4 声を掛け合うということ



  どうしたのでしょう、最近の大人たちは。 どこか変です。日常的挨拶が交わせない人が増えているようなのです。近所の人に朝の挨拶をします。「おはようございます。」 「…」(ピョコンと頭だけを下げます) 昼の挨拶をします。「こんにちは。」「…」(ピョコンと頭だけを下げます) 夕方の挨拶をします。「こんばんは。」「…」(ピョコンと頭だけを下げます) もちろん、きちんとした返礼をなさる方も少なくないのですが、声を発しない方も少なくないのです。いえ、そちらのほうが多いような気さえします。それと、話し掛けている私に視線を向ける人が少ないのも気になります。

  対面の時でさえこんな状態です。人(たとえば、おもての植木に水をやっている人)の背後を通り過ぎるような場合には、さらによそよそしく、冷たい感じがします。人の背後を、何も言わずに、そそくさと通り過ぎる人がじつに多いのです。近所の人であれば、(たとえ背後からでも)普通は、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」のような言葉を掛けるのがマナーではないでしょうか。

  私の子供の頃は、田畑での労働に精を出している人は言うに及ばず、何かに一生懸命になっている人の周囲を通り掛った場合、まず間違いなく、人は(たとえ近隣の人でなくとも)「ご精が出ますね」とその人(たち)に声を掛けていました。挨拶言葉は地方によって(方言がありますから)異なるでしょうが、このような挨拶の仕方は全国的なものであったと思います。声を掛けられた方も、「はい、(ありがとうございます)ちょっとでも手を抜くと、雑草がはびこるものですから。」とか、「はい、いいお天気が続きますね。」などと返答をすることが多かったように記憶します。

  私は、挨拶がきちんとできるかできないかで、その人の「社会性(社交性)」が計れるのではないかと思っています。挨拶は日常生活の潤滑油ですから、この油が不足すると、人間関係がギクシャクすることになります。人は言うかも知れません。「あなたに挨拶をしない人は、それをもって、あなたが嫌いだということの意思表示をしているのかも知れませんよ」と。しかし、私は思うのです。挨拶というものは、自分の好悪感に従って交わすか否かを決定するという類いのものではなく、社会生活を営む人間同士が、少しでも良い人間関係を保ち、居心地の良い町内・地域・職場などを創造していくための最低限の潤滑油だと捉えて交わすべきものではなかろうか、と。自分の好悪感に従ってのみ挨拶を交わすか否かを決めるというのでは、私たちの町内・地域・職場などは、ひどく息苦しく、居心地の悪い場所になるだけだと思うのです。

  私はどちらかと言えば、人の好き嫌いがはっきりした人間だと思います。したがって、できれば嫌いな人の顔は見たくありませんし、できれば声を掛けたくもありません。そういう自分であることに気付いていますから、むしろ逆に、平素、周辺の人たちに対して、努めて声を掛けるようにしています。私を嫌っているらしい人に声を掛けると、たいていは驚いたような反応や迷惑に感じているような反応を示されます。それでも、私は、前記したように、挨拶を 「日常生活の潤滑油」 だと捉えていますから、私が身を置く環境を少しでも居心地良くするために、私のほうから積極的に声を掛けるようにしています。そして、これが何よりも大事な点ですが、私は教育職に身を置く人間です。であれば、自分の性格をよく分析し、その負の部分はできるだけ押さえたり、改善したりして行く義務を負っていると思います。若い学生諸君の将来に少しでも多く良い影響を与えられるよう、自己改善と自己研鑚を怠らないようにしなければならないとも思っています。我が国の最大の宝と言えば、何よりも日本人、とりわけ私よりも若い世代の人々です。「人的財産」の重要性を、教師である私はしっかりと認識していなければならないと思います。そのようなわけで、私は人とはできるだけ気楽に声を掛け合いたいと思っています。最低限の社会的潤滑油は差し合う必要があります。それが、お互いの身の置き場所を少しでも快適にしてくれるはずですから。

  インターネット上の「チャット・コーナー」や「掲示板」で、それも匿名でなら、言いたいことが言えるというのでは、淋し過ぎるように思うのです。社会的動物としての人間の素晴らしさは、やはり、人と面と向って言葉や意思を交わすところにあるように思います。いえ、人間は本来そのようなことが出来るように創られた社会的動物なのではないでしょうか。陽光の下で、直接出会った場所で、もっと声を掛け合いたいものです。