V 用例に関する諸問題(1)
1.用例の必要性と日本語性
学習和英辞典の場合、訳語だけで済ませられる見出し語は少数であろう。たとえば、「子犬」「コアラ」「ふぐ(河豚)」「商船」「銅」のような語は、それぞれ「a
puppy, 《インフォーマル》 a pup 」「a koala (bear)」「a globefish 」「a
merchant ship 」「copper」のように訳語だけ並べて簡単に処理することもできるが、これらでさえコロケーションの観点から見れば、用例があったほうが良いとも言える。たとえば、「ふぐ」の場合、多くの日本人は「3人がふぐの毒にあたった」のような文を連想することができるであろう。もちろん、「毒」の項で扱う事も可能であるが、「ふぐ」と「毒」との関連も無視できない。「毒」の項で取り扱うのでなければ、「ふぐ」の項に収録して差支えない用例であろう。これを英訳すれば、Three
people were poisoned by eating globefish. となる。
用例は新聞・雑誌・文学作品等々から、実際に使用された例文を採取して、それらを英訳したり、原稿執筆者が内省によって作例し、それらを英訳したりすることができる。最近では、出版社の中には、和英辞典用の自前のデータバンクを構築しつつあるところもあるらしい。
ただし、用例として収録する日本文は全て、その“日本語性”をしかるべき立場の人(たとえば、日本語学者)につぶさに点検してもらう必要がある。 それを怠ったためと考えられる不自然な日本文が現行の和英辞典には多数発見される。 「その娘はみんなに愛想を振りまいた」「彼は娘の望みをかなえてあげた」「『だめです』と言って彼は頭を横に振った」「彼はぶしつけな質問を問い掛けてきた」「この件は表向きにしないでもらいたい」「今日会合があるんだが、顔を貸してくれませんか」「お話し中失礼ですが面会人が見えています」「下手な考え休むに似たり」などの日本文は実在の学習和英辞典に収録されている不自然な日本文である(2.で取り扱う人称詞「彼」「彼女」の場合を参照)。
2.用例に人称詞の「彼」「彼女」を用いる際の注意点
日本語の「彼」「彼女」(それに「彼ら」)は和英辞典編纂にはなくてはならない便利な語であるが、用い方によっては、(少なくとも筆者の日本語感覚では)どうにも不自然に響くものとなる。その例を某和英辞典から以下に採取してみる。
a.残念なことに彼の講義が病気のために中止となった
To my regret, his lecture was canceled because he was ill.
b.私は彼に恩返しをしなければならない(→彼の親切に報いなければ
ならない) I must repay him for his kindness [favor]./ I must
repay his kindness [favor].
c.彼[彼女]は私のずっと先輩です(→年齢がずっと上だ) He [She]
is much older than me. / He [She] is my senior [senior to
me]
by many years.
d.彼は大学で私の2年先輩だった He was my senior by two years
[two years my senior] at the university.
e.彼は私の高校の大先輩(→古い卒業生)です He is one of the
older graduates from my senior high school.
これは多数採取される実例の内の数例だけを列挙したものである。最初の2例に限って、問題点を検討してみよう。「残念なことに彼の講義が病気のために中止となった」と言っている本人はいったいだれであろうか。もし生徒や学生なら、この「彼」の使用は明らかに不自然である。たしかに、最近の若者たちは、筆者の年代の者と比べて「彼」「彼女」を多用する。しかし、大多数の生徒・学生は、自分の担任教師や担当教授に言及するのに「彼」「彼女」を使用しているようには思えない。筆者には、「残念なことに彼の講義が病気のために中止となった」と言っている人物は、“彼”なる人物の同僚か先輩か恩師かである。すなわち、当人よりも年齢的に上の人間である。
次の「私は彼に恩返しをしなければならない(→彼の親切に報いなければならない)」の場合であるが、これにも同様の違和感を禁じ得ない。言い換えの文は今は問わないとして、筆者には、この日本文での「彼」の使用は不自然に響く。それはおそらく、「彼」という“軽い”語と「恩返し」という“重い”日本的道徳観念とが、筆者の心の中で反発し合うためであろう。
このように、「彼」「彼女」は便利な語(人称詞)ではあるが、用い方によっては不自然な、場合によっては、それを見聞きする日本人が嫌悪感さえ催しかねない、異様な日本文を作り出す可能性がある。この点にも、和英辞典編纂者・原稿執筆者は意を用いる必要がある。
「彼」「彼女」を自動的に “he” “she”と変換することは危険である。なぜなら、日本語の「彼」「彼女」が人称詞として、初出の人間を指すことができるのに対して、それらの対応語とされる英語の
“he” “she” は一度出てきた人を指す代名詞だからである。この点について、J.V.ネウストプニー(『外国人とのコミュニケーション』
1988; 72-3頁) には次のようにある。
she と he という単語は、案外に使いにくい。というのは、英語も
含め、ヨーロッパの諸言語で、その場面にいる人については、she
とheという代名詞を使うことはほとんど許されていないからである。
特に前者を使い、たとえば側に立っている友人についてshe came
yesterday のようなことをいうのは相当に失礼である。この場合は、
名前を使ったり (Jane came yesterday) 、本人を話し相手にしたり
(you came yesterday, didn't you? ) して、言い方を変える。
このルールをまだ知らない子どもがよくなおされ、mother などと
言わせられる。そのとき英語では “she” is the cat's motherという
ことわざがある。つまり、she は、猫のお母さんなら使っていいだろ
うが、自分のお母さんについては使ってはいけないよ、という意味
である。
日本語ではかえって、英仏独口語で自由に使える二人称の代
名詞が制限され、三人称の「彼」「彼女」は友だちなどについては使
えるし、「この方」のような場合には、目上にも自由に適用できる。ヨ
ーロッパのsheとheに関する制約は、説明しやすい現象ではない。
浅岡(「英語教育」誌、1992、4月号; 5頁)にも、次に示すような興味深い指摘がある。
こちら(日本語教授に赴いた地・オーストラリアのメルボルン;筆者
注)に来てまだ間もない頃、同僚のスーの家に夕食に招かれた。食卓
には、スー、同じく同僚のエボルにジェニー、そして私の4人。話題は間
もなくやって来る休暇をどうするかということだった。スーはお母さんを
連れてフィジーに行くという。私はエボルとジェニーに向かって、“She
is
so nice! She will have a great time. ”と言った。その時 ジェニーが、
「高子さん、この場合、スーのことを “she”と言わず、 “Sue”
と言った
ほうがいいのよ」と言った。「えっ、三人称単数女性 でしょう? どうし
て “she” はだめなの?」と私はいぶかしく思った。
「三人称にあたる人が目の前にいる時に、その人のことを“he”とか
“she”と言うのは失礼なの。オーストラリアの子供がこんな間違いを
すると、お母さんたちは、“She” is the cat's mother.(そばにいるお母
さん猫なら“she ”と言ってもいい)と子供の言葉づかいを直すのよ」とジ
ェニーは言う。成程。しかし、中学の英語のクラスで“he”や “she”を
習った時、英語の先生はこんなことを教えてくれなかった!
この2つの引用が示すとおり、日本語の「彼」「彼女」と、英語の “he”
“she” には、決定的な用法上の差異がある。この点をきちんと押さえずに、短く、便利だからという理由で、それらを用いる和英辞典は、利用者に誤った印象を与えるのみならず、英語の
“he” “she”の誤用法を教えることになる恐れが多分にある。
ちなみに、「彼を1週間試用してみたらどうですか」という日本文における「彼」の用法には全く不自然さはないが、だからと言って、これをそのまま、“Why
don't you take him on trial for a week?” のように訳すわけにはいかない。なぜなら、これでは“him
”は猫か犬のオスを指しているように解釈されるからである。従って、たとえば人称詞の「彼」を「あの運転手」のような具体的な言い方に換えて、“Why
don't you take that driver on trial for a week? ”のように表現すれば、不自然さは消える。
日本語の文例における人称詞、英語の文例における代名詞、いずれの場合も、その使用にあたっては十分な注意が必要である。
3.用例と日本人性
筆者は英語学習を始めた頃、真剣に学習しさえすれば、英語圏の人々と同じような英語が話せたり、書けたりするものだと思っていた。英語を自由に読み書きできないのも、流暢に話せないのも自分の努力不足のせいであろうと思ってもいた。しかし、その後、何か奇妙な思いに捕らわれるようになった。どれほど自信を持って書いたつもりの英文でも、ネイティブチェックをしてもらうと、“grammatically
correct but not English ”(文法的には正しいが英語ではない)、“basically
acceptable but not natural ”(基本的には受け入れられるが自然ではない)、“Japanese
English ”(日本人英語)などといったコメントがあちこちに付されて返却されたからである。筆者が大学生から大学院生の頃に書いた英語で、英語圏出身の教授にしばしば、そうしたコメントを貰ったものを当時のノートから4例を拾い出してみると、以下のようなものになる。
*My brother likes to play baseball very much.
《コメント》 “Very much” isn't very natural. English-speaking
people would probably say,“My brother really likes to play
baseball.”
*He was a member of the baseball club at his high school.
《コメント》 “A member of...” isn't very natural. We'd say,
“He was in the high school baseball club.” or “He belonged
to the high school baseball club.” “He played baseball in
high
school. ” is also correct.
*He enjoyed playing baseball when he was in high school.
《コメント》 “Enjoyed playing ”is Japanese English. We'd
probably say, “He liked to play baseball when he was in
high school.”
*The Japanese people live on rice.
《コメント》Japanese preference. A native English speaker would
say, “Rice is the staple food of the Japanese people.”
辞書用原稿を執筆するようになってからも同様であった。ここでも、その多くは、“文法”に関してと言うよりも、むしろ“表現法”や“発想法”に関しての訂正がほとんどであった。最近になって、ようやく“朱”を入れられる回数や数や量が減ったものの、今もってその“日本人性”から完全には脱却できないでいる。
数点の英語辞書を編纂する立場になってからも、その思いは残った。そして、今ではそれはほとんど確信とも言えるものになっている。「日本で生まれ、日本で育った普通の日本人は、日本語で考え、その考えに従った英語訳、日本語訳をする」という思いである。英語国に長期滞在した(いわゆる)“帰国子女”か、常に“英語漬け”の状態を創り出せる一部の日本人を除き、日本の学校で日本人英語教師の下で英語を学んだ、普通の日本人にとって、英語らしい英語を話したり書いたりすることなど不可能か、不可能に極めて近いというのが、現在の偽らざる心境である。たとえば、次のような日本語を英訳してみよう。
f.彼はすっかり横着になって自分の布団も敷かない。[“おうちゃく”の項
の例として]
たいていの人はこの日本文を、
f´He has become very lazy and doesn't even make his bed.
とするであろう。もちろん、文法的には何ら問題はない。しかし、この日本文を見た時の日本人の念頭にある「布団を敷く」とはどのような時間(帯)に、どのような動作で行うものであろうか。それに対して、この英文を見た英語圏の人々が連想する“make
one's bed”とはどのような時間(帯)の、どのような動作であろうか。日本人は夜と押し入れとを連想し、英語圏の人々は朝と自室のベッドとを連想するであろう。普通の日本人英語学習者は、“bed-making”の日英差など考えずに、日本的にのみ“英作”するのが常であろうし、それで自分(たち)の思いは通じたと感じてしまうであろう。それでは次のような日本文はどうであろうか。
g.先生は難問に腕組みして考え込んでしまった。[“うでぐみ”の項
の例として]
h.足でドアを閉めようなんて横着だ。[“おうちゃく”の項の例として]
i.食べ過ぎてげっぷが出た。[“げっぷ”の項の例として]
j.彼はばつが悪くなり、ぺろっと舌を出した。[“した”の項の例として]
k.道で拾った500円玉を猫ばばしたら、しばらく後ろめたい気分だっ
た。 [“ねこばば”または“うしろめたい”の項の例として]
l.《結婚して独立した息子を持つ親に》お寂しいでしょうね。
[“さびしい”の項の例として]
m.《海外留学した娘を持つ親に》お寂しくないですか。
[“さびしい”の項の例として]
n.いろいろご心配をかけましたが、息子にも良い勤め口が見つかりま
した。 [“しんぱい”または“つとめぐち”の項の例として]
o.《公園でハトに餌をやっていた幼児が》お母さん、見て! あのハト、
足が1つしかないよ。かわいそうね! [“かわいそう”の項の例と
して]
これらの日本語に対しては、数通りの英訳が可能であるが、一般的なものは以下のようなものであろう。
g´When asked a tough question our teacher lost himself in thought
with his arms folded [with folded arms].
h´Closing the door with your foot is a sloppy thing to do.
i´I belched [burped] after eating too much.
j´Embarrassed, he stuck his tongue out.
k´I felt a bit guilty for some time after I pocketed the 500-yen
coin
I found on the street.
l´You must be lonely. / You miss your son, don't you?
m´Aren't you lonely? / Don't you miss your daughter?
n´I [We] apologize to you for having caused a lot of worry, but
at last my [our] son has found a job.
o´Mom, look! That pigeon has only one leg. What a pity!
日本文はそのいずれも、日本人が平素、普通に使用しているものである。また、英語は、そのいずれも日常的な普通の単語で書かれたものである。それでは、問題は何であろうか。じつは、日本文のほうが、そのいずれも日本文化(性)を反映したものであり、英語文化では一般的ではないものである。
第1例に関して言えば、「腕組み」は英語圏では拒否・反抗・防衛の動作であり、非協力的・非友好的な態度の表れと解釈されるものであって、日本人が想像するような、考え込む時の動作ではない。日本では国会[県議会・市議会]議員などがよく腕組みをして、目を閉じているが、あの光景は英語圏人にはほとんどの場合、マイナスイメージのものとして映っているはずである。
第2例の場合、横着に対する彼我の感じ方の違いを反映したものである。最近では日本人も、英語圏人並に“横着”になったが、それでもドアを足で閉めるのはあまり褒められたことではないと感じる日本人が多いであろう。これに対して、英語圏人なら、手がふさがっているのなら、足でもどこでも使ってドアを開閉すれば良いと考える人が多数であろう。
第3例に関して言えば、食後のげっぷに対して、日本人は英語圏人よりも寛容である。満腹感を表す方法として、故意にそれを出す人もいるくらいである。これに対して、英語圏人は一般的に、食事中や食後のげっぷを不作法と捉らえるのが普通である。
第4例の場合、ぺろっと舌を出す行為は、自らの失敗を恥じる時や、他人を陰でそしったり、からかったりする時などにするものであるが、英語圏では侮蔑などのしぐさで、子供っぽいものである。自らの失敗を恥じる時に舌を出す行為は英語圏には見られない日本的なものである。
第5例の場合であるが、取得物を私物化することと後ろめたさとの関係は、国民[民族]性、宗教性などによって異なる場合の1例と考えられるものである。英語には、Finders keepers, losers weepers.(見つけた人が貰う人、なくした人は泣きをみる)という諺さえある。筆者はイギリス留学中に、イギリスの子供たちがこの諺に独特のリズムを付けて取得者としての権利を主張している場面を何度か目撃したことがある。大人たちも、落とし主不明のあまり高価でない物を拾ったような場合にこの表現を口にする。この諺は物を紛失した場合は紛失した本人が悪いという、自己防衛を重視する文化の中で生まれたものとも考えられる。拾った物は交番に届けることを幼い時から教えられる日本人には、なかなか理解できない感覚であろう(昔ほどではないにしろ、日本人のこの正直さに感嘆する外国人は今も少なくない)。
第6例の場合、日本人がこの日本語の直訳(You must be lonely.)を英語圏人に対して使えば、言われたほうでは、あまり良い気分はしないであろう。なぜなら、英語(文化)では、「息子さんが独立なさってご自慢でしょう」と発想して、You must be proud of your son now that he has made his own home.のように表現するのが普通だからである。
第7例の場合も、英語では、「お嬢さんが海外留学なさったそうですが、ご成功をお祈り致します」と発想して、I've
heard that your daughter has gone overseas. I wish her every success.のように表現するのが普通である。
第8例の場合、日本人にとってはこのような挨拶は普通であるが、英語圏人が、I [We] apologize to you for having caused a lot of worry, but at last my [our] son has found a job. のように言われれば、おそらく発言の意図が理解できないか、理解できてもかなり不安になるであろう。前半の英語を文字通り、「あなたに大変な心配をかけてしまったことをお詫びします」と解釈する可能性が高いからである。日本人のこの社交辞令は英語では通用しない。英語的発想では、他人に社交辞令的謝罪をせず、自分方の問題として考え、たとえば、We were worried for a while,but it seems that at last our son has found himself a good job.(しばらく心配致しましたが、息子はようやく良い仕事を見つけたようでございます)というように表現するであろう。
最後の第9例の場合、日本人はこういう場面では、確かにこのように言うことが多い。しかし、英語圏であれば、むしろ、「見て、ママ! あのハト、足が1つしかないよ。でもがんばってるね!」というように発想して、Mom,
look! That pigeon has only one leg. But he's doing well!のように表現するほうがより普通であろう。それを聞いた親も、「ほんとにそうね。それに強くて元気そうだね」というような反応の仕方をして、Yes,he
is [He sure is]. And he looks strong and healthy.と言うかも知れない。英語圏人にとっての「かわいそうね!」という発想は、まだ血の滴る片足を見たような場合に生じるものと言う英語圏人もいる。
このように、我々が何気なく言ったり書いたりする日本語には、「日本人性」換言すれば「日本文化性」が染み付いているのが普通である。英語学習においては、この辺りのことを注記などの形で押さえておかないと、英語文化を日本語文化という眼鏡を通して勝手に解釈して相手を理解したつもりになってしまう恐れが多分にある(「逆もまた真なり」で、英語圏人は自分たちの文化的価値基準で日本人の言動を解釈する傾向が強い)。 同様のことが英語圏人が書いたり、話したりする英語に観察される。その点をよく示す例を数例挙げてみよう。以下の英文のどこに英語文化性が反映しているであろうか(末尾の括弧内は出典国)。
p.George has that awful habit of picking his teeth. (米)
ジョージには歯をほじるという例のみっともない癖がある。
The Random House Thesaurus, College Ed., 1984 (habit )
q.Making the baby eat his spinach is struggle.(米)
赤ん坊にホウレン草を食べさせるのは一苦労だ。
World Book Dict., 1990 (struggle)
r.Mother punished my little brother by keeping him indoors.
(米) 母は罰として弟を部屋に閉じ込めた。
Dict. of Basic Words, 1969 (punish)
s.Inevitably he quarreled with his mother-in-law. (英)
ご他聞にもれず、彼は義理の母親と喧嘩した。
Harrap´s Easy English Dict., 1980 (inevitably)
t.He's the ideal sort of teacher―direct, friendly and informal.
(英) 彼は理想的な教師だ―率直で、フレンドリーで、形式
張らない。Cambridge International Dict. of English, 1995
(informal)
u.In America people are thrown in jail if they are drunk in
the street. (米) アメリカでは街路で酔っ払っていると刑務所
に入れられる。 G.C. Wilson & K. Mushiaki:Usage in Today´s
American English (p. 77)
まず、第1例であるが、爪楊枝などを使って歯をほじる行為が米国(その他の英語圏)ではみっともない (awful)行為であることが分かり、第2例では幼児にホウレン草を食べさせることが一苦労 (struggle) であることが分かる。後者の場合、日本人ならニンジンに言及する可能性が高いであろう。米国の幼児には、ポパイ(Popeye)がホウレン草を食べて力を出すのを見て、嫌々ながら自分もそれを食べ始めるという幼児も少なくないらしい。第3例の場合、米国の子供にとって、自分の部屋に閉じ込められることが懲罰になることを教えてくれる。日本の子供なら、親から「出て行きなさい」とか「出て行け」と言われるところであろう。これは「自由」(freedom, liberty の両者) の所在に対する考え方の違いが反映したものと思われる。日本人は昔から、村八分にされたり、村から追放されることを極端に嫌ったから、「出て行きなさい」とか「出て行け」といった懲罰方法に恐怖を感じて来たであろう。一方、多くの米国人にとっては、自由(権利としてのliberty)というものは家の中ではなく、家の外にあると考える傾向があり、その自由を剥奪されて、自分の部屋に閉じ込められることに恐怖を感じる。彼らの建国史を見れば、その点も納得できるであろう。
第4例の場合、「ご他聞にもれず、彼は義理の母親と喧嘩した」の「ご他聞にもれず」(inevitably)とは、英国(その他の英語国)では、日本の嫁姑問題と異なり、婿姑の関係が取り沙汰されることを示している。注4)
また、第5例の場合、英国(というよりも英語圏人)にとっての教師の理想像が、率直で、フレンドリーで、形式張らない人物だということを教えてくれる。また、最後の文からは、米国での酔っ払いの扱われ方が分かる。確かに、日本にも“トラ箱”はあるが、“jail”とは認識されていないであろう。秋田民謡の酒屋唄、新タント節(ハア、酒は良いもの、気が勇むもの、飲んだ心地は富士の山/ソラ、だれが何と言っても、飲んだほうが得だ)、黒田節等々、我が国には、飲酒を容認したり賛美したりする唄が無数にある。それは日本人と酒とがどのような関係を持って来たかを如実に示すものである。反対に、キリスト教国には「酒に酔ってはならない」という教えがあり(「エペソ人への手紙」5.18;
「箴言」20.1 / 31.4-7)、飲酒(の程度)に関しては日本人とは比較にならないほど厳格な捉え方をする。ちなみに、日本人が酒量が増えた人や深酒をする人のことを、「ストレスが溜まって(来て)いるのだろう」とみなす向きがあるが、キリスト教国では、それを「社会性や人間性の破綻」と捉らえる向きがある。換言すれば、「社会的落伍者(social
drop-out )」とみなすのである。
筆者は日本語文化と英語文化の違いばかりを強調するつもりはない。ただ、日本人の書き、話す英語に日本人性が反映すること、英語圏人の書き、話す英語に英語圏人性が反映することを分かりやすく例示したかったのである。それゆえに、異文化理解の実践にあたっては、相手とは考え方、感じ方、価値観等が異な(ることがあ)って当然と捉らえ、相互理解に努めながら、その異なりを乗り越えて、お互いの努力をより良い方向に収斂させて行くべきであろうと思うのである。和英辞典はその実現に資するものでありたい。言葉を慈しむ態度を育成するのに役立つ書物の1つに辞書がなれば良いと思う。
4.日本人の発想からは出て来ない英語表現とその処理法
日本人が日本語で考え、その考えたことを英語に直す時に「日本人性」が表出することは上記3.で示した。換言すれば、日本人の思考回路を巡って来ない発想は日本人の口からも言葉となって出て来ない。そして、それらは極めて英語的である。この種の英語は、英和辞典には収録される可能性はあるが、和英辞典に収録される可能性は極めて低い。たとえば、英語圏でのインフォーマルなパーティーなどで披露される小話(short
story)に次のようなものがある。
v.A man explaining the difference between courtesy and tact
said, “If I open the bathroom door and a woman is taking
a bath,
and I say, 'Oh, pardon me, sir!' that 'pardon me' is courtesy.
'Sir' is
tact.” So, it is that we should all learn to use both courtesy
and
tact in dealing with others.
礼儀と機転との違いを説明していた男性が言いました。「もし私が
バスルームのドアを開けて、女性が入浴中で、そこで 'Oh, pardon
me, sir!´ と言った場合、´pardon me´ と言うのは礼儀ですし、'sir'
とうのは機転です。」 そんなわけで皆さん、礼儀と機転の両方を
うまく使い分ける方法を学んで、人と付き合いましょう。
この場合の“sir ”を日本語にうまく訳すことはできない。日本人はこのような場合には、こういう言い方はしないからである。英語表現の1つとして覚えてしまえば、日本人にも普通に使えるが、逆に、和英辞典に収録するとなると、日本人の発想にないものであるから、日本語の例文となって出て来ることはまず有り得ない。あったとしても、注記か解説かで言及される程度であろう。
あるいは、英語圏人による次のような対話がある。
w.“What a lot of rain everyday!”“Yeah. Lovely weather for
ducks,
though. ” 「毎日よく降るね!」「そうだね。でもカモやアヒルたち
にとってはうれしい天気だけどね。」
応答文に出てくる Lovely weather for ducks.(文字通りには、「カモ[アヒル]にはすてきな天候ですよ」の意)という言い方は、日本人の発想には、やはり、ないものであり、したがって、和英辞典の用例として出て来ることは普通は有り得ない。同様に、次のような例も和英辞典的ではない。
w´“I haven't lost any chess games so far, John.”“You'd better
knock
on wood, Paul. ” 「僕はこれまでチェスで負けたことはないんだよ、
ジョン。」「木に触っておいたほうがいいよ、ポール。」
この場合の knock on wood (またはknock wood) は主にアメリカ英語で、イギリス英語では touch wood と言うことが多いものであるが、英語圏ではごく一般的な迷信である。伝統的には、神聖とされる木、たとえばオーク (oak)、ハシバミ (hazel)、トネリコ (ash)、サンザシ (hawthorn) 、ヤナギ (willow) などに触わるのが良いとされたが、今では、木製品なら何でも良いとされている。木製品がない場合には、おどけて自分の額に触わることもある。このような迷信的習慣のない日本人には、当然、knock on wood や touch wood という表現への連想もない。
従って、上掲のような対話例が学習和英辞典に収録されることは普通は有り得ない。ただし、「僕はこれまでチェスで負けたことはないんだよ、ジョン。」「自信過剰にならないほうがいいよ、ポール。」というような日本語的な対話にして、その「自信過剰にならないほうがいいよ」の等価表現が
You'd better knock on wood.だと考えれば、それを(学習)和英辞典に収録することはできるが、それならばむしろ、Don't
get overconfident. とか Don't be too sure of yourself. のような言い方ができるのであるから、そちらを例文として使用するほうが学習和英辞典的である。 あるいは、英語圏のホテルで普通に聞かれる次のような対話を例に採ってみよう。
RECEPTIONIST: Good afternoon, sir [madam]. Can I help you?
TRAVELER: Good afternoon. Have you a single room with a
bathroom, please?
これが日本のホテルや旅館であれば、おそらく次のような対話になるであろう。
受付:いらっしゃいませ。
旅行者:(すみません。) シングルの部屋はありますか。
これからも分かるように、英語の Good afternoon.という昼の挨拶や、sir
(男性客の場合)や madam(女性客の場合)という呼び掛け、およびCan I help
you? (直訳は「お手伝いできますか」)のような挨拶言葉は日本語にはなりにくい。旅行者の
Good afternoon.や please も同様に日本語になりにくい。
このほか、英語圏人の日常会話で用いられるもので、日本人の発想にはないものは多数存在する。たとえば、親しい間柄の来客が帰り際に、挨拶として、I
had a nice time. Thanks for inviting me.(楽しかったわ。招んでくれてありがとう)と言った場合、招待した方は(たとえば
Juliaという女性に対して) Good to see you, Julia. Next time don't stay
away so long. のように応答することがあるが、この場合の Don't stay away
so long. (そんなに間を置かないで)のような発想は日本的ではない。日本語では「(今度)また近いうちに来てね」あたりがこれに相当するであろう。
また、誰かが頑固な友人に言及しながら、I'll try to convince him.(僕が彼を説得してみるよ)と言った場合、それを聞いていた別の友人が、「無駄だからよせよ」という意味で、Don't
waste your breath.と言うことがあるが、この「息を無駄にするな」という発想も日本人にはない。
あるいは、みっともない服装・髪形などをして姿を現した友人や他人をからかって言う Look (at) what the cat dragged in! (まあ変な奴が来たぞ/まあまあだれかと思ったら)のような表現も日本人の発想からは出て来ないものである。文字通りには、「猫が引っ張り込んで来たものを見てごらん」という意味である。dragged の代わりに broughtを用いることも、現在完了形を用いて Look (at) what the cat's dragged [brought]in! のように言うこともある。
このほか、インフォーマルなパーティーなどで人に声を掛けるような場合に用いる
Hi. I guess I don't know you. My name's Jack Jones.のうちの I guess I don't
know you.(文字通りには「私はあなたを知らないと思います」の意)、歯科医院に予約の電話を掛けて言う
My son has a terrible toothache. How soon can you see him? と言う時の How
soon can you see him?(文字通りには「どのくらい早く彼を診てくれられますか」の意)、相手が何時まで暇かと尋ねる場合の
How late are you free? (文字通りには「どのくらい遅くまで暇ですか」の意)、何かの祝宴や会合への連絡をいつまでにすれば良いか、と尋ねる場合の
When is the latest I can let you know?(文字通りには「知らせられるのはいつが最後になりますか」の意)、世話をしたり面倒を見たりした相手から感謝された場合に、応答として言う
That was the least I could do for you. (文字通りには「私があなたのためにできる最小のことでした」の意)、映画館・劇場などで
Is this seat taken?(この席ふさがってますか?)と尋ねられた場合に、応答として用いる
No, help yourself. (文字通りには「いいえ、ご自由に」)、誕生日パーティーに招待した友人が、
Is there anything I could bring? (僕が持って行く物、何かある?)と言ってくれた場合に、応答として用いる
Just bring yourself. (文字通りには「自分自身を持って来てください」)、試験に行こうとして身内の者から
Good luck on your exam, Tony.(試験がうまく行くように幸運を祈ってるよ、トニー)と言われた場合に、応答として言う
Thanks, Norman. I'll need it! の I'll need it!(文字通りには「それ(=幸運)が必要なんだ」)等々、日本人の日常的発想からは普通は考え付かないような英語的表現が多くある。注意すべきは、これらの表現は、前記の
I'll need it. を例に採ってみても分かることであるが、英語では日常的で必須であることが多い。すなわち、語用論的に見て、不可欠の表現なのである。
しかし、和英辞典は日本人が用意した日本語文例をたいていは日本人が英訳し、それを“ネイティブ・スピーカー”にチェックしてもらうから、こうした英語的表現は収録されにくい。結局は、関連表現を記載したところで適宜、注記・解説を施すことで、非日本語的表現の存在に利用者の注意を喚起することになる。
【本稿は、拙著『学習和英辞典編纂論とその実践』第7章の一部を、図版と注記を削除して転載したものです】