T.日本人と日本文化をより豊かにするために 
     −英語文化の基本的習慣を応用する−

1.はじめに 
 とりわけ明治以降、日本人は欧米の事物・思想・思考方法などの影響を受けて来ました。それによって、日本人と日本とが、さまざまな意味において豊かになってきたことは事実です。新世紀には、国際化の波はさらに大きな門戸の開放を我が国に要求するでしょう。ともすれば、おたがいに「以心伝心」を要求する日本人社会に、英語文化が持つ、良い意味での「自己主張的精神」を根付かせ、違和感のないほどに日本人社会に浸透させて、日本人と日本とをより豊かな国民・国家にする、その“一木一石”にでもなりたいというのが、一英語教師としての私の願いです。換言すれば、他国民を不快にも不幸にもせずに、日本の国民と国家とがより幸せになる一方法を、英語文化の基本的生活習慣を応用することによって具体的に提案したいと思っています。以下にその具体論を展開してみます。

2.「英語文化の基本的生活習慣」の定義
 これは、「英語文化圏に生活する人々が、生活の中でいつも繰り返して行っていること」、もしくは 「英語文化圏に生活する人々が普通のこととして行なっている生活上の様式」と定義しておきます。便宜上、「習慣」 を 「言語習慣」 と 「生活習慣」とに分けて考えます。

3.日本の学校や社会に根付かせたい英語文化圏の基本的生活習慣

A.言語習慣:教師と生徒の人間的平等性を反映した言語表現の応用

a) How can I help (you) ? / What can I do for you? という表現とその発想法に学びたい。
 
日本人社会は昔ほどではないにせよ、今でも 「縦社会」 です。学校においては、教師が “上” の存在で、生徒や学生が “下” の存在です。別の表現を用いれば、教師が “目上” で、生徒や学生が “目下” です (ちなみに、日本語には “目中” という表現はありません)。しかし、英語圏の学校を参観して、そこでの英語を聞いていますと、「人間的平等性」 が浸透していることを感じることが少なくありません。たとえば、

 Student: Excuse me, I don't want to interrupt you...
 Teacher: No, no. It's all right. How can I help (you)? /What can I do for you?

というような対話における教師の反応にそのことが言えます。How can I help (you) ? 【How can I be of help?でも良いと思います】にせよ、What can I do for you? にせよ、直訳すれば、それぞれ 「どのような手伝いができますか」「あなたのために何ができますか」のようになります。おそらく多くの英語学習者はこれらの表現から、商店やデパートなどの (「いらっしゃいませ」に相当する)店員の反応を思い出すのではないでしょうか。日本人教師の場合、生徒や学生が 「すみません、お話し中…」 と言えばおそらく、「いやいい(です)よ、何 [何ですか]?」と反応するように思います。「いやいい(です)よ。どんな手助けができるかな[どんなことができるでしょう]?」 などとは反応しないでしょう。
 これらの日英差は単なる言語表現の表面的相違では片付けられません。前述の通り、この英語表現は 「人間的平等性」 の表出したものと考えられます。日本人英語教師はこのような点を心得て、オーラルコミュニケーション教育に尽力すると良いと思います。口癖になってしまうまで、このような英語表現を用いていれば、日本人の日常的言語表現や発想法にも好影響を及ぼして行くことが十二分に考えられます。

b) I'm very happy to have you in my class. という表現とその発想法に学びたい。
 英語圏の教師が生徒・学生たちに関わっている際に用いる表現で、日本語社会に根付かせたい発想だと思われるものの一つがこれです。直訳しますと、「あなた[きみ] (たち)が私のクラスにいてくれてとても幸せ[嬉しい]ですよ」ということになります。生徒・学生の人格を重んじ、人間的平等性を具体化しようとする学校生活であれば、教師にとって、このような言葉は自然に出て来るもののような気がします。私は、日本人教師が、英語の授業の開始時・進行中・終了時のいずれの折りにでも、生徒・学生たちに向かって、I'm very happy to have you in my class.と普通に言えるようになることを願っています。
 ちなみに、私の敬愛する Leo G. Perkins 明海大学名誉教授は、現役時代に、新入生オリエンテーションでの教員紹介の際、毎年、新入生に向かって “You are the reason we are here.”と言っておられました。平易でいて、内容のある素晴らしい言葉だと思います。今では私が学生諸君に向かっていつも言うように心掛けています。

c) 喜びと誇りを持つことに学びたい。
 謙譲表現はどの言語の使用者でも用いるでしょう。しかし、日本人はともすると(少なくとも現代的観点からは)行き過ぎと思えるほどの謙譲表現を用いるように思います。たとえば、「娘さん、ロンドン大学に留学なさるそうですね。優秀なお子さんですね」と言われれば、日本人の親の多くは、おそらく、「いいえ、いいえ、いつまでも親掛かりで困ります」 「さあ、どうなるんでしょうか。うまく行ってくれるといいんですが」などと謙遜した言い方をするのではないでしょうか。「ありがとうございます。自慢の娘です」「ええ、娘を誇りに思っています」というような言い方は、普通は、しないでしょう。
 英語でも、身内の者を “過度に”賞讃するのは一般的ではないようですが、たいていの英語圏人は日本人ほどには謙遜しないと思います。
そこで次のような対話が成り立ちます。

 X: I'm told your daughter's going to London University to study. It's wonderful.
 Y: Thank you. I'm proud of her.
 X: 娘さん、ロンドン大学に留学なさるそうですが、素晴らしいですね。
 Y: ありがとうございます。誇りに思っています。

 ただし、こう反応したあとで、But your daughter is far sharper. (でも、お宅の娘さんのほうがもっと聡明でいらっしゃる)というような謙譲表現を付加することは普通だと思います。
 新築の家に招待されたような場合でも、日本人は 「素敵なご新居ですね」 と言って褒められれば、たとえば、「いいえ、いいえ、安普請ですよ」「借金でようやく建てました」などと、どちらかと言えば謙譲表現を用いて反応することが多いでしょう。一方、英語では、

 X: You have such a beautiful new house.
 Y: Thank you. I like it.
 X: 素敵なご新居ですね。
 Y: ありがとうございます。気に入っています。

のような反応が普通だと思います。このように言ってから、But your house is much nicer. (でも、お宅のほうがもっと素敵ですよ)のような謙譲表現を付け加えることはあると思います。また、人によっては、Oh, thanks, but it's really nothing great. (あ、どうも。でも全然たいしたことないですよ)のように言って謙譲を表すことがあると思います。日本人が上の対話で示したような英語表現を使用する場合、それは英語的発想になっていると言えましょう。そして、それは人間的に正直だと思いますし、今後の日本人がいっそう真似て良いものだとも思います。日本人が、自分の側を低めて、相手の側を高めた言い方をするのは、かつての日本人社会が各人に要求した社会的規範だと思いますが、言語表現の変化もまた、時代の変化と共起する必然ですから、新世紀には新世紀の発想と表現があって良いと思います。その意味において、英語文化で培われた発想や表現の中には、日本人社会に応用できるものがいくらでもあるはずです。ここに外国語学習をする意義の1つが見出せます。

d) 平等の精神に学びたい。  
 日本の商店やデパートなどでは、店員が客に品物を手渡しながらあるいは手渡してから、「ありがとうございました」と言うとき、それに何らかの言葉を返す客はごく少ないでしょう。レストランなどでも、「ありがとうございました。またお越しください(ませ)」と店員が言ったのに対して、「ありがとう。また、来ますよ」と応対する人は例外的だと思います。これに対して、英語では次のようにな反応は普通だと思われます。

 X: Thank you very much, sir [madam]. Please come again.
 Y: 〈Thank you,) I will. / I will. (Everything was so delicious.) / I [We] enjoyed the meal.
 X: どうもありがとうございました。また、お越しください(ませ)。
 Y: (ありがとう)そうするよ。 / そうするよ。 (どれもとてもおいしかったよ) / おいしくいただいたよ。

 日本人の反応よりも言葉数が多いと言えると思います。日本人の反応が鈍い理由の一つは、おそらく、「店員 [店] よりも客のほうが“格が上”だ」という考え方がどこかに潜んでいるからでしょう。似たような考え方は、本社と支社の関係でも観察されます。日本の社会では、同じ課長でも、本社の課長のほうが支社の課長よりも“格が上”だと考えられる傾向にあります。したがって、支社の課長の言葉遣いのほうが、本社の課長のそれよりもはるかに丁寧になる傾向があります。しかし、英語ではその点はほとんど観察されません。人間的平等性が浸透しているからでしょう。

B.生活習慣

a) 同行の人を紹介することに学びたい。
 日本人は道で知り合いに出会った場合、同行している人を相手に紹介することは比較的まれのようです。同行者がほかの人よりも年少の場合には、なおさらです。この場合、英語文化圏の人たちを観察していますと、たとえば、次のような対話をしていることに気付かされます。

 Mark: Hello, John. How have you been?
 John: Just fine, thank you. How are you?
 Mark: Oh, reasonably well.
 John: Mark, I'd like to introduce Paul Smith.
 Mark: Nice to meet you.
 Paul : Nice to meet you, too. I've heard a lot about you.
 Mark: やあ、ジョン。どうしてた?
 John: ああ、ありがと、元気だったよ。君は?
 Mark: うん、かなり調子いいよ。
 John: マーク、ポール・スミス君を紹介するよ。
 Mark: 初めまして。
 Paul : 初めまして。お噂はかねがねうかがってます。

 日本人の場合、同行者がそばにいても、当人はそのままにしておいて、知り合い同士が挨拶を交わすだけのことが多いように思います。英語圏に普通のこの紹介方法は日本人がもっと日本社会に根付かせて良いものだと思います。

b) 英語圏のパーティー方式に学びたい。
 日本人の宴会は多くの場合、着席型である上、出席者は一度着席してしまうと、動き回るということをほとんどしません(部下が上司に、幹事が出席者に、それぞれ酌をして回るような場合は別です)。この日本的習慣が西洋式のパーティーにも持ち込まれ、西洋式のパーティー会場では、知り合い・同業者・同県人・同窓生など、社会的密接度の高い人々で寄り集まる傾向が強く出てしまいます。会場の壁際に椅子が用意されている場合には、知り合い同士で料理や飲み物を持ってそれらの椅子に腰を掛けるということもごく普通です。
 しかし、この日本的傾向ですと、未知の人との “新しい交流” を始める機会が持てないか、持てたとしてもきわめて少ないでしょう。ある出席者が自分の友人(たち)を別の出席者(たち)に紹介し、また別の出席者が自分の友人(たち)をさらに別の出席者(たち)に紹介していくようにすれば、1つのパーティーに出席することで、今までになかった新しい人間関係が生まれるという素晴らしさがあります。日本の “宴会” と西洋の “party” とではその目的が異なりますが、西洋のこのような “人の輪の広げ方” は日本人社会が今後もっと見習っても良いものだと思います。 

C.英語文化圏人の性向を応用する。

a) “excuse”を普通とすることに学びたい。
 英和辞典で“excuse”を引けば必ず「言い訳」という訳語に出会います。そして日本人は、一般的に言って、その訳語から“聞きづらいもの” “男らしくないもの”(“女らしくないもの”とは言わないでしょう)などといった、マイナスイメージを抱くのではないでしょうか。もちろん、英語の “excuse”にもマイナスイメージは付着していると思います。しかし、その程度にはかなりの差があって、英語圏では「“excuse”1つもできないほうが恥ずかしい」と考えるのが普通だと思います。つまり、“excuse” は “explanation”(釈明・弁明・説明)と換言できるほど普通のことであり、英語圏人が日本人と話をしていて急に怒り出すことがあれば、その理由の1つは、まず間違いなく、日本人が “excuse” しないからだと思います。
 He gave an excuse for being late.という英文は、He explained why he was late. と同義と考えて良いと思います。He made an excuse for being late.とすれば、give an excuse とするよりもネガティブな色彩が濃くなるでしょう。
 英語文化圏人に普通の 「自己弁明 ( excuse) の習性」 を日本人はいっそう体得して良いと私は思います。「自己弁明」を潔しとしない日本人で、無実の罪を着たまま [着せられたまま] 死出の旅に赴いた人は歴史的に多くいるはずです。ちなみに、我が国には、「問答無用」 という言葉もあります。

b) “an individual opinion”を持つことを当然とする姿勢に学びたい。
 英語を話す時に、日本人の多くが、“Yes, yes.” “Oh, yes.”を連発することは、日本(人)を知る英語圏人の間ではよく知られていることです。これは、日本語の 「そうです、そうです」 「(ああ)そうですね」 など、 “同調表現” “共感表現”に影響されたと考えられます。日本人のこの傾向は、外国人に、「日本人はきちんとした自分の意見を持っていない」という印象を与えがちです。
 日本人が自分たちの意見を持たないということはあり得ません。ただ、英語圏人ほどには強く個性的な意見を持たない [持ちたがらない] ということは否定できないでしょう。要するに、英語文化圏人に比べて、自分を主張したがらないという性向のほうが強いと考えてよいと思います。新世紀の日本人は、もっと “強く個性的な意見” を持って良いと思いますし、それをぶつけ合うことを当然とみなすような風土にこの国を変えていくほうが良いと思います。
 
英語文化圏人がよく言う、“What is your opinion?”(あなた[君]の意見はどうなんですか?)、“What do you think about it?”(あなた[君]はそのことをどう思うんですか)のような表現の根底にある個人主義と対等関係の思想に学びたいと思います。

c) 自己主張 を当然とすること (self-assertiveness) に学びたい。
 英語文化、とりわけアメリカ合衆国のそれの特徴の一つは、人々が “自己主張” をするということでしょう。 もちろんそれは「自分だけ良ければそれで良い」という利己主義的なものではありません。「自分をきちんと打ち出せること」「相手に自分の考えをきちんと伝えられること」という意味での自己主張です。
 新世紀の日本人はもっと自己主張をするほうが良いと思います。そうすることで、相手が何をどう考えているのかがよく分かりますし、自分も相手によく理解してもらえるからです。

 d) 英語圏人の自己宣伝 (self-advertisement)の巧みさに学びたい。  
  英語文化圏人と付き合っていて印象深く思うことの一つに、彼らの自己宣伝の巧みさがあります。日本文化には、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という言葉に代表されるような謙譲の美徳があって、自分のことを誇らしく言う人はあまり好まれません。周りの人たちが認めてくれるのを待つのが良いという傾向もあります。
 もちろん、英語文化圏にも謙譲の美徳はあります。しかし、日本人と異なる点は、自分が努力や実力で獲得したものならば、大いに誇るところだと思います。英語圏出身の私の同僚たちを例に取れば、彼らは昇格・昇任の時期が来れば、自分のほうから、その条件を満たしたことを日本人の学科主任や学部長などに知らせることが普通になっています。日本人の場合は、たとえば、人事委員会が、「昇格・昇任の時期が来ましたので、これまでの業績を提出して下さい」 というような通達を該当する人物に出すのが普通になっており、当人のほうから 「私はそろそろ助教授 [教授] として昇格・昇任する時期だと思います」というようなことは普通はあり得ないと思います。
 履歴書の書き方も日本人の場合と異なり、大いに自己宣伝的なものになる傾向があります。自分がいかに素晴らしい人物であるか、これまでにいかに素晴らしい仕事をして来たか、自分を採用してくれれば、雇用主にとってどれほど多くの貢献が望めるかなどといったことを巧みな言葉で書き表すのが普通になっています。
 自分が本当に努力して得た物や誇りをもって為した仕事に関してなら、日本人はもっと自己宣伝をするほうが良いと思います。卑下や過度の謙譲は、新世紀の日本の若者たちには似合わないように思います。

e) 身内・友人たちを職場・授業・式典などに同行することに学びたい。
 英語圏出身の同僚たちを見ていて、同じく印象深く思うことは、彼らが自分の友人・身内などを自分の授業や、自分が関係する式典などに同行し、誇らしげにそれらを見せることです。日本人の私には、最初の頃、それは違和感さえ抱く行為でした。ところが、そのような光景を何度も見ているうちに、むしろ “人間的正直さ” や “人間的温かみ”を感じるようになりました。自分が誇りとする職場、そこで挙行される華やかな式典であれば、自分の身内・友人たちにも見てもらいたいと思うのは、人間として当然の感情でしょう。
 還暦もそう遠くない日本人としての私には、職場や職場関連の式典には、自分の身内や友人を連れて行くことには大きな抵抗があります。“公私混同”といった思いがするのも事実です。しかし、 “人間的正直さ” や “人間的温かみ”を感じるようになった現在の自分のほうが、以前の私よりも好ましく思えます。日本語にも“切磋琢磨”という言葉があります。教師であれば、同僚・友人などにも自分の授業を参観してもらい、建設的批判を受けたり、改善策のヒントとなるような事柄を教えてもらったりすることで、より良い授業を行なえるようになると思います。彼らのこうした行為に日本人は学ぶことがあるような気がしてなりません。

f) 同情より賞讃することに学びたい。
 日本人の子供が、公園で片足のハトを見つければ、たいていは 「かわいそう!」 と反応するのではないでしょうか。もう少し具体的には、たとえば、「ママ、見て! あのハト、足が一本ないよ! かわいそうね!」というような言葉になるだろうと思います。これが英語圏であれば、同情表現よりも、賞讃表現のほうが普通でしょう。たとえば、“Mom, look! That pigeon has only one leg. But he's doing well.”(ママ、見て! あのハト、足が1本ないんだよ。でも頑張ってるね!)のような反応になると思います。そう言われた母親は、たとえば “Yes, he, is. [He sure is.]”(ほんとに、そうね)とか、 “And he looks strong and healthy ! ”(それに強くて元気そうね)のように反応するでしょう。
 もし、“Poor (poor) pigeon!”(かわいそうなハトね!)と反応するとすれば、それはハトの片足から出血が激しいとか、片足をなくして日が浅いことが外見からよく分かるというような場合だと思います。すでに片足をなくして月日が経っているハトに対しては、安易な同情を寄せるよりも、心からの賞讃を贈るほうが好ましいのではないでしょうか。以前話題になった 『五体不満足』(講談社) の著者・乙武洋匡さんに対しても、「かわいそうね!」 という同情の言葉よりも、「頑張ってるね!」 という賞讃のほうが、明らかによく似合うと思います。

g) 同情より成功を祈願することに学びたい。
 「最近、お嬢さんをお見掛けしませんが、どちらかに行かれたんですか。」「はい、去年の秋からロンドンに留学しておりまして。」「そりゃあ、ご立派ですね。でもお寂しいでしょうね。」 このような対話は日本語では普通のものです。これを英語に直訳することは可能ですし、実際に英語圏の人でも(特に、親しい間柄では)“You must miss her.”(寂しいでしょう)と言うことはありますが、英語では、最後を 「寂しいでしょう」というように発想するよりも、むしろ “I wish her every success.”(成功を祈りします)と肯定的に発想するほうが普通でしょう。「寂しいでしょう」という、相手の気持ちを忖度(そんたく)した言い方も捨てがたいものですが、関係者の成功を祈願するような表現も大いに好ましいものだと思います。
 
D.改善の対象と思われる日本人の習慣・習性・傾向
 新しい時代に向けて、改めたほうが良いと思われる日本人の習慣・習性・傾向は少なくないように思いますが、ここでは4点だけ挙げてみようと思います。
 1点目は、物を贈る(必要がある)場合には、必ずメッセージカードを添えるようにしたほうが良いという点です。盆暮れになると、人々は取引先・上司・恩師などに物を贈りますが、品物を相手に贈るだけで、手紙も葉書きも書かないという人が多いような気がします。しかし、これは「物さえ贈っておけば良い」という、単なる“お義理”の表れと解釈される可能性が高いように思います。本当に贈る必要があるのでしたら、やはり、心を込めた手紙やカードを添えるほうが良いと思います。
 2点目は、本音と建て前の溝の大きさ・深さを埋めるか縮めるかしたほうが良いという点です。日本人だけの社会であれば、それもまた文化の一部と考えられなくはありませんが、国際化がさらに進む新世紀には、本音と建て前の溝の大きさ・深さを埋めるか縮めるかする必要があるように思います。相手の真意を探りながら会話をするということは、どちらの側も疲れる行為であり、勝手な推測で相手を理解したつもりになってしまう恐れも多分にあります。
 3点目は、もっと言葉を用いたほうが良いという点です。日本の“以心伝心”は縦社会構造や上意下達の仕組みがよく機能していた時代は別として、これからはそのような仕組みの社会では、人々の間で誤解や勝手な思い込みがより多く発生するものと思われます。
 4点目は、不必要な“日本人的笑い”は極力なくしたほうが良いという点です。いつだったか、某著名歌手の母親が義弟に殺されたというニュースをあるテレビ局が東京都内の街頭で十代の女子数名に伝えた時のことですが、高校生らしきその女子たちは、全員が、「エエッ、ウッソー! ホントー? 信ジランナーイ!」とすっとんきょうな声で言っていましたが、その時の彼女たちの顔には独特の笑いが見られました。さすがに、中年以降の大人たちの反応は驚きだけを示す普通のものでしたが、若者たちに見られる(照れ隠し的な)笑いは排除したほうが良いと思います。悲しい時には、悲しい顔をするほうがはるかに人間的だと思うからです。小泉八雲が 「日本人の笑い」 という文章を書いたことを知る人は多いと思いますが、そこで紹介されている “日本人の笑い” と、最近の日本の若者たちにしばしば見られる独特の笑いとの間には、大きな隔たりがあるように感じられてなりません。

E.おわりに
 
 以上、英語文化の基本的生活習慣で、日本人が応用したり、日本社会に根付かせたりすると良いと思われるものを何点か記述しました。私たちは相互尊重の雰囲気を高め、互譲の精神を養うためにも、他国を知り、その良いところは積極的に自国文化に根付かせるように努力していく必要があると思います。最後に、『地球語としての英語』(みすず書房、国広正雄訳)から D.クリスタルの言葉を引用しておきます。

 筆者は多言語主義の基本的な価値を信じるものである。多言語主義はわれわれに多様な物の見方や 洞察を与えてくれることで、人の頭脳や精神の働きについてより深みのある理解を提供してくれるすばらしい世界資源だからである。すべての人が少なくとも二つの言語を操れる、というのが筆者の抱く理想像で ある。