9.指導力の自己診断

本稿は平成17年[2005年]3月26日(土)に行われた国際教育協議会主催・第29回「新しい教師のためのワークショップ」(於・三省堂文化会館)における私の講義備忘録です。私は教授法の専門家でもなければ、教育政策の専門家でもありません。長年教壇に立って来た、一人の英語教師です。したがって、「指導力」の捉え方もその実践法も自らの経験を通して会得した、きわめて“個人的なもの”です。専門家から見ればおかしなところもあるかも知れませんが、もっとも大事な点、すなわち「授業に熱意を持って臨み、授業を受ける側すなわち生徒・学生達に満足を与えたか」という1点では、けっして人後に落ちないつもりです。その思いが本講座の講師を引き受けた理由です。

第1部 
1.「指導力」とは何か?―「指導力」の昔と今

 「指導力」を私なりに定義すれば、「計画力[企画力]、観察力、判断力、説得力、実行力[運営力]、自己分析力などの総合力」ということであり、それが有効に機能した時に「誰々は指導力に恵まれている」と言えるであろう。
 しかし、教師に成り立ての頃から「指導力」に恵まれている者は、むしろ少数派であろう。昔の教師には、たとえ当人が若かろうとベテランであろうと、教師というだけで、“権威”や“威厳”が有効に働いてくれた。“訓導”などという名称には明らかにその種の含みがある。教師がそう呼ばれた頃の日本人の価値観は大いに均質的であった。したがって、トップダウン的な教育も実践できた。しかし、今は価値観・人生観・教育観などの点において、人々の異質性が顕著であり、教師が知っている知識・情報のかなりの部分を、生徒・学生達も既得のものとしている。したがって、「知識を授ける」だけの教師はまず、尊敬の対象にはならない。
 また、今日の生徒・学生達の中には、教師・友人・家族などとの人間関係において「関わりの困難性」を抱えている者も少なくない。自立と依存の激しい葛藤に苦しむ者達もあり、辛さ・苦しさに起因する「リストカット」「暴力」「拒食[過食]」などの「行動化」(coming-out)に向う傾向も見られる。最近では、また、「携帯電話依存」といった様相を呈する者もいるらしい。学校の教師になるということは、その種の問題とも直接・間接的に接していかなければならない。

2.「指導力がない」「指導力不足である」などと言われるのは?
 我々が一人の教師を対象に、当人には「指導力がない」「指導力不足である」などと言う時、何を根拠に言っているかと言えば、たいていは、以下のような問題を抱えた者を指している。

  (1)教師の職責・職掌範囲が理解できない。
  (2)生徒や学生さらには保護者の望んでいることが理解できない。
  (3)同僚・上司などとの人間関係が保てない。
  (4)学校行事などに適切に関われない。
  (5)生徒や学生との境界設定ができない。
  (6)教科書が[で]教えられない(実力不足、疾病等の理由)。
  (7)授業を一方的に行う。
  (8)生徒や学生に適切な指導が行えない。
  (9)生徒や学生とまともに会話ができない。
 (10)保護者への対応ができない。
 (11)学級担任が務められない。
  その他

 上記の問題を抱えず、適切な教育活動を行う教師が圧倒的多数であろうが、中には「指導力がない」「指導力不足である」などと判定される者も少なくないようである。しかし、後者のような教師であっても、教職を愛し、生徒・学生達を愛する者であれば、教育委員会はもちろんのこと、教職員集団、保護者集団等、皆で適切な支援をして、当人を望ましい教員の姿に復帰させるようにする必要がある。たとえば教育委員会が一人の教員に対して、「指導力がない」「指導力不足である」などと判断するのであれば、まず自らが「指導力のあるところ」を示さなければならない。

3.「指導力」の二面性
 教師個人の資質・実力はもちろんであるが、当人を取り巻く多くの人々の「協働的志向性」も劣らず重要である。否、むしろそれがなければ教師個人の存立さえ危うい。一人の教師が良き教師として存在し得るには、彼・彼女を取り巻く教職員集団(管理職者・教員・職員)、保護者集団、地域社会集団、教育委員会、相互の意思疎通と支援体制が肝要である。他校との連携によって、指導力不足の教師を生み出さない取り組みも必須である。もちろん、疾病・障害を抱える教員が発生した場合の適切なケアも欠くことはできない。前記したように、教職を愛し、生徒・学生達を愛する者であれば、当人がケアを必要とした場合には、適切な対応をする必要が教員個人を取り巻くさまざまな集団にはある。「指導力」は教師個人が発揮しなければならない性質のものであると同時に、教員個人個人にも示されるべき性質のものである。

4.「指導力」の向上を阻むもの
 今日の教育現場における「指導力」が、昔のものとは質的に異なることは上で述べた。また、教師を“訓導”と呼んだ時代と今とでは、時代は大きく変化しており、人々の価値観・人生観・教育観などが多様化していることも既述した。したがって、教師は弛まざる自己研鑽が必要である。にもかかわらず、少なからぬ教師達がそれを怠っているように思える。具体的には、

  (1)終身雇用・定期昇給への過度の慣れ、換言すれば、安定した職業であることから、危機感が不足あるいは欠如する。
  (2)前記理由に影響されて、新しいことへのチャレンジ精神が不足あるいは欠如する。
  (3)相手が若年者達であるために、ともすると自他に甘くなり、自己研鑽や同僚達との切磋琢磨・競争などを怠りがちになる。
  (3)さらにその結果、時代の実態に疎くなり、危機感をまったく持たなく[持てなく]なる。

などの様相を呈する。

5.戦後の教育界が欠いてきたもの
 教育課程審議会(教課審)が平成10年7月、文部大臣に答申した「教育課程の基準の改善の基本的考え方」を示し、21世紀の学校像・教育像を示した。そのうち、「U 教育課程の基準の改善の関連事項」の「二」において「指導方法」を、「五」において「教師」の存り方について、また「六」において「学校運営」、「七」において「家庭及び地域社会における教育の連携」に言及している。しかし、(一般論を語る場合の難しさなのであろうが)もう一つ、具体性に欠ける記述になっているように私には思える。
 我が国においては、明治以来、“日本人”を教育する際に、欧米、とりわけ米国で発達した児童心理学、教育学、指導法などを導入することが多かったし、専門用語なども“外来”のものを多く用いた。そのことが、国民性・風俗習慣・価値観などが大きく異なる“日本”の教育現場でどのような問題を発生させたか(あるいはそうでないか)といった点については、どの程度きちんとした検証がなされているのであろうか。私には戦後の教育界にはこの点が欠けているか不足しているかのように思えてならない。

第2部 
1.英語教師と「指導力」
 教課審「教育課程の基準の改善の基本的考え方」の「四 (二) J 外国語 ア 改善の基本方針 イ 改善の具体的事項(中学校) (高等学校)」に英語教師としての指導の在り方に関する言及があるが、「指導力」をどう捉えるべきかについては、見た限り、言及はない。私個人は「指導力」を第1部1.あるいは次に示すように理解している。

2.「指導力」とは、「計画力[企画力]、観察力、判断力、説得力、実行力[運営力]、自己分析力などの総合力」である。
 具体的に言えば、

  (1)教室における英語の授業の年間計画を適切に立てられるか(計画力[企画力])。
  (2)生徒・学生(一人一人)の実態・実力などを観察し、教授法、教授資料などの選択に関して適切な判断ができるか(観察力・判断力)。
  (3)生徒・学生を初め、教科担当の同僚達に自分の教授法の適切性・妥当性を説得できるか(説得力)。
  (4)計画[企画]したことをきちんと実行できるか(実行力[運営力])
  (5)自分の授業を客観視し、それを授業に活かせるか(自己分析力)。

などの諸点を実践し、生徒・学生達の側から「授業評価」を受け、それで6、7割の好評価を受けられれば「指導力」に関しては「良」、8、9割の好評価を受けられれば「優」、9割以上であれば「秀」の状態であると言えよう。かく言う私の場合は、本務校では、毎年、公式行事としての「学生による授業評価」が行われており、本年度(平成16年[2004年])の結果はこちらに示した(→参照)。
 中学・高校などで、「授業評価」を公式に行っていない場合、次のような質問項目を個人あるいは英語科で用意して、それに基づいて、生徒達の評価を受けてみるとよいであろう。

A表
評価は下記の6段階で行い、TとUの各平均値を出す。

5.強くそう思う 4.そう思う 3.どちらともいえない 2.そうは思わない 1.全くそうは思わない 0.わからない

T授業について 評 価
 1 授業内容がシラバス(講義概要)に沿っていた。
 2 成績の評価方法が説明されていた。
 3 教材・資料(プリント・スライド等)の利用が効果的だった。
 4 教員の言葉や板書はわかりやすかった。
 5 この授業では教員の意欲・熱意が感じられた。
 6 教員は学生の質問や相談に応じてくれた。
 7 授業の開始時間、終了時間は守られていた。
 8 教室内が授業にふさわしい雰囲気に保たれていた。
U授業の満足度
 9 この授業の内容は興味深かった。
10 この授業はわかりやすかった。
11 私はこの授業に満足している。

B表
生徒に教員・授業に関する自由な意見を書かせるための用紙(B表)を用意する。筆跡や書いてある内容によってはだれが書いたかを推測あるいは特定できる場合もあるが、それによって当人に特別な私心を抱いてはならない。生徒の「本音」を知ることこそが自分の「指導力」の実態を把握することに繋がるからである。

結語:「始動力」を身に付け「始動者」になろう。「A I U E O De 行こう!」
 
「指導力」の“指導”は“指で導く”と書く。その力が「指導力」であると(無理に)解釈すれば、「指導力」は少し迫力に欠ける。そこで私は“始動力”という文字を用いて、自分自身を鼓舞している。「まず自らが動き始め、生徒・学生達をも動かし始める力」という意味である。そういう力を持った「始動者」になりたいと私は思う(「思う」だけというところもなくはないが…)。

教師としての私ができるだけ心掛けているのは「A I U E O De 行こう!」の精神を持つことである。具体的に言えば、

A…acceptance (生徒・学生を一人の人間として心から受け入る
I…interest (生徒・学生に一人の人間として興味を示す
…understanding (生徒・学生を一人の人間として理解する
…encouragement (生徒・学生を一人の人間として励ます
…optimization (生徒・学生を一人の人間として素晴らしく成長するように助力する;「適正化」
De…defragmentation (生徒・学生を一人の人間としてバランスの取れた[過不足のない]知識を持てるように助力する;「非断片化」

の諸点を常に意識し、それを実践することである。