「山岸ゼミ専用掲示板」より【匿名掲載にあたっては学生諸君の了解を得ています】

4.なぜ見て見ぬ振りをするのか
            

本稿は「山岸ゼミ専用掲示板」に書き込まれた、「日本の言語文化に関する外国人の疑問」の内の1つ(No.91)、
日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても“見て見ぬ振り”をするのか。叱るべきではないのか」への
ゼミ生による回答および意見です。いつの時代にも、物事を真剣に考える若者たちが大勢いることを喜びたいと思います。
投稿順に記載してあります(投稿者は全て仮名)。



投稿時間:02/03/26(Tue) 00:21
投稿者名:長谷川弓子

タイトル:
疑問91「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても『見て見ぬ振り』をするのか。叱るべきではないのか」について

みなさん、こんばんは。先日卒業した長谷川です。久しぶりの投稿になってしまい、大変申し訳ございませんが、疑問91について投稿させていただきたいと思います。
 まず、この疑問が上げられるということは、欧米では他人の子であろうと自分の子であろうと、大人は悪いことをした子を叱ることが普通であると考えられているのだと思います。しかし、日本の社会では、子どもが悪いことをしていても、回りの人々は見ているだけで、叱ったり注意をしたりする光景はめったに見うけられません。まして、その現場にその子の母親が一緒にいたら、絶対に注意などしないでしょう。ではなぜ、日本人は他人の子が悪いことをしている現場を見ても叱らないのでしょうか。
 それには、日本文化の特徴である「ウチ」と「ソト」が深く関わっていると思います。日本の社会はウチとソト、そしてヨソがはっきりと区別されています。そしてウチの中でも最も中心にあるのは「家族」です。そして私達は、ウチである家で自分の家族と共に毎日を過ごしています。その家族の前では、言いたいことを言い合ったり、好きなことをしたり、また悩みを相談したり、支えあって生活しています。そして、そこには「遠慮」は全くないと思います。それがウチである家族です。しかし、一歩ウチをでて、ソト、ヨソになると突然「遠慮」が発生します。日本の社会では、ヨソの家におじゃまをしたり、ヨソの人とお話をしたりするときに、「遠慮」をすることが当たり前であると考えられていると思います。
 ですから、家族である自分の子どもをしかることと違い、他人の子どもを注意することが難しいのは、その子の親とその子はヨソの人ですから、ウチである自分の子どものように、遠慮をしないで叱ったりすることは難しいのであると思います。私の祖母が申してたことは、昔は近所の子供たちをどの母親も注意したり叱ったりしていたそうです。それは「袖振り合うも他生の縁」というように、昔は「他人」もすぐに知り合いになってしまうことが多かった中で、近所の子ども達は家族同然だったのかなあと思います。ですから、叱ったり注意をしたりできたのではないでしょうか。
 みなさんはどう思いますか。ご意見などございましたらよろしくお願い申し上げます。
                                    長谷川弓子(2001年度卒業生)

投稿時間:02/03/26(Tue) 20:31
投稿者名:小池和子

タイトル:
Re: 疑問91「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても 『見て見ぬ振り』をするのか。叱るべきではないのか」について  
みなさん、こんばんは。現ゼミ生3年の小池知子です。長谷川さんのご投稿を読ませていただきました。
 他人の子が悪いことをしていても「見て見ぬ振り」をするというのは、現代の日本では特にそうですよね。路上で地面に座りこんで、堂々とたばこを吸っている高校生を見かけることがよくありますが、(私も含めてですが)大人たちは何も言いません。彼らを「ソト」の人間とみなし、彼らとかかわることを避けているのかもしれません。
  でも、例えばレストランの中で、制服のままたばこを吸っている高校生がいたとしたら、きっとレストランの従業員は注意をすると思います。それはレストランの管理・監督をする立場上、そうせざるを得ないからです。また他の客も、そうすることを従業員に期待していると思います。従業員にとってレストラン内は「ウチ」なのです。ですから、その従業員も一歩レストランの外に出て、路上で同じ光景を目にしても、注意はしないと思います。
  昔は同じムラに住む人はみな「ウチ」の人間で、悪いことをすれば他人の子でも叱ることができたのだと思います。長谷川さんのおっしゃるように、近所の子供は家族同然だったのだと思います。小池和子(3年次生)


投稿時間:02/03/30(Sat) 01:22
投稿者名:岩田静江

タイトル: Re: 疑問91「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても 『見て見ぬ振り』 をするのか。叱るべきではないのか」について
みなさん、こんばんは。2001年度卒業生の岩田です。
 遅れ馳せながら、長谷川さんのご投稿を拝見させていただきました。大池さんもおっしゃっておりましたが、「見て見ぬ振り」というのは(私を含め)多いですね。全く面識のない人と関わることを避けているかのように見えます。特に現在では高校生の悪質なマナ−を「見て見ぬ振り」をする人が増えているように思います。私もそうですが、注意をすると上目づかいでこちらを見て、なぜあなたに注意されなければならないの?とでも言われているかのような視線を感じることがあります。そのような視線を受ける度に、私ももう関わりたくないと思うことがしばしばです。そのせいで、「見て見ぬ振り」というのが更に浸透してしまうのでしょうね。
  長谷川さんがおっしゃっている「袖振り合うも他生の縁」という言葉が今ではマイナスイメ−ジのようにとらえられていますね。このような考え方があった当時は他人でも家族同然のように考えられていたのだと思いますが、今では所詮「他人」は「他人」という考え方が主流になりました。このような考えがあるために、「見て見ぬ振り」というのが今では強く残っているのかもしれません。残念なことですね。当時の日本の素晴らしさと今の日本の素晴らしさを活かすことの出来る社会がくる日はいつになるのでしょうか。それも難しいことなのでしょうか。最近、日本の政治においては不祥事が目立つこともあり、こうした報道がされる度に海外へとその情報が流れてしまうことを残念に思います。本当の意味での日本の素晴らしさを知ってもらうことの出来る日が一日も早く訪れて欲しいです。 岩田静江(2001年度卒業生)

投稿時間:02/04/12(Fri) 22:12
投稿者名:後藤和恵
タイトル:
Re: 疑問91「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても『見て見ぬ振り』をするのか。叱るべきではないのか」について
みなさん、こんばんは。今年度ゼミ生の後藤和恵です。本年度もよろしくお願いいたします。私は先日、この疑問91を拝見させていただき、私自身も常々このことに疑問を感じていたので、投稿させていただきました。
 みなさんもおっしゃっていたように、他人の子供も叱っていた時代もあったと思います。昔と比べると、都心部を中心に日本人が感じる「ウチ」の範囲が狭くなってきているのではないでしょうか。この「ウチとソト」の意識の変化が、このような疑問を作り出してしまったのではないかと私は思います。
 私は小学生の時、道端に咲いている花を摘み、怒られた記憶があります。なぜ怒られたかというと、私が摘んだ花は、私を怒った(というよりは注意した)人が育てていた花だったからです。今振り返ると、こういった善悪の判断は、間違っていることをしている時にこそ、正してもらうべきなのだと思いました。
 ここからは、私の高校時代の体験を書かせていただきたいと思います。私は電車通学だったのですが、ある時、私の目の前の席でかつあげをしている中学生を見ました。ほんの二メートル先で起こっている事態に私は動揺を隠せませんでした。そのつい先日、かつあげにあって、顔がぱんぱんに腫れ、頭をなん針か縫った同級生を見たばかりだったので、人ごとに感じることは出来なかったのです。今までもちろん、こういった現場に居合わせたことはありませんし、相手は男の子、どうしたら良いんだろうと、辺りを見回しました。その時車内は混んではいないものの、私の目の届く範囲に大人は同乗していました。しかし、見て見ぬ振りをしているのか、それとも本当に気づいていないのか、誰も彼らの行為を止める人はいませんでした。なので私は、さすがに怖くて立ち上がることは出来ませんでしたが、彼らに声をかけ、かつあげ行為を止めようとしました。かなり大きい声で言ったつもりです。絶対誰かの耳には届いていたはずです。しかし、誰一人振り返ることはしませんでした。
 この時のショックは相当大きなものでした。かつあげという行為を見て見ぬ振りをしただけでなく、私がとった行動自体を無視したのです。その後、私は大人不信になり、今でも知らない人に対してはそん不信感を捨て去ることは出来ません。
 なんだか、暗い話になってしまって申し訳ありません。しかし、この問題を軽視しすぎると、日本の秩序が乱れていってしまうような気がします。最後まで読んでくださった方、目を通してくださった方、ありがとうございました。3年 今年度ゼミ生 後藤和恵


投稿時間:02/04/13(Sat) 14:16
投稿者名:三井彩子

タイトル:
後藤さんへ

後藤さん、こんにちは。今年度ゼミ生の三井彩子です。明後日からいよいよゼミが始まりますね。ゼミ生皆で頑張っていきましょう。
 後藤さんのご投稿大変興味深く拝読させていただきました。

>都心部を中心に日本人が感じる「ウチ」の範囲が狭くなってきているのではないでしょうか。この「ウチとソト」の意識の変化が、このような疑問を作り出してしまったのではないかとわたしは思います。

ご指摘いただいた点は私もやはり密接に関わっていると感じました。
 昔の日本では「ウチ」意識が非常に強くそのことを表す「ウチ」とは“集団共同体内部”のことであり、村は代表例にあたると思います。人々は村の中で互いに助け合って暮らしていたので「ウチ」に対しての遠慮はほとんどありませんでした。皆大きな家族のような存在だったのです。例えば松吉さんの所の坊が何か悪さをしたならまるで自分の子供を叱るのと同じように叱ったのではないでしょうか。叱る側も叱られる側もすでに垣根がない関係だったのです。また昔の人は本当によく大きな声で子供達を叱りました。(これは祖母から福島に帰省するたびに聞かされる話です。)悪さをすれば、村の中では噂はすぐに広まってしまいます。しかし子供たちは村の中の皆の前で注意を受けたからこそこの次は悪さをしてはならないという戒めを学んだのではないかと思います。人間の絆が強い時代ならではの本当に素晴らしいことだと思います。
 一方、現在に目を向けて見ますと本当に「ウチはウチ」「ヨソハヨソ」はっきり分かれてしまっている実態に胸が痛みます。ヨソの子供が悪いことをしているのを見たとき今多くの人は「ウチの子ではないから。」と目を背けてしまいます。しかし本当にその時点で叱ってあげなければ子供はいつ自分のしている行為が悪いと気がつくのでしょう。私たち日本人一人一人が子供のためを思うのなら叱れると思います。後藤さんは電車の中で本当に勇気ある行動をなさいましたね。ご立派だと思います。その勇気ある行動に対する大人の対応にはさぞ、がっかりなされたことでしょう。冷たい人達ばかりが乗り合わせてしまったのですね。日本人の良いところは相手を気遣いそっとしておいてあげるつまり、気持ちを察する所ですが、悪いことを見て無視するという態度は許されることではありません。
 私も後藤さんを見習って正義ある行動を心がけます。この行動が大人の心の中に響き少しでも多くの人が気づくことを願います。長くなりましたが読んで頂き心より感謝致します。今年度ゼミ生三年次 三井彩子

参考文献:山岸勝榮先生著『日英言語文化論考』(こびあん書房)
     対照言語研究の授業でお聞きした山岸先生のお話
          
投稿時間:02/04/13(Sat) 19:13
投稿者名:遠藤 隆
タイトル:
Re: 疑問91 「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても『見て見ぬ振り』をするのか。叱るべきではないの」について
こんばんは、現ゼミ4年次生の遠藤です。
 長谷川先輩のご投稿を拝読いたしました。説得力があり、そのおかげで完璧な疑問解決へと着実に進みましたね。「うち」と「そと」の考え方は日常生活の至る所で垣間見ることができるのですね。
 後藤さんのご投稿に

 >私は小学生の時、道端に咲いている花を摘み、怒られた記憶があります。なぜ怒られたかというと、私が摘んだ花は、私を怒った(というよりは注意した)人が育てていた花だったからです。今振り返ると、こういった善悪の判断は、間違っていることをしている時にこそ、正してもらうべきなのだと思いました。

 とありましたが、まさに仰るとおりだと思います。そうしなければいつまでたっても世間知らずな人になってしまうし、そうされて初めて社会の中での自分の位置を見出し、これからどうすればいいのかを真剣に考える事でしょう。それがやがて自己の向上、進歩につながるのでしょうね。
 また後藤さんのご投稿に

 >みなさんもおっしゃっていたように、他人の子供も叱っていた時代もあったと思います。昔と比べると、都心部を中心に日本人が感じる「ウチ」の範囲が狭くなってきているのではないでしょうか。この「ウチとソト」の意識の変化が、このような疑問を作り出してしまったのではないかと私は思います。

 これは特に感じますね。そういった関係がどんどん希薄になってきていると思います。これは重大な問題ですね。
 佐藤さんは大変苦々しい経験をされたそうですが、世の中には納得のいかない事、不条理なことがいっぱいあって、それらが解決されると皆が心地よく暮らせ、より良い世界になりますね。
 私はこの長谷川先輩のご投稿に以下のことを加えたいと思います。
 注意して逆に怒鳴られたり、失礼なことや理不尽なことを言われるのを避けるために、又は自分の身を危険から守るために他人の子を叱らないのではないでしょうか。
 そして大人が子供のことを怖がったりする事、どう叱ったら良いかわからなかったりする事、自信を持てない大人が増えた事などもその原因として挙げられるのではないでしょうか。
 ここで皆さんにお聞きしたいことがあります。
以下の文をお読みになった後何を感じたかお聞かせください、ご投稿ください。
 他人の子の悪しき行動(もしくは言動)について叱る或いは注意するか、そうしないかについてよく母と話すことがあるのですが、 たまに「あまり注意しないほうがいいよ」と私が言うことがあります。何故そう言うかというと、注意したらその腹いせに、最悪の場合怪我をしたり命を落とすかもしれないからです。
 以前ニュースで図書館でホームレスの人に注意された中学生が、夜にそのホームレスの人の所に行って腹いせに殴る蹴るの暴行を加えて殺してしまった事件があったと思います。
 岩田先輩のご投稿にも

>注意をすると上目づかいでこちらを見て、なぜあなたに注意されなければならないの?とでも言われているかのような視線を感じることがあります。そのような視線を受ける度に、私ももう関わりたくないと思うことがしばしばです。そのせいで、「見てみぬふり」というのが更に浸透してしまうのでしょうね。

とありましたように最近では注意すると注意された人間が「逆ギレ」するようになりましたね。自分の子は一番でかわいい存在なので、相手にとやかく言われる筋合いはないと考える親が増えましたね。
 でもそれをほったらかしにしたために、このような事態になってしまいました。
 注意すると何をされるかわからない物騒な時代なので注意ができないのでしょう。注意したいにもかかわらず勇気が出なかったりして、結局、見て見ぬ振りをしてしまうというジレンマに陥ることが私を含めてあると思いますが、どのようにしたら効果的に対処できるのでしょうか。
 もちろん一人でも多くの人が注意するようにすれば、一人が二人、二人が三人・・・と増えていって、だんだんそういう輪が広がるので、多くの人が自覚して注意するように努力すべきですね。結局は地道にやらねばならないのです。マザー・テレサもはじめは新手の布教と揶揄され、嫌がらせも受けたでしょう。でもその地道な活動がやがて大きくなり、人々に浸透し、1979年にはノーベル平和賞を受賞しました。皆が自覚し、改善しようと意識的に努力しなければなりませんね。
 なにやらまとまりのない文になってしまいました。申し訳ございません。遠藤 隆(4年次生)


投稿時間:02/04/14(Sun) 01:47
投稿者名:後藤和恵
タイトル:
三井さんへ

三井さん、こんばんは。今年度ゼミ生の語と後藤です。少し前の疑問だったのにも関らず、お返事いただき大変うれしく思っております。こちらこそ、ゼミではよろしくお願いいたします。
 この問題はこの先どうなるのか、私は心配でなりません。自分の子供ですら叱れない親が増えてきている現実を直視すると、ましてや他人の子を注意するなんて難しいことですよね。もう手におえない問題なのでしょうか。それとも、まだ何とかなる問題なのでしょうか。
 しかし、最近の若い人たちのマナーの悪さには、同じ年代のものとして怒りを感じずにはいられません。今日もバイト先で、私はおそろしい光景を見ました。私はレストランでアルバイトをしているのですが、今日は隣のお店(ビルの中のお隣さんなので数メートルしか離れていないのです)で結婚式の二次会が催されていました。なんだか騒がしいなと思い、お店の入り口からのぞいてみると、(見た目で判断するわけではありませんが)いかにもガラが悪そうな人たちが大勢、店に入らず騒いでいました。買ってきた缶ビールを飲む者、灰皿はないのに煙草を吸う者、見ていると嫌気がさすような光景でした。しかし、他店のお客様なので文句を言うわけにもいかなかったのです。後でその場を見たところ、缶ビールは置きっぱなしで、煙草の灰もおちていました。一番ひどかったのは、観葉植物の鉢にしいてあるコルクの部分を灰皿代わりに使われていたことです。私は怒りを通り越して、悲しくなってきました。
 どうしたらこうなれるのでしょう。何が彼らをこうさせているのでしょう。最近ますます悲観的になってしまいます。しかし、どこかで変えなければいけないと切々に思うのも事実です。この悪循環がどんどん広がっていったらと考えると恐ろしすぎます。私たちに出来ることはあるのでしょうか。今年度ゼミ生・三年 後藤和恵



投稿時間:02/04/14(Sun) 04:08
投稿者名:下川真理子
タイトル:
遠藤君へ

遠藤君、みなさん、こんばんは。いよいよ明日からゼミが始まりますね。少し緊張しますが、みなさんとお会いできること、とても楽しみにしております。今年一年間宜しくお願いいたします。ご一緒に頑張りましょう。
私も先輩が書かれた、疑問91について、『うち』と『そと』の意識を関連させ、とても分かり易くご説明になっていて、大変説得力があり、的を射たお答えであると思いました。また遠藤君が、

> 注意して逆に怒鳴られたり、失礼なことや理不尽なことを言われるのを避けるために、又は自分の身を危険から守るために他人の子を叱らないのではないでしょうか。

とおっしゃっていますが、私もそう思います。新聞やニュースなどで、若者が注意された腹いせに、その注意した人を刺してしまったり、殺してしまうといったことを度々目にします。こういったことが報道され、よく話題になるので、自分もそのような目に遭いたくないという恐怖心から、注意することや叱ることを躊躇してしまうのだと思います。話しがそれてしまいますが、アメリカでは、自分の子供を少し叱っただけでも、虐待とみなされ、逮捕されてしまうといったことを以前テレビで見ました。叱ることを通り越して、それ以上のことをしてしまったら虐待に繋がってしまいますが、これは行き過ぎである気がいたしました。悪いことをした子供を、親が叱らないで、誰が叱るのでしょうか。日本でも、自分の子でさえも叱らない親が増えています。家で叱られることに慣れていないため、他人に怒られた場合腹を立てたり、事件を引き起こしてしまうのだと思います。子供が他人に注意される前に、親がもっとしっかりと子供に教育することが重要であると感じました。それでは、失礼いたします。下川真理子(4年)


投稿時間:02/04/14(Sun) 05:43
投稿者名:下川真理子
タイトル:
後藤さんへ

後藤さん、おはようございます。今年一年間ゼミでご一緒に勉強させていただく下川真理子です。どうぞ宜しくお願いいたします。いよいよ明日からゼミがスタートしますね。ご一緒に頑張りましょう!
 後藤さんがお書きになったものを拝見しまして、後藤さんは、大変勇敢であると同時に、ご立派な方であると、頭が下がる思いで一杯になりました。かつ上げをしていた人達に対して、声をかけ、止めさせようと注意されたこと、とても勇気がいることですし、注意した腹いせに何をされるかわからないという恐怖があられたと思います。見てみぬふりをする人が多いなか、そのような行動をとられたこと、本当にすばらしいです。ですが、残念といいますか、大変腹立たしいことは、回りにいた大人が、その光景に気づいていながら、無視していたことです。どうも思わなかったのでしょうか。自分には関係のないことで、放っておけば、そのうち収まるとでも思っていたのかもしれません。大人は、若者に対して、「今の若い者は・・」とよく言います。常識を知らなかったり、一般の人に理解出来ないことをする若者は、確かにたくさんいますが、大人でも非常識な人は結構いると思います。例えば(若者もそうですが)、道で、歩きながらタバコを吸っている大人をよく見かけます。子は親をみて育つと言いますが、これと同じで、タバコを吸いながら歩く大人がいるから、若者もそれをまねするのだという気がします。若者だけではなく、大人にも、責任があるのではと思いました。佐藤さんがおっしゃるように、問題を軽視しないで、もっと深く考えていかなければなりませんね。それでは、失礼いたします。下川真理子(4年)



投稿時間:02/04/15(Mon) 01:15
投稿者名:小山 はる子
タイトル:
後藤さんへ

 後藤さん、こんばんは。今年度ゼミ生の小山です。本日からゼミが始まりますね。宜しくお願い致します。 
  早速本題に入りますが、

> みなさんもおっしゃっていたように、他人の子供も叱っていた時代もあったと思います。昔と比べると、都心部を中心に日本人が感じる「ウチ」の範囲が狭くなってきているのではないでしょうか。この「ウチとソト」の意識の変化が、このような疑問を作り出してしまったのではないかと私は思います。

とおっしゃられている先輩方や後藤さんのご意見に私も賛成致します。この“都心部”という部分で私は特に納得を致しました。なぜかと申しますと私は一人暮らしをしておりまして“ウチとソト”に関してよく感じることがあるからです。私の実家は田舎にありますので、近所付き合いも多く、知り合いでなくとも、家のそばで人に会えば最低でも会釈はするようにしています。私の中ではこれがあたりまえでした。しかしアパートに住んですぐ、隣の部屋に住んでいる人に挨拶をするとこそこそと部屋の中に入ってしまいました。この時は、なんて常識のない人だろうと感じましたが、一人暮らしを始めて、1年後には私の考えは変わっていきました。もちろん近所の人に会えば挨拶をするという行為はやめませんでしたが、引っ越しの挨拶に男性が訪ねられてきたときは、一人で住んでることが分かったら嫌だなと感じました。これはソトに関係があると思うのですが、やはり世の中が物騒だと人と人との繋がりが希薄になるのではないかと考えました。
 後藤さんのかつあげに対する注意は、大変勇気ある行動として尊敬致します。電車という密室の中で誰も助けてくれない状況を経験されたことは、とても恐ろしかったろうと思います。私も2年ほど前、電車に乗っていると万引きをして警察と目撃者から逃げて、トイレに隠れた女子高生と同じ車両になったことがあります。4人掛けのボックスで私の席の前の席に一人の見張り役の女の子が背中に何かを隠して乗り込んできました。1時間に1本という電車にも関わらず女子高生が犯行を認めないため電車の出発がかなり遅れました。犯人かもしれないと感じた私と隣に座っていた男性は協力をして証拠物件を取り上げました。目の前での出来事に驚きは隠せませんでしたが、この男性に「当分この時間のこの車両には乗らないほうがいい」といわれたことにも驚きました。実際に何が起こるかわからない現代ではあたりまえのことだと思い直したことがありますが、満員の電車でも皆が皆、助けてはくれないということも入っていたのではないかと思います。これはソトに対する思いが間違った方向にでているからではないでしょうか。石井さんもおっしゃられているように村の単位であるときは、悪いものは悪いだったのに対し現在では悪いことでも仲間とのことがあるから犯行に手を染めてしまう。自分には関係ないからわざわざ行動には起こさない。人と人との思いやりがなくなったことで佐藤さんのように怖い思いをされる方も多いのではないでしょうか。これから社会を担っていく世代が勇気を持つ必要があるのだなと改めて考えさせられました。
 まとまりのない文になってしまい申し訳ありません。小山 はる子(今年度ゼミ生・4年)


投稿時間:02/04/15(Mon) 05:20
投稿者名:本田 望美
タイトル:
Re: 疑問91「日本人はなぜ、他人の子が悪いことをしている現場を見ても『見て見ぬ振り』をするのか。叱るべきではないのか」について

みなさんおはようございます。現ゼミ3年生の本田望美です。今日からゼミが始まるので皆さんにお会いできること楽しみにしています。
 遅くなりましたが、とても興味のある疑問だったので私も書き込みをしたいと思います。長谷川先輩のおっしゃるとおり、やはり「ウチ」と「ソト」という日本文化の影響は大きいのだとおもいます。とてもわかりやすく読ませていただきました。私も他の方々のように身近でおこっていることを参考に少し考えてみました。
 早速、子供のしつけという面からお話したいとおもいます。私の父や祖母の時代では、子が親に対して逆らったりすることは考えられないことで、子は家の働き手だったのだと度々聞かされています。日本が急激に豊かな国になるにつれ、一つ屋根の下にさまざまな世代で暮らしていた時代から、親と子という形の核家族が進む中、今では親が自分の子をきちんと叱ることをしなかったり躊躇したりしてしまいます。私は実体験をしたことがないので、子育ての現実をきちんと踏まえて付言するのは難しいのですが、見守っているだけが愛情ではなく、愛があるからこそ叱ることができるのだと思います。ですので、ヨソはヨソという考えから他人の子供を叱るという行為はもっての外なのでしょう。
 しかしなぜ、他人に関わろうとしないのでしょうか。それは本人がその人と一生を通じてつきあう気がないからだと思います。だからこそ「他人」なのですが。多くの人は夫や妻、息子や娘という家族のように、自分に一生関わりのあるような人間でない限り相手の悪い部分を注意したりすることはないでしょう。また、親友や恋人であったりすればきっと気になって指摘するはずです。これから先その人とつき合っていきたいと思う心から自然に起こる思いやりの行動なのだと思います。電車の中や学校、会社のような場であると、今だけ目を瞑れば自分には害がないと思って見て見ぬふりをしてしまうのでしょう。
 以前テレビで、とても熱心な高校の先生のお話を取り上げている番組を見ました。その先生は、「生徒と一生つきあっていく覚悟で、自分の子供のように思ってやっていかんと子供には伝わりませんのですわ。」と関西弁でお話していらっしゃいました。再放送も何度かされていて見る度に感激してしまい、教師になりたいといっている友人には必ずこの話をしてしまいます。
 話が少し変わりますが、私のお世話になっている方で、高校から大学院までアメリカで過ごされた方がいます。その方のアメリカ人の友人から聞かれた話ですと、「日本人は電車の中で鼻をほじったり、平気で驚かされるようなことをしているんだね。」とおっしゃっていたそうです。まさかと思って彼も電車に乗るときは意識して乗客を観察なされたところ、なんと女の人までが鼻をいじったりはしたない格好で座っていたりしたそうです。車内でお化粧をしている人がいるという事実は皆さんもご存じだと思います。彼自身、普段から日本人は他人に対してとても恥ずかしがったり、引っ込み思案だと言われている中で、日本人がこんなにも他人に関心がないということに気づかされ、同時に自分も他人に目を向けていないということを感じたとおっしゃっていました。
 「日本は豊かな国だ」と言われます。確かに実際教育や暮らしというような面では世界の他国に比べてとても恵まれています。そのような中で今、「心の豊かさ」という面に対しても目が向けられていますよね。本当に軽視していては何か大切な事に気づかずに通り過ぎてしまう気がします。
 考えがうまくまとめることが出来ませんでしたが、読んでいただきありがとうございます。本田 望美(現ゼミ・3年生)