなくても、私に言語と文化の結びつきを教えてくれていた授業があったのに、それを英語まで応用できなかったことが残念なのだ。

A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 山岸先生の「英語V」の授業を最初に受けたとき、とても戸惑った。悔しい気持ちにもなった。それまでの自分の英語の学習や、日本人としての意識が、英語圏では通用しないと否定されてしまったような気がしたのだ。けれども、先生が日本の文化を否定されているのではないということは、先生が儒教や仏教をはじめとして、日本の文化に大変精通されていることや、映画『男はつらいよ』に関する分析(『日英言語文化論考』第15章)が日本人の心情そのままであることなどからも伺える。
 大学に入学するまでは、与えられた模範解答に添って学習し、辞書を使いながら英作文や読解をしてきた。大学に入ると授業の幅が広がり、英語で哲学や思想を含む文章を読み解いたり、エッセイを書いたり、高校時代と同じようにリスニングと書き取りを繰り返したりした。特に前者では、英語そのものの勉強だけに留まらず、英語を使って何かを勉強していくということが初めてで、今まで英語に対して抱いたことがないような興味を覚えた。英語の勉強をすれば、様々な文献を読むことができるということに、やっと気づいたのだった。しかしその中でも、自分自身の文化と英語を結びつける授業はなかった。
 山岸先生の授業に参加するためには、まず日本という国と文化、そして自分自身について考える必要がでてくる。これまで自分が全く気にとめなかった慣習や、その存在自体を知らなかった慣習、そして、心の持ち方まで、改めて考えてみると、どれもすぐに正当性を説明することができなかった。テレビ番組などで、外国の人々が日本の文化や慣習に対して理解ができないという反応を示すのを見て不快に思った経験もあったが、授業の中で、それが私たちの知識と理解不足によるものなのだということに気づくことができた。まずは私たち自身を見つめ直すことが必要だったのだ。
 それではと資料を調べてみると、日本の文化について書いてある文献はたくさんあるのだが、その根源となる部分についてはあやふやなままにしてあるものが多い。それが著名な研究者によるものであったり、学術書で有名な出版社から出されているものであったりしても、である。文献選びという点でも、山岸先生の授業を受けることによって視点が変わってきたように思う。結論は、周りの学生の回答例や先生の解説、教科書の中から導き出され、教科書から見受けられるように、その多くが一つのことがらに帰結するのだということが見えてくる。もちろんその事実自体も大変に興味深く、日本人として不可欠のことであるが、何よりそれらのことを考えていくプロセスが、私にとっての収穫であると感じられた。
 英語の学習自体に関しても同様である。単に間違えだからではなく、伝わらないから改善しなくてはいけない、という先生の方針は、実際に外国の人々と触れ合い、交流されている山岸先生ならではのものであると思う。私は、辞書に書かれている日本語と一致すればどの語を用いても構わないのだと、全く不用意に辞書を使っていたが、伝わる英文を作るためには今自分の使っている辞書がいかに不十分であるか、書き込むことのできない電子辞書はなんと不便であるか、ということを毎回の授業で感じた。今までの学習を何の疑いもなく受け入れるのではなく、互いの文化と照らし合わせながら言葉を選んでいくということが必要なのだ。それでもまだ選ぶほどの力を持ち合わせていない私にとっては、「良い英語を読み、聞き、それを真似なさい。」という先生のお言葉はとても印象に残るものだった。
 山岸先生の授業では、確かにショックを受けることがよくある。自分の作った英作文が英語圏の人々には到底受け入れられるものではないということに気づかされるからだ。けれども、同時にそれがとても大切であるということにも気づかされる。受信をするだけではなく、“やりとり”、“交流”のためには、発信、それも相手に受け入れられる発信ができなくてはならないということが毎回の授業で教授される。山岸先生の授業では、“交流”のための、独りよがりでない発信をする努力の必要性を学んだ。そしてこのことは、英語だけでなく人と関わりあうあらゆる場面において、態度として表れていくのだろう。

B まとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 近年の中高で扱われている英語の教科書を見てみると、公立中学で扱われている教科書にも、山岸先生の教科書に挙げられている間違えやすい英語表現がいくつも取り上げられている。たとえば、on farmなどもその一つで、中学2年生の教科書にはすでに出ている。けれども、それが間違えやすい表現であること、なぜonを用いるのかという理由なども併せて説明されなければ、どの場面で使いうる表現なのかということまで学習できない。つまり、実用できない、伝わらない英語のままになってしまうのである。farmという単語の意味さえ、日本においては牧場なのか、農場なのか、田畑のことなのか、そのどれとも性質を異にするのか、中学生にとっては訳に困ってしまうのだ。
 私は、一部私立校が扱っている学習事項の多い教科書を用いて、文法的な理解もできないまま暗記に追われてしまうのではなく、上記のような、学習事項は少なめでも重要点を押えた教科書を使って確実に身につけるのがいいのではないかと思う。ただし、重要事項が掲載されている、英会話を取り入れている、といった事実だけではなく、それらひとつひとつに意味を持たせていく必要があるのではないか。文法面から考えると、現在の教科書は取り組みやすくするねらいからか文法ごとのまとめがあまりなされていないように思う。文法としてではなく表現として覚えていくことも有効に違いないのだが、1で記述したように、文法知識が定着してこそ、正しい応用法を学習していけるということを考えれば、多少硬くなったとしても文法のまとめを明確に掲載するべきだろう。そして、山岸先生のおっしゃるように、とにかくたくさんの文章を、怖がらずに書ける環境をつくり、どこが違うのか、なぜ違うのか、どうすれば伝わるのかということを掘り下げて学んでいけたとしたら、恵まれていると思う。それらの大前提として、私たちが山岸先生から教わったように、文化、さらにはその根源にさかのぼる事が、あらゆることの理解のために、大変重要になっていくに違いない。教科を越えて理解が理解を生み、真の意味での英語の使用が可能になっていくかもしれない。(30358261 塚崎智子)


@私が受けた英語教育−高校までの英語学習を振り返って
 中学、高校で私が受けた英語教育を振り返ってみたい。まず、英語教育を受ける前提として、なぜ英語を学ぶのかという理由が十分に説明されただろうか。特に初めて英語教育を受けることとなる中学の段階においてである。この点について私は十分な説明は受けなかったのではないかと感じる。もっとも、私自身英語を学びたいと思っていたため、十分な説明がなかったからといって学習に支障が生じるようなことではなかった。しかしもし英語を学ぶ必要などないと思っていたらどうだろうか。実際英語を学ばなくてもいいと考える生徒はいるだろう。むしろ島国である日本では外国を身近に感じることが少なく、英語が必要となる場面もほとんどない。そのため大陸の諸外国に比べて英語の必要性、英語を学ぶ目的を感じることができない。日本で暮らしている以上、英語を学ぶ必要がないと思うことは普通のことと言えるかもしれない。そのような生徒に対して英語を学ぶことの意義を説明せずに英語教育をしようとしても十分な教育はできない。英語教育をするのであれば、まずは英語を学ぶ理由を説明しなくてはならないだろう。 
 では、次に具体的な授業の中身について振り返ってみたい。中学、高校を通じて、教科書の文章を読み進めていき、そしてその文章に沿って文法を学ぶというのが基本的な形式であった。そのほかに中学校では二週間に一回ほど、外国人講師による授業が行なわれた。内容は外国の文化を学んだり、その講師と会話をして生の英語に触れたりというものであった。また高校でも週に一度オーラルコミュニケーションとして外国人講師による授業が行なわれた。内容は、英語でのスピーチやプレゼンテーション、外国の映画を観たりもした。私の高校は付属校でいわゆる受験校ではなく大学受験は意識されていなかったため、そのような授業の時間が取れたのかもしれない。

 英語辞書指導については中学では行なわれたが、高校では行なわれなかった。中学での辞書指導の内容は英和辞書を使っての単語の調べ方であったが、和英辞書や英英辞書の使い方について指導はされなかった。
 このような英語教育を受けて好ましいと思った点は、中学、高校ともに外国人講師による授業である。逆に好ましくないと思った点は単に教科書の文章を読み進めていく授業である。もちろん文章を読み書きするには文法を学んでいる必要があるので、教科書を読み進めていくような授業もなくてはならないと思う。ただ私が受けた文法の授業では、英語圏の人がどのような表現を多く使うのか、日常会話などではどのように使われるのかなどを知ることができなかったように思う。なぜそのような授業が好ましくなかったかというと、それは英語の背景にある文化を感じることができなかったからである。つまり、私は英語を勉強したいと思っていたと前に書いたが、それは英語を使ってなにかをしたい、具体的には外国に行って外国の文化を知りたい、そのために英語が必要であるということなのであり、ただ英語の文法や活用を知りたいと思っていたわけではないからである。したがって英語言語の背景にある文化を感じることのできない授業は好ましくないし、それを感じることのできる授業は好ましかった。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 「英語V」の授業は今までの英語の授業とはかなり違った内容であった。なぜなら今までの英語の授業が教科書などの英語の文章を読み進めていったり、文法を学んだりというものが主であったのに対し、「英語V」の授業では日本語や日本の文化について多く学んだからである。そして日本の文化を学ぶことは英語の背景にある英語圏の文化を学ぶということでもあった。つまり、これまでの英語の授業と「英語V」の授業の違いとは、英語を言語の一つとして捉えるのか、それとも英語圏の文化の一要素として捉えるかの違いである。
 このように英語を文化の一要素として捉えることによって、英語による表現と日本語による表現の違いを学んだ。今までは英語と日本語を言語対言語という形で捉えていたため、英作文などにおいては日本語をただ英語に置き換えているという感覚であった。そのため、日常会話にしては丁寧すぎて不自然な表現や、自分の伝えたい意味が伝わらなかったり、別の意味に捉えられてしまったりというような表現を正しい英語表現だと思って使っていた。その一つ一つを知ることができたことはこの授業で学んだ大切なことである。さらにそれによりどのような表現が格式ばっているか、どのような単語を使うときには注意したらよいか、などをある程度抽象化して知ることもできたため幅広く応用していけると思う。
 これらのことは、自分が伝えたいことを英語で正確に伝えられるようになるという点で今後役に立っていくと思う。特に日本の文化を反映した言葉や、日本人の好むような格式ばった表現については注意していきたい。今までの私は正しい文法を使ってさえいれば正しく伝わるものだと思っていたため、このように全然正しく伝わらないことがある、ということに気付けたことは自分の英語学習にとって大きな転換期となると思う。
 もともと私がこの授業を受けた理由はこのような日英の言語の比較というものが面白そうだなと思ったことであった。しかし実際授業を受けてみると、日英の言語比較以外にも学べることはたくさんあった
 たとえばこの授業で行なった、外国人の日本の文化、風習に対する質問の答えを考えるというものである。この授業を受けたことによって普段の何気ない言動が実は非常に「日本人らしい」ものであって、ときには外国人にとって不思議なものであるということを知った。なかにはそのような日本の文化が疑問を越えて不満となっているものもあるかもしれない。将来そのような質問や不満を聞いたときには日本人である私が説明しなくてはならない。日本人が説明できなければ外国人にとって本当に日本文化は不思議な文化、ひいては暮らしにくい文化となってしまう。
 また、それらを説明できないということは自分自身が日本の文化をわかっていないということであり、それは日本文化が消えていくことにつながるだろう。なぜなら日本の文化の素晴らしさもわからないため、ビジネスシーンなどで主流である欧米の文化をなんでもかんでも取り入れるという状況に陥るからである。日本人が日本の文化を排斥して欧米の文化ばかりを取り入れることは非常に悲しいことであるし、もったいないことであると思う。実は私自身無意識に欧米の文化に合わせようと考えてしまっていたところがあった。それは一面では日本人特有の寛容性、協調性などからきているのかもしれない。しかし一番の理由はただ日本の文化に対する理解が足りなかったからであると思う。この授業でそれに気付けたことは私の日本文化への見方を変えることであり、大変嬉しく思う。それと同時にその点について反省し、この授業で学んだ日本文化の素晴らしさや奥ゆかしさを、自分より下の世代、またこの授業を受ける前の私のような人に対しても伝えていかなくてはならないと感じた。
 もちろん私はまだまだ日本文化に対する理解が足りないだろう。しかし最近は、普段の自分の言葉や行動に対して意識的に疑問を持ち、それはなぜなのかを頻繁に考えるようになった。このように考えることができるようになったのはこの授業で自分がいかに日本文化を知らないか、またそれを考えることが大切かを知ることができたからである。
 そしてこのことは外国人に日本文化について聞かれたようなときだけでなく、自分自身を高めていくこととして私の今後の人生をより豊かなものにしていくであろう。
 また先生は辞書の編集をなさっているということで、辞書についても学んだ。これまでは前述のように中学時に簡単に辞書の使い方を学んだ以外は、辞書について教わる場面はほとんど無かった。これは私は大きな問題であると考える。英語学習において基礎となるものは辞書だろう。しかしその辞書から正しい情報を得られなければそこでの英語学習は有害になってしまう。どの辞書がいいとか悪いとかの問題は別として、大切なことは日本語から英語に直訳しようとして辞書を使ってはいけないということであると思う。つまりそれぞれの言語にはそれぞれの文化が反映されているのであって、同じような意味の単語でも、日本語と英語によってその文化的な背景から捉え方が違っていたりするからである。それを意識せずに盲目的に和英辞書を引いて日本語を英語にしようとしても、伝えたいことの伝わらない文章になってしまう。私は今回の授業でこのようなことを知ることができたが、辞書は英語学習を始めたときから使うものなので、もっと早い段階で使い方を詳しく教えるべきであると感じた。
 そのほかにもこの授業で学んだことは本当に数え切れないほどある。それはこの授業では英語という科目を通じて山岸先生という一人の人間に触れることができたからであると思う。私が家庭の中で親や兄弟から様々なことを学ぶのと同様に、先生の生き方のようなものにまで触れることができたと感じる。それは、先生の言葉遣いや気配り、けじめをつける部分、主張を通す所、よく考えること、そして論理的であること、良い文章を読むこと、過去を知り現在につなげること、家族や飼っている犬達への愛情、などである。
 英語の授業を通してこれらのことを学べたことはなによりの幸運であったと思う。そしてこれらはこの先の人生を歩んでいく上で、大切にしていきたいと感じるようなことばかりであった。今まで英語といえば文学部だと決めつけている部分があったが、先生から言語としての英語以上のものを学んだ今となっては、英語、そして先生の授業は決して文学部だけのものではなく法学部の学生である私にとっても必ず財産になっていくだろうと思った。先生との出会い、そしてまたそこで学んだ英語や日本文化との新たな出会いを大切にしていきたい。

Bまとめに代えて−我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育に欠けていたもの、それは目的意識であると思う。日本で暮らしている限り、英語を学ぶ必要性を感じることはそれほど多くない。それにもかかわらず義務教育の段階で英語を学ばせるということはそれなりの理由、目的があるはずである。そしてその目的を意識せずに英語教育をしようとするとどうなるか。その結果が「使えない英語」すなわち難しい単語や文法を知っていても簡単な会話すらできないような英語を教えることになったのだと考える。
 たとえば社会人などが通うような街の英会話教室では「日常会話を学びたい」などの目的がはっきりしているために日常会話で使わないような英語は教えないであろう(街の英会話教室を称賛するかは別として)。それに対し我が国の英語教育はまるで英語を学ぶことそれ自体が目的であるかのようである。しかし江戸時代後期、明治時代の人々がなぜ英語を学ぼうと思ったのか、そもそも英語を教え始めたのはなぜかを考えれば、英語を教えること自体が目的になるはずがない。彼らは英語を通じて諸外国の文化を知りたかったのであり、それを知ることによって国が発展する、また自分を高めることができると感じたからこそ英語を学んだのではないだろうか。現代でいえば、未来の国を背負って立つ人材を育てるという目的で英語を学ばせているというのが国としての考えであろう。ただそれぞれの人間にはそれぞれの考えがあり、大切なのは現場の教師がいかにして英語を学ぶ目的を生徒に伝えるかということだと思う。
 そこでもう一つポイントとなるのがなるべく具体的に伝える、ということである。たとえば、英語を使う職業はこのようなものがある、洋画や洋楽などを鑑賞するうえでこのように役に立つ(この点は後述)、英語圏だけでなく世界の色々な人とコミュニケートができる、などたくさんの場面を自らの経験や映像、音楽、外国人講師、時事的なものなども踏まえて示す必要がある。それにより生徒は○○をしたいから英語を学ぼう、などということをそれぞれが具体的にイメージすることができるのではないだろうか。目標に向かっているときの力と、ただ漠然とやることをこなしているときの力とではかなりの差があるだろう。日本の英語教育ではこの欠けていた目的意識を持つことがまず必要である。
 そしてこれからの英語教育は(先程と繰り返しのようになるが、)より具体的になっていくべきだと思う。たとえば一般的な英語教育においては教師が説明をしてそれを聞いているような授業と、生徒が学んだことを実際に使う授業というものがあるだろう。そのなかで特に生徒が「学んだことを実際に使う」授業では、より具体的、言い換えれば実生活に近いことが行なわれるべきである。たとえば過去形を学んだ後には、たいていは問題集などを解くというのが私の受けた今までの「学んだことを実際に使う」という英語教育であった。しかしこれを様々なシチュエーション設定をして(昨日のできごとを友達に話す場面、医者に昨日した怪我を伝える場面など)クラスメイトと会話をしてみたり、自由に作文を書かせてみたりすることで、具体的にどのように英語を使うのか、日本語で○○というものを英語で表現するにはどうすればよいのか、などを自然に意識し始めるだろう。
 またこのように作文を書かせたとしても、山岸先生が授業で繰り返し言われているように「英作文を減点方式で評価するのはよくない」と私も思う。つまり文章の中身や表現方法、相手への伝わり方で評価するのではなく、文章中にある文法の間違いの数を数え、その数の分を減点して評価するのはよくない、ということである。これは日本語(国語)の授業に置き換えて考えればよくわかる。たとえば私たちが普段、授業で見たあるビデオの感想などを書いたとき、読み手は「意外」と「以外」の書き間違いでその感想を評価してはいないだろう。もちろん読みやすさや言葉遣いの美しさなどの修辞学は文章において重要な要素であり、また公的な文章では間違いが許されないようなこともある。特に法学部で条文の解釈などを学んでいる身として、一字一字の大切さはわかっているつもりである。
 しかしそれは授業で書く英作文における文法の間違いとは次元の違う話である。重要なのは修辞学であれ、英語の基本的な文法であれ、自分の伝えたいことを正確にもしくは効果的に伝えるという目的のもとにあるということである。この目的を意識していれば英作文を「減点方式」で評価するようなことはしないだろう。いかに相手に伝わるか、という目的のもとで評価をするべきである。そして文章の内容にほとんど影響を与えないような細かい文法の間違いはその評価とは別に、後の学習のため補足的に指摘すれば済むことである。
 そうすればこの授業で学んだような「スピーチレベル」ということも自然と気になってくるはずである。なぜなら自分の伝えたいことを相手に伝えるということは、友達との会話ではくだけた表現を使い、公の場ではそれにふさわしい表現を使う、ということも含まれてくるからである。日本語でも親しくなった友達に敬語を使うことはなく、また敬語を使わないことが親しさを感じさせることでもある。逆にいつまでも敬語を使っているとなかなか親しくなれなかったりする。つまり自分の伝えたい気持ちを表現するためには「スピーチレベル」の意識は不可欠なのである。
  英作文についてもう一つ付け加えれば、私が今まで受けた英語教育において英作文を提出するときなどはそれが成績評価につながっていることがほとんどであった。これは「減点方式」の評価とあいまって英作文を楽しくないものにしてしまうだろう。普段の生活において日本語の文章力を上げるのが趣味として本を読むことであったり、友達や親戚に手紙やメールを出したりすることであるように、ときには成績評価とは関係のない英作文が必要であると思う。
 また映画や音楽はその国の文化がよく知ることができたり、日常的な表現が使われていたりするので、英語圏のこれらの作品に触れることも有用だと思う。山岸先生の授業のように日本の歌や映画を英語圏の人に伝わるように訳したり、逆に英語のセリフや歌詞を日本語に訳したりという授業も面白いものになると思う。映画や音楽には単純に興味があるということから学習意欲が向上するという利点もある。
 もっとも、私が受けた英語教育においても映画や音楽の鑑賞というものはあった。しかしそれをすることがなぜ必要なのかの具体的な説明はなかった。映画や音楽には文化や考え方が反映されていて、それを日本語の訳で考えるのと英語で考えるのとではかなり印象が違う部分があるというような簡単な説明でもあれば映画や音楽を鑑賞するにしても違った見方ができたと思う。そして、言語と文化は切り離せないものなんだなという意識が実感として芽生えてくるのではないだろうか。私は山岸先生の授業を受けて始めて言語と文化が密接不可分であるということを実感したが、このような教育をしていけばもっと早い段階でそれに気付かせることができる可能性が高くなるだろう。
 また日本語のセリフや歌詞を英語に訳す際には、日本文化を知っていることが必要不可欠となってくる。日本的な表現は言い換えたり、説明を加えたりしなくては伝わらないからである。(たとえば「お陰さまで」という表現や「忘年会」という言葉などは日本特有の文化を反映しているためそのまま訳すことができない。言い換える、もしくは説明を加えることが必要である。)つまりこのような授業は英語を学ぶとともに日本人が忘れかけてしまっている日本文化を学ぶことに他ならないのである。これは日本の文化が失われかけている現代において非常に重要なことであると思う。
 ところで目的意識を持つということは英語教育だけでなくすべての科目にいえる。特に最近「数学なんか勉強したって役に立たない。」などという考えをよく聞くが、これもなぜ数学を学ばなければならないのかという説明がなされていないからであるといえる。
 たとえば私は中学校の頃、歴史の年号を覚えることが果たして将来に役に立つのだろうかと感じていた。そしてこのように疑問に思うことは学習意欲を下げることにつながってしまう。しかし今となれば、普段の生活の中で、○○年になにがあったか知っていれば、世界の動きの理解の深さがかなり違ってきたり、またある出来事を歴史的な観点で考えることができたり、それが外国の昔の出来事であったらその時代日本はどのような状況であったか、さらに法学部で法律を学んでいてもこのような「判例」が出たのは歴史的にこのようなことがあったことも関連してくるのではないか、などと役に立つ場面は多い。私が今中学校時代に戻れるのであればそのことを過去の自分に伝えるだろう。
 そして実はこれこそが教育の本質なのではないだろうか。つまり先に生まれて先に学んだ人間(先生)が自らの失敗や得た知識、経験を後の人に伝えることが教育なのだと思う。もちろん失敗は成功の元であるから、失敗をさせなくてはならないこともあるだろう。しかし必ず伝えて改善しなくてはならないようなものもある。
 英語教育に話を戻すと、これまでの英語教育には目的意識が欠けていたため、日本人の英語は使えないと言われることがあるのだと述べた。そしてその失敗は必ず伝えて改善しなくてはならないものなのである。これからの英語教育はその失敗を生かし、目的意識を持って行なうことが必要となるのではないだろうか。
 以上我が国の英語教育への提言として具体例も含めて書かせていただいた。それはもしこのレポートが英語教育に携わる方の目に触れるようなことがあったならば、今の子供よりも先に生まれて先に学んだ者の一つの考えとして参考にしていただきたいと思ったからである。そして今後の英語教育がより良くなっていくことを願いたい。(30309046 寺内康介)


@私が受けた英語教育−高校までの英語学習を振り返って 
 私が受けた高校までの英語学習を振り返ってみて思うことは、まず、英語を学ぶ理由・意義は説明されたのか、に関して、大きく分けて二つの理由・意義が説明されたと思います。一つ目に受験に必要であるということ。二つ目にグローバル化が進んで、今以上に英語が重要になってくるということでした。
 ただ、高校である以上、大学受験を視野に入れているので、一つ目の理由・意義のほうが大きかったと思いますし、私自身この理由・意義には納得していました。

 英語はどのような内容で、どのように進められたのか、と言えば、学校指定の教科書に記載されている英語文を予習という形で翻訳し、授業で教師が生徒に翻訳を読ませるなどして、教科書を読み、次頁の例題を解いていくという形式でした。
 日英の言語・文化の比較はなされたのか、に関してですが、英語の授業中に日英の比較を教えるということは、私の高校では一切比較は行われていませんでした。特に言語に関する比較は英語の授業に限らず、他の教科の授業でも扱われませんでした。ただ単純に英語の単語を辞書又は電子辞書で引き、そこに記載されている日本語訳を確認していくというものでした。
 英語辞書指導は行われたのか、ですが、一切行われませんでした。どこの辞書が素晴らしいとか、どこの辞書はあまりよくないのか等は自分たち自身で探す必要がありました。授業では辞書本体を持参している人は少なく、ほとんどの生徒が電子辞書を使用していました。
 大学受験はどの程度意識され、受験校であったのか、に関して、私の学校は中堅高ではありましたが、一応受験校でした。三年生にもなると、授業という形式にとらわれず、他大学の過去問を授業中に解いたり、自分の選んだ先生の授業を受けることが出来るというシステムになっていたり、他大学の過去問や情報等色々な大学対策を検討できるようになっていました。
 私が感じた、受けた英語教育の好ましいと思った点は、高校というものが大学受験を意識しているということもあり、教科書の質が学年ごとに良くなっていく、ということが第一にあげられると思います。高校一年生、二年生のときと比べて、教科書の文章が他大学の過去問の一部分を切り取ったもので構成されているためです。第二に文法をしっかり教えるということです。これも上記の通り、大学受験意識のためですが、教科書や付属プリントに記載されている文法は授業できちんと説明していました。好ましくないと思った点は、例題が素晴らしいものではない点です。私の学校で使用していた教科書の例題は正誤問題が多く、論述が少ないというものでした。これははっきり言ってしまえば、文章全体を理解していなくとも、例題で問われている箇所だけを見れば、正解がわかってしまうというもので、多少の物足りなさは感じました。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 この授業を受講してみて、過去の授業と比較してみると、二年生になって初めて本物の英語を理解できたのかなと感じています。高校までの授業は大学受験を視野に入れた英語教育というものであったため、読解力や即読、単語力等が過剰に要求されていました。また大学一年時の英語の内容は高校までとは異なり、チョムスキーの生成文法理論に関するもので、文章も難しく、テーマも今まで読んだことのないもので新鮮でしたが、授業内容は教科書の英語を読んで、訳していく、そして所々で生成文法に関する知識を教えるというもので、高校の授業の延長線上の授業のようであったと感じています。しかしこの授業では英語と日本語、欧米人、日本人の考え方、文化の違いから、英語を捉えていくという斬新なもので非常に興味深い授業でした。
 この授業が教えてくれたことといえば、やはり外国と日本、とりわけ授業の中でも扱いの多かった日米の文化の違いから英語を捉えるということです。今までのように単純にわからない英単語を辞書で引き、その辞書の一番上に記載されている言葉が日本語に正しく適用できるという考えが見事に打ち砕かれました。例えば「company」という単語がわからなかったとして、辞書を引くと「会社」と辞書には記載されています。そこで私たちがイメージする「会社」は英語では「company」なのかと思ってしまうと、それは間違いだということです。英語の「company」は個人と組織が契約で結ばれた権利と義務を履行する関係であるというイメージですが、日本語の「会社」からは英語のようなイメージは連想されずに、そこの会社に自分が所属している、一種の親近感のような所属意識イメージが連想されます。この例を見てもわかるように日本語と英語には他にも文化、考え方の違いから、数え切れないほどの差異があります。今までの英語勉強とは異なり、文化、考え方の違いから英語と日本語を捉えていくこと、そしてそのためには私たち自身がこれまで以上に日本文化を積極的に取り入れ、理解し、外国人にも正確に文化を伝えていけることこそが、本物の英語力を身につけることが出来るということをこの授業で考えさせられ、授業を通して、少しずつではありますが、日本文化理解とそこから生まれる本物の英語力を身につけられたことがこの授業の成果だと感じました。
 この授業の成果が自分の将来にどう役立つかに関しては、これからのグローバル化が進む時代に今以上に外国人と接触することが多くなるのではないかと思っています。そのような環境に直面したときに、今までの英語学習では相手の文化、考え方を学んでいないがためにコミュニケーションが円滑にとることが難しく、最悪の場合には外国語と日本語のその言葉のニュアンスの違いによって誤解まで生じてしまうのではないかと思います。そういう誤解をなくすためにもこの授業で学んだことが活かされてくると思います。他にも現在の画一的な英語教育を抜本的に変えることが出来るのがこの比較文化授業ではないでしょうか。

Bまとめに代えて−我が国の英語教育への提言

 これまでに欠けていたと思われる点は以前にも記したとおり、私たちが英語を勉強する際にまず両者の文化の違いがあるということを前提にしていかなければならないということです。やはり今までの英語というとただ文章をそのまま訳して、そしてわからない単語は辞書で引き、その辞書の一番上に記載されているものがその英語に対する日本語であると理解してしまっている。逆に日本語を英語に英訳する場合、日本語が含んでいるイメージで英語を捉えてしまう、これが一番の問題だと思っています。他にも授業の中で「日本人に対する外国人の質問」というテーマの授業を行ったのですが、例えば、「日本人は何故、人から貰った包みをその場で開けないのか」という外国人からの質問に対して私は最初は正直全く検討がつきませんでした。調べてみて、ようやくわかりましたが、ここから感じたことは日本人は自国の文化に対してもっと理解を深める必要があるということです。英語を勉強する際、そして人とのコミュニケーションを図ることを円滑にするためにも、自国文化理解は欠かせないと思います。全く別の視点から欠けていると感じるのは、中学、高校、大学、どの期間でも当てはまるとは思うのですが、英語を書くこと、話すことに抵抗を感じる必要がないという気持ちが欠けているということです。つまり英語を書いたり、読んだりするのに抵抗を感じている人が多いと私は思います。という私自身も高校生のとき、英語作文は大の苦手でした。受験英語では英語作文に減点方式が採用されているからです。受験の採点上仕方の無い事かもしれませんが、こうすることによって間違いを恐れて中々英語というものを書きづらく、そして読みづらくしているのではないでしょうか。
 今後の英語教育はどうあれば好いと思うかに関して、今後は中学、または高校の早い段階で日本文化、そして外国文化を学習させることが必要だと思います。もちろん今までと同じように文法や熟語なども併用して教え、たとえある英単語がわからなくても、辞書で引くだけで終わりにせず、その言葉が持つ文化的背景なども教えることが出来れば、最高の英語教育になると思っています。昨今「ゆとり教育」が叫ばれる中で小学校から英語教育を実践しようという試みも起きているとは思いますが、私自身は小学校からの英語教育というものはあまり肯定的ではありません。確かに小学校など低年齢のうちからの英語教育というものはいろいろな意味で魅力的かもしれませんが、小学校とは初めて他人同士が学校というある意味公の場で会する場所であり、対人関係を通して、自分を成長させていく場であると思います。そのため英語教育に重きをおくということには疑問を抱くほどです。そうではなくて、英語ではなく、逆に将来の英語教育のためにも小学校のうちから日本文化を教えるというのはどうでしょうか。以上から特に日本文化、外国文化の指導という今まで未知の分野の教育が今後の英語教育をよりよくしていくものだと思います。30307298 杉木 翔)


@私が受けた英語教育−高校までの英語学習を振り返って
 私は中学校は公立中学、そして高校は塾高に通っていました。それを通じて、思った長所、短所を考えてゆきたいと思います。中学校における長所は、読解力が身につくこと、文法力が身につく、単語を記憶できることがあげられると思います。そして、短所は文語英語であるので話すことが出来ないこと、つまり生きた英語を学べないことであると思います。
 中学校に入った時点ではまったく英語というものを知らない状態であるのでまず文法から入るのは当然のことであると思います。また、受験英語の性質上、読解力が最も重要視されているので、単語を記憶することに重点がおかれているように思いました。
 そして、塾高での英語はといいますと、まず大学受験というものがありませんので、他高校には出来ない自由な英語教育をしていたように思います。記憶にあるものを挙げてみますと、・映画を見る(勿論、字幕もなし)、・日本語の歌詞を英語に訳してみる(山岸先生の授業でも行いましたが…)・ネイティブの先生との会話授業などです。この授業形式により、型にとらわれない自由な英語の発想が出来るようになったのでは、と思います。しかし、大学に入って感じたことは周りの大学受験を経て入ってきた人と比べてみて、あきらかに英語力に差がある、読解力や文法力、単語力が違うと身にしみて感じました。
 つまり、私の受けてきた英語は両極端であったということでしょう。この二つの授業形態を融合させることが出来れば理想の英語教育像に少しは近づくのでは〜と思います。しかし、このふたつとも行おうとするならば、明らかに時間が不足することが目に見えてしまいます。英語の授業の時間の割り振りを考えてゆくのが今後の課題のひとつではないでしょうか。 私としては実際に利用価値の高いであろう口語英語を重要視する必要があるように思います。やはり、語学を使う上で、楽しい、役に立ったと思えるのは話す言葉でしょうから。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと 
 まず、今まで受けてきた英語の授業で、山岸先生の授業は異色であると言い切ります。この授業スタイルが広まっていけばよいと心より願ってやみません。そうすれば、英語に対する理解が深まるとともに日本語の理解も深まることでしょう。

 今までの英語教育においては、英訳しなさいといわれ作った文章に対してこの表現はおかしい、この単語は間違っているなどとされ、減点方式により評価されてきました。これは受験を乗り越えるためでしかありません。しかし、先生の授業では生徒の英語力を評価してくれ、その上でここはこう直したほうが良いなどと的確なアドバイスを授けていただけるというスタイルでした。今までの英語教育ではどうしても自分の英語力、とくに文章を作る力に自信を持つことは出来ないように思います。よって、英語嫌いな人が増えてゆくのではないでしょうか。やはり人というものは誉められなければ、評価されなければやる気の出さないものだと思います。
 実際、授業で学んだことでもっとも大切だと思ったものは単語に隠されたイメージ(それがマイナスイメージを英米圏では連想するなど)が英語を理解する上では非常に重要であるということです。どうしても日本人は日本的に英語を訳してしまいます。たとえば、WIND。これはアメリカではマイナスイメージですが、日本ではプラスイメージにとってしまいます。これは英米と日本との文化の違いによるものであるのでしょうがないものだと考えます。むしろ、風をマイナスイメージに日本人がとるようになってしまいますと日本文化は破滅しているでしょう。日本とその他の国々の大きな違いを挙げるとすれば閉鎖文化か否か、でしょう。むらという狭い生活空間の中で相互に助け合い、支えながら生活する、これが日本文化であったのです。(今は崩れていますが) また、その他の国々においては広大な土地があり、比較的容易に隣の文化と交流を持つことが出来ます。つまり、他文化との交流が盛んであったということは、自分の文化の立場を主張する必要があったわけです。よって、英語を扱う人々は主張する人々であるわけです。
 この授業で学んだことは、英米と日本文化の差を明確に知りえたことであると私は思いました。この知識は将来、外国人と関係を持ったときに必ずや、思い出すに違いないと思います。

B我が国の英語教育への提言
 日本語と英語は別物の言語である。当たり前と笑われるかもしれませんが。宗教的なことを見てみれば多神教とキリスト教の違いになりましょう。日本人がキリスト教を完全には理解できないように、英米圏の人々にも日本人の宗教観、その他の考えを真から理解することは出来ないでしょう。これは洋書の小説を読めばすぐに理解できると思います。私は、今現在、ベストセラーになっているダヴィンチ・コードを読んで日本人ではキリスト教を理解できないということを痛感しました。多神教はすべての神を受け入れていくもの、キリスト教をはじめとする大陸起源の宗教は排他が基本です。宗教戦争がそれを如実に物語っています。本質が違うわけなのです。つまり、外国人には日本語を完璧に使えませんし、また逆に日本人が英語を完璧に使うのは不可能ではないかと考えます。それを日本人は理解したうえで英語を学ぶ必要があるでしょう。日本語と英語は完全に別物と。
 これからの英語教育はたしかに文法を覚えていくのも必要でしょう。単語力も必要です。ただ、その単語がどのようなイメージを持っているのかを知らなければ生きた英語とはならないです。つまり、実用的、生きた英語を学ばなければ意味がないと思います。また、それと同時に国語の授業が大切であるようにおもいます。英語を通じて、日本語、日本文化への疑問というものが多大に出てくるであろうと思います。英語を理解した上で日本語に戻り、日本語を通じて英語に向かう、この循環が目指す目標なのではないでしょうか。

・感想
 今まで受けてきた英語教育はただの文法の組み立て、単語の暗記に過ぎませんでした。しかし、山岸先生の授業は英語の深い意味を教えてくれるものでした。いままでは単純に考えていたものが実は間違っている、実はこの単語にはこのような意味が含まれているなど。英語というものの根底をいい意味で崩されました。英語って決して難しいものではないんですね。そのことをはじめて知りました。一年間新たな発見ばかりでとても楽しい、身になる先生の授業であったと思ってます。1年間ありがとうございました。(30209717 服部尚史)


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@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私が、高校までに受けた英語学習は、次のような特徴を持つものであった。
 まず、教材として、教科書、単語集またはイディオム集が与えられた。
 次に、内容としては、教科書を使う場合、@「音読」A「暗唱」B(これはAに含まれるが、)その文章に使用された単語やイディオムの「暗記」が主なものであった。また、単語帳・イディオム集を使用する場合は、それらの対訳を日英、英日両方向から変換できるように暗記することが、その内容であった。
 そして、それらの学習をする目的は、第一に、「受験」のためのものであった。
 私は、このような学習は、英語を学習するのは受験を突破するためだと考えた場合、もっとも効率的で望ましい方法だと思う。受験の英語では、その問題の形式からみて、いくら「理解」していても「暗記」なくしては得点できない。したがって「暗記」を積み重ねるこの方法は、受験のための英語学習方法としてはもっとも無駄のない方法だと確信できる。
 しかし、異なる言語というものは、単純に単語や熟語を置き換えていくだけで対処ができるものだろうか。たとえば、日本語の“つまらないものですが”を、単純に英語に“つまらないもの”“ですが”と置き換えていったとしても、その元の日本的意味合いは英語圏の人々に誤解なく伝わるだろうか。日本語の“つまらないものですが”という言葉は、日本の社会や文化が生み出した言葉である。そして、その相当語は英語にはないため、この場合、その日本的な意味合いは伝わらず、相手の外国人は妙な感じを受けるだろう。また、たとえば、日本語の“謙虚”という語は、英語の“modest”に訳されると学ぶが、この場合も、単純に置き換えてしまっては、こちらの言わんとする意味合いは正しく相手の外国人には伝わらないだろう。なぜなら、日本人である私たちは“謙虚”をプラスのイメージで使うのに対し、相手は“modest”をマイナスのイメージで受け取ってしまうからである。つまり、同じ“謙虚”であっても、日本語と英語のそれでは、同じではないのである。このように、言語はその背景に文化を背負っているため、理解しあうために言語を学ぶのなら、その背景を学ぶことは必須なのだといえる。したがって以上のような理由から、このような英語学習法は、「コミュニケーション」の側面からみると、好ましいものではないと思う。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 私が大学2年で受けた「英語V」は、次のような特徴を持つものであった。
 まず、教材としては、使用したものは教科書のみで、暗記の対象とする単語集やイディオムはなかった(教科書は、教授が自ら執筆なさったもの)。次に、内容としては、日英の言語の背景にある文化の「理解」と、それを前提として日本語を、それが持つ日本的意味合いが伝わるように英語に「翻訳」することが主なものであった。そして、それらの学習をする目的は、日英の両方の文化を深く理解し、英語文化圏の人々と対等にコミュニケーションができることを目指すものであった。
 わたしは、この“英語V”がこれまでの英語教育と特に異なっているといえる点は、英語を学ぶ際に、「言語と文化が不可分」であることをベースとして、「英語を学ぶためには英語の背景をなしている英語文化についての理解が必要だ」という視点がはっきりとしていて、授業内容がそれに限られていた、というところだと感じた。目的がはっきりしていて、その目的を達成するために必要な手段もはっきりしていたと思う。受験のためとはいっても、ひたすらやみくもに暗記を繰り返す授業とは異なって、毎回毎回が、進歩につなげようという意欲が出やすかったものだと思う。
 そして、その結果わたしは今までの英語学習では学ばなかった、まったく新しいことをこの「英語V」で学んだ。たとえば、まず、言語は、それの文化と不可分なものであること。またそれを前提に、上にあげた“つまらないものですが”の例や“謙虚・modest”の例も、この授業ではじめて知ったことだ。またそれらを含めた、日本文化・英語文化を生み出したそれぞれの風土や民族の背景、それぞれの言語文化の背景にある宗教などをはじめて意識をして学んだと思う。
 そして、それの反射的な効果として、私たち日本人とその文化について、自分たちに対する、より正しい認識を得たと思う。
 また、「将来」という視野からは、このような言語とその文化を知ることが必要だという視点や、その具体的な内容を学んだ経験は、英語圏に対するときだけではなく広く国際社会に触れるときの、「原点」を私の中につくってくれたと思う。

B まとめに代えて−わが国の英語教育への提言
 確かにこれまでの英語教育で重視されていた日本語と英語の置き換えを目的とする、「暗記」は、受験には必要な要素である。しかもそもそも、それは英語に限らず、他の言語を身につけようと思うときにも、絶対不可欠な要素である。
 しかし、以上に挙げてきたような、英語を学ぶ際に必ず必要である「その背景の文化、宗教への理解」、それに付随する「日本人とその文化への正しい自己認識」という点が、これまでの英語教育ではほぼ、まったく視野に入れていないといえると思う。
 そして、私たちが受験のために学ぶ単語・熟語のうち(特に熟語)には、私たちのコミュニケーションのレベルからいって、明らかに必要のない文語調の言葉や専門用語が含まれている、という事実がある。これらは、受験においての大学間の差別化のために、「英語教育」という目的を離れて必要とされているものにみえる。つまり、単語力が偏重されているようにみえる。私の経験からみても、本当に基本的な単語を知っているだけでも普通のコミュニケーションはできるものだと感じた。
 したがって、これからの英語教育は、「暗記」の要素を軽くすると同時に、正しくコミュニケーションができるための要素を含める方向へ向かうべきだと思う。
 日本人は、外国から「日本人は自己主張ができない」と批判される。その中で、国際社会の一員としての日本人は、「なぜ自分たちは、自己主張を好まないのか」「なぜ英語圏では自己主張がそんなにも必要とされるのか」といった、それぞれの背景としての文化・宗教という事実を、きちんと理解すべきだと思うからである。それは、互いの誤解を解くために必要な、鍵だと思う。30310432 原田洋平)


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@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私は、海外滞在をしていたということもあり、小学校2年生の時から英語という言語に触れ始めた。当時学んでいた英語は、あくまで会話を楽しむという目的のもとでのものだったので、あまり深いところまでは追求せず、英訳や和訳が「正しい」や「間違っている」という観点で勉強することはなかった。英語を学ぶ理由や意義を特に説明された記憶はないが、自分が大きくなるにつれて英語が「世界共通語」とされている事についての重要性に気づき自ら納得したのは事実である。
 中学生時は、都の公立中学だったので、基本的な文法中心の授業が行われた。和訳は、特別なイディオムやことわざ以外はほぼ直訳であったし、英訳も、その日本文の意味を大体の部分示すことが出来ていれば問題ないという感じであった。ただ、私が通っていた学習塾では、高校受験の対策として複雑化した文体の多い長文を読むことや、膨大な数の単語やイディオムを覚えさせられることがあったので「根本的に英語が理解できない」のではなく「覚えていないからできない」というパターンで苦労する方が多かった。高校生時も、教科書の長文読解が主で、中学の英語の授業と中身は違っているとしても方針はあまり変わっていないなという印象がある。

---日英の言語・文化の比較は行われたか
 同じ言葉でも、日本での意味と西洋での意味が異なるということは、何となく感覚的に理解できたものの、その違いをどう自分の持っている知識で埋めていくかということは真剣に考えたことがなかった。英語同士、例を挙げれば「地下鉄」という単語(アメリカではsubway、イギリスではtube)のように米英間での言い回しの違いというのは学ぶことが稀にあったが、日本と西洋の意味の違いを文化や歴史的背景から考察するといった授業や講義はあまりなかったと記憶している。

---英語辞書指導は行われたか
 辞書の使用法は、指導を受ける前から自分で引いたことが何回もあったので、そんなに真剣に聞いていなかったというのが正直なところである。辞書に載っている意味の捉え方も、文脈によって変化をつけるという工夫は行ったが、細かな違いは殆ど気にせず、大まかな違いのみを修正するという形で行った。英英辞典を使い始めたのは高校に入ってからで、この頃から英単語一つ一つのニュアンスの相違を意識し始めた。
 日本の英語教育方法は基本をしっかりと固めていくので、土台作りとしては非常に良い方法をとっているとは思うが、言語を一つの学識として捉えすぎたが故に、「人にどう伝えるか、伝わるか」という点を見落としがちではないだろうか。日本人が英語で物事を書いたり話したりして伝えるときの相手は、殆どの場合西洋人である。そこのところをもう少し考えて英語教育の形を作ったほうが良いのではというのが中学、高校と学んできた上での正直な感想である。

A「英語V」を受講して---この授業から学んだこと
 この授業の目的としては、日本人と西洋人の間にある英語の使い方や意味合いの違いを、文化的背景や歴史的背景を踏まえつつ考察していくだと思うのだが、これは自分の受けてきた10数年の英語教育の中では初めての試みだったので、最初は理解できない部分があり、多少戸惑った。今回履修したこの英語第Vの授業は「どう理解するか、言われていることをしっかりと理解しているか」ということよりも、それよりも一つ上の段階「(西洋人の)相手にどう理解してもらうか、英語でいかに日本人的な意味をうまく伝えるか」を重視している。よって簡単な日本語でも意外と英語での表現が難しい事が判ったり、(自分の中で)新しいニュアンスを含む単語や熟語を発見したりと学ぶべき事柄が多かった。英語は英語でも新しい学習方法だと感じた。
 日本には日本独自の文化、西洋には西洋独自の文化が存在する。その文化によって言葉の一つ一つに含まれるニュアンスもかなり異なってくる。その例として授業ではbusinesslikeという単語をその一つとして取り上げた。

@She’s a businesslike person.

 Businesslikeという単語を辞典で引いてみると、「事務(能率)的な、てきぱきした、几帳面な」とあり、日本人の言う「ビジネスライク」の様に「冷たい」という含みはない。もし、この違いを認識していなかった日本人が@西洋人に伝えたとしても、うまくは伝わらないだろう。言葉というのは、自分の考えや意見を表現する手段であるので、内容が変わってしまってはいけない。では、どうすれば良いのだろうか。この日本人の言いたい「冷たい」という意味の言葉は「想像力に欠ける、無味乾燥な」という意味のtoo [overly] practicalという表現が適切である。

 AShe's (a bit) too practical./ She's an overly businesslike person.

 Aの表現がこの場合は最も適切と言えるのではないだろうか。
 この他にも、individualという単語の様に、「英米では社会集団は(個人)という核が集まって構成されたものであり、集団よりも個人に重点が置かれるという考え方が一般的なのに対して、日本では社会集団としての論理や権利が(個人)のそれらに優先する傾向が強く、個人が社会内に取り込まれているのが一般的である。」ということがある。確かに、普段の日常生活の中で物事を決める時は無意識の内に多数決という形式をとっている気もしなくはない。このように、社会的背景から単語の意味合いが変わる事を新たに学んだ。
 また、前の二例のように単語一つの意味で、文章の意味が食い違ってしまうパターンとは違い、一見文法的にも意味的にも全く問題ないように見えて実は肝心なところに、英米と日本間での文化的相違から英米人にはうまく伝わらない場合もある。それを表しているのが次の文である。

 BIt’s fall indeed. I have a good appetite.

上の文章は「さすが秋だね。食欲がわくよ。」という何の変哲もない日本文をただ英訳しただけである。日本には「食欲の秋」という言葉があるくらい、秋と食欲の関係の深さが文化として根付いているが、この関係を知らない外国人がBの英語を聞いたとしても理解するのは困難であろう。もしかすると、「日本人は秋以外の季節には食欲はわかないのだろうか。」と不思議がる人もいるかも知れない。日本には存在しても外国には存在しない文化があることを忘れてしまうと、相手には伝えられないどころか疑問を浮かばせてしまうことになり、あまりいい事とはいえないであろう。

B まとめに代えて−わが国の英語教育への提言
 今日まで私達が受けていた英語教育は、「英語を学ぶ」という一つの事柄に固執しすぎて、「英語文化圏内の人々の中にある文化の社会的、歴史的背景を学ぶ」ことを忘れているのではないだろうか。確かに、文法が理解出来ていないと会話にも困るであろうし、ましてや日本には「受験」というものがあるのだから、文法を学ぶことは必要不可欠である。しかしながら、なぜ日本人はこれだけの教育下にありながら英語を話せる人は少ないのか。それは「英語を話す機会がない」というのもあるだろうし、その前に「自分達が英語で外国人と対話した時に、相手にはどう伝わっているのか」を理解していないからであろう。せっかく良いボキャブラリーと文法の知識を持っているのに、相手方の文化を理解していなかったが故に、うまく自分の考えなり意見なりを伝えることが出来なかったら非常にもったいないと私は思う。
 私のこれからの英語教育に対する意見を述べると、「英語」という授業そのものを「文法部門」と「会話や文化学習部門」とに分け、「学識」として学ぶ英語と「言葉」として学ぶ英語をしっかりと区別すべきである。その為に、これは私が中学生の時からあったが、外国人講師を派遣しての「生の英語」に触れる授業を積極的に行い、英米文化の理解の促進に教育する側が努めるべきである。
 今年一年間この講義で学んだ事は、自分の中にある英語に対する印象を大きく変えたと言うことが出来るだろう。今後の自分の人生においてこの知識が少しでも役に立てば良いなと思う。山岸勝栄先生にはこの場を借りて感謝の意を表したい。
 一年間有難うございました。(30358101 谷口慎太郎)


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@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私は中学1年生から英語を学習し始め、長い間英語とふれあってきた。もっとも、その英語とのふれあいは学校の英語教育のなかでなされたのだが、私は中高ともに県内の公立校に通っていたので私の受けた英語教育は日本の英語教育の典型例であるといえると思う。そこで、今まで私が受けた英語教育について述べたいと思う。
 中学に入るとまず簡単な英語を勉強し、それを用いてゲームや外国人の先生と会話を楽しむといったことが中心で、同級生はみんな英語の時間が好きだと言っていたのを覚えている。しかし、扱う英語のレベルが高くなってくるとそういった英語遊びの時間も減り、英語好きの生徒がめっきり減ってきた。今考えてみると、教える側の「英語を嫌いにさせないために生徒を楽しませよう」とする工夫が表面上の楽しさのみを追求していたのではないかと疑問である。
 また、中学・高校を通してもなぜ英語を学ぶ必要性があるのかという説明はされなかったし、英語の本質的なおもしろさは教えられなかった。私の方も英語を学ぶというのは当然のことで理由などは深く考えず、高校や大学に入るときの入試科目であるから「とりあえず大学に入るまでは英語をしっかり勉強しなくては」くらいにしか思ってなかった。特に高校のときはその考えが顕著であったように思う。私の英語は、完全に大学合格という目的を達成するための手段になっていた。高校の授業も文法や構文中心のものであったし、私もそういう授業のほうがためになると考えていた。学校指定の参考書は「英語頻出問題総演習    即戦ゼミ」(桐原書店)や「ターゲット」(旺文社)で、これを使って必死でイディオムや単語を覚え、英語が出てくると反射的に意味がでてくることを目指すという一語一意味主義的な勉強をしていた。辞書は先生が「ジーニアス」を薦めていたので私もそれを使っていた。
 このように、私は中学と高校で、英語から日本語へ変換する作業である「読むこと」、日本語から英語に変換する作業である「書くこと」を中心に勉強した。この読み書き英語を聞き取り、話せるようになったときが英語圏の人たちと話すことができるようになったときであり、英語をマスターしたといえるときなのだと考えていた。これが私の受けた英語教育である。

A「英語V」を受講して---この授業から学んだこと
 山岸先生はこの授業の第1回目のときに言葉の背景にあるイメージというものを「風」という単語を使って説明してくださった。「風薫る」、「神風」といったように日本人は「風」という言葉に対してよいイメージを持っているが、英語の「wind」にはそのようなイメージはほとんど含まれていないということだった。最初は「なるほどそういうものなのか」、「そういう視点から英語を考えるということもでるのだな」ということくらいしか考えていなかったが、後に山岸先生の言葉の意味が少しずつわかってきた。
 例えば、我々日本人は日常で「いろいろ親切にしてくれてありがとう」などと言う。これを訳すと“Thank you very much for your kindnesses to me.”となる。親切というと我々はkindnessという単語を反射的に連想する。しかし、この単語に英語圏の人はよそよそしさを感じる(ことが少なくない)のである。これはお互いに自分の気持ちを伝達する過程で誤解を生じてしまっていることになる。私たちがこれまで学んできた英語は、その語のうちに秘めた意味をほとんど意識していない。しかも、そのことをわたしたち日本人は全くといって言いほど気付いていない。私も山岸先生がそう教えてくださるまではそんな問題があるなんて知るよしもなかった。これは非常に深刻な問題である。このような問題点を知らずに身につけた英語を自信満々に話して外国人に誤解を与えている状況を想像すると、英語など学ばずに通訳でも雇ったほうがいいのではないだろうかとさえ思えてくる。わたしたちの英語には不充分な点が多くあり、高校までに学んだ英語は英語圏で話されている血の通った英語ではなかったのである。
 この授業を通してたくさんのことを学んだが、一言にそれを集約すると「言語を学ぶには、その背後にある文化を学ぶ必要がある。」ということである。まず、日本語について知ろうとするなら、まず日本語を育んだ日本の風土、日本人がどのような生活を営んできたか、そこから日本人はどういう国民性をもつようになったかについて知ることが不可欠であるのだ。他方、英語を学ぼうとするのなら英語を育んだ風土やキリスト教について学ぶことがやはり不可欠であるということだ。
 このようなことを英語の授業で学ぶとは想像もできなかったが、私は山岸先生の授業を受講して、日本の文化や他国の文化に対する見方も変わってきた。例えば、英語圏の人々が血液型を日本人ほど気にしないということも、彼らなりの考え方を知ったうえで理解できた。また、欧米人から、日本人は自己主張せずはっきりしない国民だと言われていると初めて知ったとき、私は「日本人は情けない国民だ」と考えた。しかし、今は違う。日本人が共同生活のなかで築きあげてきた文化を踏まえて、日本人のそういったところを日本人の美徳とも感じられるようになった。このように、現在日本と外国の間に生じている問題を考えるときに、両国の文化から考えるという視点を持てるようになった。これは、英語Vを受講した成果として自分の将来に一番役立つことではないかと思う。また、この授業で日本人について考えるなかで日本人が非常に好きになれた。これはこの授業を受講して一番よかった点ではないか思う。

B まとめに代えて−わが国の英語教育への提言
 以上に述べたように、これまでの英語教育は英語の形式のみを正しくしようとして、英語の中身にはまったく注目してこなかったように思う。現在日本で教えられている英語が英語圏では実際に使用されない用法であったり、古典的な言い回しであったりする。これは現在多く用いられている辞書が正確な意味を表示しておらず、それらの辞書を信じて我々が誤った英語を正しいと勘違いして学んでいるためである。我々はもっとよい辞書を使って英語を勉強していかなければならない。
 辞書だけでなく、山岸先生は日本の大学入試に問題があるとおっしゃっていたが、私もその意見に賛成する。日本の大学はアメリカなどとちがって入学するには厳しい入試を突破しなくてはならない。できるだけ学生をふるい落とすために減点方式の試験を実施するので、受験生が減点をおそれ、のびのびした英語を学習できていない。高校までの英語がとりあえず減点されないようにするという形式上正しい英語を学ぶことのみに特化しすぎてしまったのだ。
 私はこの英語教育をよりよいベクトルに修正するためには、大学入試の出題傾向を変えることが一番の近道ではないかと思う。小論文のような形式の問題を出し、受験生側が自由に論述するという問題に変えてみてはどうだろうか。すなわち、その論述をみて受験生がどれだけ自分の主張したいことを英語で表現できているかで採点するのである。これまでの英語教育は、大学側が出題する問題が中身の伴っていないものであり、参考書や高校も「通用する英語」ではなく「受かる英語」を至上のものとしてきた。そして、大学入試も高校教育や参考書の影響で、さらにその傾向が顕著になっていく。このような従来のシステムを大学から変えていくのである。そうすることによって、日本の中学・高校の英語教育は英語の中身を重視する教育に変わっていけると思う。
 また、以前の日本は欧米に追いつけ追い越せと必死で教育水準を向上させてきた。しかし、教育水準が世界トップレベルに達すると、教育の目標を見失い、なんのために教育がなされているのかがわからなくなってきているように思う。そこで、現在生じている問題を解決するために、教育がなされているという原点に戻り、問題解決能力を高める必要性がでてきている。その能力を試すのに小論文は非常に適していると思われる。このような点においても、大学入試の出題傾向を変えるメリットはあるのだ。
 さらに、中学・高校の英語の英語教育に日本と英語圏の文化を比較することを盛り込むことも必要であると思う。前述したように言語と文化は不可分であるからだ。それに、文化を学ぶことは国際社会に存在する問題を理解する上でも役に立つ。例えば、北朝鮮が引き渡した横田めぐみさんの遺骨が本人のものでなかった問題について、日本と北朝鮮の遺留品に対する考え方のちがいについて理解しなければこの問題を理解したとはいえない。よって、英語を学ぶ際にも英語の文化を学ぶことを早い段階から取り入れていくきだと思う。それができなければ本当の意味の国際協調は難しいだろう。
 しかし、そうすることによって自国の文化や日本語を学ぶことがおろそかになってはいけない。外国の文化を学ぶことには自国の文化についてしっかりと理解していなければならないからだ。それに英語を学ぶといっても英語はやはり外国語でしかないのであって、英語がいくら流暢に話せるようになっても母国語である日本語を理解していなければ真の国際人にはなれない。いくら国際人とはいっても、その前に我々は日本人であるのであって、日本語や日本文化から離れることはできない。したがって、英語教育を向上させるには日本についてもっと知っていかねばならないのである。(30361698 的場健祐)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私は英語が嫌いです。そして苦手です。英語教育が始まった中学から高校、そして大学生になった今でもそれは変わりません。では、なぜ苦手なのか、それは英語という教科が嫌いなため、学習してこなかったからです。では、なぜ嫌いなのか、それは私自身が英語を学ぶ理由をきちんと納得していなかったからだと思います。
 私はこれまで中高と、授業において英語を学ぶ理由・意義をきちんと説明されたことはありませんでした。ただ、漠然となされる、これからは国際化社会だから世界の国々で話されている英語くらいできなくてはダメ、受験に出るのだから覚えなさい、などといった説明を私も漠然と受け止めていました。しかし、受け止めていたとはいっても、自分は日本から出る気ないし、そしてなにより日本人だし、英語なんて日本語が話せればいらないだろうとずっと思っていました。そのため、自主的に学ぶという姿勢ではなく、押し付けられた分だけをこなすという感じのパッシブな英語教育を受けてきたと思います。
 授業内容に関していうならば、中学時代は教科書に沿って、発音したり、出てくる単語を覚えたりでした。言語・文化の比較などはほとんど行われず、辞書指導もなかったと思います。高校時代も、ほとんど同じで、12年生はreadinggrammarの授業があり、readingでは、長文を精読していき、出てきた単語や熟語、慣用表現、構文を暗記するといった作業で、grammarの授業では、教科書に沿い、単元ごとに出てくる文法事項を把握するといった作業が中心でした。3年生になっても、あまり内容は変わらず、長文の精読、それに加えて、大学受験の過去問を解いたり、英訳の練習をしたりといったことが中心でした。高校時代は月に1回程度、ALTのアメリカの方が来ましたが、アメリカの大衆文化を英語でちょこちょこっと説明するだけで、言語・文化の比較などはほとんど行われませんでした。高校自体が受験校だったので、大学受験がかなり意識された内容だったと思います。
 高校まで受けてきた英語教育についてよい点をあげるとするならば、単語や文法や構文などの基礎が、きちんとした手順で学べ、そしてしっかり身につくということだと思います。英語を学習していく上で、そして、受験においては基礎的な構文や語彙を暗記しておくということは不可欠で重要なことです。
 好ましくない点をあげるとすれば、まず、学習において一番重要だと思われる、学習意欲がわかないということです。これまでの受動的な学習は、私にとってはとても苦痛なことでした。だから、英語が嫌いになり、学習をなおざりにして、苦手科目にしてしまいました。次に、英語で何かを表現するという学習も重視されませんでした。これまでのパッシブな授業では、常に与えられたものをこなすという作業でしたから、英語で表現をするという機会がほとんどありませんでした。そのため、いざ外国人を前にしたり、いざ何かを英語で書こうと思っても、なかなか言葉が出てこなかったり、相手に対して思っていることがうまく伝わらなかったりした経験があります。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 私は山岸先生の授業を受けて、言語と文化の不可分性という、言葉にとって最も基本的でそして最も重要なことを学びました。同じ対象を指し示す単語なのに、そこから受ける印象は、それぞれの国の文化によって違い、使い方を間違えれば、大変なことになってしまうということ。言語・文化の比較を、今までの授業で、ほとんど学ばなかったため、目からうろこでした。言語を学ぶということは、自国の文化的背景、そして相手の国の文化的背景を正しく理解することだということに私は初めて気づかされました。
 外国人の質問の授業では、自国の文化なのに説明できないことが多々あって、英語が話せなくてよかったと思う反面、自国の文化、及び、それを正しく理解するということの重要性を痛感しました。そしてその中で、英語というものは、日本という国を、また、自分の主張を、英語圏の人々に対して、正しく伝えていくためのツールの一つなのだということを学びました。また、そう考えることで、私の中で英語を学ぶということに価値を見出せたと思います。そして、大切なことは自分の考えを英語圏の人々に正しく伝えるということだと教わったときに、私は自分がそこまで英語に対して嫌悪を抱く必要はないのだと思いました。
 童話や演歌を英訳する授業は、日本の文化的背景から創出されたものを英語圏の人たちにも正しく理解できるようにするという、実践的な、とてもおもしろい授業でした。この授業では、使う単語の印象について、かたい表現や、くだけた表現など、また、今まで暗記してきたイディオムが、実は昔の表現で、現代英語では全く使われないという事実など、今までの授業では全く教わらなかったことを学びました。
 山岸先生の授業を受けたことで、私は上記のようなたくさんのことを学びました。きっと、この授業でなければ、一生学ばなかったであろう事柄がたくさんあると思います。特に、私の英語に対する姿勢は、この授業を受講したからこそ、変わりえたことだと思います。日本の文化を誇りにもつという、当然のように思っていたことでも、実は意識してみると、私自身まったく自己の文化について知らなかったということに気づかされました。それ以前に、この授業を受けなければ、今まで自分が受けてきた日本の英語教育のことについて、振り返って考えることなんてしなかったでしょう。

B まとめに代えて―我が国の英語教育についての提言
 私がこれまで受けてきた英語教育に欠けていたと思うことは大まかにいって、2つあります。
 まず、1つめは、英語を学ぶということの意義・理由の不明瞭です。これは学習において最も基本的なことで、そして、最も重要なことです。いうなれば学習の根幹です。私自身これがはっきりしていなかったため、英語というものを好きになれず、学ぶことをなおざりにし、苦手科目としてきました。これは、自分自身で見つけていくべきことなのかもしれませんが、かつての私のように、英語なんて必要ないと考えて、完結している輩たちは、ある程度、手引きをされないと、英語に対して意欲など全く湧かないと思います。
 2つめは、言語・文化の比較です。この授業で学んだことは、今までの英語教育にないものでした。言語・文化の比較を行うことで、英語そして、日本語それぞれの言語のもつ奥深さ、広がりが理解でき、そしてなによりそこには学ぶ楽しさが存在すると思います。
 ある程度の暗記、詰め込み教育は必要不可欠な、そしてとても重要なことだと思います。そして、中高の最も吸収力のある時期に、それをやることの意義は充分理解できます。しかし、それだけではなく、「学ぶ」ということに対しての創意工夫が盛り込まれた授業が展開されてほしいと私は思います。そして、私のように英語嫌いで、しかもできない人間たちの味わう苦労が、早くこの日本から消えてなくなることを望みます。(30358926 中野健佑)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私は中高一貫で大学の付属校である学校に通っていたので、英語教育に関しては一般の受験校よりも恵まれていたと思います。オーラルコミュニケーションも重視されており、中学のときは文法はあまり習わずに英語圏で英語がネイティブではない子供たちに対する英語教育の教材である教科書を使ったりしていました。ダイアログや読み物中心の教科書だったので、文法から習うよりも英語に楽しく接することができました。簡単ではありましたが、4年間オーラルコミュニケーションの授業を受けた成果は確実で受験のときのリスニング対策にはまわりもみんなあまり苦労していなかったようです。この点では、私が受けてきた英語教育は英語に対する苦手意識を持たないようにすることや簡単な会話が聞き取れることに関しては配慮がなされていたと言っていいと思います。しかし、逆に基礎的な文法を問題集などでこつこつ勉強することをしなかったため受験の時には非常に苦労しました。特にイディオムや時制に弱く、英作文は苦手でした。ドレミがわからないと音楽が楽しめないように、基礎的な文法がわからないとそれから先のことも滞ってしまうので、英語力を伸ばすという点ではもう少し文法と会話のバランスを考えてほしかったと思っています。
 また、英語を学ぶ理由などについては通り一遍の「これから国際社会に出て行くためには英語が不可欠だから」というような説明しかなされなかったように思います。日本と日本語が大好きな私にとっては、自分の母語である日本語で思いを伝えたいという気持ちは強かったのですが、英語を話す人口やアメリカの権力を考えると仕方ないのかなという感じでした。日英の言語・文化の比較に関しては、表層的なものにとどまっており、裏打ちしているキリスト教文化や多民族国家などの背景についてまでは説明されませんでした。日本語と論理の組み立て方も思考の方向性も違う英語圏の人を私はあまり好きにはなれませんでしたが、もし文化背景を同時に説明されていたらもっと早くから欧米人の考え方を理解しようと思ったと思います。この授業でそれを知って、「価値観の違い」と片付けてしまっていた自分がとても勿体無かったと反省しました。
 辞書に関しては、和英はあまり引かないように薦められた記憶があります。おそらく山岸先生のおっしゃるようにスピーチレベルやニュアンスが違う言葉がのっている和英が多いことから学校の先生もそういうことを言ったのでしょうが、中学時分に英語をなんとかしゃべってみたいという好奇心が和英をひくなと言われたことで半減してしまったのは事実です。そのころ『ニューアンカー和英辞典』に出会っていたら、私はもっといろいろな日本語を英語に置き換えて遊び感覚で楽しんでいたと思います。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業は、過去の英語のどの授業とも全く異なるものでした。「英語」の授業ではなく「文化比較」の一般教養科目を受講しているような感覚でした。大学1年次の授業も基本的には高校までのそれと大きな変化はなく、単語を調べて
TOEICのテキストを読んで…という感じでした。しかし、二コマあった英語の授業のうちの一つは英語の簡単なビデオを見てその中からuseful expressionを習うというもので、それまでの「英作文を書くときはなるべく点を引かれない簡単で汎用性のある表現を使うべき」という考えを否定されてショックでした。考えてみると日本語だけが豊かな表現を持っているわけはなく英語にもその時々の状況を的確に表す表現がたくさんあるはずなのに、今までそのことに全く留意していなかったことに気付きました。日本語に置き換えて考えてみると、そんな風にいつもぼやけた明確ではない同じ表現ばかり使っていても知識も増えないし面白くもないことは明確でした。2年になってこの「英語V」の授業を受けて、その思いはさらに強くなりました。今までたくさん表現を覚えるのは面倒くさいとしか思えませんでしたが、これからは自分の思っていることをできるだけ正確に言語で相手に伝えるという思いで英語を勉強していこうと思うようになりました。
 また、この授業で扱った「外国人の疑問」を通しての日本文化の理解が自分にとって非常にプラスになりました。英語圏の、特にアメリカなどの合理的で個人主義的な考え方がもてはやされている現代、日本的なあいまいさや謙虚さが否定されかねない風潮で、それに対しておもしろくない思いをずっと抱いていました。この授業を受講して、自分の精神の奥底にある行動原理に説明をつけることができ、なんだかとても自分を肯定された気がして感動してしまいました。欧米の考え方を理解しながらも自分は日本人でこういう行動原理に従って行動しているんだと胸を張って言えるようになりました。特にキリスト教の精神と物の考え方のリンクにはいちいち頷かされるものがありました。中・高とプロテスタントの学校に通っていたため若干ですが聖書の知識があり、山岸先生の話してくださることを聞いて、これまで良く分からなかった聖書も理解できるようになり非常に勉強になりました。これからの将来、自分と全く意見が違ったり話が通じなかったりする人に出会っても、つっぱねないでまずその人を理解していくことを大切にしていきたいと思うようになりました。


B まとめに代えて―我が国の英語教育についての提言
 これまでの英語教育に欠けていたものは、先生もおっしゃっていたように英語を言語として見ることだと思います。もっと英語を学校の科目としてではなく言語として見るような教育をすれば、みんな英語に興味を抱くと思います。そのためにはテキストからではなく日常使われるフレーズから入り、そのとき同時に文化なども教えていけば英語圏の人のことが身近に感じられるようになると思います。しかし、私は今までの英語教育を否定はしません。先述したように基礎的な単語や文法がわかっていなければその先の理解も難しいのではと思います。これまでの英語教育は偏ってそればかりをやっていたことに問題があると思います。この授業のような英語や英文化に関する知識を深める授業といままでのような文法教育を平行していくことで、英語はもっと効率的に学べると思います。特にこの授業でやった歌や童話の英訳などは、意味やニュアンスをなんとかして英語で伝えようとするために日本語の理解も深くなり、国語力も上がって非常に良いと思いました。それになんと言っても無機質な和文英訳をやっているよりもずっと興味がそそられます。生きた英語を学ぶための題材は生きた日本語であるべきだと思います。
 また、小学校の英語教育に関しては私は賛成です。自分が小学校から英語教育を受けていて役立ったというのも一因ですが、細かい文法事項や単語のスペリングなどではなくゲームや会話や視覚教材などで英語に関する好奇心を刺激することは小さい子には非常に効果的だと思います。小さいころから英語に接して自然と英語に触れている状況を作ってあげれば、英語嫌いは半減するのではないでしょうか。
 最後になりましたが、これからの英語教育は、欧米のことを理解しつつも日本の良さと日本人の考え方も肯定していくような方向性で進めていってもらいたいです。近年愛国心がないということがよく言われています。愛国心を養うために大切なのは教科書を書き換えることも一つの手かもしれませんが、それよりも日本人の欧米の考え方に対する劣等感をぬぐいさることが先決だと思います。情報が複雑に入り組み、システム化・マニュアル化しないと理解が難しくなっている社会で、世界のトップを走るアメリカの合理的な考え方が幅をきかせるのは致し方ない面もあるでしょう。しかしそれを全面的に受け入れてしまって、日本人の考え方や行動は欧米の合理主義にはかなわないと思い、敗北感を持って英語を勉強するのは日本人としての誇りを失うことになってしまいます。自国を愛せないことほど悲しいことはないと思います。今後はぜひ、日本を大切にしつつ英語を理解していくような教育を望みます。
 
  追伸:最後に

山岸先生、今年一年間本当にありがとうございました。慶應に先生のゼミがないのが非常に残念です。先生の授業は毎回面白くて興味深くて、一年間を通して毎回新たな発見がありました。先生に教わったことは英語や文化だけではなく、これから生きていくうえで人とどのように接していくかという人生の指針のようなものも教えていただきました。これからもこの授業をぜひ続けていっていただいて、たくさんの学生にこの感動を味わってもらいたいです。最後になりましたが、これからもいっそうのご活躍を心から願っております。お体にお気をつけください。(30353033 嘉手川 育子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語教育を受け始めた時期は周囲の友人たちより多少なりとも早かったと思う。小学校入学と同時に、英会話スクールに週1回のペースで通わせてもらっていた。当時の教材などを見ると、懐かしさ、ほほえましさで思わず顔がほころんでしまう。幅広の罫線が引かれたノートに一生懸命アルファベットや名前の練習をしてある。しかし授業時間に鉛筆を持つことはほとんど無く、ロールプレイやゲーム、自己紹介などの会話中心であった。
 それとは対照的であったのが小学校での英語だった。私立の学校に通っていたこともあり、授業時間として英語の時間が設けられていた。先生と生徒の人数比が違いすぎることもあるだろうが、口よりは右手のほうをよく使った授業であった記憶がある。高学年になると1日ノート1ページのノルマで英単語の練習が毎日の宿題として課された。日曜日:Sunday, Sunday, Sunday,…。小学生に考え付く一通りの英単語を書きつくした後、新たな単語のネタにするために子供向け英語百科事典のようなものを買ってもらった。カラフルな挿絵の一つ一つに英単語と日本語が添えられていた。これが子供心にとても面白いもので、例えばcolorのページでは、greenには日本での「春」「生命力」といったイメージとは違い、「未熟さ」というイメージがある、同様にblueには「わいせつさ」、brownは「ランチを入れる紙製の袋」をイメージさせる、こういった話が様々載っているのだった。このような文化差に感心しているうちに、ノートが白いことに気付き焦って宿題を始めたりした。学校では習わないことだった。そしてそれ以降にも。
 中学生になると、いわゆる「日本の英語教育」が本格的に始まった。教科書を読み、一律に購入した辞書を使って(友人の一人が自分の持っている辞書を使いたいと先生に申し出たが渋られていた。辞書のページ数を指示する際に面倒になるからだそうだ)日本語訳をし、下線を引かれた英文の言い換えをし…。中高一貫校だったため、大学受験において高い配点のなされる英語には最初から力が入っていたように思う。高校3年になると毎日1時間以上は英語の授業があった。それに昼休み、放課後を使って開設された特別授業を含めると相当時間を割いていたことに改めて感心する。そういえば、学校で塾で、たくさんの先生がたに教えていただいたのでどなたの言葉かは忘れてしまったが、「英作文は英借文だ」という言葉が強烈に記憶に残っている。採点官に減点をされないためには、正しい英文を覚えてしまい、それを上手につなぎ合わせて英文を作り上げろ、という意味である。ピースが揃わなくてはパズルはできない。持ち駒が多いほうが有利になるにきまっている。熟語も慣用表現も知らなくては使えないのだから、大学受験はそれらを徹底的に覚えるよい機会になったと思っている。しかし、少し寂しい響きのする格言ではある。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 「英借文」で受験戦争を乗り越えた私は晴れて大学生となった。国際交流サークルに入り、海外から招待した学生に対し年に2回、日本文化を紹介している。実際に同年代の彼らと会話する中で強く実感したことは、日本人の英会話力の低さ、そして彼らの日本への質問になかなか上手な返答をしてあげられない自分への歯がゆさである。そうした気持ちを抱えながら2年生次における英語の授業選択時期になった。シラバスを見てすぐに思った。この授業が最も私が求めているものを与えてくれそうだった。すぐに先生のお名前のところにペンで大きく○をつけた。

 4月、授業が始まって、まず文法上の軽微なミスをあげつらわれないことに驚いた。文法上正確な英文をつづることができるに越したことはない。しかし先生はあえてミスを追及するのは避けてみせることで、どういう風に英文をつづるかではなく、何を言いたいのか、何を伝えようとしているのか、そしてそれが相手に正確に伝わっているか、理解してもらえたかまで考慮することを求める姿勢を示された。今までの、採点官に自分の勉強量をひけらかすような英文ではとても先生にはお見せできないと思った。初めての課題に取り組むときには、図書館で数々の文献にあたった。黒板四分の一にしか満たない英文を書くために図書館へと足を運んだのは初めてだったが、これが伝えるために英文を書くということなのだ、と実感した。
 文部科学省も“ゆとり教育”で、こういう教育をさせたかったのではないだろうか。受験という無機質なもののための英語ではなく、文化や精神的土壌に裏打ちされた英語教育を。この授業において、私たち学生は自らの、そして欧米の文化にまで掘り下げて物事を考えるように求められる。同一文化をもつ人間同士の暗黙の了解が得られない状態で、正確に物事を伝えるための訓練である。これが非常に難しいことだった。今まで外国文学がヒットを飛ばすと、その作者のみならず翻訳者までもが称えられる意味が分からなかったが、異文化における感動を自国に伝える、それはどんなに骨の折れることだろうか。このようなことを心に留めつつテレビを見ていると、1つ気付いたことがあった。あのジェンキンス氏が杖にすがり、背中を丸めてカメラの前に現れたことがあった。初めて日本の地を踏んだ時の、割と矍鑠とした彼の姿が数日で一変したことをうけて、演技が過ぎる、という口さがない批判も聞かれたが私はそれに同調する気にはなれなかった。日本で重責を負ったときに痛むのは肩である。肩がこった、そう人に言われたらその痛みにというより、その人の肩をこらせた何かしらの気苦労に対し、日本人はねぎらいの言葉をかける。対して欧米にはhave a stiff backという言葉がある。これが肩こりに対応する言葉であり、彼らが痛むのは肩ではなく背中なのである。ジェンキンス氏が異国の地で受けたとてつもない苦労が、彼の背中に現れている気がしたのだ。
 また、これは英語の話ではないが、中国にはさまざまな怒りを表す言葉が存在する。嗔、忿、怒…このような言葉に表れた中国の怒りの文化を知ると、戦争中の日本への対応をめぐる彼らの行動も頷ける。ただ、私は文化の差異を全ての物事の解答として納得してしまうことには反対である。異文化同士が接触する場での摩擦、たとえば国際問題への平和的解決には各国代表者同士の協議そして歩み寄りが必要だが、なにより各国民レベルでの相手への理解が求められるだろう。この授業で学んだことを生かして、私はどのような職業につこうと、一市民として自覚をもって生きてゆきたいと考えている。

B まとめに代えて―我が国の英語教育についての提言
 私たちが受けている英語教育は、表面的で無難な英語をとりあえず皆が話せるように、といった念が強いように思われる。しかしそれでは海外から借りてきた言葉を使用させてもらっているに過ぎない。私たちが話すべきは日本人が話す英語、つまり自国文化を理解したうえでそれを相手に伝えるために話す英語である。悲しいかな私たちの想像力には限界があるうえ、島国で単一民族のみで暮らしてきた私たちには、異文化からの視点を自分たちに取り込むことは難しい。結局生身の人間と接して、交流するなかででしかそれは実感できないものだろう。そこでもっと異文化の中で育った人たちとの接触機会を与えうる教育を求める。外国人教師を増やすのはもちろん、彼らには一教員として学校行事に参加してもらい(私の卒業した学校では、外国人教師は非常勤講師として授業時間だけ学校に来ていた)日々の生活の中で生徒が自然と異文化に触れられるようにする。留学生、帰国子女を積極的に受け入れる。そして社会制度にまで言及するならば、2期制、セメスター制を導入するなど留学のしやすい状況を整えたい。
 中学では高校のため、高校では大学のために英語を勉強してきた。では大学では何のために学ぶのだろうか?就職、昇進のためだろうか。それも時には必要だろう。しかし私は、今、目の前にいる相手に何かを伝えるための英語を学びたいのだ。(30358547 戸泉まどか)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 今回のレポートのテーマである我が国、日本の英語教育を考える上で、まずは私自身が高校まで受けてきた英語学習を振り返りたいと思う。私は、中学1年生になるまで、英語というものを習ったことはなく、ABCというアルファベットさえまともに言えなかった。唯一たまに触れる英語と言えば、その当時流行っていた歌謡曲の中にある英語の歌詞の部分で、意味も解らず口ずさんでいたことを覚えている。そんな私が入った中学校は、中高一貫で、いわゆる受験校と呼ばれる学校だった。しかも、プロテスタントであったために、英語には大変力を入れており、帰国子女が一学年のうち4分の1をも占めていた。私が1年の時に入ったクラスは、半分が帰国子女で構成されているクラスだった。また、帰国子女でなくても、その当時くらいから英語は幼児の頃から少しやっていて当然という風潮が出来始めていたため、大抵の子が英語の知識は最低限持っていた。そんな中に放り込まれた私は、本当にカルチャーショックを受けた。少しでもみんなに追いつきたい、という一心で英語をやり始めた。そして今から思うと、この時から英語を競争するための道具として使い始めたのだと思う。そんなこんなで、英語は中学に入ったら当然にやるものであり、先生も「これから世界に出ていくあなた達には必ず必要になるもの」、と言うので、世界に出ていくことなんか考えられなかったが、「そんなものかなぁ」などと考えながら当たり前のように授業に臨んでいた。特に疑問を抱くわけでもなく、納得もしたわけではなかった。しかし、学年が進んでいくうちに、英語は競争の道具であることを知り、そのうちに世界に出ていくために必要なのではなく、大学受験をするために必要であることを知る。
 ところで授業はどのようなものであったかというと、学年が下の頃には、先生もまず生徒に英語に興味を持たせようと考えていたのか、ゲーム的なもので単語をやったり、外国人の先生とのコミュニケーションの時間があったりした。そのため、机にがっちりかじりついて英語をやっているという感じではなかった。しかし、高校生になるとその環境は一転する。まずは、外国人の先生との授業がなくなった。その分、文法や英文解釈の授業時間を増やし、テストも多くなり、毎時間ひたすら単語などの試験に追いまくられるようになる。また、中学生の時には外国人の先生との授業があったために、日本とは違う文化にも触れることができた。例えば、外国人はお正月よりもクリスマスを大事にしていたり、ハロウィーンなどの行事があることも私はここで知った。ところが、やはり高校になると大学受験準備のための勉強が始まるので、とりあえず知識を詰め込むだけで、そんな日米英の文化の比較などしている余裕がなかった。そのため、アメリカやイギリスなどの話は専ら帰国子女の友達に聞き、そんな友達の方が世界を知っているようで、羨ましかった。そして、そんな受験勉強一辺倒のいわゆる日本英語ばかりやっていたため、納得できないこともたくさん出てきた。その一つが、辞書の引き方である。当然、受験英語にも英作文は欠かせない。そこで和英辞書などで分からない単語を引いて英文を作ろうとする。しかし、一つの言葉を引いても、それに当たる英単語が7、8個出てくるのが通常であった。どれを使えばいいのか分からないので、とりあえず一番上にある単語が代表的なものであるのかと思い、使ってみる。しかし、その英作文を提出し、添削されたものを見ると、「これだと意味が強すぎる・弱すぎる」や「通常このような場合には使わない」などのコメントが添えられていることが多々あった。私としては、辞書に載っていたので当然正解であると思っていたので、納得がいかない。またどのように場合分けをすればいいのかも分からなかった。それゆえ、更に辞書を引くことが億劫になっていった。
 このように、高校の英語教育の好ましくない点ばかり述べてきたが、良い点もある。やはり、知識は詰め込んだだけのことはある。厳密な意味の違いは理解していないが、やはり単語力は相当ついた。どんな英文を読むにしても、書くにしても、やはり単語を知っていなければ何にも出来ないのも事実である。また、文法も嫌になるくらい叩き込まれたので、しっかりと文構造を捉えられるようになり、長い文章も読めるようになった。こうして、私の高校での英語の勉強は終わり、現在の大学での英語へと続いていく。次は大学での英語の授業、特に山岸先生の英語の授業について述べたいと思う。

A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 山岸先生の授業は私が今までに受けてきた授業とは全く異なるものだった。今までに受けてきた英語の授業は、英文を読む練習をしたり、CNNを用いてリスニングの練習をしたりする外国の目線のみで行う勉強だった。しかし、山岸先生の授業では、文章一つ、単語一つとっても、英語圏から見たときはもちろん、それに加えて日本から見たときと二つの場合で分けて考える。これによって、私は、高校時代に納得できなかった、日本語では同じ言葉なのに、英単語では複数の単語が当てはまり、その一つ一つが英語圏の人にしてみれば、微妙なニュアンスの違いがあることを知った。それは、私が日本人としての価値観で考えていたために、見えなかったことであった。だが、それは私が日本で生まれ、日本で生まれた以上は、仕様のないことである。私には、知らず知らずのうちに日本人の文化が身に付いている。言語には必ず、その国の文化が染みついている、これが山岸先生の授業で学び取ったことである。しかも、山岸先生が言う文化とは、現在の文化のことではない。更に昔、古代からの歴史や、宗教などの私達現代人の精神にも深く影響している文化のことである。例えば、授業で扱った“difference”、「違い」という単語を見てみたい。「違い」と言われると日本人はみんなと同じであることを望むので、どうしてもマイナスイメージを抱いてしまう。ところが、英語圏の人は反対にプラスイメージを持つ。これは、日本人が昔、農耕民族であり、農業をする上では、村の助けがいり、村単位で生活していたために「和」を重要視したきたことが現在の私達の生活にも影響しているためである。一方、英語圏の人は、キリスト教の人が大多数である。キリスト教では、神と個人個人が契約し、その個人の能力も神から与えられたものと考え個性を重視する。キリスト教の精神が反映されているのである。その他にも、日本には儒教やアニミズムがあり島国で争いがなかったこと、英語圏には唯一神、そして様々な人種が入り乱れていたことなどが影響している。山岸先生は、このような文化的背景の違いをきちんと私達に説明をした上で、私達が今まで習ってきた英語表現で文法的には正しいのに、英語圏の人には違うイメージで伝わってしまうことを教えてくださった。山岸先生の授業での言葉の中で、私の心に強く残った一言がある。それは、「日本人は日本のいいところを全然わかっていない。」という言葉である。明治維新のときも、戦後もそして今も日本人にはどうしても英語圏の人々の生活や文化などに憧れる性質がある。私自身もそうであるが、どうしても英語が話せる人は格好良く見えてしまい、アメリカ的な服装や音楽をどうしても取り入れたくなってしまう。日本古来のものはなんとなく、ださくて時代遅れなものと思う。しかし、この授業で日本人の謙譲の精神や、和の精神、思いやりの精神はとても美しいものだと思った。そして、日本人として生まれて良かった、日本人としての誇りを持とう、とさえ思うようになった。日本の、日本人の良いところがたくさん見えてきたのである。これは、私が将来、海外や、外国人と接する職業についたとしても、自分が伝えようとしたことと違う意味で理解されてしまうこともあるのだということ注意させてくれるだろう。そして、もし、英語と触れ合わない人生になったとしても、日本の良いところをなるべく多く再発見し、国に対して誇りを持って生きていけると思う。これが、山岸先生の授業で得られた私にとっての、一番の財産である。

B まとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 さて、最後に我が国の英語教育への提言をして終わりたいと思う。山岸先生の授業を通して、これまでの英語教育に欠けていたと思われる点が、私の中では徐々に明らかになりつつある。今の日本の英語教育は、とりあえずアルファベットを教え、単語を詰め込ませ、やみくもに文法を叩き込み、文章を読ませる。それで英語を分かったような気になっているが、先生の授業を受けて、自分の使ってきた英語がこんなにも違う意味で英語圏の人には伝わってしまうことを知り、衝撃を受けた。言語には、その言葉を使ってきた人々の伝統・歴史・文化・制度などが染みつき、それらを表しているのもである。それらの勉強をろくにしないで、いきなり言語を学ぼうとすることに無理がある。そして、外国語を学ぶにはまた、自国の言語理解ありきでもある。私は、自国の言語を理解している程度と、自国にどの程度誇りを持っているかは同じ尺度で測れると思っている。なぜなら、自国の伝統・歴史・文化・制度などを理解すればするほど、自国に対する愛着も自然と湧いてくるものである。日本人が、自国に対する忠誠心や誇りが少ないと見られるのも、日本語を日々当たり前のように使っていて、実はあまり理解していないことが原因ではないかと考えている。実際、私自身も今回、山岸先生の授業を受けて日本について知っているつもりでいたのに、自分の無知さに気付かされた。
 また、自国の言語の勉強の重要性を認識した上で、言いたいのが、やはり今の小中高生にはきちんともっと日本語の勉強をして欲しいと思う。私は、今、アルバイトで塾の講師をしていて、英語も教えている。そこでは、驚きの連続である。何が驚きなのかというと、彼らは、英語以前に日本語をあまりに理解していない。例えば、「赤い花がきれいに咲いている。」という文章があったとしたら、「赤い」が形容詞で「きれいに」は副詞であることが分からないのである。形容詞が名詞を修飾し、副詞が動詞を修飾するものであることは、英語であっても変わらない。日本語で分かっていないのだから、“He runs very fast.”の“fast”は何詞かということを聞いても大多数は分からないか、形容詞と答えるだろう。英語は、確かに習ったばかりなのであるから、できなくて当然である。しかし、日本語は彼らが生まれてから、長年使い続けてきたものである。やはり、日本の伝統を受け継いでるものの一人として、漢字や尊敬語・謙譲語・丁寧語などを使いこなせないことは残念でならない。日本には美しい自然があり、美しい人々が住んでいて、美しい言語がある。今の英語教育はなるべく早く英語を教え、英語に親しませ、世界で通用する英語を、と考え焦っているようにも見える。しかし、もっと余裕を持って、子供達を含め、私達も日本を、日本語を勉強し、知る必要があるのではないだろうか。(30363327 山下紗永子)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 英語を習い始めた中学一年のときから高校三年生までを振り返ってみて、英語を学ぶ理由・意義などの説明を受けたという記憶ははっきりないが、今の時代、英語は不可欠であるということ、というよりも、受験に必要だからという理由の方が大きかったように思う。
 授業は、教科書の章に沿って、先生あるいはCDの英語を聞き、一文ずつ細かく日本語に訳して読み進めていくといった形式だった。そのため、ほとんど日本語で考え、答えていた。
 主に先生が説明するのは、その章で習得するとされている単語や文法に関することであり、文化の背景や、なぜそういった会話になるのかなどといったことについてはほとんど触れられなかった。
 日英の言語・文化の比較についてであるが、この英単語は日本語にするとこうなるということを提示され、その単語がそれぞれの文化圏での人々の認識に具体的にどのような違いがあるかについての比較は行われなかった。
 辞書については、わからない単語があればすぐ辞書を引くようにというに言われていたが、いつも使うのは1つの辞書で、その辞書に載っている意味を絶対的に信頼していた。
 私が通っていた高校はいわゆる進学校であったが、授業で扱うのは基礎基本であり、それより先は自主性にまかされているといった感じであった。 中高での英語教育でよかったと思えることは、文法の基礎が身に付いたことである。一方、好ましくないと思ったことは、詰め込み型の暗記型勉強であったということである。そのため、受験が終わった途端、多くの知識が抜けてしまったように思う。それだけでなく、英語を話す能力もほとんど身に付いていない。高校のとき、会話の授業はカットされて、文法の授業を行っていた。また、外国人の先生が授業を訪れるのも何ヶ月に一回という感じだった。会話の練習はとても基本的なことをやっているのに、読む文章は専門的で高度であるという大きなギャップがあった。

A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 この授業は驚きの連続であった。今まで受けてきた英語の授業といえば、大学1年のときの授業も含めて、みな英文を文法に気をつけながら日本語に訳していくという作業が中心だったからである。この授業では、「日本の言語文化に対する外国人の質問」ということを題材に、「なぜ日本人はそのようなことをするのか(言うのか)」「なぜ外国人は疑問に思うのだろうか」といったことを考えた。この授業を受講するまでは「それは昔から続く文化だから」「そういうものだから」などといった理由で深く考えたことはなかった。それと同様に、英語圏の文化に対して「なぜそういったことをするのだろう?」といった思いを抱いたことは多いが、言語の背景にある事柄まで考えようともしなかった。
 しかし、この授業は今まで受けてきた英語の授業と違って、ただ英語を日本語に訳すのではなく、英文の背景にある文化や伝統、その国の人々がどのように考えるのかなどといったことをじっくり考えるきっかけを与えてくれた。
 この授業から学んだことは非常に多いが、山岸先生が授業中におっしゃった言葉で印象に残っているものがある。それは、「文法はその民族の心」ということである。この言葉を聞いて、改めて自分の英語の勉強に欠けていたものが見えた気がする。今までは、文法をただ決まりだから、という理由で何の疑問ももたずに(むしろもってはいけないと思っていた)覚えていたし、ましてやその言語を母国語とする民族がどのように生きてきたのか、ということにまで考えが及んだことがなかった。相手の国の文化を理解しようと思っていても、表面上のことしか見えていなかった気がする。
 この一年間の授業を通して、日本語と日本語文化の背景にあるものと、英語と英語文化の背景にあるもののズレが少し見えてくるようになった。日本人の行動や言語には現在でも至る所に、日本人が多神教であることや農耕民族で常に集団の和を重視してきたこと、集団社会・共同体の中で自分を抑えて他人をたてるという文化があったことが大きく影響していることがわかる。つまり、他人・相手を意識している。一方、欧米では、まず自分に対して正直であることを重んじる。自分と神との関係を意識する。個を重視する。英語と英語文化を大きく形づけているものは一神教であるキリスト教だ。宗教は、文化を形づくる最も重要な要素であると改めて感じた。
 それらの大きな違いを理解していないと、コミュニケーションをするうえで、とんでもない誤解を招くことになるかもしれないということにも大きく頷ける。そして、一度生じてしまった誤解を解くには、長い時間と互いの文化への深い理解が必要になる。文化の違いをわかった上で英語を話すことがいかに重要かということを感じずにはいられない。
 また、「日本の言語文化に対する外国人の質問」に対する答えを考えることを通して、日本文化の奥にあるものを考える機会が多くなった。例えば、日本の国民的存在である“寅さん”のことを考えてみたい。“寅さん”は人情を大事にするおおらかな人だ。誰にも言わずに家を出て行って、ある日ふらっと帰ってくると、家族や町の人たちが温かく迎えてくれる。“寅さん”には、安心して帰れる自分をありのまま受け入れてくれる場所がある。決して自分の思いをはっきり言葉に表すことはしないが、心と心でつながっているとは、まさに“寅さん”の生き方のことではないだろうか。寅さん”からは、そういった何気ないように見えて実は大きく包み込んでくれるおおらかな優しさが感じられる。日本人には、相手の思いを察する文化がある。言葉に表すまでもないこともあるという認識は、やはり今でもあるのではないか。
 国際社会である現在、英語は共通語として、情報を伝える中心的な言語である。今や、海外に行かずに日本にいようとも、国際社会の中に生きているということを実感させられることが多い。この授業を通して、日本語の視点と英語の視点の両方から物事を見ることによって、より多面的な見方をし、考えが深まったと思う。
 一見、正反対に見える考えでも、一方の文化の押し付け合いではなく、互いに相手に対する深い理解をもつことが互いの文化の理解につながるだろう。と同時に、日本文化と日本語についての理解も深まる。互いの文化の相違点だけを探そうとするのではなく、いいと思った考えを取り入れて実践していく姿勢が必要と思われる。相手の文化のズレを知らずにコミュニケーションを取ろうとすることは大きなリスクを伴うことになる。そのことを自覚して、コミュニケーションをしていきたいと思う。

B まとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 中学・高校と英語を勉強してきたが、それは文法中心であった。確かに、文法を身につけたことによって英文の意味をより正確に理解することができるようになった。しかし、受験を目標としたカリキュラムの中で読む英文は、高度で専門性のあるものも多く、単語を覚えるのに精一杯であり、自己主張をするための道具として使うには程遠かった。
 単語は、実際に話してみて身に付くものであると思う。そのためには、英会話の授業の回数を増やし、英会話の機会を増やすことが必要と思われるが、忘れてはいけないのは、コミュニケーションは内容が大事だとういうことである。「英語を話すことができる」だけではだめで、「英語を使って何を言うか」である。今までの英語教育で身に付くのは、ただ「英語を読むことができる」ということで、書かれた英語をそのまま訳すだけで理解し、英語を使って何かをちゃんと考える力はほとんど身に付かない。まず、自分が英語を使って何を伝えたいのかを考え、それを正確に伝えるために文法を学ぶといったように、目的と手段を再確認する必要があると思う。
 英語はそれそのものが目的ではなく、手段であるということを忘れてはいけない。また、日本人が外国や外国人に対して誤った認識をしていることがあるということと同じように、外国人も日本・日本人の行動や考え方に誤解をもっていることが多い。この授業で「外国人の日本人に対する質問」を考えるときに感じたことは、自分がいかに日本について知らないかということだった。私たちが普段何気なくやっている行動1つをとってもすぐには答えられない。「なぜか」ということを考えていくと、稲作時代にまで遡ることや、封建時代の社会制度に大きく関係しているということだってある。もっと日本の歴史を勉強しなければきちんと質問に答えることはできない。英語を勉強するときに、他の教科を連携させて学ぶことによって、より日本のことを学ぶことができると思う。(30302295 大石佳奈)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 私は帰国子女ではないので、英語教育を受けたのは、中学から現在までであり、高校までの6年間についての英語学習について振り返ることにする。
 そもそも英語を学ぶ理由・意義などの説明はされていなかった。もちろん、これらは自分で考えなければいけないものだが、中学時に英語が苦手であった自分にとっては、「ここは日本なのだから母語・公用語である日本語が話すことが出来ればいいのではないか」とすら思う時期もあった。もちろん、ボーダーレス社会の現代では、世界の共通語が英語として話されている事も事実であるし、就職した後の商談や外資系の会社に入社したときに己のアビリティとして必要なのではないだろうか。
 ではここで私が受けた中高6年間の英語教育について述べたいと思う。
 まず、やはり主に行われていたのは、文法重視、書き(ライティング)重視の授業であった。もちろん、単語・イディオムの暗記も重要視されていた。そのため、教科書で出てきた単語を暗記し、文法形成の基礎を中心に組み立て方を詰め込み形式の授業が大半であった。もちろん、オーラルコミュニケーションなどネイティブスピーカーを先生とした授業も行われていたのも確かである。
 その中で私が印象を受けた授業をいくつか挙げるとすると、1つは映画や音楽を通して、英語を学ぼうという、誰もが考えそうな授業であるが、誰でも知っているような有名曲や映画の一部分を引用し、それを教材として用いる授業は、その曲・映画が作られた背景やエピソードを述べることによって、英語の文化を把握することが出来た気がする。さらに、自分が興味ある事を題材として、プレゼンテーションほど大げさなものではないが、発表という形で生徒主体の授業を行うものである。また、ある先生の場合、英英辞書を用いて英単語を日本語として覚えるだけでなく、文章として捉える事で、ひとつの意味に固定されること無く単語を吸収する事が出来たと思う。(しかし、英和・和英辞書の説明は何もされないどころか、大修館のジーニアスを薦めていた気がする。)
 私は受験校ではなく内部進学者であったので、受験のための英語という概念がないが、高校3年の時、英語担当の先生が、大学受験組と、英語の単語・文法量など読解力ではかなわないからとして、授業では、文章(A4サイズで片面の半分ぐらい)を初見で読み、記号選択形式の問題を解かせる、という模試みたいな速読を目的としたテストを1年間やっていたので、大学受験者はこういう事を常日頃から勉強していないと合格は出来ないのかと、改めて実感されられた反面、受験者は受験のための英語教育を受けさせられ、また大学進学を望む者もそれを容認してしまっているのが、現状ではないのだろうか。そもそも、英語は、日本人の日本語と同様に、生まれてから日本語を習得するのは親から何度となく日本語を喋りかけられ、口の形を真似し、とりあえず発音するという形であるはずである。つまり、英語は、コミュニケーションとしての道具であり、聞いてなんぼ、喋ってなんぼ、であるはずなのに、文法を覚え、単語を覚え、試験のためには教科書や参考書をまる暗記で点数は取れてしまうという教育体制に問題が生じていると思われる。
 上記のように、自分が受けた英語教育の長所・短所をまとめてみると、

文法や単語をある程度知らないと英語は喋れないのは明らかだが、日本語で喋るときでさえ、「えーと、あれあれ、ほら、○○(喋りたい単語の別の簡単な表現・文)」というように別の表現や身振り・手振りで話が出来るのも確かである。しかし、英語自体が、成績はもちろんのこと受験に合格するための目的化しているのが、英語教育を腐敗させているのではないか。また、そもそも英語を受験科目とする事が甚だ疑問である。文系・理系で高校教育は分かれているし、ある程度の基礎知識を求めるのなら、国語でも十分であるし、小論文や作文などの語学力や頭のキレを調べるのも十分、「頭がいい」という定義に当てはまるのではないだろうか。慶応大学でさえ、大学時の授業はレベル別に分けるという事は内部・外部を分けへだてている気も否めず、英語教育として矛盾が生じてくるはずである。

つまり、高校の英語教育で読む・書くという事から始まり、喋る・聞くという授業自体の時間が極端に少ないのが問題である。また、中学・高校で最大2030時間の英語の授業が規定されているが、これはあまりにも少ない。1日平均1時間も満たないので、極端に述べると、23時間が日本語という事になる。もちろん、自らが興味を持って勉強ならぬ理解をしなければ言語を文法的・文化的にも把握する事は出来ないはずである。さらにその中で、コミュニケーションを出来るようにするというのも問題ではないのか。
 文法・単語習得もある程度、大事であるが、単語・文法だけでは機械でも出来るはずであり、話者の気持ちを表現するのであれば、自ら率先していくべきである。

A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 大学2年次における山岸先生と、今までの授業での最大の差といえば、英語を目的としてではなく、ひとつの文化・歴史として捉え、それを自分達に伝えてくださった事である。今まで受けてきた授業は、教科書や新聞を用いて、単語・文法の意味を理解しそれを使えるようにと暗記するだけで、ただの「暗記科目」としての授業携帯でしかなかったものが、先生の授業は、細かい単語や文法のミスを指摘はするが、それを点数に返還せず、その裏に秘められた文化や習慣を述べる事で、英語に対する興味は格段に増した事は事実で、否定できない。
 大学1年では、英語を言語学としての側面からアプローチをする授業があったが、それは、Noam Chomsky:Linguistics に書かれた生成文法を題材としたもので、この授業も単語・文法に固執した授業ではなかったため、大学では英語を意義のあるものとして扱っている授業が多くて、正直うれしかった。
 先生の授業から学んだ事は、やはりコミュニケーションの道具としての英語の隠れた「文化」や「内容」についてである。英語として興味を与えてくれるからこそ学生は勉強する意欲が湧くのであって、興味が薄れるような単語・文法の暗記・埋め込み型の勉強では、英語圏の人の気持ちを理解するという事は到底不可能であろう。
 特に、前期の授業で取り扱った「外国人の質問」では、日本人が当たり前としてやっている行動にも関わらず、日本人の自分が瞬時に答えられなかったのが悔しくてならなかった。そもそも、日本は海に囲まれている島国国家であり、定住生活を基本とする農耕民族から培われてきた、習慣・文化から始まり、現在の諸外国から影響を受ける事によって様々な価値観を得てきた背景まで多くの事を学ばせていただいた。それには、神道・仏教としての宗教的価値観も含まれており、葬式や結婚式で当たり前だと思っていた服装・言動が必ずしも一貫しているわけではない(矛盾している)、と授業で指摘された事などが身近な例であろう。つまり、生まれてから20年も経ち、そのほとんどを日本で暮らしていて、さらに母方の両親と住んでいる2世帯家族で様々な教訓・迷信など、日本文化の伝統的な知識を多少なりとも知っていたと自負していた自分が情けなく、外国人からの質問という事で、信憑性、真実性があり、そこから常識としていた日本の文化や歴史、習慣などを見直す事が出来たのではないだろうか。
 もちろん反対の事も言えるわけで、英語を身近に感じている中で、アメリカ・イギリスなど英語圏の文化や背景なども、全く知らなかったのも事実であった。このように、日本と英語圏文化の相違を知る事も出来たし、比較できる事によって単語や言語のイメージの違いや、表現の仕方の違いというのも多いに学ぶ事が出来た。
 さらに、内容面ではなく、授業形態としても様々な事を得られた。それは、「考える」という人間独特の思考様式と、それによる「発言する」という意思表現という行為を好印象に行えるようになった事である。つまり、「なぜ」という疑問から始まり、それを解決するために「調査」を行い、「発表」するという一定の形が頭の中で良い意味で癖となって確立された事である。先生は、間違いを恐れる事ないよう、学生達に頷いてくださり、さらに、「そういう考え方もあるね、他にある人?」と、一つの答えを固定概念とするのではない事で、また、多くの学生を発言に導く事で、自主性を私達の中に芽生えさせてくださった。
 上記のように多くの事をこの授業から学ばせていただいたが、このような形は将来、就職しても多いに役立つと思われる。まずは、日本と、英語圏の文化の違いについて、もちろん、英語圏を対象とした仕事を持つ事になるならば直接的に役立つと思われるし、また、相手が日本人であっても、表現の仕方や生まれてから環境がお互いに違うのだから、根底の文化は一緒でも生活の背景が違うわけで、相手を重んじるという精神が根付き、将来に活かせられるはずである。また、仕事自体に対しても、間違いを恐れず自主的に行い、さらには、その仕事に対し、多面的に捉える事で様々な価値観をみいだし、「考える」・「調べる」という事から仕事に対する責任感も感じられるはずである。

B まとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 まずは、これまで英語教育に欠けていたものを、先生の『日英言語文化論考』(こびあん書房)の1215章を参考として、述べたいと思う。
 重大な問題点は、日本文化と英語圏文化の差異の指摘ではないだろうか。
 日本は、海に囲まれ島国・山国であり、農耕民族として他民族との大きな攻防・交流もなく、山間や山裾、盆地などに村落共同体としての形態を採っていた。その際、地震・豪雪・干ばつ・火山噴火などの自然の驚異を目前にし、それを天変地異として捉える事で、人間にはどうする事もできないものとして、自然を神々(八百万の神)として崇め、様々な規範を示してくれる、人間が学ぶ大事なルールがあると解釈し、従順に受け入れてきた背景がある。そこから、「諦め」、「淡白さ」という民族性を持ち合わせたのである。また、そこには、宗教的思想が大きく問題となる。日本古来の宗教は「神道」とされているが、本地垂迹の思想を持つ事から神道と仏教が容易に共存し、さらには、天と地を分かつ地平線が明瞭でない事から、自然と調和して生きていくといった術を手にし、平野部だけでなく、わずかな盆地や生活する事で、「同調性」、「和」を重んじている。このように、「集団共同意識」、「運命共同体意識」を持てる範囲内をうちと呼び、それ以外をよそと呼ぶことにする集団的論理を確立してきたのである。
 一方、英語圏、特にアメリカでは、原住民族でインディアンに始まり、移民者が多く集まっている事から、多民族国家として形成されている。さらには、キリスト教を中心に、一神教では、全知全能の神、唯一絶対神として、人間を含めた万物が神によって創造されたものであり、全ての出来事が神の意思に基づいて起こっていると考えられている。それにより、自然さえも神として考えられてきた日本文化とは違い、自然さえ神が創造したものであるから、人間と敵対し、征服できるものと考えられている。一方、日本では契約概念として、契約内容や、形式にこだわらず、お互いの「信頼関係」で成り立っているのも事実であるが、異民族国家としてのアメリカでは、契約自体が社会的信頼できる唯一のよりどころになっているのではないだろうか。
 また“寅さん”(『日英言語文化論考』第15章)において、彼の自由奔放な暮らしが、英語圏の人々には到底受け入れられないだろう。それは、日本人の「甘え」と「優しさ」が伝わらないからではないか。“寅さん”には、寅さんが家を出て行く場面が何度となくあるが、それでもいつでも帰ってこられるようにと、寅さんの部屋をそのままにしておくといった場面。寅さんにとっては、身内に対する「甘え」であるが、それは逆に家族にとっては、「優しさ」なのである。しかし、欧米人は日本的な「甘え」は、「他者への依存」(dependence)として考えられ、本人の「(意志・性格の)弱さ」として解釈されてしまう。
 このように、単語の意味一つをとっても、文化の相違が明らかになっていく現状で、言語が生活に密着している中、切っても切れない関係にあるのは言うまでもない。日本人として、日本語を当たり前のように使っているが、それは、生まれてから日本にいて、その文化や背景などをごく自然に取り入れていたから、違和感なく喋っているのであって、英語をコミュニケーションの一部とするのであれば、英語文化の幅広い知識が必要であるのだから、日本における英語教育も、こうした文化間のよりよい理解が欠けていたのではないだろうか。
 すなわち、ここから今後の英語教育を考えてみると、絶対的英語教育時間の確保、さらに、言語としての複雑な形態を重視するのではなく、英語を、コンセンサスをとるための目的手段として、興味ある「文化」や「背景」などにより多く触れ、そして、自分で考え、発言するという自主性の養える授業に移行すべきではないかと思えるのである。
 時間の増加を考えるならば、やはり、小学校の英語教育を包含すると解決できるのだろう。また、これには大きなメリットもある。幼年時には、耳が良いとされていて、聞いた通りの発言を口にする事で、日本人はより多くの日本語を学んできたのだから、英語をコミュニケーションの一部として扱うのなら、良い英語(発音しかり、文法しかり)をなるべく沢山聞く事で、英語は数段上達するとされている。それは、ネイティブ・スピーカーを基本として出来るだけ接する時間を増やすべきだ。
 出来るだけで英語に興味を持たせる事。それは、一言で言い表せるほど簡単なものではないのは承知である。しかし、興味を持てばこそ、文化・背景などを自ら調べるであろうし、その可能性に委ねる事で、日本人としての英語は進化するのではないだろうか。

C 最後に
 この1年間、先生から様々な事を教わりました。自分が日本人として生まれてきて、経済・文化などが西洋化している昨今、日本人としての「和」、「魂」というものを生まれながらにして、どこかに忘れてきた・無くしてしまったようです。それを先生は、週に1回にもかかわらず、私たち学生に、時には厳しく、時には対等な立場で教えてくださった。その事を社会に出ても忘れないようにします。また、そのような授業を受けられた事を誇りに思います。これからも、より良い英語教育を広め、私たちの様な学生を少しでも輩出されるよう、さらなる御発展を願っております。また、くれぐれもお体にお気をつけください。(30308474 田中宏侑)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 私は、市立小学校、市立中学校、県立高校と進学してきたが、英語教育を受け始めたのは中学1年生の時からである。よって、大学入学時までに計6年間英語を勉強してきたことになるが、その間、再三言われてきた英語を学ぶ理由、意義とは、大別、2つあったように思う。1つは、世界がグローバル化してきているので、これから社会に出て活躍する君たちにとって英語は必要不可欠なコミュニケーション手段となるであろうから英語は是非学ぶ必要があるということである。成程、通信網の拡大や交通手段の高速化など、日本と外国を結ぶ架け橋は広がっているから、必要であると納得できた。2つ目は、中学在学時は高校受験、高校在学時には大学受験に必要不可欠な受験科目であるから、しっかり勉強せよといったことである。この点も、英語が現実として受験科目にある以上、当然出てくる理由であろう。現行の受験制度の枠内において考えれば、正当な理由として納得できる。しかし、2つ目の目的は、1つ目の目的の手段と位置づけるべきだと私は考える。そもそも、英語教育とは、大学等の高等教育機関において文献を読むために必要であったり、はたまた社会に出て働く上で必要不可欠なコミュニケーション手段であるから、高校以下の初等・中等教育において基礎力をつけるために学ばれているものではないか。その基礎力を試す場が受験であり、その受験は単なる通過点に過ぎず、英語を学ぶ本来の理由ではないはずである。にもかかわらず、特に高等学校の英語教師は口をそろえて、「ここ受験に出るよ、センターに出るよ。」といったように、まるで2つ目の目的がすべてであるかのように言っていたのを記憶している。この点、非常に疑問であるが、彼ら(高等学校の英語教師)の言い分もある程度は理解できる。おそらく、その高校を評価する基準として合格実績があり、OBからの圧力や世間の目等の社会的圧力が働いて、教師たちの間に、有名大学に生徒を合格させなければといった一種の強迫観念じみたものがあったように思われる。実際、私が在籍していた高校の教師は、OBからの圧力があったことをもらしていた。そういったことがめぐりめぐって、1つ目の理由を2次的なものに、2つ目の理由を1次的なものに変えてしまったのではなかろうか。つまり、そのようなねじれは、受験第一主義的な日本の初等・中等教育、およびそれを後押しする社会的圧力に由来するものと考えることができるだろう。
 授業の内容・進行についてであるが、上記のように、私が受けた英語教育は受験を強く意識してなされたものであるので、自ずと1つ目の目的からは遠ざかった、受験道具としての英語であった。具体的には、コミュニケーション能力をあまり問題とせず、readingwritingができればそれでよいといったようなものであったと記憶している。すなわち、授業の大半が教科書の訳や語彙、文法を学ぶもので、しかも、文語的文法(分詞構文など)や日常会話では使われないような単語、フレーズを覚えさせられたように思う。これでは、2つ目の目的を充足できても、1つ目の目的は充足されたとはいえない。英語を学ぶ根本目的が1つ目の目的である以上、よりconversationに力点を置いた教育をすべきであるというのが私なりの現行教育制度に対する批判である。
 日英の言語文化の比較という点であるが、まったくとまではいかないが、ほとんど行われていなかったと記憶している。例えば、「裁判沙汰」という言葉は日本では非常にネガティブであるが、アメリカでは日常茶飯事なので、ネガティブな意味を持たないというのは、どこかで教わったように記憶している。しかし、今年度、山岸先生の下で習ったと同じような、詳細な言語文化の比較というものは行われていなかった。その点、山岸先生の授業は新鮮で、多くのものを吸収できたように思う。山岸先生には心から感謝したい。
 英語辞書指導に関しては、中学1年生のときに英和と和英の違いを教わり、高校に入って、ジーニアスなど広く使用されている辞書の説明を受けたように思う。といっても、この辞書はこういう点に特徴がある、といった詳しい説明はなされていなかった。
 大学受験に対する意識、受験校であったかという点であるが、私が在籍していた埼玉県立浦和高校は、埼玉県下の公立高校としては最上位に位置し、有名大学の合格実績も高い、いわゆる受験校であったと認識している。それゆえ、受験に対する意識も非常に高いものであったように思う。私の高校では、単位制というものが導入されていて、大学のように自分のとりたい科目を自由に(といってもある程度の制約あり)とることができるシステムとなっていたため、自分の受験校の試験科目に対応した科目を集中的にとることが可能であった。また、授業内容も上記のように受験に直結するような授業がなされていた。
 私が受けた英語教育で好ましいと思った点は、1次的目的ではないにしろ、2次的目的である受験に対して、非常に効果的な教育内容であったということだ。それは前述のとおり、OB等の圧力による教師のモチベーションの高さ、単位制という受験に適した教育システム、reading,writingに特化した教育内容のことである。しかし、その裏返しとして、コミュニケーション能力がおろそかにされていたという点が好ましいとは思えない点である。確かにネイティブによる会話の授業は、中学・高校ともにあったが、それも週一回程度で、今考えると受けた意味が本当にあるのだろうかと疑問に思ってしまう。英語の学ぶ本来の目的が1つ目の目的である以上、もっとコミュニケーションに力点を置いた教育内容でもよかったと私は思う。


A「英語V」を受講してこの授業から学んだこと
 山岸先生に教わった英語Vと、過去の英語の授業との大きな違いは言語の背景となっている、その国の文化に対する認識の違いである。山岸先生の授業では、ある言葉なり文章があったとき、それは日本語ではこういった意味になるんですよ、といった形式的解釈ではなく、さらに踏み込んで、ではなぜ、そのような意味なのか、英語話者にとってどう聞こえるか等のさらに幅の広い内容の授業を提供してくれた。今までの授業が形式的解釈に終始して、無味乾燥な単語の暗記、文法のマスターといったものだったので、山岸先生の授業はとても新鮮だった。英語学習の奥行きの深さを感じることができたように思う。
 この授業が教えてくれたことは、ここに書きつくすことができないほどであるが、あえてまとめるとすれば以下の2点であった。1つは、文化的背景を知ることなしには、真のコミュニケーションはとれないということである。例えば、風(wind)という言葉を聞くと、日本人はそよ風や春風などポジティブなイメージを抱くのに対し、英語圏の人々はネガティブなイメージを抱きがちであるというのは、この授業を受講するまでは知らなかった。知らないままで、ネイティブの人と話していたらと思うとぞっとする。例を挙げるときりがないが、少なくともそのような違いがある言葉がたくさんあるということを知っただけでも、これからの英語学習の一助になることは間違いないと思う。この1年間の学習は確実に自分のコミュニケーション能力をアップさせたように思う。2つ目は、現行英語教育に対する批判の目である。この文の中でも再三述べている通り、1次的目的を達するような英語教育ができていないという認識は、この講義を受ける前まではそれほど明確なものではなかった。しかし、山岸先生の話を聞き、言語の裏にある文化的背景を中学・高校では教えていない点、受験第一主義的な減点方式が生徒のやる気を削いでいるという点に共感し、上記のような認識を持つに至った。
 この授業の成果が、自分の将来にどう役立つかという点を次に書こうと思う。自分は将来、弁護士になりたいと思っているが、今日のグローバル化した社会においては、どんな職業に就くにしろ、英語圏の人々と関わって仕事をすることは避けられないことであるように思われる。そんな中、山岸先生が教えてくださったことは、ネイティブとの円滑なコミュニケーションをとることの一助になることは間違いないだろう。この授業で学んだことを復習し、より深く学ぶことで、コミュニケーション能力を高めていきたいと思うしだいである。

B まとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育に欠けていた点は、英語圏の人々とコミュニケーションをとるための手段として英語を捉えていない点であると思われる。つまり、受験合格の手段として英語を位置づけ、reading,writingに特化した教育を行った結果として、コミュニケーション能力を高める授業が展開されてこなかったということである。
 今後の英語教育は、英語を学ぶ本来の目的である、コミュニケーションに力点を置いていくべきだと私は思う。それが時代の要請であることは、町を歩いていて耳にする英語の多さ、アメリカ人等の英語圏の人々と接する機会の多さを考えれば当然のことと思われる。(30352684 岡部俊一郎)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 私がこれまで受けてきた英語学習はおそらくどの学校においても共通するものである。高校1年においては易しめの英文をLesson毎に読み進め、その授業と並行する形で文法の授業をやる。そして2年になるとやや難しめの英文を読み進めていくのと同時に英作文の授業も行われた。リーデイングの授業では単語の意味を調べた上、英文をノートに写し、それを和訳する (もちろん英単語や文法をただ形式的に当てはめるだけでそこから読み取れるニュアンスなどは考えなかった)。3年になると受験生になるため文法・構文の問題集を中心に、入試問題から抜粋された長文をひたすら解いていくといった感じだった。これらの授業において共通している(と思った)ことは、いずれも無味乾燥だったということだった。大体は穴埋め・4択・○×・語句整序、長文では内容一致・指示説明・和訳問題を解き、答え合わせをするというものである。そのため、私も友人もいかにして正解するか、正しい答えを書くかということだけに目がいき、巷で出版されている問題集をごっそりと買い込み、また怪しげな業者が出している「長文が速く読めるようになる」といった教材にまで手を出していた。
 このような学習の下では、当然日英の言語・文化の比較対象など行われるはずもなかった。高校1年の時にはオーラル・コミュニケーションの授業で英国出身の先生が来ていた。しかし、私はこの授業は日英の文化・価値観の差からは不適当だと思った。日本人は謙虚であり、多弁を嫌う。対照的に欧米人は自己主張することを好む国民である。そのため、授業では英国人の先生が生徒に質問をしても手を挙げて答えようとする人はあまりいない。私自身は手を挙げて発言しようと思ったが、そうすると後でクラスの人達から「でしゃばりすぎ」と言われることを恐れていたし、他の人達もそう思っていたと思う。後で職員室に行ったら、その英国人の先生が他の先生に「授業はまるでお通夜のようだった」と言ってるのを聞いてしまった。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 前述の如く、私が高校において経験してきた英語学習はずさんなものばかりだった(中学校で学んだ英語については述べなかったが、高校においてあれだけひどいのだから、それよりも未熟な中学英語がひどいのは言うまでもない)。そのため、私の頭の中には受験勉強的思考、つまり1つの問いかけに対しては1つの明確な答えが存在し、それをいかに速く見つけ出すかという思考が抜けきっておらずガチガチであろう。さらに嘆かわしいことに胸に夢を膨らませて入った大学の授業においても、大学受験の延長線上に過ぎない。そんなときに出会ったのが山岸先生の授業である。山岸先生の授業は今までの受験思考的又は日本人的な英語発想を一掃してくれるものだった。山岸先生の授業で最初に感銘を受けたことは「言語は文化を離れて存在しない」ということである。私は先生の授業を受けて考えが変わったのは英語に関することよりも日英の文化・価値観である。特に日英文化間において大きな差は「日本人は自己主張することを好まないが、英語国民は自己主張しない人間は排除される」また「日本人は和を強調するのに対し、英語国民は個に重点を置く」、そのため例えば、“self-assertion”という単語1つ取ってみても、日本人は殆どの人がマイナスイメージを抱くのに対し、英語国民はこれができない人は他人から理解してもらえない。また“shame”という言葉でも日本人は「一家の恥、日本の恥」と所属する集団に結び付けるのに対し、英語国民は「自分自身に対する恥」と据える。  
 ところで、私が山岸先生の授業を受け、このような日本人の特徴を知り、2004年に起きた出来事で考えさせられる出来事がある。それは、4月中旬にイラクで邦人3人が人質とされた事件である。この事件で結果的に3人は無事解放されたが、その3人や家族の下には「自己責任、自業自得」といった誹謗中傷の電話・メールが殺到した。のみならず、有識者やマスコミ、政府からもバッシングを受けた。この事件を見て私は唖然とした。何故このような批判が起きたのか。それは、日本人の心の奥底に「日本人は和を重んじる」という集団平等意識があるからであろう。事実拘束された3人はイラクに退避勧告が発動されているにも拘わらず、それを無視して行った。また、家族は3人を止めることが出来なかったのに、3人の救出を優先して犯人側が求める自衛隊撤退を求めた。このことが日本人の「自己主張しない、皆平等」という意識と抵触したためである。私自身も日本人であり自己主張ばかりする人達を好まない。しかし、他人の生命がかかっている場合にまでこのような批判をするのはいかがなものか。日本人は謙虚であるが故に他人に対する思いやりや察しという点で優れている。そうだとしたら、例え他人と違う行動をした人達でも、困っていたら手を差し伸べるべきだと思う。
 蛇足だったが、次に山岸先生の授業で良かったところは高校までに習った英語表現の中には、あまり英語国民には用いられないものがあるということを発見できたことだ。例えば、「〜がある」という日本語を英訳すると多くの日本人が“There is〜”を好む。また、「〜される」という表現にも受動態を使う。更に「初めまして」という日常的な言葉でも“Nice to meet you.”と“Hi.”では用いるTPOが大いに異なることも知った(山岸先生の著書である『日英言語文化論考』はこれらのことが記載されており非常に役に立った)
 また、英語やその文化についてだけでなく、自分達の、つまり日本語・日本文化についても振り返ることが出来た。「言語は文化を離れては存在しない。」このように解するなら日本語にもそれなりの文化的背景がある。日本人はよく自虐的になることがある。これは、明治期以降文明開化により欧米文化が流入したことや、戦後のずさんな英語教育のために日本人は英語国民の価値観・文化を唯一正しいとして受け入れてきたからだと思う。しかし、各国間の文化に優劣の差などない。山岸先生の授業は英語文化の優れた点と欠点、逆に日本文化のそれらを比較し其々を補充し合えるようにしてくれた。だから、将来私がアメリカ人から「日本人はどうして自己主張しないのか」と尋ねられてもそれを的確に答えられ、逆に「では何故アメリカ人は自己主張することを好むのか」と問い返せると思う。


Bまとめに代えて−我が国への英語教育への提言
 最近小学校において英語の授業を導入すべきかについて活発に議論されている。昨年末にも慶大が主催するシンポジウムが開かれ、その内容の討論が行われた。更にある新聞調査によれば、小学校以前幼児期の段階で自分の子供を英語教室に通わせる親が増えているという。どのような教育を受けさせるかは親の勝手だが、私は以下の理由で早期の英語教育に賛成できない。
 第1に英語を学ぶ理由があまりにも抽象的だからである。自分の子供に英語教育を受けさせる親や、小学校から英語授業の導入を訴える人達は皆「今の国際社会において、英語を話せないようでは世界に通用しない」と口をそろえて言う。しかし、英語が話せないからといって世界に通用しないというのは早計である。現に各国首脳は米英との首脳会談の際には通訳を媒介としているし、英語を話せなくても国際的にやっていける仕事は沢山ある筈である。更に、例え英語が国際的に必要だとしても、現在の日本の英語教育のやり方では、時期を早めても、英語を話せるようにはならない。言語はその人の経済的価値を図るものではない。早期に英語教育の導入を訴える人達は、英語を学ぶ意義を再認識してほしい。
 第2に、私は早期に英語を学ぶことで、日本語や日本文化がおろそかになることを心配している。本来であれば母国語をしっかり学ばなければならない時期に、英語を学ぶことで尊敬語や謙譲語といった英語にはない日本語独自の用法もままならないまま成長していく。ともすれば、日本人が長年築き上げてきた独自の文化も今まで以上に自虐的に取られ、やがて崩壊するかもしれない。国際主義も大切だが、それ以前に自分達は日本人であることを自覚すべきである。
 最後に、山岸先生の授業のように英語文化の背景をなす文化教養についても、我が国の英語教育に導入して欲しい。英語を学ぶ人達の殆どはネイティブとコミュニケートしたいと思っている。しかし、「言語は文化を離れては存在しない」のだから単語帳をただ闇雲に覚えているだけでは真に相手方には伝わらない。また、英語のみならず、日本語・文化についてもしっかり学んで欲しい。外国人に日本のことを聞かれても答えられないのではなく、日本文化を十分理解することが真の国際人と考えるからである。(30301626 岩崎貴之)


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@ 私が受けた英語教育高校までの英語学習を振り返って
 (1)    英語を学ぶ理由・意義などの説明はされたか、それに納得できたか。
  私が初めて英語に触れたのは小学校の時に入っていた英会話教室であった。そこでは、まずアルファベットを歌で覚え、それから簡単な単語を絵で学び、それにつれて英語の歌などみんなで歌うという、単に英語に「触れる」ことが重要視されていた。そのため学ぶ理由までは教わらなかったし、考えもしなかった。中学になって学校の授業で英語が始まると、英会話教室とは内容が異なり、アルファベットから単語・熟語・文法を「読み書き」で学ぶことが中心となった。それに加え時々リスニングが行われるくらいで、英語に「触れる」と言うより、英語に「慣れ、覚える」ことが目的とされていたと思う。そのため、ここでも学ぶ理由までは説明されなかった。自分としては、高校受験に必須であること、世界の公用語は英語なのだから、いずれ社会に出る時に必要になること、この2点から学ばなければならないということを認識しており、「必要だから」と納得していた。
 (2)    授業はどのような内容で、どのように進められたか
  英会話教室・中学は@に書いた通りである。高校では文法・読解がメインの「読み書き」という本質は中学と同じで、中学よりもリスニングの回数が増えた。しかし、会話の授業はほとんどなかった。
 (3)    日英の言語・文化の比較は行われたか
  英会話教室・中学・高校全ての授業で一度も行われなかった。
 (4)    英語辞書指導は行われたか(英和、和英)。
   英会話教室・中学・高校全ての授業で一度も行われなかった。自分で学び、覚えた。
 (5)    大学受験はどの程度意識されていたと思うか、受験校であったか。 
  私は高校受験で慶応義塾に入った。そのため慶応義塾高校では大学受験を意識するということはなく、読み書きのレベルアップの授業であった。また、中学までは公立校だったが、ここではあまり「受験」は意識されていなかった。

  私は高校受験のために進学塾に通っていたが、学校の授業よりも塾の授業のほうが自分のレベルに合わせて行え、且つ受験対策がきちんとされていた。ただし、大学受験を意識していたわけではない。あくまで高校受験である。
 (6)    受けた英語教育の好ましいと思った点、好ましくないと思った点。
  現代の日本は受験社会のため、学校・進学塾で習った英語は「受験を乗り切る」という意味では良かったと思う。しかし、身に付けた英語は受験にしか対応できず、実社会にはほとんど役に立たないと思う。理由は自分の実体験からである。私は高校3年の時に、2週間フィンランドへサマーキャンプに行き、世界中の高校生と話す機会があった。そこで感じたのは、日本人は読み書きや相手の言うことは理解できても、自分の意見を相手に伝えることができないと言うことだ。つまり、今までリスニングと会話の訓練をほとんどしていないため、コミュニケーションがうまく取れないのだ。また、言語・文化比較も知らないので、例えリスニング・会話ができたとしても、相手にきちんとした自分の気持ちを伝えられるかどうかはわからないのだ。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 (1)    
この授業と過去の英語授業(大学1年次のものを含む)との比較
  高校まで学んできたのはほとんどが「読み書き」で、大学一年ではリスニングや英語を使ったプレゼン行ったのに対し、この授業では英語と日本の文化の比較から今まで文法的には正しいとされてきた文章・会話文の本当の言い方を学んだ。

 (2)    この授業が教えてくれたこと(教科書で学んだことを含む)
  自分が今まで正しいと思っていた英語は、文法的に問題はなくても、実際に外国人に伝える時に、違うニュアンス、特にマイナスイメージに伝えてしまうことが多いことがわかった。日本語と英語との違いを理解するには、それぞれの文化と根底にある宗教をよく理解することが需要であり、特に日本人が多神教であることと外国が一神教であることを理解することが必要であった。そうすれば、コミュニケーションを行う上での諸問題のほとんどが解決されることがわかった。
 (3)    
この授業の成果が自分の将来にどう役立つと思うか
   語学は単に文法を覚えることだけでなく、相手の文化と自分の文化の違いも学ばないとうまく相手とコミュニケーションが取れず、きちんと活用できないことがわかった。相手と自分の文化・宗教を理解することで、自分が社会にでて実際に外国人と話す時に、きちんと相手に自分の気持ちが伝えられると感じた。

Bまとめに代えて−我が国への英語教育への提言
 (1)   これまでに欠けていたと思われる点は何か
  英語を単に文法を学ぶことに重点を置きすぎていた事。日本と外国の宗教の違い・多神教と一神教の違いを理解していなかったこと。日本古来の儒教の精神を考えていなかった事。

 (2)   
今後の英語教育はどうあれば好いと思うか(小学校の英語教育を含めるも可)
  現在のような文法中心の教育も重要だが、会話・リスニングの授業を小学校から取り入れ、より実践的にするべきである。そして、英語を学ぶ理由・意義をしっかり生徒に教え、日本と英語圏の文化と宗教の比較の授業を積極的に行うべきである。そうすれば、現在のように
10年も英語を学んでいるのに話せないという状況は無くなり、単に筆記だけでなく、きちんとしたコミュニケーションができる人間に育つと思う。30357226 高瀬裕介)


@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 今、思い返せばかれこれ8年以上も英語を勉強していることに気づく。初めて中学校に入学したとき、英語という新しい科目にちょっと大人になった気分と新鮮な気持ちを味わい、期待して授業に望んだのだがそこで行われるものは期待していたものとは違っていた。そこで行われていたのは徹底的な教科書暗記と書き取りとの繰り返しであった。英語を滅多に話すことはなく、書くことだけがそこで求められることであり、日々その反復に追われる。そこには第2言語を学ぶというよりも記憶力を高めるだけの目的しかないように見え、入学当初のやる気や期待は次第に消え失せ、友達と日本語で話す時間となっていった。そこには当然英語を学ぶ理由や意義は説明されるわけもなく、義務教育の一環として行われているだけであった。もっとも、当時の自分としてはこれから国際的な時代に入るから英語は必要になるから科目として習うのだろうなという認識はテレビなどの影響で持っていた。

 しかし、中学2年になってそんな英語の授業にちょっとした変化がもたらされることになる。それは欧米人と日本人の先生の二人同時による英語の授業であり、そこでは書くことよりも話すことが重視され1年次で習った「How are you?」「I’m fineThank you.」などといった日常会話を実際の英語圏の人とやり取りするというものであった。欧米人が英語で質問し、生徒はそれを聞き取り、それに英語で答えて、思ったことは英語で伝えようとする。まだ習っていなく難しいところは日本人の先生が助け舟を出す。もちろん、前述した教科書暗記と書き取りの授業に並行して行われていた。今、思えばこの授業は貴重なものであるということが分かるが当時の自分は1年次に英語に勝手に見切りをつけ、友達とのおしゃべりの時間になってしまっていたのでろくに勉強していなかったので欧米人の先生の言っていることが理解できず、そのせいで質問にも答えることが出来ず、ただただ気まずい思いをするだけの授業であった。自分の回りの友達もほとんどがそうであったと思う。
 中学3年にあがり実際に英語を話す授業もなくなり、中高一貫校であったが他の公立校に通って高校受験をする生徒の英語レベルと同じくするべく、うちの中学でも受験英語が意識されるようになった。そこでは教科書暗記はもはやなくなり、今度は文法や単語の暗記が主だったものとなった。それは教科書暗記よりも登場人物が出てこない分ストーリー性がなく、つまらないものであり益々英語に関心がなくなっていった。しかし、英語の成績は良く、それは英語の勉強というよりは毎年変わらない先生の試験傾向と対策の賜物であり、あとは情報収集がすべてであった。
 高校に上がるとその授業内容は中学3年次の延長で、大学受験を念頭においているために余計受験英語を意識したものになった。それが高校3年まで続き大学入学にいたる。
 こうして今までの英語の授業を振り返ってみると、ただ教科書や文法の暗記に明け暮れ、そしてその記憶したものを如何に覚えているかを問うような試験を受けることの繰り返しであった。そこには英語を学ぶ意図はなんら説明されることもなく、大学に入るために大学受験の科目にあるから勉強するだけであった。恥ずかしい話、辞書を活用することを真に出来るようになったのは高校3年次のときである。それまでは名詞と動詞が同じ語である単語などは文中で使われている意味などお構いなしで一番上に載っている意味で捉えていた。
 しかし、こうした記憶ばかりの授業も悪いことばかりではなく、おかげで英語の単語力は格段に増えたし、基礎的な英語表現も覚えられた。それは語学を学ぶ上でとても大切なことであり、日本語を話す上でも同じことが言える。ただ、始終それに終わってしまうのはやる気が削がれた。国語でも詩や小説など読んで感銘を受けるようなものはあるのだから英語でもそうした楽しみがあっても良いと思う。なおかつ、英語の場合は大学受験の科目としてそれが目的化してしまい、結果が求められるのだから。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 まず、この授業を受けて驚かされたことは先生が「文法の間違いやちょっとしたことなどは気にしません。言いたいことを伝えられるのが重要」とおっしゃったことです。今までの英語の授業というのは正しい英語、今まで習ってきた受験英語に沿った英語表現を使うことに主眼が置かれていた。しかし、この授業はどの表現は英語として堅いかや日本語のニュアンスと英語のニュアンスとの違い、日本文化と欧米文化の違い、いかに日本的考え方を英語として欧米人に伝えるかに主眼が置かれていた。そこで学んだことは英語というよりもどちらかというと日本についてであり、日本の文化がどのように形成されてきたか、その歴史的環境的背景など一般教養に近かった。しかし、それが自分にとってはとても新鮮で、むしろ文法や構文などよりも重要なもののように感じられた。そして、講義を受けるたびに自分がいかに自分の国である日本について分かったつもり、知ったつもりでいたかに気づかされると同時に、もっと日本文化を知らなければと思わされた。
 これを機会にもう一度日本を見直し、そして胸を張って日本について欧米人に英語で説明できるようになり本当の意味での国際人になれればと思う。
 最後に1年間どうもありがとうございました。おかげさまで日本がより好きになれたし、英語も今までよりもっと気軽なものとして捉えられるようになりました。これからもお体に気をつけてください。益々のご活躍を願っています。

Bまとめに代えて−我が国の英語教育への提言
 今まで何年もの英語教育を受けてきて思ったことは、ここで何度も言ってきているように勉強が文法、構文に主眼が置かれていることだ。確かにこれらがとても重要であるのはわかっている。しかし、日本語でもそうであるようにこれらはいくらでも後から詰め込むことは出来るし、使っていくうちに覚えるものである。
 むしろ、それよりも英語教育に必要なのはもっと面白みがあってもいいのではないかということである。そういった暗記するものばかりでなく、小学生や中学生が漫画を読んで日本語の難しい言葉の読みや漢字を覚えるように面白い英語の小説や漫画を教育に取り入れることは有益だ。なぜなら面白いと続きを読みたくなり、また分からない表現は理解しようと必死になって調べるからだ。ただの記憶の詰め込みよりもよっぽどためになるし、やる気を鼓舞する意味でもとてもいいのではないかと思う。日本人が問題とされているリスニング力やスピーキング能力に関しても映画や日本にあるアメリカンスクールとの提携交流によってまずは生徒の主観に訴えることから始めるべきではないか。ただリスニングテープを流すだけでは飽きるのも当然だし、効果は見込めない。それより言語のキャッチボールやストーリー性があるほうが集中する。
 このように今までの形式や決まりごとに主眼が置かれた英語教育よりも勉強の中に楽しみを見つけられるような英語教育のほうが良いと思うし、なによりも自分がその授業を受けてみたい。「受けてみたいと思う授業」、これが一番大切なことだと思う。(30360678 藤川 昌之)


@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私は小学校が私立だったので、小学3年生のときから英語を学び始めました。ただ、まだ小学生なので、英語を学ぶ意義や、英吾がどこでどのように役に立つのかなどということは全くわかっていませんでしたが、授業は楽しく、遊びのような感覚で学んでいました。授業はアメリカ人の先生によって英語で進められ、私たちは単語や挨拶の表現を覚えたり、文章を読んだり、ゲームをしたりしていました。カトリックの学校だったので、英語でお祈りを暗誦したりもして、それがテストだったので、何か呪文を唱えるかのように英語を覚えていました。
 中学に入り、本格的に英語を学び始めるに当たって、英語を学ぶ理由・意義などの説明は、授業のはじめに一応あったと思いますが、あまり覚えていません。ただ、国際化が進んでいくこれからの世界では、世界の標準語である英語を自由に使いこなせる能力は必須だという話を先生がしていた記憶はあります。
 授業は、中学では通常の英語の授業と、週1回のアメリカ人の先生による授業がありました。教科書は三省堂の「NEW CROWN」で、そのほかに23冊の問題集や補充の教材を使っていました。高校では1年次は通常の英語とオーラルコミュニケーションの授業がありました。2年次からは、それにリーディングの授業が加わり、3年次は、リーディングとライティングの2種類の授業に分かれていました。中学・高校ともに、教科書の文の訳や問題の予習をしていって、授業では順番に当てられてその訳や問題の答えを答え、先生が解説するという形式がほとんどでした。
 中学や高校の授業では、文法事項や語彙を勉強することがほとんどで、言語・文化の比較はほとんどされませんでした。教科書の文で英語圏の文化の紹介はありましたが、それを日本の文化と比較することはほとんどしませんでした。
 辞書については、学年が変わるたびに適当なものの紹介がありました。中学1年の始めには、英和・和英辞書の使い方の指導もされました。学習が進むにつれて英英辞書の使用を薦められるようになり、授業中に出てきた表現が英英辞書ではどのように書かれているのかということを先生が紹介することもありました。
 私が通っていた学校は中高一貫の進学校で、毎年ほとんど全員が大学受験をします。そのため中学1年から受験を意識したカリキュラムが組まれていました。
 受けてきた英語教育で好ましいと思った点は、まず小学校から英語の授業があったことです。これは、私にとってはよかったと思います。授業の内容はもう覚えていませんが、小さいころから英語が身近なものだったおかげで、中学の授業にもすんなり入ることができたし、英語に苦手意識を持つことなく勉強できました。また、ネイティブの先生だったので、早い段階から正しい発音を聞けたことで、リスニングも苦手にすることなくこられたと思います。また、中学・高校では、文法事項を徹底的に教えてもらえたし、月に1回単語テストがあったので、語彙力も鍛えられました。かなり難しい英文まで読む訓練ができてよかったです。反対に好ましくないと思った点は、話したり、書いたりする機会があまり多くなかったことです。これだけ長い間英語を勉強しているのに、英語を使いこなすことができていないことは残念です。もっと英語で話したり、実際の生活で使えるような実践的な表現を知りたかったです。そのためにも、ネイティブの先生による授業を増やしたり、教材に新聞や映画なども取り入れるなど、生の英語に触れる機会がもっとあればよかったと思います。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 この授業は、私が今まで受けてきた英語の授業とは全く違うものでした。今までのように英文を読んだり書いたりするのではなく、日本と英語圏の文化を比較する英語の授業は初めてでした。英語の授業なのに、英語だけでなく、日本語と日本文化について本当に多くのことを知ったし、考えました。また、授業以外のところでも、今までのように指示されたところを予習するだけでなく、授業中に興味を持ったことや、疑問に思ったことを自分から調べたりもしました。これほど自分からもっと学びたいと思ったのは初めてでした。また、授業の形式も、いままでは当てられたり、プレゼンテーションをしたりといったものでしたが、この授業では、自分から挙手するやり方でした。私は積極的に手を挙げることは得意ではありませんでしたが、雰囲気に慣れれば問題はなかったし、活発に意見が出ると面白くて良かったです。
 この授業では、本当に多くのことを教えて頂きました。なかでも、英語を使いこなすためには、英語の背景となっている英語文化についての幅広い知識や、日本語と日本文化に関する深い知識が必要だということに気付いたことが一番大きな収穫でした。日本人として英語を学ぶ意義は何なのか考えたし、日本の文化について自分がどれほど知らないかということも実感しました。また、先生はよく「なぜを問う」とおっしゃっていましたが、そういった姿勢も少し身についたような気がします。具体的には、まず外国人からの日本の文化や習慣についての質問について考えたときには、今まで当たり前だと思っていたことを改めて考え直しました。なぜその質問が出てくるのかを考えると、文化の違いがわかって面白かったです。また、日本語と英語での語句や文章のずれについて学んだときには、こんなにも多くの違いがあることを知らなければ、会話は誤解だらけになってしまうと思いました。スピーチレベルを学んでからは、私自身今まで変な英語を書いていたことがわかって恥ずかしかったです。童話や演歌を訳したときは、日本語の豊かさと難しさに気付きました。背景にある文化を理解してこそ正しく訳せると思いました。
 そして、全体を通して、日本と英語圏の文化の違いを実感しました。でも、いくつかの根本的な違い(たとえば、日本人は和を重んじる農耕民族で、八百万の神を信仰しているが、一方で英語圏では、個人を大切にして唯一絶対の神を信じる移動民族である)を理解していれば、たいていのずれにも気付けることもわかりました。また、日本人は自分の国の文化を外国に向けて説明せず、誤解されたままになっているということも印象に残っています。
 この授業を受けられて本当によかったです。日本を世界に紹介するのは日本人だ、という当たり前のことに気がついたことは、英語を学ぶ大きな目的のひとつになりました。日本語や日本文化のよさに改めて気付くことができたので、もっと知識を広げ、深めて、大切にしていきたいです。そして、英語を使ってそれを説明できるようになりたいです。世界から誤解されているであろう日本の文化や風習を正しく理解してもらえるように、世界に向けて発信していきたいと思います。また、言語の背景にある文化の重要性が良くわかったので、これからは常に文化の違いを前提にして学習できると思います。外国の人と話すときも、そのことを念頭においておけば誤解も少なくなるし、相手の文化への理解も進み、コミュニケーションがとりやすくなると思います。

Bまとめに代えて−我が国の英語教育への提言
 いままでに私が受けてきた英語教育では、言語と文化は切り離せないのに、文化についてはほとんど学んできませんでした。先生がよく「仏作って魂入れず」とおっしゃっていましたが、その通りだったと思います。たとえば、スピーチレベルがあることを知らなかったので、くだけた表現と改まった表現の使い分けができず、混ぜて使ってしまっていました。これでは、話すときも状況にあった会話ができないし、文章を書くときも決して上手な文にはならないと思います。また、文化の違いから生じる意味のずれ(たとえば、日本では弁解はマイナスイメージを持つが、英語圏ではexcuseすることが当然である)を知らなければ、正しく意思疎通することはできないと思います。さらに、どんなに上手に文章が書けても、論文を書く際に英語圏では結論が先にくるということを知らなければ、読んでさえもらえないこともあります。また、日本語を英語に訳すときにも、日本人の考え方や文化を知らなければ、適切な英語には訳せないと思います。こういった、日本と英語圏双方の文化について教わる機会が全くなかったことが、いままでの英語教育に欠けていたところだと思います。これらの違いがどこから来るのかといった根本的なことも知る必要があると思います。
 また、やはり実際に英語を使うための練習が足りないと思います。たとえば、日常的な挨拶や決まり文句です。「久しぶり」や「頑張れ」といった、日ごろよく使う表現は習えば必ず言えるはずなのに、多くの日本人が言えないと思います。英語を学ぶ以上、使えるようにならなければ意味がないので、もっと実践的な英語を学ぶ場が必要だと思います。
 今後の英語教育は、本当に英語を使いこなせるようになるためのものであってほしいと思います。そのためには、英語の背景となっている英語文化についての幅広い知識や、日本語と日本文化に関する深い知識が必要です。ただ訳したり、問題を解くだけでなく、日本語と英語にずれがあることや、スピーチレベルなどを知る機会が必要だと思います。そのためには、そういった違いの背景となっている文化の違いを知ることも不可欠でしょう。だから、国語の授業と連携するなどして、英語圏の文化を知るだけでなく、日本の文化についてもきちんと学び、比較する場を創るべきだと思います。もちろん文法や語彙は大切ですし、軽視してほしくはないですが、少しくらい文法が間違っていても伝わるのだから、自分が考えていることを、相手に誤解を与えずに正しく伝えられる英語力を身につけられるようにしてほしいと思います。また、読み・書きだけでなく、話す・聞くことにもより重点を置いてほしいです。それに加えて、一人一人が、なぜ、何のために英語を学んでいるのかという明確な目的意識を持てるような環境があれば、よりモチベーションが高まっていくと思います。
 小学校からの英語教育については、私自身恩恵を受けたので、導入してもいいとも思いますが、中学校から始めても十分使いこなせる人もたくさんいるので、必ずしも必要ないと思います。本当に英語を使いこなすために必要なのは、まず第一に自分の母国である日本についての知識であり、それがおろそかになるくらいなら導入しないほうがいいと思います。むしろ日本について学ぶ授業を設けたほうがよいのではないかとも思います。30303051 岡部 緑)


@ 私が受けた英語教育−高校までの英語教育を振り返って
 私が初めて英語の授業というものを受けたのは小学校4年生のころだったと記憶している。これは近所の小さな英語教室での少数レッスンであって、いわゆる「習い事」の感覚で始めたものであった。そのため、自分としては英語を学ぶことに大きな意味を感じていなかった。
 しかしその後、私は父の仕事の関係で、中学時代の大半をアメリカで過ごすことになり、ここで初めて英語の必要性を感じることになった。通っていた学校が主に現地校であったこともあり、私は日々の生活を通じて英語のリズムに慣れることができたし、ある程度の英語力は身についたと感じている。
 以上の経緯で、私が日本の一般的な英語教育に触れることになったのは、中学校3年生の途中で帰国し、公立の中学校に編入してからのことである。予想していたことではあったが、そこで習う英語と、現実にアメリカ社会で使われている英語はかなり乖離していた。
 まず、中学校で英語を学ぶにあたっては、日英の言語・文化の比較以前に、教科書と英語辞書こそが絶対的な真実であることが前提であった。内容的にも、教科書を中心に、文法や単語を紹介するというものが主であって、時にはネイティブの講師を連れてきて会話の練習をするというものもあったが、それらの形骸化は著しく、英語を習得させようという姿勢は感じられなかった。
 また、私は高校受験に備えて進学塾に半年ほど通ったが、ここでの授業については、英語を言語として、というよりは、単なる一試験科目として点数を稼ぐためのものであるように感じられた。具体的には、単語や一定の表現形式を暗記し、自分の答案を、唯一絶対の解答に導く練習であった。 さらに、前述の傾向は高等学校での英語教育にも引き継がれていた。私の出身高校は受験校ではなく、偏差値や順位といった価値基準からは解放されたが、結局は定期試験で点数を取らせるための授業を受けていたことは否めない。
 私は、自分が受けてきた英語教育には、好ましい点とそうでない点の両方があると思う。
 まず、好ましい点のひとつは、初学者にやさしい点である。初めて学ぶものについては、ひとつの問いにひとつの答えという固定的な形式のほうが吸収しやすいのはまちがいのないところであるし、日常生活で英語を使わない者が大多数である以上、単語や表現形式の暗記は効果的な学習方法であると思う。
 また、もうひとつ好ましい点として、学生を点数という客観的な基準で評価できる点があると思う。言語を試験にする以上は、整合性を持たせるために現在のような画一的な教育が適合するし、何よりも数字による評価は公平であると思う。
 逆に、好ましくない点は、何よりも英語を意思疎通の手段として考えていない点であると思う。実際、現在の英語教育を受けても、英語で自分を表現する能力が身につかないことは事実をもって証明されている。中学校から大学まで英語を勉強してその結果ではあまりにも寂しすぎると思う。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 この授業では、それぞれの国の文化が言語に与える影響を重要視している。これに近いことは私が一年次に受けた授業にも共通するが、ここでは、主に宗教的側面からの説明が多く、感心することが多々あった。それは欧米人のことだけでなく、我々日本人の言動の根拠にも広く触れていたためだと思う。
 また、私はこの授業によって、自国の考え方で他国の言語を操ろうとすることがいかに無謀なことかを学んだ。考え方が違えば、ひとつの物事に対する解釈も異なるのが当たり前であり、そういった根本的な部分を見逃していては、誤解を誤解で上塗りするばかりなのだと思う。
 総合的に見ると、物事を客観的に捉えること、固定観念に縛られないこと、自分と相手の背景を考えてみることの重要性が、私がこの授業から学んだことだと思う。これらは、英語という枠組みだけでなく、人間として重要なことだと思うし、将来的にも、人間関係の構築には大いに役立つと思う。

B まとめに代えて―わが国の英語教育への提言
 最後に、今後の英語教育のあるべき姿について自分なりの考えを述べたいと思う。
 これまでの日本の英語教育には、英語が欧米文化を基に成り立っていることを十分に理解させる配慮が欠けていると思う。これについては、日本人の感覚をそのまま和英辞典に従って訳したところで無意味であることをまずは理解させるべきである。それには何よりも先に、自分たちの文化を学ばせることが必要だと思う。私自身、日本文化への理解は悲しいほど浅いし、レポート一つ作成するにしても日本語の難しさを痛感させられている。
 また、現行の試験ありきの教育制度は、スペリングや文法などの些細な誤謬に執着させるあまりに、言語を学ぶ意義を曖昧にしているような気がする。確かに、そのような点数主義の評価方法は必要だとは思うが、そういった場面に外国語を試験科目として適用するのはふさわしくないと思う。言語が本来は意思疎通の道具であることを考え直すべきだと思うし、そもそも言語を筆記試験に集約すること自体に無理があると感じる。この点で、今後の英語教育は、相手に自分の意思を伝える力を養えるような教育を重視するべきだと思う。具体的には、英語をいわゆる受験科目から除外して、言語として英語本来の利用方法を意識した教育に移行すべきだと思う。
 英語は必要なスキルだとよく言われるが、個人的には、日本での日常生活においては英語の必要性はほとんど感じない。これは、学生の多くに同じことが言えると思う。人は必要性を感じて初めて自ら学びたいという意欲が湧くものだと思うし、特に言語については、押し付けられて机の上で勉強しても本質的には無意味だと思う。今後の英語教育はそれを十分に理解した上で、一方通行にならないよう、学生の役に立てるものであってほしいと思う。(30354222 窪 孝史)


@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 中学時代の授業内容は、教科書のテキストの和訳が中心で、そのチャプター内の新出単語や熟語の練習、テープを使っての発音の練習もあった。中学時代の英語教育についての記憶は、かなり以前のことであるのであまり鮮明ではないが、辞書指導は特に行われなかったと記憶している。そして、ニ・三年時の教師は心身共に老いていて気力に乏しく、ただ学校側から与えられたカリキュラムを消化しているだけ、といった印象であったので、それ以上のこと、つまり日英の言語や文化の比較などはほとんど行われなかったと言ってよいだろう。また、中学は公立校だったため、授業内容が受験対策に特化していたということもなかった。 
 高校は私の出身地である
北海道内でも有数の受験校であり、大学受験の科目の中でも重要な英語は、とても力が入れられていた。私も上位の大学を狙っていたため、当時はそのような考え、やり方に異論はなかった。
 授業は一・二年次は、リーダーではテキストの和訳が中心で、また定期的に、学校が購入した単語集を使っての単語の小テストが行われた。グラマーは、教科書を教師が黒板などを使って説明し、教科書の練習問題を生徒に当ててゆく、といったものだった。
 また、通常の英語の授業とは別に、国際的に通用する英語力を身に付けるためのものである、Oral Communication(通称、O.C.以後、本文内でもこの呼称を用いる)という科目が組まれていた。これは、キリスト教の国際的な修道会によってつくられた我が校で、外国出身の修道士が教師として数人いるという特徴を活かし、主にそれらの教師が担当し、生きた英語力を生徒たちに身に付けさせる、というものだった。
 また、いずれの授業も、生徒の学力が高い学校であったため辞書の使い方の指導は必要なしと判断されたためか、辞書指導は行われなかった。
 私としても国際的に通用する英語力を身に付けたかったため、O.Cには高い期待を持っていた。しかし結果的には、O.Cはリスニングを重視しただけの、通常の英語の授業の延長になってしまった。O.Cの授業の中でも、さすがに多くの生徒を一人の教師が受け持つ体制で行うのは不可能だったのか、口頭の英会話はほとんど行われず、リスニングの練習問題を生徒に当てたり、イギリスから取り寄せた教科書を生徒に読ませるのが主であり、時折単語のテストもあった。学校が進学校であり、全般的に大学入試を意識していたため、結局O.Cも英語のリスニング・読解力養成のための授業であった。そのため、日英の言語・文化の比較は、教科書に触れられている以上のことはほとんど行われなかった。それは通常の英語の授業でも同様で、やはり大学入試で高得点を獲得しうる英語力を身に付けるのが第一であり、文化・言語の比較などの、外国語教育に欠かせないもの(なぜ私がこう考えるかは、後述)は取り上げられなかった。さらに、前述のように教師に西洋人やアメリカ留学者が多かったため、学校全体にアメリカ文化重視の雰囲気がかすかにだが存在した。そして、高校三年になってからは、さらに『大学入試対策用の英語』といった色が強くなり、通常授業はほぼセンターと二次試験の対策問題集を解いてゆくのみ、O.Cはリスニングの対策問題のみの内容になった。さらに、大学入試対策のために学校側が購入した問題集や単語集も、お世辞にも質のいいものとは思えなかった。それらの問題集の内容から、学校側が、『生きた英語力の育成』という理念を捨てていなかったことはわかるのだが、結局、理念も入試対策という現実もどちらも満たすことなく、中途半端な結果となってしまっていたように思われる。
 ただ、教師たちは、一生懸命独自に入試の傾向と対策を調べ、それを最大限授業に反映させており、生徒たちの質問にはできる限り丁寧に答えるなど、精一杯受験校の教師としての努力はしており、それは英語の教師においても例外ではなく、そこのところは好感が持てた。 

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業は、今まで私の受講した英語の授業では触れられもしなかったようなことを、多く教えてくれた。今までの英語辞書の和訳が日英の文化的差異を無視したものであるということ、それを使った場合外国人に思わぬ誤解を与えてしまうということ、外国語を学ぶということはそれらの誤解を招かぬために異文化の相手に対して説明するということであるということ、そしてそれらの説明のために必要な我々若い世代の日本人が忘れてしまったような様々な日本の伝統的・文化的な行事の意味、日本は他文化
(主に、今の世界の主流たるアメリカ文化)にも決して劣らぬ伝統と合理性を持っているということ、英語で異文化人に説明するために注意が必要な西洋の国の文化的背景、今までの日本の英語教育が無視してきたspeech level(言葉のTPOのこと。今の高校レベルの英語教育で習う表現は、多くが日常会話で使うにはいささか固すぎる)という概念。
 また、大学一年次のものも含め、今までの英語の授業は、与えられたテキストを読むとき、文化的な違いがある部分にはほとんど注釈が振られていたため、我々はただ辞書を片手に訳のみに専念することが多かったが、この授業では、日本の文化的なことがらを異文化の人々に説明すること、そしてそのために調べ、考えることが重要視された。
 これらの授業により、私が得たものは多い。まず、日本の伝統的な文化に対しての知識を深めることができた。かつて私は、多くの日本の伝統的な文化は、合理性に欠けており、慣習として生き残っているので年配の人間が捨てられずにいるから存在しているだけのもの、つまり時代遅れのものと認識し、切り捨てていた。しかし、それらの文化にも、生まれた時代にはこれ以上ないほどの合理性があり、そしてそれ以上に、古の人々の優れた知恵を今に伝える、価値あるものであることを知った。そのおかげで私は、今後は日本文化、そして自分が日本人であることに、より誇りを持てるようになるだろう。また、自国の文化に誇りを持つことにより、今世界の価値観に最も強い影響を及ぼしているアメリカを始めとする西洋の文化に対して、劣等感という不幸なフィルターをかけることはなくなるだろうし、逆にアジアなどの、『劣っている』と思われてしまうことが多いように感じる文化に対しても、同様に優越感(劣等感と表裏一体である)というフィルターをかけずにすむだろう。そしてその結果、異国の文化をより尊重できるようになるだろし、そのことにより、異文化の人と積極的にコミュニケーションを持ちたいと思うだろう。実際私は、自分とは異なった背景を持つ者と上手にコミュニケーションが持てることを、非常に価値のあることだと信じている。この授業で学んだことは、私が自らを高めるために、とても役立ってくれるだろう。そして、外国語が『他の文化の人々と誤解を生むことなくコミュニケーションするための有用な道具』という側面を強く持っているこの授業で学んだ今、上記のような理由から、私は外国語の学習により積極的になるだろう。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 現在の我が国の英語教育は、率直に言って、受験のための英語教育となってしまっていることは否めない。元来、外国語教育とは『他文化の人間と誤解を生じずにコミュニケーションをし、わかり合う』ためにあるべきものだ。それは、言語というものが、自らの思考・意思を相手に伝えるために生まれ、発達し、現在もそう在ることからも明確である。しかし、今の日本の英語教育はその認識が欠けており、『受験に合格する』ために存在しているとしか思えず、本来の目的を達成するのに必要な事項、日英の文化比較や文化の違いを英語圏の人々に伝える練習がほとんど行われていない。今行われているのは、与えられた英文を素早く読み、それについてのまるでクイズのような問題に素早く答えるという、早解きクイズのような機械的で味気ないものとなってしまっている。しかも、その早解きクイズは、娯楽ならこれも楽しいかもしれないが、受験という、その結果が今後の人生に少なくない影響を与えるものであるので、ほとんどの受験生にとっては、この早解きクイズは機械的な上に、苦痛ですらあるものとなってしまっている。
 これらの問題を改善するには、まず、受験の在り方そのものを改善しなくてはいけないだろう。前述のように、受験というものは学生たちにとって極めて大きな力を持つ存在であり、学校における英語教育の延長線上に受験がなければ、学生たちは誰も学校の授業に見向きもしなくなってしまうだろうからだ。では、どのような受験にすればよいのか。
 今の入試は、ほとんどが前述のような機械的な入試であり、外国語学習の本来あるべき目的の到達点というには無理があるだろう。故に、新しい入試の最も望ましい形態は、外国語学習の本来の目的であるべき異文化人に対しての誤解のないコミュニケーション能力のテストであり、具体的には、何らかの事柄について外国人に説明するというテーマのレポートか口頭でのスピーチが妥当だろう。ディベートは、元来日本の文化になく、日本人には根付きにくいと思われるので、妥当かどうかはあやしい。
 もちろん、現在の入試形式からこの形式に変更するなら、採点に多くの時間を要することや、採点基準が試験官によってばらつきが生じることが起こってしまうかもしれない。実際、現在の入試制度がここまで我が国に深く根を下ろしているのは、採点の手間や採点基準のばらつきが少ないためであろう。しかし、今の入試制度では、ますます国際化してゆくこれからの世の中にあって、日本人は少なからず不利になってしまうだろう。それに、上に挙げた問題も、制度をきちんと整備し採点基準をしっかりと明確化すれば、かなりのレベルで防ぐことは可能だ。なので、多少のリスクを背負ってでも、今の入試を改善する価値はあるだろう。また、入試直前で制度が改善された者のために、数年は旧入試も併せて行う必要があるだろう。
 そして、入試が改善された後は、新しい入試の対策も兼ね、中高の教育は主に異文化の人々に様々な事柄を説明するための技術の向上や、その楽しさを教えることの重点を置くべきであり、リーダー・グラマー共に、そのための大幅なカリキュラムの変更が望ましい。
 そして、これは英語教育についての話からは若干外れるが、上記のカリキュラムを組むためには、日本の文化を詳しく知り、それに対して誇りを持つことが大切だろう。自国の文化の説明は他文化の人々が最も興味を示す分野であるだろうし、前述のように自国文化に誇りを持てない者は、どうしても他国の文化に優越感や劣等感といったフィルターをかけてしまいがちだからだ。しかし、今の日本は全体として、どうしても欧米の文化を重んじ、反対に自国の文化を過剰に卑下してしまう傾向があるように思える。なので、これからの教育は、我々日本人が二千年以上独立国家を保ってきた力の源となっているであろう日本文化の伝統と力について正確に教えることが必要だろう。無論、日本文化だけではなく、他の国の文化の中で知っておかねばならないことも教える必要があるだろうが。ただ、おそらくはこれらのことは英語という授業の中では完全にはカバーしきれないことが予想されるので、国語や社会の授業などにそれを盛り込むことも必要だろう。
 また、英語教育を始める年齢であるが、一般的には今まで通り中学生からはじめるのが妥当であろう。だが、周囲にバランスのとれた国際感覚を持つ人が多く、異国の言語を『異文化の人間とコミュニケーションするための便利な道具』と認識できる環境さえ整っていれば、小学校低学年かそれ以下の年齢からでも望ましいと思う。もちろん、周囲の環境が、英語を『受験のためのもの』ととらえているならば、子供は英語学習に積極的な目的意識を持てないだろうし、周囲の人間が英語圏文化偏重者だったなら、子供は自国の文化に誇りを持てないいわゆる根無し草になってしまう可能性があるので、早期の英語学習は避けた方がいいだろう。だが、環境さえ整っていれば、子供に世界には自分たちとは違う言葉・考え方を持っている人々がいて、そんな彼らとも仲よくなれる手段があるということを教えるのは、とてもいいことだと思う。そして、これからの世界は、国際化や医療の発達(今までは死んでしまうような病気や障害を持った人々が生きてゆけるようになる)によって、ますます自分たちとは違った人間が増えてゆくのである。そんな世の中だからこそ、日本は正しい外国語教育の在り方を我々に、そして何より未来を担う子供たちに示さねばならないだろう。(30207865 津田英佑)