14 人として、学者として―原口庄輔先生を偲ぶ
                               山岸 勝榮



 
原口庄輔というお名前を初めて拝見したのは、
1973[昭和48]年発行の「英語展望」誌(No.40)の書評欄においてであった。同欄で金口儀明著『英語冠詞活用辞典』(大修館書店)を採り上げ、極めて厳しい書評をなさっておられた。「怖そうな人だな。」というのが、その時の偽らざる私の印象だった。

 しばらくして、当時、明治学院大学におられた郡司利男先生(故人)のご紹介で原口先生にお目に掛かった。第一印象は「優しそうな人」というものだった。その後、郡司先生に顧問をお願いしていた「ふじみの会」に原口先生も加わられ定期的にご一緒することになった。「こびあん」誌(こびあん書房刊)第1号では、原口愚常というペンネームで、MIT時代の思い出を書いておられた。

 年齢的には原口先生は私よりも1歳上である。だが、私には今もって原口先生としかお呼びできない。それほど生前には様々なことを教えていただいた。

 私が英語辞書学で博士号を申請したいと申し上げると、「是非、筑波大学で出したいのですが、実は私は山岸さんのおられる明海大学に行くことになりそうだから、そちらでお世話させてください。」と仰った。そして、それが2004[平成16]3月に実現し、私は明海大学大学院応用言語学研究科の論文博士(乙種)第1号となった。主査は原口先生、副査は小池生夫田部滋の両先生であった。

 原口先生は、誰もが知る如く、いつも笑顔を絶やされることのない方であり、学者としては、これも誰もが知る如く第一級でいらっしゃった。そうした方とこんなにも早く永遠のお別れをすることになるとは夢想だにしなかった。

 「明海大学には山岸さんがいるからというのも、僕が筑波大学から明海大学に行く理由でもあるんですよ。」と言われたあの日が懐かしく思い出される。それから共にレキシコン研究を中心として科研費を申請したり、その分野での書籍を刊行したりと、明海大学では本当にいろいろとお世話になった。

 亡くなる少し前、「そのうち、少し大きな辞書を作りたいと思っていますが、その時は先生、是非ともお力をお貸し下さい。」とお願いすると、「私でよければいつでもお手伝いしますよ。」と笑顔で答えてくださった。「原口庄輔先生、長い間、本当にお世話になりました。立派なお弟子さんをたくさん世に送り出されたことも、先生の大きな誇りですね。」 合掌。(明海大学・同大学院同僚)



本稿は「原口庄輔先生追悼文章」(平成24年12月「原口庄輔先生を偲ぶ会」発起人編)に投稿した文章です。