27. 我が国の英語教育に思う
 
―慶應義塾大学法学部2年生の意見 その1―

本欄(英語教育論考)の1〜6には、「満足度の高い大学英語授業の創造」という題目の下に、慶應義塾大学法学部における私の「英語V」を受講した諸君の“生の声”が紹介してあります。その目的は、の冒頭で書いたように、「我が国の英語教育が本当に成功しているかどうか、どこにどのような問題があるか、何をどのように改善すれば良いかと言った点を知る最も有効な方法の1つは、英語教育を受けた側、すなわち生徒・学生諸君の声に耳を傾け、その内容を分析すること」だと思うからです。
 今回(2004年[平成16年]度)は、表記の題目の下に、2クラスの受講生諸君に、@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返ってA「英語V」(山岸勝榮担当)を受講して―この授業から学んだことBまとめに代えて―我が国の英語教育への提言の3点について各人の自由な意見を書いてもらうことにしました。その際、受講生諸君には、文部科学大臣に宛てて“英語教育改革案”を提示するつもりで書いて欲しい、責任ある文章を書くためにも実名を使用して欲しいと私の希望を伝えました。「その1」(本頁)は2クラスのうちの1クラス(受講登録者36名)、「その2」(こちら)はもう1つのクラス(受講登録者25名)の諸君によるものです。我が国の英語教育関係者の全てが、現在・未来の英語教育を考える際に真剣に検討すべき事柄が、ここに紹介する慶應義塾大学法学部学生諸君の文章の中に読み取れるように思います。
 私は、私の授業の進め方が最良だなどとは夢にも思いませんが、毎年の受講生が(大いに)満足し、自分たちに欠けていたものを発見、実感してくれる以上、このようなやり方にも、それを一般に広めていくだけの価値はじゅうぶんにあると感じています。【注記:本頁と次頁の文章は2005年[平成17年]1月7日、同月14日に提出されたものの転載です。掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています。】


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 今振り返ってみると、高校での英語の授業は非常につまらなかったといわざるをえない。僕が通っていた高校は一応進学校であり、授業も常に受験を意識したものになっていた(その割には中途半端だった。これは浪人して予備校で勉強して気づいた)。12年次で一通り文法事項を終わらせ、3年で入試問題を解くという形式だった。問題を機械的に解くだけで、英語を学ぶ理由・意義などについては一切何の説明もなかった。また英語の辞書に対する指導も当然のことながら一切行われなかった。授業の進め方も一通り文法事項を先生が説明した後、それを使って読解したり、問題を解いたりするだけであった。これは予備校でも同じだった。一番英語らしかったのは外国人の先生が来て行うオーラルコミュニケーションの授業だった。ここでは生の英語に触れられるし、なにより耳を最大限に利用するため英語の授業としてはよかった。普通の英語の授業は前に述べたことをただひたすら繰り返すだけで、本当に受験のためだけに英語をやっているという感じで、英語を話せるようにさせようという意図は全く感じられなかった。僕は帰国子女なので日本の英語教育のひどさについては人一倍感じている。4年間カナダで暮らしていたが、カナダでは公用語として英語とフランス語があるため、基本的にフランス語を外国語として学ぶ。このフランス語の授業でさえ日本の英語の授業よりはましであった。ちゃんと話すということの方に重点が置かれた授業が行われていた。
 ただ、日本の英語教育において1つだけ良いことがある。それは単語や熟語を受験のためにたくさん覚えなくてはならないため、それらを必死に暗記するためかなりの単語・熟語が覚えられることだ。単語や熟語さえ知っていれば、例え文法事項を知らなくてもなんとか相手とコミュニケーションを取ることができる。この点は評価できると思う。逆に言うとこれだけ単語や熟語を知っていて話せないということの方に問題がある。
 以上述べてきたように、僕が高校時代に受けた英語教育は決して好ましいものではなかった。これでは英語を話せるようになるどころか、英語を嫌いになってしまう人の方が多いだろう。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 これまで述べてきたような授業しか受けていない僕にとって山岸先生の授業は画期的であった。今まで何を必死になって勉強してきたのだろうかという気持ちにさせられた。大学一年次の授業もほとんど高校で受けた授業とあまりかわらなかったので、大学の英語の授業もこんなもんかなと思っていたが、この授業は良い意味で期待を裏切ってくれた。この授業で今まで全く述べられることがなかった英語の本質、英語と日本語の違い、日本の英語辞書(特に和英辞典)のひどさなど英語を学ぶうえで必要不可欠な事項について詳しく知ることが出来た。また、同時に自分の日本語に対する知識のなさを痛感させられた。自分の国の言葉も知らない者が外国語など分かるはずがない。このことを痛いほど感じさせられた。「英語の授業だから英語ばっかりやっていれば良いわけではない」という先生の言葉には非常に重みが感じられた。
 先生の授業は英語というより、日英言語(文化)比較学と言ったほうが的を射ている。「言語の背後には文化がある」がこの授業のコンセプトの一つであった。英語を日本的に理解しようとしても理解できるはずがないのはこのせいである。我々日本人と欧米人には文化の相違があり、当然それが言語にも影響をもたらしている。こんな簡単なことに我々日本人の多くが気付いていない。これではいつまでたっても英語が理解出来るようにはならない。英語は一神教であるキリスト教が背後にあり、日本語は多神教である日本独特の宗教観(仏教、儒教、神道などの影響を受けている)が背後にある。この宗教的差異が非常に大きな影響をもつ。日本人はよく無宗教だというが、実際はいろいろな宗教的な影響を受けている。これにより欧米人は個人主義で個を尊重するのに対して、日本人は個より和つまり集団を尊重する。これだけ文化が違うのだからその影響をもろに受ける言語に至ってもおなじである。先生の授業でこのことをしっかりと理解することができた。
 また高校で習った単語や熟語についてもいかに誤った教育がされているかを知ることができた。辞書に当然のように書いてある訳とスピーチレベルが全く異なるものが多々あった。例えば高校で教わるMay I ask a question of you?は実際は非常に堅く響く。少なくとも学生間では言われることはない。普通はMay I ask you a question?というようにする。このような日本語のスピーチレベルと明らかに一致していない英語を使うあるいは使ってしまう傾向があるようだ。これは明らかにこのようなスピーチレベルに配慮した教育が行われていないことに起因する。
 また外国語を学ぶ大変さも知ることが出来た。他の国の言語を理解するためにはその国の文化や風土についても知っておく必要があるからである。他の国の言語を話すということはその国の文化や風土を理解するということである。これを忘れてはならない。大変ではあるがやりがいある。
 以上この授業から得たことは計り知れない。特に外交官になってこの国のために働こうという目標を持っている僕としては非常に有意義な授業だった。「言語の背後に文化あり」という標語を常に頭に入れて外国人との交渉やディベートを行うべきであるということを痛いほど痛感した。だが逆に言えば相手国の文化をきちんと理解し、その上でその国の言葉を理解すれば、外国人に対して外国語で相手を言い負かすことも夢ではないということになる。日本人は英語ができないのではなくてきちんと理解していないだけで、きちんと理解さえすれば必ず英語はできるようになるということである。このことを信じてこれからも英語を学習していきたいと思う。この姿勢は必ずや将来外国で働くときに役に立つと思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 まず言葉とは伝わらなくては意味がないという原点に戻るべきである。リスニングの問題があるだけで、志望校を変えてしまうような風潮は変えるべきである。文法も確かに大事だが、それ以上に相手にいかにして伝えるかの方が重要なのではないか?いくら文法事項をきちんと暗記していても、話せなくては意味がない。日本の英語教育は間違いなく文法に力を入れすぎている。よってこれからはリスニングの方に重点を置きつつ、それと並行して文法も勉強するという方が望ましい。日本語は表意文字であり、漢字などは見ただけで意味が分かるものも多数ある。それに対して英語は表音文字である。アルファベット1つ1つは音を表しているに過ぎない。この点からも英語においては日本語以上にヒアリングが重要なのだ。友達と英単語の意味を確認し合っているときも、書かれていれば意味が分かるのだが、言われてみると全く理解できないという場面が数多く見受けられた。つまり意味はわかってはいるが発音は分からないのである。これでは英語が話せないのは当然といわざるを得ない。とにかくリスニング(出来れば外国人と日本人の先生がペアで授業を行うのが好ましい)中心にした方が良いだろう。文法は2の次である。 
 またこの授業で行われた内容もきちんとこれからは教えるべきであろう。日本語と英語は違うものだということからである。よく古典の勉強をするとき先生から外国語を学ぶつもりで勉強しなさいといわれるが、それは間違いである。確かに言い回しは現代とはかなり異なるが、背後にある文化や風土は同じである。外国語とは自分の国とは異なる文化や風土を持った国の言葉のことである。そのような言葉を学ぶときに自分たちの考え方に基づいて考えてはいけない。まずはその国の文化や風土について理解し、ものの考え方を理解して、その考え方を使って考えることが出来なければ外国語を本当に理解したことにはならない。日本語と英語の差異をきちんと教える授業を新設することが望ましい。

 現代の風潮として英語がなくては生きてはいけないという風潮がある。しかし、これは間違いで、別に英語を知る必要のない人も大勢いるはずだ。そのような人たちにも英語を強制するのはおかしい。まずは日本語からきちんと教えるべきである。母国語についてきちんと理解できていない者が外国語を理解できるはずがないのだ。また英語の方が日本語より優れているという考え方も払拭すべきである。文化に優劣をつけられないのと同じく、言語にも優劣はつけられない筈だ。このことを分かっていない人が多すぎる。
 以上のことを教育としてしっかりと施せば必ず英語の話せる(理解できる)日本人がたくさん生まれるはずである。日本人=英語が話せないというレッテルが将来的には変わっていることを願うばかりである。30310630 日田 諭)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 日本の中学校での英語教育を揶揄する例として、よく用いられる“This is a pen”というフレーズがあるが、私が受けた英語教育の始まりもそれと似たようなものだった。中学の英語の授業はHello, How are youといったあいさつの言葉から始まり、動詞、受動態、準動詞や関係詞などの文法事項の基礎を学んだ。今から考えてみれば、私が学んだ中学英語の目的は、高校英語の下地を作ることに尽きるのだと思う。時々はネイティブの教師が授業に参加することもあった。コミュニケーション中心の授業だったと思うが、正直に言ってあまりはっきりと思い出せない。特に印象に残らなかったということだろう。高校では、英語の授業は週に3コマあった。一年次は文法と長文読解、オーラルがそれぞれ1コマずつ、2年になるとオーラルがなくなって長文読解が2コマになり、3年次にはすべてのコマが受験対策にあてられた。とはいっても私の通っていた高校は進学校というほどの学校ではなく、四年制大学、短期大学、専門学校それぞれの進学志望者が同じクラスに入り混じっているという状況だったので、教師の熱意もどこか空回り気味で実際の授業の雰囲気は呑気なものであった。ともあれ、授業のカリキュラムとしては大学受験の英語試験を最終目標に設定し、その目標点を基準にトップダウン式に組まれたものだったと思う。
 授業形態は専ら、指名された生徒が答えを言ったり書いたりし、あるいは英文を訳し、教師がそれを修正し補足説明を加えるというものだった。英語を学ぶ理由・意義などについて、中学においては特に説明された記憶がないが、当時の私は、今後ますます増えると思われる国際的な交流の場において英語が必要だから勉強するのだろうということを漠然と感じていた。また高校では、文系にしても理系にしても、現在の大学の試験は英語の配点が非常に高いので、英語の勉強は決して怠ってはならない、英語を得点源にしなければならないということを、学年があがるにつれ頻繁に聞かされた。私も自然と英語は受験のための武器だと考えるようになっていた。英語の辞書に関する指導は一度も受けたことがないし、日英の文化的観点からの日本語と英語の比較も行われなかった。言語比較といえば、もっぱら英文和訳、和文英訳であった。英文を和訳する際、訳してはみたが意味が通っておらず、当の自分にも内容が理解できないような場合でも、文法的に正しい訳ができていれば得点は与えられた。 
 もちろん、中学高校で受けてきた英語教育に意味がなかったとは考えていない。六年間英語を勉強して一番良かったことは、大学に合格したことだ。という言い方は誤解を招くかもしれないが、つまりは目的と手段の整合性という点から言えば、中学校、高校の英語教育のカリキュラムは少なくとも私には間違っていなかったということだ。大学受験をゴールとして勉強した中で、一定程度長文読解力、文法の知識、語彙などを身につけることができた。そしてこれらの成果は今後の生活の中でも、決して無意味なものではなく自分にとってプラスに働くものであるはずだ。しかし、好ましくない点もある。六年間のカリキュラムを終えた今私が強く感じるのは、受験前には一日に何時間も英語を勉強し、訳語の日本語の意味すらよくわからないような英単語を覚え難解な長文に挑んでいたにもかかわらず、実用的な英語能力がほとんど身についていないということだ。受験を目的とした英語教育であるなら仕方のないことかもしれないが、実際に英語でコミュニケーションをとらなければいけない場ではそのことを身にしみて感じる。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業の形態や内容は、過去に受けてきた授業とは大きく異なり、私にとって全く新しい体験だった。今まで受けてきた授業で重点的に扱われていた、長文を読むという作業やリスニング、整序問題や選択問題などの文法の演習などではなく、英語という言語の背景にある欧米の歴史的経緯や文化的背景について学んだ。考えてみれば、言語とはその土地の文化と切り離すことのできない文化的背景を反映するものであると同時に、それ自体一つの文化であるというのは自明のことである。日本語に関しては、そのことを日常生活の中で気づく場面もある。特に私は地方出身であるので、言語の地域差を目の当たりにし、言語と土地の密接な関係を感じることができる。しかし、外国語もまた例外ではなく、英語にはネイティブとして英語を使用する欧米人独自の文化、思考が反映されているということを意識したことはなく、この授業の受講を通して英語の文化的側面に初めて目を開かされた。これまで中学、高校や大学一年次を通して、日本語を英語に、英語を日本語に直すという作業にばかり重点をおいて英語を学んできた中で、この基本的な事実を見落としていたと思う。本来ならば、言語の土台を形作る文化というものこそ、言語の学習を始める前に、第一に学ぶべきものなのかもしれない。土台がしっかりしていなければどんなに積み重ねても安定した骨組みを作ることはできないであろうから。 
 もう一つ、この授業を通して大切なことを学んだ。それは、自分の母国語である日本語についてである。普段その起源を考えることもなく行っている慣習や、使っている言葉にも、英語と同様、日本人の歴史的に培われた民族性や文化が反映されている。英語よりも言葉少なな日本語においては、より濃縮されて密度の濃い文化が一つの言葉に詰まっているのかもしれない。そのルーツを辿れば、日本史の教科書でも詳細には触れられないような、集住して農耕を行っていた時代にまでさかのぼるのである。そのような現在からあまりにも遠い時代のできごとを、資料に基づいても正確にイメージすることは難しい。しかし、私たちは日本語や現代まで残る文化的慣習という遺産を通して、遠い時代の日本人の精神が現在にもなお息づいていることを肌で感じることができるのである。文化というものの偉大さ、日本文化の素晴らしさを再認識し、自分が日本人であることを誇りに思うことができた。近年日本語が乱れていると言われるが、新しい言葉が乱立する中でも伝統的な日本語、美しい日本語を大切にし、伝統文化を未来の世代に継承していくことが、日本人としての私たち一人一人に課せられた使命であると思う。

 この授業において、日本と欧米それぞれの文化的背景に着目し、日本語と英語のズレを学んできたが、これは日本語と英語にだけ当てはまることではない。言語はその背景となる文化と切り離せない関係にあるのだから、言語を学ぶにはまず文化を学ばなければいけないという、一年間通して学んできたことは、これから先どんな言語を用いる人とコミュニケーションをとるときにも必ず生きるだろう。言葉の意味が分かるだけでは、相手の気持ちを本当に理解することはできない。文化を理解して初めて本当の意思疎通ができるのだということを学ぶ貴重な体験であったと思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 日本の英語教育に欠けているのは、言語とは民族の文化であるという視点に基づく指導だと私は考える。大学受験を目標とした日本の中学校、高校の英語教育においては、英語をデータとして頭に詰め込むこと、英文を論理的に読み解くことが学習の中心になっていて、この最もファンダメンタルなことが抜け落ちてしまっているのだ。単語一つをとってみても、元来日本と欧米では衣食住すべてにおいて生活のスタイルも文化的習慣もまったく異なるものであったのだから、一つの英単語に一つの日本語の単語を訳語としてあてはめてみても、両者の間に完璧なイコールが成立するはずはない。日本語と英語の間には決定的な文化的なズレが存在することをまず認識しなければならない。そして、そのようなズレを生み出している欧米の文化と日本文化における思考の仕方や歴史的経緯の相違について一定の認識を持つ。ここで初めて英語を学ぶスタートラインに立てるのだと思う。
 英語を学ぶにあたってまずこのような認識を持つことで、その後の英語学習に対する認識は“This is a pen”から始まった場合と大きく違ってくるだろう。英語とは欧米文化を反映しているものであり、欧米文化は基本的に日本人にとって異質なものだという前提が確固たるものであれば、その後文法や英文和訳を学んでいく過程において、その都度欧米人の文化や思考の反映がどのような形であらわれているかということを自ら発見できるだろう。また、授業内容はそれを可能にするものであるべきだ。ただ単に英語のきまりについて説明するだけでなく、そのようなきまりが用いられるようになった文化的な背景は何なのかという視点を持つべきである。もちろん、英単語の本来の意味が日本語でいう何にあたるのかを学ぶことができる正しい辞書を使用することは不可欠だ。
 更に、もう一つ重要なのは、私たちが普段使っている日本語を見つめなおし再評価するということである。日本人が海外に行く機会も、その逆のケースも増え、英語の日常性が高まっている昨今、英語ぐらい話せないと恥ずかしいという意識を持っている人も少なくないだろう。しかし英語以前に、自分の母国語を正しく話せないとしたら、そのことこそ恥ずべきではないか。私は日本語を美しい言葉だと思う。「言外の情」という言葉にあるように、また寡黙なことが美徳とされるように、日本語は言葉少なであっても、その言葉たちのまとう空気から意味するところを汲み取ることができる。そのような言語を生み出したのは他でもない。「うち」と「そと」を完全に区別し、「うち」の人間同士の付き合いには徹底的な「甘え」を許した農耕社会にルーツを持つ日本文化なのである。このような日本文化に関する認識がなければ、欧米文化とのズレが理解できるはずがない。
 大切なことは、日本語と英語は簡単にはイコールで結べない、基本的に異質なものだと認識することだ。それぞれの言語は、日本文化と欧米文化という異なる文化生活の中で長年かけて形成され、現在もなお形を変え続けるものなのである。英語は、数学の公式や科学的法則のような普遍的なものとは本質的に異なる。長い経緯を経た未知なる文化が言語の中には濃縮されていて、英語を学ぶことを通して私たちはその中にある深いルーツに触れているのである。(30361895 光成 香)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私は中学から英語を学習してきた。それはほとんどの大人が経験しているにもかかわらず、日本人の多くは英語が話せないというのが現状である。これには中学から高校に至るまでの6年間の英語教育が問題になっているのではあるまいかと私は感じる。
 そもそも「英語ができる」ということは「英語が喋れる」ということが日本人の共通意識であると思う。書くこと、読むこと、聞くことはそれに該当しない。英語は、読み、書き、聞き取り、話すことの4つに大きく分けられる。授業はオーラルコミニケーションなどの授業で会話の授業もあったが、ほとんどは本を訳していったり、文法を学んだり、単語や成句を覚えたりといったものであった。やはり読みことと書くことが重要視されている。だいたい英語の評価方法がテストによるものであり、それゆえこのような結果になっているのかもしれない。文を読んだり、単語を覚えたりすることが最優先事項となって、会話などは重要視されていない。英語教育のバランスがとれていないと思う。文法を理解することはできても、会話のときに頭の中で時間をかけて答えを出すより、もっと自然に会話ができる環境をつくることが重んじられてもいいと思う。 
 帰国子女の友人たちは、「会話はできるけど、テストはできるかわからない。文法はあまりわかんないし。」といっている。果たして、文法などに固執する日本の英語学習は適正であるのか。完璧な文法の理解より、山岸先生がおっしゃっていた意味が伝わればよいということのほうが大切であると痛感した。日本はペーパー上で英語を使えればよい、といった感じである。それゆえ、駅などで外国人に英語で話しかけられたとき、多くの日本人は戸惑ってしまうのであろう。

 また、発音もあまり重要視されていなかった。英語を学ぶ理由や意義を詳細に説明された記憶はなく、ただ単に中学生になったら勉強し始めるもの、世界的な共通言語だからわからないといけない、といった程度の知識しかなかった。授業は多くの場合、教科書、小説などを読み、訳していき、大事な文法や単語などを覚えて、書けるようにするというのが一般的であった。あるときは英語の唄を歌って英語に慣れ親しんだり、シチュエーション別の会話などをしたりした。日英における言語、文化の比較は行われなかった。日本と欧米では文化も宗教も違うため、捕らえ方に大きな差が出てくる場合が少なくない。それを考慮しないのは考え直さなくてはいけないと感じた。大学で英語を学び、このもっとも基礎の部分の理解の重要性に気付かされた。辞書指導については必要最低限のみであった。私は付属校であったため、大学受験を意識した指導はなかった。コミュニケーション系のものと、グラマー系の大きく分けて2種類の授業があった。
 これまで受けた英語教育では、読むことに特化していたため、文章の要点を早く理解することなどに関しては好ましい点であった。全体を細かく読んでいくのではなく、流れをつかみ、またわからない単語も前後から推測するというもので、パラグラフリーディングやロジカルリーディングといったものを学んだ。英語は性質上かなり論理的な文章構成であり、はじめに言いたいことを述べて、あとから詳細を付け加えていく。それは英語の文法にも現れている。それゆえこの読み方はとても効果的であった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 私は特に意識してこの授業を受講したわけではなかった。たまたま選んだだけなのだが、この授業は私の英語のスキーマを根本から変えるような感じであった。普通、日本人が学んでいる英語では、受験英語、テスト用英語であって、細かいミスはもちろん減点対象になった。3人称単数現在形のsのつけ忘れ、冠詞の誤り、クエスチョンマークの欠落などである。黒板で発表してこのようなミスを犯しても、山岸先生は「これでも外国人には伝わるので大丈夫です」とおっしゃっていた。この発言に感銘を受けた。今までの英語教育のスケールの小ささを思い知った。
 授業内容は、外国人の視点から見た日本人の行動のなぜや日本の童謡の英訳など、とてもユニークであった。日本人である以上、自分の国に対する外国人の質問には答えられるべきである。日本人が当たり前だと思っていることも、外国人には説明なしでは理解できないものが多い。それには、日本と欧米の文化の違いの理解が必要である。日本における謙譲の美徳など、感覚的に理解していたものを見つめてみるよい機会であったと思う。文化や宗教が違うので、仏教が多い日本人はキリスト教が多い西洋人と同じ言葉をとっても捕らえ方が変わってくる。たとえば、日本における蜻蛉、dragonflyはキリスト教ではdragon、すなわち悪の化身であり、ネガティブに捕らえられる。英語を学習する前に、この根本的部分は今まで習っていなかった。また、日本で教わる英語は日本語的な英語であって、欧米では使わないような古かったり難しかったりする表現や難しい単語などを検証することもできた。日本人がよくつかう、’many’という単語も、短い肯定文や口語ではあまり使わないなど、欧米人の感覚的な部分を学ぶこともできた。日本語の歌を英訳するときも、日本語独特の表現の英訳や単語の選択、リンキングさせることなど興味深いものであった。過去の英語授業と比較検討するとまったく異質なものであり、このような英語の授業がこれから一般的になるべきであると感じた。また、不思議と興味が湧くものが多かった。ただ闇雲の英単語を覚えていく現在のスタイルは古いものであると痛感した。
 もっと早く、英語を習い始めたくらいにこのような授業に出会っていたかったと思う反面、大学でこの授業にめぐり合えて本当によかった。英語そのものに対する見解が変わり、これからの自分の英語学習に少なからず影響を与えるものであった。外国人に日本に対する疑問や両国の文化や宗教などを踏まえたうえで物事を考えていけるので将来にもつながるものであったと確信している。また、この授業は挙手の回数が評価に繋がるので、必然的に授業への積極的な参加が求められ、黒板に書いて発表することもしばしばあった。よくありがちな一方的な授業にならず、先生−学生間のコミュニケーションが取れていたことがこの授業のよい環境であったと思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 前述したとおり、我が国の英語学習は日本語的、テスト用のものであって、欧米で話されているそれとズレがある。単語を覚えるより前に、お互いの国の文化や言語の特徴を学ぶべきであると感じた。英語、いや、語学を学ぶ前にその背景にある文化を理解しないと、本当に役に立つ英語にはならないと思う。受験用の英語はその背景を省き、ただ単に暗記するだけの作業になってしまっている。これでは英語が嫌いになっていく学生も増えるだろうし、応用もきかない、テストのみできる日本人になってしまう。この現状を打破するためには、早急に現在の英語教育に変革が求められるのである。
 最後になりますが、先生の授業は興味深いものばかりでした。一期一会といいますが先生の授業を受けることができて運がよかったと思っております。私の友人たちもよくある英語の授業とは違うと口にしていました。苦手意識が芽生えていた英語ですが、よいターニングポイントになったと思います。一年間ありがとうございました。これからお体に気をつけてがんばってください。(30350083 青木孝臣)


@ 私が受けた英語教育―高校までの英語教育を振り返って
 私が中学、そして高校で受けてきた英語の授業の内容は、いわゆる受験のための英語だったように思われる。
 まず、英語を学ぶ理由・意義などについての説明はなされたか、という点についてであるが、中学1年生の初め、英語を学び始める際に少しされたような気がする。その主な内容は、「国際化している社会の中で、英語の習得は必然的なものとなっている。」というような感じであったように思うが、正直あまり覚えていない。あまり強調して言われなかったということであろうか。
 また、授業は基本的にReadingWritingBasicに分けられていた。ReadingBasicの授業では教科書の物語文や論説文などを少しずつ読み進め、その都度、新しい表現や単語を確認していくという形だった。Writingの授業では毎回新しい構文を習い、その練習問題をしていった。(高校1年次のみ外国人教師とのOral Communicationの授業があり、主に英語でのゲームやリスニングなどをした。)
 そんな授業が中心だったので、日英の言語・文化の比較は全くといっていいほどされなかったように思う。とりあえず機械的に単語・文法・構文を頭に入れていった。高校では英文を書くことと読むこと=英語を学ぶこと、であった。というのも、私の通っていた学校は受験校であり、大学受験をかなり意識していたと思う。また国公立志向であった我が校ではセンター試験を特に意識し、力を入れていた。
 私が受けてきた上記のような英語教育の利点といえば、ほぼ大学受験を意識した傾向であったので、いわゆる受験英語に強くなれる点である。英語の勉強を受験のためと合理的に解釈できる者にとっては、真面目にやれば偏差値は上がりやすい。
 しかしそうでない者や、英語にたいした関心のない者(私も断然こちら側であった)にとっては、この環境ではいつまでたっても英語というものに対する魅力を感じることが出来ないし、退屈なものになりやすい。(私なんかは、英語は大学受験のものであって、それが終われば、出来れば触れたくないと思っていたくらいだった。)グローバル化が進んでいて、今後の国際社会において英語は必要だ、と教えられ、そう認識していながらも、結局そのレベル領域に達することも、そこに達しようというモチベーションさえも得られないのである。また(この「英語V」授業を受けて痛感したことだが)、この学習方式で得た知識だけでは、英語圏では話しても通用しない。つまり、日本人の感覚のみでもって英語を話したところで相手に伝わらない、誤解され易かったり、不自然に思われる部分というのが、実際多々あるのである。そこで、次のテーマに移りたい。

A「英語V」を受講して−この授業から学んだこと
 今年1年間受けてきた「英語V」の授業は私が今まで受けてきた英語の授業とは180℃違うスタイルであった。
 まず英文の読み込みや、文法などを中心としていなかった。そして英語という言語だけではなく、英語圏における文化や背景、またそれと比較して日本における文化、背景、歴史を学ぶことがメインであった。そこを理解する意味でも演歌、童謡を英訳するという授業もとても斬新であった。つまり私が今まで受けてきた授業によって定義された英語学習を英語の読み書きとするなら、この授業では、英語を学ぶこと=他国そして自国の文化を知ることであった。
 日本と英語圏ではたとえば、農耕民族と狩猟民族やキリスト教と八百万の神の信仰などの背景からことごとく違うわけで、もちろん思想も習慣も違う。だから、日本人である私たちが自分達のそのままの感覚で、ただ日本語を英語に訳してはいてはいけない。そのままでは日本語では自然でも、英語ではかなり堅い表現であったりする場合などがある。そんなことではお互い誤解を招くのは当たり前で、本当に会話が成立しているとも、分かり合えているとも言えない。そこを克服するためには、文法などだけではなく、他国の文化と自国の文化をしっかり理解し、そこから日本語と英語のズレを認識する必要がある。
 授業で先生はそのことを再三仰っていた。英語を話す地域、人々の(歴史、習慣、思想などすべてをひっくるめて)文化を理解し、私たち自身自国の文化を理解しそれを伝えられるようになることが、英語を理解するということ。文化と言語は密接不可分、これがこの授業で得た教訓である。
 私はこの授業を受けて、英語というものと日本という国に対しての考えが一変した。知らなかった知識をたくさん得ることが出来、こんなに英語という言語と日本という国が魅力的であったのかと驚きを覚えた。また日本人でありながら、日本のことをあまりにも知らなかった自分に恥ずかしさを覚えたことも事実である。以前の英語や外国に対する否定的な考えはなくなり、むしろもっと世界を知りたいとか、日本という国の素晴らしさを知ってほしいという思いに駆られ(大変個人的な話で申し訳ないが)、英国短期留学の契機になった。

Bまとめに代えて−わが国の英語教育への提言
 わが国の英語教育で欠けているもの、それは英語という「言葉」を学ぶのに比べ、英語という言語の背景にある「文化」を知る機会があまりにも少ないこと。そして我々日本についてのあらゆることを知る機会も同様である。この3つが合わさって初めて英語を学んだといえるのではないか。 特に私は日本の文化について学ぶ機会をもっと持つべきと確信している。私たちは国際化が叫ばれる社会で、英語さえ話せれば、外国についての知識を持てば、それで国際人になれるといった錯覚をしているのではないかと思う。しかしいくらその能力を身に付けたところで、私たちは日本人なのであって、日本人としての誇りを忘れてはならない。自国のことをわかっていなくて、誰が自国を理解してくれるのか。そこを忘れては本末転倒である。外国人に日本のことを知ってもらい、自らも外国のことを吸収する。それこそが国際交流であり、その手段となるのが、英語という言語である。英語だけ知っていても、中身が空っぽでは本当に意味がないし、もったいない。
 今、日本では小学校からの英語教育導入が検討されている。吸収力の著しく高い児童に、早いうちに英語を教えていくのは、一見合理的であるかもしれない。しかしやはり、日本語を理解せずして英語を学ぶのは、危険でもあると思う。何より日本人としてのアイデンティティが薄れてしまう。またインターナショナル・スクールが大変ブームになっているが、日本にいるにも拘らず、しかも学校でのみ英語を話すのは、間違った英語や文化意識を抱く可能性が高いのではないか。やはり日本人であるなら、日本語や日本の歴史、文化をまず知るのが先だと思う。これから日本を担う子供達が英語を優先して、日本に無知であってはいくら国際社会を掲げても意味がない。まず日本を知り、その上で外国について知る。そこを理解して英語を媒体として文化交換していくのが国際交流の真の姿であり、そこへと導いていくことがまさに21世紀に求められる英語教育ではないか。(30362649 森 倫子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 高校までに受けてきた英語教育がどのようなものであったかというのを改めて考えてみると、やはり「受験英語」という言葉に集約されるように思います。受験時代に使っていた参考書を引っ張り出してみても、重要とされているのは「大学入試ではどのように出題されるか」であったり、「速読のためのコツ」であったりする。
 「そもそも高校までの自分は『英語』を学ぶという事をしてきたのであろうか」山岸先生の授業を一年間受けて、このような感想を持ちました。この感想は別に高校まで自分がやってきた英語学習を全否定するものではありません。これまでの英語教育が無ければ自分は英語の読み書き、発話は(当然)全く出来なかったでしょう。では、どういうことなのかと言うと、自分は果たして英語を「文化の産物としての語学;英語」と認識していたかどうかという事です。今までの指導教員の中にも、当然英語圏への留学経験者は数多くいましたし、その先生達は英語圏の人達の考え方、「日本人はこう考えるところを、英語圏の人達はこう考えるんだよ」というようなことを語って聞かせてくれました。ただ、「英語圏の人達が考える事」というのは言語としての英語にも反映されている。今考えれば至極当然な事、それというのは英語が文化的背景を持った語学だという認識を持てたからですが、そんなあたりまえのことに高校までの自分は気付いていなかったように思います。授業でもそれを示唆するようなことは無かったように思います。英語はあくまで一つの科目、という意識が濃かった。
 英語を学ぶ理由というのも、今になって気付かされたという印象は拭えません。山岸先生の授業を受けるまでは、「英語は世界共通語だから外国人との交渉に役立つ。将来社会に出たときのために身に着けておかなければならないスキルなのだ」という意識を持っていました。英語の実用的な側面にばかり目を向けていたのです。英語がそういう側面を持っているのは事実だと思いますし、まだこの考えは自分自身の中にあるのですが、英語は文化媒体だという意識から英語を学ぼうとはして来ませんでした。そしてまた、果たしてこれまでの英語教育がコミュニケーションのツールとして役に立つものかというと、それも甚だ疑問なわけです。
 英語を文化と捉える視点が欠けていたため、当然日本語に目を向けるということもして来ませんでした。日本語と英語を結びつけるのはただ言葉の「意味」、言葉の置き換えに過ぎませんでした。例えば、“sincerity”と言われたら「誠意」と訳す。“contract”と言われたら「契約」と訳す。この「誠意」「契約」の持つ意味がそれぞれの文化背景の下でどのような意味を持つかということに考えを致す事はありませんでした。「誠意」は日本では複数、もしくは集団の中で他人を思いやる気持ち、という意味を持つが、“sincerity”は自分の気持ちに対してひいては神に対して誠実である事、嘘をつかない思ったままを言うことを指す。「契約」は日本では形式的要素が強いのに対し、“contract”に言う契約は異民族社会の欧米では決して破ってはいけない絶対的なものという意味を持つ。当然日本語的文脈で「誠意」「契約」と使ってあるものをそのまま“sincerity”“contract”に置き換えたのでは不十分、もしくは誤解を招く事になります。この文化的差異を捉えて行く上で重要なのは、まず日本語自体を文化としてしっかり理解出来ているのかということ、そしてそれとしっかり意味的に対応する英語を使えるかどうかということだと思います。
 私は都内の進学校出身なので、学習の指針が大学受験を意識したものであった事は否定できませんが、そこまで大きく世間から外れていたとも思えません。高校までの英語教育は文法偏重であったと思います。英語は意味が通じれば良いとは言ってもやはり文法的に正しいものを書けるに超したことは無いのですから、これ自体は悪い事とは思いません。ただ、その裏返しとして、そのことばかりを重視して英語の本質、文化、「生きた英語」としての側面を見失っているということも言えると思います。そういう意味では、文法事項の細かい事で減点しているような英語教育は枝葉末節にこだわり大局を見失っていると言い得るように思います。総じて、やはり高校までの英語はいわゆる受験英語、大学入試を突破するための英語であったように思うのです。そして、その大学で出題される英語というのは言葉の言い換え、例えばmany(  )(  )(  )a lot ofと答えるというようなものだったわけですが、この二つの語はスピーチレベルが違う。厳密に言うとイコールでは無いわけです。そういう部分を有耶無耶にしているのが現在の高校英語、受験英語なのではないかと思います。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業を通じて学んだことは、先程からも繰り返しているように英語をひとつの文化として捉えるという姿勢だと思います。そして、英語をそう捉えることから自然と生じてくる日本語との差異、軋轢といったものにも目を向けていくことになりました。日本人は英語圏に対して何らかのコンプレックスを持っている、少なくとも英語圏に対する追従の意思表示をしているということは事実です(しかし、最近の韓国ブームなどを見てもわかる通り、日本人の外国好きはもはや欧米に留まらずアジアにまで広がってきてはいます。それが文化交流という言葉で言い表せる性質のものかどうかというのは疑問の残るところではありますが。単なるミーハー魂と言われても仕方が無いかもしれません)。そしてそのことにより、自国の文化に目を向けることなく、何でもかんでも欧米流にするのが正しいのだという風潮があるのも事実です。“
defensive”であるということ、それは保守的なことでも何でもなく、他国の文化を知る上で最も大事な姿勢なのだと思いました。私は日本を知らな過ぎました。先生の授業を初めて受けたとき、「この授業は日本文化だな」と思いました。ですが、自国の文化を知らない者が他国の文化を理解できるはずがない。「おむすびが何故三角なのか」など思いも拠らない所にまで日本人の心性というのは関わっており、それを理解しなければ、と言うより、そういうことにまで目を向けるだけの文化的関心・興味が無ければ自国語、ひいては英語を完全には理解できないということを学びました。
 最初、この授業は本当に「わからない」授業でした。これまでの授業では、先生の問いかけに対して全く答えられないということは無かった私ですが、この授業で先生から繰り出される質問にはとことん答えられませんでした。結局一年を通してほとんど挙手することが出来なかった。それというのは、やはり私が英語、いや、日本語も含めて、それらの後ろに横たわっている心性や宗教性、文化的背景というものにまで理解が及んでいなかったということだと思います。ただ、最後の方では何となくこうではないか、という答えを浮かべることは出来るようになりました。この一年を通じて、一語一語の重み、ネイティヴにとってその語が持つ意味合いというレベルでまで英語を理解しようという意識が芽生えました(このような意識は本来であればもっと早くに形成されているべきなのかもしれません)。でも、先生に出会っていなかったら私はそのような意識を持つことなく終わっていたことでしょう。本当に感謝しています。

 また、この授業で学ぶ英語は、本当に「生きた英語」であったと思います。この英語を聞いたらネイティヴの人達はどう思うか、そして彼らがそう考える理由は文化的にこういう理由があるからだ、ということを順序良く教えて下さいました。同時に、先生が『日英言語文化論考』でもお書きになっていることですが、例えば「寅さん」の魅力について日本人が積極的に海外の人に語りかけられるようになること、日本文化のもつ繊細なニュアンスを海外の人に少しでも多く汲み取ってもらえるような英語のスキルを身に着けることは純粋に国際交流に貢献する事になる。英語学習の本質を見た思いがしました。ネイティヴの人達が持つ英語の感覚というもの、日本人が勝手に日本的に解釈したのでない真の英語。それを得る感覚をつかめたことは、今後社会に出て外国人と交流して行く時に、心の底から真の意味で交流出来る端緒になるように思います。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 ここまで書いてくると、やはり現在の英語教育には本質的な部分で大きな欠落があるように思います。
 まず、文法偏重の教育構造自体を見直す必要があるように思います。ただ、このことは大変根深い問題を含んでいます。というのは、結局大学受験に出る英語と言うのが文法の重箱の隅をつつくような問題、下手をすればネイティヴの人達ですらそれを厳密に使い分けているのかどうか甚だ疑問であるような細かい知識を要求するものであるから、高校教育がそれに少なからず迎合せざるを得ないという事態になっているからです。では、大学側はなぜそのような問題を出題するのかと言うと、私もはっきりこうだと言い切れるわけでは無いのですが、大変多くの受験者の合否を振り分ける場合、英語をコミュニケーションスキルとして捉える試験、例えば発話試験等を実行しにくいという現状があるように思います。そうなってくると筆記の問題のみで英語の能力を判定しなければならなくなり、結果的に今のような状態で落ち着いてしまっているのではないかと推測します。受験者側としては、いくら「英語は本来コミュニケーションのためにあるのだから」と言ったところで自分の望む大学に入れなければ意味が無いわけですから、結局大学側の論理に振り回される事になる。つまり、大学の試験のあり方を見直さなければならないのです。日本人が真の英語能力を見に着け、真に英語圏の人達と交流を図れるだけの力を身に着けたいと思うなら、大学側は国是として試験改革に取り組むべきです。私が思うに、英語に関しては、試験日を何日か取り、受験者一人一人に対してネイティヴと日本人教員による面接を実施するべきであるように思います。ただ、何万人という受験者を面接するのがどれだけの手間かを考えると、結局大学側は安易な筆記試験に流れがちになるように思います。そう考えると、筆記偏重、文法偏重は必要悪であるようにも思えてきます。ですが、文法教育でも改善できる事は山ほどあります。山岸先生のような先生がもっともっと増え、文化媒体としての英語の素晴らしさ、そしてそこから派生する文法の必要性を教えてくれれば、生徒達の英語に対する関心も自然と高まるように思います。先生は、細かい文法事項で減点するような受験教育のあり方に疑問を呈されていましたが、それはあくまでそれのみに終始している受験教育に対しての批判であり、ご本人は決して文法を軽視しているわけではない。私は本当にこの授業が好きで(あまり挙手は出来ませんでしたが…)、先生の著書も図書館で何冊か読ませて頂きましたが、実際に先生は文法を通じて本当に言いたい事(ニュアンス)を伝えるやり方等についても書いてらっしゃる。むやみやたらに詰め込み式の授業を展開するような現在の英語教育では、本当の意味でのコミュニケーションスキルは育たない。相手の文化を知ることを通じて自分の言いたい意味、ニュアンスを正確に伝えていけるようになることは本当に喜ばしいことだと思います。英語の本当の面白さを教えて下さった山岸先生には本当に感謝しています。

 最後になりますが、これからも精力的に英語教育の向上に向けて頑張って下さい。私もこの国の人達、特に学生が本当の意味で他国の文化を知る機会としての英語の魅力に気付いて欲しいと思います。一年間、本当にありがとうございました。(30305349 小泉佳紀)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 「これで外国の人と話せるようになるのかなぁ?」これが、僕が英語を始めて学んだ時に感じた事だ。時は、中学1年生の春。小学校とは違う新しい友達、新しいクラブ、新しい授業。それらを楽しみに待っていた僕の期待は、全て満足いくものだった。「最後の」を除いては…
 今回、わが国の英語教育について書くことになり、いい機会だと思い、中学・高校の教科書を見ながら、回想してみた。その中で、当時感じていたことは全て冒頭の一文に集約されていると言ってよい。中学では、文法を「暗記」し、高校では、それに加えて、大量の単語・熟語・構文といったものを「詰め込まれる」。先生に、英会話するための能力、つまりスピーキングとリスニング、は必要ないのですか、と聞くたびにカリキュラムがそうなっているから、と紋切り型の答えが返ってきた。とりあえず、成績を取らないと仕方がないから、『勉強』はしたが、はっきりいって「つまらないもの」だったので、自分でNHKラジオ講座のテキストを買い、聞き始めた。ほとんどリスニングの本格的な訓練を受けたことがなかったので、聞き取るのに苦労したが、「楽しかった」。なにより自分で取り組んだことなので、『充実感』があった。
そして、ある日、いつものようにJR横浜線で通っていたが、人身事故で電車が止まってしまった。駅の改札口は混雑していて、駅員に尋ねられる状態でなかったため、また、学校は次の駅だったので、一駅分歩くことにした。途中で、外国の人が困った様子でいたので、声をかけてみた。彼は日本語が話せないようだったため、なんとかカタコトの英語で話したところ、彼は同じ駅が目的地だったので、一緒に行くことにした。歩いている間、「会話の中身」がないことに気付いた時のショックを今でも鮮明に覚えている。もちろん、彼と出身地や仕事など型どおりの事については話せたが、それ以上の所へは進まない。日本の事について、聞かれたりもしたが答えられない。その時、今までリスニングやスピーキング能力を身に付ければ、外国の人と自由自在に話せて、いわゆる『国際人」になれるのだと自然と思っていたのに、気付き恥ずかしくなった。時は、高校2年生の冬の季節だった。
 『会話の中身がないこと』を痛感して、なんとかして『中身』を手に入れなければならないと思ったが、具体的な方法も時間もなかった。なぜならば、もうすぐ『大学受験』があるため、『勉強』しなければならなかったからである。
せっかく大事な事に気付いたのに、『読み書き重視の勉強』という飽き飽きした大陸にまたせっせとオールを漕いで、戻らなければならないのには本当にうんざりさせられた。が、日本はなんだかんだ言っても、いまだにはっきりと『学歴』という壁は残っているのが現状なので、1年間は必死に読み書きをやった。
 その甲斐あって、なんとか慶応大学に入ることができた。しかし、ここでも、英語の授業は「読み書き中心」だった。念のため、述べておくが、私は『読み書き』の重要性は十分認めているつもりだ。英字新聞や英語の商談の際にも、英文が読めないと話しにならない。ただ、わが国の英語教育が少々、いやかなり、その方向へベクトルが傾きすぎているのでは、と思っているだけである。 話を戻すと、一年の時は、高校の時に味わった恥ずかしい思いをもうしないように、本を読み始めたジャンルは、歴史・近代文学・哲学等様々であった。多くの本を読めば、『中身』を手にすることができると信じていたから。しかし、同時に、どうもその自信が『確信』につながらないとも感じていた。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 そして、2年生になって出会ったのが、山岸先生の授業だった。山岸先生の授業は、次のように要約できると思う。

 グローバリゼーション・国際化・国際化と世間は言っているが、日本人は結局、日本人であるという前提は崩せないし、また、日本人という前提にたってこそ『国際人たり得る』のではないか、と。それならば、我々の祖先が何を考え、何を思い、どういきてきたのかということを知ることは、自分達の責務でもあろう。しかし、その責務は決してつまらない無味乾燥なものではなく、楽しく面白いのもの〔知的に〕なんだよ。
 山岸先生は、そうした考えを具体化して、日本人とはどうやって生きてきたのか?ということを僕たち学生に考えさせながら伝えてくれました。そして、日本人が世界に発していく手段として、英語を使い、日本のことを世界に知ってもらうという考え方にも素直に凄いなぁと思い、そうした授業に、私は、とても驚き、強く共感したことを覚えています。
 私は、(もちろんゴールはまだまだ、はるか先にあり、まだスタート地点にたっただけですが)一応目標ができ、それに対する方法も一応は身に付いたという意味では、一件落着と言えると思う。
 しかし、問題はこのスタート地点、つまり英語を何のために勉強するかということを、理解してそのやる気も高いという状態に達する地点が遅すぎることだ。これには、やはり冒頭に挙げた原因がある。繰り返せば、英語は文法・単語・構文を暗記すれば良く、外国の文化・考え方などは全く知る必要のない、いわゆる「試験にでないところ」と否が応でも考えさせる授業、そして、その暗記したとおりの答えでなければバツをつける悪しき『減点主義』、「読み書き」中心で外国人とはコミュニケーションをとらせないようにしようという意図まで感じてしまう、読み書き中心のカリキュラムなどである。そして何より、英語を学ぶ意味を生徒に持たせないまま教え始める、まさに見切り発車である教師が一番問題である。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 そこで、いくつかの改善策を提案してみたい。
 まず、今日、喧々諤々の論争になっている小学校の英語教育について。これはいい事だと思っている。但し、条件付の賛成だ。その条件とは、小学校5年からの開始であること、それまでに日本人の文化・考え方を簡単でいいので教えておく事である。これは、英語を学ぶ前に、自国の文化を知っておくことが国際化の中では重要だと考えるからである。それらを教えるのは4年生位からが適当ではないか? その上で、小学校では難しい文法は抜きにして、英語に興味を持たせるような仕掛けをたくさんつくってあげて、『英語は楽しい』『英語ができたらこんなことも出来るのだ』という意識を持たせることが肝要である。その具体的な手段としては、アニメや漫画、スポーツや同年代の外国人の友達をつくるなどいろいろある。 一番大切なことは、子供達が学ぶとっかかりをつくってやることである。とっかかりをつくってやれば、子供達は勝手に勉強を始め、すごい勢いで吸収していき、身に付けてしまう。しかし、とっかかり、機会と言い換えてもいいが、それをつくってやるのには学校が適している。また、これは他の科目にも通用する原則である。余談だが、日本が明治維新を起こし、欧米列強に追いつき追い越せの姿勢で、急速に近代化を進められた一因は、江戸時代の「寺子屋」にあるといわれる。その寺子屋で教えられていたのは、『読み・書き・そろばん』である。これらがしっかりと身についていたから、政府による『上からの近代化』に加えて、庶民の『下からの近代化』が行えたのである。現代では、「英語」もこれに加えればいいと考えている。要は、あまり特別なものと考えず、「道具」としてとらえればいいのである。(もちろん、外国の文化の理解は別問題である)。
 そして、中学校で始めて文法の基礎を学び、その授業の半々で、ネイティブの先生との会話を取り入れる。そして、試験に英会話などを取り入れる。試験にこのためには、教師の募集要項に英語教師として外国人枠を設けること、ひいては『ゆとり』ではなく『忙しさ』ばかりをもたらした、ゆとり教育を改め、授業数を増やすべきだ。これと同時に、文化という授業もつくり、外国の人たちの考え方、またそのバックボーンとなっているところまで踏み込んで教える授業、また小学校に引き続き、日本人の文化等の授業も含まれることが望ましい。そうすることで、小手先の英会話技術ではなく、日本の文化の理解・外国の文化の理解とう土台の上にたつ英語能力がみにつくはずだ。これは、公務員制度の改革も含まれるが、日本が国際社会の中で生きていくつもりならば、必ずやらなければいけないことである。
「読み書き」は高校に入ってから本格的に始めればいいと考える。これには反対意見もあるだろうが、会話能力と読み書き能力、両方大事なことは言うまでもないが、どっちを取るかといえば、前者をとる。なぜなら、前者の方が一般の人がその必要性に迫られる頻度が高いと考えるからだ。例えば、近所に外国の方が住んでいる時、旅行するとき、討論する時などである。そして、英会話の授業は高校でも、続ける。
 そして、大学では4つのコースを設ける。一つは、読み書きを徹底的に身に付ける授業。もう一つは、英会話を徹底的に鍛える授業。そして、もう一つは両方を均等にやる授業である。最後は、中学・高校で真面目にやってこなくてほとんど身についていない人〔こういう人たちは大学にも入れないような試験をつくるべきであるが〕が復習できる授業。もちろん、大学によってそれぞれのカラーを打ち出しても良いが基本はこれがいいと考える。
 これにより、学生は将来の志望を考えて自分に必要なコースをとれる。
 もちろん、これが完璧とはいうつもりは毛頭ない。しかし、今の英語教育には、スタート地点とゴール地点の青写真が全く描かれていない。つまり、学ぶためののはっきりとした目的と、英語学習課程を終えると身に付く能力についての「説明責任」が欠けている。
 まずは、その全体図を示し、次にそれに沿うコースをつくるべきだと考える。そのコースは前述したとおりである。30360154 原田 信)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語の学習を始めたのは中学1年生のときからであり、私自身における英語の基礎ができたといえる中学・高校の英語教育を振りかえってみる。
 私は中学・高校一貫校に通っていたことと英語教育に大変熱心な学校に通っていたため内容もしっかり組まれた教育をうけてきた。中学生のころの授業は、普通の授業とオーラルの授業の2つの授業があり、特に印象に残っているのは外国人の先生(私の場合はイギリス人、アメリカ人の先生)が中心となっておこなったオーラルの授業である。おそらくこの授業がなかったら私は英語を嫌いになっていたかもしれない。ビンゴや英単語スペルコンテストなどを通して、英語を楽しむということが体験できた。つまりもう一方の授業−文法中心−はかなりのスピード・高い難易度を要求され、私にとっては決して楽なものではなかった。NEW CROWNの教科書を使い、並行して問題集を使い、文法も詳しい解説をうけてきた。
 中学3年の頃には、文法の分厚い参考書をもちいてより細かく、より深く文法を学んだ。常に間違えないように気にしながら、そして参考書を丸暗記している状態だった。しかしこれが嫌々で苦になっていたということではない。
 高校に進学後の大学受験準備のための全国模試では、私が持っていた英語に対しての苦手意識をよそに、標準以上の得点をとることができた。高校1年からは配布された単語帳のテストが定期的に行われるくらいで特に受験対策を行う受験校というわけではなかった。
 私が学んできた英語教育において、途中から丸暗記をすることが英語の勉強に適すると思い、それがテストの高得点になってしまい、英語の成績上昇につながり、このことに対して何も疑問を持たずに年月が流れてしまったことに、今となっては最も後悔している。英語と日本語をとりわけ比較することもなく、英語というものがどうゆうものかも知らなかったため、どのような勉強をすることが自分にとってよいのか分からずにきてしまった。今までに出会った先生の中にはそれを伝えようとした先生もいたかもしれないが、少なくとも私はそれに気づかなかった。
 好ましい点はオーラルの授業があったことだ。テキストにある短い対話の中で私たちが意味のわからない英単語を挙げ、先生が簡単な英語やジェスチャーで意味を教えてくれた。また“just”のように日本人が生活の中でつかう“ジャスト”と意味の相違があるように、日本語となってしまった英語の本来との意味の違いなどを学ぶことができたことは大変有意義であった。他には、文法をしっかり学べたことである。自分だけの力で学ぶことは出来なかったに違いないと思っている。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 私は何か惹かれるものを感じ、どうしても山岸先生の授業を受講したいと思っていた。思ったとおり先生の授業では私の意識のなかで欠如していたものがたくさんあった。
 先生の講義は驚きの連続で私が今まで受けてきた英語の講義とはまったく別の方向から英語を学ぶことができた。先生はまず私たちが間違えてしまった細かな文法のミスをあまり責めない。−多少の文法のミスがあってもかまわない、まずは相手にしっかり自分の真の意見が伝えられているかどうかが大切−とおっしゃった。その言葉を聞き細かい文法をより目を配ることができるようになり、ためらいなく英文を書いていくことが出来るようになった。真の意味を伝えることは大変難しいということがわかった。 文法に間違えがなく、辞書で適訳の単語を用いて書いた文法上正しい英文が、外国人に不快感をあたえ、疑問に陥らせるような表現もある。山岸勝榮先生の著書でもある教科書『英語表現法の学習と実践』を使い、ネイティブが考えている英語の意味とその日本語訳のずれが生じているものについて考えた。真剣に授業を取り組もうという姿勢が自然と生まれた。今は英訳をする際には使いたい単語が含まれている英文をたくさん調べ、複数の中から単語を選ぶようになるなど高校時代とはまったく違った視点から勉強を進めている。
 また、従来受講してきた講義では先生から学生への一方通行のものが多く、私もそれを当然のように受け止めてきた。しかし山岸先生の授業では、学生自身が各々自分の見解を自主的に述べていく。また自主発言により周りからたくさんの刺激を受けることもあった。まったく初めてのことで最初は戸惑ったが先生の話は本当にためになり興味深いものばかりだった。山岸先生が教えてくださった古代日本の農業国家がもたらした現存する習慣や考えを知れたことで、他の授業でも理解を深められたことが2年生になってから何度もありこの講義を受講できたことを大変嬉しく思っている。
 春学期に授業で行った、「外国人がもつ日本人の文化への疑問」は大変興味深いものであった。初めのころはどうしてかという疑問の答えを考えることがまったくできなかったが、講義を重ねるにつれて、先生が私たちに投げかけた質問に対しても自然と答えが解るようになった。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
これまでの英語教育は受験を最終目的として意識した勉強が多く、本当に英語を理解しようとはしてこなかった。評価としての“英語の成績が優秀”というのは、ただ英語のテストの点数が高得点なだけであり、本当の英語が理解できているとはいえない。国際交流がさかんになっている中で、私たち日本人が思っていることを外国人に伝えるには英語の理解がとても重要なことである。このまま間違えた意味で誤解したままで交流が進んでいけば、日本人も誤解を受けるだろうし、彼らの意志も伝わらないだろう。
 先生の講義を通して学んだことは、互いの語学を理解するには、相互の文化をよく理解することがとても大事である。言語の背景には、必ずその国の文化・慣習などが影響している。日本人が英語を学ぶには、日本の文化と英語圏の文化の理解が最重要事項となる。よって日本の文化もあまりしらないうちから英語を理解するのは困難なことであり、まして日本の小学校で英語を教えても受験英語には役立つかもしれないが、本当の英語を知ることはできない。文法を重んじて英語の学習を進めることは悪いことだとは思わない。文の仕組みが大きく異なる英語を学ぶにあたり文法事項は必須だろう。ただし文化も並行に学ぶべきであり、もちろん教科書だけでは日本の文化はわかるはずなどないのである。ゆとり教育が主流になりつつあるなかで英語を学ぶなら、己の文化をもっと学ぶのもよいのではないかと思う。外国語圏の地域で、相手の文化をよく理解した上で彼らと交流が進められたとすると、日本のすばらしさなどを伝えることが出来るのではないか。外国人が日本人のことを理解してくれるのを受身で待つのではなく、自分から積極的にいくことも大事である。
 やはり、これからの英語教育には文化を学ぶことも大切なのである。(30351088 五十畑紗和子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語教育を受けたのは中学校に入学してからである。英語を学ぶ理由・意義などの説明はなされなかった。しかし格別その点に気に留めることはなかった。高校受験で必要になる科目であるという認識くらいしか、私自身もしていなかった。授業内容は指定の教科書を用いて、単語や構文を覚えていくものであった。この時併せて英語辞書も購入するようにと言われたが、授業で活用する機会はほとんどなかった。教科書に出てくる単語にはほとんど、教科書中で使用された意味の和訳が載っていたからである。定期試験は教科書に載っている単語や構文を出題される。そのため英語は丸暗記の科目であった。
 高校は県立の進学校に入学した。アメリカ合衆国のある高校と姉妹校提携をしており、国際交流が盛んであることは学校の売りのひとつであった。だが、だからと言って中学校の時とたいして英語の授業内容に変化はない。難易度が上がり、中学校の時よりも更に小さな文字で、ぎっしりと英文が印刷されている教科書を使用するようになった。暗記しなければならない量は格段に増えた。進学校ということで、学生の勉強に対する姿勢は熱心であり、周りに遅れをとることは恥ずかしく思えた。そのため必死に英語の教科書を暗記し、教師が発言したことをそっくりそのまま吸収してきた。
 高校3年生になると、受験を意識した授業内容になった。受験用の問題集や有名大学の過去の試験問題をひたすら解いた。更に文章の量は増え、英語の授業を苦痛に思うようになった。英語に対する苦手意識や煩わしさという感情を持つようにもなった。辞書で単語の意味を調べる時間を節約するため、重い辞書を持ち帰る手間を省くため、この頃ほぼ全ての学生が電子辞書を携帯するようになった。
 これら私が受けた英語教育は、受験を視野に入れた内容であった。学歴社会であるから、受験を視野に入れて勉強しなければならないのだと感じていた。そのため受験に必要な知識を得ることができ、塾や予備校だけでなく学校でもサポートしてもらえることは心強く思った。私立学校では県立よりも強く受験を意識しているため、受験対策が手厚いという噂を耳にし、うらやんだこともある。
 今まで多くの時間、費用、労力を費やして英語を学習してきた。しかし今現在、果たして本当に真意が伝わっているのか怪しい英語しか、私は使えていないと思う。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 これまで私が受けた英語教育では、ひたすら英文を確実に日本語に訳して読むことが求められてきたが、「英語V」はこれらとは全く異なる授業内容であった。
 「英語V」では、ある単語の意味を日本語と英語での場合を比較するという授業を行った。日本語には、英語に相当しない単語が数多くあることに気が付いた。中学、高校と6年間英語教育を受けてきて、私は日本語と英語の意味のズレを知らなかった。他にも、英語圏の人々が日本に対して持つ疑問に答える、という授業を受けた。その疑問とは、例えば「なぜ日本人は忘れることを水に流すと言うのか。」などである。日本で20年間生活してきたのに、私自身「どうしてだろう。」と疑問に思うものが数多くあった。そして「どのように答えたら疑問を持った人が納得するだろうか。」と時間をかけて考えた。構文や単語の間違いを気にするのではなく、自分で考え、その考えを自分で説明することの重要性を感じた。これらの疑問に答えるためには、日本人の精神を育んできた日本特有の文化を深く知る必要があった。私は、自分がいかに日本文化や日本語に無知であったかを実感した。他にも、日本の昔話や演歌を英訳する作業を行った。日本人独特の言い回しや慣習を、どのように英語で表現すればよいかを初めて考える機会となった。
 更に、この授業では発言をすることが求められた。これまでの英語教育では、教科書の英文を日本語に訳させるため教師から指名され、正しく答えることを要求されるばかりであった。自発的に挙手をし、意見が飛びかう「英語V」の教室は活気に溢れ新鮮であった。
 この授業は、今まで受けてきたどの英語教育よりも興味を持って臨め、身になったと思う。今後もし英語圏の人から日本に関する質問をされても、日本文化と英語文化の違いを踏まえて質問に答えることができるであろう。そしてなによりも、まだ理解は浅くとも、私自身が自分の国の文化を誇れるようになったのではないかと思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 今まで、日本人と西洋社会の精神が根本的に異なっているということがはっきりと提示されていなかった。この差異を認識するためには英語を育んだ英語文化や風土に着目せねばならない。そのためにはまず、日本語、そしてそれを生み出してきた日本の風土、文化をより良く理解する必要がある。
 加えて、これまでの英語教育では自分の考えを自分の言葉で説明する機会がほとんどない。発言の機会を設けることで、論理的に意見を伝える力を養うことができるのではないかと思う。難しい単語や構文を使わずとも、平易な英単語を用いて意見を伝えられるという事実を認識し、実用のための訓練の場として英語教育が機能することは有用であろう。  
 そして、日本の学校英語教育は型にはまりきっており日常英語に疎く、生きた英語を知ることを難しくしている。日常的な、生きた英語の姿を知る努力が必要である。
 現状の英語教育を受けただけの理解で、世界の中で日本人として生きていってはならないと痛感した。通過点でしかないはずの受験が、英語教育を歪めてしまっているのではないかと思う。
 英語学習のためには、日本語、日本文化、日本人の心底に流れている意識をもっと理解し愛するべきであり、そうあって欲しいと思う。日本語の持つ柔らかさや、それを育んできた風土を知ることは、自国を誇りに思う礎となるであろう。そして他の文化に触れ、その特性を知ろうとする行為こそが、効果的な英語学習につながるのではないだろうか。30352509 大曲倫子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 幼い頃から外国にたいする憧れが強かった。諸々の理由はあるにせよ、簡単に言ってしまえば日本に対して魅力を感じなかったからだ。いずれ必ず、個人主義でかつ裏の無い世界に出て行くんだ、そう考え英会話をとにかく習得したかった。小さい頃から親に英語の音や映像を多く与えてもらっていた私は多く英語に触れることができた。しかし中学校に入ったころからだろう、英語を「言葉」としてではなく、法則通り文を完成させるパズルとして感じはじめ、興味もそちらに向いていってしまった。私は地方の公立中学校だったがその中学校の英語で私は何を学んだか。英語教育の意義を聞かされたかは記憶にないが辞書の説明はされていない。教科書を覚え、単語を覚え、穴のあいた同じ文章を埋めていく、一つの記憶力テストだったと思う。言い方は悪いが、必ず点のとれる「点取り」科目だったのだ。私は地元の高校ではなく、SFC高等部を選んだため、多くの英文をとにかく読んだように記憶している。学校での英語授業ではカバーできない難易度の高い文法は、塾で個別に指導してもらった。わたしが英語を「言葉」として再認識したのはSFCでの多くの帰国生との出会いがきっかけだった。当たり前に英語で会話している!井の中の蛙であった私にはショックな出来事であった。あれだけ勉強した英語が挨拶すらままならない。しかしここでの3年間の英語環境は私の中で転換期であった。SFCは英語に力を入れているため授業数も多く、reading, writing, speakingが各々週に限ずつあった。英語圏出身の先生と触れる機会が学校生活において多いこともあり、生きた英語が常に周りにあった。speakingの授業、つまりネイティブの先生の授業はゲームであったり、寸劇であったりと英語の授業はとにかく楽しんだことを覚えている。writingもネイティブの先生に教えていただいたが、journalを提出し、手紙の書き方や、紛らわしい文法を実際の状況によってどう使い分けるかなど、実用的な内容が多くを占めていた。writing, readingの成績は全く振るわなかったが、高校での英語は、英語をコミュニケーションツールとして認識させてくれた大きな分岐点であったと思う。その点で、高校の英語教育は英語を私に近づけてくれたという点で非常に満足のいくものだった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 このような過去の英語教育を振り返ってみて、山岸先生の授業と具体的に比較を試みたがなかなか比べがたい。前述したが、高校の授業も私には納得のいくものであったし、大学
1年で受けた時事問題英語も英語圏のニュースを見る場合役立っている。そして山岸先生の授業は、良い意味であまり「英語」としての意識がなかった授業だったのだ。私にとって山岸先生の授業は毎週、社会勉強の連続であった。そして、大学へ通い続けることに対し疑問を感じていた私に、大学の意味を示してくれた授業でもある。先生の本意ではないかもしれないが、そのため私はほとんど手もあげず先生の話を聞くために授業に出ていたといっても過言ではない。
 授業、教科書で第一に感じたことは、日本を否定していた私自身がいかに日本人的かということである。初め述べたように、外国に対する憧れが強いのは依然変わらない。しかし、永住しようとは思えなくなってきている。それを初めて感じたのは友人と2人でヨーロッパに行ったことが影響している。完全な個人旅行であり日本語はいっさい使えない。楽しい想い出ばかり残っているが、反対に「住むなら日本だ」と実感した瞬間でもあった。現地では、感覚の相違から取引間で頻繁に摩擦が起きた。帰国した当初は、その原因を理解することができなかった。そこでその理由を理論的に学んだのは先生の授業である。外国が不便どうこう、というのではなく、自分が日本文化の中の日本人であるから、まったく現地の人と常識が違うのだ。
 日本と欧米諸国における文化はこれでもかというほど相違点がある。身近なことからあげていけば、ものの大きさの感覚、島国であるか陸続きであるかに由来する「海外」という感覚、すべての「もの」の扱い方、マメさ、などあげていけばきりがない。私が幼い頃日本人に対して、”勝手に抱いていた”嫌悪感は、表面だけの付き合いであったりあまり社交的でなかったり無駄な儀式が多いといった点だった。しかし村社会で築き上げた集団主義精神の本質は実に暖かいものであった。なぜ日本人はお世辞をいい、嘘をついてまで円満な解決を求めるのかといえば対決をさける姿勢の間接的な示し方であるからだ。それを”逃げ”と捉える諸外国では、日本人は罵倒されてしまうだろう。先生の言われる、「言語は文化を離れては存在しない」という言葉に共感する。先生は授業において小学生からの英語教育に異論を唱えておられたが私も全くその通りだと感じるのだ。正確に言うと、そう感じられる理由がわかったのだ。はじめは、子供に慣れさせる意味でも幼い頃からの英語教育を望んでいた一人でもある。私たちが日本語を使いこなせるのと同様の方法で英語も学ばせると、頭で文法を組み立てることなく英語を話すようになり、発音もよくなる、と考えると、幼少期からの教育が一番効率的だと考えていた。しかし授業で日本の文化/日本の価値観を知らずに大人になることの危険性を話していただいてからその考えが揺るぎ始めた。私が過去に、“見かけの儀式”と思い込んでいた「お中元/お歳暮」や「自治会」は日本の、地域間における協力の精神、相手を思いやる気持ちの末出来上がった、
“心のこもった行動”の名残であることに気がついた。日本で暮らしていく上で、必要な知識やしきたりになじめない子供が増加傾向にあることは、将来的に日本文化そのものの減少を意味する。教科書の、とらさんに関する章を読み考えたが、日本人の行動は西欧的合理化の結果には到底当てはめられない。「相手のことが好きでしょうがない→度合いが高いほど言葉にだすことはなくなる」ことなどいい例である。聞き手は、その言葉の裏を読む、という作業を要するのである。主張が基本、の欧米諸国の人々に理解を求めることは簡単なことではない。吸収力の豊富な幼少時から「個人」の欧米化を進めて行く結果、自然環境/居住環境は”日本国”であるのに、そこにあわない「個々」の社会がうまれてきてしまう。その結果の一つが、若者の間で頻繁に見られてきた”転職の正当化”だといえる。以前は一生を一つの会社のために捧げてきた日本人が、自分のやりたいことを優先させるようになってきた証拠だ。これは気をつけないと「今働きたくないから働かないでおこう」といった怠けにもつながりかねないのだ。(断っておくと、様々な要素を踏まえて私自身は、転職に関していえばむしろ賛成の立場である)

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 もう一度まとめておく。幼少時からの英語教育は、将来的に日本の文化を失わせかねない。そのため小学校からの英語教育には疑問を感じるのだ。その一方で、英語を確実に習得させようとする国の姿勢も理解できる。今の子供たちが歴史を創る頃は、無数の線でつながれている各国間内でビジネスを行うことになる、そのためバイリンガルであることは必然ともいえるからだ。発音に関して言えば、英語の音をよく聞くことは早いにこしたことはないと考える。しかし、会話は早くとも中学校からでよいのではないか。それまでに日本と海外との日常的な違いをよく知る必要性があるからだ。
 私自身今やりたい仕事がある。それは学歴など到底必要のない世界であり、考えようによっては英語も必要は無い、ただ人と直に対面する仕事だ。しかし私は最低限の会話を習得してこようと思った。ボーダレスな時代において外国人観光客は増加傾向にあるだろう。人と直に関わる仕事がしたい以上、必然的に観光客と触れることになる。そのとき、外国人観光客に日本を気楽に味わってもらえる環境を作りたい。それは自分自身が観光客となり味わった経験からもいえる。そしてこの授業を受けさせていただいたことで、世界だけでなく日本を知ることの必要性を感じさせられた。今私は日本人であることに喜びを感じ、観光客に胸を張って自慢できる。英語から離れたその仕事に飛び込んでも、この授業で得たことは必ずしや役にたつと信じている。
 最後に、先生の授業を受けさせていただいたことをうれしく思います、1年間どうもありがとうございました。(30354564 黒川茉莉)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私は小学校から高校までずっと公立だったため、大学に入学するまでに受けた英語教育は、一般的な中学校3年間・高校3年間の計6年間だった。
 中学校で英語を学び始めるに当たって、教師から「なぜ英語を学ぶのか」という説明は特になく、私たちも特に疑問を持たなかった。英語は義務教育でやるものだということを、教師・生徒共に当然と考えており、疑問を持つことなど思いもつかなかったが、考えてみれば今日ここまで重要視されている英語も、無数にある言語のうちの一つに過ぎず、その中でなぜ英語なのかという説明は必要だったと思う。
 中学・高校での英語の学習は、文法中心、単語・構文の暗記がほとんどで、月に一度程度AETの教師による会話や歌などの授業が行われた。私は文法中心であることが悪いとは思っていない(日常的に英語に触れる機会が無い以上、仕方がないことだと思う)が、その文法が実際の場面で役立つものでなくては意味がない。この授業を受講して、私はこれまで学んできた構文が、スピーチレベルを無視した、不自然なものであったことを知ることができた。
 現在の英語学習は、画一的で、まるで「この日本語が出てきたらこの構文しかない」とでもいうように、公式化されている。受験校と言われるような高校では特にそうである。このことは山岸先生のご著書『日英言語文化論考』の中の、「ある高校の先生」の例にも見られる。(162ページ「生きた英語を知る努力」)。その公式に当てはまらないものは点をもらえず、入試をはじめとする諸々の試験の役には立たない。そのため、生徒たちは生きた英語を身につけようとするよりも、その公式を覚えようとする。「受験英語」というものが受験のためのツールとして一人歩きしているのである。これでは英語学習の本来の意味がない。
 また、現在の英語教育において特に欠落していると思われるのは、文化という視点である。言語は文化と切り離しては存在しえない。言語は文化に深く根ざしたものであり、その言語を知るということは本来その文化を知るということのはずである。現在の英語学習は、文化を学ばずに、自分たちの言葉にそれに対応する(と考える)言葉を、ただ単純にあてがうという作業をしているだけに思われる。それでは相互理解などありえない。
 他の言語を本当に理解し、同時に理解してもらうためには、相手の文化を知る努力ももちろんのことながら、まず自分の文化を知らなくてはならない。自分が普段何気なく口にする言葉の一つ一つ、考え方の全てが、この国の文化に深く影響を受けていることを意識し、相手の文化との違いを意識した上で話せること、それを目指すことが本当の英語学習であると思う。それが出来ずに、ただ単語をたくさん知っている、流暢に英語を使えるというだけでは、(山岸先生がよく仰ることだが)「仏作って魂入れず」になってしまう。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 1で書いたことの繰り返しになってしまうかも知れないが、私はこの授業を受けるまで、英語を学ぶ意味について深く考えたことがなかった。また、英語を学ぶということが単に英米の文化を学ぶということだけでなく、自国の文化を学ぶということにつながるのだということも、初めて知った。
 この授業を受ける前までは、私は英語を学ぶということは、単に英語を使えるようになるということであると思っていた。そのために、単語を覚え、構文を覚え、流暢に話せるようになることが最優先であると思っていたのだが、この授業を受けて、流暢に話すことよりも何よりも、英語の「心」を学ぶことがいちばん大切なのだということが分かった。
 山岸先生の授業は、まず自国の文化を理解し、その上で英米の文化との違いを知るというやり方であるため、今までどんな授業でも教わったことのない、日本人の根幹にかかわるいろいろな事柄を知ることができた。「わたし」「自分」や、「むすこ」「むすめ」等の語の意味、日本人の宗教観の根幹を成す「本地垂迹説」、日本人の同調性や、和を尊ぶ民族性を培った風土や歴史的背景について、などなど・・・。他にも、日本人が、外国人の誤解に基づく非難に、妙に納得してしまう理由やそれに対する反証、また自分たちで自国の文化を卑しめるというような、悲しむべき風潮についてなど、この授業に出会わず、知ることができなかったらと思うとぞっとするような、とても尊いことを学ぶことができた。
 この授業を聞いて学んだことは、すぐに活かせるものもあり、また、今後興味を掘り下げていく中で自分の実となっていくものもあると思う。ただ、言えることは、この授業によって私の中に、相互理解へとつながる芽が生まれたということだ。今後成長させていけるかは自分自身の問題だが、この授業に出会えて自分の中にそういう芽を持てたことに、心から感謝したい。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育に欠けていたこと、それは前述のとおり、「その英語が生きているか」という視点と、「文化の相互理解のためのツールとしての英語」という視点である。せっかく英語を学んでも、日常生活に使えなくては意味がない。スピーチレベルという視点を取り入れ、それに従って整理して学ぶことで、TPOをわきまえた話し手になることが重要である。また、ビジネスや学問の話はできても、個人的な交流が出来ないのではあまりにも悲しい。文化の違いを学び、受け容れた上で、意識して話すことが大切である。
 その二つの視点を併せ持った、この授業のような英語教育を受けることによってのみ、日本人は本当の「国際人」になれるはずである。
 また、今日、国際化の影響で英語の需要がますます高まり、小学校からの英語教育の必要性までもが議論されるようになってきた。しかし、それは本当に必要だろうか。
 確かに、現在、中高併せて六年間の英語教育を行っているが、現状は、実際の場面で活用できるという状態とは程遠い。しかし、小学校とは、母語を日常会話に不自由しない程度まで吸収し、これからその適切な使い方を学ぼうという時期である。まだ母語である日本語さえ十分に学んでいないその時期に、英語を教えることが果たしてよいことだろうか。私は、まずは母語をある程度使いこなせるようになることが先決ではないかと考える。まずそれができないことには、自分のアイデンティティを持つことができず、せっかく覚えた英語で英米人と会話をしたところで、何も自分のことを表現できないと思うからだ。
 これは私自身の体験でもある。私は中学二年生の時と高校二年生の時の二回、それぞれアメリカとオーストラリアにホームステイをしたが、「日本は〜?」という質問をされると、分かってはいることなのに、どう英語で説明すればよいかわからずに、しどろもどろになったり、後で調べますと言わなくてはならなったり、とても恥ずかしい思いをした。また、この授業を受けて分かったことだが、私はスピーチレベルなどということを考えもしなかったため、学校で学んだ構文や副詞などを使い、相当カタイ言葉で会話をしていた。また、ちょっと言葉を探すとき、well…と言ったり、日本語の考え方はそのままに、ただ英語を当てはめて(本当ははまっていないのだが)話したりしていた。気付かずに誤解を受けていた場面も多くあったと思う。
 英語は、単に表面上、上手く話せるということが重要なのではない。大切なのは、自分の言葉を英語にする時に、自分の言葉がどういった背景から出ているか、また、それが英米の文化とどう違うかということを認識しているということである。それを教えてくれた山岸先生に心から感謝すると共に、このような授業が増え、もっと多くの人が本当の英語教育に触れることが出来るようになることを切に願っている。30304491 河村瑶子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 まず、この一年間の英語学習を踏まえ、高校まで私が受けてきた英語教育を振り返ってみると、後者は非常に狭義での英語学習だったと言える。
何故、英語を学ぶのか。今までの英語学習の中でこれについて明確で合理的な説明はなされておらず、そうなると英語を学ぶ動機が曖昧になる。単語を覚える、文法を理解する等と言った、受験を意識した所に重点が置かれ、率直なところ、受験のために必要なスキルの一つという、無機質な印象しか持ちえなかった。
 私が通っていた高校はミッションスクールで、本部がカナダの修道会である為、その公用語であるフランス語も学び、外国語教育については恵まれた環境にあった。
 しかし上記の通り、英語を学ぶ意味、その言語の背景にある文化について十分な説明はなかった為、真の英語学習は出来ていなかったように思う。 
A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 今年、山岸先生の授業を受講し、大変新鮮な印象を受けた。今までの英語の授業とは全く異なるスタイルであったからである。先生はまず、言語と文化の不可分性を指摘され、日本語と英語各々に色濃く表れる、文化や風土、宗教的差異について詳らかに説明された。例えば、英語圏では、キリスト教という、唯一絶対の神を信奉する一神教が信仰され、人々は、半砂漠地帯を狩猟で暮らしを立てながら移動する遊牧の民であり、そのような過酷な状況で共存していくため、契約の精神を重要視する。神の使命を果たそうと、一人一人の「
I」がいかに生きていくか、という個人の自立を重んじる。
 一方日本では、島国という地形から他民族と大きな争いも起こらず、世界的に見れば比較的温暖な気候の中で、村落共同体の形式を取り、農耕を営んできた。地震、台風、それに伴う河川の氾濫や火山の爆発といった天変地異を、人智の及ばないものとし、甘んじて受け入れ、山の神、水の神という風に、そこに八百万の神を見出したのである。この、自然と調和し、自然を敵と見なさない文化は、日本における人間関係にも大きく影響を及ぼしている。何よりも、和を重んじ、個が突出することを良しとしない。「うち」という集団、運命共同体意識の中で、英語圏で言う「I」の意識は育ち得ないのである。
 このように、言語の文化がこれ程までに異なっているのだから、言語にもその差が大きく表れてくるのも全く不思議でないと気付くことが出来た。
 授業の中でも、英語と日本語では異なる意味を持ち、認識をされている語をいくつか習ったが、特に印象深いものを次に挙げたい。
 まず、「right/「権利」という語であるが、英語圏では、契約観念に基づき、個人の自立に必要不可欠なものとして正当に主張されるであろう。しかし日本人の、儒教的教養に根ざした感覚では、この語を受け入れ難いのである。「権」は、上に立つ者が持つものであって、一般の民が持ちえるものではないし、「利」という言葉には、古くから卑しさを覚える。よって現在でも、権利権利と主張することに後ろめたさを感じる人は多い。これは、「lawsuit」が「裁判沙汰」いうマイナスイメージを伴って訳出されている事にも関係していると思う。異民族、異文化が共存し、個人の権利がぶつかり合う英語圏では、裁判は正当な手段として認識され、しばしば利用されるものであるが、日本では、上述のような、「権利」を主張することへの後ろめたさと、何よりも和を尊ぶ民族性から、事を公にし、第三者の介入を以って問題を解決するという方法には抵抗を感じるのである。
 このように、英語と日本語では異なる意味を持ち、認識されている語は、数多く存在している。このギャップを埋めるため、日本人・日本文化をよりよく理解した上で日本語を英語にしていく、欧米人・欧米文化を理解した上で英語を日本語にしていくというアプローチが、この授業で学んだ最も大きなものだ。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 現在、今まで行われてきた英語教育の改革、見直しが検討され始めており、小学校からの英語教育を筆頭に、

 ・「コミュニケーション重視」ということで、科目を組み替える
 ・    英語を訳して読むだけでは実用の役に立たないから、外国人講師による会話の授業を増やす

 ・「入試のための詰め込み教育」という批判に答えて、全体の授業時間数を減らす
      学習指導要領を変更し、教科書に組み込まれるべき必修単語数を減らす

等といった改革案が挙げられている。

 こうした動きの中で、気になったのが、「英語の前に国語力を養成」という方針である。
「論理的な考え」「相手に伝わるような表現」をする力を子供のうちから養おうというもので、現在まで、国語力については、読書や社会生活で自然に身に付くものとして施策の対象にはならなかったが、来年度から重点的に取り組む「英語が使える日本人」を育成する戦略のためにも、まずはしっかりした国語力が必要であり、本腰を入れて取り組むこととなった。
 新たな英語教育の中では、言語と文化は不可分であること、日本語と英語では背景にある文化が異なるのだから、それに伴い言語にも相容れない概念、ニュアンスが表れてくること、言語を習得するにはその文化への深い理解が必要不可欠であることを伝えていかねばならない。さもないと、むやみに英語嫌いの子供が増え、数々の施策も蛇足に終わってしまうと思う。30355409 後藤由果)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 ほとんどの人が中学・高校を通して
6年間英語を勉強している。しかし、自分でなぜ英語を学んでいるのかわかっていない中学生・高校生が大半なのではないだろうか。自分自身英語ができるようになれればよいとは思っていた。しかし、英語を学ぶ理由・意義などは考えずに受験や試験のために英語を勉強していたように思う。授業では、専ら単語や文法の知識を習得することに時間が割かれていたし、自分で学習する時もそれらのことに多くの時間を費やしていた。日本と英語圏との文化的な相違を勉強せずに、ただ英単語を日本語と置き換えて考えるような勉強法であったように思われる。辞書もただ単語の意味を調べるためだけに使用されていた。僕は、高校は進学校ではなかったので然程でもなかったけれども、それでも、中学や高校を通して学習した英語は文法や単語の意味を暗記するようなものであった。最近では、会話重視ということもあって、リスニングやスピーチもやっていたけれども、まだまだ時間が少なかったように感じている。もっとも、英語を学ぶ意義や英語圏の人々の文化背景などを説明してくれる先生は滅多にいなかった。文法や単語の知識を身につけることも英語を理解する上で重要な要素であると思われる。ある程度の文法や単語の知識がなければ、英文を読んだり、英語圏の人とコミュニケーションをとったりすることができないであろう。しかし、大学受験などの影響もあるのかもしれないけれども、日本の英語教育は文法などの知識に偏り過ぎているのではないか。その単語や英文の相手に与える印象や日本語と英語の文化的な意味の違いをもっと説明するべきだったのではないか。日本語もTPOによって使用する単語や言い回しがあるように、英語にもその時々に適した言い方や単語の使い方がある。そのようなことを説明するのにまったくと言っていいほど時間が割かれていなかった。これが、日本の英語教育の実態である。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 最近、ニュースで外資系の会社と日本の企業の提携がうまくいかなかったことを報道していた。日本についてよく知っている外資系の社員が、日本人は、できない仕事もできないとは言わず難しいと言い、日本人にとって、日本人にとってはできないと言うことを意味しているわけであるけれども、外国人にとっては、それは難しいけれどもその仕事をできるということを意味し、そこにコミュニケーションの溝があるという内容のことを言っていた。文化の違いから、このようなコミュニケーションの溝ができてしまうのである。その日本の会社は、とても有名な会社なので英語を流暢に話せる人も多くいたと思う。しかし、大抵の英語の授業では、日本人・英語圏の人々との文化の違いなどを教えず、ただ日本語をそのまま英語に変換したり、逆に英語をそのまま日本語に訳したりするだけであった。それでは、本当に外国人とコミュニケーションがとることができるとはいえないのではないだろうか。この授業は、そのような点に重点を置いて、日本と英語圏との文化の違いを学びながら、日本人が話す英語がどのような印象を相手にあたえるか、どのような表現をどのような場合に使ったらよいか、英語と日本語のニュアンスに違いについて学んだ。
 このように、この授業は、過去の英語の授業とはまったく違った視点で英語を教えていたと言える。今までは、英語を日本人の視点からしか考えてこなかったけれども、この授業を受けることによって、英語圏の文化的視点を知ることができた。そして、単語や言い回しの本当の意味、英語圏の人に与える印象など、今まで受けてきた英語の授業とは違い、英語圏の人々の持つ文化や価値観を理解することの重要性を知った。また、英語圏の文化と日本の文化に違いを意識することによって、日本の文化に対する知識も深まったように思う。
 ゲーテは、「外国語を知らないものは、母国語を知らない」と言っていた。この授業を受けて、本当にその通りであると感じた。日本人であるにもかかわらず、あまりにも日本の文化について無知であったと言うことを痛感した。自国のことをよく知らなければ、外国人に対して、自国のよいところ、誇りに想うところを説明することができない。それでは、本当の意味の国際人とはいえないのではないか。やはり、自国をよく知り、自国の文化を他国に説明することができ、他国の良いところを学んでこそ国際人ではないか。
 まだまだ知識は足りないが、この授業のおかげで、英語と日本語の文化を学ぶ大切さを知り、英語で日本のことを説明できることの大切さを学んだ。この先、日本も国際化の流れに乗って、諸外国との関係もますます親密になっていくことと思われる。これから先もこのような勉強を続けていけば、日本人の考え方を英語で説明できるようになるだろう。この授業で学んだことは本物の国際人となるためにとても役立つと思われる。そして、将来、世界に誇れる日本の文化を広めることができるであろう。この授業で学んだことは大きい。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 今まで述べてきたように、これまでの英語教育では、日英の文化の相違・考え方の違いを無視して英語教育を行ってきた。文法・単語の知識も確かに必要な要素であるだろう。しかし、日英の文化理解という言語を勉強する上で不可欠な要素が欠けてしまっていたように思われる。そのような理解をせずに英語を勉強してもただ暗記をするだけで、面白いものではないであろう。使える英語を学習するためにも文化の理解をしなければならないし、日英の文化に関する話はとても興味深いので、面白い授業をすることができると思われる。教育は生徒の興味・関心を引き出すものでなければならない。これからの英語教育は、日英の文化の比較を行いながら、英語のフレーズや単語を教えていくべきであるだろう。そのためには、日本人が日本の文化について深く理解する必要があるであろう。僕は、自分自身日本の文化についてあまりにも知らないことが多すぎると感じた。ここ数年小学校から英語教育を始めるべきだという意見が多いけれども、小学校では、まず日本の文化を理解するための授業にもっと多くの時間を割くべきなのではないかと思う。小学校から英語を学ぶ上でも日本の文化と英語圏の文化の比較は必要であるだろう。他国の文化と比較しながら自国の文化を学ぶ。そのために、小学校で英語教育をするのなら良いが、ただ、英語を形式的に日本語に訳したり、決まったフレーズだけを日本的に理解して覚えたりするのでは意味がないだろう。小学校から始めるにしても、中学校から始めるにしても、文化の違いから生じる表現のニュアンスの違いや文化背景を教えなければ言語教育とはいえないであろう。今後は、このような日英の文化を意識した英語教育が望まれる。(30310354 林 祐一)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私の英語教育が始まったのは小学4年生のときである。早くないか、との疑問をお持ちであろうが、私の小学校は小学生から英語教育が始まるのであった。授業体系はネイティブの方と日本人の方が一緒に教えるというものであったように記憶している。そういう記憶も定かではないので、英語を学ぶ理由、意義がきちんと説明されたかははっきりとしない。ただ、英語を学ぶ理由は、これから迎える国際化の時代を生き抜くためには、英語を話せるようにすることは不可欠なのだろうと子供心ながら思っていた気がする。
 授業内容は、アルファベットから始まり、絵や本を使って単語、文章を覚えるものであった。
 テキストブックに英語の会話の文章があり、それを暗唱するテストがあった。今考えると、それは英語圏での幼稚園や小学校低学年で使われるようなテキストであったと思う。その頃は、英語に慣れる、英語と親しみを持たせるような指導を受けていたように思える。
 また、学校とは別に、小学校5年から英習塾に通うようになった。ここでの英語も始めはお遊戯みたいなものであったが、次第に英文法を学ぶようになっていた。この塾では、将来英語は絶対に話せるようにならなくてはいけないよ、ということを言われ続けていた。この塾には高校3年次まで通い続けたが、英文法ばかりの教育で結果的には英語で会話できるようにはいたらなかった。
 中学での英語教育はいたって一般的であったように思える。教科書になぞって文法、単語のテストという試験であった。ただ、中学2年のときの先生が帰国子女で、少しだけ日英文化の比較を行っていた。
 高校は、付属高校であったため、大学受験は意識されていなかった。そのため、英語の授業も教科書を用いることは少なく、先生が独自の文献で自由に授業を行うという今の大学で受けている英語の授業とほぼ近いものであった。ひたすら古典を英文和訳する授業、英字新聞を速読する授業、英語圏での国語のテストのような問題を解く授業など、大学の英語教育に似ていた。大学の授業で外から受験で入ってくる生徒に遅れを取らないためのカリキュラムであったのだろう。
 辞書指導は中学、塾、高校で一応行われた。特に、塾ではしっかりと行われ、和英を見たら必ず英和でもう一回調べろ、調べた単語の例文、用法はすべて見ろと教えられたことが印象に残っている。
 私は付属校生徒のため、受験で入ってきた学生と較べると単語量、文法面で大きく劣ることは否めない。しかし、比較的自由で多様な英語教育を受けてことはとても強みであると思うし、良かったなあと思っている。それは、英語は喋るためのもの、そして喋る、自分の気持ちを伝えるためには単語量、文法はそんなに重要視されないといった思いがあるためである。しかし、その割には英語を喋れるようにはいたっていない、また発音の勉強は中学初期にしか行われていないというジレンマも残っている。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 山岸先生は初めの授業でこういった内容のことを述べられた。「この授業では今まで諸君が言われてきたような、“a”が抜けているだとか文法が間違いだとかの注意、そしてそれによる減点方式の授業をするつもりはない。」文法がいくら間違っていようと、伝わる英語を習得することが大事だ、という先生のお考えであると思う。私は、難しい文法を学ぶことが会話を出来るようにすることに直結するのか、という疑問を常々思っていた。先生のその発言は私の疑問を一気に吹き飛ばした。生きた英語の習得、それこそが会話が出来るようになるための一番の近道なのでないだろうか。そのためには、相当語や文法での、「ここはこういった理由でこうなるのだよ」という理由の説明がなされなければならない。山岸先生の授業ではそれがなされていた。今まで受けてきた英語教育は、なにかと数学の公式みたいにあてはめることばかりで理由を深くは理解させないようなものばかりであったと感じている。この理由の説明が、今までの授業と一番違った点ではなかろうか。

 また、先生は授業中に、英語を学ぶ前にまず自分の国、文化を理解しないと他国の言語、文化など理解することはできないと述べられた。そして授業では、英語の文法などはほぼ学ばず、自国の文化について考えるものであった。春季授業のテーマ、「日本人に関する外国人の疑問」は、日本人である自分でも十分に説明できないものばかりであった。このことで、自分がいかに自国の文化をも理解していないことを知った。この「日本人に関する外国人の疑問」の解答は、自分にとって大きな財産となったと思う。これを学んでから、自分でもものの考え方というものが大きく変わり、物事をしっかりと考えることが出来るようになった。それは、日本人のものの見方を理解したからであると思う。この考え方は、将来生きていく中で、私が物事の正しい判断をするための核となっていくのではないだろうか。このような授業をしていただいた先生に、この場を借りてお礼を申し上げます。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 この授業を受けて、なぜ日本人が相当な量の英語教育を受けているにもかかわらず、英語が喋れないのか、という英会話教室の宣伝文句みたいな疑問に対し、ある程度自分の解答が固まった。
 “there”という語がある。これは、日本では「ある、いる」という語の相当語であるという教育がされているのが一般的であろう。大方間違いではないのであろうが、実際、ネイティブの人が「ある、いる」を意味するような文を作るとき、この“there”はほとんど使われないそうだ。“there”を使うと言い方が堅苦しくなるため、一般には使われないそうだ。しかし、日本人には「ある、いる」=「There is 構文」という考え方が染み付いているように思える。実際、私もそうゆうきらいがある。これは、日本の英語教育が文法第一の方法を取り、実際に使える英語を教えようとすることがないからであろう。これは、受験に由来するからであると思う。
 受験という制度が悪いのではない。強いて言うのならば、学歴尊重の日本社会、そしてそれに基づく受験を第一とする日本の教育方法が悪いのであろう。日本は、大学に入るためのハードルは高いが、卒業のハードルは低く、アメリカはその逆と言われる。これは、大学の位置付けの違いから来るものであろう。日本では、とりあえず大学を出れば就職はなんとかなる、というような風潮が根強く、進学率が高い。かたやアメリカでは、本当に勉強をしたい人だけが大学に進学する。もし、日本の教育を抜本から変えるのならば、大学をアメリカ型に移行することが第一であると私は考える。
 少し話が大きくなってしまったので、ここからはこれまでの英語教育に欠けていたと思われる点を考える。まず、何のために英語教育を行っているかを考えるべきである。英語教育の根本は異文化交流の実現であると思う。国際化の進んだ現在、異文化交流は盛んになりそのような場で英会話力は必要不可欠である。現在の日本の英語教育では、英語力は上がるが会話力は上がらない。周りをみればわかるが、受験のための英語力が会話に結びつくことは少ない。本塾に一般受験で入った学生のどれくらいが、英語である程度の会話ができるであろうか。あまり多い数字ではないだろう。やはり、受験英語と会話が結びつくとは考えにくい。そのため、会話するための英語、生きた英語を学ぶ、という教育方針に変えないといけないのではないか。
 
 具体的授業方法としては、まず自国の文化を理解させる授業を行う。そして、英語の授業では日英文化の相互比較をするべきである。言語は文化の下に成り立つものである。文化の理解なくして言語の理解はありえない。お互いの文化背景を理解しあわなければ、真の会話にはならないであろう。そして、自国の文化、言語を理解しないまま他国のものを理解しようと言うのは不可能だ。まずは自分を知り、そして相手を知る。これが会話の基本ではないか。それが異文化間ならば尚更である。
 先述した“there”の話に通ずるが、今は英語を数学の公式のようにあてはめさせるように教えている感じがする。なぜそうなるのか、という疑問を排除し、そう思いこませるように教育をする。そのような教育方法を直し、なぜそうなるのか、ということを完全に理解させる授業をするべきである。
 また、小学校での英語教育の義務化についてであるが、これは無理にする必要はないと思う。小学生への英語教育のメリットとしては、変な外来語などを知る前に英語を覚えられる、自然に発音等が身に付く、ことなどがあげられる。しかし、これには完全にネイティブの英語を身につけた教師が必要である。また、その分他の科目を削るというデメリットもあると思う。もし英語教育を取り入れるのならば、英語による自己表現の練習を主体とした授業を行うといいのではないか。
 国際化により、多くの日本人が欧米人と接する機会が増えてきた。そのような機会は今後更に増えるであろう。そういう場面で、日本人の先送りの対応の仕方や、自己主張をはっきりとしない性格に対し、欧米人の非難があることは確かである。現在の日本では、国際人としてそういった性格を直そう、というような風潮が出てきているように思える。しかし、元来日本人と欧米人は全く違う性質を持つ人種であり、それを無理して欧米にあわせる必要はない。むしろ、自分たちの特徴をしっかりと説明し、理解を得られるほうが真の国際人なのではなかろうか。そのためにも、まずは自国のことを深く知る必要がある。そうすることによっていつか「寅さん」の性格も理解される日が来るであろう。真の目的は相互理解にあると思う。自分たちのことわかってもらうためにまずは自分たちのことを知る。そして、相手のことを知る。このことを念頭に置き、英会話力の向上を目指す教育を行うべきである。(30361657 松本卓也)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 世界の共通語として英語が話され、あらゆる分野において国際化が進められている現在では、英語を学ぶことは必然であろう。しかし、中学や高校、あるいは塾や予備校における英語教育は、今日の国際化社会を本当に意識したものなのか。
 学歴社会の日本において重要であることは、どの大学を「出たか」であり、「何をしたか」ではない。つまり、日本社会において安定した高水準の生活を保障されるためには、何としてでも高偏差値の大学に入学しなければならないことになる。一流大学に入学してしまえば、あとは何とか卒業しさえすれば、ある程度の社会的地位を得られたも同然である。従って、子供の親や教育者たちは、少しでも良い大学に入れようと努力するのである。
 その大学受験(または、その前段階である高校受験)で大きな比重を占める教科が英語である。明治維新後、特に敗戦後に急速に外国文化(米国文化)が日本に浸透して、社会全体が英語の必要性を感じたこともあり、現在の受験科目には当然に英語があり、英語が苦手だと受験に失敗するといっても過言ではない。そのためか、一般的には中学校入学と同時に半ば強制的に英語を学び始めることになるのだが、それを学ぶ目的は私には説明されず、仮に説明するとしても、「受験のため」としか言えなかっただろう。
 受験の英語科目で要求されることの大部分は、機械的な文法理解と統一的な文章読解能力のみである。つまり、それらさえ完全に習得してしまえば受験英語には何の問題もなくなるわけで、中学や高校での英語教育の焦点はそこに向けられるのである。受験成功のための英語教育では、英語という言語の表面だけを学ぶに過ぎない。受験での英語で問われることについては、それだけで十分だからである。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 日本で生まれ日本で育ってきた以上、いかにその後の環境が変わろうと、我々の思想の根底にあるものは間違いなく「日本文化」である。物事には適正というものがあるように、文化と言語にも適正があるように思われる。そして、「日本文化」の上に「日本語」を置いたり、「英語文化」の上に「英語」を置くことは適当であり、何の不具合も生じないのが普通である。しかし、「日本文化」の上に「英語」を置くには無理があるのではないだろうか。私が現在までに受けてきた英語教育を含む日本の英語教育の殆どがまさにこれである。

 我々の思想の基礎である「日本文化」に「英語」を置くことは決して不可能ではない。ただし、それによって多少の誤解が生じてしまうのは避けられない。これまで、私はこの事実を実感せず、また、その矛盾した英語教育を受けてきたのだが、この授業を受けるまでの英語に対して多くの誤解があることに気付かされた。この授業を受けなかったら、恐らくこの誤解について気付かないまま人生を送っているであろう。そして、この授業が教えてくれたことは、その英語への誤解を払拭するためには、我々日本人の思想の中に「英語文化」という基礎を構築することが大切であるということである。
 日本語文化の形成は、殆どが山である島国において必然的になってくる農耕を中心とした長期にわたる定住生活が原因となって発生した「集団意識」に基づいている。そして、その集落という集団を維持するために、他人との対立を避けるような「協調」を重要視してきたのである。一方、英語文化の形成は、大陸の広大な土地において移動を繰り返す狩猟生活が原因となっている「契約観念」に基づいている。これは、キリスト教のような一神教の背景となっており、その移動生活で生き抜くために最終的に必要になってくる、頼れるものは自分しかないという「自立」の精神を重要視してきたのである。つまり、日本人は「集団性」を強調した思考をするのに対して、英語圏の人は「個人性」を強調した思考をするので、根本的に物事の考え方が違うのである。
 この授業では、その考え方の違いや、その我々の集団的意識を以て、個人性を基調とした英語を学ぶことの無意味さを痛感させられた。私が受けてきた英語教育は、英語の表面的な数学的理論のみをすくい取ったものに過ぎなかったのである。英語の隠れた意味や根底にあるものを正しく理解するためには、まず日本人と英語圏の人との思考の違いを理解したうえで、英語が成立してきた文化や風土を認識することが先決であると思い知らされた。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 つまり、英語教育において、最初から文法や単語の意味を教えたり、英会話教室に通うことは、英語圏の人が普段使っている「本当の」英語を学んでいるとはいえないのである。一般的な水準の中学校に入ると、まずは簡単な(しかも表面的な)英単語の意味や文法を習い始めるが、国語(日本語)に授業においても本格的に文法を習うことになる。共に文法を学ぶという点では共通しているが、そこに至る過程には雲泥の差があると考えるべきである。
 国語の文法を学ぶまでは、日本で普通に生活していれば、それまでの約12年もの間にどっぷりと「日本文化」に浸っていることになる。従って、子供たちは十分に日本文化を理解し実感したうえで日本語文法を学ぶので、少しの誤解も生じないのである。しかし、英語の文法を学ぶとなると話が違ってくる。というのも、普通に日本で暮らしてきた子供たちは、英語文化に浸るどころか触れたことも無いのが大多数であるからである。彼らの思考の中には、個人を尊重する「英語文化」的概念はほとんど無いのであり、この基盤を持たない状態で英語を学ぼうとすることは、先に述べたように、全く意味の無いものといっても過言ではない。
 英語圏の人に対しても使える本当の英語を最初から正しく学ぶためには、根底にある「英語文化」を予め理解する必要がある。最も実践的な方法は、やはり英語文化圏に長期的に滞在し、実際に英語文化に触れてみることであろう(ただし、周囲に日本人がいない環境で)。
 しかし、中学生になる前の段階でこれを現実に行える人は少ないのであり、また、英語教育を受ける前の生徒を全員留学させるわけにもいかない。ならば、海外で実際に英語文化に触れなくとも、国内で英語文化について教え込めばよいのではないだろうか。つまり「英語」ではなく「英語文化」を教える授業を取り入れるのである。だからといって、新たに「英語文化」という科目を作る必要は全く無い。具体例を挙げると、中学校では週に何時間かの英語の授業があるので、そのうちの一つを英語文化を教える時間にしたり、同じ時間の中でも、文法や単語の意味を教える前に、その文化的背景を教えたりしてはどうか。あるいは、小学校の授業であっても、「社会」の授業内で英語文化について教えてもよい。いずれにしても、本格的に英語を学ぶ前、または学びながら、その前提となる「英語文化的思想」に対して正しく理解させることが肝要である。
 ところが、そのような体制が確立されたとしても、その英語文化を教える人が正しくそれを理解していなくては、全く意味のないものになってしまう。一般的な小学校の教師にそれを要求することは難しいかもしれないが、少なくとも中学校の教師には可能なことではないだろうか。教師になるまでに様々な専門教育を受け、教員試験に合格しなければならないが、その過程において正しい英語文化的思想を教え込んではどうか。例えば、大学の英語の教職課程の中に、正しい英語文化や日本語と英語の文化的背景の違いを教える必修科目を置いたり、英語の教員試験で、英語の語彙力や文法力だけでなく、その英語の裏に隠された意味について問う問題や面接を実施するなどである。そういった過程を経ることによって英語に対する正しい知識を持った英語教師が、先ほどのように、中学生や小学生に対して理に適った順序で英語を教えることができれば、今までのように英語の表面的なほんの一部分だけを理解し、あたかも英語を完全に習得したかのような「偽者」は確実に減るだろう。
 その一方で、受験における英語のあり方も変えなくてはならない。現在の受験で求められる英語というものは、いかに語彙力や文法力があるかだけであり、たとえ英語の面接があったとしても、それは英語での意思疎通ができるかを試すだけである。つまり、今まで述べてきた、本当に大切であるはずの、英語文化に基づく英語の隠れた本当の意味を問われることはないのである。従って、どんな試験形態にしようとも、それを理解しているかどうかを問うものでなくてはならない。受験英語がそのようなものになれば、受験する者は必然的に、英語文化を基礎とした正しい英語を学ばざるを得ないであろう。
 敗戦後の日本人は、欧米諸国に対してどうも劣等感を持っているように感じられる。そのせいか、英語のみならず、欧米の食生活や住環境、生活習慣にいたるまで、あらゆるものを日本文化の中に急速に取り入れてきた。私は、海外文化を日本文化に取り入れること自体は全く否定しない。むしろ、世界中で国際化が進められている現在では、海外文化を取り入れざるを得ないであろう。しかし、あまりに急ぎすぎて、「仏造って魂入れず」の状態になっては全く意味がない。その本質をよく見極め、理解してから取り入れるべきである。それは英語でも同じことである。世界規模の国際化の中で英語がいかに重要であるかは誰もが実感していることではあるが、それで焦って英語を普及させようとして、英語という言語の表面部分だけを頭に詰め込ませるような英語教育をこれまではしてきたのである。そして、日本教育全体の見直しが迫られている今こそ、本当の英語教育を構築するにふさわしい時期なのかもしれない。(匿名希望)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 英語に接する環境ができたのは中学生になってからでした。文部科学省(旧文部省)の教育指導要綱の中に英語が含まれていた唯それだけである。公立の中学校だったから他の言語を学ぶ機会すらなかった。世界にさまざまな言語があるのにどうして英語を勉強するのかという感情もなかった。なぜなら英語以外の言語を話す必要はなかったし、英語は世界の多くの国で使われているので学ぶに損は無いとメディアを通して捉えていたぐらいだったからである。中学高校を通して英語を学ぶ理由・意義などの説明は受けたことが無いというか、記憶に無い。受験の一科目であるということを除いては。あったとしても心を突き動かすような納得のいくものが無かったということだと思う。中学での授業は教科書を読み進めるだけの退屈な授業でした。教科書の最後に単語の意味は載っていたので辞書を使う必要はありませんでしたから持ってもいませんでした。週に一度ALTの授業はゲームを通して英語を学ぶというようなものだったように思いますがあまり記憶に残っていません。イギリス出身のALTのアダム・ウォーカーは極真空手をしていて当時柔道部だった私は武道の事を通して話すことが多かったです。柔道に興味をもってくれたアダムは一日柔道体験に来ました。当時私は技の入り方、技の名前の由来、柔道における作法を詳しく英語で説明できなかったことを歯痒く思ったことだけは鮮明に覚えています。このときはっとさせられました。英語を学ぶ理由の大きな一つはこれなのだと。しかし気づくのが遅すぎました。アダムは転任してしまい、三年生になった私たちには受験英語しか待ち受けていなかったのです。
 高校に入学するとリーディング、グラマー、オーラルコミュニケーションの三つの授業に分かれました。リーディングとグラマーに関してはとにかく数をこなして受験に備えるというものでした。オーラルコミュニケーションでは授業のはじめは
ALTの質問に答える時間、後半は教科書を読み進めるリーディングの授業とほぼ変わりませんでした。一年の最後に日本の昔話の劇にしたことが一度あるぐらいでした。中高を通して日英の言語・文化の比較は説明してもらった記憶は無いです。受験英語に染まっていた感があります。高校に入ると教科書販売とともに学校指定の英和辞書(GENIUS)を買うことが求められました。半強制的で、みんな同じ辞書です。選択肢などありませんでした。なぜ同じ辞書を使うのかとたずねると、注意してもらいたい単語が出たとき何ページといえばみんなすぐ開けるという理由が返ってきました。それも一理あるとは思いましたが注意する単語が出てきたとしても自分で辞書を引けばいい話だし、授業で先生がページを指定してみんなで見たということも記憶にありません。自ら予習して見てくることが当たり前のこととしてとらえられていました。英語の辞書指導は詳しく時間を割いてしてもらった記憶はありません。発音記号の読み方も一部だけ授業の合間にするぐらいでした。和英辞典を使うということが高校時代はありませんでした。学校が薦めるということもありませんでした。ただ必要が無かったのです。英語から日本語という受験英語の受動的な勉強ばかりで自分たちから日本について英語で発信するということはありませんでした。だから和英辞典も使うことが無かったということです。
 私の通っていた高校は県立の旧制一中で半数以上が国公立大学に進学する受験校でした。大学受験が強く意識されていた学校でした。二年生の後半からは受験問題を反復して繰り返す授業が続きます。受験英語の教育の好ましかった点は語彙をたくさん覚えられたこと(日常生活であまりにも使わない言葉も多かった)で読むことに関してはある程度の力をつけることができたことは事実である。好ましくなかった点はあまりにも受験英語が日常生活の中でかけ離れている部分が多かったので、話す必要性も無ければ使おうと思って使えない部分が多かった。学習した英語もスピーチレベルに合わせた使い方を意識することも無ければ、英語を母語とする人に日本人の英語がどのように響くかと考える意識も薄かったように思う。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 山岸先生の授業を受講して今までの英語の授業を決定的に違うことは英語を学んでいるのにもかかわらず自分自身が日本人であること、また自分が日本についてあまりにも無知であることをより強く意識させられたことです。大学一年の授業は高校の英語の延長のようなものでした。はっきり楽な授業で英語を純粋に学びたいとか英語を使って伝えたいとは思う気持ちにはならなかった。山岸先生の授業が教えてくれたことは、英語を通して日本人性、日本文化を再認識し日本人として育ってきたこの二十年間の魂を突き動かすものでした。日本人の作る英語がどのように響くかを考えてみると、大半は日本人を培ってきた民族性が影響しているということ、そこでの発見は今までの授業に無かったものです。山岸先生の授業を受講して将来英語圏の人と接する機会があるとき、日本人の中にある言葉の裏にある意味(connotation)で使うことは避けられると思うので変な誤解や私たちの誠意がうまく捉えられないような事態にはならないと思う。日本人の心について英語で語ることで尊敬されることもあると思うし、伝えていきたいことでもある。この授業でそんな情熱もわいてきた。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 一般の人々は日本で生活する上で英語を話す必要性がないに等しい。これまでにかけていたと思う点は英語を使って何かを伝えたいと思わせる授業が少なかったこと。伝えたいと強く思う気持ちは学びたい、知りたいとう衝動へ変化していくと思う。これが学習するうえでもっとも大切だし頭の中に残る勉強のように思う。文型の反復学習は必要だし力になることだと思うしこれからも変わらない。その上で何を学ぶか何を伝えたいかというきっかけを作る授業が必要だと思う。それは教育、文化、スポーツ、ビジネスなんでも構わないと思う。いろいろな選択肢を持たせることは必要だろう。しかし私たちがどんなに英語を勉強しても変わらないこと、それは日本人であること。小学校での英語教育は限定をつけてしてもいいと思う。小さいころの吸収力はスポンジが水を吸い上げるがごとく早いという。しかし、小さなころに自分が一体何者であるかという混乱に陥る可能性もあると思う。自分自身が日本人であること、また英語圏の考え方文化の違いを意識する必要がある。そのためにも学ぶ際には英語のみで学ぶ必要があるように思う。英語を勉強する以上に日本について知る必要があるように思う。(30313737 吉川 良)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が受けた初めての英語教育は、幼稚園生のころに通い始めた英会話教室でのものである。それは、テープにあわせて英語で歌を歌ったり、英語でカルタ取りをしたり、パーティーをしたりという、小さな子供が「英語に触れる」というようなもので、日本語と対比させた英語の勉強というより、自分とは違う言葉でしゃべる人間がいることや、その人たちは「ニャーニャー」という猫の鳴き声を「ミュウミュウ」と聞いていること、つまり自分たちとは異なる文化をもった人間がいるということを事実としてすんなり受け入れるという程度のものだった。
 英会話教室は小学校にあがってじきにやめてしまい、私が本格的な「英語教育」を受けたのは、慶應中等部に入学してからである。教科のひとつとして英語の授業が始まり、教科書を読み上げて日本語に訳す、単元ごとに学んだ構文を使って日本文を英訳する、単調な授業が突然始まった。ネイティブの先生が英語で行う授業もあることにはあった。クロスワードや欧米文化を扱った短い読み物の講読などの授業だったが、成績の面でも時間の面でも配分は小さかった。慶應女子高校に入学してからもそれは同じで、受験を念頭におかない英語の授業はただ淡々と教科書を英訳するだけであった。
 慶應の授業は、必要最低限の供給しかしてくれない。勉強したい生徒は授業を越えて自分からどんどん勉強するし、勉強以外の活動に力を入れる生徒は授業以外の時間を思い思いに活用する。特に女子高校の授業にその特色が強く、生徒の自主性を最大限尊重するため、自分の勉強や、その他自分が力を入れる活動の時間にはまったく影響が出ないような範囲での授業だった。そのため、私の中学・高校生活の中で、英語の勉強は、英語の授業そのもののための英語の勉強だった。私は部活や学校行事に打ち込んでいたため、予習や復習などはしたことがなかったし、授業で先生が教科書を和訳するのをノートにひたすら書き写し、テスト前にはそれを丸暗記していた。授業以外の時間で英語の勉強をしたことはなかった。その結果、辞書もほとんど使ったことがなかった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 まず、この授業で学んだことは、英語は手段だということである。今から思うと、小さいときの英会話教室での授業の方が、中学・高校での授業よりもその点では勝っていたように思う。中学・高校では、英語は手段ではなく目的だった。授業やテストそのもののために英語を勉強していた。でもあの英会話教室では、英語を使ってゲームをしたり、歌を歌ったりすることで、英語を、異文化を知るための道具として扱っていた。中学・高校では字面を追うばかりで、道具としての要素をすっかり見失っていたように思う。しかし、英語というものは、言語である以上道具であり、コミュニケーションのための手段であることを、この授業で再認識させられた。
 また、前期、外国人からの疑問に答えるという形で授業を受けてきて思ったのは、英語を手段として用いて、外国人とコミュニケーションをとるためには、英語を学ぶだけでは不足だということである。山岸先生の著書『日英言語文化論考』にもあるように、言語は文化背景から切り離すことができないものである。文化は、地形や生活形態などもろもろのものが長い年月にわたって積み重ねられていく中からうまれてくるものである。世界にたくさんの言語があるということは、それだけたくさんの文化、歴史があるということだ。もちろん英語も例外ではない。私たちと異なる文化・歴史のうえに成り立つ英語を、日本文化を下地にしている私たちがそのまま使えば、微妙なズレが生じるのは当たり前なのだ。外国人とコミュニケーションをとること、つまり自分の意思を正確に伝え相手の意思を正確に受け取ること、そのためには、言語という道具を持っているだけではなく、お互いが異文化の上にたっているということを理解することが必要なのである。異文化を知る、ということは同時に自分たちの文化を知ることでもある。この授業を受けていくうちに、どんなに私たちが自分たちの文化的背景を知らないでいたかということがわかった。私たち日本人はあらゆる自然の中に八百万の神を見出し、敬い、感謝し、畏怖の念を忘れずに生きる農耕民族であった。小さな村社会では和を美徳とし、雄大な自然の前でちっぽけな私たちは相互扶助によって生きてきた。その積み重ねが日本独特の文化を生み、日本人の精神を作り、日本語の中に残った。そのことを、私たちはこの授業によって知り、自分たちの文化を再発見することができた。そんな文化の上にたっていることを気づかずにいる私たちが、多民族国家の中でキリストという唯一神と自分との契約において、自分を最も尊重し他人とは契約という形あるものを介さないと信頼関係を築かないという文化の上にたつ英語という文化をそのまま学ぶということはとても無力なことではないだろうか。
 この授業を受けたことによって、私は、英語に限らず、日常生活や大学での政治や法律の授業においても、つねに日本人や欧米人などの文化背景を考慮するクセがついた。ルーツをたどることによって、今までとは違った考え方ができるようになり、また理解が深まった。将来、英語を使う仕事につく予定はないが、この考え方は人間関係や日常生活の中の雑事にも役立つと思う。この考え方は、自分を知り、他人を知ることであると私は考えているからである。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 年頃もあるのかも知れないが、現在高校3年生の私の弟はよく「だから日本はだめなんだ」「こんな文化は時代遅れだ」と言っている。メディアの影響も多いと思うが、やはり英語教育にも問題があるのだろう。中学生や高校生の周囲では、これからの時代には英語が喋れなければいけないという煽りや、受験のための英語の勉強、外国人の薄っぺらな日本バッシングなどがあふれかえっている。確かに英語を学ぶことはこれからの時代に不可欠であるし、希望の大学に受かるために効率的な勉強法も必要であろう。国際社会において、自分の意見をはっきりと言えない日本人の態度は外国人からすると歯がゆいのかもしれない。しかしそれは日本の長い歴史の中で、日本人の生き方に沿うようにして洗練されてうまれた文化である。日本人の生き方、精神に最もフィットしているからこそ現在まで残っているのである。それを教えずに、字面だけの教育をするから私の弟のような考え方をするようになるのだ。これからの国際社会に生きる子供たちに、英語を目的にするような教育はまったく無意味である。英語をコミュニケーションの手段にし、異文化理解をするためには、自分の文化背景も知らずにやたらと英語・外国文化を盲信するようなことがおこらないような教育こそ必要ではないかと考える。30355991 佐野友香理)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語の学習を始めたのは小学校6年生からである。それまでも、小学校が希望者を募って実施していた英語圏の人々との交流会に参加したりしていたが、きちんと学習を始めたのは、そのときであった。手段は通信教育だったのだが、始めた理由はただ、「中学校では英語が始まるから」という、きたる中学生活への準備としてであり、特に「何故英語を学習するのか」と考えたことはなかった。中学に入ってからは、学校の授業と英語塾で英語の学習をした。そこでも特に英語を学ぶ意義や理由について説明はなかった。ただ、私自身も「英語を中学生になったら勉強する」ということを当たり前のこととして認識していたため、説明がないことを疑問に思うことはなかった。
 授業は学校と塾とでは異なるが、中学校ではリーディングとオーラルコミュニケーションという2種類の授業があり、前者では教科書の内容にそって文法を覚え、文章の講読、構文・単語の暗記を中心としたものであり、後者ではリスニングと会話を中心とした授業だった。高校では、1、2年の間はリーダーの長文講読中心の授業だけであったが、3年では大学受験へ力を入れている高校であったこともあり、リスニングの授業や長文読解重視の授業、文法重視の授業などが用意され、レベルも基礎クラスと応用クラスが用意してあり、自分に必要だと思われる授業を選択する形であった。また、長期休暇中には予備校などで行われるような講習が希望者のみで行われた。塾での授業は中学、高校共に総じて受験で合格するためのテクニックを習う授業であった。それらの授業の中で、辞書に関する指導や日本語と英語の言語やその背景となる文化の比較を行うことは殆どなかった。あったといえば、オーラルコミュニケーションの授業でアメリカの習慣が書かれた本を配られ、各自で読む、という程度であった。
 今まで受けた英語教育を振り返ってみて良かったと思う点は、高校時代の授業で、3年次の選択制の授業である。普段の英語の授業では、淡々とテキストを追うもので、実になっているのかはっきりとしていなかったが、選択制の授業や長期休暇の講習は確実に受験につながることが分かるし、その授業をやる気のある人だけが集まるので、モチベーション高く勉強することが出来た。また、授業ではないが、英語の先生が質問用のメールアドレスを生徒に公開していたので、個人的に勉強する環境が用意されていたことも良かったと思う。
 逆に、好ましくないと思われる点は、今回の英語Vの受講を通して気づいたことであるが、これまで受けた英語教育の殆どが、受験のためのものであったことである。受験というものは学生にとって確かに大事なものであるが、自分の望んだ環境で学問するための手段に過ぎない。英語学習の目的は一時的な受験ではなくもっと別のところにあるはずである。しかし、生徒が「英語の授業があるのが当たり前」としてただやっている点と、受験に役立つテクニックを学ぶだけ、という点が残念な点であった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 1の最後の方でも述べたが、これまでの授業には、英語を学ぶ意義を持つことや、日本語文化と英語文化の相互理解を目標とすることはなかった。この英語Vの授業を受けて、私たちが英語を学習する意義は、英語を受験や職業等で使うからというだけのことではなく、互いの文化の相互理解のためであると考えることが出来た。互いの文化を理解しない、或いは誤った理解をしたまま英語を使ってコミュニケーションを取ったとしても、関係を険悪にしたり無意味な結果をもたらすだけである。互いの文化を正しく理解するからこそ一緒に仕事ができたり、有意義な交流が持てたりできるということから、「文化の相互理解」に英語を学ぶ意義があると考える。
 また、この英語Vでは、外国人が疑問に感じる日本の風習に回答することや、日本語を英語に直訳した際の正確な英語との違いを学ぶこと、日本の歌を英訳することを通して、日本文化と英語文化の比較をすることが出来た。それによって、英語圏の文化や考え方の違いを知ることはもちろん、自国の文化や風習の由来をより詳しく知ることが出来た。そして、日本人として誇りを持てる素晴らしい文化があることに気付くことが出来た。最近のメディアによる日本の風潮はどうしても自国の文化を卑下する傾向にある。私自身もそうであった。しかしこの授業を通して、日本人の宗教観や慣習に表れる日本人の優しさや、安定した穏やかさや柔軟さに気づくことができ、とてもうれしく思っている。
 私は「なぜ日本人は死者の枕元に《守り刀》というものを置き、枕元の屏風を逆さにして立てるのか」という題について調べることで、私たちが普段通例として行っていることの由来を知ることができ、また日本人の宗教感覚やなぜ外国人が疑問に感じるのかを学ぶことができた。また、教授の評価の方法が、細かい文法の正否よりも相手にきちんと伝わるか否かを重視していたこともこれまでの経験になかった授業だった。
 この授業を通して学んだことから、まずこれからの英語学習の目標を変えようと思う。文法や単語を覚えることさえすれば、完璧に交流できると考えていたが、それで自分の考えが正確に伝わるとは限らないため、正確に伝えることに目標を置くべきだと考える。また、自国の文化の歴史的背景を知ること、外国と比較して日本独自のものである場合は正確に説明するように努力することで、今後メディアや個人的な交流等、外国人と接することは多々あるだろうが、その際、誤った自己卑下や外国人コンプレックス、外国人の誤った日本理解を招かずにすみ、日本人として堂々といい関係が気付けるだろう。また、英語学習に限ったことでなく、日常生活においても、外国人作家の著作を読んだり、映画を鑑賞する際に、その文化を少しでも知っていればより理解が深まるため面白みが増すだろう。英語学習が学習という範囲にとどまらず、自分の生活をより面白く、興味深いものにしてくれるようで、そのことに気づかせてくれたこの英語Vを受講できてとてもうれしく思っている。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育、自分の英語学習に欠けていたのは、相互理解という目標であると考える。ただ単に文法や単語、発音を覚え、コミュニケーションすることを目標としていて、相手を正しく理解し正しく理解してもらうということを失念していた。それゆえに、授業で言語と不可分である相互の文化の比較や一つ一つの単語のもつ意味が異なることなどに触れることがなかったのだろう。そして生徒は受験に必要な一科目としか認識できなかったのではないだろうか。
 今後の英語教育について、私は次のように考える。小学校や幼少における英語教育は、外国人と交流する機会を定期的に用意をし、互いの文化、風習を体験することを重視するといいのではないだろうか。日本と外国では生活様式がこんなふうに異なるのだ、ということを知ることがまず第一歩である。生活の仕方はもちろん、考え方、価値観の違いを体で感じてみることが大事である。そして、中学校や高校での英語教育において、これまでのように文法や単語を覚えると同時に、互いの文化理解と比較を積極的に行うことで、実際に体験した外国と自国との違いが何故生じるのかを考え、理解できるようにするといいのではないか。またその違いというのは言語にも反映されており、ただ覚えた単語と文法で直訳すればいいのではなく、違いを念頭において表現せねばならないことも教えるべきである。そして大学ではその経験と知識を踏まえて、相手に正確に伝え、自分も正しく理解するための訓練をし、実際により有意義なコミュニケーションをすることを目指した英語教育をすることがいいのではないかと考える。 このプロセスの中で欠かせないのは、日本語文化と英語文化の違いを知る面白さや正しく理解できること、正しく伝えることができることの喜びを教えることである。そのために、評価を減点方式にするのは避け、基本的な文法等も教えつつ、違いを知る楽しさや正しく理解し、伝える楽しさを重視した教育方法をとるのが望ましいだろう。
 以上のようなプロセスを追うことで、英語の文献を参考に研究をする際や、論文を作成する際に誤解を生じることなく、ディスカッションを行う場合にもスムーズに出来、英語教育だけでなく、様々な大学での研究におおいに役立つだろう。また、生活する中で、メディアをはじめ、個人的に外国人と交流する際にも有意義で良い関係が築けるだろう。
 小学校や幼少からの英語教育について述べたが、もしそのスタートが遅れたとしても、英語を学習する意義や言語の背景にある文化の理解に勤め、それを踏まえた英語学習をすれば、かならず相手に正確に伝え、自分も性格に理解するということは実現可能であると考える。私自身スタートが遅れてしまっているが、この授業で得たことを踏まえて努力を怠らないで行きたい。30356171 篠田佳容子)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 今日の日本の英語教育は多くの問題をかかえていると思う。とりわけ、中学・高校での受験を目指した英語教育の方針には、足りない点があると思う。本論文で私は、日本の学校英語教育の問題について指摘し、今後の日本の英語教育のあり方について提言をしたいと考える。まずは私自身の中学・高校での英語学習を振り返ってみたい。
 私が学校の授業の一つとして英語を学びはじめたのは、中学校1年生である。1冊の教科書を読んで最初は簡単なあいさつ、会話、文法を学んでいった。今思えば、ほんとうに教科書のとうりに授業は進んでいった。出てきた新出単語の意味とスペルを覚えて、テストでは教科書の文をそのまま答案にかけこめば◎がついたし、少しでもスペルを間違えれば×がついた。英語を学ぶ理由・意義などは先生も具体的にはおっしゃらなかったし、もともと小学生のころから、中学生になれば英語を勉強するのはあたりまえと考えていたから私自身もたいして考えなかった。
 高校においても授業の進め方は中学校時とはさほどかわらない。1つか2つ参考書が増えたか、辞書が分厚くなったくらいだろうか。もちろん辞書は何でもよかったし、参考書もたまに読むだけで普段の学校での英語学習では足りた。私の高校は受験校であったが、実際に2年生くらいから大学受験を意識しながら英語を学習していった。主に参考書や単語帳を用いてそれらをひたすら暗記するような感じだった。
 
A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 次に大学での英語の授業だが、これまでの中学・高校の授業とはまったく違うことに驚いた。あるクラスはディベートをしたり、またあるクラスはリスニングやリーディングに集中したりと、授業形態は多岐である。私は1年次、1つのクラスはリスニングとリーディングの授業、もう1つのクラスはプレゼンテーションを中心とした授業であった。2つの授業はその英語学習方法はまったく別だが、どちらも非常に実用性を備えた学習方法であるといっていいと思う。厳にその2つの授業のおかげで、英語の読み・書き・会話の能力は向上したと思っている。2年次ではさらにおもしろい英語の授業にであえた。それが英語V『山岸勝榮先生』の授業である。私は本当にこの英語の授業を受講できたことをうれしく思っている。と同時に、素敵な授業をして下さる先生に感謝している。先生の授業の大きなテーマの1つとして「日英言語文化の比較」があげられる。これは私のこれまでの英語の授業では1度も取り扱ったことのないトピックであった。英語を通して文化を学ぶなんて思いもしなかったし、それが意味あるものだと気づきもしなかった。例えば“
compromise”という単語があるが、これは日本では【妥協】と訳す。ところが先生は、英語圏でそれを(日本語的解釈での)【妥協】と考えてしまうと、イメージ的に相当の差異を生じる(恐れがある)と説明してくださった。日本は昔から農村社会であったから、周囲との調和を1番と考えてきた。だから時に妥協は、集団で生活する日本において、協調の手段であった。ところが米英(とりわけ前者)では、狩猟民族であったため、日本のような集団を大事にする文化もない。そうした文化背景のもとでは妥協は(時として)敗北を意味するのである。こうした差異は互いの国の社会的・文化的背景が異なるために生じる。つまり、互いの国の文化を理解せずに言語を理解したとするならば、それは大きな間違いである。日本語(文化)と英語(文化)を比較対照しつつそれぞれの違いを理解し、一方に欠けた点を、他方の優れた点で補充できるかどうかを考えるべきだと先生はおっしゃっている。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 さて、私は中学・高校・大学とこうした英語学習をしてきたわけだが、冒頭でものべたとおり、中学・高校での受験を目指した英語教育の方針には、足りない点があるのではないかと感じる。まず、今日の日本においてはその人の個別の能力より、学歴を重視する傾向にあるのは周知である。そのため、必然的にどの学校も受験が目標となる。英語に関しては受験ではいかに多くの単語や熟語を正確におぼえているかが問われるわけですから、学校の英語教育もそうした分野に力をそそがれるようになる。確かに受験に向けた学習はけっして無駄ではない。多くの単語や熟語を覚えることは、その分、英語で出来ることの拡大につながる。ただ、苦労して覚えた多くの単語や熟語が受験のためだけに使われたのではいけない。これまでの学校での英語教育は受験を意識するあまり、読み書きにはちからを入れてきた反面、コミュニケーションすなわち聞き取りや会話の学習がおろそかになっている気がする。私が思う、中学・高校での英語教育の足りない点とはまさしくそれである。特に最近は国際化なんて言葉がちらほら聞こえてくるとおり、諸外国は昔に比べってずっと近くなった。それにともない外国人との交流も日常的におこなわれるようになっている。英会話コミュニケーションが受験と同様、重要な役割を占めてきたのである。受験のための英語から実践的な英語の充実をはかるべきである。
 ますます拡大していくであろうグローバル社会にも対応できるような、英語教育を構築していかなくてはならない。ただし読み・書き・聞き取り・会話、どれが1番大事かではなく、どれも大事なのであることも忘れてはいけない。英語を実践的に使おうとする姿勢ばかり追い求めても、単語力や文法知識がなければ意味がない。そしてさらには、山岸先生による、英語Vの講義で学んだ「言語文化の比較」などの、言語学を学ぶ上で重要なトピックを忘れずに普段からの学習スタイルに取り組む必要がある。そうすることでより言語に磨きがかかる。英語を勉強するにあたって、常に勉強する意義を意識しなければいけない。何のために英語を学ぶのか、それは個人の中でもそうだが、学校全体としても明確化する必要があると考える。30304147 金川真悟)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 大学に入るまで中学・高校で6年間英語を学んできた。英語を学ぶ際に教師や親からはこれから始まる国際化社会の中で生き残るためには英語が話すことができるようにならなくてはいけないと繰り返し聞かされてきた。そして幼心に世の中はそういうものだという認識の下で英語を学習してきた。
 その教育内容というものはご存知の通り単語をたくさん覚え、文法を学び、書くことで和文英訳や英文和訳を繰り返させるものだった。すでに母国語以外に日本語という外国語を習得していた私はそのような方法では真に言語を学ぶことなどできないと痛感していた。しかしこのような学校教育以外では英語を学ぶ場所はあまりなく、また高校受験を控えている身としては受験のために英語を言語としてというよりは問題と回答という形で勉強せざるを得なかった。
 高校は慶應義塾高校で大学受験というものはまったく考慮していなかった。その中で先生たちは各々がやりたいように授業を進めていた。しかし全般として高校の英語は教科書の文章とその和訳を丸覚えしてテストに書く傾向にあった。そのため普段の授業にはまったく身が入らず、テスト前日に徹夜で暗記していくまるで記憶力テストのような様相を呈していた。その中で記憶力に自信のなかった私は英語がどんどん苦手になっていった。
 高校では宿題で和訳や英訳が課せられることが多々あった。そのような場合生徒達はインターネットの翻訳サイトで単語を翻訳させたり、ひどい場合には文章を丸ごと翻訳させて提出していた。そのときにはいくつも表示される単語の中でその真の意味を考えることなく適当に日本語に対応していると思われる単語を選んで羅列させていくに過ぎなかった。そこには日米の言語・文化の比較などは存在しない。機械が訳した文章の意味が通じない単語の集まりがあるだけだった。
 このような教育の中で私は英語が嫌いになっていった。画一的に単語と文法を覚えさせられ、訳す過程で私はたくさんの間違いを犯しては先生に怒られた。心の中ではこのような教育では言語の習得などほど遠く、いつまでも英語を自由に話すことなどできやしないと思っていた。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業を受講して最初はただ英語を使わない楽な授業だと思った。そもそも授業をとるきっかけは先輩がこの授業ではあまり英語を使わずに済むという助言からだった。しかし山岸先生のお話を聞くうちにただ楽な授業ではなく、先生が私たちへ日米の間に存在する言語・文化における誤解を教えようとされていることに気づいた。そして英語を話すことも大事だが言語の背景として存在する文化を知らなければ英米人と会話するときに大きな誤解を生むことがあることを知った。また英語の背景を知る以前に日本語の背景として存在する日本の歴史・文化をこの授業で教わった。日本語を操りながらもその裏にある言葉の事情を知らずに話す私たちは真に日本語を話してなかったのかもしれない。この授業を受講したことで日本語英語問わずして言語を話すときにその言語にある文化を理解する必要性を感じた。それによって異文化を持つ人たちと誤解が生じることなく意思疎通を行えるようになれると信じている。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育というものは英語の外見しか捉えていなかった。外見ばかりを勉強し詰め込んでは英語の教育だと思っていた。そこには決定的に英語の本質はどこから来ているかというものに対しての研究が足りなかった。一律に日本語の単語に似て非なる英語の単語を対応させて覚えるだけでは言葉のニュアンスや雰囲気がまるでわからず、それは実用的な英語とはほど遠いものになる。
 このような欠点を補うためにまずすべきことは日本語教育をしっかりさせることであろう。母国語としてもっとも理解しやすい日本語の背景にある日本の文化を知ることで各国の言語にはそれぞれの文化があることをまず認識すべきだ。そして英語教育を行う際にはまず英語とはどういう文化を持っていて、どういう宗教を信じていて、どのように生活する人々が使っている言語なのかを教える必要がある。また具体的な言葉を教えるときはかならずその言葉がどういった意味でどのような場合に使われるのかをはっきりさせることが大事になってくる。
 以上のようなことを念頭において英語を学習することで日本人は英語でも恐れることなくはっきり自分の意見を国際的な場面において表明できるようになれるのではなかろうか。これまで日本は海外諸国から意見がない、あやふやであると批判されてきたがなぜそのようなことになったかをこのような教育で知ることにより世界から一歩引くことなく堂々と自分たちのことを主張できるようになれると考える。(30300597 李 廷軒)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語を学習し始めたのは、中学に入学した時からでした。当時の英語の先生は、これから国際的な時代になっていくからそのためのコミュニケーションの手段として英語が必要になってくると、英語を学ぶ理由を説明していました。私としては、たしかにそうなのかもしれないな、程度に受け止めていました。
 そこでの授業というのは、主に文法を習ったり、単語やイディオムの暗記という、とても単調なもので自分から積極的に興味を持つことはできず、義務的に勉強をしていた感がありました。
 高校に入学してからは、英語の必要性以前にまず大学受験というものを念頭にして、授業が進められていたように思います。しかし、それはそれで、何の疑問もなく私は授業を受けていました。とにかく、英語は受験のための手段でしかなかったように思えますし、実際に先生方もそのような考えの下、授業を行っていました。ですから、山岸先生の授業のような日英の言語・文化の比較というのは、たまに余談で語られる意外には、ほとんどなされませんでした。
 また、英語の辞書の使い方などの指導はほとんどされていなかったかと思います。発音記号などもほとんど触れられず、今でも読めない状態です。
 中学も高校も、主に文法・単語・イディオムについて学びましたが、このような勉強方法は英文が読めるようになるとは思いますが、生身の言語としての勉強がなされなかった分、ニュアンスなどがわからず、本当の意味での英語を学んだとは言えない様に思いました。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 私にとって、山岸先生の英語の授業はとても新鮮なものに映りました。なぜなら、これまで受けてきた暗記主体の授業とは全く違い、先生の授業は主に文化の観点から英語の授業を行っていたからです。
 私はこの授業を受けて、強く思ったことは、ありきたりなのかもしれませんが、言語を習うということは文化を習うということだ、ということでした。あちらこちらで、このようなことは叫ばれていますが、実際にこのような信念の下で行われている授業を受けたことがなかったですし、あまり行われていないのではないか、と思います。
 何度も言語を習うことは文化を習うことだ、と理念上叫んでいても、少なくとも私が受けてきた英語の授業では、そのような理念に基づいた授業というのは行われてきませんでしたし、実際、今の日本ではあまり行われていないと思います。先生の授業で、初めて外国語を学ぶことは文化を学ぶことだ、ということを体感できました。そして、先生が授業中におっしゃった日英の文化の違いが、これほどまでに言語に影響を与えているとは思いもしませんでした。具体的には、日本の多神教から来る考えと、英語圏の一神教の考えからくる言葉や考え方の違い、また、農耕社会と狩猟社会からくる違いなど、先生の授業でこれらの要素が想像以上に言語に影響を与えていた知り、とても興味を魅かれました。
 また、外国語を学ぶ上で自国の文化を学ぶことの重要性も知りました。日本人が無意識に慣習で行ってきていた行事やマナーなどの由来を先生の授業で自覚させていただくことにより、英語と対峙する時、英文を書く時などに日本的な自分について気をつかうようになりました。
 私にとって、この授業はとてもかけがえのない糧になったと思います。後々、英語圏の人とコミュニケーションをとるようなことになった場合、文化的な背景を理解することで、お互いの誤解を招くことが少なくなりますでしょうし、何よりも自分自身があまりに日本文化を知らなさすぎたということにも気づかされました。この授業により、単なる用法の間違いよりも日本的な英語表現の怖さを理解できました。先生のおかげで、英語をより深く理解するためのたたき台が出来たように思います。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 山岸先生の授業を受けて、これまで私が受けてきた英語教育には文化を知るというとても大切なものがかけていることに気づきました。
 英語というのは言語であり、話すためにもともとはあります。日本の英語教育はその辺を軽視しているように思えます。コミュニケーションをとる際に必要なことは、相手に正しく自分の真意が伝わるかどうかです。これまでの英語教育では、たしかに英文を読めたり、正しい文法で書くことができるようになるかもしれません。しかし、3単元にSが付くとか付かないなどという問題は、コミュニケーションをとる際には些細な問題にすぎません。問題は、誤解を招かずに相手に伝わるかどうかです。ですから、先生も授業で何度もおしゃっていたように些細な文法に気を使う力よりも、自国の文化と英語圏の文化の違いを理解することによって、誤解を招かない英語表現を身につけるようにさせるべきだと思います。その国の文化を知らずして、本当の意味でその国の言語を理解できるとは思えませんし、使える英語を目指すのならばそのような自国と英語圏の文化を知るということは不可欠な物だと思います。
  山岸先生の著書である日英言語文化論考では、例えばSincerityという単語の用法でも日本的な意味での誠実と西洋における誠実の違いについて文化的な差異から指摘なさっていますし、英語圏における宗教が日本人がもつ宗教観とどれほど違うかを指摘なさっています。英語圏は一神教であり、狩猟社会であり、契約社会であり、個が重視されたり、自律を求められる社会である一方、日本は、多神教であり、農耕社会であり、和や信頼を重視する社会であり、映画の寅さんのような甘えの文化があるような社会である。このように、比較するとかなり違う文化を持つのであるから、その文化と不可分である言語を理解する上で、文化への理解が必要なことは自明のことであることに気が付き、これからの英語教育が成功する上で重要な要素なのではないかと思いました。30354326 久保村 兼


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 中学校入学とともに始まった英語教育は現在8年間続いている。ここで、これまでの英語という科目について考えてみたい。
 まず、初めて英語を学ぶこととなり、その理由や意義といったものは説明されずとにかくやるものだ、ということで始まった。あったとしても、軽く外国人とのコミュニケーションの手段として使うことができる、といった感じであった。なぜ学ぶのかということは考えずに開始したのである。 その授業内容については、教科書とプリントを中心に行われ、主に文法と単語が中心で文章を読んで訳すことや穴埋め問題が多かった。この際、日本と英語圏の間の文化比較はほとんど教わっていない。あったとしても、英語圏の文化についての紹介が少しで、比較というレベルまでには達していなかった。
 さらに、言語を勉強する上で重要なアイテムである辞書を考えてみると、英和辞書については使用方法(どのように引くのか)は教わったが、その中身については和英辞書も同様に特に説明や指導というものはなされなかった。
 私は受験校ではなかったので大学受験については述べることはできないが、受験がなかった分、自分で意識しながら英語の勉強をする環境であった。
 このような英語教育を受けてきたわけだが、高校受験・大学受験という目標を持って勉強をすることはいいことではあると思う。単語や文法といった基本をしっかりとおさえることができるためである。反対に、まず英語というものに対して初めて触れるときにいかに興味を持って教えるかという工夫がなく、ただなんとなく始まり、授業中においても淡々と進んでいくだけだった。そのため、常に受身であり目的もなく、受験という目標がなくなると勉強をしなくなってしまう可能性がある。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 これまでは英語という言語に対して、深く考えることもなく、与えられたものを読んだり、書いたり、聞いたりしていた。これでは、日本語のこの表現に対して英語はこの表現になる、といったような型にはまったようなものしかわからない。つまり、言葉の表面上の意味しか理解していないといえる。これに対して、この英語Vの授業では、これまで表面しか見ていなかった英語についてその背後にあるものを考えたり、私達の母語である日本語について真の意味を探求することで、それまで見えてくることのなかった新たな側面を見ることができるようになったといえる。
 このことをこの授業は私に教えてくれたのである。つまり、様々な言語とそれらの地域の文化は切っても切り離すことのできない密接な関係があり、言語の意味を理解していく上で文化を考えていくことは不可欠だということである。
 日本においては、和・協調・情を大事にする。というのも、稲作民族であったために対立してしまうと生きていくことができなくなってしまう。そのため、集落共同体を作ることでまとまり、対立を避けるようになった。よって、信頼関係が重視され同調性が芽生え、相互依存の精神が生まれたのである。宗教的な面においても、自然の力には及ばず自然そのものが神であるというところから、本地垂迹の思想(神はいろいろな姿で出現する)という考え方が生まれ、これは多神教ということを表している。
 一方英語圏においては、個人主義・自立を大事にする。それは、狩猟民族であったため、さらに他民族との交流が激しかったため、移動を続けるので自然とは常に対立関係にある。そのために自分のことは自分で守らなければならず、生きるために自分以外の人と契約を結び相互の信頼を得て、共存ができるのである。また、一神教であるため神の教えが絶対であり、神の教え以外は受け入れない。自然についても神が創造したものであり、力を使って征服できると考えている。
 したがって、このように言語を学ぶとき、その背景にある文化や宗教も同時に考えていかなければ、本当の意味でその言語を理解ができたとはいえない。だから、私達は日本文化についてもっとしっかりと知るべきである。さらに、他の言語を理解するだけでなく、その文化についても理解して始めて会得し使いこなすことができるのである。
 このような考え方は実際に自分が社会に出たときに、それまでの既成概念を壊し新たな道を見つけていくということを考えられるようになれるという可能性を得ることができたし、もちろん英語が必要になった場合に文化を意識しながらニュアンスがうまく伝わるようにしていくことができると考えている。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでは、このように言語と文化をつなげて考えることをせず、英語を教えてきた部分が大半であったといえる。文法問題を解き単語を覚えるだけであって、異なる価値観の人に対して、どのように伝わるのかという視点がなく、実用的でなかった。また、日本文化というものをしっかりと学んでこなかったために、英語文化との差異が生じるとよくないのは日本のほうでありおかしいと思われてしまっている。このことからも今までの英語教育において文化から英語を考え、また日本文化を英語で教える際の表現を適切なものにする、という観点がないと考えることができる。
 つまり、現在の英語教育というのは英語の表面を見て教えているにすぎず、英語という言語の表す本当の意味の理解がなされていないため、いくらやっても使いこなすことができないのである。
 そこで、実用可能にするためには、日英の文化差を認識し、どのような状況でどのような表現を使えばよいのかを教える必要があると考える。そして、このようなことは早いうちから触れさせておけば自然と考えることができるようになると思うので、小学校からの英語教育をするべきであろう。しかし、それを行うにあたって絶対にしなければならないことがある。それは、日本人として日本文化・日本語をしっかりと学ばせるということである。なぜなら、日本らしさというものをうまく説明できていないため、現に日本の考え方がよくないというレッテルが貼られている部分がある。というのも、外国人の中で日本を自分たちの価値観から判断してしまうということがある(我々日本人も他国に対してしてしまうことがある)。 例えば、日本は地域社会というものが人々の心の支えになっている。これは、伝統的な仏教的影響があり、あらゆる人々を受け入れる場所である。また、“優しい・甘え”が存在する人情味のある場所でもある。日本では“甘え”が根本にあるが、英語圏ではそれは他への依存、自分自身の弱さと考えているため、他人に対して甘えた態度を見せることがないようにする。このことをしっかり理解していないため、日本に対して正しい判断を外国人はできないのである。
 しかし戦後、欧米に追いつくためにその場所や人情を忘れ、はじめに言葉ありきの世界になり、日本の古き良き伝統が急速に失われ、誰に対してもけじめをつけるようになってしまった。つまり、日本社会にとって本来は重要な要素である“甘え”という欲求を抑えていることになってしまっている。
 このような誤解を解いていくことや日本人としての自覚を持っていくためにも、日本について日本人自身が知っておく必要がある。
 したがって、今後の英語教育は、言語というのは文化と深い関わりがあるという立場に立って、ただ言語という観点からしか見ていない英語を教えていくのではなく、その背景にある文化や宗教も考えていかなければならない。その前提として、日本について言語・文化・宗教、それぞれの面から明確な認識を持てるようにすることが大切である。この日本文化と英語圏文化の理解があってこそ、英語教育は実のあるものになるのであろう。30353610 神ア 啓太


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が英語を学び始めたのは、世間の大勢の人々と同じように中学生になってからです。ただ他の人たちと違うことと言えば、私は中高一貫の私立中学校に通っていたことで、さらにその学校ではいくつもの海外の学校との国際交流をはじめグローバルな教育が盛んで、帰国子女の生徒もたくさん受け入れていました。もちろん帰国子女の生徒には上級クラスの授業が用意されています。
 そのような環境の中での学ぶ英語は、ただの英語の授業という枠を越えていたように思います。というのも中学1、2年次にはそれぞれのグループごとに英語で劇を行ったり、高校1年次にはケネディ大統領の演説などを材料に一人ひとりが暗唱するスピーチコンテストを行ったりしていたからです。
 英語を学ぶ理由を改まって説明されたことはありませんでしたが、英語を中高生時代に習う1教科、受験に必要なモノというように受け取って学んでいた人は全くいなかったように思います。私自身、英語を学ぶ意義は各個人がそれぞれ見つけるものだと思っています。
 日英の言語・文化比較は、私が覚えている限りでは、普段の授業において特別に時間を設けたということはなかったと思いますが、高校2年次の研修旅行(一般的には修学旅行といわれる)で英国に行った際にグループごとに英国の民家に訪問したり、ひとつのテーマ(例えば英国の政治、経済、スポーツなど)について事前に調査したものを現地で深く調査したりしていたので、それぞれが日英文化の差を肌で感じられるようになっていたと思います。
 英語辞書の指導は、優良辞書の紹介をする程度に行われましたがそれ以上には行われませんでした。ただ電子辞書を簡単に薦めるようなことはせず、紙の辞書を汚れるくらい使うようにと言われていた事は今でも覚えています。しかし私の学校は進学校ですので大学受験が近づくにつれ、私も電子辞書を使わざるを得なくなっていきました。中高一貫校で進度が早かったこともあり、高校2年次には英語のカリキュラムが一通り終了し、3年次の英語の授業は受験勉強に専念するようになりました。そしてその成果が実り、今に至ります。
  私が受けてきたこのような英語教育のせいか、私は英語を勉強としてあまり意識しないで中高6年間を過ごし、英語に苦手意識を持つことはありませんでした。そのようになったのは何よりも英語を使う場が身近にたくさん用意されていたからだと思います。このように私の英語教育には何も不満はないのですが、あえて欠点を挙げるとしたら、もっと語学を総合的な形で勉強できたらよかったのではないかと思います。例えば英語単独の授業ではなく、言語・文化比較をするのなら国語、社会科の授業と共同授業するという風に、英語側だけの授業に偏らず日本の言語・文化も並行して学ぶことができたらより双方の言語・文化に興味がわいたり、深く学ぶことができたりしたのではないかと思います。
例えば「宗教の違いによって起こる言語、民族性の差」などをひとつのテーマとして、英語、国語、社会科の各視点から問題を捉えてみるということです。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 昨年、大学1年次に私が履修していた授業は、ニュースのリスニングをするものと、TOEICの演習をするものの2つでした。どちらも実用的な英語の授業で、自分の英語力を衰えさせないためにという理由で履修しました。本当はこの山岸先生の授業は今年度の履修時には実用的ではないと思っており、申告時には第5希望くらいだったと思います。第1希望から外れ、今年度の初めのころはこの授業を嫌々履修していました。しかし、授業で先生の講義を聞くうちに自分の英語観が歪んでいることにすぐ気がつきました。それは「実用的」であるかどうかという基準が、私の中では習った英語が「役に立つ」ことでしかなかったのに対し、山岸先生の授業では英語が「使える」ことだったのです。
 英語は言語なので話せて、コミュニケーションがとれることが重要なのですが、本当にコミュニケーションをとるのであれば相手側の文化背景や口語的な表現などを知っていなくてはなりません。1年次に習っていた英語はリスニングで英語を聞くこともできるようになり、文章を読むこともできるようになります。これらは将来的に英語を読み聞きできるスキルとして役に立ちますし、TOEICとなれば資格としても役に立つと思います。しかし自分からコミュニケーションをとることはできません。多少持っている知識で会話を始めても、伝えたい全てを伝えることは難しいと思います。そればかりか相手の文化背景などを知らなければ伝えたいこと自体が、その会話では話題にすることが間違いになることにもあるかもしれません。このように英語を使えるというのは相手に言いたいことを伝えられて初めて「使える」ということになるのだと思います。山岸先生の授業ではまずそのことを学びました。
 この授業で春からずっとメインでやってきたことは、日本の文化を英語圏の人にわかるように説明することなのですが、ここでは自分が日本人であるにもかかわらずあまりにも自分の国の文化を何も理解していないということ、そしてそれに疑問を持たずに今まで過ごしてきたことに気づきました。自分のことを説明できることがコミュニケーションをとるための第1歩なのに、そのことも自分はできないでいたのです。それを先生は知っていたのか、授業は英語の授業のはずなのに、内容はまるで日本文化の授業のようでした。しかしこの授業のおかげで自分の文化を理解し説明できるようになったことで、これからの時代に必要とされる国際人としてのスタートラインに立つことが出来たのではないかと私は思います。
 今後はますますグローバル化が進み世界規模での交流が増えていくため、自分のアイデンティティを確固たる物にしていかなくては生きていかれないと思います。そのアイデンティティとなりえるものが私にとっては日本人であるということと日本の文化なのです。
  この授業では歴史、風土、宗教、民族性ほどの細かいレベルでの日本語の性質を、また同じレベルでの英語の性質を学び比較することで、自分のアイデンティティの確立をすることができました。これを共用語である英語に置き換える練習をしてきたこの1年間がこれから、もしくは今すぐにでも役に立つときが来ると思います。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 これまでの英語教育にかけていたものはやはり英語が語学であるという意識だと思います。文法を習うことももちろん大事なのですが、結局話せることが出来なければ意味がないのです。今までの英語教育は英語をひとつの教科としてとらえてきたのでテストで点を取るための英語になってしまい、日常的に話せるレベルまで成長しないのだと思います。もし英語をコミュニケーションの方法として捉えているならば、読み書きより会話を重視して授業を進めるはずでしょう。現に私達は自分の母国語である日本語を読み書きから習い始めたのではなく、親などの周りの人とのコミュニケーションの中で聞き、話すことで自ずと日本語を習得してきたのですから。となればどのような英語教育をしていくべきなのかということは自然と見えてくると思います。現在の時点で実用英語検定の面接試験のようなコミュニケーション能力を試す試験を、日常から取り入れている学校はほとんどないのではないかと思います。そのような試験に取り入れればすべてがうまく行き、コミュニケーション能力が向上するということになるとは限りませんが、まずは普段から英語の会話を英語教育全体で積極的に取り入れることが、これからの英語教育には欠かせないことの一つだと思います。30357423 高橋隼人)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 まず小学校時代だが、僕の通っていた横浜市立の学校では継続的な英語授業というものは全く行われず、一度だけ「英語と触れ合おう」的な特別授業が、外国人教師により行われただけだった。
 そして中学から僕は慶應に入り、受験とはかけ離れることになった。授業はアルファベットの発音から始まり、筆記体の書き方と学んでいったが、先生の意向か、文法はほとんどやらなかった。一方外国人教師と日本人教師によるオーラルイングリッシュの時間もあったが、こちらでは英語による基本的な会話、英語を使った遊びなどをやった。辞書については、「使いやすいものを」というだけで特に指定はなかったと思うが、僕は重要単語が赤で書かれている辞書を使っていた。
 高校においてもあまり形式が変わることはなく、内容が少し難しくなった程度だった。ただやはり、受験英語と呼ばれるような勉強はほとんどしなかった。3年生のときに、受験生の使っているという、重要単語ばかりで短文が掲載されているという単語帳のようなものを使った単語テストがあったくらいであった。
 以上、これまでを振り返ってみたが、僕が最もためになったと思うのは、中学1〜2年生の時に繰り返した和文英訳である。ここにおいて僕の今の英語力の基礎が作られたのは確実だと思う。和文英訳は構文力が備わっていないとできないし、英語を手っ取り早く覚えるには英文和訳よりも効果的だと感じている。一方で、明らかにヒドい授業もいくつかあった。検定教科書を使った授業すらほとんど進んでいないのに、試験ではTOEICだかTOEFLの問題をコピーして「実力テスト」としてやらせ、それだけで成績を付けられた授業もあった。概して「ひどい」と思った授業は一方的で、勉強しようという意欲が無くなる授業だったといえる。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 今までと明らかに違っていたことは、授業内容である。先生の話は、単に英語にとどまらず日本語そのものにも及び、そのほとんどは僕たちの全く知らない知識であった。それは同時に、普段使っている日本語がいかに複雑なものかを僕たちが知らず、また、それを教えてくれる授業も今まで無かったことを意味する。内容は言語学的な領域に入ることもしばしばあり、難解なこともあった。
 その中で強調されてきたことの一つは、日本と欧米で、宗教的・風土的価値観の違いから来る「同じ意味の」コトバで持たれるイメージのズレである。

 キリスト教社会と仏教・儒教社会、契約が全てを支配する社会と信頼で成り立ってきた社会、移動民族と定住民族…と考えていくと、ほとんど逆の価値観ばかりであるから、注意すべきなのは当たり前なのかもしれないが、それを今までの英語の授業では気づかせてくれなかったのも事実である。

 よく考えてみれば「英語」も「コトバ」である。僕たちが「国語」として日本語を学んできて、たとえば歴史や古文などを学んできた。それならば英語という言語を学ぶ上で、そのバックグラウンドを少なくとも「あらすじ」としてだけでも学んでおく必要があるのではないか、と気づかせてくれた授業だったと思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 中学校から今まで英語を学んできて印象に残っていることは、英語嫌いの同級生があまりにも多かったということだ。受験英語を学んでいない僕の周りでそうだったのだから、他の学校においてそうでなかったとは思えない。授業が、楽しく、と言ったら子供っぽいが、興味を持てるような、勉強意欲を持たせるものではなかったから皆が嫌がったのではないだろうか。幸いにも僕は英語を嫌いになったことはほとんどない。ほとんどない、というのは、1.でも書いたが、教科書を飛ばし飛ばしでいい加減に終わらせ、試験は実力テストと称した資格試験の問題だけで成績をつけた女性講師がいたからである。実際、僕はその授業からは何一つ学んでいないと思うし、学ぼうという気も起こらなかった。何クラスか受け持っていたが、どのクラスでも、たまにTVなどで放送される「小学校での学級崩壊」のような感じでひどいものだった。その講師は結局その1年きりで解雇されたという話を聞いた。
 英語を嫌いになってしまったら勉強する意欲も失せることは明らかであり、特に学び始めの時期でそうなってしまったら、ますますいけないと思う。そういう意味では小さい時からいわゆる「英才教育」として英語に慣れさせることは良いことだと思う。良い発音などの点についてはなおさら、幼少期の学習が効果的だと聞く。専門用語は別として、ある程度の英語能力はつけておいていいだろう。単なる言葉としての英語を学ぶのである。
 そして一方で、山岸先生の授業で学んだとおり、同じ意味の言葉でもたれるイメージの違いと、「英語らしい(=実際使われている)」英語も学習しないといけないはずである。それは高度な話になるはずだから、少しは年齢を重ねないといけないだろう。キリスト教の話をするにしても、小学校の「道徳」の時間で教えるには宗教的に偏ってしまうから、やはり「英語」の時間で教えるしかないと思う。
 さらに、今の授業では俗語や口語などの言葉を教えなさ過ぎると感じている。洋画を見れば俗語や卑語だらけだし、音楽を聴いてもそれは同じである。しかもその使い回しは、授業では一度も習ったことのないものばかりである。確かに、特に卑語は放送禁止用語が多いため推奨はされないかもしれないが、実際には日常生活で相当使われているし、もし僕たちが留学もしくは海外移住したとして、それが理解できなければ普通の生活にこそ苦労するのではないだろうか。だから、その俗語や卑語を自分で使うかどうかは別として、少なくとも理解はできるようになっておくべきだと思う。ただ、もちろん、それを目上の人や公式な場では使ってはいけないことは厳しく教えておかないといけないのは言うまでも無い。あるTV番組の企画で日本語が全く話せないまま日本へ来た黒人男性がいるが、その人は日本語を日常生活の中で学んできた。その結果、彼は「すげぇ」とか「〜じゃん」という言葉ばかりを覚え、明らかな目上の人に対してまで同じように対応していた。それは日本語に不慣れな外国人だからということで許されはするが、いつまでもそうでは許されないのは当然だと思う。
 どの教科を学ぶ上でも言えることだが、好き嫌いに関わらず浅くても総合的に学ぶことが、最も役立つ、さらに偏見や思い込みが最も少ない「正しい」知恵になるのではないだろうか。30363223 山崎雅和)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 山岸先生の授業を受けた後、僕が受けた今までの英語教育を改めて振り返ってみると、多くの問題点があったように思える。まず英語を学び始めるにあたって英語を学ぶ理由、意義について説明を受けた覚えはなかった。ただ数ある科目の一つという認識であった。僕が聞いていたのは国際化社会になっていく上で、共通言語としての英語は不可欠だから学ぶのだろうということだった。このことすら高校生になって認識し始めたわけだから、中学生の頃はただ漠然と授業を聞いていたに過ぎなかった。この共通言語としての英語の必要性ということも納得はできるが、疑問に思う点もある。必ずしも必要というわけではないからである。必要だから学ぶ、それは確かに正しいことだが、それだけでは興味を惹きつけられないであろう。だからこそ英語の背景にある文化ということを交えて授業を進めていくということが必要になるのではないか。
 まず今まで受けてきた教育を振り返ってみる。中学の英語の授業、特に1年生の頃は楽しく授業を受けていた気がする。中学から初めて学ぶ英語という新しい科目をとても興味深く思っていた。そのアルファベット1つ1つが興味の対象であり、すべてが新鮮だったからである。ただ内容が高度になっていくにつれて、重点が置かれたのは文法、単語の暗記分野となり、英語が楽しいと思うことは少なくなった。中学3年になり高校受験に向けて塾に通い始めるとより暗記分野が重視されるようになり、楽しいと思えるのは難しい穴埋め問題などにうまく答えを当てはめられた時くらいだったと思う。僕は問題を解く達成感を、英語を勉強するよりどころにしていた気がする。高校に入ると大学の付属校ということで英語の勉強も余裕を持って行われていた。映画の原作の本を読んだりして中々楽しかったが、基本は暗記だったと思う。英語力が伸びたという気はあまりしない。今考えれば、余裕を持って勉強できる付属校であり、高校生となって多くを吸収できる時期であったからこそ、山岸先生の授業のようなものがあったらよかったなと思う。また中学から高校へかけて辞書に関する指導を特別に受けたという記憶は無い。ただ使い方を習ったくらいである。
 ここで言いたいのは暗記させるのが悪いとか、英語辞書指導をしないのが悪いということではない。英語を学ぶ上で「覚える」ということが必須であるということはよく分かっている。ただそこに英語に対する興味をとどめさせるための工夫が欲しかったという事である。それは何でもよいが、辞書に関する指導であったり、山岸先生の授業で扱った文化による言葉の解釈の違いなどを扱った授業であったりすれば十分である。何より聞いていて感心させられることが多く、楽しかった。
 今までの英語教育でよかった点を挙げれば、文法や単語をマスターするための勉強方法はしっかりと確立されていて、勉強しやすかったように思われる。また外国の文学や英語の原作を読んだりするのは楽しかった。つまり英語を読み書きする能力を高めるにはそれなりの教育を受けてきたと思う。反対に問題点を挙げれば、英語を実際に使う際に必要な実践的な能力、つまり英語を聴き取る力と話す力を養う機会が少なかったことと、実際に覚えたことを試す場が少なかったことが挙げられると思う。このような能力は確かに語彙力や文法がその基礎に必要だとは思う。ただ僕が思うに中学から大学の2年次まで英語を学んできて、リスニングや会話の能力が上がったと実感することはほとんど無かったといってよいと思う。だから僕はリスニングを不得意だと感じている。このように感じているのは僕だけではないと思う。留学をして本場の英語に直に触れることが一番良い方法であるとは思うが、そうしなくてもいいように、より実践的能力を身につけるための学習時間と覚えたことを試す場面を増やしてほしいと思う。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 次に今まで受けてきた授業と山岸先生の授業を比較してみると、まったく異なる科目の授業を受けているような感じさえした。授業内容に関してもそうだが、授業に対する僕の興味という点でも大きく変わっていた。授業の内容について言えば今まで受けてきた授業は単語、文法を学び、リスニング、スピーキングをするという英語を使うための勉強であったのに対して、山岸先生の授業は英語を母語としない日本人が、英語を使う前提として知っておかなければならない事を学ぶためのものであったと思う。それは英語だけにとどまらず、日本と欧米の文化と価値観の違いや、言葉の由来などであり、ほとんどが初めて知ることであって、何度も感心させられた。そういった点で、今までのどの英語の授業よりも興味深く受講することができたと思う。
 山岸先生の授業からは多くのことを学んだが、一番印象に残っているのは教科書『日英言語文化論考』の一章や二章に載っている言語の背景にある文化、宗教についての話である。それによって今まで僕が疑問に思ってきた問題が解決されたと思う。その疑問とは、日本人は自分というものが無い、意志が弱いなどという欧米人からの批判に対するものだった。今回の授業で日本語と英語の背景にある文化、宗教の違いを知り、人々の考えの根底には古くからの生活習慣や習慣の関係があることを知った。それは例えば、欧米人は多民族国家であるから、より個人が重視され、日本は単一民族国家であるから集団の協調が重んじられるといったことなどがあるが、こういった相手の考えの基になっていることを知ることでその考えを尊重することもでき、間違った考えだったとしても変な不快感は覚えなくなるだろうし、日本の文化は変だなどと一方的な批判は受けなくなると思う。それらを踏まえたうえでもっと日本を、日本語を大切にしていかなければならないと感じた。そして日本語と英語がお互いに全く違った概念やイメージを持つことを当然と考えて初めて、英語を深く理解できるのだろうとも思った。
 以上のことをふまえれば、欧米人だけに限らず、日本人の言動の基となっている価値観がどういったものなのか知ることで、その場その場で自分が何をして良いのか悪いのか判断がつけられるようになると思うし、将来、英語を使う機会があれば日本人的発想を英語に表さなくて済むようになると思う。さらに、相手の背景にある文化と価値観を尊重して物事を判断できるようになれば良いと思う。そうすればさまざまな人とうまく交流できるようになると思うし、自分の考えの幅も大きく広がっていくだろう。
 最後にこれからの日本の英語教育について今まで欠けていたものと今後どのような教育になって欲しいかを述べようと思う。今までの英語教育に欠けていたものは、英語を正しく使うための授業であると思う。現行の授業は単語や文法を学ぶためだけのもののように思える。それでは誰も興味をもてないし、面白くも何ともないと思う。そしてそれで英語を読み書きできて、話せるようになったとしても、日本人的価値観のまま英語を使っていれば様々な誤解を受けるだろう。そこで上に述べてきたように英語及び日本語の背景にある文化、宗教に関する学習をはじめ、山岸先生の授業で扱ったようなことが必要になってくると思う。僕はこれらの事を学び、度々感心したし、何より面白いと感じた。さらに英語だけにとどまらず日本語の知識も増え、とてもためになったと感じている。こういった事を学べば、英語への興味も増すであろうし、自分の考えの幅も広がり、より広い視野がもてるようになるであろう。あと授業の細かい内容について言えば、実践的な学習機会が足りないということくらいだ。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 今後どのような英語教育を望むかということだが、問題になっている小学生に対する英語教育については、僕はやっても構わないと思う。やはり小学生の方が吸収力が大きいだろうと思うからである。ただ現行の教育内容が変わらないことには、結局大した成果は得られないと思う。今のままではずっと英語を勉強しているけれど実際に使えないという人が増えるだけである。また英語を話せる人も日本人の価値観のまま英語を使い続けるだろう。要するに小学生の英語教育について話し合うよりも前に現行の英語教育を変える事を考えてほしいと思う。具体的にいえば先に述べた現在の英語教育に欠けていることを補い、興味を抱きやすく、より実践的な学習を目指してほしいということと、しっかりした理解力が備わる高校生の頃には、英語の背景にある文化、宗教などを学ぶ機会を設けてほしいということだ。そうすれば英語の背景にある文化、価値観を知り、それをふまえた英語を使う人が増え、日本に対する世界の正しい理解が深まるだろう。(30312823 村田一三)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 中学、高校時代を振り返ってみると、英語学習は受験のためのものでした。国際化が進む中で多くの人とコミュニケーションをとるために英語は重要になるといったような、英語を学ぶ理由の説明を受けたこともありましたが、あまり納得はできませんでした。というのも、それまでずっと日本で日本語を使っていた私は、英語圏の国で生活するには英語が必要になるが日本で生活していく上では英語ができなくてもたいした問題ではないのではと思ったからです。そのため、外国を訪れたときに苦労しないための準備としてというよりも、高校入試、大学入試で必要な科目だからということが、私が力を入れて英語を勉強してきた大きな理由でした。受験というはっきりした目標があったので、英語の勉強を続けられたのだと今では思っています。
 中学、高校での英語の授業は、教科書の文章に出てきた文法や構文、単語や熟語などを、テストのために覚えることが中心でした。特に高校は受験校であったこともあり、大学受験が強く意識されていました。ネイティブスピーカーが日常生活の中で使うような「自然な英語」であるかどうかよりも、「入試で点数がとれる英語」であることが重要視されていたように思います。例えば、大学受験に向けて学生の英作文を先生が毎回の授業で添削してくださるという授業があったのですが、添削の基準は文法的に誤りがあるかどうかであって、文章自体が多少不自然であっても文法的に正しければ正解とされていました。
 中学、高校時代に、山岸先生の授業のように日英の言語や文化の違いを取り上げる授業があれば、言語を含めた自国の文化と外国の文化についてより深く学ぶことができたと思います。しかし、それはとても難しいことだとも思っています。というのも、まずそこまで深く自国の文化と他国の文化について深く理解している先生がいらっしゃったのかどうかが疑問です。大学の英語の先生はその多くが英語の研究者だと思います。一方、私が出会った公立の中学校、高校の英語の先生は、日本の大学で英語を専門に勉強し、卒業後に教師になられたという方ばかりだったように思います。海外旅行に行かれる機会も多く、英語を流暢に話される先生方だったのですが、日本や外国の文化についてどの程度深く理解されていたのかついては、私にはわかりませんでした。また、私も含めて学生の多くが、自国や他国の文化を理解することが重要だということをわかってはいたが、とりあえず目の前にある受験を突破できる英語を学びたいと考えていたことも、中学校や高校で日英の言語や文化の違いを取り上げる授業が難しいと考える理由の一つです。
 受験のための英語というと、実用性がないなどと批判されることもあります。たしかに受験のために覚えた単語や熟語の中には、日常生活ではほとんど見かけないものもあると思います。しかし、中学校や高校で受験のためにと覚えた文法や構文、単語、熟語の知識は、大学でも役に立っています。大学の授業の中で扱った英字新聞や英語のニュース番組などの内容をある程度、理解することができました。また、昨年、カナダに一ヶ月ほど滞在したときには、それまでネイティブスピーカーと英語で会話をする機会があまりなかったので、カナダに着いたばかりの頃にはほとんど英語を聞き取ることができなかったのですが、2、3週間ほどで耳が慣れてある程度聞き取れるようになり、ゆっくりとですが会話もできるようになりました。これらは基礎となる英語の文法や単語などの知識があったからだと思っています。このような経験から、ある程度の慣れが必要ではあるが、受験のための英語であっても十分に実用的であり、無駄ではないと私は考えています。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 この授業は、中学校、高校での受験のための英語の授業や、大学での英字新聞を読んだり、英語のニュース番組やアニメを見たりするといった授業とはまったく異なるもので、新鮮でした。外国人からの質問は、日本の文化や習慣であるにもかかわらず、私自身が知らないことが多く、その答えを調べ、さらにそれをわかりやすく英訳しなければならなかったので苦労することも多かったのですが、自国の文化を改めて考えるよいきっかけとなりました。また、この授業では、自分の英語がどれほど「自然な英語」とはかけ離れたものであったかということも強く認識させられました。日本と英語圏の国との間での文化の違いや、そこから来る考え方の違いから、それまで日本語の訳語として使っていた英語の単語に日本語の単語とのニュアンスの違いがあること、また英語にも日本語と同じようにスピーチレベルがあるということなど、受験のために英語を勉強していたときには気にしてこなかったことも、授業の中でたくさん教えていただきました。一つ例を挙げると、授業の中で”kind”という単語は、「優しい」という意味ではあるが、相手に他人行儀な印象を与えるので、ホストファミリーなどに対して使うのは好ましくないということを知りました。それまで”kind”という単語は「優しい」という意味だということしか知らなかった私は、昨年、カナダを離れるときに、ホストファミリーや滞在中にお世話になった方々へのお礼の中で何度もこの”kind”という単語を使っていました。今から振り返ると、スピーチレベルや単語が相手に与える印象などを無視した「不自然な英語」を、この他にも私はカナダでたくさん使っていたことに気づきます。ホストファミリーや滞在中にお世話になった方々は、私が話す「不自然な英語」に対して、変な顔をせずに寛容に理解しようとしてくれていたのだと思います。この授業を受けていなければ、このことにもずっと気づかずにいたかもしれません。そういった意味でも、毎回、新しい発見と驚きの多い、この授業に出会えたことを幸運だと思います。そして、そのような授業をしてくださった山岸先生には大変感謝しています。この授業を通して学んだことを、英語でのよりよいコミュにケーションのために役立てていきたいと思っています。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 今までの日本の英語教育は文法や単語を覚えることを重視してきたので読み書きはできるようになるが、英語を聞いたり話したりできるようにはならず、実用的ではないとの批判から、最近は会話を重視する授業が増えつつあるように思います。しかし、中学、高校では会話重視の授業というのはあまり適さないような気がします。というのも、私が通っていた学校での話ですが、中学や高校の英語の授業は、週に4、5時間、一人の先生が40人弱の学生を相手に教えるという形で行われていました。授業の中で会話を重視するとしても、文法や単語などをまったく扱わなくてよいというわけではなく、また一人の先生がすべての学生の会話の練習を見て、指導しなければならなくなるということを考えると、あまり効率がよくない授業になってしまっていたような気がします。中学や高校で行われる、数十人の生徒に対して一人の先生が指導する授業では、先生が文章の解釈や文法、単語の意味の説明などを全体に講義をするのがよいと思います。英会話学校とは違い、中学校や高校では大人数で授業が行われているので、その授業の中では、受験のための英語で覚えるような文法や単語などの基礎となる知識を身につけられるようにして、それから先はそれぞれの学生の興味や必要に応じて、英字新聞や英語のニュース番組を利用したり、大学や、英会話学校、海外旅行に行くなどして英語力を伸ばしていくようにするべきだと思います。すべての日本人にとって英語が不可欠であるというわけではないことを考えると、やはり中学、高校では英語の基礎となる知識を身につけるための授業が必要だと思います。(本人の希望により匿名)


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@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 僕は慶應義塾の付属校で中高の6年間英語教育を受けてきた。僕の学校でのスローガンが、「将来、国際社会で活躍できる人間を育成する」ことであったため、英語教育は必然的に力を入れられていたと思う。ただ、何のために英語を学ばなければならないのかといった意義について説明は特にはなかった。
 中学の3年間は基礎的な文法を学ぶと共に特に力を入れてやっていたのが音読練習である。僕の学校にはLL教室という一人一人の机にヘッドホンとマイク、そしてカセットの録音と再生機器がついている教室があったため、週に2〜3回はそこで教科書などを音読させられて時には自分の発音を録音したり、その機器を通して先生と発音の確認をしあったりした。宿題でも音読練習は欠かさず出されていたのでその甲斐あってか今では発音などであまり困ることはなく、むしろ自信があるくらいだ。高校に入ってからはひたすら文法を叩き込みながら、ReadingSpeakingWritingといったスキルを身に付けさせられた。Readingに関しては、海外の様々なジャンルの輸入版の本を読まされた。Speakingでは主に2年間ディベートを、1年間ドラマを学習した。そしてWritingでは週に1回担当の先生にジャーナルを提出し、添削してもらうというものだった。Speakingなど、授業のものによっては生徒がネイティブスピーカーと自由に意見を言い合えたりする双方型の授業もあった。そう考えると様々なスキルをつけさせるという意図を持ったカリキュラムであったと思う。
 その他日英の言語、文化の比較は行われておらず、英語辞書指導というのも特には行われていなかったと思う。また大学付属校であったことから大学受験を意識したカリキュラムはなされていなかったのでひたすら文法や単語などを詰め込むというよりもとにかく将来必要とされる様々なスキルをまんべんなく、時間をかけてのびのびと身につけるといったカリキュラムであった。
 今、高校までの英語教育を振り返ってみると僕は大方満足している。僕の学校はネイティブスピーカーの教師が多かった(英語教師の約半数がネイティブスピーカーであった)ことから本場の英語に触れることができたと思う。高校3年のWritingの授業ではネイティブスピーカーの教師が担当していたのだが、その授業での一年間のテーマが「CSN Sentence」であった。CSNというのはCorrectSmoothNaturalの略で、要するにCorrectSmoothNaturalSentenceを書けるようにしようということだったのである。毎週その教師にJournalを提出するのだが、まあ文法ももちろん、そして「文法としては合っているけどこういう表現は欧米では使わない」だとか「こういう表現をした方がいい」といったコメントをいただいた。僕はこのコメントを読むのがとても楽しみだった。本場のRealな英語を習っている感じがしてこの一つ一つのコメントがとても勉強になったのを今でも覚えている。逆に好ましくないと思った点は特にはなかった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 率直に言うと、僕はこの授業を履修してよかったと思っている。当初は「この授業は本当に英語の授業?」と何度も問いたくなった。僕が最初イメージしていた内容とは全くかけ離れたことをやっていたからだ。そのせいか最初の頃は授業に出席はしていたが積極的に参加する意欲はなかった。しかし、外国人の日本人に対する素朴な疑問に対して自分で考え、黒板に自分の考えをまとめてみる(僕は「日本人はなぜ職場の机などに自分の妻・夫・子供などの写真を飾らないのか」という問いについて考えました。)とこの授業で先生が伝えようとしている意図がなんとなくわかるようになり面白いと思うようになった。この一年間で僕が先生から受け取ったメッセージは「日本人は英語を学ぶ前に、まずは我が日本の文化、風土についてもっと学ぶ必要がある」ということであった。そもそも英語を学ぶには文法を学ぶこともとても重要なことではあるが、まずは英語と日本語の発達してきた環境の違いを自分の中で明確にすることが重要であると考えた。それには英語の育まれてきた文化、風土を学び、そして同様に日本語の育まれてきた文化、風土を知る必要がある。そうでないにしても僕たちは日本人なのであるから、日本の文化、風土をもっともっと知っていてもいいのではないだろうか。僕はこの授業で自分自身、日本についてまだまだ知るべきことがたくさんあると痛感した。それと同時に恥ずかしくなった。
 それともう一つ、これは直接的には英語とは関係ないのだが、とても印象に残っているのが、黒板に僕たち生徒が書いた英文を見て、「スペルや冠詞、前置詞などを入れ忘れたりする文法的なミスにつけ込む必要はない!そういうのが間違っていたとしてもみんなはいい文章を書いているよ!」とおっしゃっていたことである。確かに今までの英語の授業ではそういった文法的なミスをするとすぐに×にされ、減点されていた。そうされると自分の中でのセルフイメージが縮小され、次からしゃっちこばってしまい、うまい具合に英文が書けなくなってしまう。しかしこの言葉をもらうと伸び伸びと英文が書けるような気分になる。実際、僕が黒板に英作文を書いた時、文法的なミスをなおされたものの、内容に関してはとても褒められた。それを機に僕は少し英語を作文することに対して自信がついた。客観的にこれを読んだら、これはただの自己満足に思えるかもしれないが、「褒めることでその人の持っている能力を伸ばす」というのはとても重要なことであると思う。人間何歳になっても褒められれば嬉しいもので、褒められることで何かやり遂げたという達成感が生まれ、次も頑張るぞという意欲が湧いてくる。この方法をうまく日本の英語教育に利用すればよくなるのではないかと考えた。
このように今になって振り返ってみるとこの授業では英語ももちろん、そしてそれ以上に大きなものを学んだように思う。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 やはり今のままでは日本の英語教育は良くならないと思う。2でも述べてきた通り「英語を学ぶ=文法を学ぶ」という図式が日本では定着しつつある。確かに文法さえ学べば少々強引にでも日本語から英語へ変換することができる。しかしこの授業を通して、それだけでは相手に対してうまく伝わらないという状況が数多く発生してしまうということがわかった。その原因が一言で表してしまうと文化の違いなのであり、その文化の違いを生み出したのが宗教の違いであったり、環境の違いであったりするわけで、まずはその部分を知らないと英語を学ぶことは始まらないわけである。双方の文化を知る。これこそが日本の英語教育の根本に欠けている事だと思う。
 もう一つ問題点をあげるとすれば、受験英語が与えた影響である。試験のためだけに英語を学べばいいので、とにかく単語と文法を片っ端から頭に詰め込むという将来何の約にもたたないその場しのぎ的なこの英語学習が与えた弊害は計り知れない。例えば「〜へ」という日本語があるがこれにはたくさんの用法がある。「最寄の駅」と言ったような場所を表したり、「西の方」と言った方向を表したり、他にも様々な用法があるがこれらが英語だと全てtoで片付けられてしまったら大間違いである。しかし日本の英語教育はそう教えてきた。日本の英語教育における最大の問題点が受験英語であると僕は考える。先に述べた「英語を学ぶ=文法を学ぶ」という図式が日本で定着してしまったのもこれの影響であるのではないかと考えると、日本の英語教育を変える一つの解決策として、受験英語の見直しが何よりも重要である。
 日本は経済力、そして生活水準でも世界トップクラスであるが、英語教育に関しては他国と比べて劣る。これを格上げするには教育改革をすべきである。そのため、もう一度英語を学ぶ理由、意義などを徹底させると共に、言葉の本質を知るべく自国の文化を見据える機会を設ける必要があると考える。(30314008 米田 圭)


@私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
 私が初めて英語に触れたのは中学校のときである。中学校から大学2年の今まで、英語を学ぶ目的として次のように説明されてきた。すなわち、「現代は国際化が進んでいて、異文化の人たちと触れ合う機会はこれからもどんどん増えていくため、コミュニケーションの手段として英語が必要」だから英語を学ぶのである。この目的には同感であるし、納得も出来る。しかし、結論からいえば私が受けてきた英語教育は、この目的を達成するのにそぐわない方法を取っていたといえよう。
 中学校は公立校であったので、文部科学省(当時は文部省)認定の教科書に沿って授業が進められていた。内容は会話文やコラムを通じ、英語圏の国の文化を学ぶというものであった。時には洋楽を聴いたり、英語を用いたゲームをしたり、生徒の英語に対する興味を引き出そうという試みも行われた。
 一方、私は高校受験を見据えて中学生時代には塾にも通っていた。そこでは長文読解や実際の入試問題を解き、文法を叩き込み、語彙力を養う授業が行われていた。
 このように高校に入るまでの英語教育は、英語に対する興味を引き出すことと知識を増やすことという二つの目的をもって進められてきた。その中で英語辞書指導が行われた記憶はない。また、授業中の雑談程度の話題として日英の言語・文化の比較が行われることがあったが、それを主とした授業は受けたことがなかった。しかし、洋楽やゲームよりもそのような雑談のほうがはるかに記憶に残り、英語に対する興味を引き起こしてくれたことは否めない。
 高校は付属校であり、大学受験を意識することのない英語教育が行われていた。また、「苦手を克服する」ことよりも「得意を伸ばす」ことに重点を置いた学校であったため、私が英語学習に割く時間は激減した。とはいえ、入学当初は塾での学習で知識を大量に得ていたことの安心感から英語は決して苦手科目ではなく、むしろ好きな科目のほうに位置されていた。しかし、その他の分野に興味があったために英語学習にかける時間は相対的に減少したのであった。そうなってしまうと、3年間かけて叩き込んだ知識は急速に失われていくもので、いつしか英語は苦手科目のひとつに数えられるようになっていった。個人的意見だが、どんな分野においても得意と感じるためには「ここだけは人より優れている」と思え、安心感をもてる部分が必要なのだ。
 ここに私の受けてきた英語教育の欠点があると考えられる。
 無論、高校受験期のような勉強量を維持していれば英語はずっと得意科目でいられるだろう。しかし、中学生と比べると格段に行動範囲も広がり、(英語で職を得ようと考えているなら別だが、)将来について真剣に考え始める時期にそこまで英語にばかり時間をかけられるであろうか。要するに、知識をたくさんもっているという安心感からくる得意意識は維持するのが非常に困難なものなのである。そこに力点をおいているという点でこれまでの英語教育は好ましくない。しかし、文法や語彙などの知識習得を無視した英語学習には限界がある。また、これまで私が受けてきた英語教育は外国の文化を知る窓口の役割は果たしていたといえる。これらの点においてはこれまでの英語教育は好ましかったといえるのではないだろうか。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 本授業は一言でいえば、今までに受けたことのない、しかし今まで疑問に思っていたことに答えてくれる授業であったといえる。
 ネイティブスピーカーではないのだから完璧な文法やスペルは必ずしも必要なく、大事なのはいかに日本の文化を伝えられるかである、という説明が度々なされたこの授業では英語よりも日本をたくさん学んだ。これまで受けてきた授業も異文化の人たちとコミュニケーションをとるために学ぶ、という姿勢は同じでも日本人として何を伝えられるかという点は教わったことがなかった。私は常々、英語に限らず異なる言語同士が必ずしも互換性を持っているのかという疑問を抱いていた。この授業ではじめて答えが与えられたと思う。答えは
Noである。だからこそ誤解を与えないためにも文化を学び、伝えなければならないのである。
 次に先生の著作である『日英言語文化論考』を引用しつつ、この授業で学んだことを具体的に見ていくことにする。
 まず、第1章、第2章において言語は文化・風土と切り離しては考えられないことが前提として語られている。この視点から欧米と日本を比較してみると、欧米人は狩猟民族で移動生活を営み、日本人は農耕民族で「村」という共同体の中で定住生活を営んでいたという時点で、すでに大きな相違が見られる。また、宗教観にも大きな違いがある。欧米人はキリスト教・イスラム教に代表される一神教を信奉するのに対し、日本人は多神教、もしくは欧米人ほど宗教を意識しない。日本人はもともと「本地垂迹(animism)」といって、神は様々な姿で地上に現れると考えていた。これが「八百万の神」である。なので、「生まれたときは神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教」(P28より引用)という欧米人から見たら信じられないような儀式も抵抗なく行うことができるのである。このような相違は、欧米人・日本人の考え方の違いを形作っている。すなわち、日本人は村落内で協調し、和を乱さないよう共存するために信頼を重んじ、欧米人は移動生活を営み、異民族同士であるということが前提にあるので、下手な誤解を生まずに共存するために契約を重んじるようになったのである。
 以上のような違いを知れば、「日本人は自分というものを持たない」といったよくある批判にしっかりと反論ができるようになる。つまり、「自分」という言葉の意味が英語と日本語ではそもそも違うのである。日本人は和を保つために周囲とのバランスを見て「自分」という核が持っている考えをその場その場で調整しているのだ。
 日本人のこうした文化・風土・宗教観からくる考え方には次のような長所・短所があると思われる。一言でいえば長所は「寛容」であるということだ。八百万の神を信仰する日本人は他宗教に対しても優しいため、新しい神様が現れても受け入れることができる。決して他宗教の遺跡を文化的に貴重な財産であることすらも無視して破壊するなどということはしないだろう。一方、短所はこの裏返しで、寛容であるがゆえに「鈍感」であるという点である。このために日本人はヨーロッパ各地の紛争に関して理解しきれない場面が多々見られる。また、昔の日本人は生まれてから死ぬまで自分の生まれた村から出ることはほとんどなかったが、現代の日本人はそうではない。こうなると日本人の「うち」と「そと」を区別する感覚が裏目に出てしまう。「うち」を大事にするあまり、「そと」に対しては淡白で無関心なのが日本人である。このことが現代ではある種の社会的問題を引き起こしている。つまり、公衆の面前でのモラルの欠如はこのような日本人性に起因しているといえるのである。
 日本人性を象徴する面白い例として第15章では「寅さんシリーズ」を取り上げている。
 この作品は日本人なら誰でも知っていて、とりたてて嫌う人もあまり見かけない。しかし、外国人の目には寅さんは幼児のような男であるのに彼の周囲の人たちは寅さんを甘やかしすぎであると映り、好まれないらしい。だが、日本人である私の目には「とらや」の人たちに甘え、ケジメを求めない寅さんは好感の持てる人物としてしか映らない。日本人にとっては、言わなくても分かる、甘えあえる関係というのは、他人ではない、すなわち「うち」の人だということを示しているのと同じことなのである。こうしてみると、「寅さんシリーズ」が日本で人気がある理由はやはり日本人性ゆえなのである。
 このように日本人は「甘え」をよしとする文化を持っている。しかし、教育に関わる人たちには「甘え」だけは絶対に許されないと私は考える。それはこれまで受けた教育の中で先生の甘え、また生徒の甘えを感じざるを得なかったからである。教科書の内容さえ教えれば充分だの、このレベルまで覚えさせれば問題ないといった先生や、テストで点さえ取れればよい、この学校に合格しさえすればよい、といった生徒のこの考え方こそが甘えそのものであると思えてならないのである。この授業では英語のみならず、学問に向かう姿勢も教わった。一学生としては「なぜを問うことが学問」なのであり、先生とはその名の通り「先に生きる人」として知り得る限りの知恵を後に生きる若者に伝授していかなければならないのである。
 他の授業に比べ、この授業は雑談とも思える話が多い。しかし、その中でできるだけ多くの知恵を伝えようとしてくださる先生の姿勢を随所に感じる。また、たとえ拙い回答をしてもそこから正答につながるような点を見つけ出し、その先を考える糸口を示して戴けるので安心して発言することができる。これこそ「甘え」のない先生と学生との信頼関係のあるべき姿なのではないだろうか。
 外国人と会話する機会など持とうともしなかった私であるが、この授業を受け、日本人として弁解したいことがたくさん思い浮かぶ。また、伝えるために用いる英語は完璧でなくてもよいと教わることができたために、きっと必要以上に緊張することもないだろう。これまでずっと言われてきたように現代は国際化の時代で外国人とコミュニケーションをとる機会が増えるというのなら、この授業で教わったことは必ず自分にとって武器になるといえる。なぜなら、何を伝えるべきかを考えさせて戴いたからである。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言
 1.で述べたように、我が国の英語教育は異文化の人たちとコミュニケーションをとる目的で行われている。しかし、コミュニケーションはおろか、それ以前に英語を苦手と感じてしまう学生があまりにも多い。
 たとえば帰国子女が英語を得意と感じるのは実際に海外で暮らし、英語を用いていた経験があるからであろう。言い換えれば、彼らは経験という武器がある種の安心感となり、英語学習に苦手意識を持たずに取り組むことができるのである。一方、日本での生活しか経験したことがなく、ごく一般的な英語教育を受けてきた者は知識をより多く得ることでしか英語に得意意識をもてないのである。
 では、「異文化の人たちとコミュニケーションをとる」という大義を満たす大前提として、多くの学生が英語に興味を持ち、それを維持し、英語は得意科目だと言えるようになるにはどうしたらよいのだろうか。先に述べたように、知識の習得という鍛錬を続けるのは限界がある。また、帰国子女のように経験を得る方法も、我が国の母国語が英語ではない以上、中途半端に終わる可能性が高い。しかし、母国語が英語ではない、というところにこれからの英語教育へのヒントが隠されていると私は考える。
 日本語はしばしば習得が難しい言語の一つに数えられる。「いただきます」や「ごちそうさま」のようにそもそも英語にはないフレーズがあったり、Iという英単語ひとつにも日本語にすると「私」「俺」「僕」など様々な呼び名があったりする。このような一言一言に文化が絡み合っているのだ。ここを伝えるために英語を学ぶのであれば、日本の学生は日本を知らなすぎる。そして我が国の英語教育の中で日本の文化を教えることはめったにない。これこそ我が国の英語教育に欠けている点なのである。すなわち知識の習得量による安心感よりも、伝えるべき文化を知っている、という安心感の方がより必要なのだ。
 現在の教育制度が大幅に変わらない限り、日本の学生はほぼ全員がどこかの時点で学校と並行して塾に通うことになるだろう。私の知る限り、大抵の塾は受験を見越して知識の習得を主とする授業を行っている。もちろん塾はそれが目的の場所であるので当たり前のことである。また、学生の立場としてもレベルや授業の内容別でクラスが分かれている塾での方が知識の習得という勉強は行いやすい。だとすれば、学校教育での英語学習が知識の習得ばかりを行う場である必要はないのではないだろうか。つまり、英語で伝えるべき日本の文化を学ぶ場であるのが好ましいと考えられるのである。
 さらにこれからの英語教育に望むとすれば、外国の文化をもっと深く学ぶことである。2.で述べたように宗教というものを普段意識しない日本人にとって、外国人の習慣を知ったところでその背景にある文化までもを推し量るのは容易ではない。これはもちろん日本の文化を今よりもっと知った上での話である。相手との違いを知っていれば日本の文化もより伝えやすいものになると考えられるからである。
 この授業を通じ、私は日本の文化を学んだ。そのすべてを肯定するわけではないが、日本をあまり知らない外国人に無条件に批判されるばかりの文化ではないことは確かである。先生の言葉を借りれば、「今、われわれに必要なのは、正しい自己認識であ」り、「それを欠いた“日本人の国際化”など、単なる“外国(人)コンプレックス”を増すだけのこと」(P28)なのである。つまり、「日本人はもっと、自己弁護のための底力を蓄える必要」(P142)があるのだ。これをなぜ英語の授業で行わなければならないのか、それは我が国の英語教育が掲げる目的のためである。それは実際、中学から大学まで10年もの歳月を費やす価値のある目的である。であるのにもかかわらず、我が国の英語教育はまだまだ「仏作って魂入れず」、すなわちカタチばかりを追っているだけで、魂=伝えるべき内容、すなわち日本文化が伴っていない。我々の魂である文化を、これからの英語教育に強く期待する。(30354642 桑野明子)



@ 私が受けた英語教育―高校までの英語学習を振り返って
僕は慶應大学の附属高校である慶應義塾高校の出身です。従って、英語の授業も大学受験の事は意識されておらず、難しい単語や複雑な構文をいっぱい覚えると言う事などはしてきませんでした。高校三年生の時、英語の授業は二つありました。それぞれ違った面から英語を学ばせようという趣旨だったのではないかと思いますが、僕らのクラスは二人とも昔ながらの英語の教え方をするおじいちゃんの先生で、結果的に似たような授業だったと覚えています。
 僕は中学から慶應に入り、その後受験というものを経験してないので、そこまで英語の基礎というものが出来ていませんでした。高校が始まり、難しい英語の入試を経て入ってきた外部生と同じ授業をうけるというので緊張していたところ、授業はやはり、高校入試の知識を前提として行われていきました。
 一つ目の授業、それはひたすら外国の小説を和訳していくという授業でした。自分のあたるところが決まっているので、そこさえクリアしていればあとは何とかなってしまったので、次第に僕は友達頼りになってしまいました。テスト問題のほとんどがその本文の一文を訳すというもので、小説の完璧な訳を作ってしまえば、後は文章の始まりの単語等雰囲気をつかんで覚えておくという作業で簡単に点が取れてしまいました。文章読解というよりも暗記力の強化のような授業だったと思います。
 二つ目の授業は、「クラウン」を用いていました。上の授業よりはましでしたが、結局これも当たったとこだけ出来ていればよかったので、同じ様な結果になりました。テストは、和文英訳・英文和訳・単語とまんべんなくでました。
 どちらの授業も英語辞書指導というものが行われなかったので、僕の周りでは、持ち運びが楽で検索のしやすい電子辞書が一般的でした。しかし後に英英辞書にも和英辞書にもそれぞれの長所があるということをしりました。
 この様な英語教育の好ましいと思った点、それは記憶力がつく、英語をあまり理解してなくてもそこそこ点が取れるという点くらいです。後者は好ましい点といえるかも疑問が残りますが。今になってこれらの授業に思うことは、まず、「英語を学ぶ理由・意義」についての納得の出来る説明が欲しかったという事です。僕らがわざわざ母国語以外の言葉を勉強するという意味に、ただ就職に有利ということだけでは納得が出来ませんでしたので。そしてそれを納得した上で勉強に入るべきだったと自分でも反省しています。次に不満の残るところ、それは日本語と英語を同じ様な視点から捉えようとしていたところです。僕ら日本人と英語を使う外国人で、住んできた環境も違うのですから物の捉え方や感じ方は違って当然です。それを、そうゆう説明を受けてもいないのにイギリスの笑い話や小説を読まされても、多少は理解できましたが、そこで終わりなのです。従って、その文章のどこが面白いのかも分かりませんでしたし、なぜこの様な回りくどい表現を使うのだろうとさえも思ったのでした。
 以上で高校のときの学習の話は終わりです。次に上に書いたような事を気づかせてくれた大学の授業について書きたいと思います。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 大学に入ると、英語の授業はさらに難しくなっていました。大学入試を通ってきた人達は、僕のまったく分からないような文章をすらすらと訳していましたし、僕は英文でかかれた問題文を理解することさえ一苦労でした。何とか二年生になり、山岸先生の「英語V」をとりました。最初の授業を受けて一番驚いたのが、英語の授業中なのに英語がほとんど出てこないということでした。附属で培った甘え体質の抜けきらない僕は、当時「これは出席だけして先生の話しているのを聞いてたまに手をあげればいいのだ、なんて楽な授業だ、ラッキー。」などと失礼なことを考えていました。しかし一年間先生の授業をうけてみて、気付いたら知らず知らずのうちに授業で先生がおっしゃったような考え方が身についているのでした。1番で高校教育への不満で書いたような、「日米間の言語・文化の違い」をまず考えるという事は大変ショックをうけ、いつの間にかそのような考え方をしようと脳が勝手に反応しているのです。その様な事を踏まえれば、外国の小説を読むときもいろいろ考えながら読むことが出来るでしょうし、日本人が間違えがちな英語についても理解が深まるのではと思いました。

 僕がこの授業をとって一番為になったと感じたのは「日本語、そして日本の文化に誇りを持て」ということを教わった事でした。これは次の3番でも書こうと思っているのですが、「日本語より英語の方がいい」という思想は間違っているということに気付けたからです。恥ずかしい話ですが、僕も「日本語の歌詞はどこかかっこ悪い」と思い、洋楽ばかりを聴いていました。しかし先生の授業をうけ、古くから日本人が培ってきた感性(アニミズムや、周りとの和を重んじる心、八百万の神等々)を教えられ、そのような自分が恥ずかしくなりました。またそのお陰で、日本の習慣をそのまま英語にしても伝わらないという話も納得でき少し賢くなった気がしました。

 まだまだ文法や単語など足りないところは沢山ありますが、外国語を勉強する上での一番大切なところを教わったような気がします。この授業で得たものは将来必ず役に立つのでは、と思っています。一年間本当にありがとうございました。


Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言 
 今まで、自分の経験してきた話を書いてきましたが、最後に我が国への提言ということで少し恐れ多いような気もしますが書きたいと思います。
 これまでの英語教育にかけていたもの、それはやはり、上にも書いたように、外国語を学ぶ上での意識の勉強が足りない気がします。僕らは中学へ入り、みんな始めるのだと、何となく英語を始めそして受験や就職の為にひたすら上辺ばかりを塗り固めていっています。それではいくら外見がきらびやかでも簡単に崩れてしまうのだということを分かって欲しいと思います。その為にはまず日本語を見直すべきです。日本語でもっとしゃべるべきです。大学一年生の時に英語を教えてくれた岸上先生の言葉をお借りしますが、日本語でもしっかりした話が出来ない人が英語で何を話せるというのでしょう。いくら完璧な英語で話したところですぐ見破られてしまうでしょう。政府は、小学校の英語教育など勧める前にもっと自分の国について知ってもらうようにしてください。小学校から外国語を学ぶのは早いと僕は思っています。自分の国について知識が少ないうちから、よその国のことを知って何が出来るというのでしょうか。少し不安です。僕もしっかり頑張りますから。(30312641 陸浦 純)


@ 私が受けた英語教育─高校までの英語学習を振り返って
 私のような若輩者が我が国の英語教育や出身校の英語教育に関して意見を述べるなどというのは気が引けるのだが、私が英語教育を初めて受けたのは、確か私が小学校四年生の頃であった。家の近くに小学館の英会話教室ができ、そこに学校の友人達と通っていた。この頃は特に英語を学ぶ必要性や意義など意識することもなく、ただ日常使う言葉と違う、「英語」というものに触れられることに面白さを感じていたように思う。勿論両親は、漠然と将来必要になるであろうと考えて通わせたのであろうが。ここで行われていた英語教育は、皆で一緒に英語の歌を歌ったり、生徒同士で簡単な会話をさせたりと、英語に「触れる」程度のもので、「勉強していた」という感触はなかった。しかし半年もすると、中学受験の準備が忙しくなり、この英会話教室には行かなくなってしまった。 
 結局中学校は苦節の末、運良く慶應義塾普通部に入学することができた。「学校教育」としての英語教育を受けたのは、ここが最初であった。当時の普通部では、英語は英語Tと英語Uに分かれており、Tでは英文法、Uではオーラルコミュニケーションを主に行っていた。OCでは実際にネイティヴの教師が教壇に立っていたが、普通部時代は特に英文法を瀬木昇先生にご指導賜ったことが思い出される。  
  慶應義塾高等学校に進学後、英語教育というものは明確な目的、照準が見えないものであったように感じる。特に成績、素行に大きな問題が無ければ、ほぼ100%慶應義塾大学に進学できるため、単に「大学進学」ということに関しては英語力の如何は別段問われなかったのである。私の受けた授業では英書の購読が主であったが、購読を毎週行うことで英語力の自動的向上を狙ってのことであったのだろうか。そのため慶應義塾高等学校に於いては、大学受験を意識した指導は殆ど行われていないように感じる。私と同じく内部進学生の友人と英語のことについて語り合うとしばしば、内部生は語彙力が劣っている旨の発言を耳にする。私も同意見であるが、勿論、英語という科目が比較的好きであった私は、高校三年間の英語学習はそれなりの面白さを感じながら行っていた。ただ、心の中で、このままでは大学へ外部から入学してくる人たちに断然敵わない、と感じていたのもまた事実であった。  
 語学を学ぶ上で欠かせない物と云えば、辞書であるが、どういった辞書を使ったら良いかという指導は教師によって差異があった。見易さ、語彙数など選択のポイントは多々あったが、ある程度のレベルの充実度があれば別にどれでも良い、というのが主な指導であった。ところが生徒というものは、教師の言ったことを鵜呑みにしてしまう傾向が否めない。そういう面では、辞書指導というのはなかなか肝要なものであったのではあるまいか。実際に私は中学校三年生のときに勧められた、研究社のライトハウス英和辞典を高校卒業まで愛用していたが、特に大きな不満も無かった(これは当時私が辞書に特別な意識を持って使用していなかったからであろう)。英語学習をする上で、日本と英米の文化、宗教的差異の重要性を認識していれば自然と英語辞書指導には力を入れざるを得ないのではないかと思う。 
 日本と英米は、根本的に影響を受けてきた学問や慣習、文化、宗教的な面で大きな違いがある。この違いを重視せずして、日本語から英語、英語から日本語への変換作業のスキルを磨くことは非常に残念なことである。当然、完璧な訳など不可能かも知れない。しかし、その違いを知ることはより正確な内容を相手に伝えられることに繋がるし、非常に肝要である。そういう面から考えると、残念だが慶應義塾の中高一貫教育の中での英語教育はその点をあまり重要視していなかったように感じる。ただ、大学へのエスカレーター進学を前提とした中高一貫教育の中で、生徒に必要以上のプレッシャーをかけずに英語教育を行うという点では、非常にのびのびとした英語学習を日常的に行えたと思っている。個人的には、英書購読や英字新聞購読は興味をもって取り組んでいたし、本塾高等学校の英語教育に関して大きな不満は今のところ無い。勿論、外部から受験戦争の荒波を勝ち抜いてきた人々より劣るかもしれないが、それは大学入学後の努力如何で追いつくことも、追い越すことも可能だと思う。学年毎にご教授頂いた先生方は異なるので、細かい感想を言えばきりがないのだが、現在も英語が好きでいられる理由の一つとして、本塾高等学校のゆとりをもった英語教育には感謝している。

A「英語V」を受講して─この授業から学んだこと 
 春学期の授業では、外国人学生から実際に山岸先生に向けられた、日本についての疑問について英語で答えるという形式であった。「日本について」と一口に言っても、日本の古くからの習慣や、日本人の心の奥底に根付いている民族的共通意識といったものをしっかりと理解していないことには、質問した外国人に納得させるような答えには到底結びつかないものになってしまうことが往々にしてあった。我々の世代においては特に深刻なのかもしれないが、日本人でありながら日本のことをよく理解していないことが往々にしてある。そこで山岸先生は宗教的背景に基づいた日本の習慣や文化を踏まえて、どうすれば外国人を納得させることができるか、非常に分かり易く解説してくださった。
 その中で日本には、全ての物に魂が宿るというアニミズムという考えがあることや、食物を口にするときには、神と共にあるという共食文化など、非常に色々な事を教えて頂いた。その内容はあまりにも多く、この場で全て記すことは出来かねるほどの量であったし、全て大変興味深いものであった。 
 また秋学期には、日本の童話「笠地蔵」や、北島三郎の「与作」、都はるみの「北の宿から」、千昌夫の「星影のワルツ」、坂本九の「上を向いて歩こう」や童謡「夕焼け小焼け」といった日本語の歌を、英語に訳すことも行った。歌詞の英訳というものは、実際にメロディにしたときのリズムも考慮せねばならない。また日本語というものは曖昧に表現して、聞き手の理解に任せることが多い。しかしそのまま英語に訳すと、これでは説明不足になってしまう。そのため作詞者の意図を汲み取り、状況を想像して英訳に臨まなければならなかった。誰しも一度は耳にしたことのある有名な曲ばかりだったので、それが英語になるとこういう風になるのか、と非常に興味深く講義を受けていた。
 我々学生の答えには、多かれ少なかれ文法上のミスや、単語の選択ミスなどが含まれていた。勿論違和感のあるものには先生は手直しを加えてくださったが、間違っているからといって減点するといったことは一切無かった。また学生の発言が多少的を外していても、それもまた一つの意見として認めた上で、正解を教えてくださった。減点方式を取らないこのスタンスは今までの受験社会の中で減点というものを恐れてきた(であろう)我々には、非常に取り組み易い授業形式であった。

Bまとめに代えて─我が国の英語教育への提言
 では、もし私が本塾の高等学校でなく、他の進学校で大学受験のための英語学習を受けていたとしたら、果たして後になって好ましく思えるような英語教育に出逢えていただろうか。現在の大学受験に於いては(或いは高校受験も然りだが)、如何に文法的に正確な英語を使えるか否かということに左右されると言っても過言では無いだろう。勿論正確な英語を使えることは重要である。単語や熟語、イディオムを多く知っていることも重要である。しかしそれは果たして本質的に意義のあることなのだろうか。私如きがこのようなことを申し上げるのは分不相応であるというお叱りを受けることを恐れずに申し上げさせて頂くとすれば、語学の本質というものは、言語を通してその国の文化、慣習に関心を持ち理解を深めることに在るのでは無かろうか。そういった面から言えば、ただ機械的に言語の正確な変換作業をする為の英語学習は、非常に中身の薄弱な悲しいものであるように感じる。それではパソコンの翻訳ソフトとさして変わらない。
 一昨年の九月から私は、進学塾の時間講師として働き始めた。普段は理科、数学など理数系を担当しているが、他の講師の代講などで国語、英語など文系科目も担当する。私は山岸先生の講義を受講し、文法的間違いは然程大きな問題ではない、もっと重要なことがあるということは十分頭の中にあるつもりだ。しかしそんな中で、高校受験を控えた彼らに、文法上の細かいミスを指摘し、これはこういう使い方だから覚えなさい、あれも覚えなさいと、「受験向け英語」を指導しなければならない。語彙力、文法力も大事だが、もっと重要なことがあると認識していながら、入試本番までの時間的拘束もあり、引き続き「受験向け英語」を指導しなければならないのである。これは恐らく中学校の英語教師も多少なりとも考えを及ばすところであろう。
 ただ現実問題として、現在の入学試験における英語の扱われ方は如何とも変え難いことは事実である。その受験戦争の荒波を勝ち抜く為には、先述したようなことは絵空事なのかもしれない。それに加え、高校、大学受験を終えた後も、就職、留学のためにとTOEICTOEFLでの高得点を目指して勉強に励む人が多い。入試が終わったとはいえ、「試験で高得点を取るための英語学習」というものからは解放されないのである。そうなってくると、私は中学、高等学校での英語教育よりもむしろ大学での英語教育の方が、日本や外国のことをよく理解して伝えるということに関しては学びやすいのではないかと思う。日本の入学試験体制というものは、日本全国に広く浸透しており、今となっては非常に変え難い。ならば、高校卒業までにしっかりとした文法力、語彙力を身に着けておき、大学に入ってからそういったことを学べばよいのではないだろうか。現在の日本の英語教育の現状からすると、大学入学後しか時間的余裕はないように思う。
 近年、小学生のうちから英語教育を始めるとか、アメリカンスクールに通わせて英語を早いうちから身に着けさせたい、という英語を意識した親が増えているように思う。これは当然中学校から英語を始める子供たちより数歩先へ進んだ位置に置きたいという意図もあるだろうが、あわよくばバイリンガルに、これからの国際社会にという考えがあるのではないだろうか。実際に小学校の授業の中で英語を教えている学校もあるだろう。私立の中学、高等学校でも、「英語教育に力を入れています」といったフレーズを仕事柄よく目にする。勿論、英語に力を入れることは重要だと思うし、その言葉は英語教育に熱心な親を惹きつけるには格好のフレーズである。
 しかし、そこで一つ立ち止まって考えてみる。現在、日本の子供たちの学力は、落ちている。特に理数系教科に如実に表われているが、理数系教科に止まった話ではない。日本人が日本人として使う言語、つまり国語である。その中でも特に読解分野に関しての能力が落ち込んでいるというのである。英語は勿論重要である。ただ、「ゆとり教育」という指導要領の結果としてか否かは明確な判断はできないが、小中学生に起こっている学力ダウンは事実である。日本人が日本のことを外国人に正確に伝えることができるようになるためには、まず日本のことについて知る、つまり日本語をしっかりと勉強することが何より先決なのではなかろうか。早いうちから英語教育、これも大いに結構ではあるが、まず日本語でしっかりと伝えることができなくては、英語で伝えられる訳がないのではないか。そうなると外国語云々の話ではないように思う。
 少し論点がずれてしまったが、先述したようにまず小中学校のうちで、しっかりとした国語力を見に付けさせることがまず重要であるように思う。その上で、日本と英米の宗教的文化的差異、慣習やその背景をしっかりと踏まえた上で、英語教育を行うことである。勿論文法力や語彙力も重要であるから、その強化もしつつ、主に文章を作る力、そして英語で話し伝える力を養うことを中心にして進めていくことだと思う。
 また公立中学校においても、英語と国語に関しては、各生徒の習熟レベルによってクラス分けを行ったらどうかと思う。同じ環境下で授業を行うことは、クラスの一体性、生徒の無差別化といった観点からすれば適しているのかもしれないが、ついて行けない生徒にとっては段々と授業そのものが苦痛になりかねないし、その科目を得意とする生徒には逆に物足りない授業になってしまう。これでは生徒の学習意欲に少なからず影響を与えかねない。特に現在の仕事をしていて思うのだが、公立中学生の習熟度というものは予想以上に生徒間の差が激しく、同じ授業が行われているのかと思うと可哀想になってしまうほどである。非常に勿体無いことだと私は思う。成績の良い生徒、悪い生徒の両方の可能性を削いでしまう可能性をも孕んでいるのではないだろうか。30351047 磯 智也)


@私が受けた英語教育 高校までの英語教育を振り返って
 まず断っておかなければいけないのは私が通っていた中学、高校は共に付属校(俗に言うエスカレーター校)であったということだ。そのため、大学受験そのものを想定した授業形態ではなかった。また私立ということもあってか、授業内容は各教師の独創性がみられ、教師側の自由度は高かったように感じた。しかしながら、もちろん好き勝手な内容をやっていたわけではない。上の学校に進学する際(中学から高校、高校から大学)に外部より受験をくぐり抜けた者が加わる。そのため、進学後に内部進学者と外部受験者の学力差が大きくならないよう、各付属校教師は配慮していた。よって、間接的ではあるが、受験対策に似たものも多少学習した。
 英語を学ぶ意義については、特に中学一年次に「コミュニケーションの手段として」「自分の世界を広げるためのツール」といった説明がなされたように記憶している。そしてその点について私は納得をして学習に臨んだ。
 しかし、英語辞書指導に関しては指導された記憶はなく、必要に応じて独学で学んだ面が多いと言える。
 中高と英語はT、U、Vと三つに分かれていた。英語Tは特に文法、Vはネイティブスピーカーとの英会話中心の授業内容であった。
 特に英語Vの授業は英語圏内の国の慣習や文化に触れる場となった。例えば担当のネイティブスピーカーの教員に、実際の感謝祭の様子を教えてもらったりもした。後述する山岸先生の「文化比較」と比べて、内容は浅いが、外国人との考え方や価値観の違いもここで学んだ。
 このような授業形態の中で学び、良かったことは、中学時に基本的な文法事項をしっかりと反復練習したこと。また中学一年次より、ネイティブスピーカーに触れる機会を与えてもらったことは、自分にとってたいへんにプラスになった。
 逆に良くなかったのではないかと感じる点は、高校時代、特に英語TとUが毎年変わる担当教員によって、授業形態や取り扱う教材が異なった点。多様性はあったのかもしれないが、三年間を通して振り返ったときに一貫性に欠けたと言わざるをえない。また受験対策の授業でなかったせいか、単語量という点においては、大学受験を経た者のほうが勝っていると感じた。特に文法事項を学ぶ「英語T」については、三年間のスパンでの一貫性を持たせ、それによって発展性も高めて欲しかった。

A「英語V」を受講して―この授業から学んだこと
 今年この「英語V」を受講して、第一に「言語というものに対してより深い授業」だと感じた。先ず授業の導入からして違う。他の授業は「TOEIC対策」「作文力向上」などと謳っていたが(もちろんそれが悪いということではない)、この「英語V」では山岸先生が英語という言語を、最初に日米の民族としての歴史的背景、文化の違いという観点から語られた。特に前期の授業は単に英語の授業であるというより、言語学の授業であるかのようであった。
  具体的に言うと、私がこの授業から学んだものは大きく分けて二つある。第一に「なぜ日本が特に欧米から誤解を招きやすいのか」。これは特に前期の「外国人が疑問に思う日本人の習慣」の講義より学んだ。第二に山岸先生の著書である『英語表現法の学習と実践』の演習によって「中学生までの文法で、十分にネイティブとの会話は成り立つ」ということを学んだ。
 前者については「狩猟民族」米国人と「農耕民族」日本人としての違い、また「大陸」と「島国」、そこから生まれた日本独特の「村社会」の中での生活習慣が今も強く根付いていることを知った。それらは山岸先生の膨大な知識によって裏づけされていた。例えば「なぜ日本では夜、口笛を吹くことを嫌ったのか」という設問では、(1つの理由として)「神聖視していた蛇を起こさないように」という答えがでた。そこで更に「日本ではなぜ蛇を神聖視したのか」という設問が発生する。それに対しても先生は(1つの理由として、ミミズと同様に)「蛇が地中を通ることによってできる空気穴が、畑の土にとって良いから」と答えて下さった。一見すると小さな設問に思えても、根っこの部分では必ず大きい「農耕民族」「村社会」といったキーワードに通じる設定は、非常に分かりやすく、また理由を考える過程も興味を持って楽しめるものだった。
 後者は「主語を明確に置く」「むやみに倒置法やthat構文は使わないほうがよい」など、特にネイティブに対しての英会話、作文の実践に即役立つ知識を与えてくれた。
 他にも『日英言語文化論考』から日本人の「甘え」の文化(これにも村社会が関係している)や、米国の「神の目」についての意識、日米での「謙遜」の捉え方の違いなど、学んだことは数え切れない。
 その中でも前述した二点を特に採り上げたのは、それらが私の将来に役立つと感じたからである。『英語表現法の学習と実践』の演習は英語の操り方、つまり「ハード」として私を助けてくれるだろう。「日本の持つ村社会」という知識は、外国人とのコミュニケーションの中で、その内容を豊かにしてくれる「ソフト」として私の糧になっていくと感じている。日本は世界を見渡しても、特殊な面が多い国である。それゆえに、外国人が誤解したり、理解に苦しむ場面もある。そんな時に、私はこの授業で学んだ内容を元に、自分の言葉で、彼ら外国人に正しく「日本」を理解してもらいたい。それは私が、世界へはばたく個々人が、このような行動、対話を繰り返していくことが、国際社会の中で日本がより信頼されることにも通じていると考えているからである。

Bまとめに代えて―我が国の英語教育への提言

 現在、私は現在学ぶ立場の者であると同時に、家庭教師として英語を教える立場にも立っている。それらの体験を通じて最も強く感じたことは、「『日本語力』がない人は、『英語の力』もつかない」ということだ。ここでいう「日本語力」とは「正しく日本語を使える」「日本語で自分の言いたいことを的確に表現できる」「語彙の多さ」などを指す。今日、小学校時からの英語教育が議論されている。私は、外国語の学習は、母国語を使いこなす力の基礎を、しっかり構築してからが望ましいと考える。そのためにはきれいな日本語で書かれた小説の音読であるとか、実際に作文を多く重ね、自分で文章を構築する経験が不可欠ではないか。「いい日本語」に触れる機会をまず増やすべきだと思う。
 第二に、文法学習と並行して、その言語(ここでは英語になるが)を母国語にする人々の文化的、歴史的背景も深く学ぶべきである。英語を例に挙げるならば、現在我が国とは切っても切れない関係にある米国について。もちろん日本の「村社会」という背景をはじめ、自国の文化、歴史も学習することになる。なぜなら、そうしなければ比較ができないからだ。私がこう考えた理由は、国際社会において、「日本人」というアイデンティティのもと活躍するのならば、外国人が興味を持っているであろう我々の「考え方、価値観」「文化」を説明できなければならないという観点からである。いくらビジネス英語ができても、英語というコミュニケーションツールを手に入れても、発信するべき「内容」がおそまつではいけない。
 またこのように語学をきっかけに、歴史や文化、宗教など生徒の興味範囲が広がる可能性も秘めている。事実私は、この授業を通じてもっと米国の「宗教観」を知りたいと興味を持った。
 最後に、英語の基礎文法を習得した後の学習についてである。複雑な文章の演習もいいが、同時に、山岸先生が行っているような「簡潔でネイティブがすんなりと理解できる構文学習」を是非とり入れるべきである。以前、TOEFL対策に覚えた英語の諺が、実際のネイティブには通じなかったという話を聞いた。この話も含め、大学受験など日本の英語教育は重箱の隅をつつくようなスタイルが多すぎるのではないか。単語量は多いのに実際に話せない人が多いのもそこに根源があるように感じる。実際の社会の中では、すべての人が翻訳をするわけではない。仕事に英語を使わない人もいる。大学や高校に進学しない人もいる。そのような人々も英語に苦手意識を持つことなく「伝えられる」「コミュニケーションできる」ようにすることが、最も優先される英語教育の目的ではないだろうか。全てとは言わないが、中学までの文法でも「伝えることができる」ことを私はもっと多くの人に知ってもらいたい。以上の三点を現在の私の提言としたい。(30359175 成田真一)