Ⅺ. 日本人学習者が気付かない
          英単語のキリスト教文化

                                    山岸 勝榮


英単語とキリスト教とが切っても切れない関係であることは周知の事実だが、それでは具体的にどういう英単語にそれが観察されるであろうか。その点になると、多くの英語学習者はとまどってしまうであろう。英語をより深く、よりよく理解するためには、どうしても、普段見落としてしまいがちなそうした関係を知っておきたい。ここではその一部を取り扱う(ほかの多くはAmazon Kindle版『英語の語彙と文化とキリスト教: より深い英語理解のために』に掲載した)


create, to
   たいていの日本人英語学習者がcreateという動詞を「創造する、造り出す」という意味と結び付けている。また、the Creator を唯一絶対神たる「創造主」あるいは「造物主」と結び付ける。だが、彼らの多くは、「無から有を創造する[造り出す]」ことのできるのは唯一絶対神だけだということを知らないようだ。人間が何かを「創造する、造り出す」と言う時、それはすでに存在する何らかのものを利用しているのであり、その点が神の創造行為と異なるところである

Genesis 1 (KJV)
1 In the beginning God created the heaven and the earth .   初めに、神は天と地とを創造された。
2 And the earth was without form, and void; and darkness   地は形なく、むなしく、やみが淵(ふち)
 was upon the face of the deep. And the Spirit of God     おもてにあり、神の霊が水のおもて
 moved upon the face of the waters.            をおおっていた。


door, the
   聖書 (John 10:9KJV)には、I am the door: by me if any man enter in, he shall be saved, and shall go in and out, and find pasture.(私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう)と言うように、永遠の命 (the eternal life, the everlasting life)に至る門[入口]と出て来る。


eagle, an
    聖書では、鷲(わし)はパレスチナの空を飛ぶ一番大きく、速く飛ぶことができ、また目も良い鳥として描かれている。その子育ても細心で、神が我が愛し子たちを愛し慈しむ姿になぞらえられる。
 ちなみに、St. John the Evangelist (伝道者ヨハネ)は鷲としてシンボライズされており、『新約聖書』(the New Testament)において神の言葉 (the Word)を説く人物として最適に描かれている
 聖公会 (Anglican Churches and Cathedrals)の聖書台は eagle lectern(鷲の聖書台)と呼ばれ、今日に至る。その源は中世 (the Middle Ages)に発し、今日に至る。


【注記】白頭鷲(bald eagle)はアメリカインディアンの多くの部族が聖なる生き物と見なす文化を持っており、その後、アメリカ合衆国の国鳥、アメリカ合衆国の国章にも描かれている。


eternal life, the
   the everlasting lifeに同じ。キリスト教(など一神教)では、永遠の命 (the eternal life, the everlasting life)は、人々が神に自分たちの罪の許しを請い、神を自分たちの神、救い主と宣言した時に得られるものとされる。


Holy Ghost, the
  the Holy Spiritに同じ。両者とも「神の霊、聖霊」(the Spirit of God)は人間に働きかけようとする神の意思そのものであり、イエスをその霊に満たされた人であるとする。このことは「主は霊である」(『コリント人への第二の手紙』)という教えや、「父・子・聖霊」という三位一体思想などによっても理解できる。なお、「愛」(love)は聖霊が人間に贈った最高の贈り物であるとされる


knowledge
 日本語の「知識」を国語辞典で引くと、たとえば「あるものごとについてはっきりと知り、理解した事柄。知っている内容」(『学研現代新国語辞典』改訂第四版)のように定義してある。また、「ある範囲の事柄について知って[理解して]いることや内容」(『三省堂新明解国語辞典』第五版)のように定義しているものもある。これに対して、キリスト教的背景を持った英語ではknowledgeとはlearning and understanding through experience(経験を通じて学び理解すること)だと考えられる。ここで大事なことはthrough experience(経験を通じて)という点である。日本語の定義からはそのことはほとんど読み取れない。


life
  キリスト教(など一神教)では、人に命 (life)を与えたり、それを奪ったりすることができるのは神だけであるとする永遠の命 (the eternal life, the everlasting life) を得るためには、キリストが神の子 (the Son of God)であること、救い主 (the Saviour)であることを信じなければならない。


most high
 
普通の英語学習ではmost highという言い方は学ばないし教えない。highの最上級はhighestと教えられる。だが、聖書には少なからず出て来る。たとえば、以下の個所に出て来るものがそうである。

Genesis 14:20   And blessed be the most high God
Psalm 9:2        praise to thy name, O thou most High
Psalm 47:2        How awesome is the Lord Most High
Mark 5:7         Jesus, though Son of the most high God
Luke 8:28        Jesus, thou son of God most high

 すなわち、この most divine, holy, godly の意味である


patience
  この語は「忍耐」、「辛抱」などと訳されるが、日本語の「忍耐」、「辛抱」には、「苦しさ・辛さ・怒りなどをじっと我慢する[耐え忍ぶ]こと」というマイナスのイメージが濃い。英語のpatienceにもそういうニュアンスはあるが、基本的に、「不平を言わずに試練や試練に耐えること」(bearing pain or trials without complaint)、「冷静でいられる能力」(the ability to stay calm)というニュアンスの方が強いすなわち、英語のpatienceはキリスト教では人々に求められる徳目の1つと考えられ、日本語の「寛容」、「慎み」に通じる。それをよく示すのが、“Christian Mother Goose”の通称で知られる歌The Fruit of the Spiritに出て来る次の文句である。

O, the fruit of, the fruit of the Spirit is       おお、実りよ 御霊(みたま)の実り
Yes, the fruit of, the fruit of the Spirit is    そう、実りよ 御霊の実り 
Love and joy, joy and peace         愛とよろこび
Peace and patience, and kindness too     安らぎ つつしみ 親切も 
Gentleness, faithfulness, self-control     優しさ 真心 自制の心 
And goodness for you            それと徳

 ちなみに、これは『ガラテヤ人への手紙』(The Epistle of Paul the Apostle to the Galatians; 5:22-3)に出て来る、「だが、御霊の実りは愛、喜び、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」(But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, gentleness, goodness, faith, meekness, temperance: against such there is no law.)の反映である


prayer, a
    日本語の「祈り」は「神仏に祈願すること」という意味で、あくまでも「自分の側からの祈り」である。考え方によっては、「身勝手な行為」でもある。それに対して、キリスト教的にいうprayerは「神に話しかけること」(speaking to God)をいうだけでなく、「神の声に耳を傾けること」(listening to God)をもいう。後者の意味は、普通の日本人にはまずは思い付かないはずだ。また、聖書、とりわけ新約聖書では、キリストによって、「祈り方」が示されていることである。『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』、『ヤコブの手』には、それについての言葉が多く出て来る。

   pray, to
       日本語の「祈る」は、上記の「祈り」に似ていて、「神仏に祈願する」という
   意味であり、一方向的である。それに対して英語のprayは、「神に話しかける」
   (speaking to God)ことをいうだけでなく、「神の声に耳を傾ける」(listening to
   God)
ことをもいう。しかも、前者の「神に話しかける」行為には「神を賛美し、
   神に感謝する」(worship and thank God)という意味が含まれており、後者には
   「求められている事・物を神に訊ねる」(ask God what is needed)行為を含む。
   日本の英語学習者の念頭には、普通は存在しない概念であり、だからこそ、
   日本人学習者が英語のprayer, prayの本質を理解できないままになるのである。


sin, a
  日本語で「罪」と言えば、たいていの人が、「道徳・宗教の教えに反した悪行・過ち」、「法律に反する行為、犯罪」を連想するだろう。すなわち、日本人の考える「罪」とは「犯した事(すでに過去になったこと)」との連想が強いであろう。これに対して、キリスト教文化では、sinとは「人間を神から離れさせようとする行為・態度・言葉・考え」全てのことであり、神が「こうしなさい、こうしてはならない」と命じたことに背く行為・態度・言葉・考え全てをいう。そのガイドラインとなる事全てを神は聖書の中に言葉として刻んでおられる。したがって、英語のsinの基本は、神の教えに故意に逆らうことである。

  以上のことが分かれば、たとえば、インターネット上の某英和辞典に収録されているHe preached against sin. という英文に添えられた「彼は罪悪を犯してはならないと説教した.」という日本語訳が不完全である理由が分かってくるだろう。日本語としての、「彼は罪悪を犯してはならないと説教した」からは「してはならない」という否定しか伝わって来ない。要するに、この英文に近い日本語は「彼は神の教えに反することをしてはならないと説いた」ということである。


soul, the
  肉体に対して、目には見えず、永遠不滅と考えられる霊魂や魂[精神]を指す宗教的または詩的な語。外から見てとれる心意気を指す「魂」はspiritと言う。『マタイによる福音書』(2237)には、一番大切な戒めとしてキリストが律法学者の一人に向かって、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」(Thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind.)と教えている。


trespasses
   現代英語では「不法侵入」の日本語で知られる語だが、本来は「神の定めた掟を破ること」(breaking God’s laws)すなわち「罪、過ち」(sins)の意味で用いるキリスト教的な語である。たとえば、『エフェソの信徒への手紙』( 2:1)には、 You were dead in your trespasses and sins.とあり、神の教えを守らないことは死を意味する。また、『マタイによる福音書』(6:14-5)には、For if ye forgive men their trespasses, your heavenly  Father will also forgive you: But if ye forgive not men their trespasses, neither will your Father forgive your trespasses.(もしも、あなたがたが、人々の過ちを許すならば、あなたがたの天の父も、あなたがたを許してくださるであろう。もし人を許さないならば、あなたがたの父も、あなたがたの過ちを許してくださらないだろう)とある
  アメリカ (の農場など)でよく見かける No Trespassing はこうした背景を持つ看板である。Keep Out(立ち入り禁止)と違って、重い、深刻な結果をもたらすことが少なくない(右上のイラストは極端だが、今でも見かける)。


wages
   この語は普通、「賃金、(時間給、日給、週給などの)給料」の意味で用いられるが、聖書では、「罰、報い」(punishment)の意味でも用いられる。『ローマ人への手紙』(6:23)には、「罪を支払う報酬は死である。しかし神のたまものは、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠の命である」(For the wages of sin is death; but the gift of God is eternal life through Jesus Christ our Lord.)と出て来る。


wisdom   
  キリスト教では、「wisdom (知恵)は神からの贈り物」であって、したがって、「神の栄光を称えるような用い方をしなければならない」。神は知恵そのものでもあった。『マタイによる福音書』(13:54)には、「そして郷里に行き、会堂で人々を教えたところ、彼らは驚いて言った。『この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか』」(And when he was come into his own country, he taught them in their synagogue, insomuch that they were astonished, and said, Whence hath this man this wisdom, and these mighty works?)とある。