12. 英語教育に新しい視座を



  私が英語を教わったころもそうであったが、わが国では今でも、「それはジャパニーズ・イングリッシュの例で、英米人には通じない」「英語を学ぶときには英語で考えなければいけない」といった、英語国民の側に視座を据えたと思われる人々の発言が多い。もちろん、それらの発言は間違っているとは言えない。しかし、教授者たちがこのような視点で英語学習に関する発言を続けるかぎり、学習者たちは英語コンプレックスから永久に解放され得ないのではないかと思う。
  最近よく、「発信型英語」という言い方がなされ、その言わんとするところは人によって少しずつ異なるようであるが、私としては、その精神は何よりも 「下手な英語でもよい、間違った英語でもよい、とにかく、英語を使って、自分の伝え得るものを伝えたい」という強い欲求でありたいと思う。
  英語はいまや完全に「脱英米化」を果たしており、世界の共有財産となっている(ただし、かつてはそれが「支配者の言語」であった事実だけは知っておきたい)。英語は、いってみれば、二十一世紀に開けた天空に高く打ち上げられた通信衛星「英語号」そのものである。世界で最も通用度の高い言語の一つを搭載した、この「英語号」を媒体として、われわれは他国の人々と万物の共生と共存のために、真剣に語り合わなければならない。 
  そのような時代が到来している現在、日本人が英米志向の英語教育・英語学習に傾倒しすぎることは、むしろ不得策である(ただし、通用度の高い「標準イギリス英語」あるいは「標準アメリカ英語」を一つの学習モデルとすることは何ら差し支えない)。
  日本人が英語教育・英語学習の視座を英語国、とりわけ英米側に据え続けるかぎり、「おにぎり」「おかず」は今後とも“rice ball” “side dish”と訳出されるであろうし、日本人はそれらを適訳だと思うであろう。また、「憎まれっ子、世にはばかる」「船頭多くして、船、山に上る」ということわざも、いつまでも、“Ill weeds grow apace [fast].” “Too many cooks spoil the broth.”と西洋的に訳出されるであろう。
  ところが、視座を自分たちの足元、すなわち日本に据えれば、前掲の日本語は、それぞれ、“onigiri” “okazu”と訳し得ることに気づき、二つのことわざも、それぞれ、“Hated children grow vigorously.” “When there are too many boatmen, the boat goes up a mountain.”と直訳できることを知るであろう。「おにぎり」「おかず」のような日本的なものは、やはり“onigiri” “okazu”であるのが望ましいのであり、一般的に知られている“rice ball” “side dish”は、どこまで行っても、結局は“借りもの” “まがいもの”でしかあり得ないのである。
  日本のことわざについて付言するが、私が平素(とりわけ和英辞典に関連して)直訳併記・併述の必要性を説いているのは、日本のことわざには、日本文化の中で長い年月をかけて熟成された「日本(人)の心」がこもっていると信じるからである。これからの学習には、日本のことわざから西洋のそれを直線的に思い出すだけではなく、ことわざの直訳を試みることによって、その心も伝えられるようになってもらいたいと思う。「日本人は、こういう思いや教訓をこのことわざにこめているのですよ」ということをきちんと言えるようになってはじめて、われわれの英語は“一人前”になったといえるのではなかろうか。西洋のことわざだけを覚えて、それで事足れりとしているうちは、本当には「日本(人)の心」は語れないのではないだろうか。そういう思いから、私は、直訳も大事だと言ってきているのである。
  日本人が異文化を学ぶことは、地球時代の今日、きわめて大事なことである。しかし、外国人にも、「英語号」を媒体として、日本文化や日本の思考法を学んで欲しいと思う。それでこそ、真に公平というものであろう。

【本稿は ジャパンタイムズ出版 PR 誌 CUE (Nov./ Dec. 1990;No. 40) に寄稿したものですが、今日に至るも個人的理念は全く変化していませんので再録しました】