12 こびあん書房社主・木村欽一さんの想い出

1.  木村さんとの出会いまで

昭和46[1971]初夏、私は明治学院大学言語文化研究所所長を務めておられた郡司利男先生を通じて初めて木村欽一さんにお会いした。それまでの経過を簡単に回顧しておきたい。
 郡司先生には、法政大学文学部英文学科での私の恩師・岡田尚先生にご紹介いただいていた。郡司先生と岡田先生とは、F.モセ著『英語史概説』(開文社、1963)の共訳者として著名なお方であり、お二方とも、当時、小学館『ランダムハウス英和大辞典』(初版;以下『小学館ランダム』)の編集に携わっておられた。岡田先生が私に見せてくださった『小学館ランダム』のゲラに、原典のThe Random House Dictionary of the English Language (以下RDH)を誤読したと思われる個所が数か所見つかったことを私が岡田先生にご報告し、先生が今度は郡司先生にそのことをお話しになっていたことから、「それでは一度、その山岸君とやらに会ってみましょう。」ということになったらしかった。

ある日、私は岡田先生のご指示にしたがい、港区白金台の同研究所に先生をお尋ねした。話は自然に『英語史概説』と『小学館ランダム』とに集中した。当時、私は法政大学大学院博士課程(最近の言い方を用いれば、「博士後期課程」)の3年生であったが、結婚しており、母校・法政大学の第二教養部で非常勤講師も務めていた。『小学館ランダム』の校正刷りに私が原典からの誤読や誤訳を発見したことに言及された先生は、「『小学館ランダム』の仕事を手伝ってくれないか。」と仰って、後日、小学館外国語辞典編集部の樋口信也さん(その後、同部長)に引き合わせてくださった。(その後、『小学館ランダム』のP、Q、R、Sの項目、特にR、Sの2項における記述の正確さの確認と、同項の加除修正を担当した。辞書に本格的に関わり始めた頃のことである。同辞典は昭和48[1973]に初版が出たが、平成6[1994]に出た第2版には私は他辞典の編集作業に多忙であったために全く関わっていない。)

郡司先生にお会いした日、先生はまた、「今、どんなものを読んでいますか。」と私にお尋ねになった。私は、「イギリス英語とアメリカ英語の違いを取り扱ったNorman Moss: What’s the Difference?A British / American Dictionary (Harper & Row;以下What’s the Difference?)を読んでいます。」と申し上げ、常時携帯していた実物をお見せすると、それに大いに興味をお示しになり、「これを翻訳してみてはどうですか。出版社は私が紹介しましょう。」と仰って、すぐその場で、どこかへお電話をなさった。その相手が木村さんだったのである。

 私はその日のうちに文京区小日向の木村邸へと向かった。瀟洒な日本家屋であり、こびあん書房の社屋でもあった(「こびあん」という社名が、郡司先生のお住まいのある「安孫子」を逆読みした、先生ご発案のものであることは後日、先生ご自身から伺った)。
 木村さんがかつて(後出の岩浅時三さんと共に)研究社に勤めておられたこと、観世流の能楽師でおられたことなど、その時、初めてうかがった。穏やかで温かなお人柄に深く感動した。

 当時、こびあん書房の社長は岩浅時三さんが務めておられた。研究社の初代出版部長だった方であり、本造りの名人と言われた方であった。たとえば、大塚高信著『英文法論考』は岩浅さんの手になる一書である。研究社を退かれてからは開文社を創始され、のちに木村さんとこびあん書房を興された。当時の岩浅さんは、甲南大学・枡矢好弘教授の『英語音声学』造りに没頭しておられたと記憶する(同書は昭和51[1976]に上梓された)。岩浅さんはその後、健康を害され、不帰の客となられた。

 前記What’s the Difference? の翻訳権を取得してほしいという話は、すでに郡司先生から木村さんのほうに通じていたので、木村さんとお会いしてからの話の進み具合は大いに速かった。
 ただし、実際には木村さん側の諸事情で、翻訳権取得が成ったのは、それから2年ほど後の昭和50[1975] 2月であった。ちなみに、研究社も翻訳権獲得に努力したようだが、それまでに私が著者のMossさんと何度も手紙のやり取りをしたり、ロンドンで直接面会したりしていたので、結果的には、こびあん書房が翻訳権を勝ち得ることになった

2.木村さんの徹底ぶり

 翻訳権を獲得したのは前記のとおり、昭和50[1975]2月だが、私の翻訳はその頃までには一通り終了していた。その間、木村さんは私の翻訳に全て目を通してくださり、日本語表現としておかしな所、私の勘違い等々を逐一指摘してくださった。

こびあん書房に出入りさせていただくようになってから19年後の平成4[1992]に、私は同じくこびあん書房から『続・現代英米語の諸相』を出していただくことになったが、その跋文を書いてくださったのが、木村さんである。その中に、What’s the Difference?の日本版出版時までのエピソードが記されている。以下にその一部を引用するが、木村さんが書肆・編集者として、いかに誠実に関わってくださったかを伺い知ることができるであろう。

筆者と本格的に関わったのは、15年ほど前になる。ノーマン・モスのWhat’s the Difference?A British / American Dictionary の翻訳出版のおりである。ときに種々生みの苦しみを味わったが、なかでも、日本語訳を創造したことは、いまも忘れがたい。
 魚に関するもので、存在する英・米語から日本語に置き換えようとして、日本語に無い言語のあることに気付いた。四面海に囲まれ、魚との関わりは深いにもかかわらず、魚の胴体の厚さではない幅をいい表す言葉が無いのである。そうなれば、明治時代の先人よろしく新しい翻訳語を創りたいのが人情である。

 
日本では、冬より夏に関する言語が多い。そのことは、俳句歳時記で明らかである。この国では、万物が夏盛んだからだろう。同様のことだが、アラスカに住む原住民は、「あのクマ」が26通り、「雪」についての言い方が20通り以上あるとのことを、平成31220日「毎日新聞」余録で知った。関わりの深さでそうなるのであろう。
 
あげく「背腹丈」という新語をつくりだした。
 
また、graham crackerという米語の訳語を生み出すときのことである。原典の定義には a wholemeal biscuitとあり、筆者(当時は訳編者)の対訳では「全麦で作るビスケット」となっていた。ところが、英語に門外漢の筆者は、日本語の訳文を読むとき、英語にこだわらぬことにするため英語の辞書を引かない。訳文の日本語としての純粋さを失うことを恐れるからである。そこで、「全麦」という訳語の不明瞭さが気になった。当時の英和辞典には(現行の物もそうであるが)、wholemealの訳語としては、確かに「全麦の、全麦で作った(パンなど)」とあった。まだ若い筆者(訳編者)は、英和辞典にある訳語を、そのまま援用されたのであった。
  麦とは、穀物として世界的に主要食糧である、いね科の1、2年生植物。
  
麦打ち 刈り取った麦の穂を落とす
  
麦粉 麦の実を粉にしたもの
  
全麦?

  
全麦の全とは、いったい何を意味するのであろうか。筆者には「全麦」とはやはり耳慣れない、不思議な言葉であった。いまでこそ、graham crackerという名称を見聞きすることも、さほど珍しくなくなったが、当時は訳編者と筆者には、共に、ピンとこない実体であり、訳語であった。所々の製粉所やパン屋に電話をしたり、質問の手紙を認めたりして、いろいろと情報を集め、結果的には「ふすま付きの全粒小麦粉で作るビスケット(a wholemeal biscuit)」という訳語に落ち着いた。わずか一語の訳語に、ずいぶんと苦労したことが、いまはまことに、懐かしく思い出される。と同時に、英和辞典の訳語が今日に至るも、不完全なままであることに、少なからず驚かされている。(3023)

 木村さんとは、この調子で、徹底的に議論・討論をして訳語や説明文を磨いていったが、この作業は私にとっては、生涯の中でもっとも貴重な経験となった。

3.『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』と命名

 前記したとおり、昭和50[1975]2月頃までには上記What’s the Difference?の全訳は一通り終了していた。それを郡司先生にお見せしたところ、「これでは日本人学習者にはもう1つわかりにくいから、解説や説明を必要とするような語句には、できるだけ詳しい解説や説明、また用例を添えてみてはどうですか。」と仰った。
 そこで私は、木村さんにお願いをして、出版を1年先に延ばしていただくことにし、多くの見出し語に、詳しい解説や説明、また用例を添える努力をした。現代のようにインターネットなどない時代である。イギリスやアメリカの風物・習慣などに関しては知らないことのほうが多かった。そうした解説や説明、また用例を添える作業に費やした時間とエネルギーは膨大なものであったが、それだけにその作業が終了した時、私は身長が何センチか伸びたような気がした。書名は郡司先生が『えい・べい語考現学―どこがどう違う?―』と命名してくださった。出版は昭和52[1977] 8月であった。先生は、その直後、「山岸勝榮君を励ます会」を銀座・三笠会館で催してくださった。どちらも、まことにありがたかった。

4.こびあん書房と私の友人・後輩諸氏との関係

 こうして木村さんと私のお付き合いが始まった。それと共に、私の友人・後輩諸氏を木村さんにご紹介することが多くなった。高山信雄(現在・大正大学名誉教授)、遠藤光(現在・実践女子短期大学教授)、吉江正雄(現在・東京成徳大学教授)、山崎千秋(現在・芝浦工業大学教授)、千葉剛(現在・東京農業大学教授)の諸氏がこびあん書房と関係を持つようになった。
 郡司先生のご発案で、同人会が結成された。名称は「富士見同人会」が選ばれた。法政大学関係者が中心であったから、法政大学本部のある千代田区富士見町に因んだものであった。同人誌は「ふじみ」と命名され、昭和54[1979] 3月にその第一号が出ている。「富士見」と「不死身」とを掛けたつもりであった。初代の会長は私だったが、名ばかりの存在で、それを証明するかのように、2年目からは高山さんに引き継がれ、現在までの長きにわたっている。
 こうして、多くの法政人がこびあん書房、すなわち木村さんのお世話になり始めた。その後も参加することになった後輩諸氏を含め、多くの法政人がこびあん書房から専門的な書籍を出版していただくこととなった。

5.『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』裏話

 私はこの一書の発刊によって、多少の知名度を得たようだった。その後、イギリス英語とアメリカ英語に関した原稿執筆依頼が英語雑誌その他から多数舞い込むことになったからである。しかし、本書が世に出るには、木村さんの一大ご決意があった。換言すれば、本書は世に出ていなかったかも知れないのだ。30年以上も前のことで、すでに時効になっていることだから、ここに書いても差支えなかろうと思う。
 木村さんとのお付き合いが始まってから15年ちかく経った頃である。木村さんが私に一通の封書を見せてくださった。それは郡司先生からのもので、「山岸君が近々出そうとしている『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』を今からでも差し止めてほしい」というものだった。文面からは、前出の岡田先生からのご忠言があったことが読み取れた。一言で言えば、「山岸は信用ならない男だ。」ということだった。岡田先生と私との仲は、それまでに相当にこじれていた。理由はどちらの側にもある。どちらが悪いというのでもない(と私は今でも思っている)。要するに、学問に対する考え方、取り組みの姿勢の違いだった。
 
 郡司先生の私への誤解が解けたのは、『えい・べい語考現学』が出て数年後だったようだ。それは、その後、富士見同人会設立をご提案くださったり、長い間、同会顧問として会員をご指導くださったりしたことからもわかるであろう。また、先生が有名なA.ビアス著『悪魔の辞典』をこびあん書房から上梓なさる際、私に原稿を読ませてくださったり、開拓社から大著『なぞ遊び辞典』を上梓なさる際、同書の見出し語に発音記号を付けることをお命じくださったりしたこと、さらに後日、『ニューアンカー和英辞典』(学習研究社)の監修者になってくださったことなどからもわかるであろう。

 
 こびあん書房という名の生みの親であられる郡司先生からの出版差し止め要請があった時、木村さんは迷われることなく、私を選んでくださった。そうした大英断を下してくださった理由を、前記した拙著『続・現代英米語の諸相』への氏の跋文の中に見ることができる。木村さんは次のように書いておられる。
      
  

『えい・べい語考現学』が一つのきっかけと思われるが、それこそ大げさに「世に出るきっかけ」を与えられたとして常々感謝されていて、それも、ご本人だけでなく家族ぐるみであるところがある。また、「能をやらせる」と、言い切れる人は少ない(「木村さんが演能できるだけの売れる本を書きます」と私が大見得を切ったことに言及しておられる。これは結局、私の法螺話に終わった。―山岸注)。素人の遊びとしては、平成の始めのころからは、曲目によって異なりはするが、1番約4百万円を必要とする。体力・気力に限界があるから、そろそろなどと考えているのであるが、そのところが励みとなっているとはすでに述べた。再び持ちだしたのは、執筆者のなかには、自らした約束を破って自ら品位をさげている方がいるなかで、小出版社から13点もの出版物を発行させていただいているなどのことがあって、これなどは十数年の間、お互い良い気分でなくては叶わぬこととしてのものだろう。
 そこで、このように感謝されているという以上に、小生にとっては面映ゆいのである。好い間柄というのが、実は助けられ支えられてきたのであるから、そこに思いをいたす折、ときについて、男でありながら床の浦波を抑えることになる。
(3034)

 人にはそれぞれの立場や考え方があり、ものごとを自分中心に考えるので、往々にして他人を誤解してしまう。私に関する悪評を耳になさりながら、木村さんは常に私を信じてくださった。もったいないことであった。

6.木村さんに出していただいた書籍

『えい・べい語考現学』を皮切りに、私はこびあん書房から次々と単行本を出していただいた。それらを発行年順に列挙すれば、次のようになる。

1.『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』(昭和52[1977])訳編(日本図書館協会選定図書) 
2.『車の英語考現学
ドライバーの英語用例事典』(昭和54年[1979])単著 
3.『アメリカ短編集』(昭和
54年[1979])山崎千秋・千葉剛両氏との共編注 
4.『イギリスの言葉と社会』(昭和
59[1984])単著(日本図書館協会選定図書) 
5.『フォーサイス短編選』(昭和
61[1986]) 編注 
6.『イギリス少数民族史』(昭和
63[1988])日野寿憲氏との共訳 
7.『現代英米語の諸相』(平成元年
[1989])単著 
8.『イミグランツ』(平成元年
[1989])日野寿憲氏との共編注 
9.『アメリカ建国の民
モザイク国家の市民』(平成2[1990])日野寿憲氏との共訳 
10.『日本人と英語
大学英作文の基礎演習』(平成2[1990])単著
11.『米語対照・イギリス口語辞典』(平成
3[1991])訳編(全国学校図書館協議会選定図書) 
12.『世界の主要宗教』(平成4年
[1992])日野寿憲氏との共編注 
13.『続・現代英米語の諸相』(平成4年
[1992])単著 
14.『続々現代英米語の諸相』(平成
5[1993])単著 
15.『日英言語文化論考』(平成
7[1995])単著 
16.『英語表現法の学習と実践』(平成
7[1995])単著 
17.『英語教育と辞書の思想と実践』(平成
10[1998])単著 
18.『学習和英辞典編纂論とその実践』(平成
13[2001])単著

 以上のように、こびあん書房から18点もの多くの出版物を世に送っていただいた。結果的に、こびあん書房関係者では最多の点数の出版物を世に送っていただいた。その間、一度も不愉快な思いをしたことはない(私が木村さんに不快な思いをお掛けしたことは数限りなくあったはずである)。

7.「こびあん」誌の思い出

 昭和53[1978]6月、木村さんは「こびあん」と題する小冊子の第1号を出された(全13頁)。執筆者は郡司外史(郡司利男先生のペンネーム)、赤祖父哲二、斉藤武生、枡矢好弘、原口愚常(原口庄輔先生のペンネーム)、それに私の6名であった。郡司先生は「名を聞くより」、赤祖父先生は「頼れるのは物か、言葉か」、斉藤先生は「筑波の風」、枡矢先生は「霧の学風」、原口先生は「我が青春の一里塚―学位論文と取り組んだ頃」を書かれ、は「語法ノート ― bombFrisco」と題したエッセー風の語法記事を書いた。それがたまたま、学習研究社ソフト開発部の大井光隆氏(後の英語辞書部編集長)のお目に留まり、それがきかっけで、同社刊行の『カラーアンカー英語大事典』(昭和59[1984])でイギリス関係項目のうち、百数十項目を執筆することになり、さらに、それと並行して、同社刊行の『イングリッシュ・ライブラリー/F.フォーサイス・コレクション』(全12巻、別巻1)の監修者として1年間にわたる監修作業を行うこととなった。

木村さんが「こびあん」誌を発行なさらなければ、私が学習研究社と関係ができることもなかったであろうし、関係ができたとしても、それはずっとあとになっていたかも知れない。学習研究社とは、それ以来の長いお付き合いで、『ニューアンカー和英辞典』(平成2[1990])、『スーパー・アンカー英和辞典』(平成9[1997])、『スーパー・アンカー和英辞典』(平成12[2000])、『アンカーコズミカ英和辞典』(平成19[2007])といった英語辞書の編集主幹を務めさせていただいている。これも全て、こびあん書房、すなわち木村さんと、木村さんがお出しになった「こびあん」誌のお陰である。私にとっては、きわめて思いで深く、かつ貴重な小冊子である。


8.学位申請論文としての『学習和英辞典編纂論とその実践』

上記したとおり、私は平成13[2001]『学習和英辞典編纂論とその実践』(A Theory and Its Practice of Compiling Japanese-English Dictionaries for Japanese Learners)をこびあん書房から出していただいた(A5版 ・上製、 定価 4,000円、xiv479 pp)。その1年半ほど前に、木村さんに対し、「近い将来、私は我が国唯一の応用言語学研究科を持つ、私の勤務校に対し、博士の学位を申請しようと考えています。私の和英辞典編纂論考の総まとめのつもりですが、こびあん書房から出していただけないでしょうか。」とお伺いを立てていた。木村さんは当時すでに、難病を患っておられ、入退院を何度か繰り返しておられたために、断ってこられるとばかり思っていた。ところが、意外にも「出しましょう。私の最後の仕事になると思いますが。」と仰り、既に出来上がっていた私の原稿を受け取ってくださった。

出来上がった同書を、明海大学大学院応用言語学研究科に対し、学位請求論文として提出することにしたのだが、新設の大学院の場合、論文博士 (Doctorate by way of Dissertation)の学位申請は、課程博士(Doctorate by way of Advanced Course)を送り出した後に受理するというのが一般的慣行であったから、私は3名の課程博士が出た平成15[2003]3月まで待たなければならなかった。明海大学大学院応用言語学研究科長に対し正式に「学位論文(論文博士)予備審査申請書」を提出したのは平成15年[2003年])の7月7日であった。詳細は省くが、学長・高倉翔先生名で「論文博士学位授与資格判定結果について」と題した最終合格通知をいただいたのは平成16年[2004年]3月9日であった。申請日から8ヶ月が経過していた。

9.木村さんへの学位取得のご報告

 上記のごとく、私は『学習和英辞典編纂論とその実践』によって「博士(応用言語学)」(Ph.D. in Applied Linguistics)の学位を授与された。我が国の大学・大学院が授与した応用言語学分野での論文博士(乙)は私が第1号になった。

 平成16[2004] 41日、私は学位取得のご報告と、長きにわたるご厚情・ご指導に謝意を表するために、木村さんのお宅にうかがった。小康を得られた時だったのか、木村さんはややご気分もよいようであった。私の学位取得をことのほか喜んでくださり、学位記をコピーなさり、私との記念写真におさまってくださった。

 「先生とは長いお付き合いでしたが、ほんとうによくおやりになりましたね。学位のご取得までお手伝いできて、私もほんとうに光栄でした。」

 それが木村さんが私に寄せてくださった最後のお言葉になった。
 
 校務もさることながら、辞書編纂作業に忙殺されており、満足に眠る暇もないほど多忙な毎日を送っていたことを身勝手な理由にして、その後のお見舞いを欠いてしまったことを、今はただ申し訳なく思っている。

 何度言っても言い足りないが、木村欽一さんがおられなければ、私という人間は英語の世界には存在しなかった。36年という長いお付き合いであった。木村さんに対し、ここに謹んで哀悼の意を表する。合掌。(本稿は富士見言語・文化研究会誌「ふじみ」第28号「木村欽一氏追悼号」に掲載されたものの転載である。)