5.無責任教師が大学と学生をだめにする


 筆者の手元に、東洋経済新聞社が河合塾と共に1993年以来毎年発行している分厚い『日本の大学』というデータブックがある。各大学の学生が推薦する「推薦教授」の項もさることながら、大学や教授たちに対する、学生たちの辛口評がまことに興味深い。
 たとえば、「ほとんどの先生は勝手に授業を進めて行くという感じ」「学生たちに教える気のない先生が多い」「ヤル気のある人とない人との差が激しい」「ヤル気を出させてくれる人が少ない」「授業は難しい上、教員は、勝手について来いという感じ」「説明が足りず、分かりにくい授業が多い」「質問に答えてくれない教授がいる」「有名、ハイレベルな先生が多いが、忙しくてあまりかまってくれない」「苦労しないで単位が取れる」などというものである。東京六大学の中でもトップ校の一つと言われている]校には、「出席もしていないのに《優》をくれる先生がいる」そうである。

(1)無責任の謗(そし)りを免れない教師たち
 「忙しくてあまりかまってくれない」という評の真意がどういうものであるかは今は考えないとして、教師の中には無責任の謗りを免れないと思われる人たちも多い。
 たとえば、筆者は数年前、ある大学でこんな授業風景を目撃した(夏期で、教室の後部ドアが開放されていた)。70歳近い女性教師が担当する英語の授業であった。学生数は約30名。うち、4、5名だけが教卓に近い所に着席して教師の話に耳を傾けている(ように思えた)。教室の中ほどに着席している14、5名の学生は漫画や雑誌を読んでおり、残りの学生たちは、後部に着席して眠っているか、横向きになって清涼飲料水を飲んでいるか、私語に夢中になっているかであった。担当教員は、そんなことにはお構いなしに、ブツブツと何やら呟いている。次の週も、その次の週も、授業風景はさほど変化しなかった。「この教師にして、この学生たちである」と言ってしまえばそれまでである。いくら大学に遊びに来ている学生たちが多くなったとはいえ、教師たる者がこれでは、あまりにも無責任であろう。
 もう1例、書きにくいことだが、場所は筆者の勤務校で、同じく数年前のことであった。期末試験の他学部監督補助として大教室に出向き、机間巡歩をしていた時のことである。後部座席で受験をしていた男子学生(1年生)の素振りがおかしい。気づかれないように観察をしていると、左掌に隠し持った小さな紙切れをチラチラと見ている。カンニングをしていることを十分に確認してから、当人に近づき、左掌を開かせた。本人はカンニングであることを認めない。なぜか、と問いただすと、ここに書いてあることは試験には全く出題されておらず、したがってカンニングには当たらないと弁解する。
 筆者は試験後、当人を教員控室に呼び、事情を聴いた。ふてくされた態度で、相変わらず、カンニングには当たらないと弁解する。筆者は、こんこんと諭した。「君が受けた科目は、君の理解度を試験するものである。理解していない、あるいは理解できないからと言って、不正行為とされているカンニングをするのは許されることではない。カンニングペーパーに書いておいた所が出たとか出ないとかの問題でもない。試験は教師のために受けるのではない。たとえば、君がカンニングペーパーに書いておいた所がそのまま出題されて、満点あるいはそれに近い高得点をもらったとしよう。それが君の人生にどれほどの意味を持つのか。君の実力によって獲得したものでなかったことは、だれ知らずとも、君自身がよく知っている。自分自身に恥じるようなことをしてはならない。君がもっとも自信の持てる科目で、精一杯努力して、《これが僕の実力だ》という点を取ることこそ大事だと思う。この科目を落としたとしても、それでいいではないか。若いうちから、世の中をごまかして生きて行く癖をつけてはいけない。邪(よこしま)な気持ちでこのペーパーを用意していたということを認めてはどうか。そのほうがすっきりすると思う。教授にはきちんと詫びて、善後策を講じていただくほうがよい。」 こう説得すると、その学生は、「分かりました。僕が悪かったです。カンニングするつもりでした」と詫びた。反抗的な態度も、こわばっていた彼の顔の表情も和らいだ。 そこへ、出題者である担当教授(男性)がやって来た。筆者は、事の次第を順を追って伝えた。ところが、驚くなかれ、同氏はこう答えたのである。「ああ、これね。こんなの書いても問題に出してないんだから、得点にはなりませんよ。キミ、もういいよ。」 そう言って同氏は部屋を出て行った。筆者は唖然として、その後ろ姿を見送るだけであった。学則によっても、試験中の不正行為は厳しく処罰されることになっている。本人も不正行為を認めているのである。筆者は、その学生には、先生は大目に見てくださった、よかったね。今後はこんなことをしないようにねと、もう一度諭してかえした。
 その学生は、どんな思いで教員控室を出て行ったのであろうか。大事に至らなくてよかったと思い、反省していたであろうか。それとも、アカンベーと舌を出して、筆者のことを笑っていたであろうか。後者でないことを祈った。

(2)無責任教師が学生をだめにする
 筆者は、学生のカンニングを告発することによって、当人を処罰してもらおうとのみ思ったのではない。善悪の区別のつく若者であってほしかったのである。世の中、こんなものさ、とばかりに、ずるく、あるいは小賢く生きることを由としないでほしいと思ったのである。このことは、筆者が所属する学部教授会でも報告し、学部長から当該学部長へ事後報告をしてもらった。その後、どうなったかは定かではない。
 それから数年後の卒業式の日のことであった。式典終了後、筆者が自分の研究室に戻って見ると、一人の学生がドアの前に立って、筆者を待っていた。「先生、僕を覚えておられますか。」 他学部の学生であることは、顔馴染みでなかったのですぐに分かったが、それがだれであるかは数秒の時を必要とした。 「あっ、君は・・・」と言うと、「はい、あの時の学生です」と答えた。部屋に入ると、彼は深々と頭を下げて、こう言った。「先生、あの時、先生に叱っていただいたお陰で、僕は二度とあんなことはしませんでした。きょう何とか卒業できました。もっと早く来たかったのですが、ついつい卒業式の日になってしまいました。すみませんでした。」 明るい、いい顔をした青年になっていた。筆者は、その日、一日、うれしくてうれしくてたまらなかった。あの時の筆者の言葉を悪く解釈せずに、素直に受け入れてくれたことが何よりもうれしかった。
 試験監督補助と言えば、こんなこともあった。試験場に向かう筆者に、担当教授(男性) が一枚の紙切れを手渡した。見ると、「問題を配る前に、学生に伝えて下さい」とあって、その下に、三つの注意事項が書いてあった。その三番目には、「受験中に不審な態度をする学生が居たら、監督者が色エンピツで答案に× (バツ)印をつけることがあります。このような答案は採点されません」 とある。
 しかも、これに赤エンピツで、「これはカンニング防止の《オドシ》のジェスチャーです」と注意書きが添えてあったのである。いったい、なぜこのような《オドシ》やジェスチャーが必要なのだろうか。
 もう一例、これも他学部の試験監督補助をした際に経験したことである。筆者は試験場に向かう前に、担当教授(女性)に、「この試験は教科書か参考書の《持ち込み》は可ですか」と尋ねると、同氏はこう答えた。「ええ、何を見ても構いません。見るなと言っても、学生たちはどうせ見ますから。」 筆者はこれにも唖然とした。
 いずれの担当教授にも言えることだが、なぜ学生を疑ってかかるのであろうか。確かに、これまでに少なからぬ件数のカンニングが発覚し、適宜処罰されている。だからと言って、「どうせ学生はカンニングするのだから」と決めつけてよいということにはならない。それは教師が教育上の敗北を認めたことになる。教師がそういう態度で学生たちに接するかぎり、彼らもそれを敏感に感じとり、不正行為を改めないであろうし、その手口はますます巧妙になるであろう
 筆者は普段から、試験時の心構えとして、学生たちにこう言うことにしている。「最近では廃れてしまったが、アメリカにはhonors system(試験無監督制度)という制度があった。これは受験中の学生が、全く監督も受けず、入退室も自由で、不正行為をしなかったという誓約をする大学の制度であり、そのパイオニアは19世紀中葉のヴァージニア大学である。学生たちは、試験終了時に答案用紙に I pledge my honor as a gentleman that during this examination I have neither given nor received assistance.(私は本考査中に、いかなる援助も与えず、かつ受けなかったことを、紳士の名誉にかけて誓約致します)と記入した。最後までこの制度を採用していた学校の1つに米国陸軍士官学校があるが、同校でさえ、カンニングが起きたことがある。しかし、学生を紳士(女性なら淑女)として信頼し、学生自身も自分を紳士(淑女)として自制し、それに応じた行動をとるということは賞賛に値することである。私もこの制度の精神を汲んで諸君を信頼する。したがって、試験時はそのつもりで行動してほしい」と。
 ちなみに、筆者は、どれほど受験生がいても、監督の補助を依頼したことはない。学生たちを悪人視し、最初から信用しない教師が多数だなどとは思わない。しかし、上の諸例からも判断できるように、非常識な言動をする教師もまた少なくないのである。
 名簿を回して各人に自分の氏名・学藷番号を記入してもらう場合も、筆者は、学生たちに、他人の代筆は厳禁であると明言しておく。「出席できない時は、そのことを前もって、あるいは次週出席した時でよいから、きちんと伝えること。欠席であるのに、出席に見せかけるのは、恥ずべきことである。代筆をし合うのは、真の友情ではない。私は、出欠を取りながら、今日はみんな来ているな、今日は]君が休んでいるが病欠だろうか、Yさんは今日も欠席だな、どうしたのかな、などと、諸君の存在・不存在を確認しているのであって、それをすぐに成績評価と結び付けないでほしい。」
 こういうふうに伝えておくと、ほとんどの学生たちは、こちらの信頼に応えてくれる。ちなみに、次に示すのは、筆者の思いを理解してくれた女子学生Mさん(4年生)が、年度末試験の用紙裏面に書いてくれた《反省の辞》である。これが、全くの自発的反省であるところに私の喜びがある。

    前期の講義で、私が出席しているのに気付かず、友人が私の名前を名簿に
    書いたことがあります。4年間大学に通って、このようなことを当たり前のよ
    うに行なっていた私たちは、本当に恥ずかしいと思います。私も、今まで、友
    人の代返をしたことがあります。それを悪いとは思っていなかったことが、また、
    悪いと思っても、それを友情などと取り違えていたことが情けないです。そして、
    そのことを気付かせて下さった先生に本当に感謝したいと思います。残りの学
    生生活は短いものですが、自分に恥ずかしくない行動をとっていきます。申し
    訳ありませんでした。

(3)世妃の変わり目に、伝えるべきことは伝えよう
 ある時、学生の一人が、「先生は、出欠を取るのは、諸君の存在・不存在を確認しているのであって、成績評価とすぐに結び付けないでほしい、と言われましたが、本当にそうでしょうか」と質問に来た。そこで筆者は、次のような話をした。
 「私は明治学院大学にも出講しているが、かつて、経済学部1年生の英語のクラスでこんなことがあった。年度最初の授業の時のこと。教務課から、S君は重い心臓病を患っているので注意してやってほしいという通知が届いた。 S君には、無理をしないようにと伝えた。その時の返事が、『先生、僕は時間が惜しいんです』というものだった。私にはその時、彼のその言葉の真意が本当には理解できなかった。それから、約半年間、彼は遅刻も欠席もせずに、授業に出席した。ところが、夏休みがあけると、バッタリと来なくなった。私は少々心配になったが、そのままにしておいた。ところが12月に入ったある日、再び教務課から通知があり、S君を除簿するようにという指示であった。理由は本人が10月に死亡したためだという。早速、教務課で電話番号を教わり、当人の自宅に電話を掛けた。するとお母さんが出られて、『息子は幼い時から重い心臓病を患っており、これまでに二度の大手術を受けました。今回、三度目の大手術でしたが、とうとう耐え切れずに亡くなりました。障害を持つ息子を入学させてくれた学院には本当に感謝しています。しかも、非常勤の英語の先生にこんなに心配していただき、息子は本当に幸せ者です。さぞや、喜んでいると思います」と言われた。私は心の底から彼の冥福を祈った。それまでもそうだったけれども、そのことがあって以来、私は、点呼しながら、よりいっそう君たちの出欠が気になるのだ。」
 筆者はその学生に、そう説明した。彼は、じっと筆者を見つめて、「悲しいけど、貴重な話をして下さって、ありがとうございました。S君の無念の気持ちを忘れないようにして、きちんと授業に出ます」と言った。
 周知の通り、第65代横綱・貴乃花は、横網伝達式の際、「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という、日常的に馴染みのない、いかにも借り物といった言葉を使用したが、そう言えるのは、彼が並外れた健康の持ち主であるからであり、前記S君のような、健康を望んでも望み得なかった若者には、口が裂けても言えない言葉であったろう。志半ばで人生を諦めねばならなかったS君の無念を思うにつけ、筆者は若者に、「たった一人しかいない自分を、たった一度しかない人生を、惜しんで惜しんで、大事に大事にせよ」と言いたいと思う。彼らには、いつも「可惜身命(あたらしんみょう)」という、「不惜身命」の反対の言葉を贈ることにしている。
 20世紀も残りわずかとなった。次の世紀(の少なくとも最初の四半世紀)を担っていくのは、今の若者たちである。「今の若い者は…」とは、いつの時代にも言われてきた放言である。仮に、今の若者たちが頼りないとしても、次代を託す者としては彼らしかいない。それならば、人生の先輩として、伝えられるものは伝え、託せるものは託して、彼らの活躍を信じ、期待し、応援してやるのが先輩の務めである。情熱と共に凛然(りんぜん)とした態度で生きる大学教師が多ければ多いほど、学生たちの生活態度も真剣味を増すものと固く信じている。

【本稿は杉山徹宗・山岸勝榮編『未来をめざす大学改革―大学を救うために』(鷹書房、1996年)の第2章第7項用素稿として書いたものである。同書には優れた具体的大学改革案が多く収録されているのでご一読いただきたい。】