W 用例に関する諸問題(2)
―用例の配置場所
日本人学習者が、たとえば、「もっとロープをぴんと張ってください」というような文を和英辞典を使って英訳する場合、適切な情報を得るためには、どの項を引くであろうか。「ロープ」の項を引く者もいるであろうが、多くの者は「張る」の項を引くであろう(英訳は
Stretch the rope tighter.)。ちなみに、手元の学習和英辞典はその多くが「ロープ」から「つな;なわ;ひも」などを参照させている。「僕たちはテニスコートにネットを張った」「少年は一人で上手にテントを張った」などの場合も、「張る」の項が引かれる可能性が高い(英訳はそれぞれ、We
put up the net on [at] the tennis court. / The boy set [put] up a tent
well by himself. )。
それでは、「警察は非常線を張って逃走した犯人を捕まえた」「彼女はすぐ強情を張る」「彼は見栄を張ってベンツを買った」「この桜は土手にしっかりと根を張っている」「新聞は独裁政権に対して堂々と論陣を張った」「彼はテストの山を張るのがうまい」「この液体は温めていると表面に膜が張ってきます」といった日本文の場合はどうであろうか。いずれの日本文にも「張る」という日本語が使ってあるが、学習者の多くは「張る」の項を見るよりも、それぞれ、「非常線」「強情」「見栄」「根」「膜」「論陣」「山」(または「張る」)の項を見るであろう。これは「非常線を張る」「強情を張る」「見栄を張る」「根を張る」「論陣を張る」「山を張る」「膜が張る」のように、それぞれが語彙の結束性
(lexical cohesion) を有しているために、先行する名詞に先に注意が向くためであろう。換言すれば、「非常線/張る」「強情/張る」「見栄/張る」「根/張る」「論陣/を張る」「山/張る」「膜/張る」のように、語と語の間に「共起傾向」(co-occurence
tendency) が存在することが日本人学習者に直観的に理解できるからであろう。
ちなみに、上記の日本語を英訳すれば、それぞれ、The police set up a cordon
and caught the runaway. / She is hard-headed. / He bought a Mercedes to
impress others. / This cherry tree has spread its roots firmly in the bank.
/ Newspapers argued forcibly against the dictatorial government. / He is
good at speculating possible questions on the test. / A film will form
on the surface as you warm up the liquid.のようになる。
筆者は上で、「もっとロープをぴんと張ってください」を初めとする、10例の日本文を引き合いに出して、学習者がそれを英訳する場合に、和英辞典のどこを引いて英訳の参考にするかを論じた。しかし、それはあくまでも筆者の経験に基づく予想的記述であって、客観的な特定のデータによるものではない。そこで、その予想の妥当性をできるだけ客観的に調査すべく、筆者が勤務する大学の英米語学科生のうち、93名(3、4年生合同クラス)に協力を求め、次のような質問をした(実施日、2000年1月13日)。
次の日本文、1)から10)までを和英辞典を使いながら英訳する
として、あなたはどの語を引けば類例や有益な情報が得られると思
いますか。一番最初に引くと思う単語に下線を施してください。活
用形で引くという場合は、その基本形を括弧内に記入してください
(例3、4)。
例1:鳥は飛ぶ。
例2:私は学生です。
例3:花は美しかった。→(美しい)
例4:ベルが鳴っている。→(鳴る)
1)もっとロープを張ってください。( )
2)僕たちはテニスコートにネットを張った。( )
3)少年は一人で上手にテントを張った。( )
4)警察は非常線を張って逃走した犯人を捕まえた。( )
5)彼女はすぐ強情を張る。( )
6)彼は見栄を張ってベンツを買った。( )
7)桜は土手にしっかりと根を張っている。( )
8)この液体は温めていると表面に膜が張ってきます。( )
9)新聞は独裁政権に対して堂々と論陣を張った。( )
10)彼はテストの山を張るのがうまい。( )
このアンケート調査の結果は次のようなものである。
1)もっとロープを張ってください。
ロープ 13名(13.97%)
ぴん(と)* 16名 (17.20%)
張る 64名 (68.81%)
(* 「ぴんと」に下線を施した者以外に、「ぴん」だけに
下線を施した者も数名いたが、一緒にした)
2)僕たちはテニスコートにネットを張った。
テニスコート 7名 (7.52%)
ネット 28名 (30.10%)
張る 58名 (62.36%)
3)少年は一人で上手にテントを張った。
上手(に)* 6名 (6.45%)
テント 35名 (37.63%)
張る 52名 (55.91%)
(* 「上手」以外に、「上手に」に下線を施した者が数名
いたが、一緒にした)
4)警察は非常線を張って逃走した犯人を捕まえた。
非常線 58名 (62.36%)
張る 8名 (8.60%)
逃走する 3名 (3.22%)
犯人 4名 (4.30%)
捕まえる 20名 (21.50%)
5)彼女はすぐ強情を張る。
強情 85名 (91.39%)
張る 8名 (8.60%)
6)彼は見栄を張ってベンツを買った。
見栄 81名 (87.09%)
張る 3名 (3.22%)
買う 9名 (9.67%)
7)桜は土手にしっかりと根を張っている。
土手 9名 (9.67%)
しっかり(と)* 12名 (12.90%)
根 48名 (51.61%)
張る 24名 (25.80%)
(* 「しっかり」以外に、「しっかりと」に下線を施した
者が数名いたが、一緒にした)
8)この液体は温めていると表面に膜が張ってきます。
液 7名 (7.52%)
温める 5名 (5.37%)
表面 5名 (5.37%)
膜 62名 (66.66%)
張る 14名 (15.05%)
9)新聞は独裁政権に対して堂々と論陣を張った。
独裁(政権)* 20名 (21.50%)
堂々 2名 (2.15%)
論陣 56名 (60.21%)
張る 15名 (16.12%)
(* 「独裁」以外に、「独裁政権」に下線を施した者が数
名いたが、一緒にした)
10)彼はテストの山を張るのがうまい。
テスト 12名 (12.90%)
山(を張る)* 51名 (54.83%)
張る 24名 (25.80%)
うまい 6名 (6.45%)
(* 「山」以外に、「山を張る」に下線を施した者が数名
いたが、一緒にした)
以上の調査結果からも分かるように、筆者の予想は全て妥当なものであることが証明された。従って、用例の配置場所としては、学習者が引く可能性の高い項目の所に収録する必要があるし、それこそが
user-friendlyな辞典であろう。
もっとも、日本語の構文が多少とも複雑になれば、学習者は類例や適切な情報を探し当てるのに苦労するのではないかと思われる。たとえば、筆者は上記の調査を行う前々日
(2000年1月11日)、非常勤講師として出講している他大学の英語学演習の時間に、英米文学科生17名(3、4年生合同)を対象に、次のような日本文6例を示して、前掲アンケートと同趣旨の調査を行った。次に示すのがその結果である。最初の2例は意識的に平易なものにしてある。指示文は上掲の10例に添えたものと同一である。
1)鳥が飛んでいる。
飛ぶ 17名 (100%)
2)私は大学生です。
大学生 17名 (100%)
3)弟に焼きそばを作ってやった。
焼きそば 1名 (5.88%)
作ってやる 2名 (11.76%)
焼く 1名 (5.88%)
作る 9名 (52.94%)
やる 3名 (17.64%)
してやる 1名 (5.88%)
4)先週なくした定期券が今日出て来た。
先週 1名 (5.88%)
なくす 2名 (11.76%)
定期券 4名 (23.52%)
出て来る 8名 (47.05%)
見つかる 1名 (5.88%)
現れる 1名 (5.88%)
5)そんな契約条件では話になりませんよ。
そんな 2名 (11.76%)
契約 2名 (11.76%)
契約条件 3名 (17.64%)
話 4名 (23.52%)
話にならない 2名 (11.76%)
ならない 3名 (17.64%)
−よ 1名 (5.88%)
6)予備校とは言っても、学校には違いはない。
予備校 6名 (35.29%)
とは 1名 (5.88%)
とは言っても 4名 (23.52%)
言っても 1名 (5.88%)
ても 1名 (5.88%)
違いない 2名 (11.76%)
違い 1名 (5.88%)
違う 1名 (5.88%)
これら6例の場合、第1、2例を除いて、約半数近くの学習者が集中したのは、第3例の「作る」(9名; 52.94%)と第4例の「出て来る」(8名; 47.05%)である。残りの第5、6例の場合、特定の語にアンケート結果が集中しなかった理由として考えられるのは、キーワードになるような語が欠如していると感じられたり、前述の10例の多くの場合に観察されたような「結束性」が欠如していたからだと思われる。
今後の和英辞典作りにおいて、学習者の利便を図るためには、用例の配置場所に関する調査・研究が進められなければならない。その意味において、すでに英語国発行の辞典(CIDE, LDOCE, COBUILD など)において実行されているような言語資料 (corpus) の保存・分析を和英辞典作りにも適用する必要がある。コンピュータ・コーパス辞書学の成果を英和辞典に盛り込む作業はかなり以前から始まっているが、管見では、和英辞典への本格的導入はまだかなりの時間が掛かりそうである。
【本稿は、拙著『学習和英辞典編纂論とその実践』第7章の一部を、注記を削除して転載したものです】