[ 用例の非日本(語)性の問題
学習和英辞典の中には、日本人学習者向けに収録したとは思えないような用例(句例・文例)を収録しているものがある。たとえば、以下に示すような用例を日本人学習者が必要とすることなど到底考えられない。★印の部分は私自身のコメントである。
1. Yankee shrewdness ヤンキーの抜け目なさ (「ヤンキー」の項)
★このような用例は英和辞典にあるだけで十分であろう。
2. gentle reader 《著者の呼びかけ》 寛大な読者よ (「どくしゃ[読者]」の項)
★このような用例も英和辞典、それも中辞典クラス以上のものにある
だけで十分であろう。現代の日本人学習者には使いようがない。そ
の理由として、この句の非日常性を指摘することができる。たとえば、
James Rogersはその著The Dict. of Cliches (1985)で次のように
書いている(迫村純男氏訳『よく使われる英語表現ルーツ辞典』の
訳文〔 p.171〕を使用させていただく)。
最近まで読者は常にこの形で呼びかけられてきた。現在この
形を使っている著者がいれば、それは少しばかり古風というも
のだ(そしておそらく本人自身もそのつもりで使っているのか
もしれない)。The gentle reader (高貴なる読者)は、少なくと
も1542年以来活字になってきた。 この年にHenry Brinklow
はThe Lamentacyon of a Christen agaynst the Cytye of
London の中で次のように呼びかけている。Iudge thow, gentle
reader. 「高貴なる読者よ。あなたが判断してください」 gentle
の昔の意味(高貴な・すぐれた・尊敬すべきなど)のほとんどは
忘れさられてしまい、敬意をこめた呼びかけの言葉として(この
言いまわしの中で)生き残っている。
3. She wished on her rabbit's foot. 彼女はウサギの足に願いをかけた
《◆ウサギの足は幸運を呼ぶという迷信がある》(「あし[足、脚]」の項」
★このような用例も英和辞典用であって、和英辞典には不要のはず
である。
4. My daughter weighed eight pounds at birth. 娘は生れた時8ポンドの
重さだった (「おもさ [重さ]」の項)
★一般の日本人は 体重をポンドで計ることはないから、本例の有用
性に疑問が生じる。
5. It is an act of courtesy for the host to sip the wine first. ホスト役
がまず1口ワインを飲むのが礼儀である(「ホスト」「れいぎ [礼儀]」の
両方の項にある)。
★この用例は英語圏人には何のことか直感的に分かるであろうが、
日本人のほとんどの者にとって、この言い方が当てはまるような場面
を想像するのは難しいはずである。
6. 手袋のままで失礼します Excuse my gloves. (◆女性が手袋を取らな
いで握手するときの言葉)(「てぶくろ[手袋]「−まま」「しつれい[失
礼]」のいずれの項にも収録されている例)
★これも非日本的な例と言える。
7. She sells seashells on the seashore. 彼女は海辺で貝を売っている
《◆早口ことば》(「うみべ[海辺]の項)
★日本人英語教師には比較的よく知られた早口ことばだが、これは英語
世界のことであり、英和辞典のほうがより望ましい収録場所であろう。
日本人学習者がこれを「うみべ[海辺]」で引くとは考えにくい。和英辞典
なら、「はやくちことば[早口ことば]」の項の参考記事程度のものである。
この用例のもっと深刻な問題点は、日本文の「彼女は海辺で貝を売
っている」という時の「貝」である。魚介類好きの日本人にとって、「貝」と
言えば、常識的に 「(食用肉部分が中に詰まった)貝」 すなわち、英語
で言う“shellfish”であって、「貝殻」ではない。しかし、上記の英文で言っ
ているのは、「彼女は海辺で貝殻(seashells)を売っている」ということであ
る。土産物屋の娘ならいざ知らず、「海辺で貝殻(seashells)を売っている」
とは普通は考えられない。「早口ことば」という但し書きのあるなしにかか
わらず、この主の用例は(学習)和英辞典的ではないと思う。
以上、数例であるが、用例の非日本(語)性の例を示した。諸所で書いたり、力説したりして来たことであるが、学習和英辞典は「日本人用」であるべきである。たとえ、英和辞典的要素を入れるにせよ、「和英辞典的要素」の部分においては、それがどのようにあるべきか、どのようにあれば真に日本人学習者向きになるのかを、辞書関係者はもっと真面目に考えるべきである。なぜなら、辞書は一般学習者のためにこそ存在すべきものだからである。
【本稿は、拙著『学習和英辞典編纂論とその実践』第21章の 3.17を成すものである;転載に当たって、書肆の了解を得て、和英辞典の実名を削除すると共に、一部加筆し、その部分を青色の文字で示した】