18. 涙ではなく、笑みのこぼれる英語教育を


 昨日(平成15年1月28日)のことである。大学での仕事を終えて帰宅しようとしていた私のところに、女子学生の一人(4年次生)がやって来た。聞けば、先日行なった私の期末試験ではほとんど解答できず、後期の出席日数も大幅に足りなかったために単位を落とし、卒業できないだろうと言う。急ぎ帰宅しなければならない理由もあったが、彼女の深刻な顔付きを見れば、つい“親心”が出て、肩に掛けていた鞄を下ろした。最初の説明では、体調を崩していたということであった。しかし、どう見ても体調が悪いようには見えなかった。そこで詳細を聞いた。以下がそのまとめである。

彼女は昨年1年間、明海大学の海外姉妹校の某大学に留学していた。そこでの人々の温かさ、友好的[協力的]態度、親切心などに痛く感動した。先生も、友人たちも、とにかく素晴らしかった。ところが帰国して見ると、周りの日本人の冷淡さ、非友好的[協力的]態度、不親切などがひどく気になり出した。同胞への嫌悪感さえ芽生えてきた。そのうち、大学に来ること自体が嫌になった。私の「対照言語研究」の講義を興味深いと思いながら数回出席したが、すでに抱き始めていた日本人への嫌悪感のほうが勝って、他の授業と同様に受講を中止し、自宅に籠もりがちになってしまった。先週から始まった期末試験だけは受けたが、どの科目も悲惨な結果であった。他の担当教授数名の研究室を訪れて、体調を崩していたことを説明したが、どの教授からも「そうは見えないが」と言われたとのこと。

 この学生のような症状は海外留学をして来た学生に時折見られるものである。そこで私は次のような話をした。
  確かに、英語圏の人々には、日本人にない素晴らしい一面がある。しかし、逆もまた真なりで、日本人は彼らにない日本(人)的素晴らしさをふんだんに持っている。要するに、対人関係における考え方や表現方法が異なるのである。あなたは、あなたが留学した国を“鏡”として、その中に“日本人”つまり“自分自身”を見たのではないか。あなたが言う“日本人の嫌らしさ”は、“あなた自身の嫌らしさ”だとは考えられないか。あなたが“素晴らしい”と絶賛するその国で国籍を取得して永住したところで、あなたが“日本人”であることには変わりはないし、あなたの“日本人としてのDNA”はあなたの体内に宿り続ける。そうである以上、あなたがその国に永住して、日本人に対する嫌悪感を露わにし、日本人を誹謗中傷するとしたら、あなたは尊敬の対象と言うよりも、嫌悪・軽蔑の対象となるのではないか。日本人や日本文化のどこが素晴らしいのか、国際社会において日本人のどこが閉鎖的で改善を要するところなのか等々を理解する力、換言すれば、物事全てに言えるように、その“長短”両方を、その“二面性”のいずれをも知ろうとするバランス感覚が今のあなたには欠けているのではないか。
 あなたに単位を与えられない理由が4つある。1つ目は、すでに大学側に学年末成績を提出してしまっており、その変更は容易ではなく、もし変更するとすればそれ相応の止むを得ない事由が必要であること、2つ目は、あなたのように申し出た学生だけに便宜を図ったり特別措置を講じたりすることは、そうしない他の学生たちに対する不公平な処置となること、3つ目として、履修要綱に明記してあった出席率・授業貢献度・期末成績により総合判断することが自然であり、先に大学に提出した成績はそれにしたがったものであること、4つ目として、他の国の言語文化のみを賞賛し、自国の人々やその文化を悪く言う学生に単位を出すことは、“対照言語研究”という私の担当科目の性質から言っても好ましいことではないこと、このように説明した。
 だからあなたは、今、各先生に“頼み込んで”単位をもらおうなどとは思わないで、私が言ったような点、つまり、あなたが留学した国と、あなたの祖国である日本との長短[両面]を客観的に見られるようになってから卒業するのが、将来のあなたのためになることである。今は私の学生時代とは異なり、9月卒業が可能である。長い人生からみれば、半年間の卒業延期などまったく問題にならない。自分の心の健康を保ち、自分を育んでくれた日本や、その国民や、周囲の明海大学生の温かさ、友情、親切心に真に触れる努力を最低でも半年間してみなさい。あなたは大学から選ばれて1年間の海外留学を果たしたほどの優秀な学生である。私ができる限りの応援をする。ここに私のゼミ生諸君が書いた「山岸ゼミ修了感想文」があるので、これを読んでみなさい。あなたと同じように、あるいはあなた以上に悩み苦しんだ明海大生たちが私のゼミで精進した結果を書いているから、それを読んでみると良い。大いに力づけられると思う。また、勉強することの意義を知りたければ、私のホームページにある「英語教育論考」欄の「魅力ある大学英語授業の創造」()を読んでごらんなさい。性急に卒業しようという気持ちを反省するのではないかと思う。他人よりも卒業が遅れるなどと考える必要はない。自分の人生は他人と比較すべきものではない。今年の自分は昨年の自分よりもどれだけ成長できたか、今年の自分よりも来年の自分はどれだけ成長できるかというように考えて自分を磨くことこそが大事であり、意味のあることである。仮に全ての先生方が“同情点”を下さってあなたが卒業できたからと言って、今の精神状態のままで卒業するのはあなたのためにはならないと思う。本当に学んで卒業することにはならないのだから。私はそう言って彼女を諭した。彼女はうつむいて、肩をゆすって泣いていた。とめどなく流れる涙が彼女の苦しみや悩みの深さを示していた。最後に私は、彼女に、上記「山岸ゼミ修了感想文」と「魅力ある大学英語授業の創造」とを熟読してからもう一度相談に来なさいと繰り返して言った。彼女はそうしますと言いながら、私の研究室をあとにした。1時間半が経過していた。

 このような学生に出会うことが最近とみに多くなった。私のゼミ生が書いた感想文を読むだけでも、いかに日本人英語学習者が自国と自国の文化を嫌悪しているかが分かるであろう。非常勤講師として出講している慶應義塾大学、関東学院大学でも同様である(これまでに教えた非常勤校でも同様であった)。とにかく、あまりにも多くの日本人英語学習者が、自国の言語文化の素晴らしさを知らず、知らされず、知ろうともしないで今日に至っている。これは由々しき問題である。小学校の英語教育も始まっている。それが中途半端な“国際人養成”のための手段にならなければ良いが。足が地に着かない教育に終わらなければ良いが。私には我が国の今の英語教育には国民の心を蝕む何かが混在しているように思えてならない。

 ちょうどここまで書いて来たところだった(1月29日11:00AM)。同僚の外国人教師のXさんから電話が掛かってきた。上記の学生に関して、何とか単位を考慮してもらえないかということであった。同氏のクラスへの出席率は6割以上であり、期末試験もAに近いBであったらしい。そこで私は前述のことを順序立てて説明した。彼女があなたの授業に6割以上も出席したのは、おそらく、あなたが外国人教師だったからだと思う。彼女は今、明らかに“外国(人)コンプレックス”に罹っている。この病気が治らないうちに単位を与えて、卒業させるつもりはないし、それは彼女のためにもならない。第一、彼女とは昨夕じっくりと話をしたばかりで、私の言うことを納得してくれて帰宅したのである。私は「訓導して厳(げん)ならざるは師の惰(おこた)りなり」という古い言葉に価値を見出す者である。したがって、現在の彼女に単位を与えるつもりはないし、彼女が望めば、私が今後の面倒を見て上げても良いと考えていると応えた。同氏は、あなたの考え方はとても立派だ、私は余計なことを言ってしまった、許して欲しい、そう言って納得した上で電話を切った。

 日本人に対して施す外国語教育は、まず「言語文化に優劣はない」ということを教えることから始めるべきである。彼我(ひが)の言語にも文化にも優劣などないのである。教師や大人たちが、どちらか(普通は英語圏文化)が素晴らしいという誤った考え方や感じ方を持って子供たちに接するから、彼らも偏向した考え方や感じ方を持った成長の仕方をするのである。上記の女子学生のような英語学習者があまりにも多い現実を私は嫌と言うほど見て来ている。英語を学ぶことを通じて、英語文化のみならず、日本語文化にも敬意を払い、互いを尊重するような、そういう姿勢を養成していくべきである。そのような教育を施すためには、一人一人の教師が彼我の言語文化を知るための自己研鑽を怠ってはならない。教師は一人一人の学習者の人生に関わる仕事をしているという意識と責任感とを併せ持って教壇に立つ必要がある。少なくとも私はそう考える。
 私の研究室で肩をゆすって泣いた学生たちはいったい何人にのぼるだろう。そうした自己[自国]嫌悪に陥った学生がいるうちは、この国の英語教育は真に成功しているとは言えないであろう。教授法は教師の数だけあっても良い。しかし、そのいずれも学習者の心を豊かにするものであるべきである。自国の言語文化を嫌悪し、外国の言語文化だけを賛美するような教育だけは施すべきではない。最後に、慶應義塾大学法学部2年生の某君が、今月提出してくれた「この授業から学んだこと」に書いている一文を引用しておく。

私は先生が自国の言語文化に対する内省の必要性を強く訴えていらしたのをとても印象深く覚えています。私自身常に考えていたことですが、日本人は戦後自分の国のことに批判的で西欧に憧れるばかりでした。原因は日本人が日本のことに無知であったこと、そしてそれを教える教育も行われていなかったことです。しかし先生は外国人の質問に解答していく中で今まで私が考えたことのない日本人の心の深さ、西洋に誇るべき伝統について教えてくださいました。例えばすべての物に魂が宿るというアニミズムの精神、自我を完全に捨てて他人に尽くす博愛的な無私の境地、そして自分がへりくだり相手を立てる謙遜の精神などです。そして西洋と比較して今まで負の意味しか与えられていなかった日本人の集団主義、同質性が農耕のための共同生活という伝統的な日本の生活様式の中から形成されたものだと知ったとき、もうこれからはそのことを否定的に考えようとは思わずにむしろ日本の個性ある文化の遺産だと欧米に堂々と誇れるのではないかと心から思いました。 また欧米の文化の基底をなしているキリスト教の考え方を学べたことも大きな財産です。私はカトリック系の中学・高校に通っていたのでキリスト教については少し知識があるつもりでしたが、その思想が欧米人の日常生活や言語文化にどれだけ大きな影響を与えていたのかは講義を受けて初めて知りました。人間は神の似姿として創造された尊いものであるから自分を卑下せずに強く自分の長所をアピールすることがありますが、それは彼らの宗教的背景を知らなければ単なる傲慢と日本人の目には映るでしょう。また彼らのsincerityは日本人のように相手を思いやって何か言うことでなく、神にうそをつくことなく真実を知らせることだということも学びました。このようにそれぞれの言語は異なる文化的背景からできたものであるからコミュニケーションをする相手の文化を知らないとたとえ文法が完璧であっても伝えたいことが伝わらないばかりではなく大きな誤解を招くことさえあるのです。そのことに気づかせてくださり、さらに日本の尊い文化を教えてくださった先生には本当に感謝しています。私の英語学習の恩師であるといってもまったく過言ありません。

 私がこれまで信じて行なってきた英語教育は、上記の学生が書いていることから判断できるように、自他の言語文化を冷静に見つめ、良きところを学び、悪しきところを改善していくことによって、自らの言語文化をいっそう富ませることに繋げようとするものである。「涙ではなく、笑みのこぼれる英語教育を。」 これはやさしいことのように思えて、なかなか難しいことではあるが、教職に身を置く者の一人として、常に自らに言い聞かせていることである。(平成15年[2003年]1月29日記す)